御油宿・赤坂宿 (小坂井駅→本宿駅) <旧東海道29回目>

2004年2月28日(土)晴一時曇り  

 今回も自家用車で出発して、前々回宿泊した豊橋グランドホテルの駐車場に車を置かせてもらい、豊橋の駅ビルで昼食後、JR飯田線で小坂井駅に行き、そこから街道の続きを歩きました。前回終えた小坂井駅の踏切を12:10スタート。

  (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

「二川宿・吉田宿」 ← 「目次」 → 「 藤川宿・岡崎宿(前半)」


【秋葉山常夜灯】 (右側と左側)

  JR飯田線小坂井の踏切を越えてすぐ右側に祠と常夜灯が各1基、その先左側に、祠が2基と常夜灯が3基並んでいます。


【伊奈村立場茶屋 加藤家跡(俗称:茶屋本陣跡)】 (左側) 12:30

 テニスコートの駐車場内にあります。

 今は古井戸(写真の下、金網部分)一つ残すのみ。他に芭蕉句碑・烏巣句碑が一緒に並んでいます。明治天皇もここ加藤家で休憩した。

〔茶屋の地名〕

 東海道吉田宿と御油宿の中間にあたり立場茶屋が設けられたので、茶屋の地名ができた。

〔加藤家と良香散(りょうこうさん)

 茶屋のうち格式の高い加藤家(初代は大林平右衛門)では、「良香散」という腹薬が売られ、この薬は茶屋の地名より有名であった。交通の変遷によって今はこの古井戸一つ残すのみとなった。

〔明治天皇御旧跡〕

 東京遷都の時、明治天皇は、この加藤家で御休憩になられた。その時天皇が使用された箸が、牧野英一氏宅に保存されている。

〔俳人烏巣(うそう) 

 烏巣は、加藤家の生まれで、謙斎といい芭蕉と親交があり、京都で医者をつとめていた。

〔芭蕉句碑〕(芭蕉が烏巣方へ一泊した時の作)

  「かくさぬそ 宿は菜汁に 唐が羅し(とうがらし)

〔烏巣句碑〕

  「ももの花 さかひしまらぬ かきね哉」


【伊奈一里塚跡】 (右側) 12:35

 山本太鼓店の前に石柱のみ 立っています。江戸日本橋ヨリ七十五里。


村社 速須佐之男神社】 (右側)  12:40

 鳥居から本殿までの短い参道両側に色々な形の常夜灯が多数並んでおり、まるで常夜灯の展覧会です。


 佐奈川を渡って豊川市。更に白川、西古瀬川(13:05)と渡ると、左側に朽ちかけた松が1本あり、その下にツクシが沢山出ていました。

 もうすぐ春ですねー ・ ・ ・

 その先の旧東海道は中央分離帯のある道路にさえぎられて真直ぐ渡れませんので、右方の交差点を利用してコの字形に迂回して下さい。「TOTO」の看板のある道が再び旧東海道です。

 ここから色々なガイドブックを見ても分かりにくい道を行きます。

 国道1号線に合流したら左へと坂を上ります。途中左下の畑に50本ほどの小さな梅の木が植っており綺麗に花を咲かせていました。

 坂を上ったら、一つ目の信号を右へ横断し、そのまま真直ぐS字カーブを下ります。この下りカーブは歩道がなく車が多いので注意してください!

 次いで、名鉄の踏切を渡ったらすぐ左折します。そのまま道なりに行き、突き当たったら左折し、再び名鉄の踏切を渡ります。

 国道1号線を地下歩道で渡り反対側(南側)に出たら「ひまわり農協」の前を西へ進むと、すぐユニークな国府交番がありますので、そこを斜め左へ入って行くのが旧東海道です。

 私達は持っていたガイドブックの案内文章に従って「ひまわり農協」の前を南に行ってしまったため、ここで15分ほど道に迷ってしまいました。文章でなく地図を良く見るべきであった。

