大山街道(6) 東名入口交差点 ~ 海老名駅
2015年5月4日(月) 晴
「南町田駅」から前回終えた「東名入口交差点」に戻り、ここを9:50スタート。
(注:解説で街道の左側、右側とは大山に向っての左右です)
「江田駅 ~ 南町田駅」 → 「目次」 → 「海老名駅 ~ 愛甲石田駅」
紫外線量と気温が高くななったきたこの時期に一日歩くには曇りの日が良いと、数日前から天気予報を確認、更に当日朝の時点でも一日曇りとの予報を信じて出かけたが、見事に裏切られてピカピカの晴天になってしまった。
東海道と同じ様に午後になると太陽に向って進む大山街道は、日陰が少なく厳しい歩きとなった為、道草をあまりしなかった。
【大ヶ谷(おおがやと)庚申塔】 (右側) 10:00
「東名入口交差点」から少し進んだ「横浜水道道路」という遊歩道を越え、次のX型交差点右側に注連縄が張られている大ヶ谷庚申塔が新旧四基の燈籠と共に建っている。右側面に『文久三年』(1863)と刻まれていた。
ここを斜めに交差する道路は「戸塚道」である。また、庚申塔の後ろには、高さ1m程の供養塚があったと云う。
往時は、この辺りに小規模の大ヶ谷宿があり、農家が余業として宿を営んでいた。
【圓成寺】 (右側) 11:05
大ヶ谷庚申塔から緩い下り坂になり、すぐ先、左側に日枝神社、その先右側に圓成寺がある。
【圓成寺縁起】 「相模風土記」に北条氏綱の家臣、山中修理亮貞信が遁世して、恵心僧都作とされる阿弥陀仏の立像を安置し、天正年間に当寺を開いたとされています。元は厚木市飯山に在し、三代か四代の頃に当地に移り住んだと語り伝えられ、開山了雲、二代空存、三代存永が墓石および過去帖に連記されていることからも推測されます。以来世襲絶えることなく四百年以上にわたり、法灯が伝えられております。 現在の本堂は、十六代徳行の時に再建されたもので、過去には何度か火災に遭い、そのたびに門信徒の皆様のおかげにより、九代順栄、十一代善応、十四代栄雲の時に再建の記録があります。 なお、本堂余間に安置されている「聖徳太子立像」は、室町時代後期の作とされ、町田市指定文化財になっております。 |
【五貫目道祖神】 (左側) 10:12
やがて東京都町田市から横浜市瀬谷区に入り、緩い坂を下りきった「五貫目信号」で国道246号(厚木街道)に合流する。
左側に倉庫が並んでいる前に公園の様な歩道が広がっている。その倉庫の前に五貫目道祖神が説明文と共に建っている。
左側面に『天下泰平・五穀成就』、礎石面に『右大山道 左江戸道』と刻まれていた。
【五貫目道祖神】 五貫目道祖神は、徳川中期に旧青山街道(旧国道246号)の現所在地より約300メートル西方境川鶴瀬橋手前に祀られ、北は世田谷青山、西は伊勢原小田原、南は戸塚鎌倉に通ずる三方分離点として旅人の道標としての役を果たした道祖神です。 現在の道祖神は徳川後期安政3年丙辰8月と印され、二代目道祖神と言い伝えられております。青山街道は別名大山街道とも言われ、多くの旅人の行来した街道でした。五貫目地域住民も明治時代より平成の今日迄、長年1月14日道祖神地先にて1年の無病息災並びに豊作を念じて、左義長別名ダンゴ焼きの行事を実施しております。 平成4年3月一般国道246号大和厚木バイパス開通に伴い、建設省のご配慮により現在地に移転いたし、之れを後世に伝えるべく由来碑を建立し、永く顕彰するものとする。 平成5年3月吉日 国道246号バイパス 対策委員会 五貫目町内会 |
【観音寺】 (右側) 10:20~10:25
大山街道の旧道は、五貫目道祖神から200m戻ったところから右斜めに進んで、国道246号を斜めに横切り、国道の右斜めに入って行く様になっている。しかし、この斜めの道にも、道祖神のある「五貫目町信号」にも横断歩道が無い為、国道を渡ることは出来ないので、道祖神の直ぐ先の「目黒交差点」を渡り、120m戻って、国道の右斜めの道に入って行く。
国道から分かれて直ぐの境川に架かる「鶴瀬橋」の手前には、上記の五貫目道祖神が祀られていた。
「鶴瀬橋」を渡ると大和市に入り、すぐ右側に観音寺がある。
入口前に『享保十年造像 聖徳太子孝養像安置 相模太子講十周年記念』と刻まれた記念碑と、『武州卯歳観音札所 第一番』と刻まれた石碑が立っている。
