坂本宿・軽井沢宿 (横川・碓氷関所跡 → 中軽井沢駅) <旧中山道12回目>

2006年6月21日(火) 曇 

 ホテルを6:40に出て、高崎駅 6:57発の信越本線一番電車で横川駅7:29着。

 前日終了した「碓氷関所跡」を7:40スタート。 (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

 

「松井田宿(後半)」 ← 「目次」 → 「沓掛・追分・小田井・岩村田宿」

 


【招魂碑・鎮魂碑】 (左側) 

 「碓氷峠鉄道文化むら」から出ている碓氷峠トロッコ電車線の高架下左側に屋根付きの石碑が2基建っている。

【招魂碑由来】

 碓氷峠は、古代より要衝嶮難の地として、東海道箱根の天嶮と並び称されていた。

 この地に明治十八年より碓氷アブ式鉄道の建設が開始され、当時の富国強兵の国是により太平洋と日本海を結ぶ鉄道として距離11.2km、26のトンネル、18の橋梁、高低差553mの碓氷線が一年半の短期間で開通した。当時の技術を考える時、おそらく人海戦術であったであろう。

 この難工事による犠牲者は500名にのぼり、工事を請け負った鹿島建設により招魂碑が建立されたが、時久しく路傍の片隅で寂しく眠っておりました。この度、鎮魂碑建立を機会に同地内に移転し遠い異境の地で殉職した方々を慰霊いたします。

【鎮魂碑由来】

  碓氷路は、古くから東山道と呼ばれ古代から中世にかけて都と東国を結ぶ重要な宮道であった。その後、徳川期には中山道として整備され旅人、馬子、駕籠、大名行列等で賑わい、明治九年になって国道18号線となった。その後並行して、
  明治二十一年馬車鉄道開設、

  明治二十六年信越線アブト式の開通、
  明治四十一年複線電化と各種交通機関は

幾多変遷を重ねて来ました。今、茲に信越線廃線に当り各種交通機関建設に関わり殉職された方、思わぬ災害や交通事故に遭遇し尊い命を失った人達を慰霊する為、鎮魂碑を建立する。


【川久保橋】 

 碓氷関所時代、現在地霧積橋よりやや上流に川久保橋が架けられていた。この橋は正しくは碓氷御関所橋と呼んで中山道を結んでいたが、橋桁の低い土橋であったため増水期になると度々流失した。関所設立当初は軍事目的を優先したからである。
 橋が流失すると川止めとなり、旅人や書状などの連絡は中断された。このため関所には、大綱一筋、麻綱一筋が常備されていて宿継ぎ御用綱として使われ書状を対岸に渡すことに使われた。細い麻綱を投げ渡して大綱を張り、大綱に竹輪を通して麻綱を操り、丁度ケーブルカーのようにして書状箱を渡したという。
 川止めとなっても増水の危険を冒して渡河をする人もいた。なかでも参勤交代の大名行列がは日限も予定されているので渡河を強行したという。大名の渡河に際しては番頭も川原に罷り出て見届けた。

 川久保橋を渡ったら、バイパスの方へ行かないように注意して、真直ぐの細い薬師坂を登る。


【川久保薬師】 【薬師の湧水】 (左側) 

 薬師坂を登り始めるとすぐ薬師堂があり、その隣りに湧水(写真)がある。

 元和九年(1623)碓氷関所が開設されて通行の取り締まりに厳しさが増し、加えて碓氷峠が間近にひかえているために旅人は難渋を極めた。
 そこで無事通過の願いと感謝をこめてこの坂に薬師如来をまつる薬師堂が建立された。また、近くに清澄な湧水があるところから心太(ところてん)を商う店があり旅人たちは、ここで憩いながら旅装を整えたり街道の事情を知る場であった。このところから心太坂坂といわれ親しまれた。をお

 薬師如来は、治病の仏と信仰されており、特に湧水で洗顔すると眼病の治癒に経験あらたかということで近郷からの参拝客も多くあり、例祭が桜の花咲く四月十八日なので市も立つほどの賑わいぶりであった。

 現在では、その影もひそめ地元で講を開き本堂を守っている。


【白髭神社】 (左奥) 

