幸手宿(後半)・栗橋宿 (幸手駅 → 栗橋駅 )
<旧日光街道5回目>
2011年10月1日(土) 晴
幸手駅改札口を10:10に出て前回終了した「中一丁目交差点」を10:20スタート。
(注:解説で街道の左側、右側とは日光に向っての左右です)
「粕壁宿(後半)・杉戸宿・
幸手宿(前半)」 ← 「目次」 → 「中田宿
・古河宿」
各地に甚大な被害をもたらした台風15号と共に暑かった夏も過ぎ去り涼しくなって来たので、街道歩きも再開の運びとなった。
今回は、夏休み後の初歩きであることと、私鉄沿線
横浜の自宅から東武鉄道の駅に行くには何回も乗り換えなければならず、今日も、横浜市営バス・東海道線・山手線・常磐線・東武鉄道と5種類も乗り換えて幸手駅に到着した。特に北千住は第1回から毎回乗り換え等で利用した駅である。
これからは湘南新宿ラインをうまく利用できれば横浜間を直通で移動できるので、乗換えの多さから開放されるのが嬉しい。
【満福寺】 (左奥)
幸手駅から「中一丁目交差点」に向う途中に一色氏発願の満福寺がある(日光道中「中一丁目交差点」から左に170m入った所)。
満福寺は、荏柄山満福寺と称し、真言宗智山派に属する寺で、本尊は如意輪観世音菩薩である。
この寺は、一色氏発願寺の祈願として戦国期に建立されたといわれ、その後、裏町天神や八幡香取社の別当を務めた時もあった。
本尊の観世論菩薩は、安産子育てにご利益があるといわれている。例年八月九日、十日の四万六千日の御縁日には俗に朝観音といい、早朝から参詣する人が多く、特にお産前のお腹の大きな御婦人の参詣が目立っている。
昭和六十三年三月 埼玉県 幸手市
【聖福寺(しょうふくじ)】 (左側) 10:30
「中一丁目交差点」の本陣跡から7〜8分の「荒宿交差点」を越えたすぐ左側に聖福寺があり、参道に入ったすぐ右側に聖福寺の説明文と共に芭蕉と曽良の句碑が立っている。
参道を更に進むと立派な勅使門が建っている。往時は庶民が通ることは許されなかったが、今はくぐることが出来る。
【聖福寺】
聖福寺は、寺号を菩提山東皐院聖福寺と称する浄土宗の寺で、本尊は阿弥陀如来であり観音像は運慶作と伝えられている。
徳川三代将軍家光が日光社参の時、御殿所(将軍の休憩所)として使用したのを始めとし、天皇の例幣使や歴代将軍が十八回にわたり休憩した。将軍の間、例幣使の間、菊の紋章の入った勅使門(唐門)があり、左甚五郎作といわれる彫刻等も保存されている。また、御朱印状により十石を賜ったことがわかる。
境内の左手に二つの石碑があって、一つには「花づか」と彫られている。江戸文化が華やかであった寛政の頃、幸手宿に秋月庵一松という人がおり、遠州流生花を普及させた。
その後、日光道中でさかんになり、明治になって遠州流の人達がこの碑を建てたものという。
もう一つは「金子竹香顕彰碑」である。金子竹香は江戸時代の儒者であり、書家としても有名で幸手に住んでいた。この碑の文は儒者で、折衷学派の亀田綾瀬の撰文と書によるものである。
昭和六十三年三月 埼玉県 幸手市
【句碑】
幸手を行ば栗橋の関 芭蕉
松杉をはさみ揃ゆる寺の門 曽良
江戸時代、門前の通りの日光街道は、将軍の日光社参をはじめ、さまざまな旅人がゆきかい、その中には奥州へ向う文人、芸術家も多くあったことであろう。
「奥の細道」の旅を終えた俳人松尾芭蕉は、四年後の元禄六年九月十三日、江戸深川、芭蕉庵で十三夜連句を催した折、奥州の旅を思いおこし、同行した弟子曽良と並んで右の句をよんだ。
時を経て、昭和六十二年四月十日付の新聞紙上、埼玉の俳人鈴木太一郎氏は、右二句を紹介しながら、芭蕉に続いてよまれたこの曽良の句の門を、聖福寺の勅使門として間違いなかろうと説を示された。平成十三年、日光街道四百年を迎え、同十四年、山門の改修工事が成り、併せてこの句碑を建立し往時を偲ぶものとする。
平成十五年 秋彼岸 聖福寺第二十八世 静誉康隆
