袋井宿 (袋井駅→磐田駅)
<旧東海道24回目>
2003年10月11日(土)晴後曇り後雨
今回も自家用車で自宅を7:20に出発し 、掛川 ICで降りて法多山(尊永寺)〜油山寺〜可睡斎を巡ってから袋井駅の市営駐車場(¥100-/1時間)に車を置いて、前回終了した市役所前から街道の続きを歩きました。
(注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)
【法多山(はったさん)尊永寺 】 10:15〜11:00
袋井駅より直線距離で東南東5Kmのところにあります。袋井駅よりバスが出ています。御朱印をいただく。
【尊永寺仁王門】 重要文化財(昭和29年9月指定) (左の写真) 桃山時代の特色をよく残す、楼門(二層の門)です。屋根は杮葺、入母屋造で、垂木や組物も大きく、全体としておおらかな力強い造りです。 尊永寺には、鎌倉時代に作られた密教法具のひとつ金銅五種鈴が重要文化財に指定され、東京国立博物館に展示されています。 棟札によれば寛永十七年(1640)建立 間口7.27m 奥行4.24m 平成六年三月二十九日 静岡県教育委員会 袋井市教育委員会 |
【法多山名物くし団子由来】
法多山は、その山号にして、寺号を尊永寺と称し、本尊には俗に厄除観音として親しまれている正観世音菩薩を奉安する。
法多山はその昔、神亀二年(725)聖武天皇の勅により行基上人が開山した高野山真言宗別格本山であり、勅願定願寺の列に偶せられ、朝廷、武将の篤信を授け信仰、文化の殿堂として栄えた。特に法多山では、毎年正月、江戸幕府の武運長久、天下泰平、五穀成就のご祈祷を奉修し、祈祷ご符と当地名産品を献上する習わしであった。十三代将軍家定の頃(1854)門前に住す寺士八左エ門の発案による観音名物団子が登城の土産に添えられたを始めとする。将軍家より「くし団子」と御命名賜り以来、一般参詣客の賞味するところとなり、俗に厄除団子と呼ばれ親しまれ今日に至る。
この「くし団子」は、短い竹串に小さな棒状の団子が沢山刺さっているものです。
法多山の歳時記:1月7日の田遊び、春の桜、6月上旬の蛍、7月9・10日の万灯祭、秋の紅葉
【油山寺(ゆさんじ)】 11:20〜12:05
袋井駅より直線距離で北5Kmのところにあります。袋井駅よりバスが出ています。
山門は、掛川城の門を移築したもので立派です。次の「禮拜門」手前に「天狗杉」と言われた巨大な木の根が祀られており、石段を登り禮拜門をくぐると瑠璃(るり)色の屋根が美しい「寶生殿」があります。
「天狗杉堂」の前を左に進み、「天狗谷自然林」の山道を登って行くと途中に「るりの滝」と滝の前の御堂の天井には白竜の画が、更に登って行くと「三重の塔」と「薬師本堂」があります。
【油山寺略縁起】
当山は今を去る千三百年の昔行基菩薩により開山された真言密教の古刹である。
境内にある「るりの滝」が昔は、油の滝であったところより油山寺と名づけられた。
山頂にある本堂ご本尊薬師如来は行基菩薩の御作であり、諸病平癒、特に目に霊験あらたかに信仰され一千年の今日まで目の霊山として全国の方々から親しまれている。
天平勝宝元年(749)四十六代孝謙天皇は当山で眼病全快され頼願所と定まる。鎌倉時代には源頼朝が三重塔、又室町時代には今川義元が厨子宮殿を建立する。
徳川家康以来歴代将軍の信仰厚く、七堂伽藍は全山に盛観をきわめたが戦国の兵乱、廃仏棄釈等幾多の変遷を経て今日に至った。
本坊宝生殿(祈祷所)には身代り厄除け不動明王がまつられ、一山の守護神である軍善坊大権現は本堂内陣に安置され足腰に利益があり「健足の神」として崇め信仰されている。
境内五十町歩は山谷にとみ、西側山中、大師山には四国八十八ヶ所霊場、又公園より東側観音山には西国三十三観音霊場が安置されている。
翆岩より落ちる浄水「るりの滝」は千年一日として絶えることなく信者に身心を清める行場であり、岩窟には御滝不動明王が奉安されている。
三重塔には大日如来、広大な境内には弘法大師、開運大黒天、厄除観世音、地蔵菩薩、光明稲荷大明神、金龍弁才天、茶祖栄西禅師等諸天善神がまつられ、全山曼茶羅の霊地である。
国指定重要文化財三点、県指定文化財三点、天然記念物等は県下寺院一を誇っている。
春の新緑と野鳥の歌声、秋は名月に宝塔と紅葉の美しさは名所と謡われている。
【油山寺山門】 重要文化財(昭和29年9月指定)
屋根瓦と漆喰のコントラストが美しい。油山寺に保管されている棟札に、「掛川城御玄関前大手二之門」とあります。
太い柱や一枚板の扉も豪壮で、江戸時代の城門の姿をよく残しています。
万治十一年(1659)井伊直好の創建
享保十八年(1732)修理
明治五年(1872)掛川城廃城
明治六年(1873)掛川城より油山寺へ移築
大正十二年(1923)修理
昭和四十六年(1971)半解体修理
間口は約9m、奥行4.55m、片潜り付き櫓門、前後に庇屋根、柱は65cm角、二階は十五畳敷の広さ
平成六年三月二十九日 静岡県教育委員会 袋井市教育委員会
左の写真は、瑠璃色の瓦が美しい寶生殿。 写真では、瑠璃色が分かりにくいですが、実物は綺麗に輝いています。
御朱印をいただく。
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【天狗谷の自然林】 一万年の極盛相
当山の守護神、軍善坊大権現は大天狗のお姿をされ、足コシの神として深く尊信されております。
そのカラス天狗はムササビ(夜行性動物)の年たけたヌシであったと作家吉川英治は云っています。
油山寺の霊域には今なお大小無数のカラス天狗(ムササビ)が生息して、この谷の周辺や空中を自在に飛行し、夜毎に友と呼び交わして生を楽しむ様を月の明かりにみる時ひときわ仙境天狗谷の神秘が感ぜられます。
