鶴瀬・勝沼・栗原・石和宿 (甲斐大和駅 → 石和温泉駅) <旧甲州街道10回目>

 

 2008年4月12日(土) 晴

  電車で甲斐大和駅迄行き、前回終了した「大和橋西詰」交差点を10:00スタート。

 

 (注:解説で街道の左側、右側とは下諏訪に向っての左右です)

「黒野田・駒飼宿」 ← 「目次」 → 「甲府柳町宿」

 

 家族の入院でしばらく街道歩きを中止せざるを得なかったが、全快したので1月4日以来の街道歩きとなった。

 実は前日の午後から突然左足のふくらはぎに大きな痛みが走り、果たして歩けるかどうか迷ったが、桃の花が満開との情報を得、以前より桃の花の季節に甲斐の国を訪れたいと思っていたので、がちがちにテーピングし行けるところまで行こうという決意で家を出た。

 結果としては、高揚感からか思ったほどの痛みもなく、ピンク色に染まった甲斐路を予定通り歩くことが出来た。

 しかし、翌日は階段の上り下りに苦労するほどの痛みがぶり返したのは言うまでもない。数日間は歩く姿がぎこちないことだろう。

 世界では、中国がチベット自治区に武力介入し、これがもとで北京オリンピックの聖火リレーが各国で抗議デモ隊に妨害されるという情勢が起きている。


 「大和橋西詰」交差点を過ぎてすぐ右側、石材店の敷地内に見事な桜の木があり、横浜では4月上旬に終わってしまった桜がこちらでは満開だった。


【鶴瀬宿】 日本橋から三十里 十六町五十一間(119.7Km)、下諏訪へ二十 三里二十一間(90.3Km)  

 天保14年(1843)で人口242名、総家数58軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋4軒。 


古跡 金岡自画地蔵尊碑】 (左側) 

 駒飼宿から「大和橋西詰」交差点を左折すると間もなく「立合橋」を渡るが、橋の手前には次の様な注意書きが立っているのでそれに従って左側の側道を下って並行する橋を渡る。

 『自転車・歩行者の皆様へ 立合橋の通行は危険です このまま側道をまわって横断歩道を渡って下さい 国土交通省

 その歩道橋を渡ったらすぐ国道に出ずにそのまま進むと左側に「金岡自画地蔵尊」の石碑と木柱が立っている。

 この地は絵画の巨匠巨勢金岡巡歴の際、岩面に地蔵尊を描いた所です。今は水害にあい、岩角崩れ当碑のみなり。

     平成十四年三月 大和村教育委員会


史跡 甲州道中 鶴瀬関所跡】 (右側)

 「金岡自画地蔵尊碑」から右カーブした所に木枠で囲われた木柱が立っている。

 甲州十二関の一つ、この関は「鶴瀬の口留番所」いわれ主に物資の流通の警戒と「入り鉄砲と出女」を取り締まった関所です。

     平成十四年三月 大和村教育委員会

 


【鶴瀬地区石碑】 (左側) 

 すぐ国道に出るが、横断歩道を渡って反対側の道に入って行くのが旧甲州街道である。但し、この旧道も数十メートルで終わって国道に合流する。

 国道を渡ると「歓迎 歴史と自然のふるさと 甲州市大和町」の大きな看板が立っており、その裏の国道側に「鶴瀬地区」の大きな石碑と「甲州道中 鶴瀬宿」の木柱が立っている。(左側の写真:縦看板の後ろ側が旧道入口)

 宿高百九石六斗七升五合、本陣一、脇本陣二、旅籠屋四軒、問屋一軒、宿内家数五十八軒

 江戸より第三十一宿  江戸へ三十里二十七丁  甲府へ五里一丁

 短い鶴瀬宿の旧道が終わって国道に接する所の右側に大きな常夜燈が建っている。(右の写真:斜めに接している道が国道20号線)

 ここからしばらく国道20号線を歩くことになる。


【旧国鉄のトンネル】 (右上) 

 国道に出て5分程行くと、右上の崖に使われなくなった旧国鉄のトンネルが見えてくる。

 (左の写真:国道の真上方向)

 (右の写真:更に進んで真下から撮影、トンネルの対面には橋脚も残っている)


古跡 血洗沢】 (右側) 10:20

 真竜寺入口(石柱あり)すぐ先の擁壁の上に木柱が立っている。

 この地は土屋惣蔵が逃亡した跡部大炊部を追尾して斬り、この沢で血を洗い流したと言われています。

     平成十四年三月 大和村教育委員会


古跡 鞍懸】 (右側) 

 やがて旧国鉄のトンネルが真上に見える場所に来た時、反対側の中央高速道の下に真っ白な花を咲かせた木が沢山植わっていた。数本ピンク色の桃の木も見えるが白い花は何の木なのだろう。桃にも何種類かあるのでその一部か?(左の写真)

 トンネルのすぐ先に、「鞍懸」の木柱が擁壁に立て掛けられていた(木の根元が腐っていた為)。

 この地は、逃亡する長坂長閑が土屋惣蔵に追われ落ちた鞍が路傍の桜の木にかかっていた所と言われています。

     平成十四年三月 大和村教育委員会


【聖観音堂】 (右上) 10:3

      

 やがてトンネルが現れたらすぐ手前の右へ登る小道が旧甲州街道である。(左の写真)

 登り口に観世音菩薩の石碑が建っており、トンネルの上には「聖観音堂」の木柱が立っている。(左の写真で登り道の上、トンネルの横に白く見える柱)

 本尊は聖観世音菩薩で京都清水より移したものといわれており養蚕の守護神として信仰あり。

     平成十四年三月 大和村教育委員会

 更に階段を上がってゆくと頂上に「観音堂」が建っている。(中の写真)

