野木宿・間々田宿・小山宿 (古河駅 → 小山駅 )
<旧日光街道7回目>
2011年10月23日(日) 曇
JRで小山駅から古河駅に行き、昨日中断した武蔵屋前まで戻り、ここを7:50スタート。
(注:解説で街道の左側、右側とは日光に向っての左右です)
「中田宿・古河宿」 ← 「目次」 → 「新田宿・小金井宿・石橋宿」
【よこまち柳通り碑】 (左側) 7:52
武蔵屋前の通りはよこまち柳通りで地名の石碑が、しばらく進んだ左側の駐車場右横に同じものが二基建っている。
石碑の裏面には下記の説明が刻まれていた。
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横山町通りは、かつて江戸時代に日光街道の北玄関口として造られ、宿場としての問屋場や旅籠、茶店等が軒を連ね、陸上交通の要所として賑わった。しかし、明治から現在に至る社会経済の変化、交通手段の変革により、まちも変容を余儀なくされた。そこで市は地域住民と相計り、往時を偲びさらに風格と活力のあるまちづくりを目ざして、ここに「よこまち柳通り」を建設した。 昭和六十二年六月吉祥建碑 |
【本成寺】 (左側) 7:57
日光道中は右にカーブして本町一丁目で分かれた県道に合流する。
その合流する手前左側に本成寺があり、その入口に「一、法清院殿の墓 古河城土井利益の母堂、古河市指定史跡」「河口信任の墓 解屍編の著者、古河市指定史跡」の大きな案内柱が立っている。
参道を奥に入って行くと赤い山門が現れ、その傍らに「古河城北 赤門の寺」と刻まれた石碑が建っている。
【道標】 (右側) 8:04
県道に合流した所で古河宿は終わり、その右角の道標が建っていて、「史跡 栗橋道」と刻まれていた。
「栗」の文字は読めたが、次の文字は達筆すぎて読めない。おそらく「栗橋道」で間違えないと思う。
【塩滑地蔵菩薩】 (右側) 8:15
合流点から10分進んだ左側「カナルハウス」の向かいに塩滑地蔵菩薩のお堂がある。
この辺りは、日光道中でここだけ左手に筑波山が見えたということから左筑波と呼ばれているが、現在は見えない。東海道に「南湖(茅ヶ崎)の左富士」と「吉原の左富士」があったことを思いだす。
【野木神社】 (左奥) 県道入口8:25〜国道に戻った 所で8:48
塩滑地蔵菩薩から5分で栃木県に入り、「野木交差点」で斜め後ろから来る国道4号線に合流する。
その交差点少し手前に野木神社の鳥居が建ち、左斜め へ参道が遠くまで(520m)続いている(写真参照)。
参道を歩いてゆくと、神殿前の鳥居から一本手前の道に「←野木町煉瓦窯 900m」の案内が立っている。昨日古河宿で出合った歴史愛好家からも、是非訪れて見なさいと言われたので、次の角まで入ってみたがそれらしいものは見えず900mは遠すぎるので行かなかった。
野木神社の境内には、樹齢約1200年の大イチョウ、樹齢650以上の大ケヤキ、二輪草の群生地、芭蕉句碑が建っている。
【野木神社由緒沿革】
仁徳天皇の時代(約1600年前)、下総国造奈良別命が当国赴任の折、莬道稚郎子命の遺骸を奉じ、下野国笠懸野台手函の地に斎奉る。その後、延暦年間(約1200年前)に坂上田村麻呂が蝦夷平定し都へ凱旋の途中、当社に鎮撫の功を奉じ、その報賽として現在の地に社殿を造り遷座したと伝えられる。
鎌倉時代には、幕府より社領として旧寒川郡八ヶ村の寄進、及び神馬の奉納が有り、又元寇の際、北条時宗公より攘夷祈願の命を受けて、右殿左殿に息長足比売命を始め、あらたに五祭神を合せ祀った。
文化三年(約190年前)火災により社殿悉く焼失したが、時の古河城主、土井利厚公は領民の協力を得、現在の社殿を再建した。
明治時代には乃木大将も当社を厚く崇敬し、度々参拝に訪れ、所緑の品々を御神宝として奉納した。
平成十一年五月建之
【大イチョウ】 町指定文化財(昭和52年11月30日指定)
この大イチョウは、今から約1200年前(平安時代延暦年間)に征夷代将軍坂上田村麻呂が蝦夷討伐に成功し、凱旋の途中、野木神社に参りその功を奉でました。
その奉賽として、神社を笠懸野台手函(現在の野渡大手箱)から現在の「身隠の森」に移築し、記念にイチョウの木を奉植したものと伝えられています。
