神奈川宿 (子安駅 → 洪福寺) <旧東海道5回目>

2002年4月28日(日) 晴
 二人旅。(京浜急行「子安駅」~「興福寺バス停」)

2013年6月1日(土) 晴 
 京急「子安駅」(12:40)から「大綱金比羅神社」(15:35)までの一人旅。


2013年6月5日(水) 快晴
 「大綱金比羅神社」
(10:30)から「興福寺バス停」(12:00)までの一人旅。


(注1:文中で街道の左側、右側とは京都に向っての左右)

 (注2:このページでは、三回分をまとめた形で編集する為、途中経過時間は省略)


「川崎宿(後半)」 ← 「目次」 → 「保土ヶ谷宿」


【神奈川宿】 日本橋から7里(27.5Km)、次の保土ヶ谷宿まで1町9町(4.9Km)、三条大橋へ118里33町(467.0Km)

 天保14年(1843)の人口5,793人、総家数1,341軒、本陣2軒、脇本陣0軒、旅籠屋58軒。 


安藤広重の東海道五拾三次之内・神奈川『臺之景』
台町(後述)から入海を眺めた景色が描かれている。

茶屋の前で下女に袖を引っ張られているのが弥次さんと喜多さんと思われる。
この浮世絵で、海に突き出た黒く高い岬は本牧十二天で我が家のすぐそばである。


現在の台町
後述の「田中家」前の風景
今は、ここから海を望むことは全く出来ない。

 慶長 六年(1601)、日本橋を出て三番目の宿場とした開設され、神奈川湊をもつ宿場として発展。幕末には諸外国の外交の舞台となり、安政元年(1854)日米和親条約が締結された。安政 六年には横浜港が開港し、神奈川宿の寺院は諸外国の領事館になった。

 ペリーが開港をせまり、幕府が応じたのは、神奈川宿より南へ行った当時100戸たらずの漁村・横浜村であった。


【長延寺跡(オランダ領事館跡)】(神奈川通東公園) (右側)
 「京急子安駅入口交差点」を過ぎ、「浦島町交差点」のすぐ先右側の「神奈川通交番」と「大勝軒」の間を右折して、国道15号線(第一京浜国道)から一本右(京浜急行沿線側)の道へ入ると、「上台橋」に至る約4Kmが『神奈川宿歴史の道』として整備されており、案内板も充実している。
 神奈川宿を過ぎると、その先は『西区歴史街道』へと続く。

 「神奈川通交番」から一本右に入った『神奈川宿歴史の道』の最初の史跡は、京急「神奈川新町駅」前の「神奈川通東公園」内にある長延寺跡(オランダ領事館跡)の標柱と説明板、土居(桝形)説明板になる。

 左上の写真は「神奈川通東公園」。奥の赤い電車が京浜急行で、停車している所が「神奈川新町駅」
 長延寺跡(オランダ領事館跡)】 (神奈川宿歴史の道) (左下の写真)

 「神奈川宿歴史の道」の起点である神奈川通東公園は、寛永八年(1631)から昭和四十年までの三三〇年余の間、浄土真宗長延寺が所在した場所である。長延寺は、開港当時、オランダ領事館に充てられた。当時を偲ぶ狂歌の一節に「沖の黒船歴史を変えて、オランダ領事は長延寺」とある。

 昭和四十年の国道拡幅に伴う区画整理によって、長延寺は緑区に移転し、跡地は公園 となった。

 今は、わずかに旧オランダ領事館跡を示す石碑を残すのみである。

【土居(桝形)】 (神奈川宿歴史の道)

 江戸時代の宿場町の入口には、しばしば桝形がつくられた。本来、桝形は城郭の一の門と二の門の間の方形の地であるが、宿場町では街道の両側から土居を互い違いに突き出すだけの場合もある。

 神奈川宿の江戸方の入口に当たる長延寺前にも土居を互い違いに突出した桝形があった。旧本陣の石井家に伝わる『神奈川宿入口と土居絵図』には、街道両側に高さ二・五mほどの土居が築かれ、その上には七五センチメートルほどの竹矢来を設けている。


【良泉寺】 (右側)
 「神奈川通東公園」からレンガ道を進み、「神奈川新町駅」入口を過ぎて、道が突き当たった所で左の国道に戻るとすぐ良泉寺の山門がある。

 【良泉寺】 (神奈川宿歴史の道)

 良泉寺は海岸山と号し、浄土真宗大谷派に属す。本願寺第八世蓮如上人に帰依した蓮誉(れんよ)が、小机付近の旧街道沿いに草創、慶安元年(1648)入寂したこの寺の第四世良念の代に、徳川幕府より境内地の施入(せにゅう)を受け、現在地に移転したと伝えられる。

 開港当時、諸外国の領事館に充てられることを快よしとしないこの寺の住職は、本堂の屋根をはがし、修理中であるとの理由を口実にして、幕府の命令を断ったといわれる。


【笠(かさのぎ)稲荷神社】 (右奥)
 良泉寺の塀が終わる右角に笠䅣稲荷神社の大きな標柱が立っているので、ここを右折して、京急のガードをくぐると稲荷社が階段の上に建っている。
 本殿の右に横浜市・名木古木指定のイチョウ、その手前にクスノキの大木が、また、本殿対面に二つの祠に挟まれて市有形文化財の板碑がある。

【笠䅣稲荷神社】 (神奈川宿歴史の道
 笠䅣稲荷神社は、社伝によると天慶年間(938~947)に稲荷山の中腹に創祀され、元寇に当たっては北條時宗より神宝を奉納されている。元禄二年(1689)に山麓に移られて、霊験ますますあらたかとなり、社前を通行する者が笠が自然に脱げ落ちるということから笠脱
(かさぬき)稲荷大明神と称された。後に笠䅣稲荷神社と改称され、明治二年に現在地に遷座された。
 また、この神社に土団子を供えれば病が治るとの特殊信仰もある。お礼に粢団子
(ひとぎだんご)を供えるという。
 【板碑】 横浜市指定有形文化財(考古資料) (平成6年11月1日指定)
   寸法 高   172.5センチメートル
       上幅  37センチメートル
       中幅  38センチメートル
       下幅  41センチメートル
 通称「稲荷山」と称した山の麓に位置していましたが、明治初期に現在地に移されました。碑の形態は東部を三角形とし、その下部には二条の深い切り込みが施され、身部は枠線によって長方形に区画されています。身部の上位には阿弥陀如来をあらわす種子「キリーク」を、中位には天蓋を配し、その下位中央には、六字名号「南無阿弥陀仏」の梵字が薬研彫りで力強く刻まれています。
 本板碑は阿弥陀を主尊とする板碑ですが、天蓋を配した六字名号と一対の塔を刻した特異な板碑で、本碑に見られるような変形五輪塔を刻す板碑は極めて少なく、中世の墓制を知るうえで貴重な資料です。
     平成七年三月 横浜市教育委員会

【能満寺】 (右奥)
 笠䅣稲荷神社を後に、京急のガードをくぐったらすぐ右折すると、「神奈川通公園」の隣に能満寺がある。

 

【能満寺】 (神奈川宿歴史の道)

 能満寺は、海運山と号し、古義真言宗に属す。正安元年(1299)内海新四朗光善というこの地の漁師が、海中より霊像を拾い上げ、光善の娘に託していう霊像のことばにしたがって建てたものがこの寺であるとの伝承がある。本尊は高さ五寸(十五センチ)木造坐像の虚空蔵菩薩で、海中より出現したと伝えられる。