 観音堂からはトンネルの反対側に下りる道が見えないが、広場の先端迄行くと断崖に造られた足がすくむほどの急なつづら折の細い道が現れる。今井金吾著[今昔三道中独案内(日光・奥州・甲州)]によると 『この山道は「よこぶきのくわん音」への道で、今はトンネルを通った方が安全だ。』と書かれていたがその通りだった。道が濡れている時や高所恐怖所の人は 絶対に行かないこと。ちょっとでも滑ったら遥か下の道に転落すること間違いない危険な崖道である。私も家内も途中で身のすくむ思いをした箇所があった。但し、中央高速道と遠くピンク 色の桃畑が見える勝沼の町並みは絶景である。(右の写真:一番怖い箇所)

 山道から舗装道路に下りたら、左折して国道の下を潜る旧道を行く。

 旧道の「かんのん道」を行かずにトンネルを通った人は、第一のトンネルと第二のトンネルの間にある石材店の前を右折して右回りに国道の下を潜る。こちらが共和地区を通る旧甲州街道である。回った所で上を見上げれば崖道が見られる。

 右の写真で、真下に見えるのが国道20号線。手前真ん中の家が石材店。横断歩道の所を右折するのが旧道で、国道を潜って石材店の左下の道に続いている。石材店は一部崖に突き出しており、長い柱で支えられている。写っているトンネルは第二のトンネル。川の上の道が中央高速道路。前方の山の切れ目が勝沼の町。


古跡 武田不動 尊】 (左側) 

 旧道に入ったら芭蕉句碑があるとのことだが見つからなかった。

 国道を潜ったすぐ先のガードレールの外側に「武田不動尊」の木柱と常夜燈が建っている。

 そこから階段を下りると祠があると思われたが行かなかった。上から見るとベンチが見え、滝や渓谷を眺められる展望台になっていた。

 この地は、勝頼一行憩いし折り、武田の守り本尊として奉持していた不動尊を祀り、不運の長久を祈り里人にこれを託した所と言われています。

     大和村教育委員会


【共和地区の石碑】 【旧甲州街道の木柱】 (左側) 

 武田不動尊のすぐ先に「共和地区」と彫られた石碑が建っていた。更にその先の小さな橋のたもとに「旧甲州街道」の木柱が立っていたのでこの道が旧道であることが分かる。いつもの事ながら、この様な標柱は道の中程でなく分れ道の入口に立ててもらいたいものだ。

 甲州街道鶴瀬宿と勝沼宿を結ぶ横吹の道中は往時の面影を今に伝えています。

 かつての横吹、今は共和という集落には古い家や土蔵が残っている。

 殆どの家は崖のふちに建てられており、家の下を長い柱で支えている造りになっている。大きな台風などが来たら怖そうである。

 集落を抜けると道は上り坂になって国道に合流し、117Kmポストがある。

 その先、117.4Kmポスト左側に大和のモニュメントが建っている。


【柏尾古戦場】 (右側)

 11:10柏尾に入る。すぐ「深沢入口」交差点に柏尾橋があり、橋手前の袂に「近藤勇の石像」「柏尾古戦場」等の説明板が並んでいる。交差点から右へ少し入った所に「東神願鳥居跡」と大砲二門があるとのことだが見逃してしまった。

【柏尾橋】

 明治十三年六月明治天皇の山梨御巡幸に際し、甲州街道の拡幅整備が進められた。

 この時柏尾橋は、幅三間長さ十九間の欄干付き木造橋として掛け替えられた。橋は、深沢の両岸の岩盤中程から、二段の石垣を積み上げ橋台とし、下段の石垣からトラス構造の橋脚を両岸から突き出し連結したもので、明治二六年の版画や、大正初期の銅版画が残されている。

 この明治橋の北側には、大正から昭和初期に掛け替えられた橋台、さらに江戸時代の橋台が残っており、南には、平成八年、さらに下流の甲州街道以前の大善寺東参道の橋があった位置に祗園橋が掛けられた。

     勝沼町教育委員会

【近藤勇 柏尾古戦場】

 明治元年(1868)三月六日、近藤勇が率いる幕府軍と板垣退助が率いる官軍の先鋒隊がこの地で戦った。

     勝沼町教育委員会

【柏尾の戦い】

 慶応4年(1868)3月5日、江戸より大久保剛(近藤勇)率いる幕府軍は、柏尾橋の東詰め、鳥居の前に本陣を据え、大砲を二門据えつけ、宿内二箇所に通りを遮る柵門を設け、日川左岸の岩崎山に日野の春日隊を配した。夜にはいたる所で篝火がたかれ、柵の警備に宿の人もかりだされていた。

 3月5日に甲府城に入城した板垣退助率いる官軍は、6日甲州街道を因幡藩、諏訪藩、土佐藩の本隊が進軍し、途中岩崎方面に土佐藩隊、菱山から柏尾山を越える因幡藩隊の3手に分け柏尾に迫った。

 3月6日午後、最初の銃声は、等々力村と勝沼宿の境に造られた柵門の所で起こった。幕府軍二人をねらって官軍が撃った銃弾は、宿人足の宇兵衛を即死させてしまった。柵を破り進軍する官軍は、通りから家の裏まで見通しがきくよう、宿の家々に建具をすべて外させ、家の者は裏の物陰に隠れ動かないように命令した。このとき通りに飛び出してしまった女性が一人撃たれてしまったという。宿通りを進軍する官軍に対し、幕府軍は次第に後退し、柏尾の茶屋に火を放ち、柏尾橋を焼き、橋から鳥居までの坂道に木を切り倒し、官軍の進撃路を防いだ。官軍は、五所大神の南ダイホウシンの台地に大砲を据え、深沢の渓谷を挟んで、打ち合いが行われた。岩崎方面では白兵戦が行われ、一進一退を繰り返していたが、官軍の3手目の因幡藩隊が山越えに成功し、深沢川の上流から幕府軍の本陣に攻め入ったため、総崩れとなり、甲州街道を江戸に向かい敗走し、1時間ほどで官軍の勝利に終わった。

