中原街道(6) 大蔵バス停~中原御殿跡


2014年4月9日(水) 晴
 「大蔵バス停」を10:30スタート。二人旅。

(注:解説で街道の左側、右側とは平塚に向っての左右です)

「桜ヶ丘交差点~岡田西交差点」 ← 「目次」


 
 前回は「大蔵バス停」先の長屋門前の二又道を右に進んだが、今回は二又道まで戻って、左ルートを通って平塚・中原御殿まで行くことにした。
【十三塚】 10:34
 「大蔵バス停」から県道45号線を南下するとすぐ左側、「県営住宅前バス停」の前にフェンスで囲われた大きな十三塚が現れる。
 以前立っていたはずの説明板は見つからなかったが、十三塚の一つ『おこり塚』である。

 ネットで調べた所、説明文が見つかったので載せておく。現在五基現存しているそうで、この手前に二基あるらしく見逃した様だ。
 毎年『寒川神社』に行くので、その時調べてみる予定。
【十三塚(おこり塚)】
 
十三塚は、北は岩手県、南は鹿児島県まで分布しており、神奈川県では二十七か所が知られています。配列はほぼ一直線に並ぶのが基本と考えられ、村境や街道筋に沿ったものが多く、当地の十三塚もその一例といえます。
 おこり塚は、かつて15基存在したと伝えられる塚の中で最も大きな規模となっています。昭和62年に実施した発掘調査の結果、中世後半(室町~戦国時代ごろ)に築造されてと考えられています。
 最初の塚から、2~3分進んだ左側に、鉄パイプで囲われた二つ目の塚が見つかる。(10:37)

 こちらにも説明板が無いが、頂上に『無縁諸精霊成三菩薩也 施主 三留未覺』と刻まれた碑が立っていた。
 二つ目の塚から2~3分進んだ左側の公園の様な所にも、塚らしきものがあるが、低いので十三塚ではないかも知れない。(10:40)
 更に2分進んだ右側「日産工機本社」のフェンス前の石垣上に「十三塚(無名塚) 寒川町教育委員会」と書かれた標柱が立っているが、説明文は一切無かった。(10:42)

【庚申塔】 (左側) 10:48
 「公民館入口バス停」前の三角広場に寛政十年(1798)の庚申塔が建っている。
 左の写真で、左側に花が供えられている所に庚申塔が建っていて、庚申塔の右側に『天下○○』、左側に『○○安全 寛政十戌午三月』と刻まれていた。 

【梶原景時を讃える歌】 (右側) 10:57
 左カーブした先、「秀英予備校」前の「山上第一ビル・定礎」に『ああ梶原景時公』と題する歌詞と音符が刻まれている。向かいは「原田医院」。
 この歌は「㈱山上工務店」の社長が作詞したものらしく、梶原景時は地元では英雄なのだろう。その思いを汲んで歌詞を載せておく。
【鎌倉本體の武士 ああ梶原景時公】 作詞:山上はるお 作曲:平井治男
 大地揺るがす 鬨
(とき)の陣
 鵐
(しとど)の岩屋に 公と会う
 源氏の再興 祈りつつ
  ああ 頼朝公に 傳
(かしず)きて
  謳う景時公・・・ 誇りあり

 比
(たぐい)稀なる 知略あり
 雄々しき一族 仕えたり
 鎌倉幕府の 基なす
  ああ 文武の偉才 果敢
(はか)なくも
  偲ぶ景時公・・・ 夢の跡

 咽ぶ悲運の 武士
(もののふ)
 一宮館を 後にして
 目指すは京都と 進めども
  ああ 梶原山の 露と消ゆ
  今も景時公・・・ 語り継ぐ

【景観寺】 (右側) 11:10
 次の「岡田交差点」を右折するとすぐJR相模線の「寒川駅」。
 街道は「岡田交差点」を横断し、相模線の「用田踏切」を越えた突き当りの「景観寺前交差点」を右折する。
 この右角に景観寺がある。景観寺本尊は、十一面観世音菩薩立像で、本堂の手前に宝篋印塔が建っている。
【十一面観世音菩薩立像】 寒川町指定重要文化財第一号(昭和45年11月20日指定)
 室町時代の作と推定される。
 座高 一〇五・三センチメートル
 木造割矧造玉眼

【宝篋印塔】
 景観寺の僧回国行者念求は享保八年(1723)から三年半をかけ全国の霊場を行脚して、願文や四百もの社寺の巡礼帳を塔内に納めた。
 享保十二年(1727)七月十日願いが成就してこの塔は建立された。
     寒川町教育委員会


 (左の写真は、本堂とその左前に建つ宝篋印塔)

【明神社】 (右側) 11:13
 景観寺の左隣に明神社が建っている。
 石段を上った所に景観寺の鐘楼と明神社が並んで建っていて、左端に三猿付の庚申塔・双体道祖神・小さな祠が並んでいた。

 明神社の少し先右側に、寄らなかったが一之宮八幡大神神社が建っている。

【金比羅宮】 (左側) 11:17
 八幡大神すぐ先の交差点を渡った左側に小さな金比羅宮がある。
 鳥居をくぐった参道左側に『第八十四代出雲大社宮司千家尊祐氏御参拝記念・平成二十三年五月二十六日御参拝』と書かれた木柱が立っていた。

 余談になるが、後日(2014年5月27日)千家尊祐氏の長男である国麿氏が高円宮典子さまと婚約内定したと報道された。御存知の通り、典子さまは2020年東京オリンピックの招致でスピーチをされた高円宮久子様の次女にあたる。