今眼の前に展開する天然林は県下で最もよく太古の姿を残した極盛相(古代から同樹そのまヽの自然林)であり、植物学者が非常に貴重なる存在と指摘しております。
例えば開発されて土埃が舞う赤茶の土地から、緑ゆたかな美しいこの天然林に復元するには、凡そ一万年の歳月がかヽると学者は云っております。
亦この常緑広葉樹は松、杉、桧に比べて人間の生存に最も重要な酸素を三倍も出しており、恐ろしい火災を防いでくれます。
一見現在の自分と無関係に思われるこの天然林こそ私共人間の生存に最も大切なつながりがあるのです。
植物から育成し自然を愛護することは、則ち我が生命を大切にし、よりよい未来を造りあげることになります。
千三百年前高僧行基菩薩によって開創されたこの霊山聖域に御本尊薬師如来を参拝し、太古そのまヽの自然の静けさに心を休め、水聲に古今なき谷川のせせらぎ、野鳥の歌声を楽しみ、新鮮な空気を十二分に吸い、心を洗い、身を清めて、一日ゆっくりお過ごし下さい。
昭和五十七年五月
〔瑠璃の瀧〕
今から凡そ千二百年の昔、孝謙天皇御眼病の砌、行基菩薩に勅ありて御平癒を祈らせ給ふたのであります。菩薩勅命を奉じ、薬師瑠璃光如来に御祈願なされ油の瀧水を加持祈祷しこれを献上いたしました。帝その清浄水で御眼を洗はせ給ひしに、効験忽ちにして御全快遊ばされたのであります。その頃このお瀧の水が油であったと申します。このお瀧にうたれて眼病に悩む多くの人々が全快の喜びを得られ、又頭の病いの方もこのお瀧にうたれますと全治すると申します。一人静かにこのお瀧の音を聞いていますと、遠い昔が思い出されて有難い感じがします。
この瀧の脇には東屋があり、天井には大きな龍が描かれていました。
〔天井白龍の画〕
昭和四十八年、山主本四国八十八ヶ所霊場托鉢修行の折、第廿一番札所太龍寺山中にて雷鳴とどろく山風に遭う。渓谷より渦を巻き上昇する白雲を正に天に昇る白龍の如く体感、天井の画とする。
白龍の左につかむ(マニ宝珠)は幸運の珠であり、中の○(ア字)は万物の根源を表す。
右三本の爪は、人間の持つ三毒(貪瞋痴、むさぼり、怒り、おろかさ)を取り除く事を示す。
御瀧不動明王様をお参りし、心身共に清浄にして、心にやすらぎを得て下さい。
合掌
「ありがたや不動の前にとるこりは 作りし罪を流す瀧つぼ」
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【油山寺三重塔】 重要文化財(昭和29年9月指定) 長命寺(滋賀県)と宝積寺(京都府)の三重塔とともに、桃山時代の三名塔の一つに数えられています。 屋根の反りや、その下の組物が美しく、全体のバランスもよく整っています。 天正二年(1574)着工、二重まで進む 慶長十六年(1611)完成 久野宗成の援助 嘉永六年(1853)白木を丹塗りにする 天正九年(1920)杮葺を銅板葺にする 昭和四十二年(1967)より解体修理を行う。 初層は約4m四方 塔高18.25m 相輪まで含めると23.88m
平成六年三月二十九日 静岡県教育委員会 袋井市教育委員会 |
【油山寺本堂内厨子】 重要文化財(昭和29年9月指定)
本堂の中に入ると奥に内陣があり、その中央に本尊の薬師如来坐像を安置した厨子があります。
寺の伝えによれば、今川義元の供養のために寄進されたものと言われています。
室町時代末期の製作と考えられる。
天正十六年(1588)修理の記録
寛政(十八世紀後半)明治時代の修理
昭和四十三年(1968)半解体修理
平成六年三月二十九日 静岡県教育委員会 袋井市教育委員会
油山寺の歳時記:春分と秋分の大祭、8月第一日曜(3年に一度)大念珠大祭、秋の紅葉
【東陽軒】 12:15
可睡斎の入口左側にあります。
当山五世太路一遵和尚(1398〜1518)は如仲天闇禅師について出家したことから禅師が一時寓止したといわれる久野城外の松樹下の大通庵を探り当て座禅をしていた。
座禅中、毘沙門天の奇瑞を感得し、お告げ通り近くに一つのお堂を建て東陽軒と名付けた。その東陽軒が可睡斎の始まりである。
現在の建物は、昭和六十年に観音堂を移築したものである。
【可睡斎】 12:18〜13:35
袋井駅より直線距離で北4Kmのところにあり、袋井駅よりバスが出ています。
秋葉山総本山。
街道を歩いていると、秋葉山関係のもの(神社・常夜灯等)に沢山出会います。当時はいかに信仰されていたかが分かります。それだけに総本山には是非行きたいと思っていたので、やっと実現しました。御朱印をいただく。
可睡斎の隣には、「可睡ゆりの園」があります。今回は訪れませんでしたが、3万坪に広がる150余品種200万球のゆりの競演が見られる所です。6月のゆりの季節には是非訪れたいと思っています。
【可睡斎の由来】 可睡斎は、六百年前(室町時代初期)怒仲天闇禅師によって開創された曹洞宗屈指の名刹です。十一代住職仙麟等膳和尚は、幼い家康を戦乱から救ったことがあり、後に家康が浜松城主になった時、報恩の為に城に招かれたその席上、コックリコックリと居眠りを始めました。その姿を見た家康は、和尚の安らかな親愛の心を悟り、和尚に「睡る可し」(御前にて睡っても無礼ではないとの意)と言い、「可睡和尚」と愛称せられ、寺号も東陽軒から可睡斎と改め、拾万石の待遇と徳川幕府最初の総録司という職を与えられました。 |
〔秋葉総本殿三尺坊大権現様御由緒〕
当山は、秋葉三尺坊大権現様の御真躰をお祀りしていることから火防霊山、秋葉信仰の総本山として広く知られています。三尺坊様は、奈良・平安時代、信州に出現された実在の僧で、二十七歳の時に、一切衆生を救済したいと発願し百日の断食と二十一日の不動三昧の護摩の秘法を修業し、満願の日に観音様の三十三化身の一つである迦楼羅身となられ、無量の神通力を得られました。そして静岡県の春野町の秋葉山に降り立ち、全国の秋葉霊場の総本山とされました。明治維新、明治政府令により、秋葉山秋葉寺が廃寺取り壊しになった時、三尺防の御真躰は可睡斎にお移りになられました。それ以来、当山は全国の火防守護の総本山として信仰されております。