参道に入り、山門をくぐると正面奥に本堂が見え、左手に「大慈大悲観世音菩薩」の大きな立像と六角の「大師堂」、右手には「金亀坊稲荷」と「弁天堂」、本堂手前に細長い「銀杏」の大木が聳えている。
【鶴間山観音寺縁起】 当山は高野山真言宗で、中興開山頼満和尚は慶長十三年(1608)に入寂、その昔金亀坊といわれたが、開山・開祖は不詳である。 市指定重要文化財の厨子は天文十三年(1544)造で、室町時代の様式を伝える貴重なものであるが、創建を知る手掛かりになるのであろうか。 本尊の十一面観世音菩薩は寺伝によると、宝暦年間(1751~63)住職宥仁和尚と同様、瀬谷村中屋敷高橋是右衛門にも、この家に伝わる十一面観世音菩薩が霊夢に立たれ、当山に奉安せよとのお告げがあった。深見村の小林九兵衛はこの勧請を扶け、又下鶴間村領主で旗本の江原公の協力も得て観音堂を新築し安置された。後大火により地域一帯が焼失したが、観音堂だけが難を免れた。村人はその奇瑞に驚き、以後この十一面観世音菩薩を本尊と仰ぎ、寺号を今の観音寺に改めたといわれる。しかし宝暦より前に観音寺の記述が古文書に見られる。古老の話では以前は、地蔵菩薩が本尊で真言院といわれたという。 建武五年と延文二年の板碑があるが、新編相模風土記稿に履歴を伝えずと記されている。 辨天堂に江原公奉納の辨財天や十五童子などまつられ、当時の堂宇も江原公や村内巳待講中が施主であった。 宝暦九年(1759)武蔵・相模に武相観音札所が創設され、その第一番となり以来卯歳には御開扉供養が一斉に厳修される。 |
【大山阿夫利神社御分霊社・大黒天開運神社】 (右側) 10:28~
観音寺の直ぐ先右側、『大山阿夫利神社御分霊社』と書かれた大きな看板が立つ門を入った右側には、大山阿夫利神社分霊社と隣に小さな大黒天開運神社がある。
分霊社の前には『関東総鎮護 大山阿夫利神社御分霊鎮座 大山衹大神 大雷神・高龗神』の立札が、大黒天開運神社の後には由来が、前には『金運・長命 大國主大神 出世 太閤豊臣秀吉公霊』と書かれているて立札が立っている。
【お金に困らない 財布なぜ清めの大黒天金運生の由来】 古い道として親しまれて来た、旧矢倉沢街道、又、別名大山街道と称していた。 此の処は、当時相州鶴間村宿場であった。江戸方面の旅人等は当地に一夜を明かし、又は休み、わらじを取り替えて身を清め関東の霊山大山阿夫利神社の参拝詣の行にはかならず財布をなぜ清めて金運にあやかるように祈願していたのである。 毎月子日 祈願祭 甲 子 日 大祈願祭 出世・金運・長命 大黒天開運神社 |
【新田義貞鎌倉進撃路】 (右側) ~10:36
『大山阿夫利神社御分霊社』と書かれた大きな看板が立つ門を入った左側には、『元新田氏の歴史と其の由来』碑と『新田軍の鎌倉進撃路・新田氏関係地名』地図が掲げられている。
また、門の外側の街道上には、左から『新田義貞公鎌倉進撃路』の標柱、道標、『当家の往昔史』碑が建っている。
標柱の正面には『新田義貞公鎌倉進撃路 鶴間の歴史』、右面に『元新田氏 髙下宗家に観音寺よりも歴史は古く』、左面に『当家は鶴間村最古の歴史を誇る 鎌倉時代以前より此の地に処住』と刻まれている。
道標の正面には『東・西 相州鶴間村宿』、右面に『是より東 江戸十里』、左面に『是より西 大山七里』と刻まれている。
【当家の往昔史】 (表面) 相模国風土記稿に観音寺境内に板碑二基ある事が明記されている 建武五年 延文二年墓石は髙下元祖・新田氏の墓より出土した者也 新田軍の鎌倉進撃路 南朝忠臣新田氏縁の家 挙兵六百五十年記念 【太平記の里】 (裏面) 新田義貞公元弘三年(1333年)五月八日群馬県新田郷生品神社境内で進撃の旗揚げをした 昭和五十八年五月八日「1983年」 建主 元新田氏族系 |
【下鶴間宿】
前述の境川を渡った「観音寺」から下鶴間宿になる。
長津田宿と同規模で、江戸から十一里、長津田宿まで一里、海老名市の国分宿まで二里の位置にあった。
明治4年の下鶴間宿 |