【松戸橋】 【寒川町南部教育発祥の地】 (左側) 11:22
 次の信号(松戸橋交差点)を左折したすぐの「南部文化福祉会館」の駐車場前に松戸橋の石柱が建っている。かつてここには「花川」と呼ばれる清流が流れ、そこに架けられた橋が「松戸橋」と云う。
 松戸橋碑の右隣には寒川町南部教育発祥の地の石碑がある。共に碑文は判別しづらかった。
【寒川町南部教育発祥の地】
 
この地付近は江戸時代、大山街道の宿場として大いににぎわい、明治六年 (1873年)に至り、この地に博習学舎が設けられ明治九年一之宮学校と改称された。
 現在の一之宮小学校の前身であり寒川町南部の教育発祥の地である 。
  寒川町立南部文化福祉会館竣工に当り
     昭和五十八年二月建立


 (左の写真で、手前の石柱が「松戸橋」碑、奥の丸い石が「教育発祥の地」碑)

【梶原伝七士の墓】 (左奥) 11:25~11:31
 松戸橋の信号を渡ってすぐ左側の広場に『梶原伝七士の墓 この奥右』と書かれた案内板が立っているので、矢印に従って奥の右に入って行くと梶原氏一族の墓がある。
 また、墓の傍らには
(えびら)の梅と題する碑も立っている。
【伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓】
 この石造物群には次のような言い伝えがあります。庄治二年(1200年)正月、梶原景時一族郎党が一宮館を出発、上洛の途中清見関(静岡市清水区)で討死してしまったので、一宮館の留守居役であった家族、家臣らが弔ったといいます。
 また、景時親子が討死してから、しばらく景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣七人が、世情が代わったのを見て鎌倉に梶原氏の復権、所領安堵を願い出たが許されず、七士はその場で自害し、それを祀ったものという説もあります。
 なお、後の水路は当時の内堀の名残ともいわれています。
     平成二十一年三月 寒川町教育委員会
【箙の梅】
 梶原源太影季(かげすえ)は景時の長男で、勇猛果敢歌道にも秀でた弓取である。
 寿永三年(1184)正月、宇治川の合戦で佐々木高綱との先陣争いで愛馬「磨墨」共に武名をあげる。同年三月、生田の森・一ノ谷の合戦では、折りしも咲き誇る梅が枝を箙に挿し
   かかれば花は散りけれど
     匂いは袖にぞ残るらん
 と戦陣を馳せる影季公の風雅を平家物語など諸本が伝え、今日でも能や歌舞伎で「箙の梅」が演じられている。
 八月、一之宮八幡大神例祭の宵宮の屋台巡行に加わる「西町」の屋台は館址にふさわしく、梶原氏に因む彫刻で飾られ、碑の景季公は一部を模写したものである。
     平成二十年五月 梶原公顕彰会二十周年記念事業

【梶原景時と一宮館址】 (右側) 11:33
 すぐ先左側の「西町集会所・薬師堂」の前面広場に梶原景時と一之宮館址の説明板や地図・年表などが掲示されている。
 「西町集会所・薬師堂」の右前には二体の地蔵が置かれていた。
【梶原景時と一之宮館址】
 梶原景時(生年不明~1200)は「鎌倉本體の武士」といわれ、源頼朝を補佐し鎌倉幕府の基礎を築いた文武ともに優れた武士です。
 梶原氏は、桓武平氏の流れをくむ鎌倉党の一族とされ、同族には大庭氏、俣野氏、長尾氏らがいました。
 治承四年(1180)伊豆に流されていた源頼朝が挙兵しましたが、八月二十四日、石橋山(小田原市)の合戦で大敗して椙山に逃れ、「鵐
(しとど)の岩屋」(湯河原町・真鶴町の両説あり)に潜んでいました。大庭影親率いる平家方の一員として参戦していた梶原景時は、頼朝を発見したものの討たずに救いました。これが景時と頼朝の出会いでした。
 翌年一月景時は、関東を平定し鎌倉に入った頼朝に土肥実平の仲介により面謁
(めんえつ)し、「言語を巧みにする」と高く評価され、家臣として認知されました。以来、源平合戦で多くの功績をあげたほか、頼朝の片腕として侍所所司をなじめさまざまな重職に携わりました。
 頼朝の死後、正治元年(1199)十月、結城朝光謀判の疑いを将軍頼朝に讒言したとの理由で後家人六十六名の連署をもって弾劾され、 、弁明の機も得られるまま一宮に下向。再度鎌倉に戻るものの、 十二月鎌倉追放が正式に決まり、鎌倉の館は取り壊されました。
 正治二年(一月二十日、影時とその一族は、朝廷や西国武士団の支援を軸に甲斐源氏の武田有義を将軍に擁立し再起を図ろうと、一宮館をあとに京都に向け出立します。その途中、駿河国狐ケ崎(静岡県清水市)で在地の武士吉川小次郎らに迎え討たれ、交戦の末、梶原山にて最後を遂げました。
 幕府内の主導権を手中にしたい北条氏と、頼朝の側近として職務に忠実過ぎた影時を快く思わなかった御家人たちとの思惑が一致したことが背景にあったと言われています。