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【聖福寺勅使門】 幸手市指定有形文化財建造物 この唐破風の四脚門は建造後、約三百五十年の歴史を有します。扉には菊の紋様が刻まれており、勅使門と呼ばれています。かつては将軍一行や例幣使(天皇が祭礼に送る使者)が来たときしか、開くことはありませんでした。 ここ聖福寺は、日光東照宮に参詣した歴代将軍の休憩所であり、また東照宮例祭に臨席した例幣使も休憩をとりました。この勅使門は修理の手も加えられていますが、日光道中の宿場として栄えた幸手の隆盛をしのばせるものです。 幸手市教育委員会 |
【幸手一里塚】 (右側)
聖福寺を過ぎると日光道中はすぐ右に曲がって行くが、その曲がり角に小さな蘇鉄の木と共に幸手一里塚の説明板のみが立っている。
徳川家康は慶長九年(1604)に、全国の主要な街道に一里塚を築かせました。江戸日本橋を起点として、一里(約4Km)毎に街道の両側へ、五間(約9m)四方の塚を築きその上に榎等を植えて目印にしました。榎は根が深く広がるので、塚が崩れにくかったのです。
一里塚は、大切な距離標だったばかりでなく、荷役人の賃金計算の距離基準であり、旅人の休憩所ともなりました。
幸手の一里塚は、明治の初めまでここの両側にありました。
幸手市教育委員会
【正福寺(しょうふくじ)】 (正面)
日光道中を右折しないで真直ぐ進む道は正福寺の参道となっている。
参道入口左側に大きな常夜燈(下の写真)、境内に入った右手に日光道中の大きな道標が建っており正面に「馬頭観音供養・寛政十二年」と刻まれている。その右奥には幸手義賑窮餓之碑が建っている。
正福寺は、香水山揚池院正福寺と称する真言宗智山派の寺で、本尊は不動明王である。 当山は、江戸時代学問の研究や子弟を養成する常法談林であり、当時この寺は、四十九ヶ寺の末寺をもっていた。また、将軍徳川家光の代、御朱印十三石を賜っている。 境内には、県指定史跡の義賑窮餓之碑がある。天明三年(1783)に浅間山が大噴火したため関東一円に灰が降り、冷害も重なって大飢饉となった。この時、幸手町の有志二十一名が金品を出し合って、難民の救済にあたった。この善行が時の関東郡代伊那忠尊の知るところとなり、顕彰碑を建てさせたという。 また、樹齢四五〇年、根まわり五メートルもある榎の大木があり、県の天然記念物に指定されていたが、惜しくも枯れてしまった。 寺には、多くの古文書や仏像・書画が保存されており、境内には日光道中の道しるべもあり有名である。 昭和六十三年三月 埼玉県 幸手市 |
一里塚跡を右折した道はすぐ先の信号を左折して北上する。
橘守部翁遺跡碑が10分程進んだ川の手前を左折、幸手商業高校の突き当りを右折、次を左折した所に立っているとのことだが、 奥まで行かなかった為か見つけられなかった。翁の誕生碑を東海道・桑名宿で見ているので少々残念だった。(旧東海道34回目参照)
帰りは、すぐそばの橋を渡り街道に戻る。戻った所は「内国府間(うちごうま)交差点」で国道4号線と合流する。
【権現堂公園】 (右奥) 11:05〜11:15
日光道中は「内国府間交差点」から「行幸橋」まで国道を進むのであるが、右手中川沿いの権現堂堤に曼珠沙華(彼岸花)の花が咲き乱れるという季節なので、次の交差点を右折して権現堂公園(4号公園)に向った。
右折した途端、堤に真っ赤なじゅうたんを敷き詰めた光景が目に飛び込んで来て、実に壮観だった。
ここへ来る途中の商店に9月中旬〜10月上旬が開催期間となっている「第6回曼珠沙華祭り」のポスターが貼られており、平成12年より植栽を始めた曼珠沙華が、市民ボランティアの力で現在約80万本にまで増えたとのこと。
公園内の中央には巡礼の碑が建っている。
また、権現堂堤は桜並木も有名で、今回の行程は桜の季節に来る予定だったが、東日本大震災の交通不安から躊躇して今日まで延びてしまった。
でも、この曼珠沙華の美しさを見られたので今日で良かったが、桜の季節になったらもう一度行きたいと思った。
<昼食> 11:15〜12:00
権現堂公園の国道沿いにある「びっくりとんかつかつ太郎本店」で昼食。トンカツの肉はやわらかく美味しかった。★★★★
