三島宿・沼津宿 (三島駅→片浜駅)
<旧東海道14回目>
2002年11月2日(土)晴
10:10新幹線「三島駅」スタート。(注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)
下記名所は、2002年に訪れた時、三島駅から順に訪れた場所であるが、2018年に駅周辺名所として別の場所も追加して訪れた為、前回(13回目)にまとめて記載したので、そちらを参照して下さい。
@【楽寿園】 A【白滝公園
】 B【本陣跡】 C【時の鐘 ・三石神社】 D【蓮馨寺】
三島駅から上記名所を巡ってから、「三島広小路駅」前の「広小路踏切」を渡り、「千貫樋信号」手前の境川橋へ進む。
【千貫樋(せんがんどい)】 (右側)
境川橋に案内板が立っており、そこから右手に 千貫樋が見えます。
伊豆・駿河の国境、境川にかけられてある樋で、長さ42.7m、巾1.9m、深さ45cm、高さ4.2mである。
創設については諸説があるが、天文二十四年(1555)今川、武田、北條三家の和睦が成立した時、北條氏康から今川氏真に聟(むこ)引出物として、小浜池から長堤を築き、その水を駿河に疎通させたというのが一般に認められている。
この疎水により清水町の新宿、玉川、伏見、八幡、長沢、柿田の耕地約130ha(旧高200石)が多大の恩恵を受けるに至った。
樋は、はじめ木樋であったが大正十二年関東大震災の際、崩落したので現在のコンクリートに改めた。千貫樋の樋名については、
一、架設が巧みなため銭千貫に価する。
二、この用水が高千貫の田畑を潤している。
三、建設費が銭千貫を費やした。
等が、命名の由来と伝えられている。
清水町教育委員会
【常夜灯】 (右側)
|
千貫樋の先に建っています。 建立は、弘化三年(1846)で、両側に秋葉大権現と富士浅間宮と刻まれています。いずれも火を鎮める神様です。名主をはじめ村人が防災の願いを込めて造ったものです。 最初は、ここの筋向いの旧東海道の十字路の隅に立っていました。一時、耕地整理(昭和三年〜同二十六年完了)に伴い氏神の地方神社に移されていましたが、東海道400年祭を記念して平成十三年七月に現在地に移築されました。均整のとれた美しい姿の石灯篭です。防災、村内安全とともに東海道を行きかう旅人の安全も見守っていたことでしょう。 清水町教育委員会 沼津宿(宿境まで一里) ← 清水町 新宿(向かい宿) → 三島宿(宿境まで二町) |
【伏見の一里塚】 (左右)
標柱から更に進むと、国道1号線と交差する200m手前の両側にあります。日本橋から二十九里目です。
左側は、宝池寺(ほうちじ)境内にある復元されたもの。(下記写真左側)
右側は、玉井寺(ぎょくせんじ)脇にあり、榎が植えられて比較的原型を保っているもの。(下記写真右側)
玉井寺側に案内板が立っています。
|
【一里塚】 所在 清水町伏見玉井寺境内 (前略;一里塚の説明) この一里塚と三島市塚原(山中)にある一里塚との距離は正確であるが、沼津日枝神社境内の一里塚との距離は短かい。 なお、向かいの宝池寺にも一里塚があるが、こちらは原形を改修してある。 清水町教育委員会
|
|
旧東海道は一里塚のすぐ先、八幡交差点で国道1号線を横断して引き続き県道145号線を直進しますが、「柿田川湧水群」を見るためにここで道草をすることにしました。
【柿田川公園】 12:15〜13:15
一里塚のある宝池寺の 角を左折し、国道1号線の八幡東交差点をもう一度左折すると、250m程の右側にあります。
本日の昼食は、この八幡東交差点角にある大きな弁当屋「てんじんや」で弁当を購入し、柿田川公園で食べました。