【梶原景時館址】 (右側) 11:41~11:46
 「西町集会所・薬師堂」のすぐ先左側に鳥居が建っている所が梶原景時館址である。
 鳥居をくぐり参道を進むと、太鼓橋の手前に石の標柱と説明板が、奥に小さな天満宮が建っている。
 また、太鼓橋を渡った右側には角落としがあった。角落としとは、堤防の切り欠き部に角材を積み、水位が上がると角材が落ちて水の浸入を防ぐ仕掛けの事である。仕掛けと説明文の前には供養塔等が並んでいた。
【梶原景時館址】
 梶原景時は治承四年(1180)八月、源頼朝挙兵の時、石橋山の合戦で、洞窟に逃れた頼朝の一命を救いました。翌年正月、頼朝の信任厚い家臣となり、鎌倉幕府の土台を築くのに貢献しました。一宮を所領としており、後に館を構えたとされています。図に示す通り館の規模は広大だったとの説もあり、現在も当時の堀のなごりを留めていると伝えられています。天満宮の位置はその一角で、当時は物見の場所として一段と高く構築したとも伝えられています。
 景時は和歌もたしなみ文武両道に秀でた武将でした。
 頼朝の死後、多くの家臣からそねまれ、ついに正治元年(1199)十一月、鎌倉を通報され1族郎党を率いて一宮館に引き上げました。その後、景時は再起を記し、上洛するため翌正治二年正月二十日午前二時頃ひそかに館を出発しました。一行は清見関(静岡市清水区)で北条方の軍の攻撃を受け、景時以下討死にという悲劇的な最期を遂げました。
 館の留守居役の家臣も翌年尾張(愛知県)に移ったと伝えられ、また物見のあとの高知には里人が梶原氏の風雅をたたえ、天満宮を創設したともいわれています。
     平成二十一年三月 寒川町教育委員会
【角落とし】
 水門・護岸開口部を角材を積み重ねて締め切る仕組み
 昭和30年代まで、現在の産業道路に沿って堤防が築かれていました。
 一宮地区は大山街道が東西に横切り、田村の渡しへと向かう旅人や堤外(流作場と呼ばれた所もあった)へ耕作に行く人々にとって、高い堤防を超えるのは難儀なため、堤防を開口しました。
 相模川が大水の時は、設けた角落としの両側に土嚢を積んで部落を守った先人たち、一之宮○○の遺産です。
   一つ一つの小さな力、みんなでやれば何でもできる
     東日本大震災を忘れないために 2011年4月

<昼食> 11:50~12:40
 産業道路と交わる次の「一之宮小入口交差点」を渡るが、昼時になったので、この交差点を左折した所にある「おやま」で昼食とした。この先、食事出来る処は少ない。
 以前、この直ぐ傍にある工業団地内の会社に長らく勤めていたので、会社関係の話で盛り上がってしまった。

【八角広場】 (左側) 12:52
 「一之宮小入口交差点」に戻り、西へ進む。二つ目の信号が二又になっていて、中原街道(大山街道)は右に進む。
 私達は八角広場に寄るため、左回りで八角広場を抜けて中原街道に戻ることにした。
 二又を左折するとすぐ右手に変形八角の広場がある。この広場はかつて「西寒川駅」があった所で、線路の一部が残されている。さらに遡れば「相模海軍工廠跡」でもある。
 中央には八角形の噴水があり、そこからほぼ一直線に現JR相模線の「大門踏切前」まで、単線幅の線路跡が遊歩道となっている
(下の写真)
 私が会社に入りたての頃は「寒川駅」からここまで一駅だけ支線が通っていて、懐かしい気持ちになった。
【旧国鉄西寒川駅・相模海軍工廠跡】
 ここ旧国鉄西寒川駅跡に佇んで東を望み、さらに街に目を転ずるとその視界に工場群が迫る。そこは、かつて多くの仲間が働いた相模海軍工廠(昭和20年 敷地704,000㎡)の跡地である。往時を偲べば、先人や友の姿が彷彿と甦り、懐旧の想いひとしおである。
 第二次大戦後、工場立地に恵まれた跡地に町発展の礎となり、今日の繁栄をもたらした。いま、大地に深く根ざした緑に世界の平和を願い、国土の安泰を祈る。
     建立 相廠会及び協力企業 昭和63年春

【一之宮不動堂】 (右側) 12:58
 上の写真で、噴水の先の細道へ進み、途中白く見える道が先ほどの二又を右に進んだ中原街道であるので、ここを左折する。
 すぐ中原街道は目久尻川にぶつかり右カーブする。そのカーブする右角に一之宮不動堂があり、大山街道河原不動尊の説明板も立っている。
 お堂の左手前には道標力石双体道祖神が置かれ、道標の前面には『右大山道』、左側面には『左江戸道』、右側面には『江戸浅草黒船町 大黒屋傳四郎』と刻まれていた。
【大山街道】
 江戸時代、大山講と称する講が関東一円にひろがり、江戸から大山阿夫利神社へ幾本かの大山街道が発進したが、最も隆盛を極めたものが東海道という一番安全な道を利用し、昔語りの名勝地となった鎌倉や行楽地の江の島を訪れてのコース~東海道藤沢の西、四つ谷から西方に進み大曲、中瀬、一之宮から田村の渡しを経て大山に通じる~この道であった。
【一之宮不動堂】
 堂内の不動尊は、かつて大山詣ゆかりの不動尊である。
     寒川町教育委員会
【河原不動尊】
 本尊は、不動明王座像と二体の眷属(お供の仏像)からん。不動三尊像です。不動明王座像は江戸時代初期の作とみられ、宝暦三年(1753)に江戸芝口(東京港区)の初音屋平吉が修理した。との「胎内納入名札」に記されています。この坐像と眷属
(けんぞく)一体の制陀迦(せいたか)童子像は、共に寄木作りの非常に上手な技巧による傑作と評されています。
 お堂の前にある力石や道標も江戸の人達が、 二百三十年頃前に奉納したものです。このようにこの不動尊は、人とのつながりが深く、江戸時代には観光ルートとしても著名であった。目の前の大山道を、多くの道者達が往来し、大山参詣が栄えた様子を物語る史跡といえましょう。
 「新編相模国風土記稿」にこの不動尊について、 「村民持ち大山道にあり」と記され、村人たちが安寧を願い、寄り合い所として長い年月にわたり大事に守り続けてきたことがうかがえます。また同稿には「田村(相模川対岸の現平塚市田村)にあり(旧一之宮村の)現在地に移された」とも記されていますが、詳細は定かではありません。
     平成十九年十二月 (一之宮河原地区住民による) 不動尊維持管理会
 大山街道は、東西南北の各地から大山を目指す道で、約30ルートもある。関東地方は勿論、福島県・新潟県・長野県・山梨県・静岡県・愛知県からも各主要街道を利用して大山道に合流していた。
 ここ一之宮を通るルートは、江ノ島を基点に藤沢・茅ヶ崎・寒川・田村の渡し・伊勢原を通る『田村道』と呼ばれるルートで、寒川町の景観寺~平塚市の旧田村十字路迄は中原街道と同じ道を通っていた。