 薬師坂を登りきると国道18号線に合流する。その地点で坂本宿まで0.9Kmの案内柱あり。

 合流したすぐ先の左へ入ったところに白髭神社がある。

 〜白髭の老人日本武尊を救う〜

 十二代景行天皇の命により、日本武尊は東国を平定し帰途、武蔵・上野を経てこの地碓氷嶺東麓川久保坂にさしかかった。その時山の神は、白鹿に化け尊の進路を妨げた。尊は蛭を投げて征せんとすると、濃霧たちまち起こり進退きわまった。すると剣を持った白髭の老人の現れ白鹿を撃退したので尊は濃霧から脱することができた。尊は、白髭の老人の霊験を見たのは天孫降臨を先導した猿田彦命の加護と思い石祠を建て祀った。

 時に景行天皇四十年(240)白髭の老人にちなみ白鬚神社の創立となった。なお尊が濃霧を避難した岩を不動尊の岩と呼び、そこから落下する滝を麻苧(あさお)の滝という。

 この滝と白鬚神社の前宮として飛滝大神を祀る。白鬚神社の祭神は猿田彦命・日本武尊・飛滝大神である。


【水神】 (左側) 

 国道に戻るとまもなく、左側に赤い鳥居と小さな祠があり、 国道を挟んで反対側には「みんなのトイレ」と書かれた公衆トイレがある。

【原村を潤した水神】

 当祠は水神を祀ってある。もとは、現在地よりやや東の当時の原村(現在の松井田町大字原)のはずれにあったという。坂本宿が整備される以前に原村は四十戸余りの集落であって、中山道分間延絵図によると、道路の端に流れてきた堀を屈折させて村のはずれから道路中央に流れている様子がみえる。これを原村の住民は生活用水として利用していた。この用水路の起点に、清浄と安全と豊富を願って水神を祀ったものと思われる。

水神は川、井戸、泉のほとりに設け、飲み水や稲作の水を司る民間信仰から生まれた神である。現在、水は容易に安全に得られることから、ともすれば粗略に扱い勝ちであう。水神を詣でることで水への再認識を深めたいものである。


【坂本宿下木戸】 8:07

 右下の写真参照。

 慶長七年(1602)、江戸を中心とした街道整備が行われたとき五街道の一つとして江戸・京都を結ぶ中山道百三十二里(約540km)が定められ、この間に六十九次の宿場ができた。
 その一つに坂本宿が設けられ宿内の長さ三百九十二間(約713メm)京都寄りと江戸寄りの両はずれに上木戸、下木戸が作られた。本木戸は下木戸と称せられ当時の設置場に一部復元したものである。木戸は軍事・防犯などの目的のため開閉は、明け六ツ(現在の午前六時)から暮れ六ツ(現在の午後六時)までであった。実際には木戸番が顔が認識できるころで判断したようである。文久元年の絵図によると、八間一尺巾(約14.8m)の道路に川巾四尺(約1.3m)の用水が中央にあり、その両側に本陣、脇本陣に旅籠、商家百四十軒がそれぞれ屋号看板をかかげ、その賑わいぶりは、次の馬子唄からもうかがい知れる。
  雨が降りやこそ松井田泊り 降らにや越します坂本へ


【坂本宿】 日本橋から34里14町(135.1Km)、京へ101里20町 (398.8Km)
 天保14年(1843)で人口732名、総家数162軒、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠屋40軒。

木曽海道六拾九次之内 坂本 (英泉)

 刎石山をバックに坂本宿を描いている。

坂本宿下木戸跡より
 


【金井本陣跡】 (左側) 

 坂本宿には、宮様・公家・幕府役人・大名・高僧などの宿泊する本陣が二つあって、当本陣を「金井本陣」または「下の本陣」と称し、間口十間半(約19m)、建坪百八十坪(約594m)、屋敷三百六十坪(約1,200m)、玄関、門構え付きの建物であった。「諸大名様方休泊御触帳」によると中山道を上下する大名、例弊使のほとんどは坂本泊まりであった。

 本陣を泊まるのは、最低で百二十四文、最高三百文、平均二百文程度で多少のお心付けを頂戴しても献上品が嵩むので利は少なかったが格式と権威は高く格別な扱いを受けていた。

 仁孝天皇の第八皇女和宮親子内親王は、公武合体論のなかで十四代将軍徳川家茂に御降嫁されるために、京都を出発され文久元年(1861)十一月九日七ッ時(午後四時)金井本陣に到着され、翌十日朝五ッ時(午前八時)に出立された。御降嫁にあたりお付添い・迎え都合三万人ともいわれる人出で坂本宿はおろか中山道筋はたいへんだったであろう。

