掛川宿
(事任八幡宮→袋井駅)
<旧東海道23回目>
2003年5月25日(土)晴
今回も自家用車で横浜の家を7:10に出発して掛川駅9:30到着、駅前の駐車場 (1日\1000-)に車を置き、9:40のバスにて事任八幡宮前まで行き、そこより街道の続きを歩きました。1 0:00スタート。
(注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)
「島田宿(後半)・金谷宿・日坂宿」 ← 「目次」 → 「袋井宿
」
事任八幡宮前の県道145号線を西へ、「日坂BP(バイパス)・掛川BP」をくぐると国道1号線に合流しますが、すぐ左折して県道250号線へ入ります。
【嵐牛蔵美術館】 (右側) 10:20
右側の黒塀です。伊藤嵐牛及びその門人等の作品を収録した美術館です。その手前に「俳人伊藤嵐牛翁出生地」の石碑があります。
【東海道・文人・墨客の足跡 嵐牛蔵美術館 ご案内】
当美術館は、俳人 伊藤嵐牛・洋々 並びにその門人・友人や、東海道を行き来した文人、・墨客の作品を収納・展示している美術館(資料館)です。
*テレビでお馴染みの「お宝探偵団」のような書画・骨董を収集した美術館ではありません。
当家には昔、東・中・西と3つの蔵がありました。
東の蔵は雑庫として、中の蔵は書画・衣類・生活雑器の収納に、西の蔵は米蔵として使われていました。
現在西の蔵(米蔵)は無く、東の蔵は平成8年に雑庫として鉄筋コンクリートで建て替え、そして今回中の蔵を改修し「蔵 美術館」としました。
俳句を中心とした資料館ですので、江戸時代・明治時代の俳史、和歌・書画・古書などに興味のある方や、現在俳句を詠まれている方、日本画を書いている方などに大変興味深いものと思われます。
以上は、当「嵐牛蔵美術館」のご案内ですが、それらの概要はインターネットの「バーチャル嵐牛 蔵美術館」をご覧いただき、入場ご希望の場合は、電話なり事前の予約を頂ければご案内いたします。
館長 伊藤鋼一郎 電話 0537−27−0392
【伊達方一里塚】 (右側) 10:25
しばらく行くと県道250号線は、左に曲がります。旧東海道はそのまま真直ぐですが、その分岐点
右側に伊達方一里塚があり、左側に「福天権現」の道標と「日坂町道」の石碑があります。 (前略:一里塚の説明) 掛川市内には小夜鹿、伊達方、葛川、大池の4ヶ所に塚が設けられていた。 ここ伊達方一里塚は、江戸より五十七番目の塚として街道の両側に築かれ、南側は現・荻田理髪店東側あたり、北側は現・三浦たばこ店屋敷あたりに設けられていた。 当時、塚の大きさは直径七間、高さ三間の小山で、一里山と言われた。明治三十三年頃取り壊れたという。 |
一里塚のすぐ先、国道1号線に合流する手前右側に「歌人石川依平翁出生地」の石碑が立っています。その隣に「慶雲寺道」の石碑もあります。
そばに「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。
掛川宿(宿境まで二里七町) ←
西 東本陣跡江七町 袋井市 西新屋 東 東海道松並木 → 袋井宿(宿境まで五町)
国道に一旦入る(224Kmポストあり)が、すぐ左折します。曲がったところに「諏訪神社」があります。
再び国道に合流した左側に「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。
掛川宿(宿境まで一里三町)←掛川市
本所→日坂宿(宿境まで二十三町)
しばらく国道を歩きますが、10分ほど行った225.1Kmポスト右側に「秋葉山常夜灯」があり、新しいものですが、そばに小さく頭が欠けた古いものもあります。
さらに10分ほど行き、「木村橋」交差点を左折します。曲がった左に「馬頭観音」右に「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。
掛川宿(宿境まで二十町) ← 掛川市 成滝 → 日坂宿(宿境まで一里六町)
【大頭龍大権現・福天大権現参道標】 (左側) 11:20
西山口農協支所前にあります。 この道しるべは、大頭龍大権現と福天大権現の参道標である。昔は掛川宿と深い交流のあった川崎湊(現在の静波町)に続く川崎街道と言って多くの人々に利用されていた。 元の位置は約十米程東よりであり川崎街道の起点となっている。
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【大頭龍権現・福天権現の両参道標に付いて】
昔は各所に道案内として主な街道には、道標(道しるべ)が建てられてあった。そして其の道を往来する人達の案内役を果たしていたが、最近は時代と共に次第に見受けられなくなってきている。