公園に入ったら、右手の道を谷に下りて行くと展望台があり、「わき間」と呼ばれる多量に水が湧き出る穴が見られます。あまりにもの透明さに我を忘れて見入ってしまいます。(下記写真右側)
元の入口に戻り、左手広場の奥に進むともっと身近に「わき間」を見ることができ、クレソンも沢山生えていました。(下記写真左側)
「わき間」は3箇所あり、湧水広場では実際に足を入れて湧き水の冷たさを体験できます。
柿田川は湧き水だけでこの水量があるのかと驚いてしまうぐらいとうとうと流れています。
|
【東洋一を誇る 柿田川湧水】 柿田川は清水町中央部にあって平地部での湧水を源とし、1,200mを流下し狩野川に流入している。 湧水は富士山東南斜面標高1,700m付近より発する三島溶岩流内部を流下する地下水が空洞内部を侵食し大規模な地下川となってこの地に湧出し柿田川を形成している。 水質も良く、日量約126万トンの湧水量は飲料水として近隣市町まで利用している他、工業、農業用水として利用され貴重な水資源とされている。 加えて柿田川流域には、史跡、大樹、珍しい動植物など保護すべきものが多く、その景観も素晴らしく美しいものがある。 |
|
【長沢八幡宮・頼朝、義経対面岩】 (右側)
|
八幡交差点(旧東海道と国道1号線との交差点)まで戻り、再び県道145号線を行く。 県道に入るとすぐ『長沢学校跡』の案内があり、その先に長い参道を持った『長沢八幡宮』があります。
神社拝殿の左奥に腰掛けやすい二つの石があり、これが対面石です。(左の写真) 治承四年(1180)十月、平家の軍勢が富士川の辺りまで押し寄せてきた時、鎌倉にあった源頼朝はこの地に出陣した。たまたま、奥州からかけつけた弟の義経と対面し、源氏再興の苦心を語り合い、懐旧の涙にくれたという。 この対面の時、兄弟が腰掛けた二つの石を対面石という。 またこの時、頼朝が柿の実を食べようとしたところ、渋柿であったのでねじってかたわらに捨てた。すると、後に芽を出し二本の立派な柿の木に成長し、この二本は幹をからませねじりあっていたので、いつしかねじり柿と土地の人は呼ぶようになった。 清水町教育委員会 |
【長沢の松並木】
八幡神社から旧東海道に戻るとすぐ、標柱が立っており、数十本の松並木があった。
沼津宿(宿境まで二十一町) ← 清水町 長沢(松並木) → 三島宿(宿境まで十七町)
国道から長沢の町に入ると、庭も家も大きなお屋敷が多くなり、岩崎姓がいたるところで見受けられるようになる。
すぐ先の黄瀬川橋を渡ると沼津市に入ります。
そう言えばバルセロナオリンピックの競泳で金メダルを取った岩崎恭子も沼津市の出身だったことを思い出した。
【潮音禅寺】 (右側)
黄瀬川橋を渡ったすぐ先にあり、門前に大きな「龜鸖観世音菩薩」と彫られた石碑が建っています。この字の右側には「東海道黄瀬川龜鸖姫之古跡」、左側には「駿河一國三十三番・駿豆横道十一番札所 東海山潮音禅寺」と刻印されています。
「亀鶴姫の碑」という標識のみ立っていて、説明板がなかったので、後日インターネットで調べてみたことを要約すると。
小野政氏が子に恵まれないため里の観世音に祈ったところ一女に恵まれ、亀鶴という名前を付けたが両親に早く死なれ、18才の時鮎壺の滝に身を投げて死んだという。
一説には、源頼朝が富士の巻狩の際、招こうとしたが、白拍子の亀鶴は応じないで同じく滝に身を沈めたという。
また、工藤祐経に召されたが、曽我兄弟の復讐で祐経の後を追って死んだとも云われている。
潮音禅寺の隣、県道に合流する手前の駐車場に「従是西沼津領」の傍示杭が立っているとのことだが、大きい石碑が何故か目に入らなかった。