【行幸堤(みゆきづつみ)之碑】 (右側)
「かつ太郎」のすぐ先、「行幸橋」手前の右手上に行幸堤之碑、明治天皇権現堂堤御野立所の石柱、堤防造成者の名標が立っている。
権現堂堤は、権現堂川の水防のために江戸時代になる前に造られた堤です。 しかし、江戸時代を通じて何回もの洪水を経て、明治時代になって地元から新しい堤防造成の機運が起こり、明治八年六月に着工し、十月にはここから栗橋町小右衛門にかけて旧日光道中に並行した新権現堂堤が完成したのです(現在は国道四号線がその上を通っています)。 明治九年六月に、明治天皇が東北巡幸の際に立ち寄られてその労に感じ入り、この仕事に携わった者の名前を石に刻んで残すように言われ、費用の一部が下賜されました。 人々は大変恐縮し、是非この堤を行幸堤と呼ばせていただきたいと申し出たところ許可されたということです。 明治二十二年の町村制施行によって高須賀村・外国府間村・円藤内村・松石村・千塚村が合併して行幸村となりましたが、その村名もこの行幸堤に由来しています。 また、この石碑の建っている部分は行幸橋の架け替え工事(平成十二年〜十七年)以前はゆるやかな斜面であったため、石碑自体は歩道の近くにたって国道側を向いていましたが、堤が高くなったために上に移し、見やすいように現在の向きにしたものです。 幸手市教育委員会 |
【日光街道の道しるべ】 (正面) 12:15
日光道中は行幸橋を渡ったらすぐ左に下り行くので、行幸堤之碑を見学したら目の前の信号を渡って国道の左側を進むこと。行幸橋の先に横断歩道がない為、交通量が多い国道を横断するのが難しいからである。
左に下りたらすぐ右に曲がり、国道に平行している静かな旧街道を進む。
国道の右側は権現堂2号公園と1号公園を挟んで権現堂川が流れる。ちなみに3号公園は4号公園の川向こうにある。
旧道に入って約10分、Y字路の三角点に日光街道の道しるべ(追分道標)が立っていて、正面に「右つくば道」、左側面に「左日光道」、右側面に「東かわつま前ばやし」と刻まれているので、ここは左の道へ進む。
この道しるべは、安永四年(1775)日光街道と筑波道の別れる所に建てられたものです。 昔の旅人達にとって、この道しるべは街道を歩く際のたよりになったもので、大切なものです。 この道しるべは、「左日光道」、「右つくば道」、「東かわつま前ばやし」と刻まれています。かわつまは現在の茨城県五霞村字川妻、また前ばやしは、茨城県総和町前林のことで、筑波へ行く道順です。 この道が日光だけでなく、遠く奥州(東北)へも通じていたのです。 幸手市教育委員会 |
【雷電神社・権現神社】 (正面) 12:25
道しるべから5分程進んだ右手の「吉羽屋酒店」がレトロな店で良い雰囲気を醸し出していた。
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更に2分進むと雷電社と権現社が合祀された神社の鳥居に突き当たる。 この先、栗橋宿迄の日光道中は国道4号線の工事で分からなくなっている為、神社前を右に取り、栗橋宿まで国道左下に接している細道を進む様になる。 神社を過ぎて程なく旧道は国道に出るが、すぐ左の細道へ下りてゆく。 |
【小右衛門一里塚】 栗橋町指定文化財(昭和4年7月30日指定) (左側) 12:40
雷電社から7分程進むと道路下の丸い小さなトンネンルをくぐるが、右の国道を見上げると「小右エ門(南)」と表示された信号が見える。トンネルをくぐると外国府間集落から小右衛門集落に入る。その先すぐ右に国道下を抜けるトンネルがあり、くぐると権現堂1号公園の北端に出られる。
「小右エ門(南)信号」下トンネンルから11分程進んだ左側に「真光寺」があり、その後ろの空地に小右衛門一里塚の案内板と標柱が立っている。
最近まで一里塚の上に下記の説明文にある弁財天堂が建っていたというが、朽ちてしまったのか震災の影響かは分からないが、残念ながら現在は堂が撤去され更地になってしまっていた。(下の写真で、後ろの建物は「真光寺」)
