浜松宿・舞阪宿
(浜松駅→弁天島駅)
<旧東海道26回目>
2003年12月13日(土)快晴
今回も自家用車で出発して浜松 ICで降り、浜松駅傍の駐車場に車を置いて、前回終了した馬込橋から街道の続きを歩きました。
馬込橋10:15スタート。
(注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)
「見付宿」 ← 「目次」 → 「新居宿
・白須加宿」
【浜松宿】 江戸から65里1丁(255.4Km)、京へ60里19丁 人口約 5960人
徳川家康がもともとあった城を大改築して浜松城と名を変えてから本格的に発展した。その後、浜松宿が定められ、掛川宿と同様に城下町と宿場町の両機能をもった宿。
家康は1570年岡山城から浜松城に移り、駿府城に移るまでの17年間周辺を支配した。
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安藤広重の東海道五拾三次之内・濱松『冬枯ノ
圖』 右手奥に浜松城が見える。この絵には城に窓があるが、窓がない版もあるとのこと。 木の下で焚き火にあたっている駕篭かき人足と思われる人が冬なのに裸同然の格好をしている。このあたりは無霜地帯といい、冬でも暖かい地方なのでなれている地元の人には寒くないのかもしれない。 右手真ん中の松林に立て札が立っているが、「颯々松(ざざんざのまつ)」と書かれているのだろう。 室町時代の将軍足利義教が「浜松の音はざざんざ」と言った事からこの名がついたと云われている。 |
【万年橋】 (右側) 10:35
浜松駅へ通じる板屋町交差点を渡り、新川の上が高架になっている遠州鉄道のガードを潜る。その新川に架かる万年橋の説明板が袂にあった。
東海道が新川をまたぐ橋が万年橋です。かつては石造りの太鼓橋でしたが。長い年月に耐えられるようにとの思いから命名されました。明治に入って平坦な橋に架け替えられました。
【浜松城】 (右奥) 10:50〜11:15
旧東海道は連尺交差点を左折しますが、ここを右折して市役所前交差点を左折すると市役所の裏山に浜松城があります。
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浜松城は、三方ケ原台地の東南端にあって、徳川家康が築いた。家康は天文11年(1542)三河国岡崎城内に誕生し、父は松平広忠。母に生別、駿府に少年時代を過ごすが、岡崎に戻り、永禄11年(1568)に三河から近江に入り、各地を転戦して引馬城をはじめ諸城をしたがえると共に、元亀元年(1570)長子の信康に岡崎城をゆずって、自らは浜松城へ移り、駿遠経営の本拠と定めた。 家康は、29歳から天正14年(1586)45歳で駿府城(静岡市)に入るまで、在城17年に及んでいる。有名な姉川、長篠、高天城、小牧・長久手の戦いもこの期間に行われ、特に元亀3年(1572)の三方ケ原合戦は、家康の生涯における難戦で、関ヶ原合戦以上の戦いであった。家康にとって、この浜松在城17年間は、徳川300年の歴史を築く試練の年でもあった。 当時の城郭は、南北500m、東西約450mで、三方ケ原台地の斜面に沿い、天守閣・本丸・二の丸・三の丸がほぼ一直線に並び、梯郭式の築城法に属している。その他作左曲輪(さくざくるわ)、出丸等もあった。 この浜松城は、豊臣の家臣、堀尾吉春氏によって天守が築かれたといわれているが、江戸に幕府が開かれてからは、代々の諸大名にこれを守らせ、浜松藩制約260年の間に再任を含めて25代の城主が在城した。在城中に老中に5人、大阪城代に2人、京都所司代に2人、寺社奉行に4人(兼任を含む)が登用されており、中でも水野忠邦は、天保の改革でよく知られている。そのことから、浜松城が出世城ともいわれるようになった。 明治維新以来、城郭は壊され、すっかり荒廃していたが、昭和33年春浜松市民の努力が結実し、旧天守閣跡に、新天守閣が再建され、昭和34年6月1日市の史跡に指定された。 |
