大山街道(7) 海老名駅 ~愛甲石田駅
2015年9月22日(火) 晴
「海老名駅」を9:20スタート。
(注:解説で街道の左側、右側とは大山に向っての左右です)
「南町田駅 ~ 海老名駅」 → 「目次」 → 「愛甲石田駅 ~ 子易バス停」
【一大縄(いちおおなわ)】 (右側) 9:29
海老名駅から大山街道(厚木街道)に出て、小田急小田原線の跨線橋を越えたすぐ先の右側に建つ中央図書館前にいちおおなわと書かれた金属板が橋の欄干の様な柵に取り付けられている。
「国分坂下」から「河原口」の七曲り迄、約2Kmの直線道路は一大縄と呼ばれ、中世の条里制(日本古代の耕地の区画法で、耕地を6町間隔で縦横に区切り、6町の列を条、6町平方を里と呼んだ)の遺構であるとのこと。
四角形に区画した水田を整地して農民に貸し与えたのだが、その区画の東西の基準線になったのが一大縄と云うらしい。
【道標兼庚申塔】 (左側) 9:50
JR相模線の踏切を渡った次の「河原口信号」を過ぎた先で厚木街道(県道51号)は左に曲がって行くが、大山街道はここでは曲がらずに次の十字路を左折。すぐ次の道を右折する。
左側「海老名市立歴史資料収蔵館」の前を通り、突当りを左折。更に次の道を右折するが、その左側に道標兼庚申塔が建っている。
かなり風化しているが、正面に『庚申塔』、左側面に『右大山 此方江戸 道』と刻まれている。此方とは手前という意味である。
【河原口宿】
JR相模線の西側、相模川沿いの河原口村(現在の河原口町)は小規模な宿場だった。
一大縄の西端から左へ右へと、街道がつづら折りに七回も曲がっていたので七曲りと呼ばれていた。
【厚木の渡し場】 (右奥) 9:58
上記庚申塔前を右折し、斜め右後からの道と合流した所を左折。次の道を右折、右角に「都元自動車整備工場」がある。
圏央道の高架をくぐり、真直ぐ進むと相模川の河原にぶつかる。ここが厚木の渡し場(江戸側)だった所である。
説明文等は無いが、振り返ると桜の木の下に『(ら) 爛漫の 桜堤に 渡船跡』と書かれた木柱が立っていた。
【あゆみ橋】 10:08~10:15
現在は渡し船が無いので、少し戻って河原の砂利道を南下し、左手に見えるあゆみ橋を渡る。
左下の写真はあゆみ橋の海老名側口、右下の写真は橋の上から見た相模川上流で、厚木の渡しが行なわれていた場所。
【じょう橋】 (右側) 10:16
あゆみ橋を渡ると厚木市に入る。渡りきった土手の道を右折する。
右折して直ぐ先右下の河原に下りる階段の降り口にじょう橋の碑が立っている。
【じょう橋】 相模橋のことを言う。れっきとした名前がありながら庶民の思いにより愛称されたじょう橋。昔は渡船で渡ったが明治末期に常設橋が架かり、常に在る橋、常に渡れる待望の橋、そんな思いから自然に言い伝わってきたロマンを秘めた橋、現在はあゆみ橋。 |
【厚木村渡船場跡・渡邊崋山来遊記念碑】 (左側) 10:21
そのまま土手道を北に進むと。左うしろからの道と合流する。その合流した三角地に厚木村渡船場跡の説明文と厚木の渡しの碑が建っている。