慶長九年(1604)徳川幕府は、大久保石見守に命じて東海道、中仙道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五街道をはじめとして、主要街道に一里塚を築かせた。 江戸日本橋を起点として、一里(四キロメートル)毎に塚を築き、その上に榎を植えて道のりを表し、伝馬制度に大きな役割を果たしたほか、旅人の休憩所にも利用された。 付近には茶店などもあり、また、駄賃などの目安にもなり大いに賑わったと思われる。今でいえば、鉄道の駅を連想させる。 また、この塚は、幸手宿と栗橋宿の中間で小右衛門村(現・栗橋町大字小右衛門517−3)にあり、江戸から十四番目にあたる。 現在、塚の上には、字堤外(現・権現堂川)から移築されたという弁財天堂が建てられており、塚の高さは西側から約二メートル、五間(約九メートル)四方の遺構は、塚の形態と当初の広さを残し、当時の姿を偲ぶことができる。 栗橋町教育委員会 |
一里塚を少し過ぎた先を左折すると15分位で東武鉄道日光線
【会津見送り稲荷】 栗橋町指定文化財(昭和53年3月29日指定) (右側) 13:15
東北幹新線のガードを13:00にくぐり、ガードから5分で国道に上がって行くが、日光道中は正面に綺麗なお姉さんの写真が飾られている「ライブシアター栗橋」劇場の前を左に入って行く。
左に入るとすぐ右手に上川通神社がある。
左へ大きく弧を描くように、広めの旧道を11分程進むとY字路になり、日光道中は右の道を進む。
そのY字路の右側に会津見送り稲荷の赤い鳥居が見える。
江戸時代、徳川幕府が参勤交代制をとっていたころ、会津藩の武士が藩士江戸参向に先立ち、先遣隊として江戸へ書面を届けるためこの街道を栗橋宿下河原まで来たところ、地水のため通行できず、街道がどこかわからずたいへん困っていると、突然白髪の老人が現れて道案内をしてくれた。お陰で武士は無事に江戸へ着き、大事な役目をはたせた、という。
また、一説には、この地で道が通行できずに大いにあせり、そのうえ大事な物を忘れたことに気がつき、困り果てたすえ、死を決意した時、この老人が現れ藩士に死を思い止まらせた、ともいわれている。
のちになって、この老人は狐の化身とわかり稲荷様として祭ったものである。
栗橋町教育委員会
【栗橋宿】 日本橋から14里15町(56.6Km)、鉢石へ21里24町20間(85.1Km)
宿内人口:1,741人、総戸数: 404軒(本陣1・脇本陣1・旅籠25)
利根川の船渡しの宿場として賑わった。また、関東北辺に対する警備の地として、関所が設けられた重要な地であった、
【焙烙地蔵】 栗橋町指定文化財(昭和53年3月29日指定) (右側)
この先栗橋宿に入る日光道中は、会津見送り稲荷の先 でも国道に寸断されているが、国道の右側へと続いていた。
仕方ないため、国道に合流した所の信号を反対側に渡り国道の右側を進むと、すぐ先の「栗橋信号」で国道沿いの歩道は無くなるので、右下の細い道へ下りて行く。そのまま下り 、突き当たりを左折して国道下の狭いトンネルをくぐって、再び国道の左側に出る。ここでも、どのルートが日光道中か資料によって異なるので迷うところだが、今井金吾氏の資料に従って進んだ。
トンネンルをくぐった先の突き当りを右折すると栗橋宿に入って行くが、右折してすぐ右側に焙烙地蔵堂が建っている。堂内を覗くと地蔵尊の周りには焙烙が沢山供えられていた。
むかし、現在の利根川に関所が設けられ、人の通行をきびしく取締っていた時代、関所を通らないで渡った者、あるいは、渡ろうとくわだて事前に発見された者は、関所破りの重罪人として火あぶりの刑に処せられたと伝えられている。処刑場も地蔵尊のある現在の場所であったという。
こうした多数の処刑者を憐れみ、火あぶりになぞらえて、その後土地の人が供養のため焙烙地蔵として祭ったものである。今も焙烙に名前を書き入れ奉納されているのが見受けられる。
また、エボ地蔵ともいわれ、あげた線香の灰をエボにつけると治る、といい伝えられている。