 かつては、神名宮の別当寺で同一境内に同社もあったが、神仏分離令で別れ今日に至っている。


【神明宮】 (右側)
 能満寺のすぐ隣に神明宮があるが、社は小さい。

【神明宮】 (神奈川宿歴史の道)

 神名宮の草創についてはいくつかの伝説があるが定かでない。
 『新編武蔵風土記稿 』は別当能満寺の草創と同じ正安元年(1299)の勧請としており、この神社と能満寺が草創当時より極めて密接な関係があったことを伺わせる。

 かつて境内を流れていた上無川に牛頭天王の御神体が現れ、洲崎神社およびこの神社に牛頭天王を祠ったとの伝承もある。また、境内にある梅の森稲荷には、若い女旅人にまつわる哀れな話も伝わる。


【東海道分間延絵図・神奈川宿部分】 (右側)
 神明宮のすぐ先で「神奈川小学校」に突き当り、道は左・右へと桝形に曲がる。

 「神奈川小学校」の東角の塀に『絵図にみる神奈川宿』と称して、江戸後期幕府の道中奉行所が作った『東海道分間延絵図』のうち『神奈川宿部分』がタイル画で掲げてある。下記 「大概書」の説明のように街道筋にあるものを細かく載せており、見ていて楽しい絵図である。また、上無川の説明も掲げられていた。
【上無川】 
 「神奈川」は、鎌倉幕府の執権、北条時宗の発した文書の中にも記されている古い地名であるが、その由来にはさまざまな言い伝えがある。
 その一つとして「江戸名所図会」の上無川の項には「神奈川本宿の中の町と西の町の間の道を横切って流れる小溝で、水が少ししか流れておらず、水源が定かでないため上無川という。カミナシガワのミとシを略してカナガワというようになった」という説が記してある。
 上無川は、現在の神奈川小学校東脇にあったとされているが、関東大震災後の復興計画による埋め立てられ、今では川の姿を見ることはできない。

 【絵図に見る神奈川宿】
 神奈川宿は日本橋を出て三番目の宿場町。右の図は、江戸後期・幕府の道中奉行所が作った「東海道分間延絵図」のうち、神奈川宿の部分である。 図の中央には滝ノ橋が描かれ、この橋の東側に神奈川本陣、西側に青木本陣が見えている。右端は江戸側からの入口で、長延寺が描かれている。左端の街道が折れまがったあたりが台町であり、その崖下には神奈川湊が広がっている。
 開港当時、この図に見られる多くの寺が、諸外国の領事館などにあてられた。

【絵図併に大概書】

 寛政(1789~1801)中、あらたに命を承けて五街道及びそれに付属する道路の若干の絵図を編修した。

 絵図の縮尺は一里を曲尺(かねじゃく)の七尺二寸とし、道路の迂回屈曲は方位に従って真直ぐに伸ばして衡図としたから、国や群の境界、宿や村の区分、河川の源や未派、及び寺院や宮祠の区域、それ以外のことなどは、一層明らかとなったが、これらにはことごとく図の傍に註記し、集落の両堺を道路に接するものは朱の丸印で区分した。

 また、見聞できる範囲の山川、城市、寺観、霊廟、古跡、古墳などで道路の傍にあるものについては、遠近にしたがってつぶさに載せた。かの三山五湖(この場合は富士山、箱根、木曽などの山々や、琵琶湖、浜名湖をさす)を塊視し、杯看するが如きはそうである。

 また大概書というのは、顛末のことを述べて煩縟な諸書、錯綜せる駅路、庶事は、その要事をとり、深くしらべてただし、総目につぶさにのせた。こうして文化三年(1806)の冬にことごとく献上し、幕府の書庫に蔵めた。そしてこれらの完成を報告したところ、また命を受けたから、手写して藳本を作り幕府に栄蔵して後人の参考に備えるのである。その図は、文飾をはぶき、事実を詳しく記した。それ故、必ずしも名文をこととはしていない、また、この絵図の意図は、これを見る人に居ながらにして歩きなれた路を歩いているかのようにすることにある。こいねがわくば、遺脱なかれと思うのみ

     文化丁卯(四年)春正月謹識 (訳文)


【東光寺】 (右側)
 「神奈川小学校」に沿って進むと突き当たりになるので、左折して次を右折する(国道まで出ない)とすぐ右側に東光寺があるが、門は閉まっていた。
 国道から折れ曲がった参道が続いていた。
【東光寺】  (神奈川宿歴史の道) 東国八十八ヶ所十九番札所・武南十二薬師十一番札所
 東光寺は、平尾山と号し、新義真言宗に属す。この寺の本尊はもと太田道灌の守護仏であったが、道灌の小机城攻略後、平尾内膳がこの仏を賜り、この寺を草創したといわれる。
 また、道灌は内膳に本尊を与えるに際し、「海山をへだつ東のお国より、放つ光はここもかわじ」との歌を詠んだといわれ、この歌が東光寺の名称の由来だとも伝えられる。
 『金川砂子』には街道に面して山門を開く様子が描かれている。


【金蔵院(こんぞういん) (右側) 

 東光寺の先で再び突き当たりになる。ここを右折して次の突き当たりを左折するとすぐ広い道路(京急「仲木戸」とJR「東神奈川駅」への道)に出るので、これを横断して再び細い道に入ると右側に金蔵院、左側に熊野神社が見えてくる。
 第一京浜国道からは右へ2本目の道になる。
 金蔵院は山門が閉まり、手前に柵があるように、一般公開されていない寺であるが、由緒ある古刹である。




金川砂子

【金蔵院】 (神奈川宿歴史の道) 

 金蔵院は、京都醍醐寺三宝院の開祖勝覚僧正により平安末期に創られた古刹である。その後、徳川家康から十石の朱印地を許された。

 『金川砂子』のこの図には江戸後期の様子が描かれている。参道は街道まで延び、金蔵院・熊野神社が境内に並び立っている。本堂前には徳川家康の「御手折梅」と称された梅の古木が描かれている。かつては毎年一月に当院の住職が、この梅の一枝をたずさえて登城するのがならわしであったという。


【熊野神社】 (左側)
 金蔵院の向かいから入れる熊野神社の入口は裏口で、正面入口はもう一本国道寄りの道になる。
 国道寄りに建つ鳥居の左右に大きな狛犬が鎮座し、鳥居の正面に本殿、左手に立派な舞殿、本殿の右奥にイチョウの古木がある。




金川砂子
【熊野神社】 (神奈川宿歴史の道) 

 熊野神社は、平安末期に紀伊の熊野権現を祀り「権現様」として親しまれている。もと権現山(辛ヶ谷山上)にあったが、江戸中期に金蔵院境内に移り神仏分離令により金蔵院から分かれた。
 『金川砂子』のこの「夜宮祭礼」図は、江戸後期の神社のにぎわいを描いている。社殿の脇の舞台では神楽が演じられ、参道の東側には囃子屋台が並べられている。

