松井田宿(後半) (西松井田駅 → 横川・碓氷関所跡) <旧中山道11回目>

2006年6月20日(火) 晴 

 西松井田駅を11:45スタート。 (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

 

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 6月初旬に務めていた会社を定年退職し、何時でも街道歩きができると思ったところ雨ばかりで歩けず、やっと2日間なんとか持ちそうなので出かけることにした。


【補陀寺】 (右側)  11:50〜12:15

 西松井田駅入口交差点のすぐ先にある。

 上の写真は補陀寺の鐘楼と後ろの山が表妙義の白雲山。

 この鐘楼には、面白い仕掛けが付いていた。丁度昼時なので高崎駅で買ってきた弁当を鐘楼の前のベンチで食べていたところ、12時になった時、突然誰もいないのに鐘が鳴ったのでビックリ。弁当を手にしたまま近寄って見たら、時間がくると自動的に鐘を突く装置が付いているではないか。鐘を突く棒にワイヤーが結ばれており、そのワイヤーをタイマー付きの自動巻き取り機が巻き取り、充分引っ張られたら一気に離すことで鐘を突く仕組みになっていたのである。食べるのも忘れてしばらく見入ってしまったくらいである。(下の写真で横柱に取り付けられているのが巻き取り装置)

【補陀寺】

 この補陀寺のすぐ北に松井田城址があるが、その松井田城の最後の城主であった大道寺政繁の菩提寺である。大道寺政繁は、北条氏の家臣で、戦国時代の末期に豊臣秀吉の軍に敗れ、やがて切腹させられる。城はそのまま廃城となった。


【松井田城址】 

 補陀寺の山門前に松井田城址の案内板がある。

 城は東と西の二つの郭から成る。

 東半は御殿山を中心に安中郭(町指定)と呼び安中忠政が本格的に築城したという。

 西半は本丸、馬出し、二の丸の三つの郭からなる。二の丸の北西部に土囲が遺存する。自然の尾根を巧みに利用し、無数の堀切や堅堀り(たてぼり)を構築している。北条流の典型的な中世の山城として名高い。


【妙義山】 (左 手) 

 補陀寺から4分先の右側に、大きい二基の「道祖神」。そこから3分先の中山道案内柱に『←坂本宿6.8Km、→松井田宿1.5Km』とあった。

 すぐ、JR信越本線の踏み切りに出るが、本来の旧道は途切れているので、ここは渡らずにそのまま線路の右側を行き、次の「第十中山道踏切」で渡る。

 線路に出ると下の写真のように妙義山が見えてくる。

金鶏山 (獅子岩まで表妙義)

白雲山      鼓嶽

 鋏岩  獅子岩     御岳(裏妙義)


 国道18号線に合流したら、上越自動車道の下の横断歩道を渡り、『旧中山道』の標識に従って斜め右に行く。

 右側床屋の隣りに大きい「庚申塔」と「二十三夜塔」を見たらすぐ茶屋本陣の案内が出てくる。 


【高札場跡】 

 茶屋本陣の案内に従って右折すると、すぐ「高札場跡」の案内板が ある。

 安中藩 板倉伊豫守領分 五科村 高札場跡


【五科(ごりょう)の茶屋本陣 】 群馬県指定史跡(昭和33年8月指定) (右奥) 12:45〜13:55

 JR信越本線の踏み切りを渡ったところに「お西」と「お東」の二軒が江戸時代そのままに復元されている。共に内部は資料館になっている。

 明治天皇が北陸東海御巡幸の折に「お西」を小休所として使った。

 目の前に妙義山が仰ぎ見られ、休憩場所としては絶景の地にある。

 ここで碓氷峠越え道の地図「旧道日和」を頂いた(碓氷峠勾配図が載っており、標高差・距離・時間が分かり便利であった)。

 入口に御触書(おふれがき)が立っており、下記の案内が書かれていた。入館料は210円。

 一、開門時間 巳ノ上刻(午前九時)  一、閉門時間 申ノ下刻(午後四時三十分)  一、本陣見分 お西・お東

 一、休館日 毎週月曜日 祝日にあたる場合はその翌日 年末・年始

【五科の茶屋本陣】

 江戸時代に参勤交代などで中山道を通行する大名や公家などが休憩したところです。

 各宿場ごとにある本陣のような宿泊用の施設ではなく、休憩や昼食あるいは他の大通行が関所にかかってる間の時間待ちなどに利用されていたため部屋数は少なく、両家とも上座と呼ばれる書院造の上段の間・下(次)の間・式台(玄関)・通り(入側)などを備えています。家族の生活の場は、勝手・茶の間・中の間・納戸んどからなっています。また、茶の間に続く広い座敷は名主役宅として、村役所の機能を果たしていました。