【旧下鶴間宿】 (後述の「下鶴間不動尊」と「鶴林寺」の間の街道沿い右側に立っていた説明板より) ここを東西に走る道路は矢倉沢往還と呼ばれた古道であり、江戸時代には東海道の脇往還として重要な交通路となっていました。東京都港区青山(東京都港区)を発し、神奈川県を西南方向に突っ切り、関本・矢倉沢・足柄峠(南足柄市)を通り三島へと至る街道です。また、大山街道とも呼ばれるように江戸時代中期以降は大山信仰や富士信仰の行者が利用する道としても栄えました。 下鶴間宿には、紺屋、げんこく屋、かたい屋、そば屋、馬喰等の屋号を持った染め物屋・居酒屋・餅屋・質屋といった商家や、山本屋・松屋・三津屋・松葉屋・角屋・ちとせ屋の旅籠がありました。矢倉沢往還は宿場の中で瀬谷と町田を結ぶ通りと交差していましたが、その辻には高札場がありました。また、天保2年(1831)には渡辺崋山が小園(綾瀬市)に行く途中、この坂の上にあった旅籠を兼ねていた「まんじゅう屋」で一泊しており、その時のことを「遊相日記」に記しています。それによると、当時の下鶴間宿のことを「ものさびしい」と記しています。この宿場がにぎわいをみせるのは幕末頃であったようです。 大和市教育委員会 |
【高札場】 (右側) 10:45
坂を下り、次の信号のある交差点の左角に下鶴間ふるさと館があり、その前の歩道上に高札が復元されている。
【高札場】 高札は基本的な法令を板札に墨書し、庶民への法令の徹底を意図したものです。禁令の掲示は奈良時代からみられますが江戸時代に発達し、明治六年(1873)まで続きました。明治新政府は慶応四年(1866)旧幕府の高札を撤去し、新政府が定めたいわゆる「五榜の掲示」を掲げさせました。 高札を掲示する場所を高札場といい、村では名主の家の前、村の中心や主要な街道が交錯する交差点といった場所に設けられていました。下鶴間村には二か所あり、そのうちの一か所がこの付近にあったことが絵図から分かっています。 (右)慶応四年の太政官高札 徒党、強訴、逃散を禁止したもので、それを発見したときには役所へ申し出すれば、褒美を与えるとしています。 (中)慶応四年の太政官高札 キリシタン禁止を定めたものです。 (左)明治三年の太政官高札 火付、盗賊、人殺、贋札を作る犯罪者などを発見したときには役所へ訴え出ることを定めたものです。 ※ここに掲示した高札は、市内にあったものの写しです。 |
【下鶴間ふるさと館】 (右側) 10:45~11:00
下鶴間ふるさと館は、旧小倉家の母屋と土蔵が復元されたもので、入口は信号を左折した所にある。
【大和市下鶴間ふるさと館のご案内】 ふるさと館には市指定重要文化財の旧小倉家住宅母屋と土蔵が復元されています。母屋は安政三年(1856)に建築されたもので、宿場の商家建築として県内でも数少ない建物です。建物の床板から、墨で描いた黒船の絵や「安政三年」という年紀が発見されています。土蔵は前身建築の古サ材を用いて大正七年に同じ規模で再建されたもので、商家の附属建築です。一般的に袖倉といわれ、商品などを保管しておくものです。 ■開館時間 午前十時から午後四時まで ■休館日 月曜日・火曜日・祝日の翌日 月・火曜日が祝日の場合、または祝日の翌日が土・日・祝日の場合は、開館します 年末年始 十二月二十九日から翌年の一月三日まで ■入館料 無料 特別な行事又は展示が開催されている場合には拝観料などが必要です |
母屋内には、秋の下鶴間宿の模型、履物、『小倉家と薬』と題する文章と当時の薬や調度品などが展示されている。
【小倉家と薬】 小倉家は幕末の創建時から昭和20年代初め頃まで雑貨商を営んでいました。 4代目祐一氏の時代(昭和初期)に金物を多く扱うようになり。 「金物屋」と呼ばれるようになります。その当時のものと思われる「小倉祐一商店」の「布袋 」には、「建築材料、和洋金物、薬品売薬」と記されており、 「万屋」と呼ぶにふさわしい商店であったことが伺えます。 薬品・医療用品は、軟膏、丸薬等の飲み薬、座薬、殺虫剤、注射薬、石鹸、栄養剤、シッカロール、薬品、マスク、分娩用紙、染料、整髪料、目薬、蚊取り線香など本当に多岐にわたっています。当時の「薬屋」にこれだけの品揃えが必要をされていたことは、周辺の農村部で必要とされていたことにほかなりません。農村部での医薬品の利用状況を知る上での大変な貴重な資料となっています。 |
【旧長谷川彦八家】 (右側) 11:00
街道を挟んで下鶴間ふるさと館の斜め向かいで、目黒川を渡った所に旧長谷川彦八家がある、今も立派な屋敷と蔵が黒塀と木々に囲われて建っている。
伊能忠敬測量隊が、文化三年(1816)に宿泊したとの記録があるそうだ。また、渡邊崋山も天保二年(1831)に訪れたと「遊相日記」に『兎来伝書して長谷川彦八といふ豪農ノ家に行。門塀巨大、書ヲ伝ふ。其家、賓客屏列、飲膳甚盛也。宿ヲ不乞』と書かれている。