【柏尾の古戦場】

 明治元年(1868)三月六日、近藤勇率いるかつての新撰組、会津藩兵からなる幕府軍甲陽鎮撫隊と因幡、土佐、高遠藩兵からなる官軍がこの地で戦った。

 甲府城占拠を目指す幕府軍は先に甲府入城を果たした官軍を迎え撃つため、勝沼宿に二カ所の柵門、柏尾の深沢左岸東神願に砲台を設け備えたが、甲州街道、岩崎方面、菱山越えの三手に分れ、攻撃を加えた官軍の前に破れ敢え無く敗走した。

 この戦いは、甲州に於ける戊辰戦争唯一の戦いであり、甲州人に江戸幕府の崩壊を伝えた。町内にはこの戦いで戦死した三人の墓が残されており、このほかに両軍が使用した砲弾が三個伝えられている。

     近藤勇像の台座に書かれた文章

【柏尾坂の馬頭観音】

 明治36年(1903)中央本線が開通するまで「甲斐駒や江戸へ江戸へと柿葡萄」(基角)が伝えるように甲州街道の物流を担っていたのは馬である。街道に沿って配置された宿場には、高札で次の宿までの馬での運送賃が駄賃として掲げられていた。しかし、街道には難所も多く、そこで息絶える馬もあり、供養のため馬頭観音が数多く建立された。柏尾坂の馬頭観音は、ころび石とも呼ばれた急坂に、天保7年(1836)8月に勝沼宿の脇本陣家が中心となり惣伝馬の講中が、信州高遠北原村の石工太蔵を招いて建立したもので、三面に馬頭観音を含む彫像が刻まれ、勝沼宿の管内では柏尾の袖切観音とならび優れた造形を有したものである。


【大善寺】 (右側) 11:20〜11:45

 柏尾橋を渡って100mで大善寺に着く。

 甲州葡萄発祥の地で別名ぶどう寺と呼ばれ、甲州東郡七福神巡拝第一霊場・甲斐百八番霊場第十八番札所・甲斐八十八霊場第七十七番札所となっている。

 本尊の薬師三尊像は5年に一度開帳される秘仏で写真でしか見ることが出来ないが、ぶどうの房を持っている前立ちの薬師如来はいつでも見ることができる。

 ぶどうを持っている薬師如来はここにしかない。

 拝観料:パンフレットには400円となっていたが、4月3日より値上げして500円になっていた。

 拝観時間:AM9:00〜PM4:00。

 看板には国宝の宿と書かれ宿坊にもなっている。宿泊費:一泊二食付6,195円(山梨の家庭料理で精進料理ではない)。人数50名。

【ぶどう寺 大善寺】

 養老二年(AD718)僧行基が甲斐の国を訪れたとき、勝沼の柏尾にさしかかり、日川の渓谷の大石の上で修行したところ、満願の日、夢の中に、右手に葡萄を持った薬師如来が現れました。

 行基はその夢を喜び、早速夢の中に現れたお姿と同じ薬師如来像を刻んで安置したのが、今日の柏尾山大善寺です。

 以来、行基は薬園をつくって民衆を救い、法薬の葡萄の作り方を村人に教えたので、この地に葡萄が栽培されるようになり、これが甲州葡萄の始まりだと伝えられています。  (大善寺のホームページより)

      

左は「山門」。  真中は桜の綺麗な階段を上がった所の「楽堂」。  右は国宝の薬師堂(本堂)

大仏様(だいぶつよう)の細部意匠を取り込んだ本堂は、中世密教本堂建築の変化を最も早く示す例として、東日本屈指の建築物と言われる。

【国宝及び重要文化財】

 国宝 薬師堂 鎌倉時代弘安九年(1286年)

 国宝 厨子堂 南朝時代文和四年(1355年)

 国の重要文化財 薬師三尊像 平安時代初期(弘仁期)  

 国の重要文化財 十二神将像 鎌倉時代嘉禄三年(1277年)

 県の重要文化財 日光菩薩像

 県の重要文化財 月光菩薩像

 県の重要文化財 役行者像 鎌倉時代

 県の重要文化財 鰐口 鎌倉時代徳和二年(1307年)

 県の重要文化財 太刀 室町時代寛永十九年 奉納名

 県の重要文化財 山門 江戸時代寛政十年(1798年)

 県の史跡名勝   庭園 江戸時代寛永年間

 県の重要文化財 古文書七十三点 平安時代から江戸初期まで

 その他、町指定文化財多数あり      その他

【大善寺山門】 勝沼町指定建造物(昭和61年4月指定)

 三間一戸楼門、入母屋造、銅版葺。棟札により寛政十年(1798)に、土屋但馬守英直により再建されたもので、大工は大和村諏訪神社、三島神社の本殿を手掛けた土橋文蔵茂祇である。上下層とも三手先の組物をもちい、当時流行していた彫刻をおさえ重厚さを備えた大建築であり、比較的改変も少なく十八世紀末の甲州建築を知る上で貴重な建造物です。

     勝沼町教育委員会

【国宝 大善寺本堂 一棟 厨子一基】 (昭和30年6月指定)

 新義真言宗智山派の名刹大善寺の本堂は、薬師三尊像(弘仁仏・重要文化財)を安置するので薬師堂とも呼ばれる。

 方五間(桁行18.02m、梁間17.40m)の堂宇で、正面は中の三間を両開き桟唐戸、両端を連子窓とし、両側面の前寄り一間と背面中央一間の出入口以外はすべて板壁で、四周に切目縁を回らす。太い円柱上に豪放な、実肘木つき和様二手先の斗栱を組み、中備に間斗束を置き、軒支輪を付け、二重繁棰によって雄大な寄棟造桧皮葺きの屋根を支える。

