二川宿・吉田宿 (二川駅→小坂井駅) <旧東海道28回目>

2004年2月8日(日)快晴  西の風強し

 二川宿内は、本陣等が二川駅から遠いことから宿泊先の豊橋より車で戻り見学しました。

 まず、岩屋観音に寄ってから二川宿に入り、妙泉寺、東駒屋、本陣等を見学後、二川駅周辺に駐車しようとしたが駐車場が見つからなかった。仕方がないので再び豊橋に戻って駅前の地下駐車場に車を置き、こんどは電車で二川駅に行き、そこから街道の続きを歩きました。

 (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

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【二川宿】 江戸から72里(282.8Km)、京へ53里20丁 人口約 1500人

 古来より交通の要所であった二川は、慶長六年(1601)、徳川家康による街道整備にともなって宿駅として設置されました。開設当時は二川村と大岩村の二か村で一宿分の業務をおこなっていましたが、正保元年(1644)に両村は現在地に移転して、二川村と加宿大岩村となり、東海道五十三次中三十三番目の宿駅として業務をおこなうこととなりました。

 天保十四年(1843)には、本陣・脇本陣がそれぞれ1軒、旅籠屋が38軒、人口は1,468人で、家数は328軒でした。

 現在も、本陣をはじめとして、江戸時代の宿場町としての景観を残しています。

安藤広重の東海道五拾三次之内・二川『猿ケ馬場 

 広重の描いた「猿ケ馬場」は、白須賀宿を西に出たすぐのところ、境川の少し手前にあった。従って、二川宿まではまだかなりある。

 この地は柏餅が名物で、広重の絵にもあるとおり「名物柏餅」の看板を掲げた店が何軒かあったが、現在は何もない。3人の女性は瞽女(ごぜ)(三味線を弾き、歌を歌うなどして銭を乞う目の 不自由な女性)である。

現在の境川





【妙泉寺】 (右側) 車で見学

 東海道を歩いてきた場合は、JR東海道線を潜って二川宿に入るとすぐ右側の奥にあります。

 境内には、「紫陽花塚」と呼ばれる芭蕉の句碑があります。

 妙泉寺は日蓮宗の寺院で、前身は貞和年間(1345〜50)に日台上人が建てた小庵でした。その後、衰微していたのを寛永から明暦(1624〜58)頃観心院の日意上人が信徒の助力を得て再興し、信龍山妙泉寺と改称したうえ、身延山から離れて遠州吉美村の妙立寺末となり、さらに万治三年(1660)旧地今田中より現在地に移転して、山号を延龍山に改めたといわれます。

 江戸時代には黒印地二石を受け、その格式はかなり高いものでした。また、寺子屋を開いたり、大通行の際の休泊所にもなっていました。

 当寺所蔵の鰐口は、永享五年(1433)につくられ、後に半面が慶長二年(1597)に再鋳された珍しいもので、豊橋市有形文化財に指定されています。境内には、寛政十年(1798)に建立された芭蕉句碑である紫陽花塚があります。

【芭蕉句碑】

   あじさいや薮を小庭の別座敷     芭蕉翁


【東駒屋・西駒屋】 (右側) 車で見学

 妙泉寺のすぐ先の街道沿いで、曲尺手の手前にあります。

 こちらは東駒屋で、美しく見事な格子造りの醤油屋(田村家)。

 建物西側の細道に入ると黒い板壁が続き昔ながらの雰囲気が味わえます。

 西駒屋は、この先本陣の向かいにあります。


【二川宿本陣】 史跡 車で見学

 馬場家の表門、母屋、玄関、土蔵等を改修し、資料館を併設して公開している。資料館の資料は豊富で、本格的な本陣を隅々まで見学できるのがすばらしい。

 この日は、ひな祭り期間中で屋敷内に沢山のお雛様が飾られていました。古いものが多く、お雛様とお内裏様が豪華な御殿に入っている雛飾りは初めて見ました。

 本陣とは江戸時代、公家・大名・幕府役人などが旅の途中、宿泊休憩した施設です。宿場の中央に大きな間口を占め、門・玄関・上段の間を備えた堂々たる建物でした。

 二川宿の本陣は、後藤五左衛門が中町の北側で勤めていましたが、再三の火災のため没落し、寛政五年(1793)以降は紅林権左衛門に本陣職をゆずりました。しかし、文化三年(1806)十二月の火災により紅林も再起すことができず、文化四年以後明治三年(1870)の本陣廃止まで馬場彦十郎が現在地において経営しました。

