2016年4月9日(土) 晴
「東十条駅南口」から前回終えた、駅入口の交差点に戻って、ここを9:55スタート。
(注:解説で街道の左側、右側とは幸手に向っての左右です)
「本郷追分~東十条駅(南口)」← 「目次」 → 「鳩ヶ谷駅~東川口駅」
【冨士神社】 (左側) 9:56
前回終えた街道に戻って、100m進むと左に「中十条二丁目児童遊園」があって、その隣に冨士神社がある。右側は「荒川小学校」。
塚になって、講が建てた記念碑が並び、頂上には小さな祠が安置されている。
また、頂上には北区保護樹木の「スダジイ」の木も聳えている。
【十条富士塚】 北区指定有形民俗文化財 十条富士塚は、十条地域の人々が、江戸時代以来、富士信仰にもとづく祭儀を行なって来た場です。 現在も、これを信仰対象として毎年六月三十日・七月一日に十条冨士神社伊藤元講が、大祭を主催し、参詣者は、頂上の石祠(せきし)を参拝するに先だち線香を焚きますが、これは冨士講の信仰習俗の特徴のひとつです。 塚には、伊藤元講などの建てた石造物が、三十数基あります。銘文によれば遅くとも、天保十一年(1840)十月には冨士塚として利用されていたと推定されます。 これらのうち、鳥居や頂上の石祠など十六基は明治十四年(1881)に造立されています。この年は、冨士講中興の祖といわれた食行身禄(じきぎょうみろく)、本名伊藤伊兵衛の百五十回忌に当りました。石造物の中に「冨士山遥拝所再建記念碑」もあるので、この年、伊藤元講を中心に、塚の整備が行われ、その記念に建てたのが、これらと思われます。 形状は、古墳と推定される塚に、実際の富士山を模すように溶岩を配し、半円形の塚の頂上を平坦に削って、富士山の神体の分霊を祀る石祠を置き、中腹にも、富士山の五合目近くの小御岳神社の石祠を置いています。また、石段の左右には登山路の跡も残されており、人々が登頂して富士山を遥拝し、講の祭儀を行うために造られたことが知られます。 平成四年三月 北区教育委員会 |
【西音寺】 (右側) 10:03
「東十条駅北口」入口を過ぎると、程なく右側に西音寺がある。
この寺は、新編武蔵風土記稿に「東ノ方ヲ望メハ近郷ノ田園ヲ見ワタシ又遠クハ筑波日光ノ山々ヲ望ミテ最佳景ト云ヘシ」と記されている絶景の地だったようで、三代将軍家光が日光社参の際にしばしば立ち寄り、景色を愛でたと伝える。
奥の山門から先は、関係者以外入山禁止となっているが、入口の門前左側に六面憧(ろくめんどう)と呼ばれる六角柱の石塔が建っている。
弥勒三尊と六地蔵が浮彫され、説明板等は無いが、宝暦二年(1752)と台座に刻まれている。
【清水坂】 10:16
環七通りを「馬坂歩道橋」で越えると下り坂になり、左にある「八幡山児童遊園」の所でJR東北本線に接する。
この下り坂を清水坂と言い、「児童遊園」のすぐ手前左側に説明板が立っている。
【清水坂】 十条の台地から稲村の低地に下る岩槻街道(旧日光御成道)の坂である。昔はけわしくて長い坂道だったので十条の長坂などとも呼ばれた。 切通しの崖からはたえず清水が湧き出ていたので、清水坂の名が付けられた。現在は崖が削りとられて、その跡に児童遊園が設けられているが、そこは貝塚遺跡でもあった。 |
【真正寺坂・道標】 (左側) 10:28
すぐJR線から離れ、埼京線のガードをくぐった少し先の「赤羽西交番」を左折した所に道標兼庚申塔が建ち、その後ろに真正寺坂の説明付標柱が立っている。
【真正寺坂】 岩槻街道沿いの赤羽西派出所から西へ登る坂です。坂の北側(赤羽西ニ-一四-六付近)に普門院末の真正寺がありましたが、廃寺となり坂名だけが残りました。坂の登り口南側にある明和六年(1769)十一月造立の庚申塔に「これより いたはしみち」と刻まれていて、日光御成道(岩槻街道)と中山道を結ぶ道筋にあたっていたことがわかります。かつて、稲付の人びとは縁起をかついで「しんしょう昇る」といって登ったそうです。 平成五年三月 北区教育委員会 |
【稲付の餅搗唄】 (左側) 10:31
次の道を左折すると突当りに普門院があり、その参道入口に稲付の餅搗唄と題する説明板が立っている。
【稲付の餅搗唄】 東京都北区指定無形民俗文化財
北区赤羽西ニ-一四-ニ〇 道観山稲荷社地内
江戸時代。ここは稲付村と称されていましたが、この先右側の社地でうたわれる餅搗唄は、住人が昔から餅を搗くときにうたった作業唄で、現在は、毎年二月の初午祭りのとき道観山稲荷講の人達によってうたい継がれています。