 内部は前から二間通りを外陣、つぎの二間通りの中央三間を内陣とし、その後方と入側の一間通りをそれぞれ後陣及び脇陣とする。内陣には須弥壇を設け、厨子を置き、本尊を納め、その左右に薬師十二神将を配する。

 内陣・外陣とも、長大な虹梁を架す技法で中央三間通りの柱を抜き、堂内を広く使えるように配慮されている。虹梁の上には特色ある繰形付の花肘木をのせて上部に天井を受ける。内・外陣の境界は五間とも格子戸・菱組吹寄欄間によって厳しく仕切られるなど、古い密教建築の様風がよく遺されている。

 この建物は、執権北条貞時が勅命を奉じ「弘安九参月十六日」(内陣背面両隅柱の刻銘)甲信二か国の棟別銭の喜捨を得て再興した、中世和様建築の典型を示すものであり、本県最古の遺構でもある。昭和二十九年十二月解体復元修補が竣工した。

     昭和五十六年三月三十一日  山梨県教育委員会  勝沼町教育委員会


【国見坂】  11:55

 「柏尾」交差点で国道20号線は、勝沼・甲府バイパスとなって左へカーブしてゆくが、旧甲州街道は国道と別れて真直ぐ方向に進む。旧道に入ると、ぶどう園が次々と現れてくる。

 やがて右側に「国見坂」の木柱が立っている下り坂にさしかかる。

 元和七年(1621)に甲州街道の往還筋地名として定められた。 勝沼町教育委員会

 この坂の途中左側に黒塀の「ワイン民宿 鈴木園」(1泊2食付 税別5,700円)がある。(左の写真)

 建物の雰囲気も良いし、ワイン博物館と地下のワインセラーには30種、1,500本貯蔵しているということで、ワイン好きには泊まってみたい宿である。

 この坂からクラブツーリズム主催「街道歩き」の一団と石和温泉まで抜いたり抜かされたりのウォーキングとなる。


【勝沼氏館跡】 国指定史跡(昭和56年5月28日指定) (左側) 12:00

 右側に「上行寺」等の石柱が3本立っているところに出る。

 右手高台の「上行寺」には、「日蓮聖人投宿之地碑」がある。また、最初の道を右に行くと「勝沼ぶどう郷駅」だがここからは2Kmと遠い。

 左手に「史跡勝沼氏館跡駐車場」があり、その入口に「甲州街道勝沼宿」の説明板(下記【勝沼宿】に記載)が掲げられていた。

 その駐車場の奥に館跡の説明板と勝沼氏の「供養地蔵」が建っている。説明板は字が擦れて判読しづらいのでインターネットで確認した。

 地図で調べたら、実際の館跡はここから少し奥に入った「県立ワインセンター」の隣である。

 勝沼氏は武田信虎の弟信友、その子信元の家系である。その行動は、「妙法寺記」「甲陽軍艦」また石橋八幡、岩殿七社権現棟札等により知られる。勝沼氏は御親類衆として武田軍団の一翼を担っていたが永禄三年(1560)信玄により滅ぼされた。

 館は日川の断崖を利用して築かれているが、対岸を往時の往還が、また館のすぐ西を南北に鎌倉往還が通過、当時の交通の要衝であり、武蔵・相模方面への警固、連絡的役割を担っていた。

 館主体部は「甲斐国誌」「甲斐国古城跡志」によって御所の地に相当すること、二重の堀や太鼓櫓と呼ばれる高台のあることが早くから知られていた。また昭和45年には、古銭250枚が出土している。昭和48年県立ワインセンターの建設問題がきっかけとなり五か年にわたり山梨県教育委員会による発掘調査が行われた。その結果建物跡、門跡、水溜、溝、土塁、小鍛冶状遺構等が検出されたほか多くの遺物が出土した。遺跡は層序や溝、建物跡の重複関係によって三期にわたることが確認されている。内郭拡張の際土塁内側を削っているが、それに対応して外側に土塁を設けたことが、外側土塁下の生活面によって確認されている。内郭の構造の変還のみならず、それが館の拡大と関連して把握することができる貴重な遺跡である。

 なお、御所北西には御蔵屋敷、奥屋敷、加賀屋敷、御厩屋敷、工匠屋敷、長遠寺(信友法名は長遠寺殿)等の地名や泉勝院(信友夫人開基)があり、広大な領域に遺構が広がっている可能性もある。

     平成11年3月30日  勝沼町教育委員会


【勝沼宿】 日本橋から三十一里十 九町五十一間(123.9Km)、下諏訪へ二十 一里三十三町二十一間(86.1Km)

 天保14年(1843)で 人口786名、総家数192軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋23軒。

 勝沼宿は甲州街道(甲府街道)の宿として、元和四年(1618)に新規取り立てとなり、鶴瀬・駒飼宿と栗原宿の間の荷物、人の継ぎ立てを行った。甲府盆地の東端に位置していることから、峡東地方の物資集積の場として栄え、万治元年(1658)には市が始まり、寛文十二年(1672)には上中下の三市場と二、七の定め市の制度が設けられ、貞享三年(1686)には宿場の拡大に伴い上町・中町(現仲町)・下町(現本町)・横町・上新町(現富町)・下新町(堰合町)の町名制が定められた。天保十四年(1843)当時の勝沼宿は、総家数一九二軒、本陣一軒、脇本陣二軒、旅籠屋二十三軒、問屋場一ヶ所、継立人馬二十五人・二十五匹、高札場一ヶ所を備えていた。

