原宿・吉原宿 (片浜駅→新富士駅)
<旧東海道15回目
>
2002年11月3日(日)快晴
8:10ホテルを発ち、沼津駅より隣の片浜駅へ向う。JR東海「片浜駅」を本日の出発点とし8:30スタート。
(注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)
「三島宿・沼津宿」 ← 「目次」 → 「蒲原宿
・由比宿(前半)」
【松蔭寺】 (左側) 9:00
片浜駅から800mでJR東海道線の踏切を越えます。ここから右手に富士山が良く見えました。踏切から更に800m程進むと白隠(はくいん)禅師ゆかりの、松蔭寺があります。
【白隠禅師墓】 静岡県指定史跡(昭和29年1月指定)
本堂左手奥にあり、案内板も立っています。たまたま傍で掃除をしていた住職に聞いたところ、3基の墓石の左側が白隠禅師、中央が海山、右側が弟子の墓とのことです。
白隠禅師は、貞亨二年(1685)十二月二十五日、駿河国原宿(沼津市原)長沢家の三男として生まれ、幼名を岩次郎といいました。幼い頃から聡明で、六才の時、お寺にお参りして法華経の講義を聴き、帰ってから人々にその話しを聞かせたといいます。
十五才のとき松蔭寺で出家し、慧鶴(えかく)と名づけられました。十九才のとき諸国行脚の旅に出、美濃・四国・京都などで修行しました。そして五百年に一人の名僧といわれ、臨済禅中興の祖と仰がれるようになりました。享保二年(1717)に松蔭寺に入り住持(じゅうじ)となり、その翌年白隠と号しました。白隠の名は全国に知れ渡り、『駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠』とうたわれました。
白隠はまた禅画にも堪能で、釈迦・達磨・観音などを好んで描きました。それらの禅画は松蔭持などに多数現存しています。
明和五年(1768)十二月十一日、八十四才で入寂し、後桜町天皇より神機独妙禅師の諡号(しごう)を、明治天皇より正宗国師の諡号を送られています。
平成七年九月 静岡県教育委員会 沼津市教育委員会
【白隠禅師誕生地碑・産湯の井戸】 (左側) 9:15
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松陰寺のすこし先で、入口に「白隠禅師誕生地」の石碑と、奥に産湯の井戸があります。 “駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠”と歌われ、臨済禅中興の祖と仰がれる白隠禅師は、西暦1685年12月25日長澤宗彝(そうい)を父、妙遵(みょうじゅん)を母とし三男二女の末子として当時の屋号沢潟屋(おもだかや)に生まれる。15才の時松蔭寺の単嶺祖伝和尚を師とて自ら望んで出家仏門に入る。19才から32才まで修行行脚で全国を巡り、33才で松蔭寺住職となり84才で亡くなるまで、松蔭寺を中心に全国各地で真の禅宗の教えを広めた。毛筆の書画に秀でて達磨図や観音菩薩絵は特に有名である。現地が沢潟屋の跡地で禅師が生まれた時使用した『産湯の井戸』がこの奥にいまなお清水を湛えている。 |
【浅間神社】 【高札場跡】 (右側) 9:20
交番東交差点を渡ると、原交番の隣にあります。神社前には、高札場跡の写真と説明、及び、原駅付近の絵地図が掲げられています。
また、ここの反対側には問屋場跡の案内があります。
【浅間神社由来】
甲斐武田氏に仕えし植松平治右衛門出雲守源李重なる者天正十年(1582)三月武田勝頼陣没するや去って原町に至り住居す 李重敬神の念篤く慶長十四年(1609)八月当浅間神社を創建氏神として崇敬し李重の子孫は連綿として当宮の前に居住する植松本家なり
明治八年村社に列せられる
明治四十年神饌幣帛共進指定社に列せらる
昭和二十八年十月十六日宗教法人となる
例祭 十月十七日
【高札場跡】
(前略:高札の説明)
原宿の高札場は、この浅間神社にあった。
規模は、高さ一丈、幅一間、長さ二間五尺あったと言われている。
【原宿・本陣跡】 (左側) 9:25
浅間神社のすぐ先に『夢舞台・東海道』の標柱がありました。
吉原宿(宿境まで二里三十二町) ← 沼津市
原宿 → 沼津宿(宿境まで一里十二町)
その先、民家の門の前に本陣跡の案内板のみありました。
【東海道原宿 本陣跡】