この大イチョウには、婦人たちが乳が出て乳児が健全に育つように米ぬかと白布で作った模型の乳房で祈願する民間信仰があります。
昭和五十七年三月 野木町教育委員会
【野木神社ケヤキ】 町指定文化財(平成22年3月25日指定)
野木神社は、五世紀に創建され、延暦年中(782〜806)に、坂上田村麻呂が現在の二義神社の西約800メートルの所より社殿を移したといわれています。その後、足利氏の執政の末に乱にあい、神嶺を奪われて社殿も破壊しましたが、長禄三年(1459)、神官・海老沼常基により再興されたということです。
常基は、鎮守の森に育つよう社前に数多くの木々を植えたといわれますが、このケヤキは、それ以前にあったものと推測されます。
このケヤキは、高さ太さも県内の名木と言われるケヤキに匹敵する大木で、樹齢も650年以上と推定されます。
野木町教育委員会
【芭蕉句碑】
冬の遊水池の様子を歌った句
芭蕉墳 一疋のはね馬 もなし河千鳥
宝暦十年辰十一月三日 徳雨建之
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【黒馬繋馬図絵馬】 町指定文化財(昭和57年1月13日指定) 野木神社に奉納されている「黒馬繋馬図」の大絵馬は、江戸画壇の大家と称されている谷文晁の作といわれています。 絵馬は人間が神に祈願する時に馬の絵を描いて奉納したことからはじまるといわれる民間信仰上の呪術的奉納品です。
これほどの大型の絵馬は本町には例がないと同時に描かれている馬も実にすばらしく、伝承によれば東京浅草・浅草寺の「白馬繋馬図」の大絵馬と一対をなすといわれています。 この算額は、明治二十二年に間々田在住の最上流の和算学者根岸林左ェ門安章の門下生で野木在住の野島勝次正行の手により野木神社に奉納されたものです。 算額は、日本に古くから発達した数学である和算の問題と解答を額にして神社仏閣に奉納したもので、本町においては現存する唯一のものであり、栃木県の和算研究史資料としても価値高いものといわれています。 この本算額は、幾何学の範疇に入る円の直径と正方形の辺の長さを算出させる問題と解答であり、当時の和算のすばらしさを現代にしめしてくれる有力な資料となっています。 昭和五十七年三月 野木町教育委員会 |
【野木宿】 日本橋から16里24町20間(65.5Km)、鉢石へ19里15町(76.3Km)
江戸時代の野木宿は、古河宿より25町20間(約2.8Km)、間々田宿へ1里27町(約6.9Km)にあった宿場町である。
野木村の成立は、野木神社の周りに住居したのがはじまりで、その後文禄年中(1592〜95)に街道筋へ出て、馬継ぎが開始され、新野木村が成立した。まもなく野木村も街道筋へ移動して町並みとした(「野木宮要談紀」)ようである。慶長7年(1602)には本野木村を併せ、野木宿として成立した(「日光道中略記」)。こうして日光道中も東海道・中山道と前後して、慶長期(1596〜1614)ころから、宿駅の設定や街道の整備が進められたとされる。
宿の規模は、天保14年(1843)では、下記の通りである。
宿の長さ 22町27間 家 数 126軒 一里塚 1か所
宿の町並み 10町55間 御定人馬 25人25疋 高札場 1か所
宿 高 286石余 うち囲人馬 5人 5疋 旅 籠 大 0軒
地子免許 3,600坪 本 陣 1軒 中 2軒
人 口 527人 脇本陣 1軒 小 23軒
男 271人 問屋場 4か所
女 256人 (「日光道中宿村大概帳」)
野木宿は小さな宿場町だったので、街道が整備され、通行料が増大すると、その負担に耐えられなくなっていった。そこで、宿人馬をたすける助郷の村々、23か村が野木宿に割り当てられた。勤め高は合計7,384石余りであった。その多くは古河藩内の村々で、現在の野木町域(川田を除く)、小山市平和などの台地上の村々と思川西部の水田地帯の村々があてられた。
野木町教育委員会
下記【日光道中野木宿(案内板)】より
【野木宿入口】 (左側) 8:48