 五料の茶屋本陣は両家とも中島姓なので、土地の人は今も「お西」「お東」と呼んでいます。両家の先祖は共に天文年中(1540頃)諏訪但馬守が松井田西城に城を構えたときの家臣中島伊豆直賢と伝えられています。お西に伝わる慶長六年(1601)の「五料村御縄打水帳」によると、すでにその頃五料村に土着し名主役を勤めていたことがわかります。

 両家とも代々名主役(二人名主制)を務めています。天保七年(1836)から明治五年(1872)までは、交代名主制となり、一年交代で名主役を勤めています。
 現在の建物は両家とも文化三年(1806)の大火で焼失し、同年中に再建されたものです。使用材が松材と杉材が主で、大黒柱などはケヤキ材を使用しています。

 東西に土蔵を配し鼓山を眺める南面の借景庭園ははすばらしく、裏庭の景観も心なごむものがあります。

【お西】

 五科の茶屋本陣・お西は、江戸時代の名主屋敷であるとともに、茶屋本陣でもありました。茶屋本陣は中山道を参勤交代などで行き来する大名や公家などの休憩所としておかれたものです。

 この「お西」中島家は、十六世紀末から代々名主役を勤め、特に天保七年(1836)から明治五年(1872)までは「お東」と一年交代で名主を勤めていました。

 この建物は、「お東」と同年(文化三年)に建てられたもので、間口十三間、奥行七間の切妻造りで、両家の母屋の規模、平面ともほとんど同じです。

 白壁造りのよく映えた屋敷構えに当時をしのぶことができ、中山道の街道交通などを知る貴重な史跡です。



【お東】

 五科の茶屋本陣・お東は、江戸時代の名主屋敷で、中島家の住宅として使用されていました。

 中島家は、代々名主役を勤めており、茶屋本陣としても利用されました。

 この建物は、間口十三間半、奥行七間で、当家に伝わる古文書によると、文化三年(1806)に建てられたもので、その後の大きな改造もなされず、書院づくりの上段の間をはじめ式台などに当時のおもかげをよく伝えています。

 また古文書などもよく保存されており、建物とともに江戸時代の農村、街道交通などを知るうえで重要であり、祖先を同じくする「お西」と共に並んで現存することは全国でもめずしく貴重な史跡です。


 中山道に戻ると、すぐ左側に、正徳四申午年(1714)九月大吉祥日と書かれていた可愛い道祖神があ る。 

 次の踏切を再び渡り、山道を登る。左右に道祖神や馬頭観音を見て、登りきる手前に4体の地蔵と大きな石が見えてくる。

【茶釜石・夜泣地蔵】  (左側)  13:33

【茶釜石】

 この奇石が、もと旧中山道丸山坂の上にあったものです。たまたまここを通った蜀山人は、この石をたゝいて珍しい音色に、早速次の狂歌を作ったといいます。

  五科(五両)では、あんまり高い(位置が高い)茶釜石 音打(値うち)をきいて通る旅人

 この石はたゝくと空の茶釜のような音がするのでその名がある。

 人々は、この石をたたいて、その不思議な音色を懐かしんでいます。

 五科の七不思議の一つに数えられています。

 上に置いてある小石で石の何処を叩いても良い音(金属音)がするが、皆が叩いている凹んだ箇所は特に良い音がする。

【夜泣地蔵】

 右側の大きな地蔵が夜泣地蔵。

昔、荷を運んでいた馬方が荷物のバランスを取るために、脇に落ちていた地蔵の首を乗せて深谷まで運び、不要になると捨ててしまった。すると首が夜な夜な「五科恋しや」と泣くので、哀れに思った深谷の人が五科までこれを届け、胴の上に乗せてやった。それ以来この地蔵を「夜泣き地蔵」と呼ぶようになった。