【下鶴間不動尊】 (右側) 11:02
旧長谷川彦八家の左隣に、細く長い石段がある所が下鶴間不動尊。
石段のすぐ先右手に上記【下鶴間宿】で載せた説明板が立っている。
大きな看板が立つ73段の石段を登ると下鶴間不動尊のお堂と、その左隣に「蚕神さま」・「天神さま」の祠が建っている。お堂の格子から中を覗くと脇侍を従えた小さめの不動明王が立っていた。
【鶴林寺】 (右側) 11:07~11:12
下鶴間不動尊と地続きで左隣に鶴林寺がある。
不動尊の隣に永禄十二年(1569)に鶴林寺を開いたこの地の代官だった瀬沼家の墓所があり、一画の殆どが瀬沼家代々の墓だった。
【瀬沼家墓所由来】 今より四三一年前、永禄一二年(西暦1569年)当時の瀬沼家の当主傳右衛門は信仰心厚く、当地に開山上人貞山覚知和尚を招いて、宝亀山寿翁院鶴林寺を建立すると共に本寺東側一区画約百坪(現在法務局登記は二四四平方米)の土地に本墓所を開設した。本寺の宗派は浄土宗で鎌倉光明寺の末寺に位置している。 瀬沼家は幼名弥市、忠治等を名乗るが、当主は代々傳右衛門を襲名し一代ごとに石碑を建立するならわしがあり、そのため各時代の当主を特定することは困難であるが、戒名により知ることができる。 瀬沼家は徳川時代、幕末まで鶴間西側は都築様領地にて(東側は江原様領地)瀬沼が代官を勤め、禄高も二〇〇石を拝領していたと聞く。 先年、時の首相田中角栄内閣総理大臣は当山に所用ありたるとき本墓所を参観せり。 しかしながら本墓所も長年月の経過と過ぐる安政、大正の二大地震により墓碑倒壊破損するものあり、一時的修復に推移したため、近年痛みも激しくなっていた。 安政二年生まれ傳右衛門の孫、忠治の四男忠夫は夙に本墓所の改修を祈念しており、このたび改修せり。 本墓所入口地蔵は生地蔵ともいわれ瀬沼崇信の墓にて享和三年二月十五日(徳川将軍家斉の時代)改修し即身仏となり、当山より権律師の尊号を受ける。 本改修に当り当山二五世苑誉高雄和尚の御協力を得たことを記し深謝する。本墓所内には仲次郎殿、直吉殿、市之丞殿、久蔵殿、嘉吉殿五家分家も周辺に建立している。 忠雄記 |
墓所と本堂の間に鶴林寺のイチョウが、枝を伐採されて葉がない姿で聳えていた。
下の写真で、分かりにくいが、鐘楼奥の本堂の右前に立つ木がイチョウで、葉が見えるのは手前の桜の葉である。
【名誉の木 鶴林寺のイチョウ】 社寺仏閣の部【特別賞】 このイチョウは、平成7年に選定された「大和市シンボルツリー100選」の中から市民の皆様の人気投票により選ばれました。 平成24年1月27日 大和市長 大木哲 |
本堂の左手に鐘楼、本堂と鐘楼の間の崖寄りに鶴間学校跡の標柱と説明板が立っている。
【鶴間学校】 鶴間学校の前身は明治六年開校の鶴鳴学舎で、開設に際しては荒川論が教員に任命されています。その後、明治八年に鶴鳴学舎が鶴間学校と改名された頃からは、定方寺の寺子屋師匠土方徳仙が荒川論に代って教員になっています。 明治十四年の「取調書」によると、所在地は鶴林寺の坂下にある井沢藤八の貸家としており、当時は民家を借りて授業が行なわれていました。また、翌明治十五年の「村立小学校設置開申」では、村立鶴間学校の位置を観音寺境内としており、本堂が仮校舎として使用されていました。この観音寺の仮校舎からやがて鶴林寺境内の校舎へと移ることになります。鶴林寺では芝居小屋「鶴栄座」の建物を使っていたといわれます。 平成十七年三月 大和市教育委員会 |
帰りは、本堂前の石段を下りるか、鐘楼先の脇門から坂を下って街道に戻る。
【まんじゅうや跡】 (右側) 11:13
街道に戻って次の二股の右角にまんじゅうや跡の説明板と道標が立っている(下の写真で、白い車に同化して見にくいが説明板が立ち、ミラーと交通標識の間に道標が見える。右側は地蔵堂)。
道標は下半分が欠けた様で、『左 矢倉・・・』『右・・・』以外分からない。
【渡辺崋山とまんじゅうや(土屋家)】 江戸時代後期の洋学者で、画家として知られる渡辺崋山は、第十代田原藩主三宅康明の弟友信の命により、高座郡の早川村(綾瀬市)に住む友信の生母お銀の消息を尋ねるため、天保二年(1831)九月二十日、弟子の高木梧庵といっしょに江戸の青山を立ちました。その日は都筑郡荏田村(横浜市緑区)に泊まりましたが、翌二十一日には矢倉沢往還下鶴間宿につき、俗に「まんじゅうや」(土屋家)といわれる旅籠屋に一泊しました。 「まんじゅうや」は初代土屋伊兵衛が開いた旅籠で饅頭も商っていたといいます。土屋家には、天宝十一年の「大山く組」という看板が残っています。これは江戸の町火消「く組」が大山参詣の定宿としていたこと物語っています。 平成十年三月 大和市教育委員会 |