 馬場家本陣は、文化年間の間取図によると間口十七間半(約32m)、敷地面積は五二五坪(約1,733m)、建坪は一八一坪余(約598m)と宿内一の建物でした。

 現在も享保年間建築の土蔵、宝暦三年(1753)建築の主屋、文化四年本陣開設時に建築の玄関棟・表門が残り近世交通史上貴重な文化財となっています。

 豊橋市では、昭和六十年本陣当主の馬場八平三氏より本陣敷地建物の寄付を受けたことを契機とし、本陣の保存と活用を図ることとし、昭和六十二年史跡に指定するとともに、昭和六十三年より三か年事業で、現存部分の改修及び明治以降取り壊されていた書院棟の復元工事を実施し、江戸時代の姿を再現しました。

     平成三年 豊橋市教育委員会

【上段の間】

 上段の間は、大名などが宿泊休憩する部屋で、他の部屋より一段高くなっており、床の間・書院を備えた書院造となっていました。

 二川宿本陣の書院棟は本陣を引き受けた文化四年(1807)に建設されましたが、明治三年(1870)の本陣廃止後、同家が醸造業を始めるにあたり取り壊されたため、間取り図や他宿に残る本陣上段の間を参考として復元しました。

 本陣には大名をはじめ家臣なで三十〜四十名ほどが泊り、行列の残りは宿内の旅籠屋や一般の家に分宿しました。

 馬場家が本陣を経営していた六十年余の間の総利用回数は三千六百回近くにのぼり、年平均約六十回の利用がありましたが、その大部分は小休と呼ばれる休憩や昼休で、宿泊は四分の一程度でした。

【勝手】

 主屋通り庭(土間)の西側は勝手と呼ばれ、本陣の主人・家族、使用人の居住する部分でした。

 この部分は本陣建物のなかでも古く、馬場家が本陣を引き受ける以前の宝暦三年(1753)の建設です。

 当初は間口十間で、通り庭式・三列配置の間取りをもつ町屋の建物で、ここで米穀業等の商売を行っていましたが、文化四年(1807)に本陣を引き受けるにあたり、通り庭の東側に拡張を行い板の間などを設けました。

 本陣の家族は四〜五人、下男下女も三〜四人いましたが、これだけの人数では、大名の宿泊などがある場合には足りず、宿内から手伝いの者が呼ばれました。

 また、主屋背後に建つ土蔵二棟は、本陣建物の中で最も古い建物で、東土蔵は享保三年(1718)、西土蔵は同十八年(1733)の建設です。


【岩屋観音】 車で見学

 岩屋町に入る手前、国道1号線と旧東海道に挟まれた岩屋緑地にあります。

 高さ3.6mの岩屋観音が建っている岩山の山頂には、鎖を伝って登ることができます。文字通り鎖を伝って足場の悪い岩石を登ると、山頂からの眺めは雄大です。

 岩山の下には観音堂、崖には石仏群があります。

 東海道は、この山の麓を回る南ルートと北ルートがありますが、愛知県の案内板は北ルートでした。

 南ルート(県道3号線)に行くと岩屋観音へ登る道があります。

【岩屋観音堂】

 岩屋観音堂は、天平二年(730)行基が諸国巡行の際に千手観音像を刻んで岩穴に安置して開いたといわれます。

 江戸時代には、街道をゆきかう人々から多くの信仰を集め、ことに備前岡山藩主池田綱政はこの観音を崇敬し、元禄から宝永(1688〜1710)にかけて、観音経・黄金燈龍・絵馬などを寄進しました。

 山上に立つ聖観音像は、吉田大橋の架替工事を担当した江戸下谷の大工茂平と善右衛門の二人が工事の難しさに困り果てて観音堂に参籠し、霊夢によって難工事を完成させることができた恩返しとして、明和二年(1765)下谷講中が建てたもので、現在のものは昭和二十五年(1950)に、再建されたものです。

 当堂を詠んだ和歌、俳句は多く、香川景樹、古市木朶等の歌俳は有名であり、また歌川広重の東海道写生画の中に、当山を描いたものが数点あります。当堂は古来より真言宗の寺院でありましたが、明治維新後は大岩寺の境外仏堂となっています。