 国府交番の前を13:57通過。


【国府(こう) 秋葉山常夜灯】 (右側)

 国府交番前の道を入るとすぐあります。

【秋葉山常夜灯】

 形式は神前型、高さ205cm、造立は寛政十二庚申年(1800)村中安全

【秋葉山】

 秋葉山三尺坊大権現はその昔越後国蔵王山より白狐に乗って遠江国秋葉山に飛来したといわれ、火防の霊験あらかたと信ぜられ、江戸時代朝廷、大名、庶民に至るまで、巾広い信仰をあつめた。国府村に於いて村内火難より守るため秋葉山常夜灯を造立したものである。

     平成二年七月二十一日 再建


【御油一里塚跡】 (右側) 14:10

 大社神社のすぐ先、蒲郡信用金庫前の植え込みの中に石柱のみあります。江戸日本橋ヨリ七十六里。


【姫街道追分】 (右側) 14:15

 斜めに横断している道と交差した地点に常夜灯と「秋葉山三尺坊大権現道」という大きな石柱が建っています。

 その左下に小さな木柱で、「三州御油宿 → これより 姫街道 遠州見附宿まで」と書かれていました。

 


【御油宿】 江戸から76里4丁(298.9Km)、京へ48里16丁 人口約 1300人 

 音羽川に架かる御油橋をわたると昔の雰囲気が残る町並みに入ります

安藤広重の東海道五拾三次之内・御油『旅人留女 

 御油はしつっこい留女がいることで有名であった。

 広重の絵にも、手前は風呂敷を引っ張られて苦しんでいる姿、うしろは逃れるのに懸命な旅人が描かれている。弥次さんもこの宿場で同じ目に遭っている。これは御油と赤坂の間が1.7Kmと、東海道の宿場間で最短距離だったことによる。

現在の御油の町並み



 右側の宿の壁に貼ってある文字は、右から彫師、刷師、絵師、版元の名前が書いてある。江戸時代の絵師は、このような遊び心があったとのこと。

 絵師としての広重は、歌川広重と呼ぶのが正しいらしい。

 人物画で有名な歌川豊国に弟子入りしようとしたが、ことわられ、風景画の得意な弟弟子の歌川豊広に弟子入りした。広重の幼名は安藤徳太郎、後に安藤重右衛門と改名した。この重右衛門の「重」と師匠の豊広の「広」を取って、歌川一門なので「歌川広重」と名のった。


【ベルツ花夫人ゆかりの地】 (右側) 14:25

 御油の古い町並みが途切れ車両進入禁止の道に突き当たると、その右角に解説のみあります。

 ベルツ花夫人は、東京の神田で1864年に荒井熊吉とそでとの間に生まれ、江戸・明治・大正・昭和の時代を生きた、御油とはゆかりの深い女性です。

 明治新政府がドイツから招いた日本近代医学の祖と言われるベルツ博士と結婚し、日本とドイツで暮らしました。

 1905年任期を終えたベルツ博士とドイツに渡りましたが、博士が亡くなったため1922年日本に帰国し、1936年74歳で亡くなりました、父親の熊吉の生家が御油宿で、戸田屋という旅籠を営んでいたのがこの場所です。

 また、戸田家の菩提寺である八幡町の西明寺には、花夫人が建立したベルツ博士の供養塔があります。

 今日、多くの日本人が、国際社会で活躍していますが、彼女はその先駆けとなった人物といえます。ベルツ博士は、1876年(明治9)に来日し、東京医学校で医学を教えるとともに、明治天皇の主治医も勤めた医学者で、日本近代医学の祖といわれています。


【高札場跡・問屋場跡】 (右側)