 現社殿は戦後の再建だが、境内には公孫樹の古木が残っている。

【神奈川 熊野神社(熊野権現)御由緒】
社格 郷社(明治十七年四月四日列格)
        御由緒概要
当社の御創建は寛治元年六月十七日(1087年)醍醐三宝院宮勝覚僧正が紀伊国(和歌山県)牟婁郡熊野に坐す熊野権現(官幣大社熊野本宮大社)の神霊を分祀、神奈川権現山(現幸ヶ谷山上)に社祠を創立、神奈川郷の総鎮守として、熊野三社大権現と号し奉る。
口碑によれば、後三年の役に、源義家公社参せられ、帰路再び当地に立寄られ、この地を幸ヶ谷と名付けられたと伝へられる。 その後応永五年、山賊等のため社祠を焼かれ、僅に草祠ばかりが存していたが、 明応三年六月(1494年)上田蔵人が普請奉行となり、宏荘なる社殿が再建せられた。また、永正七年六月二十日(1510年)、権現山合戦の砌、兵火に罹り、烏有に帰してしまった。次で天正五年六月(1577年)時の別当恵賢僧都等が相はかり社殿を建立し奉る。
天正十年七月、徳川家康公北条氏を御坂黒駒に討ち給いし時、別当が社前に傳し秘法を修し奉りしことなど、徳川家との関係深く、別当金蔵院に武州小机領神奈川郷の内、御朱印高十石を賜ったので、代々登城し、御祈祷の宝牘
(ほうとく)(おふだ)を献上し奉ったと伝へられる。 その後、正徳二年六月(1712年)山上が逐次崩壊により、別当金蔵院の現地へ遷し奉り、 旧地には小祠を安置し、社地三反八畝十歩を有していたが、明治四年之を上地す。 慶応四年一月七日(1868年)神奈川大火により烏有に帰したが、逐次再建整備し、明治十七年に郷社に列せられ、明治四十年四月、神饌幣帛料供進社に指定せらる。昭和十一年鉢八月御鎮座八百五十年祭を斎行、二十数台の山車が町内を巡行し、盛大なる祭礼が繰りひろげられた。
昭和二十年五月二十九日戦災により焼失、剰え境内地をも駐留軍に接収せられたるため、やむを得ず西神奈川一丁目(二ッ谷町共有地)に遷座、仮殿にて奉祀す。 同二十七年八月宮神輿を奉製、その後接収解除となり、再建復興に努め、 同三十八年八月、現社殿を完成、遷座祭を奉仕し、玉垣、社務所を整備、翌三十九年八月、竣工奉祝祭を執行した。その後、四十一年十一月、地区内戦没者慰霊碑を建立、同四十九年八月再建十周年記念事業として舞殿並に氏子会館の増改築工事を完成した。昭和六十一年、御鎮座九百年祭に当り、記念事業奉賛会を結成し、氏子二十四ヶ町の氏子並に崇敬者各位の熱誠奉仕により、御社殿の修復、手水舎の新築、神輿庫の修理増築、参道敷石、氏子会館の修理、裏門〆柱等を完成し、社域の整備を達成した。謹んで御事歴の概要を誌し奉る次第であります。



【狛犬】
 石造大獅子
 嘉永年間
 鶴見村石工 飯島吉六作


【高札場】 (左側)
 金蔵院熊野神社の間の道を2ブロック進んだ左側「神奈川地区センター」の前に、復原された高札場が建っている。
 高札は二段に掲げられ、上段二枚のうち右に「高札と高札場」の説明文が、左に「定」の復元文が書かれていて、下段三枚には何も書かれていなかった。
 またこの前の通りは松並木となっている。

【高札場】 (神奈川宿歴史の道)

 高札場は、幕府の法度や掟などを庶民に徹底させるために設けられた施設です。宿場の施設としては重要なものでしたが、明治に入り情報伝達の手段が整うにつれて、やがて姿を消しました。
 かつて神奈川宿の高札場は、現在の神奈川警察署西側付近にありました。
 その規模は、間口約5m、高さ3.5m、奥行155mと大きなものでした。
 この高札場は、資料をもとに復原したものです。

【高札と高札場】
 神奈川宿のほぼ中央、滝ノ川のすぐ脇に高札場があった。

 高札場は、幕府の定めた法度や掟などと呼ばれる法令を庶民に徹底させるために設けられた施設である。高札と呼ばれる板に、キリシタン禁令、道徳的規範など、さまざまな事項を書いてこれを掲示し、風雨を避けるための屋根をかけた施設を作っていた。

 神奈川宿の高札場は、横5.7m×奥行1.7m×高さ 3.5mほどの大きなもので、当時の寸法通りに復原したのがこの高札場である。復原の根拠に使用した史料は神奈川宿の本陣を勤めた石井家に伝わった文献で、江戸時代末期に高札場が損傷したためこれを作り直した際、材木の寸法等を詳細に書き出したものである。これをもとにして当時の姿を再現した。


【成仏寺】 (右側)
 松並木を進むと高札場から程なくの所に成仏寺がある。
 門の前左手には「史跡 外國宣教師宿舎跡」(昭和二十九年四月建)の石碑が建っている。

 

【成仏寺】 (神奈川宿歴史の道)
 成仏寺は、鎌倉時代の創建と伝えられる浄土宗の寺である。徳川三代将軍家光の上洛に際し、宿泊所の神奈川御殿造営のため 寺地が現在地に移された。

 安政六年(1859)の開港当初はアメリカ人宣教師の宿舎に使われ、ヘボンは本堂に、ブラウンは庫裏に住んだという。ヘボンはヘボン式ローマ字で知られ、日本最初の和英辞典を完成 した。またブラウンは聖書や賛美歌の翻訳に尽力した。


【慶雲寺(うらしま寺)】 (右奥)
 「滝の川公園」を右に見て「滝の川」にぶつかったら、右折し京浜急行のガードをくぐるとすぐ右手に慶運寺がある。



 門前右側に、亀の背中に「竜宮伝来 浦島観世音 浦島寺」と刻まれた浦島寺碑(上の写真)と「フランス領事館跡」の碑が建っている
 
門を入った右手に「浦島太郎伝説関係資料」と題する説明文が掲げられ、左手のお堂の横に浦島親子塔(下の写真)が建っている。
 浦島父子塔の正面には「父 浦島大夫 廟所  子 浦島太良 齢塚 當山在」、左側面には「濠和天皇 勅願所 古跡」、右側面には発起人の名前が刻まれている。
 (前第4回「川崎宿・後半」の蓮法寺も参照)

【慶運寺】 (神奈川宿歴史の道) 

 慶雲寺は、室町時代に芝増上寺第三世音誉聖観(おんよしょうかん)によって開かれた。京の連歌師谷宗牧は、『東国紀行』の天文十四年(1544)三月三日の条に「ほどなくかな川につきたり、此所へもこづくへ(小机)の城主へいひつけられ、旅泊慶雲寺にかまへたり」と書いている。開港当初はフランス領事館に使われた。

 また、浦島寺とも呼ばれている。浦島太郎が竜宮城より持ち帰ったという観音像など浦島伝説にちなむ遺品が伝わっている。

【浦島太郎伝説関係資料】 横浜市地域有形民俗文化財(平成七年十一月一日登録)
 横浜市神奈川区にも伝わる浦島太郎伝説は、観福寿寺に伝えられていた縁起書に由来すると考えられますが、同寺は慶応四年(1868)に焼失したため、縁起の詳細については確認できません。 しかし、『江戸名所図会』『金川砂子』などの文献には縁起に関する記述がみられます。
 それらによると、相州三浦の住人浦島太夫が丹後国(現在の京都府北部)に移住した後、太郎が生まれた。太郎が二〇歳余りの頃、燈の江の浦から龍宮にいたり、そこで暮らすこととなった。 三年の後、燈の江の浦へ帰ってみると、里人に知る人もなく、 やむなく本国の相州へ下り父母を訪ねたところ、三百年前に死去しており、武蔵国白幡の峯に葬られたことを知る。これに落胆した太郎は、神奈川の浜辺より亀に乗って龍宮へ戻り、再び帰ることはなかった。そこで人々は神体をつくり浦島大明神として祀った、という内容です。
 この浦島伝説が伝わっていた観福寿寺の資料は、同寺とゆかりの深い慶運寺(本寺)と、大正末期に観福寿寺が所在した地に移転してきた蓮法寺(神奈川区七島二十一番地)に残されています。
 慶運寺に移された浦島観世音は、浦島太郎が龍宮から玉手箱とともに持ち帰ったとされるもので、亀の形をした台座の上に「浦島寺」と刻まれた浦島寺碑や浦島父子塔とともに、浦島伝説を今日に伝えるものです。
     横浜市教育委員会