栗橋町教育委員会
【顕正寺】 (右側) 13:40〜13:45
焙烙地蔵から右折したすぐ先右側にある顕正寺には栗橋宿を開き、本陣職を務めた池田鴨之助の墓がある。
鴨之助の墓は本堂右奥にあるが、説明板の前の一画は池田家代々の墓石が沢山並んでいて、どれが鴨之介の墓か現地では分からなかった。
後で分かったことだが、説明板を良く読んでいれば法名が明記されていたので探すことが出来たと思った。
【顕正寺由来】
開基は常陸の国(現・茨城県小美玉市)幡谷城の城主・幡谷次郎信勝である。
信勝は亡妻を弔うため天台宗の僧となり光念寺を建立した。
時は1214年(鎌倉期)宗祖親鸞聖人越後より稲田に移りて念仏の教えを説き広めるに出会い、開法を重ね随喜して弟子となり法名を唯信「ゆいしん」と賜り、光念寺を念仏の道場として布教に努めた。
下がって天正十八年(1590)戦国大名佐竹氏の急襲を受け幡谷城は落城、光念寺も兵火により焼失してしまった。
難を逃れ、下総国中田(現・古河市中田)の阿弥陀堂に引き移り、ここを幡谷山破邪院顕正寺と改めた。
十六代善了のとき、栗橋町の開発者である池田鴨之介の「菩提寺に」との招請により、寺基を慶長十四年(1614)この地に移し法義を継承して今日に至っている。
法名碑は十六代善了より記した。
【阿弥陀如来像】 栗橋町指定文化財(昭和53年3月29日指定)
幡谷次郎左衛門尉信勝は水戸城より三十キロ南の地に城郭を構えて居住していたが、出家して親鸞聖人の弟子となり唯信と名を改め同所に光念寺を建立し、十字の名号を本尊としていたが、同寺はやがて兵火にかかり焼失してしまった。
その後下総国古河領中田新田村藤の森に聖徳太子と伝えられる阿弥陀如来の木像を安置したお堂があったので、ここに引き移り、これを本尊として寺号を幡谷山破邪院顕正寺と称した。十六代善了の時栗橋町の開発者池田鴨之介の招請によって慶長十九年(1614)寺基と阿弥陀如来像とをこの地に移した。
その尊像は現在の中央本尊とは別に厨子に安置してある。立派な作で、仏像研究家も優作であるとの賛辞をおくっている。
栗橋町教育委員会
【池田鴨之介の墓】 栗橋町指定史跡(平成3年5月14日指定)
池田鴨之介(鴨之助)は、新編武蔵風土記稿によれば、並木五郎兵衛と共に、幕府に願い出て、慶長年間(1596〜1614)に、下総国栗橋村(現茨城県五霞町元栗橋)より、村民を引き連れ、後の栗橋宿となる上河辺新田を開墾しました。
また、下総国中田新宿藤の森(現茨城県古河市中田)より顕正寺を移したといわれています。
慶安元年(1648)十二月九日に没し、法名を「光明院釈常薫」といいます。
池田家は、江戸時代初代鴨之介の子、與四右衛門よりその名を世襲し、代々栗橋宿の本陣役を務めました。
子孫、鴨平は明治二十二年に私立淑徳女学館を設立し早くから女子教育に力を入れ、その子義郎は、旧栗橋町の第三代町長として町政のためにつくしました。
平成十九年三月 栗橋町教育委員会
【深廣寺(じんこうじ)】 (左奥) 13:47〜13:55
顕正寺すぐ先を左折した奥に深廣寺があり、六角名号塔と呼ばれる供養塔が21基並んでいる様は壮観であったはずだった。はずだったというのは、このたびの東日本大震災の影響で倒壊したものがあったのであろう、塔が全て台座から外されて地面に横たわっていたからである。真ん中から折れていた塔も数基あった。
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【六角名号塔】 栗橋町指定有形文化財(昭和53年3月29日指定) 六角名号塔は、総高約360cm、一面の幅約50cm、六面からなる石塔で「南無阿弥陀仏」の名号が刻まれています。 この塔は、当山二代住職単信上人が伊豆大島より大石を船で持ち帰り、承応三年〜明暦二年(1654〜1657)の間に千人供養塔を二十基建立、その後明和三年(1766)に九代住職法信上人が三千人供養塔を一基建立したものです。 配置は左の図(省略)の通りです。〔1〕から〔20〕千人供養塔、〔21〕が三千人供養塔です。なお、基礎部右側面の地名の表記が、承応三年七月までが「新栗橋」(〔1〕〜〔8〕)、同年八月からは「栗橋」となっています。 |