 「ベルツ夫人ゆかりの地」を右折、高札場と問屋場跡の案内板があり、広重の「御油旅人留女」の浮世絵もありました。

【高札場跡】

 高札とは、江戸時代に代官所が町民や旅人に諸規則を知らせるために設置した掲示板です。御油宿では、ここの場所に高札が立てられていた。

     豊川市教育委員会

【問屋場跡】

 江戸時代の宿場町で公用の荷物や人の継ぎ送りに必要な任側や馬を備え、大名や幕府の役人などに人馬を提供し、輸送にあたらせた場所です。

     豊川市教育委員会


【松並木資料館】 (右奥) 14:35〜14:45

 突き当たり郵便局の前を左折するのが御油松並木に続く旧東海道ですが、ここを右折して、新御油橋の手前を左に入ると松並木資料館があります。

 資料館の入口正面に『御油宿と松並木』の解説、左側に大きな古い松の根が展示されており、これにも解説がありました。

〔東海道御油宿との松並木〕

 御油宿は、慶長6年(1601)徳川家康によって、東海道に宿場制が定められ、東海道五十三次の第35番目の宿場として繁栄しました。

 ここから西の、かつて上五井、中上町、仲町、横町、茶屋町と呼ばれたこの通りぞいには、今でも宿場町の面影を残す旧家がみられます。

 また、この御油宿と隣の赤坂宿との間には、慶長9年(1604)に整備された御油の松並木があります。昭和19年に国の天然記念物に指定され、『日本の名松百選』にも選ばれています。

〔舌代〕

 この松の根は、樹齢約三百八十年のものです。慶長九年(1604)徳川家康が東海道に松を植えた最初のものと推定されます。

 松の木肌の亀甲型(正六角形の亀の甲)をよくご覧下さい。これは三河黒松の一大特徴です。

     昭和六十三年四月吉日

 この先の松林で木肌を見ましたが、本当に亀甲型の模様がたくさん見られました。


【本陣跡】 (左側) 14:50

 郵便局まで戻ると、そのすぐさき右側に味噌・醤油屋の店内に弥次さん・喜多さんの人形が飾ってありました。

 また、左側には、だんご・五平餅の茶店「こくや」があり、おやつ休憩したかったが残念ながら本日は休みでした。

 その先に本陣跡があります。本陣の向かいは脇本陣だった。

【本陣跡】

 本陣とは、江戸時代の宿場で大名や幕府役人等が宿泊した公認の宿舎で、御油宿には二軒の本陣があった。

 この場所は、鈴木半左衛門が営んでいた本陣の跡です。

     豊川市教育委員会

 更に、「イチビキ」という醸造会社があり、右側には大きな仕込樽が置いてありました。


【東林寺】 (左側50m入る) 14:52〜15:05

 墓地を入って真直ぐ突き当たりの白壁の前に五基、「飯盛り女の墓」があります。

 東林寺は、室町時代の中頃の永享年間(1429〜1441)に龍月日蔵和尚によって創建され、当初「洞元庵」と呼ばれていました。

 本尊の阿弥陀如来は、鎌倉時代初期の中央仏師の作と推定されています。言い伝えによれば、この如来像は奥州に下る牛若丸(義経)と契りを結んだ三河矢作の浄瑠璃姫の念持仏で、龍月日蔵和尚が当寺に移し、本尊として祀ったとされています。

 また、本寺にある毘沙門天立像、青面金剛立像及び阿弥陀三尊画像、来迎阿弥陀三尊画像も市の文化財として指定されています。

 この寺には、徳川家康が二度も立ち寄っています。

 また、芝増上寺の管長祐天大僧正がたびたび訪れていることからも、当時の隆盛ぶりをうかがい知ることができます。

     豊川市教育委員会


【十王堂】 (左側) 15:10

 町並みが途絶えると御油の松並木が始まります。その入口左側に立派な十王堂があり、横には石碑が並んでいます。


【御油松並木】 

【天然記念物 御油ノ松並木】 昭和19年11月文部省指定

 この松並木は、慶長九年(1604)、徳川家康が植樹させたもので、以来、夏は緑陰をつくり、冬は風雪を防ぎ、長く旅人の旅情をなぐさめてきました。

 当初、600本以上あった松は、長い年月の間に減少しましたが、旧東海道に現存する松並木のうちでは昔日の姿を最もよく残すものとして、第二次世界大戦中の昭和十九年十一月七日、国指定の天然記念物となりました。