餅は正月を祝って鏡餅として神棚にそなえるとともに、これを雑煮にして食べたり、祝い事や保存食に使うためにも搗かれました。稲付の地域では、餅を搗く際に、臼のまわりに何人もの若者が集まり、唄をうたいながら小さい杵を次々と振り下ろして餅を練ったり搗いたりします。餅を練るときにうたったのが稲付千本杵餅練唄、餅を搗くときにうたったのが稲付千本杵餅搗唄です。唄は、大正十二年(1923)九月の関東大震災の前後までズシ(=辻子)と呼ばれる小地域共同体の若衆がモヤイ(=催合)と呼ばれる相互援助的な慣習によって家々をまわり、一晩かけて餅搗の手伝いをするときにうたわれました。しかし、米屋が餅の注文を取るようになると餅を搗く機会が次第に失われ、モヤイによる餅搗唄も姿を消してゆきました。
昭和四十年前後、赤羽西二丁目町会の役員が稲荷講の役員を兼ねていたのが契機となって、静勝寺の参道下から清水小学校までの街道沿いを氏子地域とする道観山稲荷講の人々が初午祭に際して餅搗唄を伝承するようになり、今日に至っています。
平成八年三月 東京都北区教育委員会
【普門院】 (左側) 10:32
普門院は山門も本堂も中国風。山門を入って正面に見える鉄のフェンスで囲われた大きな納骨堂がインパクト大である。
【稲付一里塚】
日本橋から3番目の稲付一里塚の説明板が、赤羽西2-8-19の民家前にあると言うが見付けられなかった。
【清勝寺(じょうしょうじ)】 (左側) 10:42~10:55
普門院の少し先、左に入った所に静勝寺がある。
石段の登り口に稲付城跡の石柱が建ち、石段を登った山門手前左側に城跡の説明板が立っている。
【稲付城跡】 東京都指定文化財(旧跡) 稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯あたり、太田道潅が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。 昭和六十二年(1987)、静勝寺南方面でおこなわれた発掘調査によって、永禄年間(1558~1569)末頃から天正十年(1582)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。 また、静勝寺に伝承する貞享四年(1687)の「静勝寺徐地検絵図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲築城の城塁配置を推察することができます。 この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道上の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。 道灌の死後、この城には孫の資高が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷五ヶ村を所領しました。 明暦元年(1655)に道灌の子孫太田資宗は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。 平成十三年三月 東京都北区教育委員会 |
山門(東側の門)をくぐると正面に、太田道灌坐像が祀られている道灌堂が建っている。
【木像太田道観坐像】 東京都北区指定有形文化財(歴史資料) 右手の道灌堂の厨子内には、太田道灌の坐像が安置されています。像は、道灌の命日である七月二十六日にちなんで毎月二十六日には開扉されます。道灌堂は道灌の二百五十回忌にあたる享保二十年(1735)七月に建立され、厨子は三百五十回忌にあたる天保六年(1835)七月に製作されました。 太田道灌(1432~1486)は室町時代の武将で、扇谷上杉家に仕えて三十余度にも及ぶ合戦に参加したといわれていますが、長禄元年(1457)四月に江戸城を築いたことで知られています。 像は頭を丸めており、道灌が剃髪した文明十年(1478)二月頃から同十八年に没するまでの晩年の姿を映しています。体には胴服を着ており、左脇には刀一振りが置かれています。正面を向き、右手で払子(ほっす)を執って、左手でその先を支え、左膝を立てて畳座に座しています。像高は四四・五センチ、構造は檜材の寄木造りです。頭部は前後ニ材矧ぎで玉眼を嵌入し、差首としています。胎内に納入されていた銘札によると、元禄八年(1695)静勝寺第六世の風全恵薫みよって造立され、以後、六回の修復が施されました。現在の彩色は、昭和六十二年(1987)四月に行なわれた修復によるものです。 像は、道灌が没してから二百年以上も後に造立されたものではありますが、その風貌を伝える唯一の木像として大変に貴重で、平成元年(1989)一月に北区の指定有形文化財に指定されました。 平成八年三月 東京都北区教育委員会 |