【当時の石垣】
天守前広場に入る所に積まれている石垣です。
これは、四百年前の家康築城の頃の面影を残す貴重な石垣です。登ったり石を引き抜くことは絶対にしないで下さい。
浜松市
【井戸】
天守前広場に入った所にあります。
この井戸は銀明水と呼ばれていたという。
浜松城には、天守台に一つ、天守曲輪の埋門のそばに一つ、本丸に一つ、二の丸に三つ、作左曲輪に四つ、計十本の井戸があったという。
天守台の井戸は、再建の時に残し、今は、天守閣の地下室にある。
直径1.3m、深さは現在1mほどになっており水はない。
【天守曲輪(くるわ)】
井戸の傍に説明板が立っていました。
曲輪というのは、城や砦を石や土で囲んだ所をいう。ここは丘陵の西のはしの最も高い所にあり北東と南東の方向にはり出した菱型(東西56m・南北68m)に近い形をしている。
周囲は低い土塁(土でつくったへい)があり、その下に石垣をめぐらしている。東に天守門、西に埋門(うずみもん)があり、内部は広場となっていた。
【浜松城の石垣(野面(のずら)積み)】
浜松城の石垣は見るからに荒々しく、外観は粗雑で一見崩れやすいように思えますが、四百年の風雪に耐え、いまなお当時の面影を残しています。
この石垣は野面積みといい、自然石を上下に組み合わせて積む方法で、慶長(1596年〜1615年)以前はこの方法が多く用いられていました。石の大きい面を内側にして長く押し込み(牛蒡積み)、その内側に小型の栗石を1〜1.5mほど詰め、さらに砂利を入れてあるので水はけもよく、水圧で崩れることがありません。石垣表面の隙間には詰め石をし、外観は乱雑ですが、堅固に造られています。
浜松城は、特に天守台と天守門趾付近の石組みが硬く、石も大きなものが使われています。また、突角部には長方形の石材を小口と側面が交互になるように配した算木積み法を用いています。石垣の斜面は直線的で、57度〜78度の傾斜をしています。
石垣に用いた石材は珪岩と呼ばれる物がほとんどで、そのほか石灰岩、結晶片岩などが見られます。珪岩は浜名湖北岸の山々でみられ、現庄内地区の大草山や根本山、対岸の湖西市知波田付近で切り出され、左鳴湖東岸まで船によって運ばれ、そして、浜松城まで運ばれたと推定されます。
この石垣がいつの時代に築かれたかについては正確な資料がないのでわかりませんが、二代城主堀尾吉晴の頃(1590)と考えられています。
【城郭の全容】 (城内の展示物より)
戦国の面影を残す野面積み
浜松城の石垣は、外観は粗雑で一見崩れやすいように思えるが、400年の風雪に耐えている。この石垣は「野面積み」といい、2代城主堀尾吉晴の時代に築かれた。使用された石(珪石)は浜名湖北岸の館山寺町で切り出されたものである。左鳴湖東岸まで船によって運ばれ、陸揚げし浜松城まで運ばれた。
天守台
天守曲輪の内部にある。ほぼ矩形をなし、周囲は石垣をもって囲む。およそ240u(70坪)あり、高さは5.5m(3間)ほどある。
上り口は1カ所、広場の南側から3回屈曲した石段を上って東向きの正面入り口に達する。天守台には堀尾吉晴の時代に天守が築かれた。
本丸
天守閣が城の象徴なら、本丸は本拠。普通の城は天守閣を囲むように本丸が配置されているが、浜松城は、斜面を階段のように利用したため、天守閣と本丸が東西に線上に並んでいる。本丸は、天守閣の東、天守台より約17m下に設けられた。南面に鉄門がある。ここには富士見櫓と菱櫓があり、鉄門の西の石垣には多門が設けられ厳重な構えになっていた。
二の丸