このまんじゅうや跡の道路を隔てた右向かいに地蔵堂があり、大小二体の地蔵が赤い衣装を着けて座っている。
その地蔵堂の左隣には常夜燈と刻まれた石碑が立っている。
【坂上厄除地蔵】 (右側) 11:21
次の二股の角に坂上厄除地蔵堂が建っている。正面に『左大山道 右ざまみち』と記されているとのことだが、道標部分は見逃してしまった。
この辺りの左右は、広い庭を持つ豪邸ばかりが建ち並んで、目を見張ってしまう。
【日枝神社・庚申塔】 (右側) 11:25
少し進んだX型交差点の右側に日枝神社があり、その入口に新しい矢倉沢往還の標柱、かなり劣化している笠塔婆型の庚申塔、青面金剛像が建っている。
標柱の正面には『東西矢倉沢往還 南北滝山街道』、側面には『やぐらさわおうかん』の説明文が刻まれている。
標柱に刻まれているように、神社の前で大山街道と斜めに交差している道路は滝山街道で、右が八王子方面、左が藤沢方面につながっている。また、この辺りは山王原と呼ばれている。
【やぐらさわおうかん】 青山(港区)から矢倉沢(南足柄市)に至る江戸時代の古道で、県内の東西を結ぶ、政治・経済上重要な街道でした。また、江戸中期以降は大山信仰等の参詣者の通る道として栄えました。 平成二年三月 大和市教育委員会 |
<昼食> 11:40~12:35
「山王原公園」、続いて「山王原西公園」脇を通り、「鶴間二丁目交差点」を左折した「くら寿司」で昼食。
【矢倉沢往還碑】 (旧道左側) 12:43
街道はやがて「厚木街道」(旧国道246号)に接するように合流して、小田急江ノ島線「鶴間駅」の踏切が見えてくる。
その接する「厚木街道」沿いの歩道上の植込みの間に矢倉沢往還の石碑がある。おむすび型の甲州鞍馬石に説明板が嵌め込まれていた。
【矢倉沢往還】 この道路は矢倉沢往還と呼ばれた古道であり、江戸時代には東海道の脇往還として重要な交通路となっていました。 東京都港区ああ御山を起点と市起点とし、南足柄市関本、矢倉沢、足柄峠へと至る街道です。 また、大山街道とも呼ばれ、江戸時代中期以降は大山信仰や富士信仰の行者が利用する道として栄えました。 (地図) この石は、全国の「大和」という市町村で構成している「まほろば連邦」の加盟国である山梨県大和村より産出されている甲州鞍馬石です。 |
【矢倉沢往還標柱四基】 (左右)
すぐ右に「鶴間駅」が見える小田急江ノ島線の踏切を渡る。
この鶴間駅傍に、叔母の家があるので5分ほど挨拶に寄った。
街道に戻って先に進むと、街道の両側に交互に新しい矢倉沢往還の標柱が四基ほど見つかった。
正面に『矢倉沢往還』、上部に『泉の森→』、裏面に『下鶴間桜森線』、左側面に石の説明文、右側面に上記文面と同じ道路の説明文が刻まれている。
「泉の森」は、「西鶴間五丁目」交差点を過ぎた左手一帯にある広大な公園である。引地川の水源地で、湿生植物や多くの水鳥が生息している。
【左側面の文】 この石は、全国の「大和」という市町村で構成している「まほろば連邦」の加盟国である茨城県大和村より産出されている御影石(花崗岩)を使用しています。 |
【矢倉沢往還標柱五基目】 (右側) 13:12
しばらく「厚木街道」を進み、右側の「森永」の大和工場を見て、「大和斎場入口信号」に着いたら、右斜めの道に入る。大山街道は、ここから「大塚本町交差点」迄の約2.3Km、東北から南西にほぼ一直線の道になる。
斎場入口に五基目の矢倉沢往還の標柱が立っている。
その隣には西鶴寺が建っている。
【大山街道道標】 (右側) 13:33
「西鶴寺」を過ぎると、他の道路と斜めに交差している大山街道は、大和市(道路の左側)と座間市(道路の右側)の市境になっている。
「大和斎場」入口から直線道路に入ったと思ったら直ぐ先の国道246号・大和厚木バイパスに分断されて、直進出来なくなる。面倒でも、右手に見える「相模向陽館高校交差点」へ迂回しなければならない。旧街道を歩いていると、何度もこの様な経験をして来ている。