昼食どきにここを訪れところ、境内に季節限定「古代米とキノコの精進料理」(\1,500-)の看板が出ていたので総受付に行ったところ、通常は予約が必要だが土曜にもかかわらずすいていたので飛び込みで食べられました。思いがけなく美味しい食事が出来ました。★★★★
また、ここで食事をすると広い寺院の内部を全て自由に見学させてくれます。本殿内部をはじめ、瑞龍閣には右上の写真のような見事な襖絵の部屋がたくさんあり、感激します。予約をしても、是非訪れることをお薦めします。
〔瑞龍閣〕
豪華にして絢爛たるこの建物は、昭和十二年建築の粋をあつめ、よりすぐった材料を用い、四年半の歳月をかけて建立された安土桃山風書院総桧造りです。
襖、欄間の絵、大額縁(日展に出品した作品)の絵画など総て、日本画家山口玲熈画伯が四十年かけて描かれたものです。
〔東司「お手洗い」〕 中央に大きな仏像がある、立派な男性トイレである。一見の価値があります。
禅宗建築である七堂伽藍の一つ、お手洗いのことで、境内の東側に位置していることから東司(とおす)と呼ばれる。この東司は、昭和十二年に瑞龍閣と同時に建てられた。建築技術の粋を集め、当時としては大変珍しい水洗トイレを完成させ、一目見ようと多くの参拝客がおとずれ、驚嘆の声があがった。中央に高村晴雲造立の大烏蒭沙摩(うすさま)明王を安置している。清楚にして重厚な雰囲気は、この仏像のかもし出す、おかしがたい威厳さが一層引き立たせている。
霊験顕著な健康を守護下さる烏蒭沙摩明王の、ご加護が頂けるとあってお札をもとめられる参詣者が非常に多い。
【庭園「法華蔵界(はちす)の池」】
この庭園は枯山水形式でありますが、一部滝と水をたたえる池を配している特異な作風として、有名でございます。
先ず、中央の滝のところを御覧頂きますと、一枚の大きな石が立っておりますが、これは、自分の未来を映すといわれる鏡石となっております。それと同時に、御本尊に見たてた釈迦牟尼佛を現しております。その手前の小さな池には水があり、これは過去から現在を見ることが出来る浄瑠璃の池と呼ばれております。その手前に御本尊を拝むための拝み石が配置されており、そこに立って過去・現在・未来の自分を見ることにより内省を促し、未来の苦しみから解脱させようとしておりますので特に解脱石と呼ばれております。手前の大きな池は「心」の字を現す異型心字池になっております。また、中央には亀石と鶴が宿るとされる松が植えられており、慶賀を表現すると共に斜面には無数の仏や菩薩・羅漢石を配置し、極楽の世界と仏法の盛んなる様を具現することにより、諸仏は彼岸(さとりの世界)から此岸の衆生(私共のまよいの世界)を見そなわし、手をさしのべ導いてくれているところです。
【出世六の字穴(の伝説)】 奥之院に向かう途中にある小さなほら穴です。
戦国時代、徳川家康は武田信玄との戦いで遠州森・袋井方面へ攻めてきた武田勢に追われ、この寺のほら穴に隠れて命拾いした。
やがて、浜松城、駿府城、江戸城を築き国を平定し、天下の家康になったという出世の故事になぞらえて、出世六の字穴と言ったものと伝えられている。六の字とは、六観音(正観音・千手・馬頭・十一面・準胝・如意輪)から名付けたものと言われている。
〔奥之院(不動明王堂)〕 文字通り奥にあります。
明治初年勝坂不動を当山に移転祭祀されました。不動明王は、大日如来が一切の悪魔を降伏せんがための使者となり、真言行者を守護するものといわれる。
密教の五大明王の中尊像で、その功徳力は、怨敵退散、災難即滅である。
背負っている大火焔は一切の煩悩魔障を焼き尽くすことを顕しています。(信ずれば非常に運が強い明王です)
御真言
「ノウマクサンマンダーバーサラダーセンダーマーカロシャーダーソワタヤウンタラターカンマン」
可睡斎の歳時記:4月中〜下旬のぼたん、6月ゆり園のゆり、8月28日奥の院花火大祭、12月15・16日秋葉の火祭り
【後日追加】 2007.6.16
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車で「可睡ゆりの園」に行ってきました。 ゆりが最盛期で見事でした。 左の写真は、黄色のゾーン。 右の写真は、五色混色のゾーン。 その他、オレンジ・白・赤のゾーン、北海道美瑛の郷の様な帯ゾーンなどが池の廻りにびっしりと植えられています。 |
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上記三山をお参り後、袋井駅に車を置き、前回終了した市役所前の「天橋」を渡って左折したところにある「これより袋井宿」の石碑(右の写真)を14:00スタート。 【袋井宿と天橋】 袋井宿は元和2年(1616)に設置されました。いわゆる「東海道五十三次」でいえば品川宿から数えて27番目の宿駅にあたります。天橋(阿麻橋)は袋井宿の東の入口にかかっていた土橋で、有名な広重の版画「出茶屋ノ図」のその姿が描かれています。 天保14年(1843)の調査によれば、宿内の町並みは西境の中川まで五町十五間、人口は843人、家数は本陣3軒、旅籠屋の50軒を含め195軒でした。
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今日は運がいいことに、「袋井まつり」(毎年第2金・土・日に行われる秋祭り)の日に当たっていました。
