日光例幣使道(7) 天明宿

2022年4月16日(土) 晴  

 5年ぶりの夫婦二人旅。
 佐野駅まで自家用車で行き、駐車料金が安い北口にある「佐野公園北駐車場」に駐車(4時間半駐めて160円)。
 佐野駅10:46発のJR両毛線で隣の富田駅まで行き、前回終えた「両社神社」を11:15スタート。

 自宅から富田駅まで電車なら4時間近く掛かるが、車なら2時間チョットで行けることに気が付く。
 東海道編で良く使った手で、地方は駅傍でも駐車料金が安かったり、無料だったりするのが魅力である。


(注:解説で街道の左側、右側とは日光に向っての左右です)

「梁田宿」 ← 「目次」 → 「犬伏宿」


 車を駐車したのが10:20で、10:46発の電車まで少し時間があったので、先に佐野城趾を見学。

   〔佐野城跡〕 佐野市指定史跡
 佐野城は、別名’春日岡城’とも言われ、その地名は、延暦元年(782)藤原藤成がこの丘に春日明神を祭ったことに由来すると伝えられています。慶長7年(1602)、唐沢山城主佐野信吉は、当時この地にあった惣宗寺(佐野厄除大師)を移転させるとともに、築城と町割を開始しました。
 今日見られる佐野の町は、当時の佐野城を中心とした町づくりがその原型となっています。佐野氏は、慶長12年(1607)唐沢山城を廃してこの地に移ったとされ、同19年(1614)所領を没収されて改易となり、築城間もなく廃城となってしまいました。
 城は、独立丘陵を利用した連郭式の平山城で、南から三の丸・二の丸・本丸・北出丸と直線的に築かれています。これら縄張の主郭部は、全体で110m・南北390mの規模を有し、それぞれの間は空堀で区切られ、内堀へと続いていました。現在、内堀から外堀の範囲は市街化が進み、完全に埋め立てられていますが、主郭城部は当時の城割の姿を良好に留めており、貴重な歴史文化として後世に伝えるべく史跡・名勝(城山公園)に指定されています。
     令和元年7月 佐野市教育委員会


 
上の写真の手前(駅の自由通路を出た所)が「三の丸」、写真の奥が「二の丸」、その先に空堀を挟んで本丸がある。
   二の丸と本丸の間の空堀   本丸跡

 本丸からは石畳と石垣が発見され、埋め戻されているが、本丸の右手に出土した石が並べてられている。

   〔佐野城本丸の石畳と石垣〕 
 平成四年度の発掘調査で、佐野城本丸から石畳の通路と石垣が発見された。
 石畳は、東西二・六メートル、南北五・六メートルほどの範囲で確認され、東部には水路と思われる幅二〇センチ、深さ二〇センチの溝がある。
 石垣は、最も良く残っている部分で、長さ六・四メートル、高さ一・四メートルで、いずれも細長い角礫(かくれき)を使用している。
 この東斜面には井戸跡もあり、石畳と石垣は、ここへの通路の一部であった可能性高い。
 出土した石畳と石垣は、形状を損なうおそれがあり、保存のために埋め戻しを行っている。
 現在、埋め戻した石垣と通路に沿って、この付近から出土した石を並べている。
     平成六年十月 佐野市教育委員会 


 本丸の先にもう一つの「空堀」を挟んで北出丸がある。

   〔北出丸〕 
 この場所は「北出丸」あるいは「鐘の丸」といわれ、本丸の北側を守る場所である。江戸時代の記録には
 東西約三十六メートル
 南北約五十四メートル
 本丸との間の堀幅約十四メートルと記録されているが、建造物等の詳細については不明であった。
 平成元年に一部発掘調査が行われ、テラスが建設された場所には岩盤をくり抜いた柱穴(ちゅうげつ)と思われる遺構が発見され、多量の瓦も出土し、「隅やぐら」(見張台)の跡とも考えられる。また、西側の階段周辺には、「搦手(からめて)」(城の裏口)があったと考えられ、防御の点からも複雑な地形を構成しており、重要な場所であったことが確認された。
     平成元年 佐野市


 佐野城を見学後、佐野駅からJR両毛線で隣の富田駅まで電車で移動して、10:55富田駅から歩き始める。
 11:10前回終えた「両社神社」に到着。もう一度見学してここを11:15スタート。