 私達は、この松並木が貴重な国民的財産であることを自覚し、後世に伝えるため郷土の宝として愛護しましょう。

     昭和五十五年三月 豊川市

 第二次大戦中にもかかわらず初期のうちに天然記念物の指定をしておいた為、現在でも往時の姿が残っていて良かった。指定されていなかったら戦争末期には代用ガソリンのとして切られていたことだろう。

 松並木が途切れると赤坂宿に入ります。


【関川神社】 (左側) 15:28〜15:32

 樹齢約800年の楠の大木と、芭蕉句碑があります。

  夏の月御油よりいでゝ赤坂や

【関川神社の楠】 天然記念物(昭和56年3月指定)

 由来及び沿革については不明であるが古老の説によると木の根元からえぐれている部分は慶長十四年(1609)の十王堂近所(宮路山登山口の東側)からの出火による火災で約三十戸が焼失しておりその時に火の粉が飛び焼けたものであるといわれている。

 この木は楠としては町内一の巨木で、幹のまわりは目の高さで約7.29m高さ25.7mあり推定樹令は約800年であるといわれています。

     音羽町教育委員会


【長福寺】 (左側) 15:35〜15:40

 境内には音羽町指定天然記念物の「ヤマザクラ」、本堂左手階段上に全体が1本の楠から作られたという観音堂とその周りにかわいい石仏群があります。

【長福寺のヤマザクラ】 音羽町指定天然記念物(昭和55年6月指定)

 この木は、推定樹齢約三百年で、幹の回りは目通り約3.3mあり、町内で一番大きなサクラの古木です。

 この木について、幕末の頃、赤坂の代官所に勤めていた役人の手紙の中に『長福寺の桜も満開になったでしょう。昔、桜を見ながら囲碁をしたことを思い出します』と記されています。

     音羽町教育委員会


 右側に問屋場跡、左側駐車場に本陣址の木柱。更に右側に曲輪(まげわっぱ)の尾崎屋があります。


【赤坂宿】 江戸から76里20丁(300.3Km)、京へ49里 人口約 1300人 

 安藤広重の東海道五拾三次之内・赤坂『旅舎招婦ノ圖

 赤坂は、招婦(飯盛女)が多かった宿で有名。

 参勤交代の武士達がここに宿泊することが楽しみだったことを謡ったものに

    「御油に赤坂吉田がなくば 何のよしみで江戸通い」

 御油から十六丁しかなく、五十三次の宿駅間では最短距離。2位は平塚・大磯間の二十丁。

 広重がこの中で描いている蘇鉄は、現在も「浄泉寺」の本堂前に植えられており、筋向いにあった旅籠から移植したもという(下の写真)。


【浄泉寺】 (左側) 15:45

〔蘇鉄〕

 この「ソテツ」は広重の東海道五十三次の内 赤坂「旅舎招婦図」と題された、はたご風景の中に描かれていた「ソテツ」である。

 明治二十年頃道路拡張により当宿の旅籠より当寺境内に移植された。

 樹齢・推定260年 樹高3m 幹周4.6m

〔赤坂宿(赤坂駅)〕

 徳川幕府時代に於ける赤坂宿は東海道五十三次の一にしてまた三河一国の幕府領を支配する代官所(赤坂陣屋)の所在地たり

 宿には本陣、脇本陣、問屋、旅籠屋等に至らざるはなし

 多数の飯盛女を抱えて繁栄を極む

  御油や赤坂吉田がなくば 何のよしみで江戸通い

  御油や赤坂吉田がなけりゃ 親の勘当うけやせぬ


【旅館 大橋屋】 音羽町指定建造物 (左側)

 浄泉寺の隣にあり、もと「鯉屋」といった旅籠で、現在でも旅館を経営しています。

 西側横奥に「赤坂陣屋入口址」の柱が立っていました。

【旅篭 大橋屋】 音羽町指定建造物(昭和52年3月指定)