【浄龍寺】 
 慶運寺を後に、先ほど成仏寺を出て「滝の川」に出会った所まで戻ると「別所板金工業所」があり、その角に案内柱が立っている。
 上部に『←神奈川宿・歴史の道の松並木』、『↓慶運寺』、『→神奈川の台場跡』の方向を示し、真中に周辺地図、下部に『滝の川公園』と書かれていた。
 「別所板金工業所」のすぐ先で二股道が現れ、台場跡へは左の道へ進むのであるが、ここで「滝の川」の反対側にある浄龍寺神奈川の大井戸宗興寺を見学するため寄り道をする。

  二股道を右に行くと「滝の川」に架かる橋があるので、これを渡ったらすぐ右折すると突き当りに浄瀧寺がある。
 その門前左側に「史跡 イギリス領事館跡」の石碑が建っている。

【浄瀧寺】 (神奈川宿歴史の道)
 浄瀧寺は、妙湖
山と号し、日蓮宗に属す。文応元年(1260)妙湖尼は、当時の政治の中心地であった鎌倉に向かう途中に当地に立ち寄った日蓮聖人と遭った。
 法尼は聖人の人格にうたれ、法華経の話を聞いてたちまち弟子となり、自分の庵を法華経の道場とした。
 聖人が「立正安国論」著作し、鎌倉幕府に献策した年でもある。
 また、開港当時は、イギリス領事館に充てられた。

【神奈川の大井戸】 
 橋の所まで戻り、橋とは逆の方向へ右折し、すぐ次の角を左折すると細道の途中右側に神奈川の大井戸がある。

【神奈川の大井戸】 (神奈川宿歴史の道)
 この井戸は、江戸時代には東海道中の名井戸に数えられ、当時は宗興寺を「大井戸寺」と呼ぶほどであったといわれている。

 江戸初期には神奈川御殿に宿泊する徳川将軍のお茶の水に充てられたと伝えられ、また、 開港後には宗興寺に滞在したアメリカ人宣教医シモンズやヘボンもこの井戸水を使用している。

 また、この井戸の水量の増減によって翌日の天気を知ることが出来るといわれ、そのため「お天気井戸」とも呼ばれた。


【宗興寺】 
 神奈川の大井戸の先を右折するとすぐ右側に宗興寺がある。大井戸の後になる。

【宗興寺とヘボン博士】 (神奈川宿歴史の道)

 曹洞宗宗興寺は、上の「神奈川駅中図絵」では権現山の麓に描かれている。

 開港当時、アメリカ人宣教師で医者であったヘボン博士がここに施療所を開いた。これを記念する石碑が境内にたてられている。

 このヘボン博士は「ヘボン式ローマ字」でよく知られ、日本で最初の和英辞典を完成し、聖書の翻訳なども行った。後に、明治学院を創設するなど、我国の教育にも尽力した人である。

【宗興寺】 (上記ヘボンのレリーフの脇に刻まれている説明文)
 1859(安政六)年ヘボンの来日後、まもなく米宣教井DBシモンズが来日、当、宗興寺を宿舎とした。シモンズはその後、明治初年になって横浜市市立大学医学部の前身、十全医院で多数の外科手術を行い、子弟を教育した。また虫下しセメン円でも有名である。
 米宣教師ネビウスも一時宗興寺を宿舎とした。シモンズ、ネビウスが当寺を去ったあと、1861(文久元)年四月から九月まで宗興寺はヘボンの施療所となった。ヘボンは成仏寺からここへ通い、多数の患者を無料で診察し、入院患者もあった。
 ヘボンのレリーフは幸ヶ谷在住の斉藤由蔵氏の善意で作られたものである。
     昭和五十一年十二月


【神奈川台場公園】 (左奥)
 宗興寺を出て左へ、「滝の川」の突き当たりを右折して、第一京浜国道に出たら左折、橋を渡って国道を東京方面に戻る。
 すぐ先の「神奈川署前交差点」で国道を右へ渡って、そのままコンビニの横を直進する。(前述の二股道を左に取ると、この交差点に出てくる。)
 突き当りを右折し、次の道を左折すると程なく神奈川台場公園に到着する。

 公園入口に『地下に眠る神奈川台場』と『西取渡り道の発掘調査』と題する説明板が掲げられていた。

【地下に眠る神奈川台場】 
 神奈川台場は、江戸時代末、横浜開港の翌年(1860年)に完成した、海上警備のための砲台です。沖合いに造られた人口の島に14基の大砲が据え付けられ、東西2本の取渡り道で陸と結ばれていました。現在は大部分が地下に埋もれています。

【神奈川台場跡】 (左奥)
 台場公園から更に海の方へ進み、突き当りを右折、次の突き当りを左折すると、三つ目の突き当たりに神奈川台場跡の石碑が建っている。

 上述の如く、砲台の大部分は地下に埋もれているとのことだが、左の写真で、うしろに写っている石垣が数少ない露出した部分である。

【神奈川台場跡】
 安政六年(1859)五月、幕府は伊豫松山藩に命じ、勝海舟の設計で海防砲台を構築した。
 当時の台場は総面積二万六千余平方メートル(約八千坪)の海に突き出た扇形で、約七万両の費用と工期約一年を要し、萬延元年(1860)六月竣工した。
 明治三十二年二月廃止されるまで礼砲用として使われたが、大正十年頃から埋め立てられ、現在では石垣の一部を残すのみとなった。

【神奈川町本陣跡と青木町本陣跡】 (国道の左側)
 神奈川台場跡の前を右へ行き、突き当りを右に曲がると、左側に小さな社の笠間稲荷大明神がある。
 稲荷社の前を過ぎ、次の十字路を左折すると「滝の川」に架かる「綿花橋」がある。この橋を渡り、大通りに出たら右折すると150m先に第一京浜国道の歩道橋が見える。大通りを左折すると「横浜市中央卸売り市場」がある。
 国道の「中央市場入口交差点」手前、国道に向かって右側の歩道上に神奈川町本陣跡と青木町本陣跡の説明板が立っている。

 

【神奈川町本陣跡と青木町本陣跡】 
  慶長6年(1601)、東海道に宿駅・伝
馬の制が定められたとき、市域では神奈川、保土ヶ谷に二宿(戸塚宿はその後の設置)が設けられました。

 神奈川宿は、滝の橋をはさんで、東の神奈川町、西の青木町に本陣ができ、神奈川は石井家 (源左衛門)、青木は鈴木家(源太左衛門)が任命されました。神奈川町本陣跡は、現小野モータースあたり、青木町本陣は、現横浜銀行中央市場支店あたりです。