  都出て幾日来にけん東路や思えば長き旅の行くすゑ

 皇女和宮がご心中を詠まれた歌である。


【佐藤本陣跡】 【坂本小学校発祥の碑】 (左側) 8:15

 坂本に二つある本陣のうち当本陣は「佐藤本陣」また「上の本陣」とも呼ばれていた。三代将軍家光は、寛永九年(1642)譜代大名にも参勤交代を義務づけた。そのため、文政年間では三十一大名が坂本宿を往来した。寛政ニ年八月八日、坂本宿で加賀百万石といわれていた松平加賀守が江戸へ、信州松代真田右京太夫は帰国のため信州で擦れ違いそれぞれ宿泊している。

 東に碓氷関所、西に碓氷峠がひかえているため坂本泊りが必然となり本陣ニ軒が必要だった。安政六年(1859)ニ月、安中藩主坂倉主計頭が大阪御加番(大阪城警備)を命ぜられ登坂するとき、佐藤源左衛門と組頭の善左衛門は安中藩の役人宅にお祝いに参上している。そして御本陣番(御休所)は佐藤甚左衛門宅(佐藤本陣)で、諸荷物の伝馬継ぎ立ては問屋番の金井三郎左衛門宅(金井本陣)である。宿割りは脇本陣をはじめとして十六宿。板倉候はじめ藩士二百余名は、七月十七日朝五ッ半(午前九時)坂本に到着した。大名はじめ宮様、日光例弊使、茶壷道中で坂本宿はたいはんな賑わいであったがその反面難渋も少なくなかった。


【脇本陣跡「みまがや」】 (左側)   説明板なし。


【脇本陣跡「永井」】 (右側) 

 説明板なし。

 横に廻ってみると屋敷は立派で蔵もあった。


【脇本陣「酒屋」】 (右側)   現在は坂本公民館となっている。


【坂本宿のおもかげ残す「かぎや」】 (右側) 

 「かぎや」は坂本宿のおもかげを残す代表的は旅籠建物である。伝承によれば、およそ三百七十年前、高崎藩納戸役鍵番をしていた当武井家の先祖が坂本に移住し旅籠を営むにあたり役職にちなんで屋号を「かぎや」とつけたといわれ、まず目につくのは家紋の丸に結び雁金(かりがね)の下に「かぎや」と記した屋根看板である。上方や江戸方に向かう旅人に分かり易く工夫されている。屋根は社寺風の切妻、懸魚(けんぎょ、又は、げぎょ、屋根の破風に取りつけた装飾)があり、出梁の下には、透し彫刻が施されている。
 間口六間で玄関から入ると裏まで通じるように土間がある。奥行きは八畳ニ間に廊下、中庭をはさんで八畳二間。往還に面しては二階建て階下、階上とも格子である。宿場は街道文化の溜り場である。

 坂本宿も、俳句、短歌、狂歌など、天明、寛政のころは最盛期で当時の当主の鍵屋幸右兵衛門は、紅枝(べにし)と号し次の作品を残している。

  末枝や露八木草の根に戻る(紅枝)


【若山牧水宿泊の「つたや」】 (右側) 

 碓氷峠にアブト式鉄道が開通してから十五年後の明治四十一年頃になると、繁栄を極めた坂本宿もすっかり見る影を失い寂れてしまった。
 この年の八月六日、牧水は軽井沢に遊んでから碓氷峠を越えて坂本に宿をとろうとした。ただ一軒残ってる宿屋「つたや」に無理に頼んで泊めてもらうことにした。

 寝についても暑さで寝つかれず焼酎を求めに出、月下の石ころ道を歩きながらふと耳にした糸繰り唄に一層の寂寒感を覚え口をついて出たのが次の歌である。

  秋風や 碓氷のふもと 荒れ詫し 坂本の宿の 糸繰りの唄


【小林一茶の常宿「たかさごや」】 (右側) 

 信州国柏原が生んだ俳人小林一茶(1763−1827)は、郷土と江戸を往来するとき中山道を利用すると「たかさごや」を定宿としていた。寛政・文政年間、坂本宿では俳諧・短歌が降盛し旅籠、商人の旦那衆はもとより、馬子、飯盛女にいたるまで指を折って俳句に熱中したという。
 そこで、ひとたび一茶が「たかさごや」に草鞋を脱いだと聞くや近郷近在の同好者までかけつけ自作に批評をあおいだり、俳諧談義に華咲かせ、近くから聞こえる音曲の音とともに夜の更けることも忘れたにぎわいを彷彿させる。碓氷峠の(はねいし)の頂に「覗き」と呼ばれるところがあって坂本宿を一望できる。一茶はここで次ぎの句を残している。
  坂元や 袂の下は 夕ひばり