【平作地蔵】 (左側)
県道380号に合流して『江戸時代の下石田村要図』が左側に見えたら、狩野川の土手に沿って左へ入ると黒瀬橋の下にあります。
|
【日本三大仇討の一 平作地蔵尊の由来】 この地蔵尊はいつの頃創建されたか明らかでないが有名な浄瑠璃「伊賀越道中双六」に出てくる、沼津の平作にゆかりの深い地蔵尊としてその名を知られている。 地蔵尊の建てられている場所に昔一軒の茶屋があり主を平作と云い娘のお米(後の渡辺数馬の妻)に茶店をやらせ自分は旅人の荷担ぎを業としてい居りました。そして仇河合又五郎の行方を知っている旅人十兵衛(二十数年前に別れた平作の子)に娘お米の夫渡辺数馬の為に、平作は自害してその居場所を聞き出す。 〜沼津千本の場面〜 平作決心して自害し、「死にゆく仏の供養として聞かせてくれ」と申します。 十兵衛はその情に引かされ遂に明かします。 「仇河合又五郎の落ちゆく先は九州相良吉田で逢うたと人の噂」と浄瑠璃の名台詞で余りにも有名です。 平作のおかげで数馬の義兄、荒木又右ヱ衛門の助太刀で首尾よく仇討ちの本懐を遂げることが出来、平作爺さんの義侠心は後の人々の心を打ち、茶店のあったと云う場所に一つの碑を建て地蔵尊を建立しました。 現在この地蔵尊は延命子育地蔵(通称もろこし地蔵)として長い間土地の人々の信仰を集め、例祭は毎年七月三十一日に新しい精霊を迎えて地元民の手で賑やかに行われております。 山王前自治会 |
【一里塚跡・玉砥石】 (右側)
平作地蔵の先の小さな公園に二つ共あります。
【玉砥石(たまといし)】 静岡県指定考古資料(昭和32年5月指定)
古墳時代 高さ:大砥石189cm、小砥石112cm
玉砥石は、今から1200〜1300年前に玉類を磨くために用いられた砥石と伝えられています。柱状の二つの大石にそれぞれ直線的な溝があり、ここに玉の原石を入れて磨いたと考えられています。
承平年間(931〜938)に書かれた和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)という書物には、駿河国駿河郡(現在の駿東郡)に玉造郷の名が見えます。この玉造郷は、一説では香貫地区一帯であったとされています。この説を支える根拠としては、狩野川対岸にある玉造神社、玉砥石が使われていたと考えられる時代の大集落である御幸町遺跡や藤井原遺跡があります。また、この付近には古墳が多く、各種の玉類を数多く出土しています。しかし、香貫地区一帯が玉造郷であるという確かな証拠は、今のところ得られていません。
この玉砥石がいつから東海道の日枝神社参道脇のこの地にあるかは明らかではありませんが、天明六年(1786)尾張藩主高力猿猴庵による見聞図集にはそれらしい大石が描かれています。
玉砥石は静岡県下では他に発見されておらず、貴重なものであることは確かであり、静岡県指定の考古資料となっています。
平成十一年二月 沼津市教育委員会
【一里塚】 (江戸時代初期・江戸から三十里)
一里塚は、慶長九年(1604)江戸幕府が江戸日本橋を基点として一里毎に設けた里程標で、主要な海道の両側に塚を築き、榎や松を植えたものです。これは、従来一里を六町としていたが、一里を三十六町に変えたため、その周知を目的にしたものとも云われており、榎や松の木陰は、旅行く人の憩いの場としても利用された。
この一里塚は、清水町伏見にあるもの(現玉井寺及び宝池寺地内)から計測すると距離が不足であるが、本来は本町地内につくるものを宿場内であるために東方に寄せて、日枝神社旧参道脇のこの地に築いたといわれています。江戸時代の絵図には、反対側の狩野川の川べりにも一対の片方が描かれていますが、現存していません。また、沼津市域では大諏訪と松長の境に三十一里目、原地内に三十二里目の一里塚がありましたが、これも現存していません。