古河宿からの県道が国道4号線に合流した「野木信号」から左へ二本目の道の入口を一歩入った所、民家の塀前に野木宿入口の立札のみ立っている。私達が野木神社から国道に戻ってきた所 である。
その対面には馬頭観音が建っている。
この場所に木戸が設置されていた。
【野木宿本陣家】 【日光道中野木宿(案内板)】 (左側) 8:55
野木宿入口の立札から5分進んだ、熊倉宅のブロック塀の前に日光道中野木宿の案内板が立っている。
この熊倉宅が本陣で、その先すぐ右手の熊倉宅が脇本陣を勤めた家とのことだが、国道の反対側なので脇本陣は確認できなかった。
文面は上記【野木宿】に記載。
本陣だった熊倉宅。ブロック塀の前に立っているのが宿の案内板
【大平山道道標】 (左側) 9:10
途中、満願寺と浄明寺の門前に十九夜塔が建っていた。他の街道では廿三夜塔が多かったが、日光道中ではこの先も含め、十九夜塔が何度も見られる。
浄明寺を過ぎて少し進んだ先、民家の角に道標が建っていて、傍に立札と説明板が立っていた。
立札には『是より大平に至る」と記され、かつては日光への裏道』と書かれていた。実際の道標の文字は「是より大平山道」と刻まれているのだが、最下部は擦れているため、言われて初めて読むことが出来た。
往時は、この横の道を入って行くと渡し場があって、川を渡って大平山に行けたとのことである。
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【野木宿道標】 町指定文化財(平成22年3月25日指定) 本道標は、日光街道野木宿から下生井・白鳥・部屋・榎本を経由し、栃木へ向う日光山近裏道と呼ばれた脇往還入口に建てられている。この道は、栃木で例幣使街道へ通じており、野木以南と日光方面とを短絡する道であった。また、日光街道が宇都宮まで奥州会街道と重複しており、荷物の輸送や往来する人々で混雑したため、迂回路を示す道案内として、こうした道標が建てられたものと思われる。 なお、道標は交通案内の他に、旅人の安全や悪疫の村への侵入を防ぐといった道祖神的な性格や、道案内をすることで功徳を得ようとする信仰とも考えられている。本道標にも「是より大平山道」と刻まれており、大平山神社への参詣道の道案内としての性格が強く、江戸時代の人々の大平山神社に対する信仰の厚さを知ることができる。 野木町教育委員会 |
【観音堂】 (左側) 9:15
道標の先、右カーブし始める左奥に観音堂が建っており、手前に十九夜等の供養塔が並んでいる。
観音堂の一番手前にある碑が、十九夜供養塔
9:45〜9:55
観音堂の先の交差点近くの民家に野木一里塚の立札が立っているとのことだが、見つけられなかった。
松原歩道橋手前の左側に綺麗な長屋門が見られる。
その先、「友沼交差点」を右折するとJR東北線
本日は湿度が異常に高いため早くも疲れが出てきたので、この交差点右角にある「マクドナルド」で休憩した。
【法音寺】 (左側) 10:15〜
「友沼交差点」から20分程進むと左側に法音寺の仁王門が見えてくる。
仁王門をくぐり、左方向の山門前に芭蕉句碑が建っている。
【法音寺の芭蕉句碑】
「芭蕉翁 道ばたのむくげは馬に喰われけり」
法音寺にあるこの句碑は、安永9年子年(1780)仲秋に、今日庵安袋の門人である秋本性李叟( = 翁)が建てたものである。「道ばたの」は諸本が「道のべの」とする。「むくげ」は木槿、槿(むくげ)である。
松尾芭蕉(1644〜94)は江戸時代前期の俳諧師で、伊賀上野生れである。俳号ははじめ宗房、江戸に下って桃青と号した。別号は芭蕉翁をはじめとしていくつかあるが、好んで「はせを」、「芭蕉」と称した。「旅の詩人」、「漂泊の詩人」といわれる。
「おくのほそ道」の旅では、芭蕉は、元禄2年(1689)3月、芭蕉庵を人に譲り、河合曽良を伴って江戸を出発、奥州、北陸へ旅立った。『曽良日記』によると、3月28日に野木を通過して、小山市間々田に泊まり、翌日間々田を出たことがわかる。この間、野木周辺や宿泊所等に関する記載は残されていない。
間々田出立後、室の八島(現 栃木市惣社町大神神社)を訪ね、鹿沼から日光を経て、白河の関を越え、松島へ向った。