【厚木村渡船場跡】 厚木市指定史跡(昭和36年10月21日指定) この地は、矢倉沢往還や藤沢道、八王子道が相模川を渡る渡船場で、常時五艘の舟が備えられ、旅人などに利用されていました。 江戸時代に刊行された『新編武蔵国風土記稿』の記述によると、冬の渇水期には土橋が設けられていました。 この渡船場の厚木側の権利は、厚木村と溝呂木家が持っていました。溝呂木家の権利は、徳川家康から与えられたものと伝えられています。 天保二年(1831)九月、矢倉沢往還を通って厚木を訪れた渡邊崋山は、「厚木六勝」図を残していますが、その一つ「仮屋喚渡(かおくかんと)」は、この場所を描いたものです。 明治四十一年(1908)、相模橋の開通によって、この渡船場は廃止され、その役目を終えました。 平成三年三月 平成二十一年三月再調 厚木市教育委員会 【厚木の渡し】 相模川をわたるために設けられた渡船場で、海老名市河原口とをむすび、五艘の船で往来していた。 |
また、同じ囲いの真中に大きな渡邊崋山来遊記念碑も建っている。碑文はかなり擦れていた。
【渡邊崋山来遊記念碑】
渡邊崋山は天保二年九月廿二日から数日當地に滞留しその繁盛に驚き厚木の盛んなること都とことならず家のつくりさまは江戸にかわれども女男の風俗かわる事なしと遊相日記にしるしている 崋山三十九歳のときである このおり彼は邑内の風雅を愛する人たちを集めて歓談し需めに應じて厚木六勝を描いた 雨降晴雪 假屋喚渡 相河清流 菅廟驟雨 熊林暁鴉 桐堤賞月がそれで崋山来遊から百三十年 ことの忘れ去られるを慮り大略を記してのちに傳える
厚木市長 石井忠重識
武藤 實書
更に、渡邊崋山記念碑の左隣には八州路の歌碑も建っている。
河音に さかろう月の 風もなし 八州路 足立八州路 本名は康治 明治廿八年大神の小泉家に生まれ 幼少の頃 沼目の足立家の人となり 永年厚木に住して一男四女を挙ぐ 少年時代より俳句を好み 大正十年臼田亜良の門に入りてより 川戸飛鳰とともに俳誌甍を刊行し 石楠の誹風を挙揚すると同時に後進の指導につとめ 地方文化振興のために貢献さる 仍て茲に喜寿を慶祝して句碑を建立す 昭和四十七年秋 旧知 高瀬慎吾誌 |
【厚木宿】
江戸から13里(51.0Km)。相模大橋を渡った所が上宿、南へ中宿、下宿と続く。天保期で三宿合わせて約三百三十軒。
平塚から八王子を結ぶ八王子道や、相模川の物流輸送などで、交通の要所だったことから、小江戸と云われて繁栄した宿であった。
慶応三年(1867)と明治十五年(1882)の大火で宿は焼失。
通常、京に近いほうが上宿で、江戸に向って下宿になるが、厚木宿は逆転している。これは、江戸時代に入ると『江戸の方が上』という発想が起きた為と考えられるからだそうだ。
厚木村渡船場跡から、左うしろから合流した道へ折り返して県道601号を南下する。
ここから「東町郵便局前交差点」迄の間、両側の商店には木製看板と、シャッターにはそれぞれの店を表わす江戸時代の絵が描かれていた。
【厚木神社】 (左側) 10:34~10:43
「東町郵便局前交差点」を渡ったすぐ先の左側に厚木神社がある。
鳥居をくぐって正面に社殿、右側の狛犬の前にあつぎお天王様の地碑が建っている。
【厚木神社由緒】 円融天皇(999~984)の時代、藤原伊尹公より勧請されたと伝えられたと言われております。鎌倉時代には那須与一が眼病平癒祈願をした伝説や、江戸烏山藩の陣屋が設けられた事等から厚木草創期より郷民の安寧と、政治経済の中心として尊敬されていた事が伺えます。 厚木神社の尊称は明治維新以後の名称であり、それ以前は牛頭天皇と称し今でも一般には「お天王様」と言われ、例祭には参詣の人々で大いに賑わいます。 明治六年に船喜多神社と熊野神社を合祀し、明治四十年には神奈川県より郷社に列格されました。 |