     勝沼町教育委員会


【本陣槍掛けの松】 (右側)

 「上行寺」から次の「上町」交差点の間 右側、タクシー会社の向かいに「勝沼宿脇本陣跡」の碑があるはずだが見逃してしまった。

 「上町」交差点を越えた所に 左の写真のような立派な松が見えたら「本陣跡」である。

 勝沼宿本陣に大名、公家などが泊まると、その目印に槍を立て掛けた老松。

 


【小佐手小路(おさでこうじ) (右側)

 松のすぐ先、右へ入る小道入口の塀に下記の説明板が掲げられていたが、入っては行かなかった。

 小佐手小路は、勝沼氏館の大手門からまっすぐ北に延びる道であったことから、御先手小路(おさきてこうじ)と呼ばれていました。後世それが転じて小佐手小路になったといわれます。一説には、勝沼氏が小路の先にある小佐手郷に出向くとき通った道であったことから、名がついたともいわれます。勝沼氏は武田家の筆頭御親類衆であり、郡内地方や、相模国、武蔵国の目付けとして重要な役割を果たしました。小路の両側には家臣団の屋敷が建ち並んでいたといわれます。つきあたりにある泉勝院は勝沼氏の菩提寺でした。城下町特有の直角に曲がる「鍵の手」の道筋も残っています。小佐手小路は甲州街道の宿場が置かれる前、勝沼が武田一族の城下町であったころの面影を今に伝えています。

     勝沼フットパス


【仲松屋】 (左側)  12:10

    

左が本陣跡の斜め向かいにある古い屋敷群。 真中が仲松屋の蔵付き東屋敷。 右がそれに続く西屋敷。

蔵は隣家との防火の為、奥深く造られている。

 勝沼宿仲町の仲松屋住宅は、江戸時代後期の主屋を中心とした東屋敷と明治時代の建築を中心とした西屋敷の二軒分の商家建築から成る。東屋敷の主屋は北西隅に帳場を置く田の字型を基本とした、板葺、二階建建築で、通り土間を挟み明治後期に一階を座敷として建てられて脇蔵(通り蔵)、坪庭、風呂、厠、味噌蔵から構成されている。西屋敷は帳場と居間を別棟とした主屋と坪庭、会所、蔵屋敷などから構成されている。東西両屋敷群は江戸時代後期から、明治時代の勝沼宿の建築を知る上で貴重である。

     勝沼町教育委員会


【三階建の蔵】  (右側)

 NHKの「街道てくてく旅」で勅使河原郁恵さんが取材した防火に役立った蔵。

 かつて駐車場の所に薬局があったが、火災で焼けたときこの蔵が隣家への延焼を防いだと言う。

 その時、蔵の内扉をこがしただけで中の物は無傷だったとのこと。

 明治二十年頃の大火の後、自己所有の山林(大和村)の木材にて造った。

  地下一階、地上三階の土蔵

  勝沼町で保存予定

  所有者 山梨市小原西 福嶋屋薬局

 


【旧田中銀行社屋】 国登録有形文化財 (右側) 12:15

 三階建ての蔵のすぐ先にある。現在「旧田中銀行博物館」となっているが、入館料は無料で、ボランティアの解説員も常駐している。 9時〜16時。4〜10月は水〜日曜、11月〜3月は土・日曜のみ開館。

 藤村式建築の流れをくむ建物。明治三〇年代前半に勝沼郵便電信局舎として建てられた伝承をもつ入母屋造り、瓦葺、二階屋の建物で、大正九年より昭和七年ごろまで山梨田中銀行の社屋として利用された。

 外壁の砂漆喰を用いた石積み意匠、玄関の柱や菱組天井、二階のベランダ、引き上げ窓、彩色木目扉、階段などに凝洋風建築の名残があります。また、建物の背後には銀行時代に建てられた、扉に「山梨田中銀行」の名が鮮やかに残るレンガ外装の土蔵があります。

     勝沼町教育委員会


【ようあん坂・勝沼学校跡・明治天皇勝沼行在所】  (右側)

 旧田中銀行のすぐ先で急な下り坂になる。この坂が「ようあん坂」で海抜400m。下った所の勝沼小学校入口に、「勝沼小学校跡」の碑と「明治天皇勝沼行在所」の石柱 、歌碑が建っている。

 手前の大きな石柱が緯度・経度と海抜が、隣の木柱に「ようあん坂」の解説が書かれている。

 奥中央の石柱が「明治天皇勝沼行在所」碑。その左隣に「勝沼学校跡」の解説碑。右の石碑は明治天皇の歌碑。

【ようあん坂】

 勝沼宿内で最も急な坂。名は、用有と呼び止めたことからとも天野養庵の家が近くにあったためとも伝えられる。

     勝沼町教育委員会

 

【勝沼学校跡】

 勝沼町内には、明治九年に造られた祝学校と明治十三年に造られた勝沼学校の二棟の藤村式学校建築がありました。共に南部下山大工の松木輝殷が手掛けたものです。

 勝沼学校は勝沼町と等々力村の学校として建てられ、明治十三年六月の明治天皇御巡幸の折り行在所となりました。木造二階建て、一階に車寄、二階にベランダをそなえたE字型の校舎でその後の学校建築や、明治村にある東山梨郡役所などの庁舎建築に大きな影響をあたえました。昭和三十年四月に取り壊されてしまいましたが、玄関の柱と扉が今も保存されています。

     教育委員会


【うどん・ほうとう 皆吉(みなき) (右側)

 「等々力」交差点で右からきた国道411号線に合流して、甲州街道は真直ぐ進む。

 まもなくローソンの向かいに立派な建物の「皆吉」が見えてくる。築130年、けやき造りの民家で自家製味噌や野菜も極力自家製を使用しているとのこと。営業時間は午前11時〜午後6時30分(品切れ時は早じまいする)で、休みも多い。