道灌堂の左手に南側の門があり、右手に本堂がある。
この寺に、中里介山(「大菩薩峠」作者)が下宿していたことがあり、その三畳床の間付の部屋が本堂の左側にある辨天堂に保存されているとインターネットで見つけたが、覗いても良く分からなかったし、一件しか見つからなかったので本当かどうかは不明。
<昼食> 11:00~11:45
すぐ赤羽駅西口ロータリーに着き、駅前地下街の「サイゼリア」で昼食をとった。
【宝幢院(ほうどういん)】 (左側) 11:54~12:02
西口ロータリーの北側でJR線のガードをくぐり東口に出たら、線路沿いに左折する。
直ぐ線路から少し離れて道成りに進むと、突当りに宝幢院がある。
【宝幢院】 宝幢院は医王山東光寺と称し、真言宗智山派に属する寺院で、本尊は薬師如来です。寛正二年(1461)宥鎮和尚によって開山され、約四百五十年後に深承阿闇梨及び宥意和尚が中興しました。『新編武蔵国風土記稿』には、慶安二年(1649)に三代将軍家光から赤羽根村内に十石余の年貢・課役免除の朱印を付されたことが記されています。寺伝や浮間の古老の言い伝えによれば、かつてこの寺は、浮間村西野(現在の浮間四丁目にほぼ相当)にありましたが、荒川の氾濫による洪水を避けて赤羽に移転し、跡地は宝幢院屋敷と呼ばれたそうです。 境内には、区内最古の寛永十六年(1639)霜月十八日銘の阿弥陀如来線刻庚申塔があります。板碑型の石塔本体正面には、阿弥陀如来立像とニ猿が線刻され、「山王廿一社」の文字を見ることができます。「庚申」という文字が無く、本来は三猿であるために、この塔を庚申塔と呼ぶかは議論が分かれますが、区外には、庚申信仰と山王信仰の結びつきを表した類似のモチーフがあるところから、この塔も両者の信仰が結びついて建立されたようです。 その他に馬持講中(当時馬を飼っていた資力のある村民)の人名を刻んだ馬頭観音塔や、出羽三山供養塔などがあり、この地の歴史を知る上で貴重なものとなっています。 平成十五年七月 東京都北区教育委員会 |
本堂前に正門があるが閉まっているので、右手の寺入口である脇門の前に道標が建っている。
【宝幢院前の道標】 門に向って右側の道標(みちしるべ)は、江戸時代の中期、元文五年(1740)十二月に了運という僧侶によって造立されたものです。 宝幢院の前は、板橋道が日光・岩槻道と合流する位置でしたので、銘文には「東 川口善光寺道 日光岩付道」・「西 西国冨士道 板橋道」・「南 江戸道」と刻まれています。日光・岩槻道は、岩淵宿から川口へと船で渡り、鳩ヶ谷・大門・岩槻の宿場をへて幸手宿で日光街道に合流する道筋です。江戸幕府の歴代将軍が徳川家康・家光の廟所のある日光に社参するための専用の街道としたので日光御成道とも呼ばれていました。板橋道は、西国へと向う中山道や八王子から富士山北麓の登山口へと向う富士道へ通じていました。 道標は、各々の方向からきた人々が、まず、自分の歩いてきた道を確認し、つぎに、これから訪ねようとする土地への道が、どの道なのかということを確認できるように造られたものです。 平成三年三月 北区教育委員会 |
道標のある門から境内に入り、左に進むと本堂がある。
その本堂に向う途中の右側(下記左の写真で、右隅の木の下)に、上記【宝幢院】の説明文にある阿弥陀如来線刻庚申塔が建っている。
【仙甚橋碑】 (左側) 12:06
日光御成道は宝幢院前の道標に突当って右折し、直ぐ先の「赤羽」信号で右(東)から来て北へ曲がる国道122号に合流する。
「赤羽」信号を渡った左側に仙甚橋(※)と刻まれた橋の碑が建っている。説明文等は無いので良く分からないが、このすぐ先に荒川が流れているので、かつては手前のここにも川が流れていたのだろうか。
(※)橋名は甚と表記したが崩し字で読めなかったので甚としたが・・・。
【岩淵宿】
岩淵宿は、岩槻街道の最初の宿で日本橋から三里八町の距離にある。