【地蔵堂・渡河場所】 (左側) 11:20
 少し先、旗川に掛かる「白旗橋」の手前にあるやや斜め左の道が旧道になる。
 旧道を左折して旗川に突き当たった所を左に曲がるとすぐ左手に屋根が朽ちてきた寛文十年(1670)の地蔵堂が建っている。
 江戸時代の絵図にも描かれていると云う。
  

 往時はここが渡河場所であり、Google Earthで調べた時は土手道に説明板らしき物が写っていたが、今回探してもそれらしき物はなかった。
 現在はここから対岸に渡ることが出来ないため、右手の「白旗橋」を渡って対岸に行くしかない。
 下の写真は「白旗橋」から写したもので、右端の白い自動車がある所が、旧道が川に突き当たった場所でそこから対岸に渡河していた。
 分かりにくいが、奥の白い橋は両毛線の鉄橋である。

  


〔芦畦(あしぐろ)の獅子舞・常夜灯〕 (左側)  11:40
 「白旗橋」を渡ったら左折して、直ぐ先の「洋服直し 田島」の看板がある所を右折する。ここで対岸から渡河した場所に合流し、足利市から佐野市に入る。
 静かな道を進み、やがて道なりに左に曲がって両毛線の踏切を渡り、右斜めの道へ行くと花岡集落に入ってゆく。
 少し先、左側に佐野市指定文化財芦畦の獅子舞の収納庫と説明板が建っている。収納庫は中が見えず、獅子を見ることは出来ない。
 また、収納庫の右側には庚申塔などの石仏群がある。

   〔芦畦の獅子舞〕 佐野市指定文化財(昭和33年1月10日指定)
 約七百年前に始まったといわれる獅子舞で、昔、芦畦とよばれた並木町花岡に伝わるものである。
 毎年、旧六月一日と十五日に近い日曜日に行われる厄除け行事で、三頭の獅子が、太刀持・ささら等のお供を従え、笛、太鼓の音に合わせて町内を舞いめぐるものである。
 なお獅子頭は安楽寺の仁王像の余材をもって作ったという伝承がある。
     平成六年三月 佐野市教育委員会


 敷地の右側には、「薬師尊」と刻まれ、亀の背中に乗っている常夜灯が建っている。

     


【聖天宮の常夜灯 (左側) 11:43
 直ぐ先、左角の公園前に「聖天宮」と刻まれた常夜灯が建っている。

  


例幣使街道の標柱 (左側) 11:48
 少し先、左側の「ハナオカ美容院」前に、平成十四年八月に建てられた「日光例幣使街道」と刻まれた石柱が立っている。
  


昼食 (左側) 12:00~12:43
 再び、両毛線の「第一足利街道」踏切を渡る。
 踏切を渡った先の左側にある「青竹手打ち佐野ラーメン 萬(Ban)」で昼食とする。
 ここの佐野ラーメンはサッパリ系。中太麺で食べ応えはあるが味は普通だった。但し、餃子は美味しかった。   


例幣使街道の標柱 (左側) 12:53
 県道270号線を渡る。この交差点を右に少し行くと、今回は訪れていないが「佐野市郷土博物館」がある。
 続いて六差路の交差点を真っ直ぐ方向へ歩道橋で渡る。六差路で車が多く、歩行者は歩道橋でしか渡れない。
 その先左側、「石のトカノ」の看板下に二つ目の
「日光例幣使街道」と刻まれた石柱が立っている。
  


石碑】 (左側) 12:55
 旧道は秋山川に突き当たるが、その手前の角に「諏訪大明神 帝釋天王 水神宮」と刻まれた、土台が三猿の石碑が建っている。
 下の写真で、左の道が歩いてきた旧道。この碑の後ろに昼食第二候補としていた「佐野ラーメン くにや」がある。
  


〔中橋〕 12:57
 ここから秋山川を往時は「さるはし」、現在は「中橋」で渡るのだが、2019年10月の台風19号(令和元年東日本台風)で橋脚が流失し、通行止めになっている。2022年現在は工事中で渡れず、更に「佐野厄除大師」へ寄るために右手の「天明大橋」にも行くのにも通行止めで行けず、仕方が無いので左手の「大橋」を渡って県道67号線へ迂回して対岸に行った。
 因みに、例幣使道は、「中橋」を渡って次の信号を左折し、その次の信号を右折して県道67号線(桐生岩舟線)を佐野駅方向に進むのが本来の道である。
  