 本陣は、幕府より指定された大名・公家・役人などの宿泊・休憩する施設です。

     平成3年3月 (社)横浜国際観光協会 横浜市教育委員会文化財課


【洲崎神社】 (右側)
 「幸ヶ谷歩道橋」を渡って国道の右側に行くと「幸ヶ谷小学校」がある。学校の大きな壁面に「お魚フェスティバル」と題した、色鮮やかな海の生物が描かれていた。
 小学校の先、右斜めに入る「宮前商店街」が旧東海道である。

 商店街に入るとまもなく右手に州崎神社の鳥居と奥に石段が見える。
 境内の溶岩石に乗っている小さい狛犬が可愛かった(左の写真)

【州崎大神】 (神奈川宿歴史の道)

 州崎大神は、建久二年(1191)、源頼朝が安房国(現千葉県)一宮の安房神社の霊を移して祀ったことに始まると伝えられている。

 『江戸名所図会』の様子は、今も石鳥居や周囲の地形に偲ぶことができる。神社前から 海に向かって延びる参道が、第一京浜に突き当たるあたり。そこが、かっての船着場である。横浜が開港されると、この船着場は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり、付近には宮ノ下河岸渡船場と呼ばれる海陸の警護に当たる陣屋も 造られた。


【普門寺 (右側)
 州崎神社のすぐ先に普門寺の石柱が立っていて、坂道を登った所がお寺だろうが、どう見ても一般の民家にしか見えず、お寺の雰囲気は奥の墓地しかなかった。

【普門寺】 (神奈川宿歴史の道)
 普門寺は、洲崎山と号し、真言宗智山派に属す。山号の洲崎は洲崎大神の別当寺であったことにより起こった。また、寺号の普門は洲崎大神の本地仏である観世音菩薩を安置したことより、 観世音菩薩が多くの人々に救いの門を開いているとの意味である普門とされたと伝えられている。
 江戸後期には、本堂・客殿・不動堂などの建物を持ち、開港当時はイギリス士官の宿舎に充てられた。

【甚行寺】 (右側)
 普門寺のすぐ先の右に入る路地があり、そこを入った所に甚行寺がある。
 山門の右脇に「史跡 フランス公使館跡」の石碑が立っている。

【甚行寺】 (神奈川宿歴史の道)
 
甚行寺は、真色山と号し、浄土真宗高田派に属す。明暦二年(1656)第一世意圓上人が本山専修寺の第十四世尭秀上人を招いて、この寺を草創したと伝えられる。
 開港当時、本堂は土蔵造であったが、改造を加えてフランス公使館に充てられたといわれている。
 大正十二年の関東大震災には全ての建物を倒壊焼失し、さらに昭和二十年の横浜大空襲にも再度全焼した。その後、昭和四十六年に本堂・客殿を鉄筋コンクリート造で再建し、現在に至っている。

【神奈川駅と青木橋】 
 300mの短い「宮前商店街」が終わり、大通りに出たら右折すると鉄道の線路(JR東海道本線・横須賀線・横浜線・京急線)を跨ぐ「青木橋」がある。その橋の袂に趣がある京急「神奈川駅」があり、出入口の前に神奈川宿歴史の道と題した『東海道分間延絵図』と『現代絵図』を併記した説明文が掲げられている。
 ちなみに、「宮前商店街」から出た大通りは、線路の反対側から来た国道1号線で別名『第二京浜国道』と呼ばれ、今まで歩いてきた旧東海道の国道15号線は『第一京浜国道』と呼ばれている。共に大通りに出た右手の三叉路(青木通交差点)でこれらの呼称と15号線は終点となる。
 国道1号線は、横浜駅東口前を通り高島町で西に折れて保土ヶ谷で一緒になるまで、出会ったばかりだが「青木橋」を渡ると、しばらくお別れとなる。

神奈川宿歴史の道】 (神奈川宿歴史の道)

  東海道五十三次の日本橋よりかぞえて三番目が神奈川宿である。この地名が県名や区名の由来であり、またここが近代都市横浜の母体でもあった。上図は、江戸幕府の道中奉行が作った『東海道分間延絵図』である。図の中央に滝ノ橋、この橋の右側に神奈川本陣、左側に青木本陣が描かれている。折れ曲がったあたりが台町である。

 ここ神奈川駅は、折れ曲がった道のすぐ右にあたる。明治五年の鉄道開通の際に設けられた神奈川停車場はすぐこの南側に位置していた。そのため神奈川駅は神奈川宿の名前を今でも残している。 平成四年の改築にともない、京浜急行の協力のもと、神奈川宿歴史の道にふさわしい和風で瀟洒なデザインの駅舎に生まれ変わった。

 ここ神奈川が一躍有名になったのは安政元年(1854)の神奈川条約締結の舞台となってからである。開港当時、この図にみられる多くの寺が諸外国の領事館などに充てられた。

 神奈川宿歴史の道はほぼこの図の範囲を対象に、東は神奈川東公園から西は上台橋に至るおよそ四キロの道のりとなっている。


【本覺寺】 (右上)
 「青木橋」を渡ると正面右上の高台に本覺寺が見える。

 国道1号線の「青木橋交差点」を渡り、石垣の前を少し左に行くと、すぐ右上に戻るような急坂がある。
 旧東海道はそのまま左へ進み、斜めの道へ入って行くのであるが、右坂上の本覺寺・三宝寺・高島山公園等を見学するために寄り道をする。

 急坂を登り、真っ直ぐ方向の階段をあがると本覺寺の山門に辿り着く(左下の写真)
 山門手前右側に『史跡 アメリカ領事館跡』の石碑、その後に、横浜開港之首唱者『岩瀬肥後守忠震顕彰碑』、更に『不許葷酒入山門』の石柱が立っている。
 山門をくぐると正面に立派な本堂、左手に鐘楼、本堂の左後の墓地の中に涅槃像がある。
 また、山門をくぐった左後は広い駐車場で、そこから「青木橋」とその後ろに大きなビルが立ち並んでいる現代の風景が見られるが、開港時代は横浜の湾内を見通すことが出来たと云う
(左上の写真)

 【本覺寺】 (神奈川宿歴史の道) 

 本覺寺は、臨済宗の開祖栄西によって、鎌倉時代に草創されたと伝えられる。 もとは臨済宗に属していたが戦国期の権現山の合戦で荒廃し、天文元年(1532)に陽廣和尚が再興し、曹洞宗に改めた。

 開港当時、ハリスは自ら見分け、渡船場に近く、丘陵上にあり、横浜を眼下に望み、さらに湾内を見通すことができる本覺寺をアメリカ領事館に決めたという。

 領事館時代に白ペンキを塗られた山門は、この地域に残る唯一の江戸時代に遡る建築である。

 山門の上部を見上げると唐獅子の彫り物などに、白いペンキが少し残っているのを今でも見ることが出来る。


【三宝寺】 (右上)
 本覺寺を出て、再び坂を登って行くとその途中左側に三宝寺がある。
 門前に仏像が並んでおり、寺はコンクリート造りである。

【三宝寺】 (神奈川宿歴史の道)

  三宝寺は、瑠璃光山と号し、浄土宗に属す。慶長二年(1597)に寂した嘆誉和尚の草創である。

 弘法大師の作と伝えられる薬師如来立像を本尊としていたが 、関東大地震で被害を受け、第二次大戦で焼失した。現在の本尊は、その後、東京芝の大本山増上寺より遷座したものである。

