日光御成街道(7) 「鹿室」信号 ~ 幸手駅
2016年11月5日(土) 快晴
「蓮田駅」より朝日自動車の路線バスで「江ケ崎馬場」バス停まで行き、前回終えた「鹿室」信号を10:20出発。
(注:解説で街道の左側、右側とは幸手に向っての左右です)
【おたま様(猿田彦大神)】 (左側) 10:20
「鹿室(かなむろ)」信号を渡った左角に祠が建ち、中におたま様と呼ばれている明和八年(1771)建立の猿田彦大神(青面金剛像)が祀られ、お玉が多数奉納されていた。
おたま様と呼ばれる訳は、子どもが百日咳にかかると、親はここにお参りしてお玉を借り、そのお玉で子どもに味噌汁を飲ませて治したと云う。そして病が治るとお礼にもう一つ新しいお玉を付けて返す風習があった。
お玉は汁の実(身)をすくう(救う)ものであることから、この風習が起こったといわれている。
【義理橋】 10:38
「岡泉」信号を過ぎた直ぐ先の隼人堀川に架かる「往還橋」を渡る。
将軍の日光社参の際、村人は一行を村境で出迎え、その後裏道を通って「往還橋」に先回りして見送った。この橋で義理を立てたので、「往還橋」は義理橋と呼ぶようになったと云う。
【不動明王社】 (左側) 11:04
25分程歩いて「下野田」信号を過ぎた先の「姫宮落川」を渡った左側に不動明王社が建っている。
石塔の正面には不動明王が陽刻され、右側面には『嘉永四年(1851)春三月建之』、左側面には『武蔵国埼玉郡 上野田■下原』と刻まれていた。
【下野田一里塚】 (両側) 11:12
次の「東武動物公園入口」信号から200m程先に11番目の下野田一里塚が両側に残っている。
左側(西塚) 右側(東塚) |
【一里塚】 埼玉県指定史跡 一里塚は中国で榎樹(えんじゅ)を植え銅表を立てて里数を記した堠塊(こうかい)の制に起源をもつ。日本では一般に徳川氏が制度化したといわれている。 慶長九年(1604)徳川家康は秀忠に命じて、江戸日本橋を起点にして榎を植えた一里塚を築かせ、全国に普及させた。一里塚の造築は、大久保長安が総督として司どり、幕領は代官に、私領は領主に命じて行なわせた。 榎を一里塚に採用したのは、榎の根が広く張って塚を固め、塚が崩れにくするためであった。しかし、榎の代りに松などを植えた地方もあった。 この一里塚は日光御成道に設けられたもので日本橋から十一番目にあたる。日光御成道は将軍が日光東照宮に参詣するための専用の道で、鎌倉街道と称される古道を整備して利用したものと思われる。 埼玉県教育委員会 白岡町教育委員会 |
【上野田の庚申塔】 (左側) 11:23
次の「上野田」信号手前左角に、鳥居と貞享三年(1686)の道標兼庚申塔が建っている。
また、庚申塔の左側には石碑、右側には石灯籠が建っている。
庚申塔の正面には、合掌する六手の青面金剛が鬼を踏みつけ、その下には三猿が彫られている。右側面には『是よりふじ海道原市へ二里』と刻まれている。
ふじ海道は、大山阿夫利神社への道で、原市は現在の上尾市原町のこと。原市を経由して大山まで直線距離で77Kmある。
<昼食> 11:25~12:00
「上野田」信号を渡った所にあるコンビニ(ファミリーマート)のベンチでコンビニ弁当。
【西粂原鷺宮神社】 (左側) 12:10~12:18
「西粂原」信号を過ぎた先に西粂原鷺宮神社がある。
鳥居をくぐり狛犬の間を進むと正面に社殿、左手に御神木の大イチョウ。イチョウの左側に神社の説明板が立っている。