 昼食はここでほうとうを食べようと家を出るときから予定して、お腹の空いたのも我慢して歩いてきたが、1時間以上待ちと言われ後ろ髪を引かれながら断念。思っていた通りの人気店だった。


【文政の常夜灯】 (右側)  12:45

 「皆吉」の西隣、小川の袂に文政十三年と彫ってある常夜燈と丸い石が積み上げられた道祖神、延命地蔵堂がある。

 山梨県の道祖神は全国的にも珍しい丸い石の積み重ねで、この先も沢山お目に掛かる。

 常夜燈の左側に地蔵堂がある。後ろの建物が「皆吉」。


【白百合醸造】 (右側)

 常夜燈から300m弱でワインの醸造所がある。工場見学と試飲ができるが、空腹の為、近所の食事処を聞いただけでここも後ろ髪を引かれながら後にする。ここで甲州市から山梨市に入る。


<昼食> 13:00〜13:55

 白百合醸造所で教えてくれた店はすぐ先左側にある中華の「大連」だが、醸造所の斜め向かいの「カフェ花恋(かれん)」に“ほうとう”の幟が立っていたのでここで昼食にした。ところが、奥さんが一人で接客と料理を作っているために大変待たされやっと“ほうとう”(1,000円)にありついた。こんなことなら紹介された中華料理店に行けば時間の節約ができたと悔やんでもあとの祭り。結局1時間程掛ってしまった。


【栗原宿】 日本橋から三十ニ里十 五町二十七間(1127.4Km)、下諏訪へ二十 一里一町四十五間(82.6Km)

 天保14年(1843)で人口 1057名、総家数240軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠20軒。


【大宮五所大神】 (右側)  14:10

 「上栗原」の信号を過ぎ、国道が左斜めに曲がる二股の所に「大宮五所大神参道」の大きな石柱が建っている。ここを右に曲がればすぐ「大宮五所大神」である。旧道はすぐ突き当たる真直ぐ方向の道へ行く。

 神社の門は右大臣と左大臣が祭られた古いもので、境内には本殿を覆うような立派な松が植わっている。松以外の説明文もなかったし、松の樹齢も分からなかった。

【大宮五所大神のクロマツ】 市指定天然記念物(昭和58年5月指定)

 本件は、枝垂れ・樹形が大変良好で、樹勢も旺盛であり、特に樹皮の亀裂の深さと鱗の大きさはすばらしく、最も深い部分は15cm、鱗の周囲は最大で90cmにもなっています。

 根回り3.25m、目通り2.83m、樹高12.0m、枝張り東4.5m、西3m、南5.2m、北3.7m。

     山梨市教育委員会


 「大宮五所大神 参道」の石柱に戻り、神社から来たら右折、国道からは真直ぐ方向の道へ行き、突き当たったら左折して国道を渡り、日川の土手まで行く。右折して少しだけ土手道を歩き、「新日川橋」で再び右折して「下栗原」交差点で国道に戻るのが旧道だが、私達は対岸の桃畑が美しいので国道に戻らずにしばらく土手道を歩いた。遠くの山裾までピンク色だった。

 左は日川を挟んで対岸の桃畑。

 右は国道に戻る所の桃の木。


【田安陣屋跡・水上稲荷神社】 (右奥)  14:45

 土手道が国道から離れそうになったところで国道に戻り、「日川高前」信号を過ぎると旧甲州街道は次の「一町田中」交差点で左折する。ここのバス停の名前は「一丁田中」だった。

 この「一町田中」交差点を右折すると100mで「田安陣屋跡」があるので寄り道する。現在「水上稲荷神社」が建っている。

【田安陣屋跡】 山梨県指定史跡(昭和56年5月指定)

 江戸幕府第八代将軍徳川吉宗の二男田安宗武は、延享三年(1746)領地として甲斐・武蔵・下総・和泉・摂津・播磨の六国にわたって十万石を与えられた。

 そのうち甲斐は山梨郡(ごおり)二十八村、八代郡三十五村の計六十三村で、石高は三万四十一石六斗二升八合五勺、その後天保三年(1832)山梨・八代・巨摩三郡のうち四十村、一万七千石が加えられた。

 現在、陣屋を囲んで濠の一部が北部と西部に遺り、北東の石積みの上には守護神の水上稲荷社が祀られている。

     昭和56年12月1日  山梨市教育委員会


 「一町田中」交差点を左折すると桃畑があり、摘果している最中であった。話を聞くと何種類かの桃の木が植えてあり、ここでの薄いピンク色は白鳳、濃い赤に近い色は毛のない桃とのこと。

 川に突き当たったら右折し、目の前の「日川橋」を渡って笛吹市に入る。

 左下の写真は、日川橋から笹子峠方向を写したもので、 峠から15Km歩いて来たことになる。

 橋を渡ったらすぐ右折して土手道を行くと気持ちが良いが、旧甲州街道は次の道(笛吹市の看板下)を右折する。ここで一旦国道411号から別れ、曲がるとすぐ右側に「白山神社」がある。

 桃畑が点在する静かな田中集落を進んでいると、左側に目を見張るほど立派な松を持った民家が現れる。

 すぐ日川の土手に接するが、そのまま舗装道を桃畑の方へ行く( 右の写真)。写真の土手道はこの先の「ホテルエンゼル」で合流するので引き続き歩いても良い。やがて、日川と笛吹川が合流する点で土手に出る。その左側には今は廃業した様子の「ホテルエンゼル」がある。


【笛吹橋】  15:25

 気持ちが良い土手道もわずかで、先ほど分かれた国道に合流する。合流したところに「甲州桃太郎街道」と書かれた柱が立っており、先方を見れば「笛吹橋」と対岸の石和温泉の大きな建物が見える。