街道は国道と斜めに交差しているので、交差点を渡ってそのまま真直ぐ進めば、三角形の二辺を歩かずとも一辺だけですぐ大山街道に合流する。合流した所から、左側は海老名市になる。
更に、幾つかの道と斜めに交差しながら進むと、「さがみ野二丁目交差点」手前右側のマンション前の草地に大山街道の標柱が立っている。
【右側面の説明文】 この道は大山にむかっているために、江戸時代から多くの人が行きかったそうです。そして、東京の青山から発することから「青山街道」、「矢倉沢往還」とも言われ、また、厚木を通過していることから「厚木街道」とも呼ばれました。 |
【大塚宿】
「さがみ野駅入口交差点」を過ぎ、相模鉄道本線の踏切を渡ると「さがみ野商店街」に入って行く。
少し進んだ「大塚本町交差点」辺りに大塚宿があった。
明治・大正時代まで、店屋・旅籠・木賃宿等が建ち並び、江戸末期には大変賑わっていたと云う。
交差点の右手には、頼朝時代に戦死者を埋めたという大塚があったらしいが、今はない。
「大塚本町交差点」近くのコンビニで休憩(14:10~14:23)。
交差点を過ぎると大山街道の右側は海老名市、左側は綾瀬市になる。
しばらく進むと両側に「パブコ」の工場が建ち、工場を過ぎた右側に「かしわだい動物病院」がある。
ここの細道を右に300m程入って行くと富士塚がある。小さな塚で上に庚申塔が建っているとのことだが、暑さの中、寄り道をする気が無くなった為、寄らなかった。
【赤坂の石造物群】 (左側) 14:32~14:36
「動物病院」から直ぐ先に「赤坂バス停」があり、左後ろからの道が合流した所に銀杏の古木が聳えている。その木の下に石造物群がある。
不動明王の坐像を囲むように数基あるが、倒れている物が多く、刻字も擦れてしまっている。道標も読みとれなかった。
赤坂の地名は、ここが赤土の急坂であった為につけられたと云われる。
【道標】 (左側) 14:38~
石造物群から直ぐ、左に上って行く道があり、その曲がり口に細長い道標が建っている。大山街道は真直ぐ坂を下って行く。(左下の写真)。
正面に『右 国分 厚木、左 大塚 原町田』、右側面に『向テ 右小園 早川 綾瀬村小園』と刻まれている。
【崋山ゆかりの道】 (左側) ~14:43
道標の右手、左に曲がり始める所に崋山ゆかりの道と題する説明板が立っている(右上の写真と下の写真)。
ここから左折して、「東海古道」を約1.3Km南下した「JAさがみ早園」がお銀の家の跡で、さらに100m行った「小園広場」と言う小公園にお銀さまの墓があるが、遠いので行かなかった。
【崋山ゆかりの道】 ここから右手に向かう道は、古東海道との言い伝えがあります。 天保ニ年(1831)渡辺崋山は、絵の弟子高木梧庵(ごあん)を伴って江戸から大山街道を下り、この古道から小園村に入り少年期に世話になった「あこがれのお銀さま」を訪ねたのでした。 崋山は本名を登といい、政治家として画家として、また幕末の先覚者として有名な人です。 昭和六十三年三月 綾瀬市教育委員会 |
【馬頭観音】 (右側) 14:54
左カーブしながら坂を下って行くと「望地(もうち)交差点」に出る。
この交差点で「厚木街道」を渡ると二股になっており、右が上りで、左が下り道になっている。大山街道は右の道を上って行く。
上った最初の道を右折すると、すぐ左の空地に小さな馬頭観音が建っている。正面には『昭和五十年五月建之 馬頭観世音 施主井上常松』と刻まれていた。向かいは公民館。
馬頭観音を過ぎると急な下り坂(南坂)。その坂の上から正面を見ると大山が良く見える。
南坂から望む大山
【道祖神】 (右側) 15:00
南坂の途中右側に、地図とこの先の名所旧跡が載っている『自然と歴史のさんぽみち』と題する案内板が立っている。
坂を下り切り、道成りに右折するとすぐ先の右側に道祖神が建っている。正面には『道祖神』、右側面に『天保十四年 相州高座郡 望地村』、左側面に『卯正月十四日 氏子中』と刻まれていた。
【石橋供養塔】 (右側) 15:06
再び「厚木街道」に出たら左折して、目久尻川に架かる「目久尻橋」を渡ってすぐの「国分セミコン前信号」を右折する。
川に沿って進むとすぐ右側に『この河川の下には下記のように埋設物があります』と書かれた看板が立っている。
その看板の左下でフェンスの中に石橋供養塔が建っている。正面には『石橋供養塔』、右面に『文化十年癸酉・・・(草で見えなかった)』と刻まれていた。