ここ袋井には神輿はありませんが、沢山の山車が引かれて、町中盛り上がっていました。 全国にあまり紹介されていないのか、それとも夜になると灯がともり綺麗になるのでそちらを見学するのか分かりませんが、この日は数少ない部外者として、歩いている先々で声を掛けられ歓待されました。 |
【袋井宿】 江戸から59里12丁(233.0Km)、京へ66里9丁 人口約 840人
遠州三山(法多山・可睡斎・油山寺)を訪れる参詣者で賑わった宿。
安藤広重の東海道五拾三次之内・袋井『出茶屋ノ圖』 |
現在の「どまんなか茶屋」 |
東海道脇に茂った榎の幹に半ば隠れて境界を示す傍示杭が立っている。
その向かい側には宿場に止宿予定の大名を知らせた関札が立っている。
ここはおそらく棒鼻で袋井宿の東の入口を示した絵であろう。
宿場の外れには旅人や人足が休憩できるようにと茶屋があるのが普通であった。
常設の茶屋がない所には、この絵のような出茶屋があった。
榎の根元に木の杭で囲んだ土盛りを築き、その上にむしろが敷いてある。
その上をよしず張りの屋根が覆っている。屋根の棟木からは旅行者に売るわらじが吊り下がっている。
また榎の枝から吊り下がった縄には湯沸し用の銅製のやかんが結わえてある。
下のへっついで燃やす薪を女が火箸でかき回しており、火がつかなくてくすぶった煙がもうもうと立ち上がっていく。
家紋のある腹巻をした定飛脚の宰領がむしろの上に腰を下して茶を飲みながら煙草を吸っている。
〔銅の話〕
江戸時代の元禄(1688〜1703)終り頃、日本は世界一の銅の生産国であった。精錬技術が優れており、純粋な銅地金を作ることができたため、輸出の重要品目で年間5〜6千トン輸出していた。鎖国時代の出島での銅の輸出割合は、最高で90%もあったとのこと。銀は世界の1/3も製造していた。
寛永13年(1636)から幕末まで製造していた銅銭が「寛永通宝」(1文銭)で、重さが3.75g=1匁であった。この尺貫法の重さは現代の5円玉に引き継いでいる。ちなみに1円玉は1gでメートル法で作られている。寛永通宝のモデルになったのが「開元通宝」、これは唐(618〜907)で造られ、東アジアの各地で形も重さも同じにまねされた銅銭である。
【−歴史の道 東海道−袋井宿】
袋井の宿が初めて歴史資料にあらわれるのは、約700年前につくられた「遺塵和歌集」の次の一節です。
「…なくふくろふの もろこゑは かけてもきかし かけ河の…」
これは京都から鎌倉までの宿や名所を詠みこんだもので、おそらく「ふくろい」を梟にひっかけて表現したのでしょう。池田宿(豊田町)と掛川宿の間に記されていることから、袋井は鎌倉時代の後半には、ある程度宿としての設備を整えていたものと思われます。
鎌倉・室町・安土桃山時代を通じて、東海道は国内最大の幹線でした。武士や貴族・僧侶の他、多くの人々が往来し、特に戦国大名達にとって、交通路と宿駅の整備は最も重要な課題の一つでした。
徳川家康は江戸に幕府を開く二年も前、慶長六年(1601)に、いわゆる「東海道五十三次」のほとんどの宿駅を設置しています。袋井宿は比較的距離のある掛川宿と見付宿の中間の宿駅として、元和二年(1616)に開かれました。
「五十三次」でいえば、品川宿(東京)から数えて二十七番目、ちょうど東海道の真ん中に位置しています。
「本陣宿場公園」に掲げられていた案内板
【どまん中茶屋】 (右側) 14:10 (右上の写真参照)
袋井宿入口の天橋を渡ると正面の小さな公園の中に「日本一小さな歩く道の駅 東海道どまん中茶屋」と「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。
見付宿(宿境まで一里二十四町) ← 袋井丸凧発祥之地 袋井市 袋井宿 此処天橋 → 掛川宿(宿境まで二里十二町)
また、一里塚のような木も立っており、標柱には「見付宿 宿境まで一里二十四町」(6.5Km)とありました。
この茶屋ではお土産品も売っていますが、お茶をサービスしてくれたり案内パンフレットも置いてあります。
公園内左側には、広重の「袋井 出茶屋ノ図」が描かれており、次のように書かれていました(左上の錦絵参照)。
初代広重が天保五年(1843)頃に描いた『保永堂版東海道五十三次』の一枚。
この版画は袋井宿の東の入口を写したものと思われる。宿近くの田んぼの中に建つ出茶屋の風景に、のどかな庶民の旅の姿が感じられます。
旧東海道(袋井宿)は、この茶屋の前を左に入ります。
【袋井宿東本陣公園】 (右側) 14:18
袋井宿に入ると程なく右側にあります。写真のように門が再現されており、公園内には石や芝の配列により本陣の間取りが記されています。 この建物は、俗にいう「ウナギの寝床」のように南北に奥行きのある建物で、本陣家(田代家)の生活の場であったと考えられます。 南側の街道に面した所は土間で、八畳が三間続き、南側ニ間には天井が無かったと絵図は記しています。その北側は坪庭をはさんで四畳と八畳、湯殿などが接続していました。 |
【袋井宿東本陣跡】
袋井宿には三軒の本陣が置かれていました。その場所から東、中、西本陣と呼ばれ「東海道宿村大概帳」には次のように記されています。
一、宿内惣家数百九拾五軒
内
本陣 凡建坪弐百九拾坪半 門構・玄関附 宇新町 壱軒
同 凡建坪弐百拾九坪 門構・玄関附 宇本町 壱軒
同 凡建坪百六拾六坪半 門構・玄関附 同 壱軒
三軒の本陣は東海道往還通に面して北側に建てられていました。三本陣のうち東本陣は「壱番御本陣」とも呼ばれ、代々八郎左衛門を名乗っていた田代家が営んでいました。田代家は本陣の運営とともに宿役人として書状・荷物の継ぎ立てを行った問屋場の最高責任者でもある問屋をも勤めています。
本陣の構造上の特色は門構えと玄関があり、また内部に「上段の間」が設けられていたことです。東本陣の場合、敷地全体の坪数1068坪、塀を除いた建坪288坪、間口十三間半、奥行三一軒もあり、その規模の大きさが伺われます。