【西粂原鷺宮神社・御成街道】 西粂原鷺宮神社は、北から南に江戸時代中期につくられた黒沼笠原用水が流れる台地上にあり、社前には御成街道(日光御成道)が通っている。江戸時代に編纂された『新編武蔵国風土記稿』には、この神社は村の鎮守で明智寺持とある。明治時代は村社となり、毎年三月十日、九月九日に祭礼を行なっている。また、明治四十年には、愛宕神社、雷電神社、厳島神社、稲荷神社、猿田彦神社、三峰神社の六社が合わせ祀られている。 社前を通る御成街道(日光御成道)は、おおむね中世の鎌倉街道の道筋を、江戸時代に将軍が日光へ社参(参詣)するために専用の道として整備されたものである。中山道本郷追分を基点として、岩淵、川口、鳩ヶ谷、大門、岩槻、そして町内の久米原、国納、和戸を経て幸手で日光街道に合流する道筋である。 将軍の日光社参は、記録によれば慣例となったのが寛永期(1624~1644)以降で、十九回を数える。『日光御成道絵巻』(県立博物館蔵)には、道中の村々の様子や「鷺明神」と記された社殿が克明に描かれている。これにより当時の久米原村、国納村、和戸村の様子をうかがい知る事が出来る。また天保十四年(1843)四月、十二代将軍家慶の社参の記録(旗本 稲生家文書)によれば、西粂原鷺宮神社にて将軍が小休止したとある。 宮代町 |
イチョウの右側に三峰神社、冨士浅間大神、大山大権現の石碑が建ち、更にその右隣に伊勢神宮参拝記念碑、文化三年(1806)の庚申供養塔、元文五年(1740)の庚申塔(青面金剛・三猿像)が建っている。
【庚申塔・血神・馬頭観世音】 (左側) 12:28
備前堀川に架かる「国納橋」の手前左側に、庚申塔、血神、馬頭観世音が並んで建っている。「血神」は「地神」のことか?
【和戸(わど)浅間神社】 (左側) 12:38~12:42
「東武伊勢崎線」の踏切を渡ってすぐ左側に和戸浅間神社がある。
下記の文中で旧浅間社は直ぐ隣の東武鉄道の線路上にあったことが、添付の地図に載っていた。
【和戸浅間神社】 和戸浅間神社の創建は明らかではないが、江戸時代の初め個人持ちの社であったものを、文化十四年(1817)に富士信仰の集団である富士講持ちの神社になったため、現在地に移転した。 祭神は木花之咲耶姫命を祀る。祭礼は六月三十日で「ウラ浅間」と呼ばれ、文化十四年旧暦五月三十日に初めて行なわれたという。以来、子供の成長を願う初山の行事として毎年参詣者でにぎわう。祭礼当日には参道に灯籠が飾られ、大正時代の初めから昭和四十五年まで山車も曳かれていた。近年その山車も新たに造られ復活し、夏祭りで曳かれている。また、当社では十一月初旬に七五三の行事も行なわれている。 富士信仰は、富士山を中心とする山岳信仰の一つで古代よりあったが、特に江戸時代後期には庶民の間にも広がり絶頂を極め、各地に小冨士も築かれた。天保十四年(1843)の将軍日光参詣不二道奉仕者国郡数控には「和戸、西粂原、東粂原」等の村名もみられ、信者の分布の様子を知ることが出来る。 |
【道標兼庚申塔】 (右側) 12:55
「和戸」信号を過ぎ、備前前堀川と大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)が合流するところに架かる「和戸橋」渡ったすぐ右側に、剥げかけた『日光御成道のみちすじ」と題する地図(荒川堤~幸手市)と名所紹介の案内板が立っている。
次いで「和戸橋」信号を渡った右角に、宝暦七年(1757)の道標兼庚申塔が民家の塀の窪みに立っている。
左側面に『右すぎと道 下高野村 左さってみち』と刻まれていた。
【大落古利根川治水碑】 (左側) 12:56
庚申塔の向かいに大きな大落古利根川治水碑が建っている。また、その左に大落堀悪水路土地改良区之記念碑も建っている。
【下高野一里塚】 (右側) 13:06
「和戸橋」から約500m行った右側にある「マミーマート」の直ぐ先に下高野一里塚が右側(東塚)だけ残っている。
塚の上には松と石碑が建っており、石碑には『昭和二年一月 史蹟日光御成街道一里塚 高野村大字下高野』と刻まれているが、裏面の碑文は擦れていた。