【神川橋】 13:15~13:23
 上の写真でも分かる通り、不動堂の前を右へ左へとS字カーブして目久尻川の「河原橋」を渡る。
 橋を渡ると右カーブして、圏央道の高架下の新しい道を「神川橋東側信号」まで進み、相模川に架かる「神川橋」を渡る。
 神川橋の右手前方には大山方面の丹沢の山々が見える。
 また、橋の欄干には近隣の名所や道標(至江の島・宮山の富士・田村の渡し・大山街道・大山参り・至大山等)と透かし絵が嵌め込まれていた。


 神川橋を渡ると平塚市田村の町に入る。
 田村の地名は、征夷大将軍・坂上田村麿が蝦夷征伐の際、この地に立ち寄ったということに由来する。 

【田村の渡し場】 (左奥) 13:24
 神川橋を渡り終えた土手道を、左に少し下がった右手民家の前に田村の渡し場の碑と説明板が立っている。また、石に刻まれた古い説明文もあった。
『田村の渡し場】 新しい説明板
 田村の渡しは、中原街道と大山道の二つの往還の渡しでした。中原街道は中原村と江戸を結んだ脇往還で、大山道は藤沢・江ノ島からの大山参詣のために使われた道です。
 渡し場のある田村は、この両往還と平塚から厚木へ向う八王子道が交差する所で、旅籠屋などもあり「田村の宿」とも呼ばれていました。
 渡船場の業務は、田村と対岸の一之宮村・田端村(寒川町)の三か村が勤めていました。
 また、田村の渡し場付近は、大山・箱根・富士山を眺望することができ、景勝地としても知られていました。
    平成十三年(2001)三月 平塚市
【田村と田村の渡し場】 石の碑文
 田村の地は 古くから 坂上田村麿に因縁の地と伝え 箱根路につづく 陸奥への海道に沿ったところに 相模川の渡し場があった
 鎌倉時代には 三浦平六義村の田村の館があり 鎌倉武士が しばしば往還したことは史書にあきらかである また 江戸時代には関東の靈域大山石尊社への 参詣道として繁昌した
 田村の渡し場は 大住郡田村 高座郡一之宮村 同田端村の三村が管理し 渡し舟と馬舟など四艘を常置していた
 明治初年の記録に「川幅を百三十二間(約二三九米) 水流六十間(約一・八米) 深さ三尺(約〇・九米)より一七(約五・三米) とみえている
 渡し場から 西方諸山えの眺望の絶景は 最も著名で 詩歌の作品が多く残っている
     昭和四十八年三月二十日 平塚市観光協会

【八坂神社】 (右側) 13:28~13:35
 田村の渡し跡からは、土手上(県道47号・神川橋)に戻らず、下の道で県道下のトンネルをくぐる。
 くぐったら直ぐ右折すると右側に八坂神社がある。
 鳥居をくぐって境内に入ると正面に拝殿、右手には道標記念石・庚申塔・石塔・田村耕地整理記念碑等が建っている。拝殿の左手に平塚市保全樹木の『むくのき・けやき』の巨木が聳え、更に左奥には田村ばやしの碑が建っている。
 道標の正面には『左大山道』、左側面には『渡し場道 いいやまみち』と刻まれている。
【田村ばやしの碑】 (判別しづらい碑文だったので誤字があるかもしれない)
 由来 田村は平塚市の東北に位置し古い街道八王子中原道大山道に沿っていた関係で文化が早くから開けていた鎌倉時代には豪族三浦平六義村がこの地に山荘を設けそれを田村の館と称したこのころ九条道家将軍頼経の父のはからいで京都より楽人雅楽が田村山荘に来道したといわれそのころ里太鼓が今日の田村ばやしの源流ではないかといわれているそのことは吾妻鏡に安貞二年一二二八年七月将軍頼経に従ってまた鎌倉の将軍達が田村山荘え来遊し暁に及んでご遊興の記録あり舞女数輩群り集るとみえる
     昭和五十七年七月吉日