〔天明宿〕 倉賀野宿から十四里二十八町(58.0Km) 梁田宿から二里十八町(9.8km) 犬伏宿へ一里(3.9km) 今市へ十六里七町(63.6Km)  
 秋山川を渡った所から天明宿は始まる。佐野市では「テンメイ」と称しているが、「木曽路」では「テンミョウ」となっているとのこと。天明は佐野市の中心部で、「木曽路」では「犬伏は佐野の内なり」とあるように昔は広い範囲を佐野と言ったようである。佐野の歴史は古く、天慶の頃(938~947)藤原秀郷が唐沢山に城を築いたのが始まりで、子孫が周辺を領して佐野氏を名乗った。慶長七年(1602)家康の山城禁令で唐沢山城を廃し、春日丘に城を移した(現佐野城趾)。この時、天明集落が当時の東山道の宿駅だったと云う。しかし、この佐野氏は、ページ最初の〔佐野城址〕で記した様に慶長十九年に改易となり、佐野藩は井伊家や天領に細分されてしまった。


【庚申堂 13:02
 「大橋」を渡って直ぐ土手道を右折して「中橋」の東側に着いて例幣使道に戻る(上記写真の対岸)。工事中の橋を瀬に次の信号を例幣使道は左折するが、「佐野厄除大師」へ道草する為右折する。
 右折して直ぐ左側の「佐野ラーメン ラー」の左隣に庚申堂が建っている。下の写真はその内部を写したものである。
  


〔日限(ひぎり)地蔵尊〕 13:04
 庚申堂のすぐ先左側に日限地蔵尊の御堂が建っている。

   〔日限地蔵尊〕 
 天和二年(1682)江戸、白金の松秀寺より勧請の日限地蔵尊は、人のお姿をした仏様です。
 この世で、みんなの願いをかなえる為です。
 日限(ひぎり)とは、日を決めて願いをかければ、必ずその日までに願いがかなうということです。
 そんなありがたいお地蔵さんです。
 ご自由にお参りください。
     住職

【佐野厄よけ大師(惣宗寺)】 13:08~13:30
 次の信号を左折すると、直ぐ佐野厄よけ大師に着く。信号右手は「天明大橋」。
 最初に出てくる極彩色の唐門は佐野東照宮への入口で、厄よけ大師へも続いているが。その先の山門から入ることとする。
〔春日岡山の歴史〕 
 春日岡と呼ばれ、多くの人から親しまれている寺である。朱雀天皇の九四四(天慶七)年三月、奈良の僧宥尊
(ゆうそん)上人が開いた寺で、最初は日本の仏教で最も古い南都六宗の法相に属し、正しくは春日岡山転法輪院惣宗官寺(てんぽうりんいんそうしゅうかんじ)という。
 藤原秀郷公が平将門降伏の請願により、佐野の春日岡(現在の城山公園)の地に、春日明神の社殿とともにお寺を建て朱雀天皇に申し上げたところ、天皇は大変喜ばれ「春日岡山惣宗官寺」の勅額を賜ったといわれている。それ以来、藤原一門の信仰あつく栄えたが、平安時代の末期保元、平治の頃には衰えた。
 その後比叡山の僧で俊海という人が父の藤原光憲から「春日岡は、わが祖先ある秀郷公の創立した氏寺である。昔、保元、平治の乱に殿堂が焼けて灰になったが、父の志を継ぎ修行の後にこの山を復興せよ。」この事を深く心にとどめ、この寺の荒れ果てたことを憂い、正応年間(鎌倉時代)に信徒を集めて、藤原一族および北条氏一門の有志とはかり、鎌倉幕府九代執権北条貞時をさとして、一二九七(永仁五)年八月に復興完成し、これ以後「法華経」を所依の経典とし、伝教大師を宗祖と仰ぐ天台宗となる。
 その後第十二世の僧豪海のときに一六〇〇(慶長五)年、秀郷公から三十代の佐野信吉公が、唐沢城をこの春日岡(城山公園)に移すにあたり、寺は現在地に移転した。徳川時代には御朱印五十石を拝領し、寺社奉行も置かれ、三代将軍家光公も参拝する等徳川幕府との縁故も深い。また当山は、厄よけ元三大師慈恵大師(御本地・如意輪観音)を安置し、厄よけ、身体安全の祈願を続けており、年毎に信者が激増し、正月大祭には約百万人以上の参拝客を仰いでいる。
〔厄よけ大師とは〕 
 大師は俗姓を木津氏といって十二才の時、比叡山に登り出家し、法名を良源(りょうげん)と称した。九六六(康保三)年十八代天台座主となり叡山中興の祖とあがめられた。九八五(永観三)年世寿七十四才で遷化(せんげ)され、慈恵大師と申し上げる。
 大師は生前より密教の行法を深く修め、多くの神秘奇蹟の多かったことから、俗間の信仰をあつめている。当山安置の大師像は、大師生前の時、画かれた現存する日本最古の御影であり、当山が最も誇り得るわが国の至宝といえる。大師四十二才のとき、比叡山解脱谷においてこの世の人々の厄難苦悩をあわれみ、能化世間苦(のうくせげんく)の秘法を感得したまい、如意輪観世音のご化身といわれている。
 なお当山には、上野寛永寺門跡一品親王直筆による大師称名の御真筆も拝領している。
     寺のパンフレットより