【日光御成街道一里塚】 埼玉県指定史跡(大正15年2月19日指定) 慶長九年(1604)江戸幕府は大久保石見守長安に命じ、江戸日本橋を起点に一里ごとに塚を築かせた。 この一里塚は、下野田(南埼玉郡白岡町大字下野田)の一里塚より北東一里の地点に位置している。 ここは古利根川の自然堤防となっており、その上に塚を設けたものである。もとは街道の両側に五間(九メートル)四方の大きさの塚があったが、大正時代初期、道路拡幅により西塚が消滅し、現在残っているのは、東塚だけである。これらの塚の上には松が植えられていた。 一里塚は、旅人にとっては里程の目標に、また馬や駕籠の賃金を支払う時の目安にもなった。 埼玉県教育委員会 杉戸町教育委員会 |
【八幡神社】 (左側) 13:20~13:25
次の「八幡神社」信号の左に八幡神社がある。
鳥居をくぐり石段の下に説明板が、石段を登った正面に社殿が建っている。
【八幡神社】 当社は、江戸期の『新編武蔵国風土記稿』によれば、下野村の鎮守の一つで村民持ちとある。 明治五年四月の社格制定にともない村社となった。大正十二年の関東大震災で本殿が全壊し、同十四年に再建されたが、のち平成十三年四月火災に見舞われ全焼した。現在の本殿は、同年十二月に再建されたものである。 境内には、震災復興記念碑のほか、力石(二基)、馬頭観音、地蔵像がある。 杉戸町教育委員会 |
社殿に向って右手の中段に、庚申塔二基、馬頭観世音、地蔵像が建ち、更にその右手には「杉戸町下野集会所」が建っている。
二基の庚申塔の内、左側のものは文化十二年(1815)で『庚申塔』と刻まれ、右側のものは元禄七年(1694)の青面金剛像で道標を兼ねており、左側面に『右江戸かい道』と刻まれている。
【御成街道の松並木】 (左側) 13:33
次の信号の右角に扁額等何も書かれていない社(後に地図で天神社と判明)が建っている。
信号を渡って直ぐの左側にフェンスで囲われた公園か運動場があり、その前に立派な二本の松が聳えている。
【御成街道の松並木】 御成街道とは、日光街道の脇往還で江戸日本橋を起点に本郷追分で中山道と分かれ、岩淵をへて荒川を渡り、川口・鳩ヶ谷・大門・岩槻の四宿を経て幸手宿の南で千住からの日光街道と合流する五宿十二里の街道である。 この街道は徳川家康を祀った日光東照宮を将軍が参詣するために通行するいわば将軍専用の道であった。江戸時代を通じて十三回ほどつかわれたことが記録に残っている。 当時、この街道の両側には、松をはじめ杉、榎などが数多く植えられてあった。昭和三十年頃は、まだ松並木として残っていたが、交通の発達や道路の拡幅にともない徐々に減りつづけ、今ではわずかに残る松が、往時の面影を偲ばせる唯一のものになってしまった。 杉戸町教育委員会 |
【葛西用水竣功記念碑】 (左側) 13:48
13:40「幸手市」に入る。
圏央道をくぐった先の信号の左側に『葛西用水・合理化事業 竣功記念碑』と刻まれた記念碑がフェンスに囲われて建っている。
【琵琶溜井・庚申塔】 (左側) 13:49~13:52
直ぐ先の二股道に琵琶溜井の説明板と、その足元に庚申塔が建っている。
【日光御成道と琵琶溜井】 江戸から川口・岩槻を通るこの道は御成街道ともいい、千住から草加・越谷・粕壁・杉戸を通る日光道中と上高野村(現在の南二丁目地内)で合流します。 江戸幕府第三代将軍の徳川家光が日光東照宮参詣のために整備した街道で、その後も歴代の将軍がこの道を通りました。この街道に沿って、並木の松や道標、正徳二年(1712)銘の庚申塔が残されています。 琵琶溜井は、万治三年(1660)に、関東郡代伊奈忠克が、利根川の水を幸手領に導くため、古利根川を整備したダムのような施設です。その形が楽器の琵琶に似ていたことからその名があります。 溜めた水は、圦桶(いりひ)という水門から葛西用水、中郷用水、南側用水として分水され、その機能は今もかわりません。土地の人がここを「樋の上」と呼ぶのもそうした歴史にちなんでいます。 幸手市教育委員会 |