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【あつぎお天王様の地】 平安時代より疫病除けの神として牛頭天王が祀られ那須与一も眼病祈願をし、厚木のお天王様として親しまれた。 夏祭りはお盆とも重なり近郷近在より、田植え後の老若男女が繰り出し、露店や見世物小屋も掛かり、人の波で沸き、賑やかさを呈した。 現在は、厚木神社と称し崇敬されている。 |
【烏山藩厚木役所跡】 (左奥)
厚木神社の左脇の道を相模川の方に行くと、神社の斜め左うしろ(厚木東郵便局の裏)に烏山藩厚木役所跡の碑が建っている。
【史跡 烏山藩厚木役所跡】 この地は享保十三年(1728)下野国烏山城主大久保常春の所領となるにおよび相州領支配のため厚木役所が置かれて以来明治維新まで百四十年にわたり領内支配をはじめ厚木村の政治経済などの関する行政が行なわれ宿場商家町の発展に大きな役割をはたしてきたのである 明治維新後ここには郷学校成思館愛甲郡役所厚木町役場厚木税務署厚木小学校などの建物が置かれ昭和三十年二月一日厚木市制施行により厚木市役所となった昭和四十六年■■移転まで約ニ百五十年間行政機関の所在になった由緒ある所である ここを厚木市史跡に指定するに際しての大略を記して後世に伝えるものである 厚木市長 石井忠重 |
【渡邊崋山滞留の地】 (左側)
厚木神社を出て、隣の「岩崎人形総本店」の先に渡邊崋山滞留の地碑が建っている。
碑の正面には、『渡邊崋山滞留の地 厚木市長足立原氏徳書』 右側面には、『天保二年九月二十二日より二十四日に至る 旅籠萬年屋古郡平兵衛の屋敷跡』 左側面には、『昭和六十年春 厚木市制施行三十周年記念 平塚信用金庫』 と刻まれている。 |
【最勝寺(さいしょうじ)】 (右側) 10:55
小田急小田原線のガードをくぐり、「旭町三丁目信号」を越えた右側に最勝寺がある。
門を入って、正面に本堂、すぐ左手に閻魔堂が建っている(右下の写真)。
上杉謙信が再興した禅宗の寺で、次の言い伝えがある。
僧が背負っていた阿弥陀様がこの地で動かなくなり、安置し祀ったところ村の疫病がたちまち治ったとのこと。
【熊野神社】 (右側) 11:00
最勝寺の直ぐ先、右側に熊野神社がある。
鳥居をくぐって、すぐ左に渡邊崋山「厚木六勝図」熊林の暁鴉と書かれた標柱が、隣に句碑が建っている。
正面に小振りの社が建ち、その背後には社に覆いかぶさるようなイチョウの大木が存在感を示している。
【熊野神社のイチョウ】 市指定天然記念物 熊野のイチョウで知られるこの木は、根元で幹の直径が三メートル余りあり、途中で幹が二つに分かれています。 樹齢は四五〇年ぐらいと思われ、木の幹には乳状下垂が見られ、古木であることを示しています。 この付近は、古くからうっそうとした熊野神社の森で、天保二年(1831)に厚木を訪れた三河田原藩士(現・愛知県田原町)渡邊崋山が描いた「厚木六勝図」の一枚「熊林暁鴉」(ゆうりんのぎょうあ=熊野の森に明け方群がる鴉)は、その風景を描いたとされています。 平成二年三月 厚木市教育委員会 |
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【歌碑】 熊林暁鴉 橿家甘人 たまの逢瀬も 夜が短くて にくい熊野の 明け鴉 昭和六十年 厚木市制30年記念 |
熊野神社の鳥居の前に、『あつぎの文化財獨(ひとり)案内板』が立っていて、付近の観光地図と史跡・文化財等の案内が書かれていた。
【大山道】