天保十四年(1843)の『日光御成道宿村大概帳』によると、宿高408石、戸数229軒、人口1251名、町並3町31間、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠3軒、問屋場1ヶ所。
宿は、宝幢院前から荒川(入間川)迄の間で、次の川口宿と合宿で、問屋業務を月の半分(16日~晦日)ずつ交代して行なっていた。
【岩淵宿問屋場阯之碑】 (右側) 12:12
「岩淵歩道橋」で右側に渡り、すぐ先の「小山酒店」隣のマンションの植え込みに、史跡岩槻街道岩淵宿問屋場阯之碑が建っている。碑には説明文も刻まれている。
【岩槻街道岩淵宿問屋場阯之碑】 本町は日光御成道一の宿駅にして日本橋より三里八町当地は問屋場の趾である 問屋場は宿場から宿場へ人馬を以て荷物などを逓送する際此の人馬の継縦をする役所であり 宿場の中心として人馬の往来輻輳した往時を偲ぶ為に碑を建て史蹟として保存するものである 昭和四拾壱年七月吉日 小山新七 誌 |
碑のすぐ先を右折すると、碑の裏側にあたるところに小山酒造場がある。
【新荒川大橋】 12:20~12:26
直ぐ「新荒川大橋」で「荒川」を渡るが、その前に「新河岸川」が流れている。
「新河岸川」と「荒川」の間には土手があり、「新河岸川」側に桜並木、「荒川」側に芝桜が植えられて見事だった。この土手から埼玉県川口市に入る。
【鎌倉橋の碑】 (左側) 12:39
「新荒川大橋」を渡り終えた「南中入口」信号を左折する。
直ぐ右へ下って、最初の信号を右折するのであるが、その左角の「鎌倉橋記念緑地」に鎌倉橋の碑が建っている。
【日光御成道と鎌倉街道】 日光御成道は中世の鎌倉街道中道をもとにして整備されました。鎌倉街道中道が通っていた頃より、この地は奥州への要所でした。『義経記』には、源義経が奥州から鎌倉に向う際に小川口(現在の川口市)で兵をあらためたと記されています。 御成道が将軍社参にふさわしい道として整備されたのは寛永年間(1624~44)といわれています。 荒川北側の小川に架かっていた土橋は鎌倉橋と呼ばれ、江戸時代においても重要な橋の一つで、たびたび修築を加えられ昭和初期まで残されていました。しかし、荒川の河川改修などにより消滅し、現在はこの緑地内にかつての橋の存在を記念して、石碑が建てられています。 |
|
【鎌倉橋の碑】 昭和三十五年八月 鎌倉橋はかつて荒川のかたわら舟戸が原を流れていた小川にかけられた橋でこの碑の南方約一ニ〇メートルの地点現在川口市立南中学校の校庭にその礎石を残しています。鎌倉橋と呼ぶその名はこれが奥州へ通う枢要な鎌倉街道に架設されていた橋であることを示しています。義経記にも治承四年(1180年)源義経が兄頼朝の挙兵に応じて平泉を発し武蔵国足立郡こがわぐちを過ぎる時従う軍勢は八十五騎と記して当時すでにこの地が奥州への街道の要所であったことを伝えています。わが川口はこの街道の道筋として発展し今日のこの繁栄の基を築いたもので鋳物業がこの地に興ったのも実にこのためであります。鎌倉橋の史蹟はこの次第を語りわが市の遠い起源をここに伝えています。郷土川口の限りない進展を願うわれらはこの史蹟の語る声なき声に本市創始のいにしえをしのび雄大なる未来創造の英気をここにくみとりましょう |
【川口宿】
天保十四年(1843)の『日光御成道宿村大概帳』によると、宿高668石、戸数295軒、人口1406名、町並13町57間、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠10軒、問屋場なし。
【川口宿と周辺の町並み】(『明治20年頃の川口町概略地図』を参考に作成) 荒川端から元郷村までを宿域とし、長さ13町57間(約1,522m)の道筋に家並が立ち、御成道の西側の裏町、横小路にも家並が広がっていました。 川口宿内の日光御成道は、現在の本一通りにあたり、今も通りの両側には当時を偲ばせる古い商店などがあります。 後述、【川口宿の碑】がある緑地に立つ説明板の町並外略図より |
「本一通り」は、本町一丁目の真中を貫いている鎌倉橋の碑から本町2丁目との境までの道である。
江戸時代に川口の伝統産業である鋳物業、織物業、植木が盛んになり、江戸に近いと言う事で、鍋・釜などの日用品が急速に増えていった。