この後ろの川にはダムの様な施設があり、水路が分かれている。
【日光道中・日光御成道合流点】 13:56
琵琶溜井から街道は右カーブして直ぐ、左側に「ベルク」がある交差点が日光御成道と日光道中の合流点である。
信号の右手から合流する道が日光道中で、日光道中の信号手前に説明板が立っている。
【日光道中・日光御成道合流点】 日光道中は宇都宮まで奥州街道を兼ね、千住から草加・春日部を通り幸手へと至り、ここで日光御成道と合流します。 川口・鳩ヶ谷・岩槻を抜けて幸手に至る御成道は、家光の時代に整備され、徳川家康を祀る東照宮に参詣する代々の将軍が通行しました。 また、地元で羽生道と呼ばれている道も合流しており、ここを多くの旅人が行き交ったことと思われます。 幸手市教育委員会 左上の写真で、手前が幸手駅へ向う日光御成道、右から合流するのが日光道中。この信号の左手に「ベルグ」がある。 左下の写真は、説明板に載っていた地図。 |
この信号から先の日光道中は、当HPの旧日光街道4回目以降を参照。
但し、幸手駅まではこのページでも紹介する。
【石仏群】 (右側) 14:00
合流点の信号を渡って直ぐ右の道を入ると墓地のブロック塀の前に石仏群。
【太子堂】 (右側) 14:01
直ぐ先右側に太子堂。説明等は何も無いが、隣に太子会館があるので太子堂と分かる。
【神宮寺】 (左側) 14:05
その先左側に神宮寺。参道には多数の石仏や石碑が集められている。
【神宮寺】 鷹尾山誓願院神宮寺と称し、浄土宗の寺で、本尊は薬師如来です。 源頼朝が奥州征伐の折に、この地で鷹狩りをし、戦勝を薬師様に祈って開基したとも伝えられ、この故事から鷹尾山誓願院の名がつけられたといわれています。 薬師如来像と脇の十二神将ともに立派な彫刻で春日賢門作といわれています。 中世の頃は、神宮寺村と村名になるほどの大寺で、一村寺領であったこともありました。 幸手市教育委員会 |
【神明神社】 (右側) 14:17~14:25
東武日光線の踏切を越え、左カーブした所の倉松川に架かる「志手橋」を渡ったすぐ先の右側に神明神社があり、入口に説明板が立っている。
【神明神社とたにし不動尊】
神明神社は、宝暦五年(1755)に伊勢皇太神宮の分霊を祀った神社です。 境内に成田・菅谷両不動尊があり菅谷不動尊は「たにし不動尊」ともいわれています。眼病の人が、たにしを描いた絵馬を奉納して祈願すればご利益があるといわれ、この絵馬は他にあまり例のないものです。その他に大杉神社の神輿や大正十二年(1923)の関東大震災の記念碑などの文化財があります。 神社の前の道は、江戸時代の五街道のひとつである、かつての日光道中です。志手橋を渡ったこの周辺は幸手宿の入口で、開発者の新井右馬之助にちなみ、右馬之助町と呼ばれていました。 また、江戸時代にはここに高札場があり、幕府の掟書や法令などを書いた高札が掲げられていました。 幸手市教育委員会 |
神社の説明板の下に几号高低標の説明板もあり、説明板の後ろにその記号が刻まれた灯籠の基礎部分が残っている。
【几号高低標(英国式水準点)】 この案内板の後ろの石は、以前神社に奉納された灯篭の基礎の部分で、長い年月の間に上部が壊れたために脇に置かれていたものです。 その側面に「不」(に似た形)の記号が刻まれていますが、これは「几号高低標」といいます。 明治七年(1874)にイギリス式の測量方法が導入され、東京・塩竃(宮城県)間の水準測量を行なった際に神社の鳥居や灯篭等に設置されたもので、横線は測量に用いる平板を表し、下の部分は三脚を表しています。 幸手市教育委員会 |
鳥居をくぐって境内に入ると、すぐ右に庚申塔、水神等の石碑が三基建っている。
先に進むと左右に沢山の社が建ち、一番奥に神明神社が建っている。