  豊橋に車を置いて、JRで二川駅に戻り、ここから歩き始め ました。 二川駅11:45出発。

【東海道の石碑】 (左側)

 二川駅を出てすぐ左側に 「右東海道 豊橋一里半」の文字が書かれた石碑が建っています。

 その先、右カーブした「火打坂」交差点を真直ぐ行きます。これから旧東海道の道筋の随所に出てくる青い「東海道」の道標がありますので、その向いている方向(岩屋緑地の北ルート)に行きます。静岡県の道中案内は標柱でしたが、愛知県はポールです。

 「火打坂」交差点を越えるとすぐ左に「豊橋市地下資源館」があります。その先左手に岩屋観音のある岩屋山が見えてきます。

 駅から20分、「火打坂」交差点から650m行った最初の信号を左折します。ここは「大岩町北」ですが、信号機にも地名がなく、肝心の「東海道」の青い道標もないため注意してください。岩屋山(岩屋緑地)の麓にそって左に曲がるのですが、140mほど行った右カーブのところにやっと道標が出てきますので、間違っていなかったことが分かります。曲がり道に案内がないのは不親切だが、私が見逃しているだけかも知れません。


【松並木】 12:15

 左側に、一里塚跡かなと思える場所に「旧東海道 松並木」しか書いていない案内板が立っていました。小さな松が2本植えられているだけで松並木とは笑ってしまうが、切り株が何個かあったのでかつては松並木だったと推察できます。早く大きくなることを祈って先を進みます。

 途中の無人の店でミカンが安かった(10個以上入って¥150-)ので購入し、食べながら歩きました。

 12:25に国道1号線と平行した道へ、12:40に国道と合流。

 13:00〜13:25左奥にあった公園(向山緑地)にて持参のおにぎりで昼食。この公園には石造りの世界遺産(ピラミッド・スフィンクス・万里の長城・モアイ像等沢山)がかなりの大きさで建っていました。

 13:30右側に壽泉禅寺があり、出来たばかりの三重塔が建っていました。


【常夜灯】 (右側) 13:45

 大きな歩道橋のある「東八町」交差点の右角に復元された常夜燈が建っています。

 また、ここから豊橋の市電に出会えます。西は豊橋駅迄、東へは岩田方面に行っています。

 私の学生時代には横浜市にも市電が通っていたので、市電を見ると懐かしくて乗ってみたくなります。

 この常夜灯は文化二年(1805)吉田宿東惣門前(現在の東八町交差点付近)に建てられたものである。

 以来「新町の大燈籠」として吉田の名物の一つとなり、近隣の町民をはじめ市民に親しまれてきたが、三河地震(1944)による倒壊とそれに続く戦火にあって放置されてきた。

 この状況を憂えた常夜灯保存委員会により昭和五十五年豊橋公園内に復元されていたが、平成十三年が「東海道宿駅制度制定四百周年」の節目の年でもあり江戸時代に建てられていたこの付近に再復元したものである。

     平成十三年二月 豊橋市 常夜灯保存委員会


 私達は先に吉田城址を見学するため東八町交差点で反対側に渡り、豊橋公園を通って城址へ行きましたが、旧東海道は、交差点の歩道橋を真直ぐ渡って、次の道を左折。その先東海道の道しるべに従って右、左、右と行きます。途中魚町に文政十年(1827)創業の「ヤマサちくわ」、新本町の左側に文政年間(1818〜1830)創業の菜飯田楽の老舗「きく宗」があります。(この道は今回パスしてしまったが、次回の行程で回ってきました) 


【吉田宿】 江戸から73里半(288.7Km)、京へ52里2丁 人口約 5300人

安藤広重の東海道五拾三次之内・吉田『豊川橋 

 吉田城は、豊川の川べりに築城された平山城である。

 この川に架かった橋は、豊橋(現在の吉田大橋)といい、東海道三大大橋の一つであった。

現在の吉田城隅櫓


【吉田城址】 13:55〜14:20

 現在は、豊川の川べりに隅櫓が一つ残っているだけです。(右上の写真)