平成十二年七月二十八日 袋井市教育委員会
【本陣の宿泊】
袋井宿東本陣の利用状況は、元和四年(1618)から寛永十一年(1634)までの十七年間の状況を記した袋井指定文化財「本陣御宿帳」からうかがい知ることができます。袋井宿が開設されてから二年後に始まる幕藩体制初期の宿帳は大変貴重なものです。
その記載は極めて簡略で、利用の月日、休・泊の別、休泊料、そして利用者のみの記載となっています。この十七年間のすべてについて、月毎にその休泊の状況を整理すると、全体として宿泊と休憩はいずれも30回を超えています。若干休憩が多いようですが、ほぼ半々となっており、宿の設置は他の宿より十五年遅れましたが、開設当初から宿泊の利用がかなり盛んであったと考えられます。また、年間を通しての利用回数をみると、20〜40回程度の年が大半で、寛永三年(1626)と寛永十一年(1634)は将軍の上洛の影響によって70回を超えて利用されていることは注目されます。また月別の利用をみると、他の月に比べて十二月の利用が多くなっています。参勤交代が制度化されて以降は、外様大名の交代期四月と、譜代大名の交代期六月が多くなっているようですが、残念ながらこの宿帳は寛永十一年までで終わっているため、その翌年に武家諸法度が改訂され、参勤交代が制度化されて移行の状況を知ることはできません。
十七年間で繰り返し東本陣を利用したのは伊勢国神戸城一万五千石の一柳直盛と三河国宝飯郡形原五千石の松平清直で、領地と江戸を往復するのに利用したと考えられます。
【本陣の利用】
大名が本陣を利用するにはそれなりの手続きがありました。まず各本陣に対して休泊の予約を伝え、利用可能なら本陣から調書を提出します。この後、他の大名との差合を避けるために先触れを発し、家臣は大名の発籠に先立って現地に入り、宿割りを行い、関札を掲げ、玄関には定紋付きの幕を張り、提灯を灯し、本陣当主は礼装して宿はずれまで出迎えます。行列の出発は午前四時頃が習慣であったため、準備の時間を考えると午前一時〜二時の起床であったと考えられます。
【本陣の経営】
本陣の主たる収入は休泊料ですが、この休泊料には特に定められたものはなく、「御祝儀」と呼ぶにふさわしい性格のものでした。東本陣を数多く利用した一柳直盛と松平清直は一貫文から二貫文(千文〜二千文)でしたが、金銭だけでなく、袷羽織・帷子(たれまく)・反物・色紙などで支払われることも多かったようです。また幕府から下賜金や各種の補助がありましたが、建坪200坪を超える大建造物を、常に休泊に応じられるように維持することは大変な苦労でした。「きせるなどは50本出せば10本返ってくるのはまれである」といわれたように、本陣備え付けの椀・皿などの什器類から、はては屏風・布団・衣類にいたるまで持ち去られ、これらの補充に要する出費もかなりのものだったようです。
本陣の経営は享保の頃からしだいに苦しくなり、戊辰戦争時には利用率が若干多くなりますが、明治維新以降、田代家は本陣を廃業し、伝馬所(明治元年6月に問屋場から名称変更)の元締役となりました。郵便業務の開幕とともに、その取次所も兼ねることなり、東本陣の建物は、最初の袋井郵便局となりました。
【袋井宿場公園】 (左側) 14:22
「静橋北」交差点左側にあります。袋井宿の中心部に位置する公園で、宿場町の雰囲気をかもしだしている。 公園内に入ると、塀の内側に上記の袋井宿の解説や案内などが掲げられていました。 |
【観福寺(へそ寺)】 (右奥) 14:25
「静橋北」交差点を右へ少し入った左側にあります。
東海道のどまん中「袋井宿」の真ん中に位置するため「へそ寺」と愛称がついています。
【東海道どまん中へそ寺由緒(キーワードは絆)と縁起】
當山は山号を袋井山、字号を観福寺と云います。延暦十二年(793)桓武天皇代、天台法華宗寺院として、この地に建立され袋井地名の発祥のお寺です。
本尊は聖観世音菩薩で遠州三観音に数えられていました。脇本尊は建久元年(1190)十月源頼朝上洛の無事を祈り、御母御前の持佛を奉安された延命地蔵菩薩です。
現在の東海道、袋井宿の基となった鎌倉街道六十二宿「袋井駅次」が設けられた「此地に井有仁(いありてなさけに)に焉(あつし)」と人の情と母と子の縁、絆でもあり観音様のお膝元でもありました。
天正十五年徳川家の存亡にかかわる大難を救った旗本、坂部正定がこの寺で亡くなり、天正十七年(1589)可睡斎の称号を戴いた仙麟等膳和尚を迎え、正定の供養と、曹洞宗観福寺初代住職として葵の紋を拝領し東海道を往来する公家、大小名の参詣を受けました。江戸から数えて二十七番目、東海道どまん中のお寺です。
境内には、元和二年(1616)近郷に悪戯する白狐を懲らしめ、戒心、服従せしめた豊川稲荷の御姉上茶吉尼神天様が祀られ、以来、この白狐が茶吉尼神天様を背に乗せ信仰、信心の厚い家々を巡り家内安全、商売繁盛、五穀豊穣の願いを能く叶えると伝えられています。
延享四年(1747)人形浄瑠璃、歌舞伎三大傑作の一つに「義経千本桜」が有り袋井宿歌舞伎、浮世絵に「狐、忠信」が描かれています。義経、吉野落ちの折り「初音の鼓」を抱いて義経を追う静とその鼓の皮を母親と慕う子キツネの化身「忠信」との道行の物語り、子キツネにまでもやさしい観音様茶吉尼神天様、縁と絆、母と子のお寺の縁起です。
【観福寺の狐伝説と歌舞伎役者絵】 「忠信に化けた子狐袋井宿役者浮世絵」と共に書かれていた話
昔、観福寺一帯にたくさんの狐が住みその中に、静御前が持つ初音の鼓の皮を母親と思う子狐がいました。
観福寺の観音様のお告げで子狐は「忠信」に化け、義経と母常盤をも導き合わせることができたという物語です。