【記念石】
 江戸中期に建立されたと言い伝えられる拝殿に使用されていた土台石
 神川橋架替工事に伴う社殿移設の際他の石を補填したのでこれを記念石として保存する。

【三浦義村田村ノ館の跡】 (左奥) 13:38
 「八坂神社入口交差点」を左折して、「田村宮の前公園」先の「市営宮の前住宅4号棟」前に煉瓦囲いで三浦義村田村ノ館の跡の碑が建っている。
【三浦義村田村ノ館の跡】 (判別しづらい碑文だったので誤字があるかもしれない)
 この地一帯は鎌倉時代の武将三浦平六義村の田村ノ館の蹟である承久元年七月鎌倉第四代の征夷大将軍を嗣ぐべき人として迎えられた藤原頼経は五日間この山荘に滞在し七月十九日晴れの鎌倉入府を行った東鑑によると頼経将軍は数回来地している安貞二年七月廿三日もそのひとつであるこの時は執政北條泰時連署北條時房等鎌倉の将軍多数が居従し三日間にわたり田村の秋興を満喫した館は田村の渡しにつらなる古街道に面し○手を北にもっていたものと思われる義村は延應元年十二月に殉じているこの館はそれに前後して廃されたものとおもう
     承久元年より七百四十年 昭和三十四年春建 平塚市長外川貞夫撰
【誌】
 この附近一帯は三浦平六義村氏の館跡と伝えられています。市は、ここに昭和三五~三七年に木造平屋建九五戸を建設しました。
 その当時、田村の皆様は由緒ある館跡地が永遠に消えることを憂慮されこの敷地の一部でも後世に伝えたいと「由縁の碑」及び館跡地の一部二八一平方米(八五坪)を市に寄附され、市は田村館跡地として管理してきましたが、その後昭和五六~五八年に木造住宅を中層耐火構造住宅に建て替えた時、この事業に伴い寄附当時の位置から北側に若干移設し現在のように整備したものです。
     平成元年四月吉日 平塚市

義村の館跡碑から「八坂神社入口交差点」に戻り、二つ目の十字路である「旧田村十字路」を左折するのが中原街道であるが、戻るのが面倒になり、「田村宮の前公園」を左折して中原街道より一本南の道をショートカットで進んだ。
 おかげで、「旧田村十字路」にある十王堂碑大山道道標は見ていない。

【貞性寺】 (右側) 13:45
 「旧田村十字路」を左折して130m程で貞性寺がある。
 取り立てて紹介するほどの寺ではないが、山門両側のシダレザクラが綺麗だった。

【妙楽禅寺】 (右側) 13:51
 貞性寺から250m程進んで、右に入った所に足利基氏開基の妙楽禅寺がある。
 二階建ての立派な山門前に、平塚市指定重要文化財である木造閻魔王坐像の説明板が立っていた。
 説明板によると、『新編相模国風土記稿』に妙楽寺の閻魔堂が村内にあったことがみられ、文禄四年(1595)の作とのこと。

【田村駒返橋(こまがえしばし)跡】 (右側) 13:56
 妙楽禅寺を出て、次の十字路の右角に田村駒返橋跡がある。
 石碑の後には、道祖神や庚申供養塔が建っている。
【田村駒返橋跡】
 ここは、臨済宗妙楽寺の門前で古くから馬継の場であったので駒返橋の名が発生したものと思われる。
   古歌に
     「ふるさとをたちいでる幾月ぞ
      夕月あおぐ駒返の橋」
 天正十八年(1590)徳川家康が関東に入国すると、このあたりは家康の最も好んだ狩場となった。たまたま家康が鷹狩にこの地に来たとき、大雨のあと道路がひどく悪かったので、田村の人たちがたたみを出して運行の便宜を図ったので、家康は田村の人たちの苦労をもんばかって、ここから馬を返したという伝説がある。
     平塚市観光協会

【田村の一里塚の跡】 14:03
 駒返橋跡から少し進んだ二又の三角点、「鹿見堂橋バス停」の後ろに田村の一里塚跡がある。
 石碑の正面には下記の様に、裏面には『昭和四十八年秋 平塚市観光協会 長島三郎書』と刻まれていた。

     
中原街道 奥州道
     ゑの木需 一里塚   跡
   (『需』と云う字は崩し字で書かれていた為、この字かどうかは自信が無い)
 脇の祠の中に庚申塔と思われる像が建っていたがエプロンが掛けられていたので定かではない。 
【田村の一里塚の跡】
 ここに平塚で最も古い道の一つで、平安の昔の奥州道であったといわれ、後に徳川家康が、江戸城から相州中原(平塚市中原)の宿舎まで、鷹狩にくるのに用いたと言う中原街道といわれる重要な街道があった。
 このあたりに、東海道などと同様に一里塚が設けられ榎が植えられたという。
 「新編相模国風土記稿」には、八王子道にかかる一里塚であるとの記述もあり、このあたりでは、中原街道と八王子道は、同一であったと思われる。
     平塚市観光協会

【四之宮の渡し】 (右奥) 14:25~14:30
 中原街道は田村の一里塚跡がある二又で、右の細道へ進む。
 この辺りに、家康が弁当の箸を地面に刺したら森になったと云う箸立の森跡、雨宿り中に鹿を見たと云う鹿見
(ししみ)堂跡があったらしいが現存していないとの事。
 細道は小さな橋を渡って程なく国道129号線に合流する。中原街道の往時はここから東真土4丁目にある諏訪神社迄、細道から直線的に続く道であったが、現在は消失しているのでジグザグに行かなければならない。
 私達は四之宮の渡し前鳥神社に寄り道する為、右ではなく左方向に進むことにする。
 国道を少し進み、次の「四之宮交番前信号」で国道から別れて左の道に入る。次いで最初に現れる道を左折し、運河を渡って突き当たりを右折する。突き当たりは「公益財団法人 神奈川県下水道公社 相模川流域下水道四之宮管理センター」となっている。
 この「下水道公社」の塀に沿って左回りに進んで行くと、相模川の土手に突き当たる。その土手下道路沿いに四之宮の渡しの説明板が立っている。
 土手に上がって右手を見ると平成9年に開通した、斜張橋である湘南銀河大橋が美しい姿を見せている
(下の写真)
【四之宮の渡し】
 江戸時代、幕府は相模川の架橋を禁止し、相模川の渡河は、幕府が定める馬入や田村の渡しによって行われていました。
 相模川の対岸に飛び地を持つ村々は、飛び地に開けた農地を耕作するため独自に渡し場を設けていました。四之宮の渡し場の一つでした。
 江戸時代のはじめ、徳川家康が江戸と中原御殿を往来した時、 四之宮の渡しも利用していたようで、その時の話が「 四之宮の逆さ舟」 「箸立の森」などの言い伝えとして残っています。
 実際の渡し場の位置は、川の流れの変動に応じて、目久尻川合流点付近から前鳥神社付近の間でたびたび移動していました。
 四之宮の渡しは、昭和三十年(1955年)頃まで使用されていましたが、その後廃止されました。
     平成十九年(2007年)三月 平塚市