厚木宿を南北に通過する矢倉沢往還からにしに向う二条の道で、一つは現中央通り(旧国道246号線)で恩名から船子へ向い、もう一つは厚木宿の南の端の下宿立場跡から大山を正面に見て、文化会館横を通り西に向かいます。二つの道は恩名横町で合流します。
【①イチョウ(熊野神社)】
樹齢450年と推定される古木です。幹には乳状下垂(幹や太い枝の表皮の一部が垂れ下がったもの)が見られ、古さを示しています。熊野神社付近は、古くから「熊野の森」と言われ、渡辺崋山の「厚木六勝」図の一つ、「熊林暁鴉」図はこの森を描いたものです。0
【②きりんど橋】 (次の項で紹介)
現ソニー向上の前の厚木用水に架かっていた橋で、堤に桐が植えられていたことから「桐辺橋(きりべばし)」、後に「聖代橋(きりんどばし)」と呼ばれました。現在、橋はなく高瀬慎吾建立の歌碑があります。渡邊崋山の「厚木六勝」図の一つ、「桐堤賞月(どうていのしょうげつ)」は、桐辺の堤の月景色の美しさを描いたものです。
【③黒田黙耳の墓(宝安寺)】 (この先にある)
黒田黙耳は、明治12年(1879)愛甲郡役所の首席書記として厚木町に赴任してきました。自由民権運動の高まりの中で、明治15年(1882)厚木で結成された結社「相愛社」の会長に推され、民権運動の指導者として確約されました活躍されました。明治21年(1888)没。墓碑は昭和2年に建立されました。
【④烏山藩厚木役所跡】 (前述)
下野国(現栃木県)烏山藩主大久保常春は、享保13年(1728)頃、相模国内に点在する領地を治めるため厚木村に代官所を置きました。現在の厚木神社北側の所で、通称「厚木陣屋」と呼ばれ、役人たちが年貢の取立てや幕府から出される知らせを触れ回る仕事をしていました。
【⑤旧厚木宿】
江戸時代の厚木は、矢倉沢往還・八王子道など主な街道が交差する道筋に在り、常に人馬が往来し、「厚木宿」と呼ばれていました。現在の東町から厚木町にかけての県道沿いには当時、豪商が軒を連ね、江戸に劣らぬ賑わいを見せていました。この一角、東町二番において、市街地再開発事業に伴い文化財調査団により、平成3年3月から10月まで発掘調査が行われました。16世紀から20世紀に至る様々な生活の痕跡が発見され、この宿場の成り立ちを知る多くの成果を得ることができました。
【⑥厚木渡船場跡・渡邊崋山来遊記念碑】 (前述)
相模川の三川合流地点付近の河原には、かつて「神厚の渡し」と呼ばれた渡船場がありました。明治41年(1908)に相模橋が完成するまで多くの旅人に利用されました。渡辺崋山(画家、蘭学者)が厚木を訪れたのは、天保年(1831)9月でした。この旅の様子は、紀行日記「遊相日記」に詳しく書き残されています。崋山が描いた「厚木六勝」図の一つ「刈屋喚渡」図は、この厚木の渡し付近の風景を描いたものです。
〔厚木六勝〕渡辺崋山が撰者斉藤鐘輔(書家・漢詩人)に請われて、当時の厚木村の六か所の景勝地を描いたものです。
1.「雨降晴雪」図 晴天の大山の雪景
2.「仮屋喚渡」図 呼声が聞こえる渡船場仮屋の景
3.「相河清流」図 相模川の清流の景
4.「菅廟驟雨」図 夕立にけむる菅公祀の天神森(現厚木中学校付近)の景
5.「熊林暁鴉」図 夜明けをつげる鴉が鳴く熊野神社の森の景
6.「桐堤賞月」図 月景色が美しい桐辺の堤の景
【⑦厚木市郷土資料館】 (この北西「厚木小学校」の隣にある)
郷土資料館には、厚木の歴史と自然に関する様々な興味深い資料が展示されています。遺跡から発掘された土器・石器・埴輪、江戸時代の司法・行政文書資料、今ではほとんど絶えてしまった講の道具、農具などの民俗資料から人々の生活や文化を、また、動植物資料から厚木の豊かな自然環境を知ることができます。