本丸の東どなりにあり、土地も一段と低くなっている。本丸との間には空濠があり東側に2代将軍秀忠が生まれた御誕生場がある。この二の丸と、これに付属する北側と東側に広場があり、周囲を低い石垣でかこむ。
二の丸には城主の居館があり、また浜松藩の政庁も設けられて江戸時代を通じて藩政の中心であった。
曲輪
曲輪は、城や砦を石や土で囲んだところ。浜松城では天守曲輪のほか、これを囲むように清水、西端城、作左の3曲輪があった。清水曲輪は、清水がわいていたので清水谷とも呼んだ。作左曲輪は城の西北の守りで、本多作左衛重次が住んでいたころから名付けられた。
櫓(やぐら)
櫓は(1)武器庫(2)展望台(3)射撃場の役目をする施設である。
浜松城には本丸に菱櫓と富士見櫓、多聞に太鼓櫓があった。また、清水曲輪と西端城曲輪とが連続する突角部に銭櫓、南外堀と東外堀を結ぶ突角部に角櫓があった。
お堀
浜松城には、南堀と北堀とがあった。堀「濠」といい、城の要害のひとつ。浜松城では傾斜地の天然の起伏を巧みに利用している。家康の築城の才が、ここにもうかがえる。
連尺交差点に戻り、国道257号線を南下します。
ここから成子坂交差点までの間の左右に本陣跡等の案内板が続けて現れます。
しかし、この辺りの交差点は一つ問題があります。それは歩行者が横断する場合、階段のみでバリヤフリーになっていない地下道を潜らなければならないことです。すなわち、障害者や自転車は渡ることが非常に困難な交差点です。事実、自転車に乗ってきた老夫人がしばらく考えた後で遠くの交差点に回ったことでも分かります。私にはスロープや機械設備等は見当たりませんでした。
【高札場跡】 (右側) 11:25
この付近の車道中程に、柵で囲い柱を立てて高札を掲げた高札場がありました。城下・宿場の人々に法令や犯罪人の罪状などを周知させるために書かれた木札を高札とか制札といいます。
【佐藤本陣跡】 (左側)
【杉浦本陣跡】 (右側) 11:28
大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣といいます。ここは、浜松の本陣6ヶ所の内でもっとも古い杉浦家の本陣跡です。建坪がおよそ272坪(約900u)ありました。
浜松市
【川口本陣跡】 (右側) 11:32
(前略)ここは、浜松の本陣6ヶ所の内でもっとも新しくできた川口家の本陣跡です。建坪がおよそ163坪(約540u)あったといいます。
浜松市
【梅屋本陣跡】 (左側)
旧東海道は、成子交差点を右折し、次の菅原町交差点を左折します。
【子育て地蔵尊】 (左側) 11:45〜12:25(昼食含む)
その菅原町交差点左角のデニーズ前に地蔵尊があります。丁度昼時になったので、このデニーズで昼食を取りました。
長年子供に恵まれなかった町民が願をかけたところ子供を授かったといわれる地蔵尊です。戦前は、今はない地蔵堂に集まり7月24日に地蔵盆を盛大に催していました。
【賀茂神社】 (右側) 12:35
菅原町交差点を左折しないで500mほど直進すると右側に賀茂神社があります。
国学の大成者・賀茂真淵ゆかりの神社で、真淵の本家は代々賀茂神社の神職です。
更に300m先を右側に入ると縣居神社と賀茂真淵記念館がありますが、先を急ぐのと距離感が分からなかったため行きませんでした。後でこんなにも近いことが判明し残念な思いをしました。
古来「導きの神」として尊崇される。賀茂真淵翁の氏神として有名で本神社の社号を以って「賀茂」と称す。学徳成就の神としても尊敬多し。
賀茂真淵(1697〜1769)は賀茂神社の神官の子、万葉集の古典を研究して国学の体系を樹立すると共に、万葉調の和歌を復活した。
【明治天皇野立所記念碑】 (左側) 13:12