【前鳥(さきとり)神社】 (右奥) 14:34~14:55
 相模川から運河まで戻り、運河沿いを少し戻って左に曲がって橋を渡ると、すぐ前鳥神社の西の鳥居に着く。
 南の鳥居からは長い参道になっていて、社殿の右手前に幸せの松がある
(下の写真で女性が見上げているのが幸せの松)
【前鳥神社御由緒】 相模国四之宮
 当神社は延喜年間に編さんされた『延喜式』神名帳に記載された、延喜式内社であります。
 神社名の「さきとり」は平安以前の古い地名でご祭神を氏の上とする氏人が移り住み、お祀りをしたのが前鳥神社と言われ、千六百四十余年の歴史を有しております。ご祭神の前鳥大神を慕い、古くより修学の神、学問の神として広く崇敬されております。また、渡来人技術者を篤く庇護し、農業、土木建築等の急速な発展をなされましたご祭神は、産業技術の神としても崇敬を集めています。
【前鳥神社】
 前鳥神社は平塚市最古の神社で御祭神は応神天皇の皇太子である莬道稚郎子命です。命は百済國から来た王子阿直岐と博士王仁を学問の師とされました。博士王仁は初めて日本に論語と千字文をもたらした人です。よってこの由緒をもって、境内社奨学神社にはこの御二方のほか菅原道真
公を祭祀してあります。また莬道稚郎子命を御祭神とする神社は東国では当社のみです。

【幸せの松】
 この松の木は稀に四本の葉をつけた松葉が見られます。
 いつの頃よりか「しあわせの松」と呼ばれ、この四合わせの松を身に付けると運が開け幸運を招くと伝えられています。

【庚申供養塔】 (右側) 15:13
 前鳥神社の西の鳥居から出て、そのまま真っ直ぐ西へ進む。暫く行き、国道129号の「四之宮西町交差点」を横断する。
 交差点から280m程進んだ「東真土三丁目18」の十字路右角に玉石で囲われた嘉永三年の庚申供養塔が建っている。脇に立つ木柱は文字が擦れて読み取れなかった。
 寄らなかったが、この十字路を右折して一本北に行くと【四之宮の渡し】の項で述べた諏訪神社がある。
 その諏訪神社からここまでの斜めの道(写真の左に写っている道)が諏訪神社から復活した旧中原街道である

【真土(しんど)神社】 (左側) 15:20~15:25
 庚申供養塔から次の十字路を左折し、一本南の道を右折して再び西へ進む。
 程なく左後ろに続く真土神社の参道が現れる。参道入口には「真土神社参道・
古道中原街道」の石標が建っている。
 参道を進み数段の石段を上ると左手に鐘楼、正面に社殿が建つ。
【真土神社御由緒】
創立年代 不詳
例祭日   四月第二土曜日
祭神    省略(八神)
 当神社の御祭神の数が多いのは真土地域内の各地に御鎮座する諏訪神社、白山神社、本宮神社、明神神社、八坂神社、稲荷神社、御嶽神社の各祭神を明治の年間に一社に合祀し真土の総鎮守としたのである。
【宮鐘と鐘楼の由来】
◎諏訪社 村鎮守なり、円隆寺 △鐘楼 天保四年(1833)の鋳造(天明七年(17187)再鋳の鐘を再び鋳替しなり)を懸く
◎白山社 是も鎮守なり、東光寺持 △鐘楼 鐘は元文四年(1739)鋳造なり
 真土には江戸時代、村の鎮守が二社、諏訪社と白山社があり、それぞれに鐘楼があり鐘が懸けてあったと、天保十二年(1841)に編纂された『新編相模国風土記稿』に記されています。
 白山社の鐘は安政三年四月(1856)国家急海防のために供出。
 諏訪神社(真土神社に明治八年合祀)の鐘は、第二次世界大戦中の昭和十七年三月(1942)供出応召された。
 共に時代が大きく変貌するときに大砲、小銃、弾丸に変わって往った。現在の宮鐘は大正六年(1917)に鋳造された四代目です。
 この鐘楼は大正六年(1917)に諏訪神社(東真土四丁目一三九番ノ一)より宮鐘と共に移築されたものです。
 供出された宮鐘の銘文によれば、初代の宮鐘は安永七年(1778)に鋳造されておりしたがって、この鐘楼は江戸時代の中頃に造られたものと思われます。
【蛙股の彫刻】
 この鐘楼には、近隣ではあまり例を見ない四神を彫刻した、蛙股が取り付けられています。 四神とは、中国の周代に始まった四方を守護する神で、東方を青龍、西方を白虎、南方を朱雀(鳳凰)、北方を玄武(亀と蛇の合体)といいます。奈良県の高松塚古墳の壁画、明日香村・キトラ古墳の壁画、薬師寺の仏像台座、群馬県の前双子山古墳の須恵器にも四神が描かれています。
 東・青龍は、天から恵みの雨を降らせ、豊作をもたらし、家運を隆盛にさせます。西・白虎は、女性に子宮と安産を授けて、夫婦円満に導くとされています(この白虎おなかが大きい)。南・朱雀は、その翼で災厄を払いのけて、大いなる福を招くとされています。
 北・玄武は、長寿と福を招く亀と災厄を寄せ付けない蛇の霊力を合わせ持ち、長寿と繁栄をもたらすとされています。
     真土神社