川口と言えばかつて「キューポラのある街」で知られたが、現在は東京のベットタウンとなり、鋳物業は移転や廃業でキューポラ(鉄を溶かすシャフト型の溶解炉)は無くなってしまった。
【浜田接骨院】 (右) 12:46
川口宿に入ると古い建物が多く残っており、まず二本目の十字路右側にある明治時代に建てられた浜田接骨院が目を引く。
【本陣門】 (左奥) 12:48
浜田接骨院の次の道を左折した右側に本陣門が残っている。街道に面していないが永瀬平次郎本陣である。
【川口宿の古い建物】
本陣の少し先右側の中西日進堂薬局や、宿の外れ右側の福田屋洋品店が目についた。
【川口宿絵図】 (左側) 12:54~13:02
日光御成道は「福田屋洋品店」の角を右折し、「本町ロータリー」の歩道橋を渡って右斜めの岩槻街道(国道122号)へ進むが、「福田屋洋品店」から「本町ロータリー」にかけて、沢山の道路が複雑に斜めに交差している。
「福田屋洋品店」で道路に出たら、斜めに接している産業道路との間の三角地に緑地があり、そこに川口宿の説明板が立っていて、街並み図(上記【川口宿】に添付)や日光御成道の経路図が載っていた。
また、緑地内には川口宿絵図の碑も建っている。
北側(産業道路)から「川口宿」出口に向って撮影 |
【日光御成道と川口宿】 日光御成道は、中世の鎌倉街道中道をもとにして、徳川将軍が日光社参を行うための専用道として整備されました。本郷追分で中山道と分かれ、岩淵、川口、鳩ヶ谷、大門、岩槻の5宿を経て、幸手追分にて日光道中に合流する12里余(約48Km)の道です。 日光社参は、徳川将軍が日光山に赴き、東照大権現(家康)、大猷院(家光)といった先祖の霊廟を詣でる行事です。社参は元和3年(1617)二代秀忠から始まり、天保14年(1843)十二代家慶まで17回行なわれており、その中でも秀忠が4回、家光が9回を数えます。社参が川口宿を通ったことが分かっているのは6回で、錫杖寺が御休所として使われました。 川口宿は、本郷追分から二つ目の宿場です。宿の機能には、運輸・通信・宿泊などがあり、最も重要なのは、公用で通行する貨客に対して人馬を提供し、これを輸送することでした。日光御成道の宿駅の役割としては、川口宿は荒川を挟んだ一つ目の宿である岩淵宿との合宿になっていました。合宿とは、二つの宿で一宿分の業務を行なう宿のことで、半月ごとに業務を交代で行なっていました。 『日光御成道宿村大慨帳』〔天保14年(1843)〕によると、当時の川口宿の人口は1,406人、家数が295軒で、この内、本陣・脇本陣、旅籠、諸商店などがあり、また裏町には鋳物を生業とするものが10数名いると記されています。 |
【日光御成道の経路図】
【川口宿絵図】
タイルによる鋳物業の絵と川口宿の町並図が嵌め込まれていた。 |
【凱旋橋跡】 (左奥) 13:04
「本一通り」を出た所(「福田屋洋品店」)から産業道路を越えてほぼ真直ぐの道があり、その道を進むと突当りに錫杖寺がある。
しかし、産業道路は歩行者横断禁止の為、右に迂回して「本町ロータリー」の歩道橋を渡ってこなければならない。
その真直ぐの道を進むと、錫杖寺の手前右側に橋の跡が残り、凱旋橋と刻まれている。
【凱旋橋跡付凱旋橋之碑】 川口市指定記念物 史跡(平成21年6月24日指定) 日露戦争終結の翌年の明治39年(1906)5月13日に挙行された川口町(当時)出身兵士の凱旋祝賀会に際し、凱旋パレード通過点として当時ここを流れていた錫杖寺杁(いり)用水に仮設された石造アーチ型の凱旋橋の遺跡です。橋は同年1月に、たもとに建設された凱旋橋之碑と共に竣工し、2月18日には開通式が行なわれました。由来などを記した凱旋橋之碑は、現在、川口神社境内に移設されています。 川口の鋳物業は、日露戦争(1904~1905)を契機として砲弾や機械部品などの製造が盛んになり、工場数も倍増し大量受注大量生産体制が確立しました。これが戦時体制下での鋳物生産体制に組み込まれたことにより、技術の進展と相まって飛躍的に近代化が図られるようになったのです。 この凱旋橋は、江戸時代にあっては日光御成道川口宿の北の玄関口に位置し、続く近代には本市を代表する地場産業である鋳物業発展のエポックとなった日露戦争とこれにかかわった人々の記憶を留めている貴重な歴史遺産です。 川口市教育委員会 |
【錫杖寺】 (左奥) 13:05~13:20
上記の写真の突当りに見える寺が錫杖寺である。この門から境内に入った左側に銅製の説明板が立っている。