 当時で忘れてならない人物として、第二一世弁玉和尚がいる。和歌を橘守部・岡部東平に学んだ弁玉は、江戸末期から明治初期にかけて活躍した歌人である。


【鉄道の開通と埋立】 (右上)
  三宝寺から更に急な坂を上りきった左側のフェンス前に鉄道の開通と埋立と題する説明板が立っていて、明治初年に写した横浜駅方面の写真が載っていた。
 現在では、この高台からでも高層ビルにさえぎられて港はおろかMM21地区も望むことが出来ない。

【鉄道の開通と埋立】 (神奈川宿歴史の道)
 上図は明治初年に当地付近から横浜駅西口・高島町方面を写した写真である。青木町から野毛浦まで弓なりに延びる埋立地が高島嘉右衛門が請負った鉄道用地である。湾の付け根をショートカットして、鉄道を通した様子がよくわかる。今は横浜一の繁華街である西口あたりは、当時は海の中であった。
 今では、西口は勿論のこと、二十一世紀に向けて開発が進む「みなとみらい二一地区」を一望にでき、未来に向かって発展する横浜の街と港の眺望を楽しむことができる。

【高島山公園】 (右上)
 急坂を登りきった、上記説明板の所を右折するとすぐ二段になっている高島山公園があり、公園内下段に望欣台の碑、上段に弁玉の歌碑が建っている。
【望欣台の碑と弁玉の歌碑】 (神奈川宿歴史の道) 

 この丘は、高島山と呼ばれている。高島嘉右衛門が別邸を営んだためにこう呼ばれる ようになった。

 鉄道用埋立地などの事業の後、嘉右衛門がこの丘に閑室を設け港内の繁栄と事業の功績を望み、欣然として心を慰したことから望欣台と名付けられた。

 高島山公園には、明治10年に立てられた嘉右衛門を顕影する「望欣台の碑」が今も残っている。

 また、「弁玉の歌碑」もある。三宝寺の住職であった大熊弁玉は長歌をよくし、横浜の幕末から明治初期の文明開化を歌に残している。

 望欣台の碑 横浜市地域史跡(平成2年11月1日登録)
 
望欣台の碑は、横浜の年形成期における恩人の一人である高島嘉右衛門を顕彰する碑(明治十年建立)です。嘉右衛門は、高島学校などの洋学校の創設・経営や瓦斯事業、高島町埋立などの土木事業のほか、洋館の建築、港座(洋式劇場)の経営など多方面に貢献しました。港内の繁栄と事業の功績を望み、ひとり欣然として心を癒したということから、この高島台の高台を望欣台ということです。
 碑は、現在、高島山公園にありますが、もとは近くの高島邸にあったものです。
   碑高  二八五・〇センチメートル
   碑幅  一五〇・〇センチメートル
   碑厚    三〇・〇センチメートル
     平成二十五年三月 横浜市教育委員会
 【弁玉歌碑】 横浜市地域史跡(平成4年11月1日登録)
     寸法  碑高 二四六cm
          碑幅 一五三cm
          碑厚   十五cm
 この碑は、幕末・明治初期にかけて、神奈川三宝寺の住職であった歌人弁玉の歌碑兼顕彰碑です。
 弁玉は、文政元年(1818)江戸浅草俵町に大熊卯八の四男として生まれています。天保元年(1830)十三歳で江戸下谷の清徳寺大潮のもとで得度し、下総国飯沼の弘経寺で修業したのち、芝の増上寺に入り、嘉永三年(1850)三宝寺の住職に転じ、以後、明治十三年に没するまで神奈川の人となっています。
 和歌は、橘守部、岡部東平、普門寺瓊音
(けいおん)などに学んだ。とくに長歌に秀れ、文明開化初期には、石鹸玉、伝信機などの新事物を巧みに捉えて長歌にうたい注目されています。また、明治十年、横浜の発展に尽くした高島嘉衛門の功績を称え建立された「望欣台碑」の碑文を揮毫し、文明開化の期の横浜の発展経路を明確に伝えています。
 長歌集「由良牟呂集」は、明治十二年(1879)弁玉が没する一年前に門人によって出版されています。
 文明開花期の横浜の発展を知るうえで貴重な資料です。
     平成五年三月 横浜市教育委員会

【東横フラワー緑道と旧東海道】 
 寄り道を終えて坂道を下り、「青木橋交差点」まで戻る。その先すぐ、斜め右に入る道が旧東海道。
 旧道に入ってすぐ、右手にフェンスの門とその奥に高島山トンネルが見える。この道は東横フラワー緑道と言う、今は「東白楽駅」から地下にもぐってしまった東急東横線の跡地である。

【東横フラワー緑道】
 『東横フラワー緑道』は、平成16年(2004年)2月の「みなとみらい線}の開通に伴い、「東急東横線」が地下化されたことから、その上部を緑道として整備したものです。
 「東急東横線」の「丸子玉川~神奈川間」は、大正15年(1926年)に開通し、地下化までの約80年間、電車が走る風景は地域の人々に親しまれてきました。ここ台町に「神奈川駅」、広台太田町には「新太田町駅」がありましたが、昭和20年(1945年)の空襲で焼失、その後廃止されました。現在、二ツ谷公園からは、電車が地下に潜っていく様子を見ることができます。

【大綱金毘羅神社】 (右側)
 東横フラワー緑道からマンションを挟んだ隣に大綱金比羅神社の石段がある。
 40段ほどの石段を登った左方向にこじんまりした金比羅宮が、また境内にある池の奥の洞穴に弁才天が祀られて、蝋燭の光で神秘的に浮かび上がっていた。

 また、神社前に一里塚が置かれていたと言うが、今は何も無い。

 

【大綱金比羅神社と一里塚】 (神奈川宿歴史の道) 

 この神社は、社伝によると平安末期の創立で、もと飯綱社といわれ、今の境内後方の山上にあった。その後、現在の地へ移り、さらに琴平社を合祀して、大綱金毘羅神社となった。かつて眼下に広がっていた神奈川湊に出入りする船乗り達から深く崇められ、大天狗の伝説でも知られている。

 また、江戸時代には、神社前の街道両脇に一里塚が置かれていた。この塚は日本橋より七つ目に当 り、土盛の上に樹が植えられたおおきなものであった。


【台町】 (左側)
 大綱金比羅神社の次の左角に昭和22年創業の滝川があり、その塀に安藤広重の浮世絵(モノクロ)が掲げられ、『東海道中膝栗毛』の一遍が記載されている。
【神奈川 袖ヶ浦】
 たどり行くほどに金川の台(神奈川台町)に来る。爰(ここ)は片側に茶屋軒をならべ、いづれも座敷二階造、欄干つきの廊下、桟などをわたして、浪うちぎはの景色いたってよし。
   十返舎一九「東海道膝栗毛」より


 滝川のすぐ先に、文久三年(1863)創業の田中家
(たなかや)がある(下の写真)
 広重の浮世絵(『東海道五拾三次之内 神奈川』・上記【神奈川宿】参照)に二階建ての旅籠として描かれている「さくらや」が、この田中家の前身とのことで、江戸時代から150年、唯一現存する料亭である。
 また、坂本龍馬の妻、おりょうが龍馬暗殺後、仲居として働いていたこともあり、龍馬からの恋文も現存している。また、西郷隆盛・高杉晋作・米総領事ハリス・伊藤博文・夏目漱石等の著名人が数多く訪れていて、多くの記念の品や写真を利用者は拝見することが出来る。
 田中家の塀にも「歴史の街・神奈川宿」と題した資料が掲げられ、広重の浮世絵と明治・大正時代の田中家の写真も載っている。