【古道 中原街道碑】 (左側) 15:26
 真土神社の参道を出て直ぐ、二又道の手前左側に古道 中原街道と刻まれた石碑が建っている。また、石碑の右には松、左には中原街道の説明板が立っている。
 中原街道は、下の写真の左カーブしている道へ進む。この先中原御殿まで、左折・右折を繰り返す様に進んでゆく。
【古道中原街道】
 古来より真土を斜めに横断している古道があった。海ぎわの東海道が整備される以前から、この道は相模道・奥州道などと呼ばれ、大磯から中原を通り、真土・用田・小杉を経て江戸に入り、更に奥州へ至る古道であった。
 家康は、関東移封のときや、その後中原に御殿をつくり、たびたび宿泊をして鷹狩りを楽しむなど、好んでこの道を用いた。
 その後、江戸が政治の中心になるにしたがい、東海道が整備されたため、中原街道の公的な役割は薄れ、脇街道となっていった。
 しかし、この道は起伏が少なく江戸への最短距離であったため、急ぎ旅の者や物産輸送におおいに利用された。いまでも中原街道の名称は各地に残っているが、最も良く昔の面影を残しているのは、真土地区であるといわれている。この道で展開されたロマンや役割を大切に伝えていきたいものである。
     真土連合会自治会 真土神社 平塚市観光協会

【日枝神社】 (右側) 16:00~16:10
 上記石碑から左カーブした道は、やがて畑と民家の間の細道になる。その細道も直ぐ終わり、「むらた歯科クリニック」前で突き当たるので左折する。次いで、信号のある二つ目の十字路を右折する。
 すぐ二又道になるので、左斜めの道に進む。次の突き当たりは右折する。
 「西真土バス停」の前を通過し、次か、その次の信号を左折して一本南の道へ移動し、更に西へ進む。
 やがて県道61号線の十字路を渡ると左角に日枝神社がある。県道からは境内に入れないので、そのまま直進すると左側に神社入口がある。
 社殿の右手前に平塚市保全樹木の「かや」、左手前に同「くすのき」、右奥に「東照大権現」、左に境内社、左奥に道標兼庚申供養塔が建っている。
 庚申供養塔の正面には『庚申供養塔 大山道』、右側面に『右 ひらつか・大いそ 道』、左側面に『左 ステーション道』と刻まれている。
【日枝神社御由緒】
 日枝神社は昔は山王社と言われた。文禄年間徳川家康公が鷹野の遊殿を中原に建設の際、当社は御殿の鬼門にあたるので、方徐鎮護のため再三にわたり修営をされた。寛永十七年十二月(1640年)に御社を現在の地に遷座された。徳川家代々崇敬の厚いお社であった。
 明治四十二年二月三日雑社東照宮を合祀した。
 境内地八百九拾四坪現在の社殿は昭和三十七年十月改築した。
境内社  八坂神社・稲荷神社・神明社
【庚申供養塔】 
 この庚申供養塔は、平塚市中原一丁目十七番(旧平塚市中原下宿一六九番地)の一角にあったものですが、昭和二十六年から始まった旧大野町土地改良区事業の一環として大山道(通称、豊田道)の一部(平塚江南高校東側道路と平塚~伊勢原線旧県道の現在のT字路を更に北へ直進し、慈眼寺の東角へ向う道路の内、約四十メートル)が整理消滅したため、ここ日枝神社境内に移されたものです。
 この塔の正面から左側に「平塚ステーション道」と刻まれていますのは、明治二十年に東海道本線平塚駅が開設されて駅に直接通じる道が整備され、それを記念して設置されたものです。そしてこの塔は、いろいろなところで紹介されていますが、現在ではかなり表面が剥落して昔の面影を失いつつあり、これを元の位置周辺に戻すには崩壊の恐れがありますので、この地に安置しています。
     平成十九年(2007年)十一月 施主 原興平 撰文 小川治良 中原の歴史再発見活動委員会

【中原街道一里塚跡】 16:12~16:16
 中原街道は、「日枝神社」に入る前の県道61号と交差する信号を左折して次の十字路を右折する。
 しかし、「日枝神社」から県道に戻るのが面倒な為、境内から南へ抜ける道があるのでそちらを利用した。
 日枝神社は、西から入る正式な参道と、私達が入ってきた北側の脇道、南側の脇道と三カ所から入ることが出来る。
 その南側の道を抜けると県道から曲がってきた中原街道に合流する。
 合流点から少し東に戻ると中原街道一里塚跡がある。
 左上の写真は、東から西(中原御殿方向)に向って写したもので、左の電柱の脇に説明付標柱が立ち、右の民家のブロック塀の下部基礎に御酢街道・一里塚跡と刻まれた石(左下の写真)が嵌め込まれている。
 前方に車が見える所が日枝神社へ入る道で、中原街道は突き当たりを左折する。
【中原街道一里塚跡】 (標柱)
 中原街道は別名「御酢街道」とも呼ばれ、成瀬酢
(なるせず)を江戸城まで運ぶこの場所の両側に一里塚はありました。