 この国道には歩道がなく、しばらく怖い思いをしながら歩くことになるが、石和温泉方面に向う車で笛吹橋の先まで渋滞しており、国道に合流したところで出遭った観光バスが笛吹橋を渡り終えるまの800m程を常に横に並んでいた。

 「笛吹橋」を渡った所で左手に松並木が見えるので、そちらへ左折する。松並木の入口で下の道に下る小道があるのでそちらに行く。(左の写真)

 


【笛吹権三郎之像】 (左側) 

 松並木が終り、旧道は川から離れ右方向にカーブしてゆくが、その分れる所に像がある。

【笛吹権三郎の事】

 今から六百年ほど昔、芹沢の里(現在の三富村上釜口)に権三郎という若者が住んでいた。

 彼は鎌倉幕府に反抗して追放された日野資朝一派の藤原道義の嫡男であったが、甲斐に逃れたと聞く父を母と共に尋ね歩いてようやくこの土地に辿り着き、仮住まいをしている身であった。彼は孝子の誉れ高く、また、笛の名手としても知られており、その笛の音色はいつも里人の心を酔わせていた。

 ある年の秋の夜のことである。長雨つづきのために近くを流れる子西川が氾濫し権三郎母子が住む丸木小屋を一瞬の間に呑み込んでしまった。若い権三郎は必死で流木につかまり九死に一生を得たが、母親の姿を見つけることはついにできなかった。悲しみにうちひしがれながらも権三郎は日夜母を探し求めてさまよい歩いた。彼が吹く笛の音は里人の涙を誘い同情をそそった。しかし、その努力も報われることなく、ついに疲労困憊の極みに達した権三郎は、自らも川の深みにはまってしまったのである。

 変わり果てた権三郎の遺体は、手にしっかりと笛を握ったまま、はるか下流の小松の河岸で発見され同情を寄せた村人の手によって土地の名刹長慶寺に葬られた。

 権三郎が逝ってから間もなく、夜になると川の流れの中から美しい笛の音が聞こえてくるようになり、里人たちは、いつからかこの流れを笛吹川と呼ぶようになり、今も芹沢の里では笛吹不動尊権三郎として尊崇している。

 これが先祖代々我が家に伝えられている権三郎にまつわる物語です。

     昭和六十年五月吉日  山梨県山梨市七日市場四九三番地  長沢房子(旧姓広瀬)

 長昌院の先でY字路になり、左へ進む。しばらく行くと左側に「テアトル石和」がある。古い映画館だが現在も営業しており、最終上映時間が25:00〜3:00過ぎなっていたのには驚いた。敷地内に駐車場があるからやって行けるのだろう。


【遠妙寺(おんみょうじ) (右側)  16:00

 「テアトル石和」から370mで国道411号線に合流したら、右折するとすぐ「遠妙寺」がある。

【由緒】

 当山は、往昔文永十一年夏の頃高祖日蓮大上人御弟子、日朗日向上人と共に当国御巡化の砌り鵜飼漁翁(平大納言時忠郷)の亡霊に面接し、是を済度し即ち法華経一部八巻六万九千三百八十余文字を河原の小石に一字づつ書写され、鵜飼川の水底に沈め、三日三夜に亘り施餓鬼供養を営み彼の亡霊を成仏得脱せしめた霊場であります。

 之に従って当山は「宗門川施餓鬼根本道場」として広く信徒に知られ又謡曲「鵜飼」はこの縁起によってつくられたものであります。

     鵜飼山遠妙寺

【鵜飼山遠妙寺と仁王門】 市指定文化財建造物

 遠妙寺は、日蓮宗身延五ヶ寺の一つで、本尊は十界曼荼羅である。本堂、庫裏、客殿、総門、仁王門、鐘楼、七面堂、漁翁堂、願生稲荷堂などの風格のある建物を有する寺である。弘安年中、日蓮の弟子日朗が一宇を設け鵜飼堂と称し、後、慶長年間(1600年頃)日遠が鵜飼山遠妙寺と改めた。寺記に、平時忠漂白の郷が石和とされ、時忠は鵜使いを生業としたが、禁漁を犯し、簀巻きの刑に処せられて沈殺された。その怨念を持って石和川の鬼となった亡霊を、文永11年(1274)日蓮が石和川岩落にて済度し給うたと伝える。世阿弥の謡曲「鵜飼」との関わり深い寺である。

 なお鵜飼漁翁は、鵜飼勘作として知られている。寺宝に日蓮直筆本尊、鵜飼の経石7個などがある。仁王門は、三間一戸側面二間楼門重層入母屋造瓦葺で江戸末期のものである。再建は、寛政元年(1789)とあり未完成の部分が多く見られたが、平成16年の解体修理で完成した。安置仏は密迹金剛神、執金剛神の2体で6尺2寸(2m余)の躯高を持っている。石和町唯一の仁王門として貴重な建造物である。

 (左の写真が仁王門)

【鵜飼山遠妙寺】

 弘安年間(1280頃)日蓮上人の弟子日朗上人宗祖日蓮が鵜飼勘作の亡霊に法験を遺した旧地に近い所に一草庵を結び鵜飼の寺と称し、のち慶長年間(1600年頃)鵜飼山遠妙寺と改めた身延五ケ寺の一つで、同宗川施餓鬼の根本道場であり、毎年九月二十九日盛大な川施餓鬼を執行する。

 同寺には鵜飼勘作の伝説に関するものが多く鵜飼堂(勘作の墓を納む)鵜飼天神、また以前鵜飼河畔にあった勘作の供養塔も甲府バイパス開設の敷地内になったため、現在は鵜飼堂に移してある。