JR東海道線を潜って旧道(国道257号線)を右折し、新幹線ガードも潜って900m行くと257号線がやや右カーブしている東若林交差点に明治天皇野立所記念碑の石柱が建っています。
【二つ御堂】 13:13
東若林交差点の両側に向かい合って二つの小さなお堂があります。
左側に薬師堂(近江四十九薬師霊場)、右側に阿弥陀堂と高札場跡があります。
薬師堂 |
【二つ御堂】 奥州平泉の藤原秀衡と、その愛妾によって、天治年間(1125年ごろ)創建されたと伝えられている。 京へ出向いている秀衡公が大病であることを聞いた愛妾は、京へ上る途中、ここで飛脚より秀衡公死去の知らせ(誤報)を聞き、その菩提をともらうために、北のお堂(阿弥陀如来)を建てたという。
一方、京の秀衡公は、病気が回復し、帰国の途中ここでその話を聞き、愛妾への感謝の気持をこめて、南のお堂(薬師如来)を建てたという。 可美村教育委員会 |
阿弥陀堂 |
【高札場跡】 (左側)
しばらく国道を進み、可美小学校先の熊野神社(右側)前に高札場趾の木柱のみが立っています。向かいは可美中学校です。
【領地境界の標柱】 (右側) 13:47
熊野神社すぐ先のカーショップ「モンテカルロ」の西側角に標柱があります。
江戸時代、宝永二年(1705)に、高塚(当時は高塚村という)は堀江領(大沢右衛門督基隆)になったが、増楽(当時増楽村)以東は浜松領(松平伯耆守資俊)であったので、領地の境界を示すために建てた標柱である。
堀江領側にも傍示石と称する境界の標柱があったようである。
昭和五十一年七月三十一日 可美村教育委員会 可美村文化財保護局
【麦飯長者跡】 (右側) 13:57
上記標柱から10分弱進んだ民家の生垣に木柱のみあります。生垣にもぐりこんでちょっと見逃しそうな場所に立っています。
【立場本陣跡】 (左側) 14:13
高塚駅入口交差点を過ぎて追分を右側(県道316号線)に進みます。その分岐の三角地に、「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。
舞阪宿(宿境まで一里十五町) ← 浜松市 篠原 →
浜松宿(宿境まで一里十三町)
県道に入って8分程の左側に立場本陣跡の木柱のみ立っています。
【一里塚跡(日本橋より六十七里)】 (右側) 14:17
案内板のみ立っていました。
徳川幕府は、慶長九年(1604)、東海・中仙・北陸の三街道に、方五間(五間四方)の一里塚を築くことを諸大名に命じました。
江戸日本橋を基点とし、一里(三十六町・約四キロ)毎の街道の両側に一里塚が築かれました。
東海道宿村大概帳に、「壱里塚 木立左松右榎 左右の塚共篠原村地内」と記されています。(左側とは南・右側とは北を指す。)
当時の旅人は、一日十里(約四十キロ)を歩くのが、普通であったといわれていました。
浜松市広報課 篠原町東自治会
【柳本診療院】 (左側) 14:27
特に案内板があるわけではないが、24回目の袋井宿で見た「澤野医院」のような古い建物でした。
途中のバス停で5分間休憩をする。この県道のバス停上り下り全てに森林組合が提供した木のベンチが置いてあり、申し訳ないがバスが来ないのを見計らって小休するにはもってこいです。
少し前からもあったが、右側に朱塗りの鳥居がある稲荷神社を過ぎると特に屋根を持った秋葉山常夜灯が次から次へと左右に現れます。
【史跡 引佐山 大悲院観音堂聖跡】 (右側) 14:55
坪井西バス停の先右側に入った草地に石碑が立っています。
【東本徳寺】 (右側) 15:10
入口に髭題目碑と「清正公三百年祭記念碑」が立っています。 中まではいりませんでした。
【西本徳寺】 (右側) 15:11
東本徳寺の隣で、入口に髭題目碑と「海中出現釈迦牟尼仏安置」碑が立っています。秋葉山常夜灯も建っています。
【春日神社】 (右側) 15:15〜15:20