ところで、「道のべの」の句は、芭蕉が「おくのほそ道」のたびに出る5年前、貞享元年(1684)8月、41歳の秋、江戸深川の芭蕉庵を出発、門人千里を伴って、東海道は上方への旅「野ざらし紀行」に向った際につくられたものである。大井川を越えたあと、8月20日過ぎのことで、小夜の中山(現静岡県掛川市日坂付近の名所)越えをする前に、馬上から読まれたものである。この句のほか、「山路来て何やらゆかしすみれ草」、「辛崎の松は花よりおぼろにて」の句が当時評判になったとされる。
この旅は江戸出立以来、9か月にわたる長旅で、人生を旅とする俳諧の始まりであった。
野木教育委員会
※「小夜の中山」は、旧東海道道草ハイクの第22回目参照。
【友沼八幡神社】 (右側) 〜10:25
法音寺前の交差点を挟んだ対面に、将軍の日光社参時に休憩する建物が設置されていた友沼八幡神社がある。神社は改築中であった。
【友沼八幡神社「将軍御休所跡」】
元和二年(1616)、徳川家康が没すると、これを駿河の久能山にいったん葬ったが、翌三年の一周忌に久能山から日光へ改葬した。
東照大権現社が完成すると、将軍秀忠は日光参詣(社参)のため、四月十四日に江戸を出発している。さらに寛永十三年(1636)に東照宮が完成すると、徳川家最大の廟所として将軍をはじめ諸大名、武家や公家、さらに庶民にいたるまで参詣するようになった。
将軍の社参は、秀忠の第一回社参をはじめとして、天保十四年(1843)の十二代将軍家慶の社参まで十九回に及んだ。寛永十三年四月、遷宮後の第十一回社参から行列の規模も拡大された。
社参の行程は四月十三日に江戸を出発し、岩槻・古河・宇都宮で各一泊、十六日に日光に入り、十八日には帰途につく。復路もやはり三泊四日で帰るのが慣例となった。それとともに昼食・休憩の宿や神社なども決まり、大沢宿(現今市市)のようにそのための御殿が建てられた例もあった。
友沼の将軍御休所は、将軍が江戸を出発し、二泊めになる古河城を朝出て、最初に小休止した場所で、八幡神社の境内にあった。次は小金井の慈眼寺で昼食をとり、石橋へという道順をとった。
ところで、近世における八幡神社は『日光道中記』によると、別当法音寺の支配下にあった。野木村の野木神社の場合、元和二年(1616)に別当満願寺の支配がはじまるから八幡神社も早くはほぼこの時期かと思われるが、小祠から拝殿・本殿をそなえた神社に整備されたのは、社参の規模が拡大する寛永十三年以降のようである。将軍御休所の建物は境内にあり、西運庵と呼ばれた。日光社参と八幡神社の整備が深くかかわっていたとすれば運西庵の成立もこの時期かもしれない。なお文化期(1804〜17)の宿駅のようすを描いたといわれる『日光道中分間絵図』では運西案となっている。
八幡神社からの眺めはすばらしく、『日光道中略記』では、はるかに丸林村、潤島村の林が、さらに遠方には若林村の森が見え、正面には筑波山を眺望できる景勝の地と記されている。
肥前国平戸藩主松浦静山は寛政十一年(1799)八月、四十才のとき、日光参詣の途中、友沼の「石の神門建てたる八幡の神祠のまえにしばし輿をとめ」、休憩している。
天保十四年(1843)四月、『続徳川実記』によると、十二代将軍家慶の社参では、享保(第十七回)、安永(十八回)の社参では設けなかった幕張りが小休止の場所まで行われた。友沼の御休所でも幕が張られ、一行は疲れをいやしたとある。
平成三年三月二十五日 野木教育委員会
【若宮神社】 (左側) 10:40
友沼八幡神社の先で小山市に入り(10:30) 、そのすぐ先の左奥にある「グル−プホームふれんど間々田」入口に馬頭観音の石碑が建っていた。正面に「天下泰平・馬頭観世音」、側面に「文化十癸酉年十二月十九日建之」と刻まれていた。
そこから7分程進んだ右側に若宮神社があり、神社の境内だが、大日如来像が安置されていた。
この仏像は屋外に建っていることから「濡れ仏様」と呼ばれていたが、現在は屋根がかけられている。