【上の木戸・芭蕉句碑】  町指定重要文化財(昭和49年11月指定) (右側) 

 江戸寛政年間(1790年頃)坂本宿の俳人達が、春秋白雄先生に依頼し選句し書いてもらった句である。

 高さ1.5m・幅 基幅1.20m・頂部0.60m・厚さ約0.20m 石質は刎石(安山岩)で刎石山頂にあったものを明治年間廃道のため現在地に移転した。

 書体は「ちくら様」で句は元禄年間の「曠野」にあり、内容は木曽路下りのもので碓氷峠のものでない。当時の宿駅文化の盛況を知る良い資料である。

  「ひとつ脱てうしろに負ひぬ衣かえ」


【八幡宮】 (右側)  8:40

 森に囲まれた本殿までは約30段の階段を登る。坂本宿内では最高地点になる。

 創立年代不詳なれども、当地開発の当初より碓氷郷の鎮守産土神として古来篤く崇敬せらる。

 伝承によれば景行天皇四十年十月日本武尊の勧請という。

 延喜年間現在の地より東北の小高い丘に社殿を建立。

 江戸時代宿駅制度の確立、坂本宿の設置により宿駅の上なる小高い丘、現在の地に辻郷に祭祀せる、諏訪神社、白山神社、八坂神社、水神、菅原神社、大山祇神社等を合併合祀すと云う。

 大正三年に村社に指定。

 


 写真の円形タンクが見えたら、左側の細い道に入る(妻の行く方向)。

 少し登ると国道18号線に出るので、これを渡ると本格的な碓氷登山の入口となる。

 「安中遠足(侍マラソン)」のコース案内が熊野神社まで頻繁に立っているので迷うことはない。ここから熊野神社まで8.3Kmとのこと。

 「刎石茶屋跡」までは細くて急な登りばかりの道でかなりきつい為、覚悟して行く必要がある。また、雨の日や雨の直後などはかなりぬかるむので足元の対策が必要と思われる。

 写真の左側で農作業していたご老人としばし閑談。これから碓氷峠越えをする為の道の確認や「雨にならなければ良いが」と心配して下さったりして、いつもであるが、街道筋の人々は皆親切である。


登山道入口(8:50)

(9:00)

「マラソン」の コース表示案内(峠まで沢山立っている)

 峠までの登山中、全行程にわたり霧が濃くて薄暗い状態が続き、誰一人出合うことはなかった。


【堂峰番所】 8:57

 堂峰の見晴らしの良い場所(坂本宿に向かって左側)の石垣の上に番所を構え、中山道をはさんで定附同心の住宅が二軒あった。関門は両方の谷がせまっている場所をさらに掘り切って道幅だけとした場所に設置された。現在でも門の土台石やその地形が石垣と共に残されている。


【柱状節理(ちゅうじょうせつり) 9:20

 火成岩が冷却、団結するとき、き裂を生じ、自然に四角または六角の柱状に割れたものである。


 碓氷峠越えの道には、沢山の説明板が立っているが、京側(軽井沢宿方面)から歩いてくる方向で書かれているものが多く、江戸側(坂本宿)から登ると、説明が前後しているので注意。

 


【刎石坂】

 刎石(はねいし)坂には多くの石造物があって、碓氷峠で一番の難所である。むかし芭蕉句碑もここにあったが、いまは坂本宿の上木戸に移されている。南無阿弥陀仏の碑、大日尊、馬頭観音がある。ここを下った曲がり角に刎石溶岩の節理がよくわかる場所がある(上の写真のこと)