【碓氷神社】 (右側)  13:52

 再び線路に接した場所に赤い鳥居と、本殿は林の中の階段を登ったところにある。

 創立年代不詳なれど碓氷熊野神社の御分霊を戴き碓井郷の鎮守産土神として従来より篤く崇敬せらる。

 慶安年間(1648〜52)御社殿を改築し碓氷峠山熊野神社の里宮として碓氷神社と呼ぶ。

 明治四十二年三月氏子の総意により許可を得て中木に祭祀せる菅原神社、小竹に祭祀する波古曽神社、平に祭祀する諏訪神社、横川に祭祀せる八幡宮、その他五科の郷にある諸社等々を合併合祀し今日に至る。大正三年村社に指定せらるもその後神社制度の改革等により現在宗教法人碓氷神社となる。

 この神社前の「高墓踏切」を渡り、国道18号線を横断してそのまま直進し、臼井小学校の前を右折する。

 国道18号線に合流する手前に道祖神等あり。国道の小山沢橋を渡った先の信号を斜め左へ入る。


【百合若大臣の足痕石】 (右側)  14:07

 国道から離れた旧道の中ほどに凹みのある石が見えてくる。

 穴に黒い水と落葉が溜まっていたのでほじくった為、写真では穴の箇所が黒く写っている。

 この石は、百合若大臣が足で踏みつぶしたので、石のうえがへこんだといわれています。
 その昔、百合若大臣という大男の若者がいて、力も相当あったらしく大きな弓と長い矢で。川向うの山にむけ「よしあの山の首あたりを射ぬいてみよう」と思いつき、満身の力を込めて射はなった。その時、後足をふんがいたのがこの石と言われています。
 これを見ていた家来の一人も負けづと思い、腰にぶらさげていった弁当のむすびを力いっぱいほうり投げ、山には二つの穴があきました。
 それで今でも二つの穴が、ここから見ると夜空の星のように見え、この山を「星穴岳」と呼ぶようになったと言われています。

 百合若大臣がその時使った弓と矢が妙義神社に奉納されています。

 反対側の山を見て、縦に四角い穴二つがそれではないかと思ったが良く分からなかった。


【横川駅・おぎのや資料館】 14:33〜14:38

  下横川信号で「第十五中山道踏切」を渡り、線路の右側を行く。間もなく『峠の釜めし』で有名な「荻野屋」の黄色い看板が見えてくると横川駅到着である。

 荻野屋の食堂の前に荻野屋の資料館がある。

 横川駅前に「松井田町」の解説版と機関車の動輪が展示されていた。

【松井田町】 

 松井田町は,群馬県の西部に位置し、碓氷峠を経て、長野県軽井沢町と接し、東京から約130kmの距離です。

 上毛三山の一つ奇峰妙義山の裾野に175平方Kmの面積を擁する、緑豊かな町です。町のほぼ中央を信越本線・国道18号線・上信越自動車道・清流碓氷川が並行して縦貫し、交通の便にも恵まれています。
 昔は松井田城を中心に栄え、中山道とともに、坂本宿・松井田宿が整備されると宿場町として栄え、古くから交通の要衝でした。

 碓氷峠手前の「碓氷の関所」は、箱根の関所と並ぶ重要な関所として有名です。この他にも町内には名所・史跡・文化財などが数多くあります。

 妙義山から碓氷峠にかけて「妙義荒船佐久高原国定公園」・「上信越高原国定公園」に指定され、新緑や紅葉など、四季を通じて自然を満喫することができます。このふところに妙義湖・碓氷湖・霧積湖などがあり、つりやポート遊びを楽しめます。麻苧の滝・仙ケ滝などの名瀑も有名です。また人間の証明で有名な秘湯「霧積温泉」も昔ながらのたたずまいを見せています。

 小根山森林公園は、国の見本林を解放したもので、園内の散策や鳥獣資料館を見学することができます。
 当地横川は、信越本線の難所碓氷峠を越えるため、アプト式鉄道の起点であり、旧国鉄の町として栄えてきました。峠のレンガ橋は通称「めがね橋」として知られ、平成5年8月17日に国指定重要文化財に指定されました。峠をひかえ、「峠の力もち」や「釜めし」などをぜひおめしあがり下さい。

【EF63-3号の動輪】

 全国JR路線のなかで最大の難所と言われた信越本線横川・軽井沢間のシェルパとして平成9年9月30日まで活躍した動輪です。

 横川駅の傍に「碓氷峠鉄道文化むら」があり、鉄道ファンならずとも楽しそうなところだが、本日火曜日は定休日であった。入園料500円。

 また、ここから、峠の湯までトロッコ列車が走っているので、時間があれば温泉に入れる。


【庚申塔・二十三夜塔】 (右側) 