 山門は佐野市指定有形文化財で、寺標には「厄除元三大師」と刻まれている。

   〔山門〕 
 当山が江戸初期(慶長八年)、現在の城山公園より、現在地に移転する際、移されたもので、約十万石の格式をもつ大名の大門といわれており、総けやき造りの堂々たる風格を誇る山門である。
     寺のパンフレットより


 山門をくぐると直ぐ右手に金色の梵鐘が下がっている鐘楼が建っている。

   〔金銅(きんづくり)大梵鐘について〕 
 厄除元三慈恵大師一千年御遠忌を記念して建立された金銅大梵鐘は、人間国宝香取正彦先生によって謹製され、日本一大きな金の梵鐘(つりがね)で、直径一・一五メートル 重量約二トン、黒塗りの切妻造りの鐘楼におさめられている。鐘身の片面中央(池の間)に円相をつくり、中に一切衆生の願望を見たし苦しみを救ってくれる、蓮台上に座る如意輪観音菩薩(厄除大師の御本地)―立てひざをして、頬杖をつき、一つの手に如意宝珠、又の手に法輪をもって人々にやさしくかたりかけている―。
 片面には同じく円相内に如意輪観音の種字子であるキリークをあらわす。そして鐘座の左右に男女の童形合掌像が配置されている。この金鐘をおさめる鐘楼は、日光の国宝修理の権威者で、文化建築の第一人者といわれている中里茂先生によって設計建築された。
     昭和五十九年四月完成


 金鐘の先に田中正造の墓が建っている。正造に関する資料は、ここから約1㎞の「佐野市郷土博物館」に収蔵・展示されている。

   〔田中正造翁の墓〕 史跡(昭和61年12月6日指定)
 田中正造翁(1841~1913)は佐野市小中町に生まれ、この惣宗寺を本拠地として政治の道に進み、栃木県会議長を経て帝国議会代議士となり憲政史上に不朽の名を留め、全生涯を正義の旗手として人権の尊重と自然保護のために捧げました。翁の没後、当寺院で本葬が執行され、遺骨は、ゆかりの地五か所に分骨埋葬されました。
     佐野市郷土博物館 (財)佐野市民文化振興事業団 

 墓の前には、石川啄木の歌碑が建っている。
 夕川に葦は枯れたり
   血にまとう民の叫びの
     など悲しきや
          石川啄木
 近代日本の先駆者田中正造翁は 明治三十四年十二月十日第十六議会開院式から帰る途中の明治天皇に足尾銅山鉱毒被害による渡良瀬沿岸農民の窮状を直訴する 当時盛岡中学四年在学中の啄木はこの感動を三十一文字に託した 奇しくもこの年創立された県立佐野中学校(第四中)の生徒達にも鉱毒の惨状は強い衝撃を与え作文その他に残されている 


 田中正造の墓を右に回ると、市文化財の銅鐘が下がっている鐘楼が建っている。

   〔銅鐘〕 佐野市指定有形文化財(工芸品) (昭和33年1月10日指定)
     口 径  89.99㎝
     総 高  146.04㎝
     重 量  約1125㎏
 明暦4(1658)年、天明鋳工105人が合作して寄進した大鐘で、この竜頭は蒲牢(想像上の動物)の首を現している。慶長以前にはこの種が多く、その後は竜頭に変化した。天明鋳物の中でも代表的な作品であり、銘文に「蒲牢」「洪鐘」等の異名がある。
     平成18年2月 佐野市教育委員会