原宿の本陣渡邉家は阿野全成(源頼朝の弟・義経の兄)の子孫であり、代々平左衛門を名乗って幕末に至っている。原宿の草分けであり広大な建物を持っていたので、自然に大名・幕吏等の宿所として本陣となり問屋・年寄、名主等を勤めていた。明治維新後、明治元年(1868)10月7日明治天皇東幸の時、本陣渡邉左衛門家で『御小休』をされ、その後も巡幸され「御昼」をされた記録もある。昭和20年の敗戦前まで『明治天皇行在所』と記された標柱が現在地に整備され立っていた。
間口は15〜17間で、建坪は235坪、総坪数は山林、畑を含め6,600坪の広大な規模であった。
本陣跡のすぐ先、駅入口交差点を左折すると130mで原駅です。
【原宿】 江戸から31里20丁(123.9Km)、京へ94里 人口約1940人
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安藤広重の東海道五拾三次之内・原『朝之富士』
高さを誇張するあまり、頂上が枠外に出てしまった絵である。 荷物をかついでいる男性の着物の模様は、「ロ」の字の中が「ヒ」になっている。 これは、広重の「ヒロ」である。江戸時代の絵師は洒落っ気があった。 |
【高嶋酒造】 (左側) 9:30
駅入口交差点より90mで、地酒「白隠正宗」を醸造している酒造所があります。
店の前に設備されている蛇口から、『富士山の霊水』が8:00〜20:00まで自由に飲めます。地下144.5mよりの天然水で、水質試験成績も表示されており、美味しい水です。
案内板は2枚掲げられており、上部の案内板には自噴井戸地下144.5mと書かれており、下部の案内板には14の次の数字が白く消されて自噴井戸地下14.5mになっていました。どちらが正しいのかHPを調べたら、「しずおか蔵元ウォッチ」に、高嶋家が13年がかりで地下150mの水脈を掘り当て、約300年前に降った富士山の雪解け水を使用しているとあったので、144.5mが正しいのだろう。
【要石(かなめいし)神社】 (左奥) 10:05
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「要石神社」へ行くため、新田大橋を渡ったところで左折して海岸通りの千本松原を歩くがなかなか見つけられなかった。しかし松原内は歩くのには気持ちが良かった。
やっと見つけた場所は、松原の小道を出た千本街道(県道380号線)の「温泉会館するが・富士ラドンセンター」の看板前に入口があった。松原内の小道をそのまま歩いていたら見つからずに終わっていただろう。 当区の開祖大橋家の二代目五郎左衛門が寛永年間に創建したものといい現在の社祠は天保十四年に再建したものである。水郷鹿島鹿取両神宮の要石と同じものであり本社に一部露出する火山岩の大塊はこらより北300mの大橋家屋敷井戸まで続くといわれこの為に安政の大地震にもこの地方のみ害憂がなく又聾疾者はこの社に祈願して穴明石を賽すれば平癒すると口碑あり境内には多数の穴明石が奉納されている。 昭和六十一年五月 沼津市一本松区氏子一同 |
ここから旧東海道に戻るには、千本街道沿い右側に本物の飛行機が飾ってある富士アセチレン工業鰍フ先、マンションとビニールハウスの間の小道を右折し踏切を渡ると戻ることができます(旧東海道は、県道163号線です)。千本街道をそのまま進めば1.5Km先の東柏原信号で旧東海道に合流します。
ちなみに、この富士アセチレン工業鰍ヘ勤め先の協力会社で過去数回訪問したことがある会社です。車で連れられて来た時は場所の感覚がなかったが、歩いてみるとここかと改めて良く分かるものです。今日は日曜日なので顔を出せなかったがしばらくぶりで懐かしかった。
街道歩きをしていると何時も思うことだが、車では気が付かずに通り越していたものを、同じ場所を歩いてみると新しい発見が数多く見つかります。これが道草ウォーキングの醍醐味だと思います。
【浅間愛 鷹(あしたか)神社】 (右側) 10:30
旧東海道へ戻るとすぐ桃里東バス停に浅間神社があります。
【由緒】
延亨二年(1745)の創建で、元和元年(1615)に鈴木助兵衛父子により当地の開拓が始まってから、百三十年後である。
神社の建造物は、何回も改築されている。今のは、昭和四十四年に建てられたものである。