県道49号線に合流する跨線橋南交差点の右側にあります。
【由緒】
往昔永徳元年(1381)秋甲州行脚の沙門律師日朝当地へ廻国の折神仏深理と悟し民族挙って一社を建立を願ふに依りて後小松天皇の御年應永二甲戊年(1395)八月十五日春日大明神の神札を奉祀勧請す後天正十二年(1584)以来数度の改築あり慶安元年(1648)十月二十四日徳川三代将軍より朱印六石下賜あり代々拝領す明治六年(1873)三月村社に列す仝七年末社を合祀す 昭和八年(1933)七月十八日本殿、拝殿、幣殿改築遷宮以後現在にいたる。
【松並木】 15:27
跨線橋南交差点から県道49号線に入り、舞阪駅南入口交差点を過ぎるとすぐ、700mにわたる舞阪のみごとな松並木が始まります。よく整備されており、これまでで最高の松並木です。
その松並木が始まる所に、「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。
舞阪宿(宿境まで八町) ← 舞阪町 東海道松並木 → 浜松宿(宿境まで二里二十町)
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松並木の左側には、東海道五十三次全ての宿場の銅版が順番に並んでおり、右側には干支を型取った石像がこれも順に並んでいます。 【舞坂】今切真景 舞坂宿は江戸日本橋から六七里(264.9Km)、品川宿から数えて30番目の宿である。 東海道の陸路は舞坂で一度切れて、ここから新居宿まで海上一里半船を便りとして渡ることになる。浜名湖は、かって遠淡海(遠江)とうたわれる淡水湖であったが、明応7年(1498)の地震により切れて入海となった。その切れ口を今切と呼ぶ。地震による被災から復興して今切渡船の発着地となり、舞坂は交通の要地となった。 |
【舞坂橋跡】 15:37
松並木の途中にあります。
ここは江戸時代、舞阪宿唯一の橋である舞阪橋がかかっていました。北に西長池という大きな池があり、南から松並木を横切って昭和10年頃まできれいな水がながれていました。
天保14年の東海道宿村大概帳には次のように書かれています。
字 舞阪橋 土橋 長7尺 横3間 橋杭4本立て弐組
是は前々より御普請所にて、寛政10年御代官辻甚太郎掛にて御普請これあり、この証拠書物は宿方にあり、文化14年にも御普請これあり、もっとも土橋のため保持に難あり宿役で板橋に掛換えをした。
【浪小僧】 (左側) 15:50
松並木が終わった所にあり、小太鼓を抱えた可愛い小僧が四角い石の上に座っています。傍に公衆トイレもあります。
むかし、遠州灘の浜では、地引網漁が行われていました。魚が取れない日が続いたある日、真っ黒な小僧が網にかかりました。漁師たちは気味悪がり小僧を殺そうとすると、小僧は「私は海の底に住む浪小僧です。命だけはお助けください。その代わり、ご恩返しに、海が荒れたり、風が強くなったりする時は、海の底で太鼓をたたいてお知らせします」と言うので、海にもどしてやりました。それ以来、天気の変わる時、波の音がするようになったと伝えられています。 〜遠州七不思議より
【見付石垣】 15:50
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松並木の終わりで国道1号線に出会いますが、国道を横断して斜め左に行きます。
入るとすぐ、道の両側に石垣が詰まれています(写真参照)。ここが舞阪宿の東側入口です。今回の旅でやっと旧東海道らしい町並みに入ります。 石垣の起源の詳細は明らかでないが、宝永六年(1709)の古地図には既に存在している。見付は見張り所にあたり、大名が通行の時などには、ここに六尺棒を持った番人が立ち、人馬の出入りを監視するとともに、治安の維持にあたった所である。 舞阪町教育委員会 |