西山口農協支所西角にある道標は、郷土の文化遺産として、昔の時代を知る手掛りとなる貴重な存在である。いつ頃建立したものか年号が刻んでいないので解らないが、東山口地区伊達方にある道標が、当地のものとよく類似している。それには寛保二壬戌年と深く刻んであるので、およそ同年代に程近いものではないかと思われる。いづれにしても二百数十余年の歳月が過ぎていることは確かである。
大頭龍権現は菊川町加茂に、福天権現は同町西方龍雲寺境内にあるが、当時は両権現信仰の最も盛んな時代で、信者やそのほかの人にはこの道標から、裏丁通りを経てそれぞれの目的地まで歩いて行った。また川崎街道の分岐点でもあることから、菊川(元、堀之内町)、川崎湊(現、榛原町静波)両方面を往来する人達には、唯一の街道であった。
猶、東へ直進すること約百米先に、右折する県道(現、菊川バス路線)がある。この道路は大正四年に建設するが、それまでは全て菊川又は川崎方面に行く人達は、当地を起点として主な役割を果たしていた。
次に、古記録には左の様に記してある。
「川崎街道は里道にして、木村字成滝より東海道に接続し出て、阿弥陀寺橋を渡り、本村字満水村の大部分を経て、満水坂を越え、隣村西方村に至る。阿弥陀寺橋、従前は掛川城主にて、簡素なる板橋を架し交通の便を図りしも、城主転任と共に村費を以て架橋せしが、少しの出水にても流失し、為に大六山などを越えざるべからざる不便も度々ありたり。故に成滝村満水村合同し、明治四辛未年八月新規架橋す。この諸費金六拾七両二分三朱、残銭一貫四匁、この橋出来後は従前より大いに便利を得たれども、数年ならずして流失するに至れり。是に於いて満水成滝宮脇の三ヶ村協議の上、其の筋に架橋出願許可を得て、明治九年より工を起し八月中竣工す。
橋長サ二十一間。幅七尺。この経費金壱百拾参円四拾四銭七厘。翌月即ち自明治九年九月。至明治十三年八月まで、満四ヶ年間橋銭を申し受くることとなれり。この橋は今の所より二十間許り下流に当れり・・・・・」と記してある。
この様な郷土の歴史も時代の流れと共に忘れ去られているが、時として様々の移り変わりの足跡を尋ねてみると意外な発見がある。今回前記の通り大頭龍権現と福天権現の参道標も建立して以来、幾星霜の歳月を風雨にさらされて、人々の道案内役を果たしてくれた事を思へば、何か心温る昔の姿が蘇ってくる。
幸いにも此の度、熱意ある関係者各位の御協力に依り、大正四年以来七十年振りに、元の古巣に帰ることが出来た。またこの道標も郷土の道しるべとして、過ぎ去った時代を語り続けてくれるであろう・・・・・・?
逆川に掛かる「馬喰橋」は、中央の橋柱はよく見ると馬の顔をしています。馬喰橋を渡った左側に「葛川一里塚」石碑と「常夜灯」があります。
<おやつ> 「御餅処 もちや」の柏餅★★★☆
馬喰橋を渡った右側にあり、名物は「振袖餅」ですが手造りの為かすぐ売り切れてしまい、11:30では買えなかった。しかたがないので本日のおやつとして柏餅を買いました。
【七曲り】 11:40−11:55
『もちや』の前の広い道を少し行くと、赤い歩道が途切れます。その途切れた右側に「←東海道七曲」の標識がありますので左折してください。ここからその名の通り左右に何度も曲がりますので間違えないように注意してください。
赤い歩道をまず左折(一回目)したら、すぐ次の道を右折(二回目)、突き当たりに秋葉山常夜灯が(昼間でも電灯がついていた)ありますからそこを左折(三回目)、突き当たりの工場入口を右折(四回目)、さらに突き当たりを右折(五回目)します。右折したすぐ右側に「塩の道」の標柱が、突き当たりに「夢舞台・東海道」の標柱「掛川宿東番所跡」が、その隣に「七曲りの案内板」があります。そこを枡形に曲がると(六回目)、元の道に出ますので左折します(七回目)。
その先、二つ目を右折、更に二つ目を左折すると仁藤町に出ます。ここからの商店街が掛川宿の中心地です。
【塩の道】
静岡県の西部地域は、古来遠州とよばれ、昔の人々が塩や米などの生活必需品を運び、神社仏閣に詣でる道が、各地にできていた。
この中でも、秋葉街道と重なる「塩の道」や太平洋岸の「横須賀街道」は東海道や海の東海道と交わる交流の道である。
【七曲り】
葛川と新町の境に掘割があり、ここにかかる橋を渡ると門がありました。この門から西が宿場のなかです。ここから東海道は南に折れ、道がかぎの手にいくつも折れ曲がる新町七曲に入ります。七曲は、容易に敵を進入させないための構造だと考えられます。七曲の終点に、城下に入ってくる人物や物を取り締まるための木戸と番所がありました。番所には、捕縛のための三道具(刺股・突棒・袖がらみ)や防火用の水溜め桶などが備えられていました。