【上り地蔵・下り地蔵】

 十返舎一九が「たび人の身をこにはたくなんじょみち、石のうすいのとうげなりとて」と・・・ その険阻な道は刎石坂である。

 刎石坂を登りつめたところに、この板碑のような地蔵があって旅人の安全を見つめているとともに、幼児のすこやかな成長を見守っている。


【覗(のぞき) 9:33

 ここまでの登りは本当に苦しかった。私は箱根山よりきついと思った。

 霧が濃いため写真はハッキリしないが、中央に白く丸く見えるのが登り始めた所の「円形タンク」である。

 ここの標高約800m、円形タンクからの標高差約250m。

 坂本宿を見下ろせる場所で山梨の老木がある。

 一茶は「坂本や袂の下の夕ひばり」と詠んだ。


【風穴】 

 覗きのすぐ先にある。岩の穴に手を近づけると、もやっとした水蒸気が出ていた。


【弘法の井戸】 9:40〜9:50

  ここで小休止。新旧二つの説明板があった。

 @諸国を旅していた弘法大師が、刎石茶屋に水がないので、ここに井戸を掘ればよいと教えたと伝えられている霊水である。

 A弘法大師から、このところを掘れば水が湧き出すと教えられ、水不足に悩む村人は大いに喜び「弘法の井戸」と名付けたという。

 この先にも新旧二つの説明板が並べられているところが沢山あった。


【刎石茶屋跡(四軒茶屋跡)】 

 やっと平らな道になった所に石垣で囲まれた敷地が残っていた。

 @ここに、石垣に囲まれた四軒の茶屋があった、現在でも石垣や墓が残っている。

 A刎石山の頂上で昔ここに四軒の茶屋があった屋敷跡である。今でも石垣が残っている。(力餅、わらび餅などが名物であった。)

 ここから、しばらく平らな道になる。鳥の声以外何も聞こえず、静寂の中を歩いていると今までの疲れも忘れるほど気持ちがいい。


【碓氷坂の関所跡】 9:55

 昌泰二年(899)碓氷の坂に関所を設けたといわれる場所と思われる。

 ここに東屋があったので、少し休憩。 標識には、左:坂本宿2.5Km、右:熊野神社6.4Kmとあった。 


【掘り切り】 10:18

 天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めで、北陸・信州軍を、松井田城主大道寺駿河守が防戦しようとした場所で、道は狭く両側が掘り切られている。


【南向馬頭観音】 

 この切り通しを南に出た途端に南側が絶壁となる。

 昔、この付近には山賊が出たところと言われ、この険しい場所をすぎると、左手が岩場となり、そこにまた馬頭観音が道端にある。


【北向馬頭観音】 10:25

 馬頭観音は、高い岩の上に安置されていた。

 道路右側の崖下からは、せせらぎの音が聞こえる。

 馬頭観世音のあるところは危険な場所である。

 一里塚の入口から下ると、ここに馬頭観世音が岩の上に立っている。


【一里塚】 

 座頭ころがしの坂を下ったところに、慶長以前の旧道(東山道)がある。ここから昔は登っていった。その途中に小山を切り開き「一里塚」がつくられている。


【座頭ころがし(釜場)】 10:36

 急な坂道となり、岩や小石がごろごろしている。それから赤土となり、湿っているのですべりやすい所である。

 ここの坂も非常にきつかった。

 登った先に車が捨てられていたのには驚く! 逆(西)方向からたどると納得できないこともないが、この時点では、細い山道をどうやって来たのかと考えてしまった。


【栗が原】 10:52〜11:05

 持参のパンで軽い昼食。

 後で気がついたのだが、倒木に腰掛けて食事中に二人とも足を蛭(ひる)に食いつかれてかなり血を吸われた。そのときは何も痛くなく全く気がつかなかったが、途中で私のズボンに血が染み付いていたのを後ろを歩いていた妻が見つけて分かった 位である。妻の方は両足吸われていたにもかかわらず下山するまで気がつかなかったほどであった。家に帰っても痛みは無いがバンドエイドを剥がすと血が滲んでくるほどひどかった。初めての経験である。

 明治天皇御巡行道路と中山道の分かれる場所で、明治八年群馬県最初の「見回り方屯所」があった。これが交番のはいまりである。


【入道くぼ】 

 山中茶屋の入口に線刻の馬頭観音がある。これから、まごめ坂といって赤土のだらだら下りの道となる。

 鳥が鳴き、林の美しさが感じられる。


【山中茶屋(山中部落跡)】 11:35

 @山中茶屋は峠のまんなかにある茶屋で、慶安年中(1648〜)に峠町の人が川水をくみ上げるところに茶屋を開いた。寛文二年(1662)には十三軒の立場茶屋ができ、寺もあって茶屋本陣には上段の間が二か所あった。明治の頃小学校もできたが、現在は屋敷跡、墓の石塔、畑跡が残っている。

 A江戸時代中期頃、ここに茶屋十三軒あり、力餅、わらび餅などを名物にしていた。またここには、寺や学校があり、特に明治十一年の明治天皇北陸巡行の節、教育の振興のために金二十五両を下賜された。(当時児童は二十五名であったといわれる)