講・・・神仏お祭り、または参詣するために組織する団体である二十三夜講・伊勢講・稲荷講・太子講や一種の金融組合または相互扶助組織である頼母子講・無尽講などをいう。
平成16年3月 厚木市教育委員会
【きりんど橋】 (右側) 11:10
熊野神社から少し進むと左斜めの旧道があり、弧を描いてすぐ県道に出るが、再び左斜めの旧道がある。この道は「ソニー厚木テクノロジーセンター」の正門前に出る。正門前から県道に戻ると「旭町4丁目信号」がある。
この信号の右角にきりんど橋の碑と歌碑が建っている。上記②も参照。
【きりんど橋】 一七〇年程前、ここを訪れた六部(行脚僧ら)が浄財をもって石橋にし、明治中期 架け替えるに際して、きりんど橋と称した。 古老の話によると、聖代の御代には、神獣きりんが出ると称して■んで橋と唱え、きりんど橋と呼ばれるようになった。 【歌碑】 桐堤賞月 橿家甘人 桐を植えたる きりべの堤 四季を通じて 月が良い 昭和六十年 厚木市制30年記念 |
<昼食> 11:15~11:50
「旭町4丁目信号」の所で道は二股になり、大山街道は県道から別れ「ミニストップ」前の左の道へ進む。
私達は県道を数軒行った「長寿庵」で昼食を取った。手打ち蕎麦の美味しい店だった。
【旧平塚街道】 (右側)
「旭町4丁目信号」の二股を左に取り、左側にある細長い「旭南(ふじみ)公園」横を進み、次の「富士見町信号」を渡った右角に旧平塚街道の碑が建っている。
左側面に説明文が刻まれているが、フェンスがあるのと擦れ文字で、判別が大変だった。
【旧平塚街道】 往時矢倉沢往還と八王子道が重なった部分で、平塚へ通うのに利用されたところから、平塚街道と称された。 渡邊崋山の厚木六勝図 桐堤の賞月として、当時のありさまが描かれている。 |
【石碑2基】 (左側) 12:02
「旭南(ふじみ)公園」が終わった「岡田一本杉バス停」に着いたら、左うしろに振り返ると、公園の南端に朽ちかけた石塔が2基建っている。供養塔と馬頭観音か?
【御嶽神社】 (右側) 12:04
「岡田一本杉バス停」付近を見わたしても一本杉は無かった。地名だけ残ったのだろう。
右側に小さな御嶽神社が祀られている。
【御嶽神社】 蔵王権現(ざおうごんげん)を祭った神社。金峰神社・金峯神社(きんぶ、きんぷ、きんぽう、みたけ)ともいう。 |
【三嶋神社】 (左奥) 12:14~12:22
東名高速道路が間近に迫った左側に三嶋神社がある。
私達は街道筋にある脇参道から入ってしまったが、鳥居のある正式な入口は東名高速手前の十字路を左折した所である。
【三島神社】 三島神社は岡田村の鎮守、祭神は事代主神(ことしろのしのかみ)である。岡田村は近世後期には上岡田・下岡田村の二村に分かれていたが、もとは一村であった(『新編相模風土記稿』)。戦時中に供出された鐘は、元禄4年(1691)村内の細野久右衛門が奉納したもので、雨乞い祈願のため伊豆国三島神社(静岡県三島市)を勧請したという創建由緒が刻まれていた。例祭は4月第3日曜日(古くは9月29日)である。 境内には近隣に存在した石祠(せきし)が祀られている。 ○本殿 一間社流造で、桁行5.4尺の大形社殿。17世紀末から18世紀初頭の建立と推定されている。覆屋がないため彩色は落ちてしまっているが、もとは朱塗りだった。 ○扁額 社殿の正面、文政4年(1821)烏山藩主大久保佐渡守忠成書。 ○えがら天神社 旧所在地は旧字えがら841番地付近の水田中の塚上であった。銘文は「明治四未 正月廿五日 再建」。江戸初期に山口九兵衛が鎌倉の荏柄天神を祀ったという。 ○白山神社 『新編相模風土記稿』に村民持ちとして記されている。銘文には「寛延二(1749)己巳年九月廿九日」。 |