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【大日如来坐像】 宝永六年(1709)に鋳造されたもので、武州江戸湯島渡部九兵衛が施主となり、その父母の供養のため、その生国である下野国都賀郡寒沢の地に安置したと伝えられる。 かつて背面に光背があったと思われるが現存しない。尊容が整っており当時の人々の信仰がよくうかがえる。 また、戸外に安置されていることから「濡れ仏様」と呼ばれ親しまれている。 推定年月日 昭和兀十六年 |
【間々田宿】 日本橋から18里15町20間(72.4Km)、鉢石へ17里24町(69.4Km)
宿内人口 :947人、総戸数:175軒(本陣1・脇本陣1・旅籠50)
<昼食> 11:10〜12:00
若宮神社を後に乙女の町を北東に真直ぐ30分進んだ「間々田駅入口交差点」左角にある「小川屋」で昼食とする。ランチメニューの「ミニうな玉丼付そば定食」(800円)を注文。
先ほど述べたように、本日の蒸し暑さとスポーツ飲料を持ってくるのを忘れた為、軽い熱中症になってしまったようだ。その証拠にそばつゆを全部飲み干したことで塩分が補充され た為か、その後ふらふら感がなくなり元気になったからである。
【乙女かわらの里公園】 (左奥) 12:05〜12:15
「間々田駅入口交差点」を左折して突き当りを右折、次を左折すると市立博物館と奈良時代の瓦窯跡がある史跡公園・乙女かわらの里公園に出る。
公園内には粘土採掘抗跡、工房、瓦を焼く窯などが復元され、見ごたえのある場所なので、是非訪れることを薦めます。
市立博物館は、小山市の自然風土の中で先祖が築いてきた郷土の姿を原始から近代までを展示しているとのことで、どこにでもある地方博物館なので入らなかった。
公園の北隣には赤い鐘楼門の乙女不動尊がある。
【乙女不動原瓦窯(かわらかま)跡】 史蹟(昭和53年5月11日指定・指定面積
6,124.78m2)
乙女不動原瓦窯跡は古代下野国の寒川郡に位置し、古瓦が出土する遺跡として古くから注目されていました。 昭和52年の確認調査や昭和63年から5ヵ年にわたる発掘調査の結果、瓦を焼いた4基の窯のほか、工房や粘土採掘抗・粘土溜・瓦集積場・灰原など、瓦生産に関するさまざまな遺構が発掘されました。また、出土品には丸瓦や平瓦が多数ありますが、八葉複弁蓮華文軒丸瓦や笵傷のある均正唐草文平瓦、文字の書かれた文字瓦も見つかっています。 ここで焼かれた瓦は、下野薬師寺や下野国分寺などの寺跡、あるいは宇都宮市の水道山瓦窯跡から出土した瓦と共通した特徴をもち、供給先や工人の動きを知ることができました。 また、当窯跡には有牀(ゆうしょう)式平窯と呼ばれる最新式の窯がいち早く導入されています。このことからも、国家的な事業であった下野薬師寺の再建や国分寺造営の一躍を担った当窯跡の重要性を物語ることができます。 |
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【粘土採掘抗跡】 粘土を採った跡、あるいは採った粘土を一時的に溜めて置いた場所と考えられます。
必要に応じて掘り出された粘土の範囲は四角い穴となって整然と並び、周囲には使われなかった粘土が残されています。 瓦の成形をおこなう作業台を据える穴をもつ竪穴式の建物跡です。 4本柱と8本柱の違いはありますが、壁はなく切妻型の簡単な作業小屋と考えられます。 |
【小山市立車屋美術館】 【小川家住宅】 (右側) 12:22
乙女不動尊から国道4号線に戻ると、右側に車屋美術館がある。
国の有形文化財に登録(平成19年8月)された小川家住宅(下の写真)の米蔵を美術館に改装したもので、小川家の主屋や庭園も一般公開されている。
興味ある展示もなく、共に有料なので外から見学しただけで引き上げた。
【逢の榎(間の榎)】 (右側) 12:30
車屋美術館から5分進んだ、消防署のすぐ先に、逢の榎と碑が建っている。
碑には、「逢乃榎 江戸へ拾ハ里・日光へ拾ハ里」と刻まれて、ここは日光道中の丁度中間点になる。