 本陣・脇本陣以外の武士や庶民などの宿泊施設を旅籠屋という。

 享保十八年(1733)の赤坂宿は、町裏を合わせて家数四百軒のうち、八十三軒が旅籠屋であった。

 大橋屋は、旧屋号を鯉屋といい、正徳六年(1716)の建築といわれる。赤坂宿の旅籠屋の中では、大旅籠に属し、間口九間、奥行二十三間ほどあった。入り口の見世間・階段・二階の部屋は往時の様子を留める。

     音羽町教育委員会


【御休処 よらまいかん】 (左側) 15:55〜16:10

 まだ新しい無料休憩所。1階には椅子以外に自販機とトイレがあり、2階には少しの展示物がありました。

 休憩所手前の右側には「高札場跡」の木柱のみが立っていました。


【赤坂陣屋跡(三河県役所跡) (右側)

 休憩所の向かいには「赤坂陣屋跡」の解説板がありました。

 陣屋とは代官所ともいい、年貢の徴収や訴訟などを取り扱ったところであった。

 赤坂陣屋は、三河の天領支配の中心であり、当初この奥の大敷地内に設けられたが、元禄二年(1689)神木屋敷(現赤坂保育園附近)に移された。

 幕末に三河県役所と改められた。手狭になったため明治二年(1869)再び大敷地内へ新築移転された。

 廃藩置県後、明治五年に廃止となった。

     音羽町教育委員会


【杉森八幡】 (右側) 16:15〜16:20

 境内には、音羽町指定天然記念物の樹齢約1000年の楠が二本と、町指定有形民俗文化財の「赤坂の舞台」がありましたが、舞台は中を見ることが出来ませんでした。

【杉森八幡社の楠】

 杉森八幡社境内・拝殿向かって左側、前からニ本がそれであり根元が一本化し二本に成長していることから「夫婦楠」とも呼ばれている。当社は大宝ニ壬寅年(702)持統天皇が、東国御巡幸のとき当地の頓宮におられたとき、伊勢神宮領御厨跡に大神宮・八幡社を勧進遊ばされ、両宮とも神鏡を納められたと伝えられる。

 社の発生から考察し、また調査したところ、この楠は推定樹令約1000年と考えられる。目通り6m、高さ約20m、根ばりが楠の特徴をよくあらわしている。

     昭和五十二年三月一日 音羽町教育委員会

【赤坂の舞台】 音羽町指定有形民族文化財(平成10年6月指定)

 建築面積243m(間口10.4間 奥行7間)  