 この鐘楼の隣にパゴダ供養塔が建っている。下の写真には上記鐘楼が写っている。

   〔パゴタ供養塔〕 ―宝珠は深く仏を信じる魂―
 藤原秀郷公が春日の紳霊を旭ヶ丘姥ヶ城、現在の佐野城山公園に祭祀(朱雀天皇・承平七年-937年-)されてから一千五十年の嘉辰に当たり、これを記念して約五年の才月をかけて建立された。
 三界萬霊有縁無縁の霊戦争災害死者、事故横難死者、水子霊等を供養する功徳莫大な聖衆倶楽部(極楽で受ける十楽の第七極楽ではつねに無数の聖衆が一処に会合して互いに語をまじえ法楽を得ること)の塔である。
 四メートルの方形基壇に、六つの相輪と一つの塔身水煙をつけた宝珠からなり高さ八メートルを有する。
 相輪は六道輪廻を塔身上部は天をあらわし、そこに位置する宝珠は深く佛を信じる魂そのものである。
 高さは力、そして希望であり、シンメトリー(左右対称)は安定と荘厳さである。
 天に向うパゴタを八枚の蓮弁がしっかりと支えている。基壇においては古代インドサンチー遺跡のものをアレンジデザインしている。
     開創一千五十年嘉辰 昭和六十二年五月吉日


 ここを右に本堂参道を進むと惣宗寺本堂に突き当たる。 
御朱印は朱印帳に書いて貰えず書き置きのみになる。但し、今時200円とは実に良心的である。

    「佐野厄よけ大師」の大師は元三大師(がんざんだいし)と呼ばれてる良源のことである。
 ここは、青柳大師・川越大師と共に関東三大師の一つに数えられている。この三寺の他に前回訪れた「寺岡元三大師」や「足利厄除大師」等が三大師の候補に上がっている。
 弘法大師を祀った関東厄除け三大師(川崎大師・西新井大師・観福寺大師堂)とは異なる。 


 本堂の右隣に元三大師堂
  

 更に右に進むと佐野東照宮の敷地になる。

   〔春日岡山東照宮〕 
 徳川家康の霊柩を日光へ遷送する途中一夜安置した縁により、文政11年(1828)造営された。
 唐門、透塀、拝殿、本殿からなり、いずれも昭和67年県の有形文化財に指定されている。
 江戸時代後期の精微な技巧を駆使した装飾彫刻建築の典型である。


 惣宗寺の山門に戻って境内外に出ると、目の前に観光物産館が建っている。
 近隣の土産を沢山売っているが、荷物になるので何も買わずに資料だけ頂く。


【新井屋】 (左側) 13:48
 観光物産館を出て、元の道を戻る。日限地蔵尊堂・庚申堂の前を過ぎ、「中橋」入口交差点で例幣使道に復帰。次の信号を右折して県道67号線を東へ進む。
 信号を二つ過ぎた左側に江戸時代を彷彿させる三棟の建物が並んでいるのが嬉しい。三棟目が味噌まんじゅうで有名な新井屋である。奥も深い。
 新井屋の右脇の道は、行かなかったが星宮神社への参道である。新井屋の角に標柱が立っている。

   


【本陣跡】 (左側) 13:55
 「本町」信号を過ぎ、左手「群馬銀行佐野支店」前の歩道上にあいさつ通りと題する石造りの説明板が立っている。現在の地図と江戸時代の絵図も一緒に載っている。

   〔あいさつ通り〕 
 この通りは、遠く江戸時代には日光例幣使街道と呼ばれていました。朝廷からの使いである公家が、徳川家康を祀る日光東照宮へお参りに向う道だったのです。その一行が泊った本陣があったのもこの界隈です。昭和になると新たに庶民の足となったバス会社が本社をおき、戦後まで営業していました。
 また、通り沿いには、大正時代に建てられた佐野町道路元標があり、かつてここが佐野の道路の起点だったことを今に伝えています。