神明神社手前の左側に成田不動、その手前に菅谷不動(たにし不動尊)が建っている。(上記左の写真で、左手前の社。その後ろが成田不動)
【幸手宿まちなみマップ】 (右側) 14:26
神明神社の隣に、NPO日光街道幸手を感じる会が立てた幸手宿まちなみマップが掲げられており、10軒の旧家が紹介されている。
幸手は昔、幸手宿と呼ばれた宿場町です。日光街道と日光御成道が合流する交通の要として、おおいに にぎわいました。 |
【岸本家(上庄カフェ)】 (右側) 14:29
まちなみマップが掲げられている敷地に、旧岸本家が建ち、現在は再生されて上庄カフェとして営業している。
【岸本家】 国登録有形文化財 元醤油醸造業 上埜屋の屋号でパリ万博銅メダル 岸本家住宅主屋の再生 平成23年3月 国登録有形文化財「岸本家住宅主屋」は、かつて醤油醸造業を営み、屋号「上庄(うえしょう)」と呼ばれ、幸手宿指折りの商家として栄えていました。 当会では、往時の幸手の繁栄を物語る貴重な遺産であるこの建物を後世に伝え、また活性化の核として活用するため、国の補助事業を活用し再生を果たしました。 |
【明治天皇行在所跡】 (左側) 14:31
「幸手駅入口」信号の手前左角に明治天皇行在所跡があり、手前から説明板2枚、昭和十二年四月建設の石標、擦れて読めなくなった古い板の説明板、一番奥には『明治大帝行在所御跡 元帥伯爵東郷平八郎謹書』と刻まれた石碑が建っている。
【明治天皇行在所跡】 明治天皇は、明治九年六月奥州巡幸の際、十四年七月・同十月山形・秋田・北海道巡幸の際、二十九年十月近衛師団の演習天覧の際に幸手を通られ、明治九年には元本陣の知久家に、あとは右馬之助町の元名主であった中村家に宿泊しています。 この公園に、「明治大帝行在所御跡」と刻んだ記念碑、指定説明を記した説明板(台・屋根部分は復原したもの)、現在は効力を失っていますが、当時の史跡名勝天然記念物保存法による指定標識、の三点が移設され、保存されることになりました。 幸手市教育委員会 |
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【明治天皇行在所説明板】 (台・屋根部分は復原) 説 明 |
【小島商店】 (右側) 14:34
「幸手駅入口」信号を渡った右角に小島商店が建っている。
【小島商店】 薪炭商・繭糸(けんし)商 1937年(昭和12)建築 |
【正一位一色稲荷大明神】 (左側) 14:37
日光御成街道の旅も「幸手駅入口」信号で終わりとし、この信号を左折して幸手駅に向う途中の左側に正一位一色稲荷大明神がある。
【一色館跡と陣屋稲荷】 幸手駅附近一帯に、城山又は陣屋という地名が残っているが、ここは古河公方足利氏の家臣一色氏が館を構えた跡といわれている。一色直朝(なおとも)は天文年中(1532~55)に足利晴氏、義氏にしたがい、のち田宮庄(幸手庄)に住したという。直朝の子義直も幸手庄に父とともに住したが、小田原の北条氏没落後は徳川家康に仕え、幸手庄のうちにおいて五一六〇石余の領地を与えられている。 現在は昔をしのぶ土塁跡などは見ることが出来ない。ただ館跡と思われる位置から巽(南東)の方向に祀られている陣屋稲荷は、別名一色稲荷とも呼ばれ、一色氏の守り神として祀られた氏神であると伝えられている。 今でも地元の人々の信仰を集めており、毎月二十二日の縁日と、初午祭などの祭が行われている。 昭和六十二年三月 埼玉県 幸手市 |
7回目の旅終了(14:40)。幸手駅。
【本日の記録】
江戸時代の街道のみの距離は、8.6Km(「鹿室」信号~日光道中・日光御成道合流点)
本郷追分から、十一里二十一町(45.5Km) (日本橋からは一里を加える)。
寄り道を含めた実歩行距離は、11.4Km(「江ケ崎馬場」バス停~幸手駅) 累計:77.0Km
4時間20分 18,500歩。