この神社の入口にも『あつぎの文化財獨案内板』が立っていた。
【1.三島神社】
上記
【2.旧渡船場】 (三島神社から少し東へ行った相模川)
江戸時代、岡田村には渡船場が設けられていた。『新編相模風土記稿』は「村持ちで渡船ニ艘を置くが、天正年中家康が渡河の際、架橋して以来春冬ニ季は船を渡すと伝えている」と記している。
【3.永昌寺】 (三島神社前十字路の右奥)
山号は岡田山、宗派は曹洞宗で功雲寺(相模原市津久井町)の末寺である。縁起によると、当初は観音堂で、貞応2年(1223)に補陀洛院、元徳元年(1329)に桂林寺、永正17年(1520)に永昌寺に改称したという。
本尊の正観音は鰻観音と呼ばれ、これは村内の鰻堀と呼ばれる堀に群集する鰻が、本尊を礼拝しているように見えることから名付けられたという(『新編相模風土記稿』)。
○五重塔 境内には16世紀末頃の一石造りの五輪塔、五輪塔の水輪、宝篋印塔の基礎(反花座)がある。
【4.田村用水 北矢堰】 (田村神社の北西「厚木清南高校」そば)
田村用水は厚木村で小鮎川を堰入れて、流末が大住郡田村となる用水である(『新編相模風土記稿』)。昭和5年 、取水口を中津川、妻田村三家地先とする工事が完成した。岡田村の灌漑用水は田村用水の北矢堰と恩曽川のえび堰で分水したが、北矢堰からの流末は鰻観音といわれる永昌寺付近の水田であった。
【5.せきどめ地蔵】 (永昌寺の西)
かつて三島神社前の大山脇往還を船子へ向かう農道脇きに石祠があり、土地の人は「せきど神」、堀に架かる石橋を「せきど橋」と呼んでいたが、いつの頃か病気の咳と結びつき咳除けの神となった。現在の石祠は昭和51年11月岡田第三自治会が再建したものである。
【6.長徳寺】
次の項に記載
【7.法徳寺】
その次の項に記載
【8・法雲寺】 (法徳寺の先、薬師堂の隣にある)
省略
【9.飯出神社】 (その先)
省略
【矢倉沢往還】 (左側) 12:23
三島神社入口の十字路の左角に矢倉沢往還の碑が建っている。
【矢倉沢往還】 江戸時代に江戸より武蔵と相模を横断していた街道に関東支配の重要性から、江戸と西とを境とする足柄上郡矢倉沢峠に関所が設置され旅人・荷物などを検査した。この道を矢倉沢往還と呼称された。 |
【長徳寺】 (右側) 12:27
東名高速道路のガードをくぐった直ぐ先の右側に長徳寺がある。
山門から本堂の間の庭の手入れが良く行き届いて綺麗である。本堂前にベンチとトイレもあり休憩が出来るのが有り難い。
【長徳寺】 山号は寿永山慈雲院、宗派は浄土真宗東本願寺(京都市) 。開祖は浄光(建長元年<1249>卒)といい、もとは真言宗の寺院であったが、寛喜元年(1229)に親鸞が関東逗留の時、弟子となり改宗したという。本尊は阿弥陀如来立像(高さ68 cm)である。 戦国期、当時の領主・津久井城主内藤左近将監の推挙で、天正年中に当時の小田原城主北条氏直公より寺領10石を、慶安2年(1549)に徳永家光公より寺領10石を賜るが元禄16年(1703)の元禄大地震に本堂より出火し、御朱印と秀吉の制札が焼失したという(『新編相模風土記稿』)。 ○本堂 正徳元年(1711)の建立で、市内の浄土真宗本堂ではもっとも古く、また規模も大きい。