 寺には多くの寺宝があるが、特に、経石七個、鵜石一個、ビク石一個、大黒石一個などは、いずれもその昔鵜飼川で拾ったものと言われている。

 境内に願生稲荷が祀ってある。昔古城(今の武田神社)の稲荷が当宿原山七右エ門老母の体を借りて、法華経の功徳を得んと鵜飼山遠妙寺に勧請してもらったとのいわれがある。

 謡曲鵜飼は勘作の伝説を世阿弥元清が作ったもので今日に伝えられている。

     石和町


【石和宿】 日本橋から三十三里 三十五町五十七間(133.5Km)、下諏訪へ十 九里十七町十五間(76.5Km)

 天保14年(1843)で人口1143名、総家数166軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋18軒。

 交通の要所であり、戦国時代より前は、石和が甲斐の中心であった。現在のような温泉地になったのは、ぶどう畑から温泉が湧いた昭和36年以降である。


史跡 石和本陣跡】 市指定史跡文化財 (右側)

 遠妙寺すぐ先の高速バス停前の駐車場に本陣跡の石碑と説明板がある。

【石和本陣跡】

 本陣は江戸時代大名公家幕府の役人高貴の人の宿泊する所である。

 石和御本陣は寛永年間(1625頃)幕府の命により此処に置かれた。特に大名が宿泊し信州松代城十万石真田伊豆守及び松平甲斐守十五万石を初め全国の諸大名が宿泊し大名宿とも言われ明治維新まで続いた。

 建物は書院造り、門・玄関・上段の間を備えて広大な構えであった。

 明治十三年六月十九日明治天皇御巡幸のみぎり御休息の御予定のところ同月六日、大火に拠り焼失し現在土蔵一棟のみ現存している。

     石和町 

【石和本陣跡】

 宝暦11年(1761)信州高遠城主内藤大和守が参勤交代のため、初めて本道中を通行することになり、石和宿仲町の後藤甚兵衛に本陣を命じたことがはじめといわれる。以来子孫が継承して明治に至った。明治以降も旅篭として利用したが、明治13年(1880)6月7日の石和の火災により焼失し、現在はわずかに土蔵1棟と諸大名通行の書状および古記録文書等が残っている。

     国道沿いの説明板


【小林公園・足湯】 (左側) 16:15

 本陣の斜め向かいに公園があり、その入口に東屋風のあし湯がある。勅使河原郁恵さんも浸かった足湯だが、沢山の人が浸かっていたので残念ながら入ることは出来なかった。

 この公園は小林家の屋敷跡で、小林中翁の銅像が建っている。また、民俗資料館とトイレもある。

 小林公園のすぐ先が「駅入口」交差点で、ここを右折すると800mで「石和温泉駅」に着くが、途中の「石和橋」に「笛吹権三郎」の銅像と説明板が掲げられている。

 

【小林中翁】

 小林中翁は、明治三十二年二月十七日、中巨摩郡源村(現白根町)の旧家矢崎貢氏の次男として出生、幼にして母の生家にあたる峡東地域の素封家、石和町小林傅右衛門の養子となり家督を継ぐ。

 大正十一年、早稲田大学を中退して帰郷、家業の株式会社石和銀行取締役支配人に就任。

 昭和四年、翁三十才、かねてより知遇を得ていた先代根津嘉一郎翁の勧誘により上京、富国徴兵保険相互会社(現富国生命)に第一部長として入社、同十八年、社長に就任。

 昭和二十年終戦、人心の動揺、社会、経済情勢の混乱その極に達す。翁、将来を憂え、日本の復興と産業経済の再建に意を注ぐ。

 昭和二十六年、時の内閣総理大臣吉田茂氏の要請により日本開発銀行初代総裁に就任、産業発展、経済再建に指導的役割を果す。

 昭和三十二年、後進に道を譲り同総裁を辞任、以後、東南アジア移動大使、インドネシア賠償交渉日本政府代表、アラビア石油株式会社社長、海外技術協力事業団初代会長、財政制度審議会会長、外資審議会会長等をはじめ数多くの団体、海外友好、日本経済の発展に偉大な業績を遺し、昭和二十九年、旧邸宅の跡地を小林公園として、また、町内にある所有財産を町財産として寄贈、昭和五十年、更に多額の公園管理基金を寄贈するなど、本町の発展と、豊かな町づくりに多大な貢献をする。

 昭和五十六年十月二十八日逝去、享年八十二才、生前の功に依り正三位に叙せられ、勲一等旭日大綬章を賜る。同年、石和町は、翁の多大な功績を讃え、町民の総意をもって石和町名誉町民として推薦、

 茲に、翁縁の地に碑を建て、その遺徳と功績を顕彰し、永く後世に伝える。

     昭和五十九年四月二十五日  石和町長 天野健  友人代表 水上達三



 10回目の旅終了(16:20) 「石和温泉入口」交差点。 日本橋から三十三里九町(130.6Km)。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、14.7Km(「大和橋西詰」交差点〜「石和温泉入口」交差点)

          寄り道を含めた実歩行距離は、 16.0Km(甲斐大和駅〜石和温泉駅) 

          6時間20分  26,160歩(街道のみ)  28,500歩(甲斐大和駅〜石和温泉駅)

  石和温泉駅から「はまかいじ号」で帰宅。途中沿線にカメラをかまえた人が多数いたので何かと思っていたら、塩山駅にSLが止まっていたので謎が解けた。本日は甲府〜塩山間に「SL山梨桃源郷号」が運転される日であった。2008年春のSL運転は4月1・3・6・12・13日の5日間実施。その他、4・5・11・12日はライトアップされた石和温泉〜春日井間の桃畑と甲府盆地の夜景が見られる「ナイトビュー桃源郷号」も運転された(来年の参考までに)。

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