【吉田城略史】

 当吉田城は、はじめ今橋城と称し、永正二年(1505)牧野古白によって構築された。以来東三河の要衝として今川、武田、徳川ら戦国武将の攻防を経て、天正十八年(1590)に池田照政が入封し、十五万二千石の城地にふさわしい拡張と城下町の整備が行われた。しかし照政は在城十年で播州姫路に移封され、のちに入封した大名は譜代ながら少禄のため照政によって大拡張された城地も未完成のまま明治に至った。

 この城の縄張りは背後に豊川をひかえ本丸を中心に二の丸・三の丸を配置し、それで堀が同心円状にとりかこむ半円郭式の後堅固の城といわれるもので、本丸は3,931u (,189坪)二の丸は15,154u (,584坪)三の丸は50,142u (15,168坪)腰郭は1,864u (564坪)堀土手敷は53,534u (16,194坪)総面積は126,621u (37,699坪)である。

 現在みられる遺構は、照政時代の旧態を残している。

     昭和五十一年 豊橋市


【関屋】 14:33

 市役所前出口から国道1号線に戻り、西八町交差点を真直ぐ行き、最初の太い道で右折したら再び旧東海道に合流しました。豊川に突き当たった場所に関宿の案内板のみがありました。

 旧東海道はここを左折して舟町交差点を右折すると豊川に架かる豊橋が見えてくる道を行きますが、私達は土手道を豊橋(とよばし)まで歩きました。

 吉田城の西総堀のうちにあって豊川に面する。

 ここに吉田藩の御船蔵が置かれ藩候専用の波止場があった。「元亀元年(1570)酒井忠次が初めて豊川に架橋したのもこの場所である。「三州吉田記」に「元亀元年、関屋之渡口始メテ土橋ヲ架ス」とあり、天正十九年(1591)この土橋を船町へ移すと記す。


【神明社・築嶋弁天】 14:40〜14:45

 「船町」交差点右角の湊町公園に接して神明社・築嶋弁天があります。この弁天神社は何かの災害に合われたようで、屋根が一部崩れて無残でした。

 弁天神社がある蓬莱島に芭蕉句碑があります。

【築島弁財天 由緒】

 吉田名縦綜録に所謂蓬莱の島なり

 天和三年弁財天を祀りし後正徳四年茶道宗徧流の祖山田宗徧ぬし大いに石組林泉の美を改構して吉田名苑の一に数えられ現在に至る。

     昭和三十四年八月 宮司識す

【旅寝塚句碑】 

 芭蕉翁 貞享四年(1687)芳野紀行の途次越人を伴い保美(渥美町)に杜国を訪れんと十一月十日吉田に泊まる句はその夜の感慨を「寒けれど二人旅ねぞ たのもしき」と詠じたもの 昭和七年豊橋趣味の会一同この句碑を建つ

     平成五年一月吉日 三河芭蕉会


【船町と高札場】 (右側) 14:47

 豊橋を渡る手前右側に解説板が立っていました。

【船町と高札場】

 豊川の水清く豊かな流れは、私達の祖先をを育てこの町を生み出し、時に賑やかな湊ともなり、今はまた親水護岸が作られ市民の憩いの場ともなっているが、その昔、このあたりは四ツ家といい河原同様の荒れはてたとちであった。

【船町】

 この地に最初に村を築いたのが浅井長政の一族、浅井与次右衛門らおよそ80名の人々である。その後、天正十八年(1590)池田輝政が吉田城主となり、城下町を拡張整備した際に四ツ谷を船町と改め、浅井氏を庄屋に任じたと伝えられている。

 吉田湊が開かれたのは近世初頭であり、吉田宿ニ十四か町の中で船町のみが独自の立場で船役を勤めていた。また、吉田湊は豊川舟運の終点としてさらに伊勢や遠く江戸への航路の起点として栄え、当時、三河における最大の湊であった。

【高札場】

 寛永十三年(1636)幕府の命により、橋の南たもと(当時の吉田大橋はここより73m下流)に高札場を設けた。この高札には、河川の取締り、橋の保護など極めて重要な取り決めが掲げられていた。

     豊橋市教育委員会


【道標兼常夜灯】 (右側) 14:54

 豊川に架かる豊橋を渡り終えた所の「とよばし北」交差点を左折します。

 左折するとすぐ右側に背の高い常夜灯が立っており、側面に「右御油道」、「左吉田道」と書いてありました。


【聖眼寺】 (右側) 14:57

 境内に芭蕉句碑があります。

 