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【日光街道中間点 逢の榎】 元和三年(1617)、徳川家康が日光に祀られると、日光街道は社参の道として整備されていき、二十一の宿場が設けられました。 宇都宮までは奥州街道と重なっていたため、諸大名の参勤交代や物資の輸送、一般の旅人などにも利用された道でもありました。 間々田宿では、翌年には宿駅に指定され、江戸および日光から、それぞれ十一番目の宿場にあたり、距離もほぼ十八里(約七十二キロ)の中間点に位置していました。 天保十四年(1843)、間々田宿には本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠が五十軒ほどあり、旅人が多く宿泊し、賑わっていました。松尾芭蕉などの文化人も宿泊しています。 また、中田宿から小金井宿付近までの街道沿いには、松並木が続き、一里塚には杉・榎などが植えられ、旅人の手助けとなっていました。 間々田宿の入口にあった榎は、毎年、街道を通った例幣使が江戸と日光の中間に、この榎を植えて、旅の道のりを知ったのだという伝承が残されています。榎は「間の榎」とよばれ、旅人の目印となっていました。 この榎は、いつの頃からか「逢の榎」とよばれるようになり、縁結びの木として人々の信仰を集めるようになりました。祖師堂も建てられ、お参りする男女が多かったと伝えられています。 |
【龍昌寺】 (左側) 12:35〜12:40
逢の榎のすぐ先、左奥に赤い山門が見える龍昌寺がある。
ここは、徳川家光の遺骸を日光へ移送する途中に一泊した寺で、境内に下記石碑が建てられている。
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徳川三代将軍家光公(大猷院)は、慶安四年四月二十日示寂、上野寛永寺より同年四月二十四日、御霊棺奉行酒井讃岐守源忠勝以下数百名の行列により、御尊骸を日光山へ送葬途中四月二十六日当山に一夜御宿棺、四月二十八日日光山へ御到着になる。是故に御朱印七石賜る。 平成元年八月 龍昌寺廿八世 謹立 |
【間々田宿問屋場跡】 (左側) 12:48
「東京から72Km」標柱前の駐車場フェンスに間々田宿問屋場跡の説明板が立っている。向かいは「足利小山信用金庫」。
間々田宿は、江戸時代に、五街道の一つ、日光街道(道中)の宿駅として栄えていました。江戸日本橋から十一番目の宿駅(宿場)であり、江戸と日光の丁度中間に位置していました。
天保十四年(1843)の記録によると当宿は
石高 九四四石
家数 一七五軒
人口 九四七人
旅籠 五〇軒
本陣 一 脇本陣 一
と記されており、幕府の定めより、常備の人足二十五人、馬二十五疋を備え、幕府の公用に応じたり、一般の輸送も引き受けていました。日光社参・参勤交代など特別の場合は、近隣の農村から助郷と称して、人馬を臨時に集めました。
それらの人馬継立業務の一切を取扱うのが宿役人で、問屋・年寄・帳付・馬差・人足差などと呼ばれ、その詰所にあたる場所が問屋場です。ここ間々田宿の上中町の上原家が、名主職を兼ね、代々世襲で幕末まで問屋を勤めていまして。
間々田商工会 小山歴史研究会
【間々田宿本陣跡】 (右側) 12:52
問屋場跡のすぐ先、「クリハラ電機」の駐車場に間々田宿本陣跡の説明板が立っている。向かいは「小山間々田三郵便局」。
本陣は江戸時代に主な街道に設けられた宿泊施設で、本来は幕府公用の大名・勅使・公家・問跡(僧)上級武士の便をはかるためのものでした。大名などが宿泊休けいする時は宿場や本陣の入口に「関札」を掲げ、誰が宿泊休けいしているか知らせました。また本陣には定紋入りの提灯を掲げ、門や玄関には幕を張りました。
本陣主人は名字帯刀を許され、他の宿役人と共に、大名などを宿の入口まで出迎えました。江戸時代の初めから江戸時代を通して青木家が代々、この地で本陣を維持し、明治の世となって明治天皇が休けいの一時を過されました。
間々田商工会 小山歴史研究会
【西堀酒造】 (左側) 13:33
本陣跡から「千駄塚信号」を越えて30分、左側の浅間神社に千駄塚古墳があるが、小さいとのことで行かなかった。
更に神社から10分進んだ「粟宮(南)交差点」を渡った左側に、全国新酒鑑評会で3年連続金賞を受賞したという「若盛」を醸造している西堀酒造がある。
ここの長屋門は国登録有形文化財に指定されている。