大工棟梁は大山大工・明王太郎、当地の先進的な真宗の本堂様式を取り入れながら、地方的な特色も有する、貴重な建物である。 ○木造聖徳太子立像 父用明天王の病気平癒を祈る16歳の孝養象である。美豆良に結った髪、袍の上の袈裟、沓をはく姿を示す。制作の時期は14世紀末頃の南北朝時代末頃とみられている。高さ113cm 。 ○木造阿弥陀如来立像 寄木造、玉眼嵌入、白毫・肉髺珠は水晶である。全体的に平安時代後期の藤原様式を示しているが、制作時期は断定できない。 ○報恩講 浄土真宗の宗祖、親鸞の徳をたたえる法会で、毎年10月15日に行われる。式終了後は檀信徒により「お斉」という食事会が行われるが、昔は「お講番」と呼ばれる檀家が全ての準備を行った。 ○塔頭 『新編相模風土記稿』は順恩寺、応念寺の二寺を記しているが廃寺となった。 ○駿河屋彦八の墓 江戸時代後期、大住郡酒井村のニ代目彦八は厚木の侠客として名を馳せた。 天保2年(1831)9月、厚木宿二止宿した渡邊崋山は「遊学日記」に「侠客彦八像」とともにその人となりを描いた。 |
【法徳寺】 (右側) 12:36~12:40
長徳寺の隣に法徳寺がある。
門を入ってすぐ左に、大王松と思われる松葉の長い松が生えている。落ちた松葉を持ち帰って見たら三つ葉で、長さは35cmもあった。
【法徳寺】 山号は知恩山高栄院、宗派は浄土真宗で西本願寺(京都市)の末寺である。開山は教信(永正元年<1504>卒)、本尊は阿弥陀如来立像である。本堂は寛政12年(1800)の建築で、須弥壇は享保3年(1718)に飯山村の大工西海杢兵衛ほか4人によって造られた。 ○木造聖徳太子立像 美豆良を結った16歳の孝養象で寄木造り、玉眼嵌入である。制作年代は室町時代末から桃山時代頃とみられている。胎内には江戸時代に作られた高さ12.2cmの木造聖徳太子立像と文書3通が収められている。 |
【双体道祖神と石造物】 (左側) 12:44
「岡田用水堀」に架かる橋に着いたら、左側を振り返って見ると、石段(四段)の上に新旧の双体道祖神、供養塔、丸石神等が祀られている。
【石塔】 (左側) 12:50
橋を渡り、「リーバーサイド入口信号」先の二股を右に進んで、最初の曲がり角を左折する。真直ぐ行くのが八王子道。
その左折道の左角に、かなり風化して字が読めない古い石塔が3基建っている。
【薬師堂】 (左奥) 12:52
直ぐ次の道を左折すると、右奥に薬師堂がある。
【薬師堂(酒井寅薬師)】 薬師如来は、正式には薬師瑠璃光如来と申され、除病安楽を祈願して信仰される佛様です。この薬師堂の本尊は平安時代の高僧を恵心僧都の御作言い伝えられておりますが、おそらく南北朝時代(足利尊氏の頃およそ六百五十年前)の作と推定され、後の時代の傑作といえる寄木造立像の名品です。現在は秘佛として厨子に収められ十二年に一度虎寅年に開帳しております。寅年のお開帳は酒井部落挙げて執り行われ、近隣の信者が多数参詣に集まります。特にこの時張られる双盤興行は何百年も伝承されている貴重な無形文化財です。 堂内には本尊の他に不動明王(現在は法雲寺本堂に安置)閻魔十王像、奪衣婆なども安置されています。 ある時、山角氏の某が眼病を疾いこのお薬師様にお参りしたところ、たちどころに平癒したとの事です。以来山角家はこのお薬師様に篤く帰依し、当主勝長は薬師堂を修復し、法雲寺を中興開基して代々の菩提寺と致しました。以後薬師様の御利益は益々評判隣近郷近在の人々がこぞって参詣したといわれます。 |