【松葉塚】 豊橋市指定史跡(昭和59年2月指定) 3基

 聖眼寺境内の松葉塚には、古碑松葉塚、明和6年(1769)の再建松葉塚、および古碑松葉塚の所在を示す宝暦4年(1754)建立の標石(しるべいし)があり、当地方の文学史研究上資料的価値の高いものです。

『松葉(ご)を焚いて 手拭あふる 寒さ哉』

 古碑松葉塚に刻まれたこの句は貞享4年(1687)冬、松尾芭蕉が愛弟子杜国の身を案じて渥美郡保美の里(現渥美町)を訪れる途中当寺に立ち寄り、一句を詠んだものです。

 尖塔型自然石の古碑松葉塚は、芭蕉没後50年忌を記念して建てられたといわれ、句が刻まれて「松葉塚」名称の由来となっています。

 再建松葉塚は、明和6年に植田古帆、大木巴牛が発起人となり、吉田連衆の協力を得て近江の義仲寺に埋葬された芭蕉の墓の墳土を譲り受けて再建したもので、句は「ごを焼て手拭あふる寒さ哉」とあります。「芭蕉翁」の3字は白隠禅師、句は尾張の横井也有の筆になるものです。この再建を契機に、各地の俳諧師が競って句碑を建立するようになり、東三河の俳壇に黎明期を迎えました。

 また、山門前の標石には「寺内に芭蕉塚有、宝暦四甲戌年二月十二日東都花傘宜来」とあります。

     豊橋市教育委員会


【下地一里塚跡】 (右側) 15:04

 道路右側に石柱のみあります。側面に「江戸日本橋より七十四里」と書かれていました。

 15:07、短いが宿場の雰囲気がある古い町並みに入ります。部外者としてはこのまま道路拡張せずに残してもらいたい場所です。


【爪郷遺跡】 (右奥) 15:15〜15:25

 「鹿管橋」の手前の案内に従って右へ120m入ると左側にあります。

 弥生時代の集落遺跡で、敷地内には、1800年前の弥生時代中期の復元家屋があります(写真参照)

【爪郷遺跡】 国指定史跡(昭和28年11月指定)

 この遺跡は低湿地に囲まれた自然堤防の上に立地する、弥生時代中期から古墳時代前期(2000年前〜1700年前)にかけての集落(ムラ)の跡です。

 昭和22年11月から昭和27年10月までの間、5回にわたり発掘調査が実施され、土器・石器・骨角器・木製の農具などが出土しました。これらの出土品は東三河地方の弥生文化を知るうえで重要な手がかりとなっています。

 ここでは農耕(主に稲作)のほかに、漁撈や狩猟などが行われていたことがわかりました。

 瓜郷遺跡は唐古遺跡(奈良県)・登呂遺跡(静岡県)などとともに弥生時代の低地にある遺跡の一つとして貴重なものです。

 なお出土品は、豊橋市美術博物館に収蔵されています。

     豊橋市教育委員会

【弥生時代の竪穴住居(復元)】

 この復元家屋は。昭和22年〜27年の発掘調査で見つかった竪穴住居の遺構をもとに、故明治大学教授後藤守一博士の手により設計がなされたものです。

 時代はおよそ1,800年前の弥生時代中期のもので、大きさは東西5.8m、南北3.5mの楕円形をしており、中には二本の主柱と炉があります。

     豊橋市教育委員会


【鹿菅橋】 15:26

 現在は江川にかかる何の変哲もない橋ですが、平安時代の歌で有名な橋です。

 女流歌人中務(なかつかさ)の歌に「行けばあり行かねば苦ししかすがの わたりに来てぞ思ひわづらふ」とあります。


【子だが橋碑】 (右側) 15:46

 豊川豊水路に架かる「高橋」を渡って下り坂になり、続いて小さな橋を渡り終えた右側に子だが橋の石碑と解説板があります。

 莬足(うたり)神社に伝わる人身御供の悲話が伝わっています。

【子だが橋】

 子断が橋ともいわれ、明治時代には「小田橋」と書いてあった。

 およそ一千年前莬足神社には、人見御供があり春の大祭の初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にする習慣があったと伝えられている。