この碑は、宝暦七年(1757)、木橋から石橋に架け替える為の募金活動をした国分の重田七三郎翁の功績を讃えようと翁の没後27回忌に、国分村の名主が建てたものと伝わる。
当時の碑は残っていないが、現在の碑は1989年の目久尻川護岸工事の際に発見された文化十年(1813)に改めて建てられたものとのこと。
【逆川碑】 (左側) 15:12
石橋供養塔のすぐ先で左折し、突当りを左折する。突当りの上は「伊勢山自然公園」になっている。
再び「厚木街道」の「伊勢山公園前信号」(五差路)に出たら右折すると、二股の真中に逆川碑が建っている。碑の左側には関東大震災で落ちた石橋の石、逆川史跡図と共に由来を刻んだ石板が建っている。
大山街道はこの二股を右に進む。
【逆川の由来】 逆川(さかさがわ)は大化の改新が行なわれたころ、条里制による海老名耕地のかんがい用と運送用に掘られた川といわれています。 その善全長は約ニ・五キロメートル、ここから凡そ一キロ上流で目久尻川を堰き止めて分水し、この地点で相模横山をよこぎり西北方に流れをとり、今泉境で耕地に注ぎ出ました。このような逆の流れ方をしていたので「逆川」の名が生まれたのでしょう。 なお、舟着場と呼ばれるところから下流は日本最古の運河として、平安中期まで利用されていたようで、その遺構は今なお地中に眠っています。 後世、流れの向きを変えて「新堀」といい、昭和十五年ごろまで国分・大谷・今里・杉久保・上河内・中河内・本郷・門沢橋・倉見・宮山などの田をうるおしていました。 現在この地点より先は埋め立てられ舟着場付近のみわずかにむかしの面影を残しています。 昭和五十七年三月二十七日 海老名市教育委員会 |
【石橋の石】 (上の写真で逆川碑の左後ろに見える黒い石板)
この石は、その昔、大山街道の交通の便をはかるため、目久尻川にかけた石橋の石で、大正十二年の関東大震災のとき川に落ちたものを、昭和五十二年十二月河川改修のとき引き上げたものです。これには宝暦七年(1757)に、国分の重田七三郎翁が企てた石橋勧進帳の木版が残っており、この架橋のありし日を物語っています。
昭和五十七年三月二十七日
【国分宿】
江戸から十四里、下鶴間宿へ二里、厚木宿へ一里。
【石塔群】 (右側) 15:20
上の逆川碑の写真で碑の左に見える道に進み坂を上って行く。頂上の信号を渡った右角に五基の石塔群がある。
石塔の左端には『相模國分寺阯保存指定地区 従是 西方十間・北方四十間 内務省』、続いて庚申塔等が三基、右端には大正三年の『南無妙法蓮華経法界萬霊』。庚申塔の側面には『東江戸道』『西大山 あつぎ道』と刻まれていた。
この左手に見える火の見櫓の下には往時、国分宿の高札場があったと云う。
【相模国分寺跡】 (右側) 15:22
上記石塔群の後の草地に『相模国分寺跡歴史公園案内板』が立っている。
この案内板の隣に温故館があったが最近移動したようである。
【史跡相模国分寺跡歴史公園案内板】 ここは、奈良時代に造られた国指定史跡相模国分寺跡です。地中の史跡遺構を壊さない範囲で利用できる広場です。 【史跡相模国分寺跡とは】 相模国分寺跡は、天平13(741)年に聖武天皇の詔によって諸国につくられた国分寺の1つです。 相模では、発掘調査や出土遺物の分析によって8世紀後半に創建されていたことが分かっています。 |
さらに、その西方に広大な相模国分寺跡があり、中央に七重塔の台座部分が残っている(七重塔のモニュメントが「海老名中央公」に建てられているので下記参照)。
案内板の所からは、高い段差があって台座の傍まで近寄ることが出来ないので、坂を下りる途中の大欅の所から右に回りこまなければならない。この地から全体を眺めて傍まで行かなかった。
【海老名の大欅】 (左側) 15:28
案内板から坂を下りた途中の歩道橋の手前に欅の巨木が聳えている。
内部が空洞になったのか、一部竹で覆われていた。
【海老名の大ケヤキ】 神奈川県指定天然記念物(昭和29年3月29日指定) このケヤキは、かつて船つなぎ用の杭として打ったものが発芽して大きくなり、以来、人びとが保護し育ててきたものと伝えられている。根回り十五・三メートル、目通り七・五メートル、樹高二十メートルに達する大木である。 ケヤキはニレ科の温帯性落葉高木で、県下でも沖積地や台地傾斜面などに自生しているため昔から親しまれてきた。屋敷内に植栽されることも多く、しばしばケヤキの見事な屋敷林も見かける。 もともとこのあたりでは、ケヤキ林が自然植生として栄えていた。昔の人が生活の知恵から打ちつけた杭も、ちょうどこの土地にあったものを使ったため、現在見られるほどの見事なケヤキに生長したものと推定される。郷土を代表する木として、永く保存する必要があり、県指定天然記念物に指定したものである。 神奈川県教育委員会 |