ここには、終戦直後まで榎が威容を誇っていましたが、枯死したためにあらたに植えられています。
平成十年十一月 沼津市教育委員会
【日枝神社】 (右奥)
一里塚の後ろ、県道を渡った所にあります。
【沿革】
この地域は、平安時代大岡庄と称され、関白藤原師通の領地であった。嘉保二年(1095)美濃守源義綱が延暦寺の僧、山王の神主を殺害する事件があり、関白藤原師通はこの訴えを拒絶した為、僧・神主の呪詛により38才で死亡した。師通の母は近江国の日吉大社の御神霊を分祀し八町八反の田を寄進して謝罪の礼を表されたのが当社の起源である。時に第七十三代、堀河天皇、永長元年(1096)のことである。
境内には芭蕉の句碑があります。
都出て神も旅寝の日数哉 はせを
【狩野川】
ここの花火大会は、他都市に先駆けて始まったもので、東海地方随一のものです。
旧東海道は、大手町交差点を左折、駿河銀行本店を右、左とクランク曲がりし、永代橋が左手に見えたら右折して下さい。
その先の街道(県道163号線)は元吉原までほとんど真直ぐで、海岸沿いは千本松原になります。
大手町交差点を右折するとすぐ沼津駅です。
私達は、大手町交差点手前の中央公園で狩野川に出てみました。ここで川は東から南へほぼ直角に曲がります。そのカーブしている護岸に沿っているのが川廓通りで、「旧町名」のプレートがありました。
【旧川廓(かわぐるわ)町】
志多(下)町と上土町との間の街道沿いにあって、前面は狩野川、背後は沼津城の外廓に接した狭い町域であった。
狩野川と城廓に挟まれた土地に由来して、町名が付けられたとされている。
【沼津宿】 江戸から30里2丁(118Km)、京へ95里半 人口約5350人
安藤広重の東海道五拾三次之内・沼津『黄昏圖』 黄昏どき、狩野川沿いに沼津宿へ向かう旅人を描いている。 天狗の面を背負っているのは、金毘羅参りに行く人である。 月が出ている五拾三次は、この絵だけである。 沼津は塩の取引が盛んで、後の白壁の土蔵は大きな塩問屋と思われる。 |
現在の狩野川 |
【乗運寺】 (左奥)
|
永代橋からすぐの浅間町交差点を左折した右側にあります。
山門を入ると立派な松。入って右手に「若山牧水の墓」があります。庭園も写真のように綺麗です。 当山の開山増譽上人長円は、比叡山延暦寺阿闇梨乗運公の弟で、山城国に生まれ、知恩院にて学を修めたのち、諸国を行脚し当地に至ると、海岸の松原が戦乱により荒廃し、住民は潮風の害を受け苦しんでいた。上人は、松原の復元を発願し、松苗を一本植えるごとに阿弥陀経を誦し、辛苦の末ついに一千本の松を植える悲願を達成しました。これが今日の千本松原の基となり、人々は増譽上人の徳業に感謝し庵を建立しました。天文六年(1537)千本山乗雲寺の草創です。 天正八年(1580)十二月二十日遷化 享年八十九歳 |
【千本松原】
乗雲寺から海岸へ進むと、沼津公園(千本浜公園)に出ます。ここから田子の浦港まで、海岸と千本浜道の間が延々と千本松原になっています。
私達は、しばらく旧東海道を離れて松原の中を歩きました。
公園内には、「若山牧水歌碑」、「井上靖文学碑」、北条・武田合戦の戦死者の「首塚」などがあります。
【若山牧水歌碑】
幾山河 こえさりゆかば
寂しさのはてなむ国ぞ けふも旅ゆく
歌人若山牧水(本名繁)は、明治十八年(1885)宮崎県に生まれた。旧制延岡中学校時代から短歌に親しみ、早稲田大学在学中に中国路を旅し、この『幾山河』の歌を作った。