 〔あいさつ通り〕の説明文に載っていた道路元標が次の「佐野駅入口」交差点にあるとのことだが、見逃してしまった。
 例幣使道は真っ直ぐ進み、「佐野駅入口」信号、「佐野東高校入口」信号を過ぎ、次の相生町の信号を左折する。
 この信号の右角には斉藤眼科があり、立派な門と粋な白塀が建っていた。
  


 今回は行かなかったが、この信号を右折し、突き当たりを左折、踏切を越えた次を右折すると阿曽沼城跡がある。


【西宮神社】 (左側) 14:09~14:17
 信号を左折して直ぐ、右手「浄泉寺」の向かいに西宮神社がある。

   〔西宮(蛭子)神社 えびす様〕  
  本殿 流造銅板葺  弊殿 切妻造銅板葺  拝殿 入母屋造銅板葺
由緒沿革
そもそも西宮神社を蛭子神社と書「えびす」と読む主祭神は事代主神で出雲神話に現われる神で、大国主命を父として天照大神の命を受け国土の献上を大国主命に進言する。民間信仰としては、生業を守護幸福をもたらす神霊として信仰されその姿は、烏帽子に狩り衣指貫を付け、釣竿を肩に鯛を抱えて姿を見ても分かる様に恵比寿は漁民の信仰神であったが、いつの頃か農業神・商業神として祭られ、七福神として大黒天と並び代表的福の神となる。当地西宮神社は「栃木県神社誌」によると大永三年(1523)今から四八六年前、佐野根古屋青柳(今の栃木)に勧請したのが始まり唐沢城主佐野盛綱が祭るその後、唐沢の居城が春日岡(城山公園)に移るに伴い、東組屋敷に祭る。慶長十九年(1614)城主佐野信吉は、所領三万九千石を没取され、信州松本へ追放され幕府直轄領(天領)となったが、元和二年(1616)三九三年前小山城主本多上野介正純に給れ、翌元和三年社は正純の命により阿蘇沼北久保に所替となる(現在地)
その後1934年(昭和九年)今から七五年前十月に改築・総工費・金五千八百四拾弐円四十銭で現在に至る。例祭の十一月十九日は、近郷近在より商売繁盛の恵比須講で賑わう
     平成の改装 平成二十一年(2009)十月吉日

〔引地山日向寺(にっこうじ) (右側) 14:20~14:30
 西宮神社を出て直ぐ右、「洗心幼稚園」脇の細い道に入り、階段を上ってゆくと引地山日向寺(引地観世音)がある。

  〔由緒〕 
 引地山日向寺観世音は後醍醐天皇の元徳の頃に、富士泉応院の法師が、京都比叡山に学びし時に、後醍醐天皇から観音像を賜ったが同天皇の童子、御良親王の死を悲しんだ、親王にお仕えした南の局が泉応院より観音像をゆずり受けて祭ったのが始まりで、当時は山の西に草庵を建て根光寺といいました。
 根光寺は南朝方に関係があるということで足利氏ににらまれて、誰かが本尊を沼に投げ捨ててしまいました。
 正長元年に越名の漁夫の網にかかり阿武塚沼のほとりに安置されてありましたが、阿曽沼城の殿様に毎夜観音像が夢枕に立ち、西の岩山に帰りたいと告げたので、永享三年に富岡の岩山に移して引地山日向寺観音堂となりました。
 天正十三年に小田原勢に攻められ防戦の時に消失し、元和三年に再建しその後寛政十二年十一月十五日に久保町よりの出火で再び類焼してしまったのを、南の局にゆかりのある関根弥惣清則が二十五年の歳月と私財を投じて文政七年に山の東側に東向きの五間四方のお堂を建立して、現在に至りました。


 観音堂の隣には日枝神社(上の写真で奥の建物)が建っていて、その脇を通って進むと東屋が建っている観音山公園に出る。
 ここからの眺望は素晴らしく、日光連山を望むことが出来る。

   〔日光連山〕
 左奥の一番高い山が「男体山(2486m)」、右へ「大真名子山(2375m)」、「女峰山(2483m)」、「赤薙山(2010m)」と続く。
 男体山手前のなだらかな山は「横根山(1373m)」


 「引地観音」先の両毛線踏切手前の十字路で今回の旅は終了(14:35)。
 ここを左折して約1Km先の「佐野駅」へ向かう。
 佐野駅南口ロータリーのある「司馬遼太郎祈念碑」と車で「朝日森神社」を見学して帰宅。