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【若盛 門外不出 奥座敷ほか醸造蔵】 弊社は滋賀県東近江に居を構える西堀家の十代目当主「源治郎」が、栃木県小山市の日光連山より湧き出す天然水と豊かな水田に魅せられ、江戸時代幕末から明治維新の動乱期に間もない明治五年にこの醸造所を譲り受けました。当社の創業以前より日光街道沿いに在ったこの蔵は、道行く徳川幕府の大名行列を眺めた遥か昔から現代までの長い歴史を見つめつつ、日本酒を造り続けてまいりました。 (後略) |
【小山宿】 日本橋から20里2町20間(78.8Km)、鉢石へ16里1町(62.9Km)
宿内人口 :1,392人、総戸数:423軒(本陣1・脇本陣2旅籠74)
【須賀神社鳥居】 (左側) 14:30
西堀酒造の先「粟宮信号」で国道4号線は左へ別れ、日光道中は直進して県道265号線に入る(13:50)。道路標識に「小山市街3Km」と標示されていた。
県道に入って15分、ゴルフ練習場の先に立派な長屋門があった。
更に進んで、宮本町バス停あたりに一里塚があったと云うが、今は何も無い。
その先の信号左に須賀神社の鳥居が建っている。神社はかなり奥なので、後ほど車で訪れることにして先を急ぐ。
【明治天皇小山行在所碑】 【脇本陣跡】 (左側) 14:35
須賀神社鳥居から次の信号を渡った左側に明治天皇小山行在所の石碑と標柱が建つ。
碑の後ろには脇本陣の立派な玄関が残っているが、残念ながら板塀に囲われている。
【控本陣跡・旅籠「小倉屋」跡・問屋場跡・小川本陣跡】
脇本陣の斜め向いは控本陣跡、その隣が旅籠「小倉屋」跡、すぐ先右側の「常陽銀行」が問屋場跡、その斜め向いが小川本陣跡だったが、いずれも何も残っていないし、説明板等も無い。こういうことに関して、栃木県は不親切である。
次の小山駅入口交差点で街道歩きを終了して、車に戻り、小山宿内の他の旧跡は車で訪れた。
<以下の小山宿巡りは車で移動した>
【須賀神社】
日光道中沿いの鳥居から本殿まで350m、国道4号線を越えて参道が真直ぐ続く。
境内右手には伝説の夜泣き石(七ッの石)がある。
【須賀神社由緒】
当神社の創建は、藤原秀郷公が天慶の乱に際して、日夜素盞鳴命に戦勝を祈願し、これが成就したことにより、天慶三年(940)四月、京都の八坂神社(祇園社)から勧請して創祀した。
当初は宇北山(現中久喜)にまつられたが、小山城築城に際し、城の鎮守と仰がれ、平治年間(1159〜60)に当地へ遷座された。以来、六十六郷(小山市全域に野木町、国分寺町、下石橋、結城市小田林地区を含む)の総鎮守と仰がれる。
徳川家康公は、慶長五年(1600)七月、当神社境内で小山評定(軍議)を開き、参籠して関ヶ原の戦勝を祈願した。祈願成就した事により、五十一石余の社嶺を寄進した。のち家康公の崇拝神社なる故をもって、家光公の命により、日光東照宮造営職人の奉製になる朱神輿(アカミコシ)が、当神社に奉納された。
昭和初期には、本殿、神輿殿、直会殿、大鳥居、手水舎、社務所などが竣工、同五十七年三月には、須賀神社会館が竣工して、年中の諸行事や結婚式場として、利用されている。
平成二年四月に創建1050年大祭を斎行し、これを記念して神門廻廊下造営事業に着手し、同八年五月に竣工した。その後引き続き、社殿、末社、神輿殿、手水舎当の屋根銅板葺替工事、並びに、境内森林の檜苗木一千本を植栽し、境内施設整備をした。
参詣者は、小山六十六郷は勿論、県内外から広く厚い崇敬をうけている。
境内には、小山の伝説で有名な「七ッ石」(夜泣き石)や藤原秀郷公碑、小山朝政公碑、小山義政公碑、天狗党に参画した昌木春雄翁碑、筆塚などがあり、神域の須賀の森には、杉、檜、欅、椿、銀杏等が生い茂り、多くの野鳥が生息している。
【須賀神社鳥居】 小山市指定有形文化財−建造物(平成12年12月20日指定) 正面でなく神社右手の駐車場側に建つ鳥居
須賀神社は牛頭天王社・祇園社とも称され、祇園城主小山氏や小山の町衆たちから、広く崇敬を集めてきた。
承応二年(1653)に小山町の旦那衆によって建立されたこの鳥居には、天下泰平・国土安全・荘内豊穣・諸人快楽を祈願した銘文が刻まれている。