【神奈川宿】
 神奈川宿は日本橋を出て三番目の宿場町です。現在の台町あたりは、かつての神奈川湊を見おろす景勝の地でした。この神奈川が一躍有名になったのは、安政元年(1854年)の神奈川条約締結の舞台となったからです。その四年後に結ばれた日米通商条約では神奈川が開港場として決められていましたが、後に横浜に変更されました。
【田中家】
 神奈川宿がにぎわった当時から続く唯一の料亭が、文久三年(1863年)創業の田中家です。
 田中家の前身の旅籠「さくらや」は安藤広重の「東海道五十三次」にも描かれた由緒正しき店名です。高杉晋作やハリスなども訪れました。
【坂本龍馬の妻「おりょう」】
 「おりょう」が田中家で働き始めたのは明治7年。勝海舟の紹介で働いたと伝えられます。英語が話せ、月琴も弾くことができた「おりょう」は、外国人の接待に重宝されました。


 田中家のすぐ先、右側に神奈川の台と茶屋と題した説明板が立っている。

【神奈川の台と茶屋】 (神奈川宿歴史の道)
 ここ台町あたりは、かつて神奈川の台と呼ばれ、神奈川湊を見下ろす景勝の地であった。
 弥次さん、喜多さんが活躍する『東海道中膝栗毛』にも、「爰は片側に茶店軒をならべ、いづれも座敷二階造、欄干つきの廊下、桟などわたして、浪うちぎわの景色いたってよし」とある。 「おやすみなさいやァせ」茶屋女の声に引かれ、二人はぶらりと立ち寄り、鯵をさかなに一杯ひっかけている。
 上図の「櫻屋」が現在の料亭田中屋のあたりだといわれている。

【神奈川台の関門跡】 (右側)
 坂を上りきった右側に神奈川台関門跡の石碑と、ここ袖ヶ浦を歌った歌碑が建っている
 石碑には、かつての横浜市長・飛鳥田一雄の題字『神奈川台関門跡』、神奈川県知事長洲一二の題字『袖ヶ浦見晴所』が刻まれている。
 説明文には、当時の関門の写真が添えられていた(下の写真)
 また、ここは『わが町 かながわ 50選』にも選ばれている。



【神奈川台の関門跡】 (神奈川宿歴史の道)

 ここよりやや西寄りに神奈川台の関門があった。開港後、外国人が何人も殺傷され、イギリス 総領事オールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難した。幕府は、安政六年(1859)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が作られた。そのうちの西側の関門が、神奈川台の関門である。明治四年(1871)に他の関門・番所とともに廃止された。

【歌碑】
 思いきや 袖ヶ浦波立ちかえり こに旅寝を重ねべしとは


【上台橋】 
 神奈川台関門跡から坂を下ってゆくと、横浜駅西口から国道1号線に繋がる道路の上に架かる上台橋に出る。
 この橋の左詰めに、「神奈川通東公園」から始まった『神奈川宿歴史の道』の最後の説明板が『東海道分間延絵図』と『現代絵図』を併記して立っている。

【神奈川宿歴史の道】
 東海道五十三次の日本橋よりかぞえて三番目が神奈川宿である。この地名が県名や区名の由来であり、またここが近代都市横浜の母体でもあった。上図は、江戸後期に幕府の道中奉行が作った『東海道分間延絵図』である。 図中央に滝ノ橋、この橋の右側に神奈川本陣、左側に青木本陣が描かれている。右端は江戸側からの入口で長延寺が描かれ、左寄りの街道が折れ曲がったあたりが台町である。この上台橋は左端に当たる。台町の崖下には神奈川湊が広がっている。
 かつてこの上台橋のあたりは、潮騒の聞こえる海辺の道であった。切り通しの道路ができるとともに、昭和五年ここに陸橋が架けられた。
 この神奈川が一躍有名になったのは安政元年(1854)の神奈川条約締結の舞台となってからである。その四年後に結ばれた日米修好通商条約では神奈川が開港場と決められた。開港当時、この図に見られる多くの寺が諸外国の領事館などに充てられた。
 神奈川宿歴史の道はほぼこの図の範囲を対象とし、上台橋から神奈川通り東公園に至るおよそ四キロの道のりとなっている。

【勧行寺】 (右奥)
 上台橋を渡り、下りも緩やかになった十字路で右奥を見ると「沢度中公園」が見える。
 その先で、大通り(環状1号線)に接するような三叉路に出たら、旧東海道は左折して大通りを右に進む。
 この三叉路の右側に案内柱が立っていて、戻る方向に「上台橋」、左折方向に「西区歴史街道」、直進方向に「勧行寺」と案内されていた。また、左側の石柱には「旧東海道・西区歴史街道」の表示と大通りへの矢印と地図が記されていた。
 この三叉路すぐ手前で横浜市神奈川区から西区に入り、旧東海道の「西区歴史街道」は追分まで続く。

 ここで勧行寺に寄り道することにした。
 三叉路を直進するとすぐ右手に「軽井沢公園」があり、「首都高速神奈川2号三ツ沢線」の下を公園に沿って右折すると軽い坂を登った突き当たりに勧行寺がある。
 境内に入ってすぐ左手には横浜市・名木古木指定のイチョウの大木
(左の写真)、左手には立派な鐘楼が建っている。本堂は近代的な造りとなっていた。

 2002年の時は、大通りに出ないで「軽井沢」公園の前の道を「浅間下交差点」までこのまま進んだが、こちらの道のほうが静かで良かった。
 2013年は、勧行寺から三叉路に戻って、「浅間下交差点」まで大通りを進んだが、途中見るべきものは無かった。ただ、勧行寺の石標と細い参道は大通りからもあった。

【西区歴史街道】 
 「浅間下交差点」の手前右側に旧東海道・西区歴史街道の地図と説明板が立っている。

   【西区歴史街道】
 ~西区は道の交差点、すべての道は開港へ~
 西区は、昭和19年4月1日に、中区から独立して誕生しました。今から250年ほど前までは、現在の西区の区域は、芝生村(しぼうむら)と戸部村(とべむら)が、東海道の景勝地である「袖ヶ浦」という三角形の内海をはさんで成り立っていました。神奈川宿台町から見た景色は、たいへん美しく、「武蔵国第一の景」と言われるほどでした。
 宝永4(1707)年の富士山大噴火による降灰の影響等で海が浅くなり湿地帯になっていくと、18世紀以降、埋め立てによる新田開発が進められ、「宝暦新田」「平沼新田」「岡野新田」などが造成されました。その結果、150年ほど前の「袖ヶ浦」は、畑と塩田の風景に変わりました。なお、「横浜道」ができるまでは、神奈川から開港場へは州崎神社から渡し船によっていました。
 西区には「東海道(とうかいどう)」「横浜道(よこはまみち)」「保土ヶ谷道(ほどがやみち)」という三つの古道が通っていました。
 江戸時代の大動脈であった「東海道」は、江戸方からは袖ヶ浦の海岸に沿って、神奈川宿台(現、神奈川区台町)の坂を下り、大通り(環状1号)に出て勧行寺の前を通り、浅間下交差点を横切って浅間下公園の中を抜け、浅間神社へと続いていました。そして、追分、現在の松原商店街を通り、天王町、帷子町を経て保土ヶ谷宿へとつながっていました。
 わが国は、安政(1859)年に開港し、横浜村(現在の関内地区)に開港場が築かれました。そのとき、東海道と開港場を結ぶために作られたのが「横浜道」で、初めは「しんみち」と呼ばれていました。浅間下交差点近くの薬局横が起点で、岡野・平沼新田の埋立地と海面の境に盛土して道とし、帷子川、石崎川の河口に「新田間橋」「平沼橋」「石崎橋(現敷島橋)」が架けられました。戸部からは野毛山に切り通しを開き、都橋、吉田橋関門を経て開港場に至っていました。
 また、「保土ヶ谷道」は、保土ヶ谷宿と戸部村を結ぶ古道で、現在の保土ヶ谷区岩間町大門通り交差点で東海道と分かれ、鉄道線路をこえて安楽寺(保土ヶ谷区西久保)から左折、藤棚商店街を通り、願成寺の下の道を通り「暗闇(くらやみ)坂」を抜け、伊勢崎商店街から「横浜道」に合流していました。
 開港場をめざして全国から集まる人々や物資は、この西区内の三つの古道をひんぱんに行き交いました。それにともない、わが国に入ってきたさまざまな文化も、これらの道を通って全国に伝えられていきました。重要な役割を果たしてきた三つの古道の周辺には、さまざまな歴史資源が残っています。
     2004年3月設置 西区観光協会 西区土木事務所 西区役所