境内社としては、山神社と天王社とがある。
当地区内には、別に、桜地蔵尊と稲荷神社とがある。
平成五年
【六王子神社】 (右側) 10:55〜11:10 (12,700歩)
浅間神社の先で東海道線の踏み切りを斜めに越えると清水市から富士市に入り、沼津から長い間歩いてきた県道163号線も東柏原で県道380号線に合流してお分かれです。 そこから檜信号まで380号線を進みます。
合流してすぐ東田子の浦駅前に到着しますが、駅入口手前に六王子神社があります。
【六王子神社 伝説「三股の伝説」】
昔、沼川と和田川と潤井川とが合流し深い渕になっている所を『三股』と呼んでいました。この渕には龍が住んでいて、毎年お祭りをし、少女をいけにえとして捧げるしきたりがありました。
今から四百年程前、関東の巫女七人が京都へ向かう途中、このいけにえのクジを引き、一番若い『おあじ』が引き当ててしまいました。仲間の六人は国許へ引き返す途中、柏原あたりにきたとき、悲しみのあまり世をはかなんで浮島沼へ身をなげてしまいました。村人が六人のなきがらを一カ所に弔ったのがこの六王子神社だといわれています。
おあじは鈴川の阿字神社に祀られています。
平成十二年一月 富士市教育委員会
境内で休憩し、駅のトイレを借りて11:15再出発しました。
駅を出てすぐ左側の駐車場入口に、『見よう歩こう富士市の東海道』と称する標柱が立っており、その側面に「間宿 柏原・本陣跡」と記されていましたが、案内板等はありませんでした。
【立円寺・ゲラティック号記念碑】 (右側) 11:18
東田子の浦駅から250mの所にあり、境内には赤い錨の「ゲラティク号記念碑」と三角石の「望嶽碑」があります。
【ゲラティック号遭難誌】
清水港より救援米を運ぶ途中昭和五十四年(1979)十月十九日台風20号に遭遇し強風と高浪により船体は立円寺南方の柏原海岸に打ち上げられ救助を求める二人の船員の遵い生命も奪われました。船体は直立のまま海岸線と防波堤の中間の陸地に打ち上げられ新聞テレビのマスコミにも登場し日曜、祝日には、五万人の人出を数え売店十数軒出店するなど近郊は勿論のこと東京・愛知・山梨より見物人が押しかけた。船体は六ヶ月間を要して解体処理されここに遭難者の慰霊を祀り碑を建てる。
屯数6320t。 全長155m。 高さ巾各20m。 錨の重量4t。
【増田平四朗の像・一里塚・昭和放水路】 (左側) 11:25〜11:30
昭和放水路の広沼橋を渡るとすぐ左側に標柱(増田平四郎の像・一里塚跡・間宿柏原)があり、松林の中に平四郎の石像があります。
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【増田平四郎とスイホシ】 天保七年(1836)の大飢饉や度び重なる水害から民を救済するため、原宿の増田平四郎(1807〜1892)が浮島沼の大干拓を計画し、現在の昭和放水路と同じ場所に大排水路を完成させたのは明治二年(1869)の春で、人々は『スイホシ』と呼んだ。 平四郎は韮山代官所への工事許可を願い出ること十二回、勘定奉行へ籠訴すること六度に及んで、ようやく事業の重要性と彼の努力が認められ、慶応元年(1867)に着工の運びとなった。それは計画の発案から二十七年目のことであった。 事業は身延山久遠寺から多額の資金援助を得るなど、沼から海岸まで全長505m、幅7mの大規模な掘割を建設したが、思いがけなくもその年の八月の高波で跡形もなく壊された。平四郎の大計画は頓挫したが、彼の願いと夢は後の人々に受け継がれている。 平成六年三月 富士市教育委員会 |
【増田平四郎の像】
浮島沼の干拓に生涯を捧げ、「スイホシ」と呼ばれる排水路の大工事を行った人。現在はその跡に「昭和放水路」が出来ている。この付近に江戸から33里(129.69Km)の一里塚があったという。
放水路のすぐ先の街道から富士山が綺麗に見えます。
【高橋勇吉と天文堀】 (右側) 11:53
檜の信号で県道380号線から分かれて、左方向の県道170号線に行きます。
170号線に入ると程なく右側に大きな石碑が現れます。
三新田(大野・桧・田中)の八十ヘクタールに及ぶ水田を幾多の水害から守った天文堀は、大野新田の高橋勇吉(1806〜1866)が天保七年(1836)から嘉永三年(1850)の十四年間の歳月を費やして完成した排水用の掘割である。