【中原宿高札場跡】 (右側) 16:22~16:26
 中原街道一里塚跡から突き当たりを左折し、次の「中原上宿信号」を直進。
 程なく「中原御殿バス停」に着くと、右側にお城か御殿の様な「小川邸」が現れる。その屋敷の角(信号のある丁字路右角)に中原宿高札場跡がある。
 説明板と標柱が立っていて、標柱の正面には『中原宿高札場跡』、右側面に『右 中原街道(御酢街道)』、左側面に『左 大手道(中原御殿)』と書かれていた。
【中原宿高札場跡】
 中原宿の高札場は、徳川家康の築いた中原御殿に向う大手道と中原街道の交わる位置に設けられていました。
 高札場とは、幕府などから出された禁令を木の札に書き掲示した場所のことです。
 「中原御宮記」(長谷川雪堤画)を見ると土台を石垣で固めて柵を結い、高札が掲げられる部分には屋根がついていました。
     平成十五年(2003)三月 平塚市

【中原御殿跡】 16:29
 上記高札場前を右折した道が大手道と呼ばれ、突き当りの中原小学校が中原御殿の跡地である。
 突き当たった所の小学校敷地内に、フェンスで囲われた中原御殿跡の石碑が建っている。
【中原御殿】 (説明板)
 徳川家康が鷹狩りなどの折に宿泊所とした中原御殿が、中原小学校を含む一帯にありました。御殿の規模は東西七八間((約一四一m)、南北五六間(約一〇一m)で、四方に幅六間(約一〇m)の堀をめぐらし、東側を表としていました。
 御殿が造られたのは、慶長元年(1596)ともいわれますが、諸説がります。寛永十九年(1642)に修復されますが、明暦三年(1657)には引き払われました。
 その後、跡地には松や檜が植えられ、その中に東照宮が祀られました。その様子は「中原御宮記」(平塚市指定重要文化財)の巻頭に長谷川雪堤の筆によって描かれています。
     平成十三年(2001)三月 平塚市


 (左上の写真は、高札場跡から見た大手道)
【相州中原御殿之碑】 (碑文)
          徳川崇敬 題額
この地は 慶長年間 江戸に幕府を開いた徳川家康公が 旅のやどりとして造営した相模国大住郡 中原御殿の跡である。
御殿は またの名を雲雀野御殿ともいい 家康公が鷹狩り 江戸と駿府往来の途次に宿泊した 文献によると文禄元年 肥前国名護屋陣に赴くさい 中原に止宿したのを始めとし 係わりは深いものがある
中原は 御殿の勝地にとどまらず この地方に与えた影響は大きい 江戸時代初期の大住郡の行政 中原御林 中原街道など 皆この地より発したという
明暦三年 六十有余の歳月を経た御殿は 惜しくもお引き払いとなり中原を去った
ここに 近世初頭の光彩を放つ著名史跡を末永く顕彰するため 建碑したのである
     平成元年五月吉祥日 平塚市長 石川京一 撰 平塚市文化財保護委員 高瀬慎吾 書

 (左下の写真は 中原小学校に建つ中原御殿跡碑) 
 ここが、江戸時代の中原街道の終点である。

 このあと、中原御殿の裏門が残る善徳寺等を巡ってから終了とする。
【舟地蔵】 (右側) 16:37
 中原御殿跡碑を左に進み、すぐの角を右折する。
 7分程進んだ「南原」の右側民家の塀を切り欠いた所に舟地蔵が建っている。
 説明板等は無いが、赤いエプロンを掛けた地蔵菩薩が舟形の石の上に座っている姿が可愛い。

【善徳寺】 (右側) 16:40
 舟地蔵のすぐ先の右側に善徳寺がある。
 橋を渡った所に茅葺の三門があり、これが中原御殿の裏門を移築したものという。
 門前の橋は新しいものらしく、三門の裏側に祀られていた六地蔵も新しかった。また、六地蔵の前に聳える「いちょう」は平塚市保存樹木である。


【善徳寺と三門】
 宣徳寺は、浄土宗に属し南原山永琳院という。
 開山の善徳徹巌は俗名を大館玄誉といい久しくここに庵室を構えていたがのち一宇を建立し天正二年(1574)正月没したと言われている。
 この寺の三門は、徳川家康の御旅館中原宿の雲雀野御殿の裏門を移建したものであると昔からいい伝えているが、如何にも由緒あり気な風格と雅趣を兼備した建造物である。

【諏訪神社】 16:48
 善徳寺の前から左折してバス通り出た所を右に少し行くと諏訪神社がある。
 創立享保元年(1716)で、現在の社殿は昭和五十二年九月に再建されたもので、境内には、平塚大空襲によって焼かれた松の根株を納めた祠が建っている。また、平塚市保存樹木の「くすのき」もある。
【誌】
平塚大空襲によって諏訪神社が焼夷弾の直撃をうけて焼失したとき その頃社殿の近くに繁る樹齢三百有余年と伝えられていた松の大木が付近への延焼を防いだが劇しい火炎を浴びたため老松は日を追って生気を失いやがては枯れはじめ そのまヽ放置しては危険な状態となった
戦後の昭和二十二年初秋 世話人は可及的速やかに切り倒すことを決議した 当時の乏しい資材機械技術では大木を切り倒す作業は決して容易ではなかった 関係者苦心の末愛惜裡に切り除いたのである
こヽに小宇を設けて南原の歴史の一時期を刻んだ老松の一部を収め(根株)老松への想いを伝えたいとおもうわけです。
     平成六年三月 総代

 諏訪神社から、東へ少し戻った「南原バス停」で中原街道の全行程を終了する。
 「南原バス停」は数多くの神奈中バス路線が集まって、数分おきにくるため殆ど待つ事は無い。


 第6回終了。 16:55 南原バス停。 神奈川中央交通バスで平塚駅まで行き帰宅。

 今回の記録 : 街道のみの距離は、9.0Km(岡田西交差点~中原御殿)。 「虎ノ門交差点」から、60.0Km。
           寄り道を含めた実歩行距離は、15.8Km 24,600歩(大蔵バス停~南原バス停)。 累計 81.5Km。


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