 当舞台は、心棒の先を支点として盆が回るように仕組んだ皿回し式の回り舞台である。奈落はなく、舞台上で回した。

 赤坂宿では、江戸時代には人形浄瑠璃、明治以降は歌舞伎が演じられていた。

 現在の舞台は、赤坂の芝居愛好者が中心となって、近隣の同好者に建設を呼びかけ、明治五年七月に舞台開きをしたと伝えられている。

 平成十二年に改修復元した。

     音羽町教育委員会

 杉森八幡の隣右側に「見付跡」、左側には「十王堂跡」の木柱がありました立っていました。


【一里塚跡】 (左側) 16:45

 ガードをくぐってすぐ田園風景のなか、道路左側土手に石柱のみ立っています。


【馬頭観音】 (右側) 17:03

 国道1号線合流手前の石垣の上にあり、その奥には観世音菩薩の像もありました。

 「街道でも一、二を争う」と云う人もいるほどの立派な馬頭観音です。

 その隣りには夕ぐれで火(電灯)が入っていた秋葉山常夜灯とお堂が2基あり、堂には地蔵が祀られていました。


【本宿村東側入口】 (左側) 17:30

 国道1号線に合流すると、関屋の信号で、日本橋から313Km。そのまま1号線を行き、314Kmポストで岡崎市に入ります。

 やがて左側に、「自然と歴史を育むまち 本宿」の石碑が現れ、本宿村の解説がありました。

 写真のモニュメントをくぐりとまもなく「右国道1号 左東海道」の石柱と解説板「本宿の歴史と文化をたずねて」がありますので、案内に従って左斜めの道に入って行きます。

【是より西 本宿村 藤川宿へ壱里】

 本宿は往古より、街道とともに開けた地であり、中世以降は法蔵寺門前町を中心に町並みが形成された。

 鎌倉街道は東海道の南、法蔵寺裏山辺りを通り鉢池から宮路山中へと続いていた。

 近世に入り、東海道赤坂宿、藤川宿の中間に位置する間の宿としての役割を果たしたといえる。

 享和二年(1802)の本宿村方明細書上帳によれば、家数百二十一軒、村内往還道十九丁、立場茶屋二か所(法蔵寺内、長沢村境四ツ谷)があり、旅人の休息の場として繁盛をきわめた。

 東海道中膝栗毛に「ここは麻のあみ袋、早縄などあきなふれば北八、みほとけの誓いとみえて宝蔵寺、なみあみ袋はここの名物」とある。本宿は古くから麻網(召縄)、麻袋、麻紐などの麻細工が盛んであった。また、家康が食したといわれる本宿独特の法蔵寺団子があり、その他、草鞋、ひさごなどが土地の名物として売られ、街道筋の評判となった。

 往還南に大宝元年(701)僧行基開創と伝えられる古刹法蔵寺がある。歴代の松平氏をはじめ、家康幼少の頃の寺として近世を通じて下馬の寺であり。往来する諸大名をはじめ旅人の参詣があとを絶たなかったという。その他、旗本柴田氏本宿陣屋、尾張藩七里役所、高札場、一里塚、常夜灯などが往還筋に設置されていた。

 慶応四年(1868)に柴田勝誠が新政府に提出した高取調帳には村高五百三十六石余(柴田知行所四百五十七石余、法蔵寺領七十九石余)と報告している。

 明治七年(1874)額田郡誌には百三十五戸、五百五十人と記されている。

 ここ四ツ谷には立場茶屋があり、幕末期には旅籠屋ニ、茶屋七、当寺の記録から繁盛の様子をうかがうことができる。この地から二本の枝道が南北にわかれている。南、鉢地村道、北、衣文山道である。

 鉢地村道は鉢地川に沿って南へ進み、山越えして西郡(現蒲郡)へ通じるおよそ二里ほどの山道をいう。法蔵寺龍芸上人が清田の安楽寺開山のため通った頃は、けもの道であったが、近世に入り三河湾と東海道を結ぶ唯一の生活道路となり、物資の交流にかかせない道となった。また、竹島弁財天、衣文観音詣での信仰の道でもあった。慶応四年(1868)西郡松平氏が手勢を率い、東海道筋警固のため出陣した軍事道路でもあった。

 衣文山道は往還より北の山中を越え上衣文村に通じる山道をいう。衣文観音詣での参道として利用された。

     1994年9月 国道一号本宿地区東海道ルネッサンス事業委員会


【法蔵寺】 (左側) 17:42〜17:55

 大宝元年(701)僧行基の開創といわれ、法相宗出生寺と号したが、至徳二年(1385)京都円福寺龍芸教空上人により、浄土宗に改め法蔵寺と改称した。浄土宗三河三檀林の古刹である。松平氏初代親氏を初め、代々の松平氏の帰依深く、諸堂宇を寄進されている。また勅願所、足利義教の祈願所ともなっている。

 近世は家康手習いの寺として、江戸期を通じて門前下馬を与えられた。慶応四年(1868)新政府に提出した高取調帳には朱印高八十八石余(本宿村七十九石、鉢地村九石)と報告している。本堂は嘉慶二年(1388)松平親氏建立、明治十年に改築された。

     1994年9月 国道一号本宿地区東海道ルネッサンス事業委員会

 本堂の他には、江戸後期の建立で入母屋造りの東照宮、寺伝によれば弘法大師建立とある六角堂、御草紙掛松、近藤勇首塚などがある。

【御草紙掛松(おそうしかけのまつ)