二十四歳のときに出版した歌集『別離』が歌壇に認められ一躍世に出た牧水は、大正九年(1920)夏、一家を挙げて沼津に移住した。
その後、千本松原の景観に魅せられ、この松原にほど近い地に新居を構えた。旅と自然に親しみ、酒をこよなく愛した牧水は調べの美しい多くの名歌を残し、昭和三年(1928)九月十七日四十三歳で永眠した。
墓所は、この近くの千本山乗雲寺にある。
この歌碑は、全国で最初の牧水歌碑として昭和四年七月に建設された。
沼津市
【井上靖文学碑】
千個の海のかけらが千本の松の間に挟まっていた 少年の日 私は毎日それを一つずつ食べて育った
【六代の松碑】 (平家物語ゆかりの地) (左奥)
旧東海道に戻り、東間門町「六代松 是より南一丁半」の石柱を左折(海岸方面)したところにあります。
六代は、平清盛を三代とし、重盛、惟盛、六代と続く平家の頭領となる血を受け継ぐ御曹司である。父親の幼名が五代であったことと符合する。
元服前に壇ノ浦で平家が滅亡(文治元1185年)すると捜し出され、鎌倉に下る途中の千本松原において危うく斬首されるところを文覚上人の力により助けられる。平家の末路を語る上で最も人々の心に残る場面の一つである。その後、出家し妙覚と名乗り、文覚上人の謀反に連座し、謀せられ、その首を共の者が思い出深い千本の松の根元に葬ったと伝えられる。
江戸幕府の命を受けて、道中奉行井上美濃守藤原利恭(としやす)らが文化三年(1806)に完成した『東海道分間延絵図』にも、千本松原の中にある一際大きな松が描かれており、六代御前旧林の文字がある。
民間では、学識の深い俳人秋里離島が寛政九年(1797)に板行し好評を博した『東海道名所絵図』には、文覚、六代御前を助けるの絵と共に他より枚数を多くとって掲載されている。
平家物語の名場面として知られ、東海道の旅人達に親しまれた巨木の六代松であったが、枯れてしまい、これを惜しんだ人々により天保十二年(1842)碑が建てられた。撰文は沼津藩典医駒留正隆により、平家物語を根拠としている。
平成十一年十一月 沼津市教育委員会
【傍示杭 (従是東沼津領】 (右側)
「六代の松」から数百m行った西間門の八幡神社の石垣の上にあります。
碑は、写真で判るとおり「従是東」までしかなく、下部が失われていました。
|
【沼津藩領境傍示】 安永六年(1777)十一月六日、水野出羽守忠友は、十代将軍徳川家治から沼津の城地を賜わり、築城を命ぜられた。 こうして忠友は、翌安永七年正月二十九日城地を韮山代官江川太郎左衛門英征から引きつぎ、沼津藩創立と共にこの領域を示す傍示の杭を設置した。この傍示杭は当時沼津藩の西境に建てられたもので、 『従是東沼津領』と判断できるが、明治末期頃におられて下半分が失われている。 しかし、下石田に『従是西沼津領』と刻まれた高さ2.12mの傍示杭が完全に現存していて、石質、字体、寸法等すべて同一であるので、同時に建てられたものと考えられる。 昭和五十九年 沼津市教育委員会 また、碑の傍には『夢舞台・東海道』標柱がありました。 原宿(宿境まで二十八町) ← 沼津市(沼津藩領境) → 沼津宿(宿境まで八町)
|
|
この後、再び千本松原に出て、富士山や海に沈む夕日を眺めながら片浜駅まで行き、JR 夕食は、仕事で付き合いのある地元の業者から紹介された、沼津駅南口仲見世通り入口前地下の「魚がし」で3000円のコース料理を注文しました。もちろん地元で獲れた新鮮な魚料理ですが最後は食べきれないほどのボリュームでした。★★★☆
|
14回目の旅終了(17:10)JR東海「片浜駅」 ◆本日総歩数:30,300歩