新町には、山内一豊が整備した城下町の東に発達した町並みで、元和六年(1620)町として認められました。
掛川宿(袋井宿まで二里二十三町) ← 掛川市
掛川宿(東番所跡) → 日坂宿(宿境まで一里二十六町)
しばらく旧東海道を離れて掛川城下町を散策することにしましたが、丁度12:00になったので食事処を探していたら、通りかかったおじさんが美味しいうどん屋を教えてくれました。やはり美味しい店は、地元の人に聞くのが一番です。
<昼食> 冷やしうどん★★★★ 12:05〜12:35
大手門前信号を西に行き、次の信号手前右側にある、手打ちうどんの店「麺かっぽう 五代」で『冷やし五代』(\850-)を注文。
冷やし中華のうどん版ですが、具だくさんでとても美味しかった。食べた後で大盛りにしたかったと思ったが出来るのだろうか?掛川で手打ちうどんはここだけとの事ですが、腰の非常に強いうどんです。月曜定休で、昼食時は11:00〜15:00の営業。お薦めの店です。
食後、掛川城前の緑橋たもにある観光案内処で資料の入手とお茶ソフトクリームを食べました。
食事の為、中心街に来てしまったので、「天然寺のロケイストヘンミイの墓」、「仁藤大獅子保存小屋」には行きませんでした。
【掛川宿】 江戸から56里20丁(222.1Km)、京へ68里半7丁 人口約 3440人
掛川城の城下町と東海道の宿場町としての両機能をもって発展。逆川を挟んで北側に城と武家屋敷、南側に宿場と町人屋敷があった。
広重は、この先街外れの「大池橋」から掛川の錦絵を画いた。
安藤広重の東海道五拾三次之内・掛川『秋葉山遠望』 うしろの山は秋葉大権現、橋の手前に常夜灯、揚がっている凧は丸凧。丸凧は長い尻尾が必要な揚げにくい凧で、一時途絶えてしまったが、復元された。大名行列を横切っても良かったのは、凧揚げをしている子供と産婆であった。 |
現在の大池橋 |
【大手門・大手門番所】 掛川市指定文化財 (右奥)
「仁藤交差点」次の信号のある交差点から右を見ると復元された「大手門」が見えます。大手門の裏側には「掛川城大手門礎石根固め石」がケースに展示されており、後ろには「大手門番所」が建っています。
【掛川城大手門の復元について】 この門は掛川城の城内に入る最初の門として天守閣と共に掛川城の威厳を示すに相応しい最大の門です。 天正十八年(1590)より慶長五年(1600)まで在城した山内一豊が中町に開かれた松尾口の大手筋を連雀町に移して大手郭を造り、その正門として設けたものです。建物は楼門造りの櫓門で間口は七間(約12.7m)、奥行は三間(約5.4m)、棟までの高さは三十八尺五寸(約11.6m)、二階は漆喰塗篭造りで格子窓付の門櫓をおき、庇屋根を付けています。一階の中央には一間半両開き(巾約2.4m、高さ約4.3m)の門扉、左側に一間(巾約1.2m、高さ約2.2m)片開きの通用口の潜り戸を設けています。鏡柱は二尺二寸(約66cm)に一尺五寸(約45cm)もあり、冠木、梁、垂木等も総て大きな木材を用いた壮大な造りです。冠木下の高さが十四尺六寸(約4.4m)もあるのは乗馬のままで通行出来るためです。嘉永の地震(1854)で倒壊し安政五年に再建されましたが、明治になって廃城になり民間に払い下げられ火災に遭い焼失しました。元の位置は連雀町裏の堀を渡ったところ(交差点南、道路表示部分)で、区画整理事業により基礎の根固石を発掘調査し規模を確認しましたが、元の位置では道路と家屋に支障を来たし、止むなく五十m北側に創建当時の姿に復元しました。 この発掘で門を囲む桝型の築地と共に番所の遺構も発見され、移築保存されていた大手門番所を旧地と同じ位置関係に全体的に復元しました。 大手門から見る天守が一番美しいといわれます。この付近から大手門と共に天守をご鑑賞ください。 掛川市 |
【掛川城大手門礎石根固め石】
掛川城大手門は、二層式の櫓門(楼門)でした。大きく重量のある門ですから、傾いたりしないよう基礎工事に工夫が凝らされていました。
これが、平成五年(1993)の発掘調査で発見された、門の基礎部分「礎石根固め石」12個の内の一つです。直径2m深さ1m50cmくらいの大きな穴に、40cm前後の河原石を円形に4〜5段積み重ね、その上に門柱の基礎が置かれていました。
この根固め石は、新しく作られた道路に現在保存できないので、そのままの状態で取り上げました。
【掛川城大手門番所】 掛川市指定文化財 (上の写真で大手門の後ろにある建物が番所です)
