中山道のミニ情報

「HOME」   「旧中山道 道草ハイク」目次


1.版画「木曽街道六十九次」 【本庄市立歴史民族資料館の資料より】 

 木曽街道つまり、中山道を取り上げた浮世絵版画は江戸時代に3種類出版されている。渓斎英泉と初代歌川広重の合作、歌川国、。そして三代歌川豊国の「木曽街道六十九次」である。

 最初に、英泉・広重の合作「木曽街道六十九次」が出版された。このシリーズものは、広重の「東海道五十三次」が好評であったので、同じ版元保永堂によって企画された。天保6年(1835)から刊行をはじめ、完成したの天保13年(1842)。板橋から大津までの69次と、起点の日本橋を合わせて二人で70図描いたが、後に中津川の異図が加わった。

 このシリーズは最初英泉が描き始めた。英泉は第1図から第11図までの日本橋〜本庄間を連続して描いた。しかしその後は飛び飛び13図描き、合計24図仕上げたが版元とのトラブルであろうか途中で降ろされた。その後を引き継いだのが広重。風景画の第1人者広重は残りの46図と中津川の異図を描いて、このシリーズを完成させ、洗馬・宮ノ越・中津川などの傑作を世に出した。

 英泉は、寛政2年(1790)江戸の生まれ。初め狩野派に学び、のち美人画の菊川英山に手ほどきを受け浮世絵師となる。美人画とりわけ、吉原の遊女を描いた作品で人気を博した。文筆業にも手を染め、「无名翁随筆」を著す。渓斎は画号。嘉永元年(1848)没。

 広重は寛政9年(1797)江戸に生まれる。歌川豊広に入門。「東海道五十三次」で風景画家として一躍有名になる。号は一立斎、一遊斎など。安政5年(1858)没。

 次に広重と同じ歌川派の国芳が、幕末の嘉永5年(1852)から「木曽街道六十九次」に取り組んだ。国芳は板橋から大津までの69次と、日本橋・京都を合わせて71図のシリーズとした。国芳のそれは英泉や広重の風景画とは違って、木曽街道の駅ごとに伝説などの主人公を振り当てて、武者絵風に描いた。この種の見立絵は、伝説や歌舞伎、そのときの風俗を知らないと理解しにくい。画面の上部の左に、その宿場の風景を簡単に描き添えたが、この風景はリアルなものではない。国芳は、寛政9年(1797)江戸生まれ、初代歌川豊国の門に入り、「通俗水滸伝豪傑百八之壹人」の武者絵シリーズで有名となる。風景画、美人画、役者絵と画域が広く、また門弟も多い。河鍋暁斎もその一人。画号は一勇斎など。文久元年(1861)没。

 三代歌川豊国も、嘉永5年(1852)から「木曽街道六十九次」を描いている。豊国の木曽街道も風景画ではなく、各駅ごとに役者を見立てたもの。やはり画面上部に駅の風景を描いている。このシリーズも71図の揃いである。豊国は、天明6年(1786)江戸に生まれる。初代豊国に入門し、国貞と称する。天保15年(1844)に豊国を襲名する。「猫背猪首型」の独特な美人画や個性的な役者絵で注目を集めた。作画期が長く、ぼう大な数の作品を残している。


2.参勤交代の経費節減方法   【フジテレビ 『平成教育委員会2005』 2005年11月3日放送】 

 「参勤交代」とは、江戸幕府が諸大名および交代寄合の旗本に課した義務の一つで、原則として隔年交代に石高に応じた人数を率いて出府し、江戸屋敷に居住して将軍の統師下に入る制度。

《問題》

 行列の人数まで決められ、その出費は大変なものであったため、「参勤交代」の経費節減に最も効果のあったといわれることは何か?

《答え》

 行列の大半をアルバイトにする。

《解説》

 その国ごとに、直前に現地の農民などを雇って入国していた。多いときは全体の7〜8割がアルバイトだったと言われる。


3.日本橋の空 取り戻せ 首都高移設 来夏までに計画案   【読売新聞 2005年12月29日 抜粋】 

 国土交通省は28日、東京・日本橋の上を走る首都高速道路の移設について、来年夏までに計画案をまとめる方針を決めた。

 国交省や東京都、学識経験者などで構成する「日本橋 みちと景観を考える懇談会」が、街づくりの観点を踏まえ、道路移設の工法や費用負担の割合などを協議する。

 日本橋の上を走る首都高の移設については、小泉首相が有識者らに対し、来年9月までに移設の検討と報告書の提出を求め、「日本橋という昔からの名所の上に高速道路が走っており、景観が良くない。夢を持って日本橋の上を空に向かって広げ、川のたもとで散歩をできるように」と述べていた。


4.「見返りの松」二代目 【2006年11月22日復元】 

 深谷宿で紹介した「見返りの松」の一代目は、虫食いのため2006年2月27日に伐採されてしまったが、11月22日に二代目が植えられた。

 伐採したときの年輪を調べたら325年経っていたとのことで、私達が訪れた時(2月15日)には伐採直前の一代目を見ることができたが、振り返って写真を見ると、枝や葉も少なく勢力が衰えていたことが分かる。