【本町宿場公園・高札場】 (左側) 14:32
袋井宿の西の端である「御幸橋」のたもとにあります。高札場や土塁、「従是袋井宿」と記された棒鼻などを再現しています。
ここへ来る途中右側の薬局の店先に、北野武監督の映画「菊次郎の夏」の撮影場所との表示板があったので見ていたら、祭りで酔っている店主が近寄ってきて祭りの話、映画の話、我々お互いの家族に薬剤師がいる話などで、一人で盛り上がっていました。
以前訪れた中山道の妻籠・馬籠の休日の大混雑に対して、東海道のほとんどの宿場は静かでしたが、今日の袋井宿は祭りで山車が沢山繰り出しており、こんな賑やかな旧東海道を歩くことはめったにないことだと思いました。この公園でも山車に出合いました。
公園内にある高札場には、「秋葉常夜燈」、「高札場」、「土塁」の解説が書かれていました。
【秋葉山常夜灯】 火伏の神様、秋葉山三尺坊大権現に対する庶民信仰は、江戸時代に入って盛んになりました。特に東海から関東地方にかけて数多くの秋葉講が生まれ、各地に分社や常夜灯が建てられました。公園入口の常夜灯はもと東海道の北側にあり、南側約50mの円信寺跡には、1800年(寛政12年)に建立された常夜灯が今でも残っています。 【高札場】 幕府が人々を治めるため、中孝、毒物、駄賃、火付けなどに関する法令や禁令を掲示した場所を高札場と呼び、1711年(正徳元年)以降に整えられました。 高札場は、町の辻や橋のたもと、街道の追分(分岐点)、渡船場、港、関所など全国いたるところに設けられ、幕府の権威を誇示する役割をも果たしていました。 |
【土手(土塁)】
いくつかの中小河川をひかえた袋井宿は、背の高い土手(土塁)に囲まれていたといわれています。大正時代に撮影された宿入口の写真に、石垣で補強された高さ2mをこえる土手が写っています。土手の内側には枡形(宿の警護所)がありました。
袋井宿の景観をイメージしていただけるよう、階段の両側に土手を再現しました。
【澤野医院記念館】 (左側) 14:52〜15:05
校門に「東海道どまんなか西小学校」の看板が出ている袋井西小学校の隣にあります。
内部は自由に見学でき、診察室、手術室、レントゲン室、病室などがリアルに残っています。
代々地域医療を担っていた澤井氏より袋井市が建築物の寄付を受け、病棟、居宅、渡り廊下、洋館の四棟と便益施設の整備を行い、記念館として開館しました。
居宅は安政元年(1854)に起きた大地震の翌年再建され、洋館は大正元年(1916)、病棟は昭和九年(1934)に建築された。医療活動が拡大するにしたがい増築し、別病棟が建築されていた時期もあって多くの病気を治療してきました。
【旧澤野医院】 袋井市指定文化財 旧澤野医院は、澤野家が江戸時代末期から昭和初期までに建築し、使用してきた建物群です。病棟、住居、渡り廊下、洋館の4棟は地域医療を担ってきた建物であり、貴重な文化遺産として平成11年4月23日に袋井市指定文化財に指定されました。 澤野家は享保12年(1727)に作られた「山名郡川井村差出明細帳」に内科医としてその名が記され、すでに地域医療を担っていたと考えられます。 旧澤野医院は、旧東海道に面する敷地幅(間口)10.5間を有し、間口幅としては大きな部類に属します。奥行きも29間あり、さらに西側に12.5間、9間の 矩形敷地が設けられていたと考えられます。 この敷地内に、街道に接して病棟(洋風二階建て)が建ち、これに接続して居宅(和風建築平屋)、さらに東側に突出した生活空間の建物(炊事場、風呂場など)、西側には渡り廊下によって繋がれている洋館が建てられています。 各建物の特徴は居宅が純和風に対して、病棟と渡り廊下、洋館は洋風となっています。澤野医院の最盛期にはさらに多くの建物があったと考えられます。また、内庭及び南面の築庭についても同時期のもので、その後者若干の変更が見られます。 各建物の建築時期は明らかではありませんが、構造、形式から見ると、居宅は幕末から明治期、洋館と病棟については昭和初期の建築と考えられます。これらの建物と敷地は旧東海道に面する医療建築として、その類例が少なく、近代の医療行政や制度、医業の流を知る上では貴重な存在と言っても過言ではありません。 平成12年9月29日 袋井市教育委員会 |
【木原一里塚】 (左側) 15:25
「川井」交差点で県道413号線に合流した先に歩道橋が現れたら、すぐ手前を斜め右へ、木原の集落へ入ります。入るとすぐ右側に「夢舞台・東海道」の標柱が立っています。
見付宿(宿境まで一里六町) ← 西
一里塚跡江二町 袋井市木原松橋(古戦場木原畷) → 掛川宿(宿境まで十三町)
標柱の先右側に一里塚が本来あった場所として「江戸から六十一里 木原一里塚跡」の柱が立っており、その先左側に復元された一里塚があります(下の写真)。
木原一里塚は、江戸から数えて六一里目の一里塚です。『東海道宿村大概帳』(逓信総合博物館蔵)には「(袋井)宿より見附迄之間壱里塚壱ヶ所。壱ヶ所、木立松。但、左右之塚共木原村地内」と記され、『東海道分間延絵図』(東京国立博物館蔵)や『東海道分間絵図』(東京国立博物館蔵)などには、塚の上に松や榎が描かれています。本来の一里塚はこの場所から約60m東にありましたが、現存していません。 一里塚とは、一里(約4km)ごとに街道両側の土を盛り上げ、目印にした塚のことです。中国で榎と銅表を立てて里数を記した堠塊や奈良時代の国界の標識などが、その起源と考えられます。古くから里程については一里が六町や三九町、四八町、五〇町、六〇町などとさまざまでしたが、『本朝世事談碁綺』に天正年間(1573〜92)織田信長が三六町ごとに一里塚を築き、榎をその塚の上に植えたと記しています。信長の跡を継いだ豊臣秀吉も、新たに定めた度量衡制の全国的普及をも意図して、三六町を一里として、五間四方の一里塚を築造しています。それを受け継ぎ主要な街道すべてに一里塚を整備したのは徳川家康です。