【一里塚跡と新町常夜灯】
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石垣のすぐ先の左右に一里塚趾の標柱があり、左側には新町常夜灯も建っています。 江戸幕府が日本橋を基点にして街道に一里塚を築かせたのは慶長9年(1604)とされる、天保年間の宿村大概帳には舞坂宿は江戸より67里16町に位置しており、この一里塚は左右の木立共松と書かれている。 しかし古老の話では大正時代まで一抱え半もある大きな榎の木が枝を四方に繁らせていたというから幕末のころには榎の木が植わっていたと解釈してよいだろう。 なお北側の一里塚は土地台帳に町有地としてわずかに名残りを留めているのみである。 舞阪町教育委員会 |
〔新町常夜灯〕
ここの常夜灯は正面が秋葉大権現、西面が津嶋牛頭天王、南面が両皇大神宮、東面が文化12年乙亥正月吉日と彫られており、文化12年に建立されたことが分かる。
江戸時代の舞坂はよく火災に見舞われ、特に文化6年(1819)には宿場の大半を焼く大きな火事があり復興に大変難儀をしている。当時の火防の山、秋葉信仰の高まりとともに人々の願いによりこの常夜灯が建設されたもので、その世話は現在も地域の人たちに引き継がれている。
舞阪町教育委員会
【仲町常夜灯】 (左側) 16:00
続いて左側、宝珠院前に仲町常夜灯が建っています。
文化六年(1809)に舞坂宿の大半を焼く大きな火災があり、復興に大変難儀をしました。火防の山、秋葉信仰の高まりとともに仲町の願いにより、四年後の文化十年五月吉日にこの常夜灯が建設されました。両皇太神宮、秋葉大権現、津嶋牛頭天王の銘が刻まれ、高さは台座ともで2.7mあります。
なお、西側の石の祠(ほこら)は、秋葉山をまつってあります。ちなみに、ここ宝珠院は、明治六年(1873)舞阪町に初めて小学校が開かれた所です。
舞阪町教育委員会
【本陣跡】 (右側) 16:04
民家の入口角に石碑があります。
この地は、東海道舞坂宿宮崎伝左衛門本陣跡で江戸時代、公家、大名・幕府役人などが旅の道中宿泊・休憩したところです。
【脇本陣】 (左側) 16:05〜16:15
上段の間 |
本陣跡の斜め向かいに最近復元された脇本陣があり、無料公開されています。 ここまで歩いて来た中でも脇本陣がこれだけ立派に復元されて、昔の面影を残しているのは珍しいです。
我々が着いたときは閉館間際でしたが、係りの人が親切に隅々まで案内してくれました。 【東海道舞阪宿脇本陣】 舞坂宿は、慶長六年(1601)東海道宿駅制度設定に伴い開設された五十三次のうち江戸から三十番目の宿駅で、弘化二年(1845)の資料では人口1204人、戸数265戸でした。 また、本陣(宮崎伝左衛門)と相本陣(源馬徳右衛門)があり、源馬本陣の向側に脇本陣(茗荷屋 堀江清兵衛)がありました。 脇本陣は、大名・幕府役人等が本陣で宿泊休憩できないと時に利用された施設で、普段は一般の旅籠屋として使われました。 建物は主屋・繋ぎ棟・書院棟で構成され、現講で間口五間・奥行十五間ありました。 現在書院棟が一棟残されており、旧東海道宿駅の中では唯一の脇本陣遺構として貴重な建物です。 平成七年復元保存のため解体を行った結果、書院棟の大棟鬼瓦に「天保九年戌五月吉日 横山村瓦師政右衛門」の箆書が発見され、また、旧上段の間の床の間落掛材に「天保九年戌春ヨリ秋迄数月」の墨書が発見され、書院棟が天保九年(1838)の建築であることが判明しました。 平成九年 舞阪町教育委員会 |
【西町常夜灯】 (左側) 16:16
脇本陣の先、浜名湖畔が見える町外れの左角に西町常夜灯が建っています。