大手門番所は、城の正門である大手門の内側に建てられ、場内に出入りする者の監視や警備をする役人の詰所です。嘉永七年(1854)の大地震で倒壊後、安政六年(1859)に再建されたのが現在の建物です。
明治初年、掛川藩の廃藩に際し、元静岡藩主谷庄右衛門が居住用として譲り受け、別の場所に移築しましたが、昭和五十三年(1978)に谷家より市へ寄贈されました。
大手門に付属した番所が現存するのは全国的にも珍しく、昭和五十五年(1980)市の文化財に指定されました。
発掘調査により掛川城大手門と番所の位置が正保年間頃(1644〜1647)に描かれた正保城絵図のとおりであることが明らかになったので、平成七年(1995)周辺の区画整理により、本来の位置から約50m北に大手門を復元することにともない、それに合わせて番所を配置し、現在地に移築・復元しました。
掛川市教育委員会
【三光稲荷】 (右奥)
大手門 番所の裏にあり、山内一豊ゆかりの神社。
【三光稲荷御由来】
三光稲荷は、名馬の誉れの出世で有名な山内一豊が掛川城主として文禄年間に城と城下町の大改築を行われたが、丁度この時期に豊臣秀吉の命で伏見桃山城の築城に加わった御縁で大手郭と大手厩の鎮守として伏見稲荷を勧請されました。
三光稲荷の由来は南北朝(吉野朝)時代のはじめの延元元年、後醍醐天皇が京都の花園院から吉野へ御幸される十二月二十一日の深夜暗闇から難渋され途中伏見にさしかかり稲荷大社の御前で、
ぬばたままの くらき闇路に 迷うなり
われにかさなん みつのともし火(三の光)
と、御製を詠まれ、道中の安全と神助を祈願すると不思議に明るい一群の雲が現れ御幸の道を照らして無事に大和へ導かれたという故事があり伏見大社の本願の脇には御製の碑が、吉野山金峰山には「導稲荷」があり東京新宿三光町の花園神社(三光稲荷)は吉野より勧請されたといわれこうした御利益から大手厩の構内にもお祀りされました。
【掛川城】 (右奥)
【掛川城の歴史】 掛川城は、文明年間(1469〜1486)頃、今川氏の家臣が、掛川古城を築いたことに始まります。永正10年(1513)頃に現在の位置に移り、今川氏の遠江支配の拠点となりました。 永禄12年(1569)徳川家康がここに立てこもった今川氏真を攻め、長期に渡る攻防の末、掛川城は開城しました。家康の支配下に入った掛川城は、甲斐武田氏の侵攻を防ぐ拠点となりました。 天正18年(1590)豊臣秀吉は、天下統一を成し遂げ、脅威であった徳川家康の領地を関東に移しました。さらに、家康の旧領地に秀吉配下の大名を配置し、掛川城には山内一豊が入りました。一豊は、大規模な城域の拡張を行い近世城郭として整備し、この時初めて天守閣を作りました。 その後、掛川城は、松平家・太田家など徳川譜代の大名11家26代の居城として、明治維新まで続きました。 |
【掛川城天守閣】
天正19年(1591)から慶長元年(1596)にかけ、山内一豊によって掛川城に初めて天守閣が作られました。しかし、嘉永7年(1854)の大地震で倒壊し、幕末の混乱の中取り壊されました。
平成5年(1993)、城絵図や古記録を元に木造により復元され、140年ぶりに再建されました。
天守閣は、外観三層、内部四階から成ります。六間×五間(約12m×10m)の天守閣本体は、決して大きいものではありませんが、東西に張り出し部を設けたり、入り口に付け櫓を設けたりして外観を大きく複雑に見せています。
天守閣に登ったら、ボランティアの人がいて解説してくれました。また、今日は袋井駅まで行けるのかどうか悩んでいたところ、4〜5時間で行けるだろうとの言葉で頑張ることにしました。
【葛布(くずふ/かっぷ)】 13:35
城下町風町並み通りを挟んで観光案内処の反対側にある葛布の店を外から覗く。大手門近くにも有名な葛布の店があります。
葛布は掛川の特産品で、女仕事として茶摘と共に収入があったので、掛川には遊女がいなかった理由と考えられる。また、「内助の功」は山内一豊の妻だけでなく、掛川の女性達は陰ながら藩の財政を支えていたのではないかと思われる。
【葛から葛布になるまで】
葛は、山野に自生する蔓草で、長さが6m以上にもなる豆科植物です。また、秋の七草の一つに数えられています。この蔓(つる)から採れた繊維を横糸として織ったものを葛布と呼んでいます。
掛川に葛布の製法が生まれたのは、ある行者が、滝水にうたわれた葛蔓を見つけ、信徒の老婆に繊維を取る方法を教え与えたと伝えられています。歴史的に認識されたのは鎌倉時代で、蹴鞠の奴袴に用いられました。江戸時代には東海道の掛川宿の繁栄とともに葛布も栄え、参勤交代の諸大名の御土産品としてもたいへん珍重されました。明治維新後、生活様式の急転により壊滅的打撃を受けましたが、東京で襖地として大好評を得、明治30年頃にはアメリカに壁紙として輸出され、Grass cloth の名で最高級紙として喜ばれました。