鳥居は、神社の参道に建てられて神域を示すもので、元来は木造であるが、平安時代頃からは石造も現れる。
この鳥居は、島木をもつ明神鳥居形式で、小山市に現存する最古の石造鳥居であり、規模も比較的大きい。
県内では指定文化財となっている日光東照宮の四基の鳥居に次ぐ古さを誇る、近世前期の貴重な鳥居である。
当所は当初は参道に建立されたが、道路拡張のため現在地に移された。
柱間 3.34m 中心高 4.10m
小山市教育委員会
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【七ッ石(夜泣き石)】 伝説によると、もと小山城内にあった七ッの庭石が、落城したことによって結城の城内に接収され、夜中になると、あわれげに泣いたという。 そこで、結城の城主は、早速に小山城の鎮守の神と仰がれた当神社の境内に運ばせ、それからは石が泣かなくなったという。 |
【小山評定跡】
須賀神社のすぐ北側にある「小山市役所」の駐車場入り口の植栽の中に小山評定跡の碑と標柱が建っている。
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【小山評定跡由来】 慶長五年(1600)七月二十四日、徳川家康は、会津の上杉景勝を討つべく小山に到着しました。 このとき、石田光成が家康打倒の兵をあげたことを知り、翌二十五日この地において軍議が開かれました。これが「小山評定」といわれるものです。 軍議は、三間四方の仮御殿を急造し、家康と秀忠を中心に、本多忠勝・本多正信・井伊直政や福島正則・山内一豊・黒田長政・浅野幸長・細川忠興・加藤嘉明・蜂須賀至鎮らの諸将が参集しました。福島正則が協力を誓い、これをきっかけに軍議は家康の期待どおりに決まりました。 同年九月十五日、関ヶ原の戦いがおこなわれ、東軍(徳川方)の勝利にむすびついた歴史上重要な所です。 |
【小山城址】
市役所と南隣の小山一小学校との間の川へ下る道が評定坂。
市役所前の国道と小山駅から北西に伸びる県道との交差点辺りが家光御殿跡。
そこから県道を北西に進み、次の交差点を右折した右手にある「天理教中根大教会」あたりが姫御殿跡。
次の十字路辺りが小山判官館跡。これらも説明等は一切無い。
そこを左折すると城山公園(小山城址)である。
小山城址には空堀と天然記念物の大きなイチョウの木がある。 小山城の別名は祇園城。
【公孫樹(イチョウ)】 小山市指定文化財−天然記念物(昭和40年12月21日指定)
公孫樹とは、イチョウの漢名。このイチョウは、漢名で呼ばれている。また、樹形の大きいことから、「城山公園の大いちょう」とも呼ばれ、市民に親しまれている。
このイチョウについて、享和三年(1803)に書かれた旅行記『日光駅程見聞雑記』に「古井戸の掘りたる近くに銀杏の樹あり、高さ三丈もある古木なり」と、また、文政年間(1818〜1830)の末頃に編めれて案内記『小山砂子』にも「御城山に今古木となりて銀杏の木あり」との記載が見られ、ほぼ二世紀前、すでに古木だったと伝えられている。
祇園城落城の際、古井戸に身を投げて亡くなった姫君の霊が、かたわらのイチョウに宿り、実を結ぶことがない、との伝説もある。そのためか、「実なしいちょう」とも呼ばれてきた。
イチョウは、中国原産の落葉高木で雌雄異株、樹齢を長く保つことで知られている。中世代(二億三千万年〜七千万年前)によく栄えた遺存種で、生きている化石とも言われている。
樹勢を回復するため、平成七年(1995)に、名木リフレッシュ事業による手当てを行った。
樹高 約15m 目通り約6m
枝張り 東西約11m 南北約12m
所有者 須賀神社
小山市教育委員会
7回目の旅終了(14:40) 小山駅入口交差点。
ホテルに預けた車を引き取り、そのあと車で小山宿を回ってから帰宅。
本日の記録
:街道のみの距離は、16.0Km(古河宿・武蔵屋前〜小山駅入口交差点)
日本橋から二十里九町(79.5Km)
寄り道を含めた実歩行距離は、20.3Km(古河駅〜小山駅) 累計110.8Km
7時間 31,600歩。