【錫杖寺】 養老元年(717)に行基が本堂を建立、自ら地蔵菩薩を刻み本尊とし開基したと伝えられています。のち、北條時宗の帰依を受けた鎌倉長楽寺開創の願行上人が再興、寛政元年(1460)には、室町幕府8代将軍足利義政により七堂伽藍が整備され、中興の祖宥鎮和尚を晋住させました。以降、醍醐三法院直末関東七ヶ寺の一つ、十一談林所の一つとして末寺53ヶ寺を有する名刹として栄えました。 元和8年(1622)には江戸幕府2代将軍徳川秀忠の日光社参の際の休息所となり、以降歴代将軍より利用されました。また、3代将軍家光からは金子、材木を拝領し、御成門を建立するとともに、御朱印20石を賜わるなど、”川口宿”の中核寺院として繁栄しました。 埼玉新聞社刊「埼玉県宗教名鑑」を一部改編 |
|
【川口宿と錫杖寺】 左の図は、旧川口宿の本陣であった永瀬洋治家に伝わる文政4年(1821)に描かれた『川口宿絵図』です。この図からは、将軍家が日光社参のために整備した、日光御成道の岩淵宿につぐ第二の宿場として発達した。旧川口宿の王子の姿をうかがうことが出来ます。街道に沿って町屋が軒を並べ、その西側には裏町が形成されていたことも見てとれます。現在「本一通り」として、その景観の一部を残しています。なお、「鋳物のまち」として川口は、この裏町を中心に発達した。 錫杖寺は、この宿の北のはずれに位置しています。まさに川口宿のかなめとして、町の発展を見守り続けてきました。 |
上の写真の山門を入るとすぐ左手に川口天満宮と福禄寿尊を祀る祠が建っている。
【川口天満宮畧縁起】 天満宮は天満大神(菅原道真公)を祀る(845~903年)社である。菅原道真公は野見宿彌の子孫であり大和国菅原の地名により菅原宿彌となり、後に朝臣となる。代々文章道をもって朝廷に仕えたが、延喜元年大宰権師に左遷され、翌々年全所で死去、その後雷神信仰と結び、中世以後各地で寺社の中に祭られ盛行した。 当山に安置する天満宮は、もとは境外西の方にあり御神体は今からおよそ一、一〇〇年前菅公自らの作として伝えられ、梅樹の根より穿出せしものとゆう「武蔵風土記稿第七巻」。 学問・文芸の神様として知られ、二月二十五日が菅公の命日、毎月二十五日が縁日として多くの方々の信仰を集め、今日に至っている。 平成三年一月 錫杖寺 |
福禄寿尊の右隣に鐘楼が建ち、その隣に弘法大師像が建っている。
【銅鐘】 埼玉県指定有形文化財(工芸品) (昭和33年3月20日指定) この銅鐘は、池の間(鐘の中央部分)に刻まれている銘文から、寛永8年(1641)9月、川口宿名主である宇田川氏が先祖供養の施主として川口鋳物師長瀬治兵衛守久が鋳造し、菩提寺である錫杖寺に奉納したものです。 銅鐘の製法は右に示すとおり湯(溶解した金属のこと)を型に4回に分け流し込んで造られています。形状は、総高132cmと比較的小型ですが、型抜きの良い細身の美しい形をしています。上部の鋳型の継ぎ目を隠すための庇状の突起は江戸時代初期の鋳法の特徴を示し、他の間には由来が記されています。また、吊り手の竜頭は精巧で美しい形をしており、近世初期の工芸品として、また、川口を代表する地場産業である鋳物業の歴史をたどる上でも大変貴重な資料です。 |
正面の高い所に本堂が建ち、本堂の左脇から墓地に入って行くと大奥御年寄瀧山墓地がある。
右上の三基の石塔の内、中央が御年寄瀧山、右が叔母の染島、左が侍女の仲野の墓で、写真には写っていないが右手前に瀧山の子孫の新しい墓が建っている。
御年寄瀧山(中央の石塔)の表面には『明治九子年 瀧音院殿響譽松月祐山法尼 一月十四日』、裏面には『東京府士族 東京南伊賀町住 七代目主 大岡権左衛門長女 徳川家大奥老女俗称瀧山 行年七十一歳』と刻まれている。
また、叔母の染島(右の石塔)の表面には『明治八亥年 開染院超譽智聞得生 二月二十二日』、裏面には『東京四谷南伊賀町住 士族六代目 大岡孫右衛門義安女 大奥相勤俗名染嶋』と刻まれている。
【瀧山】 (1805~1876)
江戸時代の鉄砲百人組・大岡義方の長女。14歳で大奥に上がり、第十三代将軍家定・十四代将軍家茂の将軍付御年寄まで登り詰める。
病弱な家定には子がなく、後継者問題が浮上した時、瀧山は家定の母・本寿院らと共に南紀派(慶福を押す派)に属し、篤姫等が押す一橋派(慶喜を押す派)と対立した。