 写真のように霧で、神秘的な中を歩く。


【山中坂】 11:40

 山中茶屋から子持山の山麓を陣馬が原に向かって上がる急坂が山中坂で、この坂は「飯喰い坂」とも呼ばれ、坂本宿から登ってきた旅人は、空腹ではとても駄目なので、手前の山中茶屋で飯を喰って登った。山中茶屋の繁盛はこの坂にあった。

 この坂の上にもバスが捨てられていた。


【一つ家跡】 

 ここに老婆がいて、旅人を苦しめたと言われている。


【陣馬が原】 11:55

 太平記に新田方と足利方のうすい峠の合戦が記され、戦国時代、武田方と上杉方のうすい合戦記がある。

 笹沢から子持山の間は萱野原でここが古戦場といわれている。

 この案内板が立っている場所から左側の細い道を行くのが古い中山道である。

 旧道の入口はかなり細くて心配になるが、すぐ安心できる道になる。

 真直ぐ行く広い道は遠回りの和宮道である。


【化粧水跡】 

 峠町へ登る旅人が、この水で姿、形を直した水場である。

 左側に沢の音。


【人馬施行所(せぎょうしょ)跡】 12:10

 笹沢のほとりに、文政十一年、江戸呉服の与兵衛が、安中藩から間口十七間、奥行二十間を借りて人馬が休む家を作った。

 このすぐ先の沢(写真)を渡る。橋代わりの木の板は水没していたので岩伝いに渡った。大雨の後は、足が濡れることを覚悟する必要があると思う。

 


【長坂道】 12:35

 最後のきつい坂。苦しかった!

 中山道をしのぶ古い道である。


【仁王門跡】 12:37

 ここで頂上(峠)に到着。熊野神社まで0.5Km、8分の標識を見てほっとする。

 登り始めてから最後まで誰一人遭わなかった。また、終始霧が濃く、神秘的ではあったが景色は見えず、『熊出没注意』の看板が 掲げられていたこともあり、一人で歩いていたらかなり怖かったと思う。秋に歩く 人は鈴などの用意が必要と思われる。

 もとの神宮寺の入口にあり、元禄年間再建されたが、明治維新の時に廃棄された。

 仁王様は熊野神社の神楽殿に保存されている。


【思婦石(おもふいし) 

 「仁王門跡」の隣りにある。

 群馬郡室田の国学者、関橋守(せきのはしもり)の作で、安政四年(1857)の建立である。

  ありし代に かえりみしてふ 碓氷山 今も恋しき 吾妻路のそら


【碓氷川水源地】 

 ここから、少し下ったところにあるとのことだが、もう登り下りはしたくないのでパス。

 明治天皇御巡幸の際に御膳水となった名水である。


【力餅】 12:45〜13:15

 見晴亭で名物の力餅を食べる。 疲れた体には甘いものが最高!

 但し、力餅の元祖は熊野神社前の「しげのや」である。


【中央分水嶺】 

 熊野神社前のお休み処「いずみや」の所が中央分水嶺である。

 中央分水嶺(水の分去れ)とは、この地点に降った雨水が日本海側と太平洋側とに異なる方向に流れる境界。

 旧碓氷峠【標高】1190m【経緯度】北緯:36°22’07”/東経:138°39’23”


【赤門屋敷跡】 史跡 (右側) 

 「いずみや」の前の駐車場に説明板あり。

 江戸幕府は諸大名を江戸に参勤させた。この制度の確立の為「中山道」が碓氷峠「熊野神社」前を通り、此の赤門屋敷跡には「加賀藩前田家」の御守殿門を倣って造られた朱塗りの門があった。諸大名が参勤交代で浅間根腰の三宿「追分・沓掛・軽井沢」を経て碓氷峠に、また上州側坂本宿より碓氷峠に到着すると、熊野神社に道中安全祈願詣でを済ませて、此の赤門屋敷で暫しのほど休息し、無事碓氷峠まで来た事を知らせる早飛脚を国許また江戸屋敷へと走らせた。江戸時代の終り文久元年(1861)仁考天皇内親王和宮様御降嫁の節も此の赤門屋敷に御休息された。

 明治十一年明治天皇が北陸東山道御巡幸のみぎり、峠越えされた行列を最後に、旅人は信越線または国道18号線へと移った。上州坂本より軽井沢までの峠越えの道は廃道となり熊野神社の社家町「峠部落」も大きく変り赤門屋敷も朽ち果て屋敷跡を残すのみとなった。
 此の屋敷は熊野神社代々の社家「峠開発の祖」曽根氏の屋敷であり心ある人々からは由緒ある赤門「御守殿門」及び格調高い「上屋敷」の滅失が惜しまれている。