ケヤキの裏側に、「海老名かるた」の一つが大きく掲げられていた。
(け) 県央に さすが海老名の大欅
【国分寺】 (右奥) 15:30~15:40
大欅の所を左折すると国分寺の参道で、突当りの石段を上った左手に本堂があり、本堂の左側に国の重文である鐘楼、右側に尼の泣水がある。
石段の下に、(る) 瑠璃光の 如来あらたか 薬師堂 鐘楼の脇に、(つ) 釣鐘は 国分季頼(すえより)の 銘残す 尼の泣水に、(わ) 若き尼の 恋物語 尼の泣水 とあった。 |
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【梵鐘】 国指定重要文化財 国分寺建立の頃薬師堂もこの丘陵の上に設けられ、のち火災等の災害により、この地に移転されたのは室町時代であったろうといわれています。 鎌倉時代の末頃、国分に居館を構えていました海老名氏の一族国分季頼が當時の名工物部國光に鋳造させ正應五年(1292年702年前)国分寺、国分尼寺が薬師堂に移されていた時、寄進されたのがこの鐘であり大正十二年八月重要文化財として国の指定を受けました。尚、鋳工物部國光は、鎌倉円覚寺の鐘(国宝)も鋳造した人であり、この鐘楼は昭和五十一年三月に完成したものであります。 平成六年四月二十四日 東光山 國分寺 |
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【尼の泣水(昔話)】 天平時代に国分寺が造られ、やがて近くに国分尼寺が造られた時、尼寺の尼と国分寺の僧が親しくなることを禁じ、二つの寺の間には川が掘られた。 その頃、国分寺の下を流れる相模川で網をうつ若い漁師がいた。いつしか漁師と尼が愛し合う仲となり、夜毎河原で落ち合っていた。 ある日、日に日にやつれてゆく若者を見て尼が問いただした所、「国分寺の伽藍に反射した強い陽の光が川に射し、魚が逃げてしまう為、暮らしが行かず他の地に行かなければ・・・」と言った。 その真夜中に国分寺に火の手があがり、寺は燃え落ちてしまった。 後日、「恋に狂った尼が火を放った」という噂が広まって尼は捕らえられ、刑場の露と消えた。 やがて尼が葬られた台地の下から、涙の様な湧き水が一滴二滴と落ちるようになった。これを見た村人が「尼さんが罪を詫びて流している涙だ」と言って、湧き水を『尼の泣き水』と呼んだ。 |
【海老名中央公園】 (右奥) 15:50
街道に戻って歩道橋をくぐり、下り切って「厚木街道」にぶつかったら右折する。
「国分坂下交差点を」を過ぎ、次の「中央公園入口交差点」を右折すると、左側の商業施設「ビナウォーク」と「マルイファミリー」の間の中央公園内に1/3スケールで復元された相模国分寺の七重塔が建っている。
この目の前が「海老名駅」である。
【海老名市観光シンボルモニュメント・七重の塔】 七重塔は、七四一(天平十三)年、聖武天皇の「国分寺建立の詔」をうけて建立された相模国分寺の伽藍の一つです。 国分寺の塔には、国家の平和を祈る金光明最勝王経が安置されていました。過去2回行なわれた発掘調査によると基壇(建物の基礎となる土壇)は、一辺の長さがニ〇・四m、高さは一・三mの規模で、残存する礎石から塔の初重の広さは、一〇・八m四方、塔の高さは六五mにも及ぶものであったと推定されています。 また、基壇周辺で発掘された石敷や盛り土から、2回の修理もしくは建て替えが行なわれたことも分かりました。 この塔は、海老名市観光協会が、故大岡實氏の復元図を基に実物大の約三分の一のスケールで建設したモニュメントであります。 平成四年十二月竣工 海老名市観光協会 |
6回目の旅終了(16:00)。「海老名駅」。
本日の記録 : 街道のみの距離は、10.8Km(東名入口交差点~海老名駅入口交差点)
赤坂御門から新道ルート経由で、十一里十五町(44.8Km)
寄り道を含めた実歩行距離は、13.3Km(南町田駅~海老名駅) 累計:73.8Km
時間 22,000歩。