 駅からすぐ先の矢野沢橋のたもとに庚申塔や二十三夜塔などが並んでいる。 

【横川の茶屋本陣】  県指定史跡(昭和33年8月指定)(右側) 14:45

 駐車場の奥にあり、現在も人が住んでいる。

 この茶屋本陣は、代々横川村名主を勤め幕末の頃は坂本駅の助郷惣代をも兼ねた武井家の西の一部である。棟は居宅と同一であるが、居宅分は二階があり、本陣の方は二階を作らず天井を高くしてある。

 居宅と本陣との境は三尺の畳敷きの廊下で区切られ、襖がここまで通じている。
 本陣は型通り控えの間が二間あり、その奥に八畳の上段の間がある。

 裏庭は「皐月」を配した石組の平庭で池があり風情があるが、外敵に備えるものであろうか、大きい木は植えていない。碓氷関所に一番近い茶屋本陣として興味深いものがある。


【東門の位置】 【碓氷関所跡・おじぎ石】  群馬県指定史跡(昭和30年1月指定) (右側)  14:53

 砂利敷き駐車場の手前に「東門の位置(安中藩管理)」と書かれた木柱があり、その駐車場先の階段を登ると「碓氷関所の門」が復元されている。また、門の前には「おじぎ石」が置かれている。

【関所のおこり】 
 醍醐天皇の昌泰二己未年(899)、坂東に出没する群盗の取り締まりのため、相模国足柄と上野国碓氷の二ヶ所に関所を設け、交通の監視をしたのがはじめである。

【関所の移り変わり】

 その後、正応ニ年(1289)鎌倉幕府の体から執権北条貞時によって、関長原に関所がすえられ、以来戦国時代まで何度か時の権勢によって整備された。伊井兵部少輔直勝が関長原に仮番所をつくり関東防衛の拠点とした。

 江戸幕府によって、現在地に関所が移されたのは、元和九年(1623)三月である。横川は碓氷峠山麓の3つの川が合流し、険しい山がせまって狭間となり、関所要害としては最適地だった。寛永十二年(1635)参勤交代制の確立後は、「入鉄砲に出女」をきびしく取締り、関所手形を提出させた。鉄砲などの武器が江戸に持ち込まれることや、人質として江戸に住まわせていた大名の妻子などが国許へ逃げ帰るのを防ぐために、これらを関所で調べたのである。
 幕末になると、関所の改めもゆるやかになり、明治ニ年(1869)ニ月に廃関された。

 

【碓氷関所の門】

 醍醐天皇の昌泰ニ年(899)に群盗を取り締まるために、関所が碓氷坂に設けられた。

 この地に関所が移ったのは、元和年間(1615〜1623)といわれ、幕藩体制を中心とした、徳川幕府の確立・安定という政治的意味をもつものとなり、いわゆる「入鉄砲に出女」の取締りをねらいとしたものになった。明治ニ年(1869)廃関されるまで中山道の要所となった。
 門柱および門扉は当時使用されていたもので、総ケヤキ材の要所に金具を用いた堅固なものである。ほかに屋根材六点と台石も当時のもので、昭和34年1月、東京大学教授工学博士藤島亥治郎氏の設計により復元された。

 この位置は番所跡にあたり、復元された門は東門である。

【おじぎ石】

 通行人はこの石に手をついて手形を差し出し通行の許可を受けた。


【関所通行と処刑】

 碓氷関所の改め規定は、@制札三ヶ条A掛板十六ヶ条B古法申し継ぎ十一ヶ条C平日の改め四十七ヶ条などがあった。特に“入り鉄砲と出女”の取締りに重点がおかれ、提出された手形は、再び安中藩から幕府に送られて調べられた。
 関所の門限は「明け六つから暮六つまで」と定められ、門限以外は特別な場合を除き、固く門を閉じていた。関所を破った人は御定書により、磔・獄門の刑に処された。



 11回目の旅終了(15:00) 碓氷関所跡。

  横川駅で夕食用の「峠の釜めし」を買い、高崎駅に戻って、前回と同じホテルに泊る。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、5.9Km(西松井田駅前交差点〜碓氷関所跡)

          日本橋から三十四里十五町(135.2Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、8.0Km(西松井田駅〜横川駅) 累計:173.3Km

          3時間15分 12,850歩。(高崎駅前ホテル〜西松井田駅まで36,840歩)

 

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