葛布の美しさと素朴な味わいは多くの人々に愛用されています。
【清水銀行】 (右側) 13:50
城下町風町並み通りから旧東海道に戻り、 次の信号左側ビルの壁に「大祭絵巻」が描かれています。
「中町交差点」右側角にある清水銀行は、江戸時代の大きな商家造りで雰囲気があり、南側入口には小判型の『両替』の吊るし看板、西側入口には『札差』の看板が掲げれれています。 また、写真に写っているように、名馬に乗っている山内一豊と千代夫人の浮彫刻があり、その脇に有名な由来が書かれていました。 【由来】 天正十八年、掛川城主であった山内一豊、千代夫人を浮彫刻にした。 若き日の一豊が名馬を欲したところ、千代夫人が密かに蓄えた黄金をもって願いを叶えさせたと云う内助の功が美談として伝えられている。 後日、土佐高知城主として明治維新の山内容堂に至るまで、連綿として城主としての家系を保った。 清水銀行 |
【円満寺】 (右側) 14:00
清水銀行から250mほど行った右側にあります。
山門は、「掛川城蕗の門」を使用しています。 この門は、掛川城の内堀(蓮池)のほとりに建てられていた四脚門である。大手門や仁藤門などから本丸、二の丸などの城の要所にいたる道筋にあり、小さいが重要な門であった。 廃城後の明治五年(1872)円満寺が買い受けて、現在地に移築した。 その時に、柱の下を二尺五寸(約76cm)切り取って山門にしたといわれている。 掛川市教育委員会 |
【十九首塚】 (右奥) 14:15
信金下俣支店の向かい側に「十九首塚へ200m」の看板を見て、斜め右へ150m行くと、「右側に首塚→」の看板があります。そこを右折して更に川の手前を右折すると、小さい公園に入ります。その公園内右手に新しく整備された平将門の首級を祀る「十九首塚」があります。
また、左手にはミニチュアタイプの「健康遊歩道」(石が埋め込まれている足裏マッサージ式遊歩道)があります。数種類のパターンを配置しており、素足で歩くのですが疲れた足には痛くても気持ちがいいです。是非おためしあれ。
以前、台湾に行った時も足裏マッサージ用の長い小石の道があったが、最後まで裸足で歩くのは大変だったことを思い出しました。
この公園のベンチで一休み。「もちや」で買った柏餅を食べましたが、皮は本物の餅、甘さは上品で美味しかった。
【十九首塚の由来】
ここは「平将門」の首級を祀る十九首塚です。
人皇六十一代朱雀天皇の御代、関東下総の国(茨城県)相馬郡猿島に、桓武天皇の五代の孫で、相馬小太郎将門という武将がおりました。 承平五年(935)、一族の内訌を契機として、将門は、常陸を始め関東一円を占拠、自から新皇と称し律令国家に対抗する国家を企てた。この反乱に、朝廷から大規模な将門追討が興され、平貞盛、藤原秀郷らにより、将門は天慶三年(940)二月十四日滅ぼされました(天慶の乱)。秀郷は将門をはじめ一門の家臣十九人の首級を持って京に上がる途中掛川の宿まで来ました。一方、京からは検視の勅使が派遣され、この地(現在の十九首町)の小川(東光寺南血洗川)で首を洗い、橋に架け検視を受けました。首実検の後、秀郷は『将門は逆臣なりとも、名門の出である。その罪重しといえども、今や滅びて亡し。その死屍に鞭打つは礼に非ず。』と十九の首を別々に埋葬し、懇ろに供養しました。時は天慶三年八月十五日でありました。 その後、歳月の流れ土地開発等の為、移動し現在地に移りました。ここ十九首塚には、葬られた十九人の詳細な名前が残されています。地名の由来も十九の首塚があったところから十九首町と呼ぶようになりました。 町民は、首塚を町の守り神として春秋二季の彼岸と八月十五日の命日には供養際を行い、今日まで続いております。 平成十四年三月 |
【大池橋と秋葉海道】 14:45
逆川橋を渡って、国道1号線に出たら左折してそのまま行くと、倉真川に架かる大池橋になります。
この川から広重は「掛川・秋葉山遠望」を描いた(上記【掛川宿】参照)。
橋を渡ると五差路になり、旧東海道は川沿いを左折します。
橋を渡った左側に「秋葉街道」の案内板と、「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。
袋井宿(宿境まで一里三十五町) ← 掛川市 大池橋 → 掛川宿(宿境まで十三町)
五差路の右から2番目の道入口に「正一位秋葉神社道」の石碑と鳥居及び神社があります。
【大池橋と秋葉街道】