【熊野神社】 (右側)  13:20〜13:40

 左の写真で、段を上がった参道(灯籠に挟まれた所)に長野県と群馬県の県境標識が埋め込まれていた。本殿は長野県に鐘楼は群馬県に属している。

鳥居

狛犬

本殿      鐘楼(古鐘)

【熊野神社の由緒】

 当社は県境にあり、御由緒によれば、日本武尊が東国平定の帰路に碓氷峠にて濃霧にまかれた時、八咫烏の道案内によって無事嶺に達することができたことより熊野の大神を祀ったと伝えられる。

 碓氷嶺に立った尊は雲海より海を連想され走水で入水された弟橘比売命を偲ばれて「吾嬬音耶(あずまはや)」と嘆かれたという。(日本書紀より)

 これら御由緒より「日本太一」という烏牛王札が古来から起請文や厄難消除の御神札として頒布されている。

【歴史概略】

 鎌倉時代に武士団等の篤い信仰を受け、群馬県最古の吊鐘(県重文)が松井田より奉納されている。

 江戸時代には諸大名を始め、多くの人々が中山道を行き来した。関東の西端に位置し、西方浄土、二世安楽、道中安全を叶える山岳聖地として、権現信仰が最も盛んとなった。

 「碓氷峠の権現様は主の為には守り神」と旅人に唄われ、追分節の元唄となって熊野信仰が全国に伝わって行った。

【狛犬】

 室町時代中期の作と伝えられ長野県内ではいちばん古いものである。向かって右側(雄)は口を開いた阿(あ)、左側(雌)は口を閉じた吽(うん)の像で、一対となっている。

 狛犬は、中国で陸前に魔物撃退のために置かれたのが最初で、本来威嚇を目的としているが、ここの狛犬は極めて素直で大変親しみを感じさせている。

【熊野神社の古鐘】 県指定重要文化財(昭和30年1月指定)

 鎌倉時代の正応五年(1292)松井田一結衆十二人によって、二世安楽を願い奉納された。群馬県内では最古の鐘で貴重なものである。

 上州の国境であった熊野神社の鐘楼から時を告げていた。

 高サ 八十五糎   口径 六十三糎


【二手(にて)橋】 14:10

 熊野神社を少し下った分かれ道(「上信国境」の石碑の先)を左手に50mほど登った所に碓氷見晴台があるとのことだが、霧のため行かなかった。

 私達は県道134号線を旧軽井沢へと下ったが、車道の南側にある遊歩道の一部が元々の中山道らしい。

 熊野神社から30分で、写真の二手橋に到着。

 この橋のたもとにあるトイレ(写真で橋の後ろの建物)は非常に綺麗である。


【軽井沢ショー記念礼拝堂・ショーハウス】 (右側)  14:20〜14:30

【軽井沢ショー記念礼拝堂】(上の写真)

 英国聖公会宣教師A・C・ショー師がキリスト教布教の途にあって軽井沢を知ったのは、明治18年(1885)である。師は翌年この地に暑さを避け静思、休養、交親の場とし、構内に礼拝堂を建てて霊的よりどころとした。

 現在の礼拝堂は由緒あるこの地に在り、いまもなお天地創造の神を賛美し、静想、祈祷、聖書読修の場としてここを訪れるすべての人に解放されている。





【ショーハウス】(下の写真)

 明治十九年(1886)英国聖公会から派遣された宣教師A・C・ショー氏は、当地のすぐれた高原美と、清涼な気候を愛し。明治二十一年(1888)に、初めて避暑用に別荘を旧軽井沢に建てた。これがショーハウスと呼ばれ、軽井沢別荘の第一号となった。

 ショー氏は毎夏をこの別荘で過ごし、村民に善良な風習と美しい自然を守るべきこと教えた。また、この地を広く内外人に紹介して来遊を勧めた。現在、別荘や寮の数は一万を超え、年間の来訪者は八百万と言われているが、清潔で健康的な避暑地としての姿は今も保たれている。

 


【芭蕉句碑】 (左側) 