勇吉は大野新田を開いた高橋庄右衛門の子孫で、彼が三新田の干拓を考えたのは天保七年の大飢饉による村民の困窮に心を痛めたからで、排水計画の研究の傍(かたわ)ら、多くの反対や苦難を乗り越え、ようやく村役人の賛同と幕府の許可を得て、立派な排水堀を寛政させたのであった。また勇吉は自分の田畑や財産などを売り払って工事費にあてたといわれ、勇吉が天文の知識や土木技術に優れていたことからこの掘割のことを人々は「天文堀」と呼んだ。いま、三新田の耕地は、土地改良や道路などで開発が進み、勇吉の天文堀は、その跡を見ることはできない。
平成六年三月 富士市教育委員会
【妙法寺】 (左側) 12:15(18,000歩)
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大きな製紙工場の前にあり、インドや中国風の雰囲気を持った不思議な寺です。 石の鳥居、屋根に龍をあしらった原色の香炉(写真参照)、エキゾチックな毘沙門堂、中国風の七福神等がある。
旧暦の正月7日〜9日の3日間が大祭でダルマ市が開催される。 しかし、私達は万葉集の山部赤人の「田子の浦ゆうち出て見れば真白にそ富士の高根に雪は降りける」の歌に浸りたく、道草することにしました。 |
【田子の浦海岸】
妙法寺の裏手から海岸に出て、田子ノ浦港まで防波堤の上を歩いてから吉原駅に戻りました。
長かった千本松原もここで終わり、海岸沿いは砂山公園になっていました。
海の青、松林の緑、富士山の白雪と、コントラストが絶妙のお薦めコースです。
万葉集に詠まれた田子の浦は、この辺りの海岸ではなく薩捶峠辺りの海との説がある。
【浅間宮・富士塚】
田子の浦港まで行かずに、砂山公園が終わった所から左折して吉原駅へ戻る途中に「浅間宮」がありました。ここの「富士塚」はかなりの高さに石が積まれて壮観です。塚の上まで上ったら富士山が綺麗に見えました。
港までは行きませんでしたが、先端には「富士と港が見える公園」になっています。
【富士塚(天の香久山)】 史跡
ここに積み上げられた石は、むかし富士登山をする人々が、登山の安全を祈って海水で水垢離(みずごり)をしたのち、海岸の石をひとつづつ置いて行ったものです。
また、むかしこの海岸に大津波がおしよせて多くのひとびとが家を失い苦しんでいたとき、鈴川村の豪農であった三平という者が「施し米」をするかわり、ひとびとに浜から小石を一つずつ運ばせ築いたことから「三平塚」とも呼ぶ、とのはなしも伝わっています。
なお、戦国時代には相模国の北条氏はたびたびここを本陣とし、駿河国の今川氏、甲斐国の武田氏と対峙したといわれ、現在に「天の香久山砦」の名前を残しています。
平成二年三月 富士市教育委員会
【浅間山の由来】
このあたりを天の香久山と称し、万葉の歌人、山部赤人が霊峰富士に題して詩つた名勝の地であるこの小山は浅間山と言いつたえられ、浅間山と呼んでいるが、今から約1300年前の飛鳥時代は富士山に対する信仰の念、とみに厚く行者、役の小角が、その姿富士に、なぞらえて、この小山を築き、遥か大富士の遥拝處としたと言はれる。
室町時代から江戸時代にかけて吉原湊に上陸した富士道者が水清き田子浦辺で精進潔斎、水垢離をなし、玉石一つを浅間宮の祠に捧げ登山の安泰を祈った富士信仰の霊場であった。
古誌に依ると、この小山は浅間塚、富士塚、香久山、ともに記されており、又吉原城、香久山城、香久山の砦等とも記されているが、この西方に沼川が流れていた。
昭和三十五年田子浦港の築港に当り、この沼川は航路として変貌したが、この沼川は高台に祀られている阿字神社にゆかり深き、生贄の沼であり、戦国時代には殊に船の出入り、数多く吉原湊として大いに栄えたので諸国武将は競って吉原湊を制覇せんと欲し、度々相争った。
即ち天文二十三年三月二十六日、北条氏康父子小田原を発して香久山城に陣を布き生贄の沼のほとりに旗を翻がえし、今川、武田氏の軍と対峙した古戦場である。
東国記行に「昨日より風は、なぎたれど、誠にたゝぬ日はなき浦辺に漕ぎいづるほどもめずらし、敵地への送りなれば、警護の兵具入れて、人数あまた乗りたり。一里ばかり過ぎたれば、吉原城を間近く見えたり」と記してある。