慶長九年(1604)家康は秀忠に命じ、江戸日本橋を起点として東海道、中山道に榎を植えた一里塚を築かせ、全国に普及しました。榎を一里塚に採用したのは、榎の根が深く広がって塚を固め、塚を崩れにくくするためでしたが、この採用にあたっても家康伝説が伝わっています。また、榎の代わりに松などを植えていた地方もみられます。 |
一里塚は街道の両側に二つの塚が対として、松並木の背後や街道からはやや離れた場所に築造され、旅人や駕籠、馬の乗り賃の支払いの目安となりました。五間(約9m)四方の基壇の上に丸い塚をのせ、榎などが植えられました。街道から塚までは小道がのび、日差しの強い日には木蔭を提供する休憩所ともなりました。しかし、18世紀後半ごろから一里塚は荒廃してしまい、幕府も積極的な整備対策は講じませんでした。明治時代以後は鉄道の発達などにともなって一里塚の必要性もしだいに失われてしまい、街道の拡幅整備などにともなってその姿を消していきました。
【許禰神社(こね)(木原権現社)・木原畷古戦場跡】 (右側) 15:27
一里塚のすぐ先右側に「許禰神社(木原権現社)」(下の写真上)があり、その入口に「古戦場 木原畷(なわて)」の石碑(下の写真 )があります。石碑のうしろの木柱には「徳川家康公腰掛石」と書いてあります。また、境内には御神木の大楠があります。
木原畷の戦いとは、武田信玄と徳川家康の偵察隊がここで衝突したもので、家康が大敗した「三方ケ原」の合戦の前哨戦であった。
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【許禰神社(木原権現社)】 遠江では平治元年(1159)以後、しばしば熊野新宮を造営する費用をまかなうための国に指定されたので、多数の熊野神社が建てられました。袋井市域でも、土橋で熊野権現社、松袋井で熊野十二社神社が現在でも祭られていることから、古代末期より和歌山県の熊野山とはたいへん深い関係があったことが分かっています。 木原の許禰神社は、かつては木原権現社と呼ばれ、古代末期に創建されたと考えられています。許禰神社は、古代の神社名帳(式内社)のなかに見られる神社で、一説には古代の許禰神社が木原権現社になったともいわれています。 木原権現社の神代を代々つとめた木原家には、『木原権現由来記』という全長17mもある巻物が残されています。由来記には、ある日、木原の子供に熊野の神がのり移り、この地に熊野の神を祭れば、洪水を防ぎ、穀物の実りを豊かにするお告げがありました。天災に苦しんでいた村人は、早速に熊野の神を祭った。これが木原権現社の由来だと記されています。当時の民衆が神様に対して切なる願いを記録した貴重な資料となっています。
平成十二年八月 袋井市教育委員会 【古戦場 木原畷】 元亀三年(1572)、兵三万五千を率いて甲府を出発した武田信玄は犬居城、飯田城を落として久野城へ向かった。しかし久野宗能(むねよし)の激しい抵抗にあったため東海道を西に向かい、ここ木原・西島に陣をはった。これを知った徳川家康の兵とこの付近でこぜり合いを繰り返した信玄はやがて二股城を攻略し、東三河へ向かうべく三方ヶ原を通過しようとした。これに対して家康は兵一万で迎え撃ったが信玄の大軍の前に一蹴され浜松城へ逃げ帰った。これが世にいう三方ヶ原の合戦で、木原での戦いはこの前哨戦ともいうべきものであった。 【古戦場 木原畷】 元亀三年(1572)、鷲巣の久能城を攻めた武田信玄は、ここ木原に陣をはり、浜松城を守る徳川家康の偵察隊と衝突しました。この戦いが世にいう木原畷の戦いです。 六年たった天正六年八月、高天神城(大東町)から徳川軍の様子を探りにきた武田の家臣笹田源吾はこの地で村人たちに討ち取られてしまいました。木原念仏(市指定無形民族文化財)は笹田源吾を供養するため始まったと伝えられています。 平成十四年五月 袋井市教育委員会 |
【木原大念仏】 市指定無形民俗文化財 (右側) 15:35
旧東海道が県道に合流する手前右側に駕籠の形をしたごみ収集小屋があり、「市指定無形民族文化財・木原大念仏」の案内と祭りの写真が掲げられていました。
1578(天正6)年の夏、高天神城(大東町)から徳川家康軍のようすを探りにきた武田勝頼の家臣、笹田源吾は、木原村で討ち取られてしまいました。その後、村には疫病がはやり、源吾の霊のたたりではないかといわれるようになりました。村人は、笹田源吾の墓をたて、その前で行った供養祭が木原大念仏の始まりと伝えられています。毎年、8月13・14日の2日間、新盆の家をまわり行われます。
すぐそばに「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。
見付宿(宿境まで一里二町) ← 袋井市
木原(木原大念佛発祥之地) これよりどまんなか袋井 → 袋井宿(宿境まで十七町)
また、木原の案内板もありました。
【木原】
木原は、元亀三年(1572)に武田信玄が徳川家康を破った三方原の戦いの前哨戦(木原畷の戦い)の地として知られています。
また、武田勝頼軍の斥候笹田源吾に由来する「木原大念仏」の発祥の地でもあります。
地区内には原寸大に復元された木原一里塚をはじめ木原権現社(式台許禰神社)長命寺笹田源吾の墓や供養塔、徳川家康腰掛石など多くの歴史遺産が残っています。
【須賀神社の大楠】 (右側)15:45
県道(旧国道1号線)に合流して、磐田市に入ります。
その境内には、樹齢500年の大楠があり、辺りを威圧していました。 樹高 15m 枝張り 25m 幹廻り 9.5m 樹齢 推定500年 自然樹としては、樹齢・規模ともにめずらしい大樹である。 |