舞阪には往還道路沿いに三つの常夜灯があるが、ここは正面が両皇太神宮、西面が秋葉大権現、東面が津嶋牛頭天王、南面が文化十年二月吉日、願主西町中、と彫られており、この常夜灯は文化十年に建立されたことが分かる。(後略〜新町常夜灯と同じ)
舞阪町教育委員会
【舞坂宿】 江戸から67里(263.1Km)、京へ57里26丁 人口約 2480人
安藤広重の東海道五拾三次之内・舞坂『今切真景』 かつては舞坂から新居まで砂洲が続いていて湖と海の間を歩いて行けたが、明応7年(1948)の大地震や高潮等で砂洲が決壊して浜名湖と遠州灘がつながり、江戸時代には渡船に頼ることとなった。砂洲が切れた部分を今切(いまぎれ)と云った。 |
舞坂側渡船場付近の現在の写真 |
【渡船場跡 北雁木(きたがんげ)】 (左側) 16:20
浜名湖に出ると沢山の漁船が係留されており、西町常夜灯を右折するとすぐ渡船場趾があります。
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【史跡 北雁木】 ここは浜名湖今切渡しの舞坂宿側の渡船場跡で明暦三年(1657)から寛文元年(1661)にかけて構築されました。その後、江戸時代には災害で幾度か修復されています。両側の石垣の白い部分は昭和二十八年の台風で石垣が崩れたため積みなおしたものです。 雁木とは階段状になっている渡船場のことをいいますが、地元では「がんげ」と昔からいっています。 舞坂宿には三ヶ所の渡船場がありましたが、一番南側は主に荷物の積み下ろしをした渡荷場(とうかば)。真ん中は旅人が一番多く利用した主要渡船場で本雁木と呼ばれています。 この北雁木は主に大名や幕府公用役人が利用したところで、往還から幅十間(約18m)の石垣が水際まで敷きつめられています。 舞阪町教育委員会 |
【弁天島海浜公園】 (左側) 16:25〜16:45
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船着場の先の赤い弁天橋を渡った所に弁天島海浜公園があります。 渡船場跡で地元の人が「海浜公園に行くと鳥居のところに沈む夕陽が綺麗だよ」と言われて、急いで行ったところ大勢の人が一箇所に集まってその瞬間を待ち構えていました。海上の朱塗りの鳥居の真ん中に陽が沈む瞬間はとても美しく、私も夢中でシャッターを切りました。 本日の日没は16:35頃。思いがけない幸運でした。 |
【弁天島神社】 (左側) 16:47
弁天島駅前にあり、小さな神社でした。
境内に正岡子規の歌碑があります。 天の川 濱名の橋の 十文字 子規
【弁天島と天女】
昔、弁天島のこの辺りは砂州が新居の橋本辺りまで続き、白砂青松「天の橋立」のような風景が広がっていました。そんな弁天島の美しさに誘われてか、ある日天女が舞い降りました。村人は大変喜び、社を建てるからここに留まってほしいとお願いしました。とこらがどうゆうわけか、天女は駿河の三保の松原へ立ち去って行きました。
それから長い年月がたち、この辺り一帯は大きな災害にみまわれ、州崎の一部であった弁天は湖に取り残されて島となりました。その後、舞阪と新居の間は渡船で行き来するようになりましたが、江戸時代の宝永六年(1709)今切渡海安全のため、この島に弁天神社が建てられました。人々は天女伝説のこともあり、この神社を大切にお守りしてきました。御祭神は「市杵島姫命」といい、海上、交通、家内安全、商売繁盛など諸願成就の神として多くの人々に信仰されています。
なお、境内には浜名湖弁天島を詠んだ正岡子規、茅原崋山、松島十湖の文学碑があります。
26回目の旅終了(16:50)弁天島駅。 ◆本日総歩数:34,600歩
弁天島駅よりJRで浜松駅まで戻り、浜松タワービル5F「海彦」で夕食を取り、自家用車で帰宅。
「見付宿」 ← 「目次」 → 「新居宿
・吉田宿」