樹下斎条とし、此處に永き星霜を圣た一基の燈篭があるが、縹緲たる駿河の海の潮風に耐えて文字は薄れているが、元禄年間の建立、今泉の佐々堤玄が書したものであり、この祠は木之花咲耶姫を祀り、山神をも併せて祀ってある。そしてたゞ心配されることは燈篭の火が絶えることだ。と記してある。
以上をもって浅間山の由来とする。
昭和五十一年一月十八日 鈴川区管理委員会 建立
【河合橋】
私達は寄り道して田子の浦港から戻って来たため、吉原駅の橋上を南口から北口に抜けて駅北口信号で旧東海道に合流しました。
吉原駅で13:00。駅周辺には期待していた食堂等がなく空腹だったが、我慢して先に進むことにしました。
駅北口信号の先で河合橋を渡ります。渡ると工場地帯に入るが、真直ぐ行かず左斜めの道(県道171号線)に行きます。一旦国道139号線に合流してすぐ、富士由比バイパス(国道1号線)と東海道新幹線のガードをくぐります。ガードをくぐる所で再び右手方向の県道171号線に進みます(三本に分かれていたら真ん中の道です)。
【左富士神社】 (左側) 13:45〜14:05
上記、国道139号線との合流三角点でやっと見つけたコンビニで弁当を購入して、この左富士神社の境内で昼食としました。
新幹線のガードをくぐったすぐ先で、北西に向っていた県道171号線が真北に曲がり、更に北東に曲がる角にあります。
【吉原の左富士】 (左側) 14:06
「左富士神社」から県道171号線が北東へとカーブします。わずかの距離だが道が東へ戻るようになるため、今まで右側に見えていた富士山が一瞬左側に見えるようになります。
旧東海道で左側に富士山が見えるのは、二ヶ所しかなく、ここと茅ヶ崎の「南湖の左富士」(9回目参照)です。茅ヶ崎では左富士を見ることが出来なかったが、吉原では綺麗に見られました。左富士が見たくて快晴の日を選んで来た甲斐があった。
「左富士神社」から信号一つ渡った日清紡の工場手前左側に、大小二本の松と案内板、及び、『夢舞台・東海道』の標柱が立っています。
富士川町(宿境まで一里二十七町) ← 富士市 吉原宿(左富士) → 原宿(宿境まで二里九町)
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【東海道「歴史の道」 名勝 左富士】 (下記【吉原宿】広重の浮世絵参照) 東海道を東から西に行くとき、富士山はいつも右手に美しい姿を見せますが、ここだけは松並木の間から左手に見えることから、“左富士”と呼ばれて、街道の名勝となりました。 浮世絵師安藤広重が描いた風景画「東海道五十三次内吉原」は左富士の名画であり、彼の道中日記に「原、吉原は富士山容を観る第一の所なり、左富士京師(京)より下れば右に見え、江戸よりすれば反対の方に見ゆ。一町ばかりの間の松の並木を透して見るまことに絶妙の風景なり。ここの写生あり。」と記されています。今日、周辺には工場、住宅が建ち並び、浮世絵に見るのどかな風情はありませんが、わずかに残る一本の老松は往時の左富士をしのぶものとして、大変貴重です。 昭和六十一年二月一日 富士市教育委員会 |
余談ですが、新幹線の車窓からも左富士が見られる場所があります。静岡駅を過ぎてすぐの安倍川を渡って左へカーブした辺りから東名高速と交差するまでの2〜3分間、左側の窓から後方に見えます。
【馬頭観世音 ・髭題目碑】 (左側)
日清紡の工場から再び県道は北西に曲がりますが、曲がったすぐ先の郵便局の前に馬頭観音のお堂があり、その隣に髭題目の碑があります。
【平家越 の碑】 (右側) 14:17
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和田川にかかる平家越之橋の手前に碑と道標が3基あります。 治承4年(1180)10月20日、源頼朝は軍勢を率いて平惟盛を総大将とする平家軍と富士川を挟んで対陣しました。その夜半、甲斐源氏の武田信義の軍が密かに平家軍の背後へまわって、夜襲をかけようとしたその時、あたりに眠る幾万かの水鳥が、不意に羽音をたてて飛び立ちました。これを敵襲と誤った平家軍は陣を乱して西に敗走し、合戦は一線にも及ばず源氏軍の大勝利に終わりました。市内にはこの「平家越」をはじめ「呼子坂」「和田川」など、富士川の戦いにゆかりの深い地名や名前が残っています。この記念碑は史跡を永く後世に語り伝えるため、大正13年、今泉村青年団によって建立されたものです 富士市教育委員会 |