 寺伝によれば家康幼少の頃、当寺にて学問手習いに励んだといわれる。この松は家康手植えともいわれ、手習いの折り草紙を掛けたことからこの名がつけられたという。

 家康公ゆかりの「御草紙掛松」として永く人々に親しまれてきた。

 また、「御茶屋の松」「御腰掛の松」ともよばれた。

 昭和五十八年惜しくも立ち枯れ、翌五十九年新たに植樹されたものである。

 周囲の石柵は文化十二年(1815)旗本木造清左衛門俊往の寄進である。

     平成九年三月 郷土史本宿研究会

 境内右手高台に、2004年NHK大河ドラマで話題になった近藤勇の首塚があります。

【近藤勇首塚の由来】

 新撰組隊長近藤勇は慶応四年(明治元年)四月二十五日三十五歳で東京都板橋の刑場の露と消えました。

 刑後、近親者が埋められた勇の死体を人夫に頼んで夜中ひそかに掘り出してもらい、東京都三鷹の竜源寺に埋葬しました。

 また勇の首は、処刑後、塩漬にして京都に送られ三条大橋の西にさらされました。それを同志が三晩目に持ち出し、勇が生前敬慕していた新京極裏寺町の称空義天大和尚に、埋葬を依頼することにしました。

 しかし和尚は、その半年前から三河国法蔵寺の三十九代貫主として転任されていたので法蔵寺に運ぶことにしました。この寺は山の中にあり、大木が生い茂っていて、ひそかに埋葬するには好適の地でした。

 しかし当時は世間をはばかって、石碑を土でおおい仏の様にして沓華していました。そしていつか石碑の存在も忘れられてしまいました。

 昭和三十三年総本山の記録等に基づいて調査した結果、埋葬の由来が明らかになりました。

 今回、石碑をおおっていた土砂を取り除き勇の胸像をたてて供養することにしたのであります。

     法蔵寺 執事


【本宿陣屋跡と代官屋敷】 右側)

 法蔵寺のすぐ先右側の本宿町中集会所の脇に地蔵堂。左側に「本宿陣屋跡と代官屋敷」の解説板がありました。

 元禄十三年(1698)旗本柴田出雲守勝門(柴田勝家子孫)が知行所支配のため、本宿村に陣屋を設けた。以来明治に至るまで存続した。

 陣屋代官職は冨田家が世襲し、現存の居宅は文政十年(1827)の建築である。

     郷土史本宿研究会


【本宿村道路元標】 (右側) 18:00

 火の見櫓の下にあります。

 この角に、道中しばらくなかった「東海道」の道路標識がやっと出てきました。こんな分かりやすいところでなく、御油に入る前の分かりにくかった国道1号線沿いにも立てて欲しかった。

 旧道路法(大正九年四月一日施工)によって、各市町村に一箇所、道路の起終点、経過地を表示するために設置され、里程の基準となりました。


【本宿駅の由来と歴史】 

 道路元標のある所で、本日の行程を終了し、ここで右折して本宿駅に向う。

 駅前には、三分の一サイズの旧駅舎(蒲郡ホテルの屋根に似せて主屋に八角屋根、銅版葺の塔楼をのせたモダンな駅舎)が再現されていた。

 本宿駅は、大正十五年(1926)四月、愛電(現名鉄)が、東岡崎から小坂井まで開通したとき誕生した。昭和九年(1934)一月、念願の鉢地坂トンネル竣工、本宿と蒲郡を結ぶ県道が開通した。風光明媚、箱根に似ていることから「新箱根観光道路」と命名され、一躍東海道の新名所として脚光を浴びた。



 29回目の旅終了(18:00)名鉄名古屋本線本宿駅。 ◆本日総歩数:32,400歩

 本宿駅より名鉄で豊橋駅まで戻り、豊橋グランドホテルに宿泊。

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