【本陣跡】 (右側) 14:05
街道に戻ると、青いテープが巻かれている電柱が立っているのを発見。これは前回杉戸宿で紹介した青テープ巻きと同じで、昭和22年(1941)のカスリーン台風で利根川が決壊した際の洪水の水位で、この辺りでは2mを超える高さになっている。
顕正寺前から「栗橋駅入口交差点」を越えて10分行った右奥に池田家の本陣跡がある。
本陣の向かいに脇本陣もあったが、今は何も残っていない。
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【本陣と池田鴨之介】 池田鴨之介は、下総国葛飾郡小手指の栗橋村(現在の茨城県猿島郡五霞村)に、天正七年(1579)八月に生れている。 慶長十年(1614)鴨之介が三十五歳のとき、徳川幕府の命により並木五良平と共に当地に移り、新田開発を行っている。その時、両名と一緒に下総国栗橋村から移り住んだ民家は四十五戸であったという。 その後、当地は次第に町並も整い、元和元年(1615)には元栗橋に対し新栗橋と称するようになった。池田家は元和八年(1622)徳川二代将軍秀忠が家康を祀る日光山東照宮に始めて参社の折、本陣となり以後、明治三年(1870)本陣の制度が廃止されるまで代々本陣を勤めている。 池田家の墓は、鴨之介の古い石碑と共に顕正寺にある。 昭和六十三年三月 埼玉県 栗橋町 |
【栗橋関所跡】 (右側) 14:07
本陣の少し先を右に入った所に栗橋関所跡碑が立っている。日本三大関所の一つと云われるが、現在は土手下に石碑と説明板のみ残っている。
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【栗橋関所跡 『房川渡中田・関所』】 埼玉県指定旧跡(昭和36年9月1日指定) 江戸幕府は、交通統制と治安維持のために、主要な街道が国境の山地や大河川を越す要地に関所を設け、特に「入り鉄砲と出女」を取り締まった。 栗橋関所は、日光街道が利根川を越す要地に「利根川通り乗船場」から発展した関所の一つで『房川渡中田・関所』と呼ばれた。東海道の箱根、中仙道の碓氷と並んで重要な関所であったという。 関所の位置は、現在の堤防の内側で利根川のほとりにあたり、寛永年中に関東代官頭の伊那備前守が番士四人を置いた。以後、番士は明治二年関所廃止まで約二百五十年間、代々世襲を勤めた。 関所跡の記念碑は大正十三年に旧番士三家・本陣・宿名主の発起で町内と近在の有志により、徳川家達の揮毫で、旧堤上に建碑され、数度の堤改修により、建設省利根川上流工事事務所の配慮で、今回ここに移設された。 |
【房川渡の由来】
往古、奥州街道は、下総台地の五霞町元栗橋(下総国猿島郡・栗橋村)を通っていて、その「幸手=元栗橋」の常船場を『房川渡・栗橋』と呼んだ。後、利根川の瀬替えなどで、街道が付け替えられ「栗橋=中田」に乗船場が生まれ『房川渡・中田』と呼ばれた。一説に房川とは、元栗橋に宝泉寺という法華坊があり、『坊前の渡し』と呼んだことから、坊前が房川と記され、川と渡しの名になった。
昭和六十年七月 埼玉県教育委員会 栗橋町教育委員会
このあと八坂神社に寄る予定だったが、1時間に1本しかない湘南新宿ラインの時間が迫っていた為、次回に回すことで栗橋駅に向った。
また、駅の近くにある静御前の墓へも寄る予定だったが、間違えて一本手前の道を曲がって遠回りした為、発車時刻が迫っていたのでこちらも次回に回すことにした。
5回目の旅終了(14:10) 栗橋宿八坂神社前。
栗橋駅から予定通り湘南新宿ライン
に乗れ、横浜まで乗り換えなしで帰れた。
本日の記録
:街道のみの距離は、8.0Km(中一丁目交差点〜八坂神社前)
日本橋から十四里十五町(56.6Km)
寄り道を含めた実歩行距離は、12.3Km(幸手駅〜栗橋駅) 累計76.0Km。
4時間30分 19,000歩。