【吉原宿】 江戸から34里26丁(136.4Km)、京へ90里30丁 人口約2830人
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安藤広重の東海道五拾三次之内・吉原『左富士』 江戸時代から明治初期まで日本人の馬に対する扱いは、外国人から見て極めて特殊だったらしい。 日本の馬は全く調教されておらず、打たれることもいじめられることもなく馬の好きなようにさせていた為に手に負えなかったとのこと。馬方は親切だが馬を扱う技術はないと外国人から指摘され た書物がある。蹄を保護するためにわらじを履かせるときも大変だったらしい。 これは、当時の日本の馬は単なる乗り物ではなく、ペットであったからである。一緒に寝起きするほど大事にされていたことからも分かる。 |
吉原宿は江戸から数えて東海道十四番目の宿場町である。しかし、度重なる津波や高潮の被害により三たび所替えをし、現在の地となった。
延宝八年(1680)八月の大津波でかっての吉原宿(現在の富士市依原・通称「中吉原宿」)が大被害を受けると、直ちに所替えの準備にかかり、幕府の許可を得て、北方のこの地を選び、天和二年(1682)に所替えをした。
東の木戸を旧日産自動車西門の辺りとし、西は小潤井川の四間橋とした。宿の面積は十三町三反九畝(約13.3ヘクタール)、石高は百一石余。長さは約十一町(約1200m)、奥行き平均三十間(約54.6m)とし、まず新しい町中に東海道を通し、それに沿って問屋場の位置を定め、道路の両側に二百九十軒の民家をおおよそ中吉原宿時代を基準にして割り付け、裏道をつけ、寺地を定めた。
新しい吉原宿の町割りの基点として、天満宮(天神社)を鬼門に当たる場所に設けたが、神社も寺院もみな中吉原宿から所替えをしたという。また、再建のため家の材木には富士山の風損木(ふうそんぼく)を利用した。
その後、吉原宿は本陣ニ軒、脇本陣四軒に加え、百軒を越す旅籠屋をかかえ、東海道有数の宿場町として栄えてきた。
【鯛屋旅館(鯛屋興三郎)】 (左側) 14:40
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創業天和二年(300年以上前)。 一泊二食で5,300円(2002年11月現在)。 横丁を進み大通りに出る直前右側に西木戸跡の標柱が立っています。ここで細い道が終わり、国道に出ますので左折します。
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【旧東海道跡の碑】 (右側) 15:00
次の錦町交差点の歩道に細長い石二枚と案内板が立っています。この交差点の右に富士市役所があります。
昭和四十一年、富士、吉原、鷹岡のニ市一町が合併して現富士市となりこの周辺は、中心市街地として依田原新田区画整理事業により整備されましたが、それに伴い旧東海道がこの地で分断されました。
この西側に東海道跡の碑が置かれ、平成十三年東海道400年際に因み居間のように改修されました。
砂利道に敷かれた細長い石は、ここより南方350m青島地先より出土した当時の石橋の石です。この上を大勢の旅人や荷車、参勤交代の大名行列が通ったことでしょう。東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんが渡ったかもしれません。すべすべした石の表面を触ってみると賑わった往時が偲ばれます。
吉原地区まちづくり推進会議
【袂の賽神】 (右側)
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「旧東海道跡の碑」のある交差点を渡って西側斜めの道を行き、高島交差点で右折して潤井川へ向います。
潤井川橋を渡ってまもなく右側の凹みに「袂(たもと)の賽神」というユニークな道祖神が鎮座しています。 旧東海道を離れて駅へ向かう道が長いと、歩くのがつらくなるのはナンデダロウ!
タクシーに乗ればよかったと何度か思いました。 |
15回目の旅終了(15:45)新幹線「新富士駅」より帰宅 ◆本日総歩数:34,300歩
「三島宿・沼津宿」 ← 「目次」 → 「蒲原宿
・由比宿(前半)」