家定が重態となると、南紀派は井伊直弼を大老に据えて、家定の名で慶福を指名した。一説では慶喜を嫌った家定自身が慶福を指名したとも言われている。家定が没すると慶福は家茂と改名して十四代将軍となる。
家茂を将軍とした井伊直弼は、一橋派等の反対派を粛清(安政の大獄)に乗り出して行く。
【元郷一里塚跡】 (左側) 13:03
岩槻街道に戻り、芝川に架かる「上の橋」を渡ると「川口元郷駅」がある。
「川口元郷駅」信号を越え、次の信号を渡ったすぐ左のマンションの植え込み奥に元郷一里塚跡の石碑と古峯神社の石碑が並んで建っている。
日本橋から4番目の一里塚。
【旧田中家住宅】 (右側) 13:35~14:05
「十二月田」信号で右側に渡ると、直ぐ先に旧田中家住宅が建っている。
公開時間 午前9時30分~午後4時30分(入館は4時まで)
休館日 月曜日(月曜が祝日の場合は、その直後の平日)
祝日の翌日(その日が休日または月曜日の場合は、直後の平日)
年末年始(12月29日~1月3日)
入場料 一般 200円
【旧田中家住宅】 登録有形文化財 大正12年(1923)に竣工した県下有数の本格的洋風住宅。木像煉瓦造三階建の洋館と、昭和9年(1934)に増築された和館の他、文庫蔵、茶室、池泉回遊式庭園、煉瓦塀により構成されている。 田中家は、代々長男が家督を相続して「徳兵衛」を襲名している。初代(1795~1871)が農家として身を立て、二代目(1828~1905)からは麦味噌の醸造や材木商で財をなした。 若くして亡くなった三代目を次いだ四代目も味噌醸造業・材木商で財を築き上げ、昭和7年(1932)に貴族院多額納税者議員にも就任した。 この四代目が大正10年から12年にかけて、最高級の建築資材にこだわり、当時としては非常にモダンな洋館を建設し、建築費用は総額18万円(現在の2億5千万円)といわれている。 |
【上田一味噌の醸造】
南平地区では、良好な大麦が採れたこと、良質な水に恵まれたいたことなどから、江戸時代末期から昭和50年代まで麦味噌の醸造が盛んで、本市の重要な地場産業でした。最盛期は、大正12年頃から昭和51年頃までで、当時は「アズマイチ(東一)」・「モトイイチ(元一)」・「カイチ(力一)」など8軒ほどがありました。
田中徳兵衛商店は、当所材木商などを営んでいましたが、明治4年(1871)に味噌醸造業創業し、「上田一(ジョウタイチ)味噌」の名で広く知られていました。田中徳兵衛氏は、埼玉味噌醸造組合長も務め、後に米味噌(「上田」)の醸造を開始し、味噌卸売業を創業するなど、業界の発展にも努めてきましたが、昭和35年にここでの味醸造業に終止符をうちました。
大広間 客間 庭園
【庚申塔と不動堂】 (左側) 14:12
「末広」信号を越えた、次の左へ入る道の角に薬林寺入口の標柱が立ち、その脇に庚申塔と不動堂が建っている。
【実正寺】 (右奥) 14:32~14:40
埼玉高速鉄道の「南鳩ヶ谷駅」ロータリーを右に入った先に實正寺がある。
この寺には、何度修理しても左手首が欠けてしまうという伝説の手かけ地蔵があるとのことだったが、境内には説明板等も無く分からなかった。弘法大師作との言い伝えがある小さな地蔵だそうで、本堂にあるのかも知れない。
また、山門を入って左奥に六地蔵、阿弥陀庚申塔や鳩ヶ谷八景・五反田落雁の碑等が建っている。
【阿弥陀庚申塔】 川口市指定有形民族文化財(昭和58年4月1日指定) 庚申塔とは、庶民に広まった庚申信仰のもと、講を結んだ人々により、現世未来の安楽祈願や永代供養などのために建立された塔です。 これは、江戸時代前期の寛文五年(1665)十月八日に建立されました。形は舟形で、主尊は非常に珍しい図像の阿弥陀如来、下部に庚申供養塔の刻字とともに見ざる、聞かざる、言わざるの三猿と二羽のにわとりが彫り出されています。刻字には、中居村の中村姓五人と鈴木姓一人の建立者名がみられます。 平成二十一年二月一日 川口市教育委員会 |
鳩ヶ谷八景は昭和3年に選定されたもので、松原の晴嵐、境橋の秋月、芝川の帰帆、五反田の落雁、浅間山の夕照、地蔵院の晩鐘、氷川社の夜雨、法性寺の暮雪でなっている。
ここ実正寺にあるのは五反田の落雁で、下の写真の左の石碑である。
中央の石碑には『奉巡拝秩父各霊場供養塔』、右は『登都路稲荷大明神』と刻まれている。皆と同じ様に”トトロ稲荷”と読みたくなってしまうが、どこにあった神社なのか?