大池橋は、文化・文政年間に編纂された「掛川誌稿」には、長さ二十九間(約52m)、幅三間一尺(約5.7m)余りの土橋と記されています。東海道を東から来てこの大池橋を渡ると、正面に青銅製の鳥居とその両側に常夜灯が建てられていて、火防の神として広く知られた秋葉山へ通じる街道の入口であることを示していました。秋葉山へは、ここから九里(約35Km)余りの道のりです。
常夜灯は、明和六年(1769)に、鳥居は安永九年(1780)に建てられたものです。この鳥居と常夜灯は、嘉永七年(1854)の大地震により倒壊しましたが、後に常夜灯も建て替えられ、鳥居も木造で建て替えられました。
東海道は、鳥居の手前で左に折れます。
大池橋の五差路を左折して、天竜浜名湖鉄道のガードをくぐります。持ってきたポカリスエットがなくなったので自動販売機を探していたら、白山神社のすぐ先にありました。ここの自動販売機では480cc入りと350cc入りの烏龍茶が同じ120円だったので勿論多い方を買って、持参のペットボトルに詰め替えました。暑い上に生暖かいポカリの甘さにかえってのどが渇いていた為、冷たかったこともあるが、いつもと同じ烏龍茶でも今まで飲んだ中で一番美味しかった。
その先数百m右側の「蓮祐寺」前に「大池一里塚」の標柱があります。
また、寺の前には「夢舞台・東海道」の標柱も立っていました。
袋井宿(宿境まで一里二十六町) ← 掛川市 大池一里塚跡 → 掛川宿(宿境まで二十二町)
【仲道寺・善光寺】 15:50〜16:00
蓮祐寺からしばらく川沿いを歩くと国道1号線とバイパスが合流するガードをくぐります。くぐったら左方向へ引き続き県道253号線を行きます。その先東名のガードもくぐり、善光寺橋を渡るとすぐ右側の民家の前に「従是北岡津區 東掛川町へ約一里・西袋井町へ約一里」と刻まれた石碑がありました。
その隣に「仲道寺」と「善光寺」があります。
仲道寺は、東海道五十三次の真ん中にあたると言われています。一昨年の暮れに日本橋を出発して一年半で京都までの半分を踏破し、半分でもよくここまで来たもんだと感激しました。
門前のベンチでウーロン茶と本日二回目の柏餅を食べ、ささやかなお祝い。 享保十八年(1733)に市内高御所の正法寺から和尚を招き、善光寺境内に堂を建立して、夏涼山仲道寺と号したことに始まります。 善光寺の沿革ははっきりしませんが、江戸時代の終わりごろには、寺の阿弥陀堂に祀られている阿弥陀仏は、平安時代の初めに活躍した武将、坂上田村麻呂の守り本尊と言い伝えられていました。 |
【岡津善光寺由来記】
この地は、佐野郡小松郷岡津村と記され(現在掛川市岡津)松茸が多く取れたといわれている。
往古延暦七辰の年(平安時代初期)に伝教大師が叡山建立の願をかけて、自からが阿弥陀仏を三体彫刻してその一体をさずけ、奥州に延暦九年賊徒討伐のため、勅使として坂上田村麻呂と百済王とが東に下った途中、この村に来た頃、兵が難病にかかり徒行することができなくなり、この地にとまり病養せしめ、その一体の阿弥陀仏に願いをかけ、そのため兵の悪病の難を逃れたといわれ、ここに善光寺堂を建立された。
この頃、諸国に難病が流行してその話を聞いて大勢の人たちがこの善光寺にお参りに来たといわれている。
右側にあるお寺は曹洞宗仲道寺寺名であり、その昔江戸から京都まで測量したところ、この寺がちょうど東海道の真中で仲道寺と寺名がついたと云われている。
【原川松並木 】 16:10
仲道寺を過ぎると袋井宿の新屋までのあいだ、断続的に松林が続きます。また石碑もたくさん現れてきます。
【旧東海道松並木 岡津〜原川】
官道として東海道が開かれたのは1200年位前で、鎌倉幕府開設以後、京都・鎌倉間の交通頻繁化に伴い急速に発展し、国内第一の幹路となり駅なども整備されました。その後江戸時代には、街道の駅路を修理し両畔に松樹を植え一里塚を設け、東海道五十三次を定めました。このうち掛川には掛川宿と日坂宿の二宿があり、ともに明治維新まで栄えました。
現在では国道1号線、東名高速道路、東海道本線、新幹線が通り東西交通の要路として重要な位置をしめしております。松並木は近年松食い虫の被害で枯れ、岡津・原川間に僅かに残っているだけです。
この辺は田園風景の中、両側に植えられていましたが、若い松ばかりでした。
また、右側田んぼの前に「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。
袋井宿(宿境まで一里六町) ← 掛川市 原川松並木 → 掛川宿(宿境まで一里六町)
【間の宿 原川】 16:17
松並木が始まってすぐ左側に「金西寺」があり、その手前に「間の宿原川」の解説板が立っていました。