 ある年のこと、贄狩に奉仕する平井村の人の前を若い女性が故郷の祭礼と父母に逢う楽しさを胸に秘めて、暁の街道を足早に通りかかり橋の上まで来た、見ればわが子である、「ああいかにすべきか」と苦しんだが、神の威光の尊さに「子だが止むを得ん」と、遂に生贄にして神に奉った。

 それからこの橋を、子だか橋と呼ぶようになったということである。

 現在、莬足神社では、十二羽の雀を贄に替えて行われている。

     小坂井町教育委員会


【莬足神社】 (右奥) 15:50〜16:00

 子だが橋碑の先の「才ノ木」交差点を右折した左側にありますが、交差点を渡った先にも参道があります。

【式内 莬足神社】

 穂の国(東三河の古名)の国造であった莬上足尼命は初め平井の柏木浜に祀られたが、間もなく当地に遷座になった。

 当社の大般若経五八五巻は、国の重要文化財に指定(昭和三十六年)されている。僧研意智の書(1176〜1179)であるが、長い間弁慶の書と伝えられていた。(弁慶が東下りのおり、洪水のため渡航できず、滞在七日の間に書き上げて神前に奉納されたと信じられていた。)

 なお応安三年(1370)の銘のある梵鐘(昭和三十九年県文化財指定)は、本社前の水田から発掘されたものであり、当時は今の手水舎の位置に鐘楼があったことが江戸末期の参河國名所図絵に出ている。

 当社のお田祭の行事(昭和二十九年県無形文化財指定)は、旧正月七日に行われる。

 風祭りとして知られる例祭は四月第二土曜・日曜日に行われ、打上花火・手筒花火は特に名高い。

 また、例祭の古面(五面)昭和四十年県文化財に指定されている。

     小坂井町教育委員会

【莬足神社と徐福伝説】

 今から二千二百年ほど前、戦国の中国を統一した秦の始皇帝は、徐福から東方海上に蓬莱など三つの神山があり、そこには不老不死の霊薬があることを聞いた。そこで始皇帝はその霊薬を求めてくるように除福に命じ、三千人の童男童女と百工(多くの技術者)を連れ、蓬莱の島に向わせた。しかし、出発してからのその後の除福一行の動向は分かっていない。

  ところが、わが国には除福一行の渡来地といわれている所が二十余個所もある。しかも、わが小坂井町が徐福渡来地の一箇所として挙げられているのである。それは次のような莬足神社に係わることからいわれるようになったと考えられている。

一 熊野に渡来した除福一行は、この地方に移り住み、その子孫が秦氏を名乗っている。

 ・豊橋市日色野町には、「秦氏の先祖は、中国から熊野へ渡来し、熊野からこの地方に来た」との言い伝えがある。

 ・牛窪記(元禄十年(1697)頃成立)には、「(前略)徐福ガ孫古座侍郎三州ニ移リ来ル故ニ、本宮山下泰氏物多シ・・・」とある

二 莬足神社の創設者は「秦氏」ともいわれている。

三 莬足神社には、昔から中国的な生贄神事が行われている。

    古来莬足神社の祭事には生贄神事が行われている。

 以上のほか、三河地方が古来から熊野地方とは海路による往来が行われ、熊野信仰の修験者により熊野に伝わる除福伝承が伝えられた。また、小坂井町が交通の要所で、東西を往来する人達のなかからも除福の故事が伝えられたとも考えられる。

     小坂井町教育委員会

【莬足神社貝塚】

 この貝塚は、神社境内および隣接する川出氏宅の敷地一帯に広がる。(中略)

 出土遺物はほとんどが縄文時代晩期の土器であるが、弥生土器や古墳時代後期の須恵器も見られる。しかし、最も注目されるのは、縄文時代早期(今から一万年から六千年前)の「押型文土器」と呼ばれる土器の破片である。この種の土器は豊川右岸下流域では本貝塚でしか発見されていない。人骨は平井稲山貝塚のように多量に出土していないが、川出氏の採集品の中には抜歯されたものがあった。

(後略)

     小坂井町教育委員会



 28回目の旅終了(16:05)JR飯田線小坂井駅。  ◆本日総歩数:24,000歩

 小坂井駅よりJRで豊橋駅まで戻り、自家用車で豊川稲荷に寄ってから帰宅。

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