【鳩ヶ谷八景・松原晴嵐の碑】 (左側) 14:52
「南鳩ヶ谷駅」信号に戻って岩槻街道を北上。新芝川に架かる「鳩ヶ谷大橋」を渡って直ぐ左側の「鳩ヶ谷変電所」前の植え込みに鳩ヶ谷八景・松原晴嵐の碑が建っている。
【日光御成道と松原晴嵐(鳩ヶ谷八景)の碑】 この道は、江戸時代に徳川将軍家が日光社参に使用した日光御成道で、川口宿からここを通り鳩ヶ谷宿まで松や杉の並木が続いていました。残念ながらこの並木は、昭和40年(1965)の国道122号線の拡張により切り倒されました。 しかし、当時の並木は、時折吹く風に並木の梢が鳴って、一幅の絵のようであったことから、町の有志が鳩ヶ谷八景ひとつとして「松原晴嵐」と名づけ、この石碑を建てました。 変電所前の国道から分岐する県道さいたま・鳩ヶ谷線が、日光御成道を踏襲する道で、北進すると鳩ヶ谷宿に至ります。 |
【鳩ヶ谷宿】
「鳩ヶ谷変電所前」信号で道は二股に分かれ、日光御成道は岩槻街道(国道122号)と分かれ右の県道105号線を進む為、「三ッ和歩道橋」を使って左側に渡る。
「三ッ和丁字路」信号を越え、次の「鳩ヶ谷庁舎(西)」交差点で左側の中央分離帯を見ると『ここから北 日光御成道 鳩ヶ谷宿 平成二十二年三月』と刻まれた大きな石碑が置かれている。
天保十四年(1843)の『日光御成道宿村大概帳』によると、宿高406石、戸数217軒、人口906名、町並4町20間、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠16軒、問屋場1ヶ所。
【鳩ヶ谷の歴史】 日光御成道は、中世の鎌倉街道中道をもとに整備された道で、鳩ヶ谷は交通の要衝として発展してきた。 戦国時代は、関東一円を支配していた北条氏が鎌倉街道を利用して交通網を作り上げ、鳩ヶ谷にも伝馬宿を設けた。 江戸時代、日光御成道となると、鳩ヶ谷も近世的な宿駅として整備され、街道に沿って家屋敷が並ぶ町並みはこの時に形成されたと考えられる。 |
【紀伊殿鷹場定杭跡】 (右側) 15:08
「鳩ヶ谷庁舎(西)」交差点を渡って直ぐ先の駐車場前に紀伊殿鷹場定杭(さだめぐい)跡の説明板が立っている。
【紀伊殿鷹場定杭跡】 鷹を使って鳥などを捕まえる鷹狩は、江戸時代には、有力大名にだけ許されていました。その目的は、娯楽と共に、農民の生活の状況を視察したり、体を鍛える軍事訓練にもありました。 江戸時代の鳩ヶ谷周辺は、南の辻村や小渕村までは徳川将軍家、鳩ヶ谷宿から北は御三家の紀伊徳川家の鷹場に指定されていました。この鷹場定杭は、その境を示しています。 杭の大きさは、辻村にあった鷹場定杭の記録では、7寸(21cm)角で高さは1丈3尺(3.9m)、杭の周囲には囲いが施されていました。 |
【江戸時代の宿村境】 (左側) 15:10
紀伊殿鷹場定杭跡説明板の向い側(と思う)に、江戸時代の宿村境の標識が立っていた。
←辻村|鳩ヶ谷宿→
辻村は平柳領、鳩ヶ谷宿は舎人領でした。
【保坂家】 (右側) 15:11
次の信号手前右側に古そうな民家、保坂家が建っている。
【とんぼ橋】 (左側) 15:13
信号を渡った、「吉田燃料店」の角にとんぼ橋の説明板が立ち、その下に石材が置かれていた。
【とんぼ橋】 川口市指定有形文化財(歴史資料) (昭和55年8月7日指定)
この刻字の延宝五年・丁巳(1677)は見沼代用水完成の五十一年前で、すでに開削され流れていた用水(平柳用水の前身)に掛けられていた石橋だということがわかりました。 |
【千住道・蕨道】 (左右)
とんぼ橋説明板の下に、江戸時代の道・千住道(せんじゅみち)の案内板が掲げられていた。
この「吉田燃料店」のある信号を右折して日光街道につながる道を千住道と呼んでいた。
また、この信号を左折して中山道の蕨宿へ通じる道は江戸時代の道・蕨道で、入口に案内板が立っている。
次の「昭和橋」信号で今回の旅を終了し、この交差点を左折した先にある鳩ヶ谷駅より帰宅。
2回目の旅終了(15:20)。「昭和橋交差点」。
【本日の記録】
江戸時代の街道のみの距離は、9.2Km(東十条駅南口入口交差点~昭和橋交差点)
本郷追分から、三里三十四町(15.5Km) (日本橋からは一里を加える)。
寄り道を含めた実歩行距離は、11.7Km(東十条駅~鳩ヶ谷駅) 累計:21.8Km
4時間30分 18,700歩。