宿と宿の間の街道に沿った小集落を間の宿と呼びます。間の宿では、旅人の休息の場を提供することはできますが、旅籠すなわち宿泊業を営むことは許可されていませんでした。
原川は掛川宿まで一里十八町(約6Km)、袋井宿まで三十三町(約3.6Km)の位置にあり、戸数は、文化・文政年間に編纂された「掛川誌稿」には四十六軒という記録があります。原川には、原川薬師と呼ばれていた金西寺阿弥陀仏、その薬師に供える薬師餅を売る茶店、酒屋などが軒を連ね、街道を行き交う旅人で賑わいました。
「金西寺」の次の四つ角に「是従 和田岡村・原谷村ヲ経テ森町ニ通ス 天正四年」と刻まれた石碑がありました。
【名栗の立場】 16:30
国道1号線に合流して「同心橋」を渡ったらすぐ右に下りて、国道の下をくぐり(橋の左側を歩いている場合は左へ下り)南方向へ進む。
下りるとすぐ、「東海道沿線案内図(袋井まで4.2Km)」と「名栗の立場」の案内が立っています。
【名栗の立場】
『東海道中膝栗毛』の一節に次のようにあります。
「はやくもなくりのたてばにつく こヽは花ござをおりてあきなふ
道ばたにひらくさくらの 枝ならでみなめいめいにおれる花ござ」
江戸時代には、旅人が休息する場所(立場)として知られ特に花茣蓙は有名でした。
北西一帯に広がる坂尻遺跡には、奈良時代郡家(ぐうけ)(郡役所)や駅家(うまや)が置かれていたらしく、古くから東西交通の要衝の地であったことがわかります。
さらに5分ほど行った左側に、大きな駕籠の形をした観光案内所(チラシが置いてあるだけ)があり、その壁には「名栗の花茣蓙」と「袋井丸凧」の絵が描かれており、花茣蓙の説明文もありました。
【名栗の花茣蓙】
文化・文政の頃、十返舎一九の「道中膝栗毛」の一節に「掛川城下を西へ一里十丁 原川薬師に参詣し、軒を連ねた通りをすぎ、瀬川を渡れば早名栗、松並木を西に見て立場茶屋に着く。名代の甘酒に舌鼓、ここは布井の宿までの間の宿、旅籠屋のあり、名物の花ござを売る店が軒を連ね、上り下りの旅人が珍しいと買って行く。」
旅人の 見えかくれする 並木道 瀬川のほとり 花ござの里
【名栗松並木】
再び松並木が始まり、歩道もある中、松並木の説明板が立っていた。
【東海道松並木】
江戸時代の東海道沿線の村々を記録した「東海道宿村大概帳」には「(掛川)宿より袋井宿迄之間往還通並木」と記され、街道の両側には旅人を強い日差しから守っていた松並木が、名栗から久津部の間に残されています。
東海道の松並木は、慶長九年(1604)に徳川秀忠が「街道の左右に松を植しめらる」と「徳川実紀」は記しています。その後、幕府は並木の維持管理に関する法令をたびたび出しています。明治維新以後は道路拡幅工事などによってその数を減らしてしまいました。
【富士浅間宮赤鳥居】 16:47
現在は、写真で分かる通りに鳥居の先の参道が工場等で分断されています。 |
【久津部(くつべ)一里塚】 (左側) 17:00
袋井東小学校 の庭にあります。
その小学校の門には「東海道五十三次 どまん中 東小学校」の大きな木の看板が掲げられています。 徳川幕府は慶長九年二月(昭和四十七年より三百六十八年前)東海・東山・北陸三道に一里塚を築かしめて旅人の便をはかった。その当時本村久津部の地は江戸日本橋より六十里の地点であったから道をはさんで両側に高く土を盛り松を植えて一里塚を築いた。 その北側のものは袋井東小学校前の石川金平氏宅で国道より三間ばかり北へ入ったところであった。南側にあったものは現在地である。明治十年に伐るまでは老松がそびえていて旅人のよい目じるしになっていたとのことであるが袋井東小学校創立百年を記念に復元をした次第である。
平成十二年八月改修 |
【用行義塾跡】 (右奥) 17:06
「村松・宇刈道標」の石碑がある所を右折してすぐ右側にあります。
用行義塾は、 「学制」が発布される一年前、明治五年(1872)に民間の有志が共同出資して設立した、袋井で最初の近代教育を行う郷学校と言われた学校です。
袋井東小学校に残る用行義塾版木に刻まれた設立趣意書には、福沢諭吉の「学問ノススメ」に強く影響され、広く世界に目を見開き、教育の重要性を認識していたことが記されてい ます。
【七ツ森神社】 (右側) 17:22
大きなうどんや「サガミ」の隣にあります。
七ツ森は 田圃(たんぼ)の真中に残る七つの塚として、尾張藩(愛知県)藩主高力猿猴庵が天明六年(1786)に、東海道を自ら旅して記した「東街便覧図略」に描かれてい ます。
その中で一番大きな塚の上に描かれているのが現在の七ツ森神社です。