 ショーハウスのすぐ先左側。

 馬をさへ ながむる 雪の あした哉

 松尾芭蕉(1644〜1694)「野ざらし紀行」(甲子吟行)中の一句。前書きに「旅人をみる」とある。雪のふりしきる朝方、往来を眺めていると、多くの旅人がさまざまな風をして通って行く。人ばかりではない。駄馬などまでふだんとちがって面白い格好で通っていくよの意。
 碑は天保14年(1843)当地の俳人小林玉蓬によって、芭蕉翁百五十回忌に建てられたものである。


【御宿 つるや】 (右側)  14:40

 森が途切れたところにあり、このあたりから軽井沢銀座が始まる。

 「つるや」は江戸時代にここで茶屋を開いていたが、明治から旅館に変わり、多くの文士が訪れるようになって繁盛した。

 大正時代には、島崎藤村・芥川龍之介・谷崎潤一郎・室生犀星・志賀直哉・掘辰雄らが逗留した。

 昭和47年(1972)に昔の面影を残すように再建された。

 


【軽井沢銀座(旧軽井沢)】 軽井沢駅入口のロータリーで15:00

 写真は、ロータリーから碓氷峠方向に向けて銀座通りを写したもの。 

 銀座通りを汚れた服とリュック姿で歩いていると、場違いでチョット気恥ずかしい思いがした。

 通り中ほどの郵便局で記念切手を買い、風景印を押して貰う。

 宿場は南北六町(約650m)で、東の桝形(「つるや」の少し手前)からロータリーあたり(かつて西の桝形があった)までだった。

 

 


【軽井沢宿】 日本橋から37里13町(146.7Km)、京へ98里21町 (387.2Km)
 天保14年(1843)で人口451名、総家数119軒、本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠屋21軒。

木曽海道六拾九次之内 軽井沢 (広重)

 軽井沢宿南西の外れの暗くなった街道風景を描いている。

最盛期には茶屋が12軒あり、飯盛女も200人を越えたと云われる。

 旧軽井沢から中軽井沢へ向かう途中

右側に見つけた広重の浮世絵にそっくりな風景
  


 旧軽井沢ロータリーを真直ぐ広い舗装道路を行く。カラマツ等の林を抜けていく途中に「雲場池」の景勝地があったが、時間的にも厳しかったので寄らなかった。雲場川を渡った先の「東部小学校」前から右上の写真のように広重の絵そっくりな風景が現れた。

 15:50、国道18号線に合流。


【市村記念館(旧近衛邸)】 (右側)  16:00

 この記念館は、近衛文麿公(元首相、太平洋戦争前三次にわたって内閣を組織し首相を務めた)が、第一別荘として建築した大正初期のアメリカ式洋館です。

 近衛公の軽井沢滞在はそれほど多くありませんでしたが、その少ない避暑の間、会長徳川圀順氏と共に「軽井沢ゴルフ倶楽部」を創設したり、多くの内外文化人と会って日本の現状や将来について語りあったりしました。

 この別荘は、近衛公の保健休養の場として、また、ゴルフのクラブハウスとしても使用されました。

 天宮敬次郎(明治24年東長倉村開墾事業により明治政府最初の藍綬褒賞を受賞)の甥である市村今朝蔵(元早稲田大学教授・政治学者)・きよじ夫妻が前々から考えていた学者村(南原文化会)を拓くための拠点として、昭和七年この由緒ある別荘購入して南原に移築補修をし市村家が山荘として六十有余年使用してきた。

(中略)

 平成9年12月この別荘の所有者である故市村きよじ氏の意思をついた遺族が現在地に移築し、「昭和期の軽井沢の別荘生活の再現資料として保存し活用願いたい」という主旨で、建物及び当時の多くの資料の軽井沢町に記帳されました。


 本来の旧中山道は「市村記念館」の前から「しなの鉄道」の踏切を渡って線路の南側に出るのであるが、現在は道がなくなっているので、約300m先の「軽井沢中学校」前の信号を左折して「しなの鉄道」の踏切を渡り、すぐ右折する道を行く。

 しばらく道なりに行き、前沢橋を渡った先で右折し、「しなの鉄道」のガードを潜って再び国道18号線に出る。

 18号線を左折すればすぐ中軽井沢駅入口となる。



 12回目の旅終了(16:30) 中軽井沢交差点。

  軽井沢駅より新幹線で帰宅。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、17.4Km(碓氷関所跡〜中軽井沢交差点)

          日本橋から三十八里三十一町(152.6Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、19.5Km(横川駅〜中軽井沢駅) 累計:192.8Km

          9時間 33,100歩。(横川〜中軽井沢駅まで33,880歩)

 

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