【松並木】 16:00
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大田川に架かる「三ケ野橋」を渡り、国道1号線のバイパス(高架)にぶつかったらその左脇の道を行くと松並木(左の写真)になり案内板と「夢舞台・東海道」の標柱が立っています。
見付宿(宿境まで三十一町) ←磐田市 三ケ野 →
袋井宿(宿境まで三十一町) 【旧東海道松並木】 東海道は、奈良時代から平城宮と地方を結ぶ交通路として主要な役割を果たしていた。特に鎌倉時代以降になって整備されてきたが、江戸時代に幕府は、江戸を中心とした五街道を制度化し、道中奉行をおき宿駅を設置し、道路の改修・並木の植樹・一里塚の築造などの整備をした。特に、東海道には力を入れた。 東海道は、それぞれの時代によってうつり変っているが、見付宿の東はずれから三ヶ野地区までは、この道路が江戸時代の東海道々筋であった。松並木は、後世補植されて、現在に続いている。 磐田市教育委員会文化財課 |
【三ヶ野七つ道】
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松並木を通り、上の写真の坂を真直ぐ上がる道が「明治の道」。坂を登らず右側の道へ行くが「大正の道」。 坂を登ってすぐの左側に入るのが「江戸古道」(左の写真がその入口です)。 私達は、何故か何も考えずに真直ぐ明治の道を登ってしまいました。 後で、大日堂や大日山がある、江戸古道へ行くべきだったと後悔しました。
それぞれの道の入口には石標が立っています。
江戸時代以前から、平成時代に作られたものまで7本の道が複雑に入り組んでいるところから、七つ道と呼ばれている。時代別に順次造られた七つの道が、一ヶ所にまとまって見られる珍しい場所です。 明治の道を登りきったところに、「三箇野 車井戸之跡」の碑と「従是鎌田山薬師道」の道標が立っています。 江戸古道も明治の道も、頂上で右折します。 |
【遠州鈴ヶ森】 16:35
七つ道から磐田学園を過ぎると少しの松並木があり、やがて国道1号線に合流します。
合流して一つ目の歩道橋を渡って右側に行くとすぐ、高台に階段が見えてきます。ここが鈴ケ森刑場跡です。
白浪五人男の首領で実在の人物である日本左衛門の首が晒された所。その首塚は金谷宿にあります。
【見付宿木戸跡】 (右側) 16:45
「遠州鈴ケ森」から次の歩道橋の手前を斜め右へ入ります。
入ると左側に常夜灯と旧三本松石碑があり、大通りに出る前すぐ右側に東の木戸跡の木板が立っています。
東海道五十三次之内 遠州 見付宿 木戸跡
【阿多古山一里塚址・愛宕神社】 (左側)
木戸跡で広い道に出ますので右折します。木戸跡の左側には愛宕山があり、石段の上り口に一里塚の案内板がありました。石段を登ると磐田の町並と旧見付学校の塔が見えます。
【一里塚址(旧東海道跡)】
この一里塚は見付宿の東はずれに位置し、街道の両側に築かれ阿多古山一里塚と呼ばれている。
一里塚は徳川幕府が主要街道の整備を行い、三十六町を一里として街道の両側を五間四方の一里塚を築き、塚上に目印として榎を植えたものである。
この一里塚は慶長九年、永田勝左衛門重真が道中奉行の時に築かれたものと推定され、江戸から六十二里目にあたる。
<一里塚址は、この階段の上にあります。>
一里塚址から広い道を次の信号で右折すると「見付天神社」がありますが、次回紹介します。
【大見寺】
中川橋を渡ると右側にあり、その入口に大見寺の案内板と「東海道見付宿」の石柱が立っています。
【大見寺の文化財】
見付端城
中世には、境内に今川氏によって築かれた城がありました。
江戸時代の絵図には、大見寺を取り囲むように見付端城の土塁が描かれています。現在もこの土塁の一部が西と南にわずかに残っています。
良純法親王供養塔(墓)
法親王は、107代後陽成天皇の第八皇子で、万治二年(1659)頃縁あって見付に滞在しました。弟子だった大見寺第11代住職によって供養塔が建てられました。
【鳥人・幸吉の墓】
岡山県出身で江戸時代中期に、日本で初めてグライダーのような翼で空を飛びました。晩年、見付で暮らしたといわれています。
平成十五年七月 磐田市教育委員会文化財課
幸吉とは、アメリカのライト兄弟が動力飛行に成功した1903年より118年前の1785年に、岡山京橋の上から世界で初めて空を飛んだ偉人で表具師の浮田幸吉のことです。
大見寺の先、 「問屋場跡」、「脇本陣跡」、大通りを渡って「本陣跡」、「高札場跡」などがあります。
高札場跡に立っている常夜灯を右に入ると「旧見付学校」です。
【矢奈比売神社(見付天神)】
【旧見付学校跡】 【府八幡宮】等
16:30をすぎ薄暗くなったのと、 学校内部を見ることが出来なかったため、途中の名所も含め、次回もう一度戻ることにして磐田駅へ急ぐ。
この先、県道44号線にぶつかったら左折します。その交差点向かい側に「これより姫街道」の案内板があります。入った道は「天平通り」です。
国道1号線を越えて、磐田駅まで約1.3Km
【木戸風モニュメント】(西の木戸跡)
磐田駅に向かう途中の左側に木戸風のモニュメントが立っており、ともしびが灯っていました。
木戸とは、江戸時代の都市において隣り合う二町の境界、武家町・町人町の境界または町と在との境に設けられた保安用の門です。
二本の親柱の間に門扉を付けたもので、昼間は扉を開いており通行自由でありましたが、非常の場合や夜にはこの扉を閉じて通行を停止していました。
見付宿では、東と西の入口に木戸が設けられておりました。
24回目の旅終了(18:00)磐田駅。 ◆本日総歩数:22,000歩
磐田駅よりJRで袋井駅まで戻り、駅前駐車場に止めていた自家用車で帰宅。