この七つの塚(森)には悲しい伝説が伝わっています。伝説では桓武天皇の頃、日坂宿に出没していた怪鳥を退治するために朝廷から派遣された七人の武士は、退治出来ずに返り討ちにあい命を落としてしま いました。哀れんだ村人が墓を造り彼らを葬りました。その墓が七つ森だと伝えられています。
神社には古墳時代にこの地方を治めていたと考えられる久努国造が祭神として祀られ、周辺には久努、久野、久能そして国本などの地名が見られます。久努国造の名を記した扁額が納められていたり、七つの森(塚)は古墳とも考えられることなどからも、この場所は久努国造にゆかりの深い場所であったと考えられます。
平成十年三月二十五日 袋井市教育委員会
神社奥には袋井の名木古木である大きなシイの木があります。
また、境内に「久能城見ゆ1.1Km」(本殿裏から戦国時代の城跡、久能城がとてもきれいに見えます。)との立て札が立っていたので奥まで行ったが、どうしても見つけられなかった。
【東海道松並木】 【油山道標・可睡三尺坊道標】 (右側)
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七つ森神社から再び袋井の松並木が綺麗に続く中、松並木の解説板がありました。
また、「従是油山道」や「可睡三尺坊」の道標も建っていました。 主要な街道の両側に並木を植えることは古代より行われ、天平宝字 三年(759)に諸国の駅路に果樹を植えたのが始まりとされています。『信長公記』には天正三年(1576)に織田信長が「路辺の左右に松と柳植え置く」と記され、慶長九年(1604)には徳川秀忠が「諸国街道一里毎に候塚を築かしめられ、街道の左右に松を植しめらる」と、一里塚と一緒に松並木を整備したことが『徳川実記』に記されてい ます。江戸時代を通して旅人を日差しや風から守っていた並木も明治維新以後その数を減らしてしまいましたが、現在地より東側には松並木が良く残り、江戸時代の面影を今に伝えてい ます。 また、現在地の西側の道は真言宗の古刹油山寺(ゆさんじ)へと至る油山道(あぶらやまみち)と呼ばれる道で す。入口には文政十一年(1828)に再建された油山道標と火防の神として信仰のある三尺坊が祀られている可睡斎への道標が建てられています。 平成十二年三月十日 袋井市教育委員会 |
【新屋(あらや)の秋葉山常夜灯】 17:40
国道と合流したところに「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。
袋井宿(宿境まで六町) ← 北 久野城址十七町 袋井市 東新屋 東 富士浅間宮鳥居江二十二町 → 掛川宿(宿境まで二里六町)
国道を少し進み、「新屋」の交差点で左折し、すぐ細い道を右折します。この道は旧東海道をイメージしていると細いので考えてしまうが、新屋の交差点を曲がるとすぐ「西新屋」の標柱が斜めに立っているので分かると思います。細い道はまもなく旧街道のいつもの道幅になります。 火伏の神である秋葉山三尺坊大権現に対する庶民の信仰は、江戸時代に盛んになりなした。秋葉山詣のために上方や関東、東海では秋葉講が組織され、秋葉山へ参詣する人々が多くな りました。 袋井市域でも秋葉信仰がさかんとなり、各地区に常夜灯が建てられました。常夜灯は秋葉山に参詣するための秋葉道や東海道沿いにあるものばかりでなく、その地区の人々が火伏の神への信仰から建てられたものもあ りました。市内には石で作られた灯籠形と、木造の屋形の常夜灯が合計で十四基現存しています。新屋の常夜灯は木造屋形で、作者は不明ながら見事な彫物がみられ、保存状況の たいへん良い常夜灯です。かつては、東海道を行き来する旅人のよい目印となったことでしょう。 平成十二年八月 袋井市教育委員会
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道はやがて広い通りにでます。出たところに「市役所前」の標柱がありますので、案内どおり左折して次の信号を右折するのが旧東海道です。
袋井宿(宿境までニ町)
← 南 法多山尊永寺江一里十四町 袋井市 市役所前 北
萬松山可睡斎江三十町 → 掛川宿(宿境までニ里十町)
信号を右折しないで真直ぐ行くと1Km位で袋井駅に着きます。今回の旅は右折したところにある「これより袋井宿」の石柱前で終了とする。
23回目の旅終了(18:00)袋井市庁前。 ◆本日総歩数:32,500歩(袋井駅まで900m行き、39,900歩)
袋井駅よりJRで掛川駅まで戻り、駅そばの「にんにくや」で夕食後、駅前駐車場に止めていた自家用車で帰宅。
「島田宿(後半)・金谷宿・日坂宿」 ← 「目次」 → 「袋井宿
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