【浅間神社】 (右側)

 「浅間下交差点」を横断歩道で渡ったら、大通りより一本右の細い道が旧東海道になる。
 旧道に入るとすぐ、右手に登りの石段が現れるが、これは浅間神社の裏参道である。正式な表参道入口は、この先120m程進んだ右側にある。

【神殿】
 本殿二階建浅間造にして社殿丹塗総金具付にて元官幣大社浅間大社(静岡県富士宮市)と同様 国宝建造物類似楼閣にて近隣に比類なき構造なり
【由緒沿革】

 元神奈川区浅間町に鎮座し浅間町一円の氏神なり、創祀は承歴四年(1080)といわれ、源頼朝公文治元年平家討滅に依るべきを思い且つは戦勝奉賽のため関東一円の社寺修築神馬神田の寄進に及べり、然る処武蔵国橘樹群神奈川在芝生村に富士山の形状の山地あるを卜とし社殿の修築をなし、報賽の至誠を致せる由といふ。来九百余年威嚇灼として遠近を光被し万民均しく渇仰崇敬せり

【社殿・境内整備について】

 浅間神社は承歴四年の創祀より歴史ある古い社であります。明治の大火、関東大震災 により焼失復興と度重なりしが昭和三年御大典記念として御造営せる社殿は惜しくも昭和二十年五月の戦災のために烏有に帰しましたが社殿復興 再建の議が起こり昭和三十三年起工式同三十四年に社殿落成亦境内拡張整備工事に着手 従来の三倍に造成し現在に至りましたが昭和五十七年社殿前崖も急斜面崩壊危険区域に指定され工事着手完成を見るに至り昭和五十八年に社殿及び境内整備の奉賛会が結成され社殿塗装、神輿庫新築、神輿修理、社殿前玉垣裏表参道玉垣工事をなし県下でも類を見ぬ社殿となりました。

 高台にある眺望がいい神社で、昔、境内に横穴古墳群と、ここから富士山まで通じているという人穴があることで有名になったが、今は見ることが出来なくなってしまっている。
 また、狛犬は、両方とも足元に子獅子がじゃれつく可愛いものだった



【浅間神社境内横穴古墳群】
 古墳(今から千七百前頃から千年前頃まで、六、七百年の間につくられた古いおはか)には盛り土をした高塚と自然の丘に横に穴をうがった横穴とが有ります。
 この横穴古墳は宮谷や軽井沢にわたって群在しているもので、神社の境内だけでも十幾つがありましたので標記の名をつけました。その内部は羨門、羨道中のへやを玄室といいますが、このたび神社境内の拡張、整地にあたり、玄室から須恵器の瓶、平瓶などが出ました。
 横穴やそこから出たそれらの物でこの社地は少なくとも千年あまり前、このあたりを開いた有力者が葬られた古いゆかりの地であることを知ることができます。
     昭和三十三年六月一日 神奈川県文化在専門委員

【浅間神社と富士の人穴】
 創建は承歴4(1080)年、富士浅間神社の分霊を祭ったものと伝えられています。旧芝生村(しぼうむら)鎮守。本殿のある丘は袖すり山と呼ばれ、昔は山の下がすぐ波打ち際であったといいます。境内西側の崖には富士山に通じていると伝えられる「富士の人穴(ひとあな)」と呼ばれる古代の横穴墓があり、東海道を往還する人々が見物する名所となっていました。しかし今は、周辺の開発によって見ることもできなくなってしまいました。

 ちなみに、この神社の裏参道の階段は、黒澤明監督の映画「姿三四郎」(1943年)の撮影現場である。
  


【追分】 (右側)
  浅間神社から10分進んだ三叉路の右角(下の写真で黄色い建物の前)追分の標柱が立っている。
 三叉路を直進するのが旧東海道、斜め右へ行くのが八王子街道
 八王子街道は、当HPの「浜街道(絹の道)」参照。

【追分】 (歴史の道)
≪標柱左側面の説明文≫
 追分は一般に道の分岐点を意味しますが、ここ芝生の追分は東海道と八王子道が分かれる場所です。
≪標柱右側面の説明文≫
 八王子道は、ここより帷子川にそって伸び、町田・八王子へと続く道で、安政六年(1859年)の横浜開港以降は八王子方面から横浜へと絹が運ばれるようになり、「絹の道」とも呼ばれています。

     平成15年3月 保土ヶ谷区役所

【松原商店街】 
 追分のすぐ先、右側に「松原商店街組合駐車場」があり、その前に『歴史の道 東海道保土ヶ谷宿周辺散策案内図』が掲げられている(下の写真)
 浅間神社から境木地蔵尊までの『名所地図』と『東海道分間延絵図』が併記され、これからの行程に大変参考となる。保土ヶ谷宿の説明文も載っている。

 保土ヶ谷宿は慶長6年(1601年)に宿駅・伝馬制度が定められると同時に設置され、東海道五十三次、江戸から4番目の宿場町(1601年発足時は川崎宿と戸塚宿は未整備)として栄えました。また、慶安元年(1648年)を境に大改修がされ、道筋がかわりました。初代歌川広重の浮世絵で有名な帷子橋(新町橋)もこのとき架けられました。現在、古道の正確な道筋に関して諸説があり特定されていません。
 この案内図では、本陣跡や寺社、石碑等当時の面影を伝えている史跡を中心に散策できるようご案内さいています。
 保土ヶ谷と保土ヶ谷宿の歴史を感じてください。
     平成16年3月 保土ヶ谷区役所

 ここから、横浜の数ある商店街の中でも有名な「松原商店街」が続く。
 大いに賑わっている商店街の中を少し進むと「松原商店街入口交差点」に出る。今回の旅はここまで。 


 

  5回目の旅終了。「松原商店街入口交差点」。

 今回の記録:街道のみの距離は、4.7Km(子安駅入口交差点~松原商店街入口交差点)
         日本橋から七里二十九町(30.7Km)。
         寄り道を含めた実歩行距離は、 2日で9.9Km(子安駅~興福寺バス停)  総計60.1Km


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