法雲寺は行かなかったが、この薬師堂の左隣にある。
薬師堂の右前に不動尊が乗っている酒井の道標が建っている。この道標は、「酒井バス停」付近から移設されたものとのこと。
劣化しているが、正面に『東 (下部は読めず)』、左側面に『南 (下部は読めず)』、裏面に『西 享保(以下欠損) 再建立安永(以下欠損) 六月吉(以下欠損)』、右面に『北 ■■道』と刻まれていた。
【双体道祖神と石造物】 (右側) 13:03
国道129号と交差する「酒井前田交差点」を過ぎ、玉川に架かる「新宿(しんしゅく)橋」を渡った右手に、『道祖神 移転記念 平成18年1月14日』の銘板が貼られた新しい双体道祖神とそのうしろに古い石塔等が置かれている。
【地蔵等】 (右側) 13:12と13:14
暫く進んで、右手に稲荷社。
更に進んで、右側郵便ポストの横に祠に入った五輪塔。
その直ぐ先に上部と下部の年代が異なっていると思われる地蔵。更にその直ぐ先にも風化した地蔵が建っていた。
【大山道碑】 (左側) 13:26
「片平交差点」で「小田原厚木道路」をくぐって直進。
「玉川橋」手前左に大山道の碑が建っている。
【大山道】 江戸より武蔵と相模を横断し、足柄峠を上る矢倉澤の関までを、公式名では矢倉澤往還と呼ばれていたが、大山参詣が盛んになったことにより、大山道又は大山街道とも呼ばれるようになった。 |
【愛甲宿の道標・玉川改修記念碑】 (右側) 13:27
下が暗渠になっている「玉川橋」渡った右側に、道標兼庚申塔や玉川改修記念碑等が並んでいる。
一番左に玉川改修記念碑、すこし離れた右隣に愛甲宿の道標と呼ばれる享保元年(1716)の道標兼庚申塔が建ち、正面に大きく『庚申塔』、左側面に『右 大山道』、右側面に『左 江戸青山 あつぎ 道』と刻まれていた。
庚申塔の直ぐ右隣に石塔が2基建っている。
【愛甲宿】
小さな宿場で、立場の他に饅頭屋、紺屋、木賃宿等があったと云う。
【大厳寺】 (右奥) 13:31
愛甲宿の道標から左にカーブすると、右の細い道の奥に曹洞宗大厳寺の標柱が見える。
高台にある寺で、坂を上って行くとまず正面に六地蔵が出迎え、左に曲がると本堂がある。
厚木方面の展望が良いとの事だったが、奥まで行かなかったので確認していない。
【円光寺】 (右側) 13:35
大厳寺の一軒おいた左隣に円光寺がある。
こちらも高台にある寺で、山門を見ただけで、境内まで行かなかった。その山門に三つ葉葵の紋が掲げられていた。
鎌倉建長寺の末寺。鎌倉時代の弓の名手だった愛甲三郎季隆(すえたか)のものと伝わる宝篋印塔がある事で有名な寺。
また、度々の火災等で資料が無くなって確認されてないが、愛甲氏の居宅跡とも云われている。
【道標兼庚申塔】 (左側) 13:37
次の「甲愛宿信号」の左角に道標兼笠塔婆型の庚申塔が建っている。
傷んでいるが側面に『右大山道』と刻まれている。
「甲愛宿信号」を右折し、すぐ左折して短い坂を上りきると右手に愛甲石田駅がある。
この先、どうするか相談したが、天気予報以上に暑くなり、また、この先一時間に一本のバスしか無い為、少し早いが交通に便利なこの駅で今日の行程は終了することにした。
7回目の旅終了(13:45)。「愛甲石田駅南口」。
本日の記録 : 街道のみの距離は、8.0Km(海老名駅入口交差点~愛甲石田駅南口)
赤坂御門から新道ルート経由で、十三里十六町(52.8Km)
寄り道を含めた実歩行距離は、10・4Km(海老名駅~愛甲石田駅南口) 累計:84.2Km
4時間25分 17,000歩。