【司馬遼太郎祈念碑】 14:45
 佐野駅南口のロータリー内に司馬遼太郎記念碑が建っている。

   〔この国のかたち 司馬遼太郎 
 この町は、十三世紀からの鋳物や大正期の佐野縮など繊維物による富の蓄積のおかげで町並みには大きな家が多く、戦時中に路地に打水などがなされていて、どの家もどの辻も町民による手入れがよくゆきとどいていた。
 軒下などで遊んでいるこどももまことに子柄がよく、自分がこの子らの将来のために死ぬなら多少の意味があると思ったりした。

【朝日森天満宮】 
 駅北口の駐車場に戻り、車で朝日森天満宮に向う。佐野駅の北西で「佐野高校」の隣にある。
 二ノ鳥居をくぐった長い参道の両側には紅白の梅が並んでいて。社務所に掲げられていた写真見ると、梅の花が咲く時期にもう一度訪れたいと思う程、見事だった。
 また、社務所の裏手に植えられている枝垂れ梅の開花時の写真も美しかった。
 一ノ鳥居は両毛線の線路南側にあるそうだ。

   〔朝日森天満宮沿革〕 
 平安時代 藤原秀郷公七代の孫足利家綱が無実の罪におとしいれられし時 太宰府天満宮に参籠し一心不乱に祈念をしたところ 冤罪がはれ所領が安堵された 家綱はこの偉大な神恩を感謝し 唐澤城中の天神澤に天満宮を勧請し尊崇の誠を尽くした 以来 佐野氏の累代及び一門の先祖の遺志を継承し守護神として崇敬してきました
 その後 慶長七年(1602)時の城主佐野吉信 幕府の命により城を移すにあたり 天満宮も現在地に遷座され 地名を冠し朝日森天満宮と称した 以来 佐野の氏神様として 当地の人々より天神様と呼ばれ親しまれてきました


 約100本の梅の並木を抜けると神門が建っている。
   

 神門内に入ると正面奥に拝殿が見える。
   

 拝殿に詣でる手前右手に菅神廟碑が建っている。

   〔管神廟碑〕 市指定史跡
   碑身  高さ一六三糎 幅六四糎 正四角柱 伊豆青石(通称小松石)
   篆学  正二位行大納言菅原朝臣在家
   撰文  伊豆の人 東里中根若思
   碑字  唐顔真卿書「顔氏家廟碑」より下野の須藤温集字 天明二年(1782)
   建碑  天明七年(1787)須藤温の子茂永

 当宮の御祭神菅原道真公の徳をたたえ、人人を啓蒙し、永く後世までの人人を教え導くために、当時、祭事を奉仕していた松村広休等が、佐野に住み学問を教えていた江戸で有名な陽明学者中根東里先生に碑文をお願いし、先生もその熱意に感じて、この文を作られました。碑字は今から約千二百年前の中国の大書家顔真卿の顔氏家廟碑拓本から須藤温が実に苦心して集字し、その子須藤茂永が建碑したものです。
 この碑のすばらしいところは、天神様の御神威の偉大さと、それを表現した東里先生の名文、刻字の立派なこと、建碑関係者の厚い敬神の念等が見事に渾然一体となっていることで、天下にも稀な信仰碑であります。
     朝日森天満宮 


 管神廟碑の隣に筆塚があり氏の後ろに天神様のなで牛が鎮座している。

   〔神牛「天神様のなで牛」〕 
 梅が天神様のシンボルであるのと同時に、牛(神牛)も天神様のトレードマークです。
 当社の御祭神 菅原道真公は、承和12年乙丑のお生まれということもあり、反芻顔の牛が繰返し噛砕き消化することを学問に擬え、大変かわいがられました。
 天神様の使わしめ(神牛)の耳元でお願いごとを唱えながら、一番気にかかる箇所をやさしく撫でると、繰返し天神様にお願いしてくださり、撫でた箇所と同じところにご利益があるといわれています。
 神牛を撫で、天神様のあらたかなご霊験をいただきましょう。


第7回目終了(14:35) 佐野市久保町の踏切手前十字路

本日の記録】
 江戸時代の街道での距離(両社神社~久保町の踏切) : 一里十町(5.0Km)。
 江戸時代の街道で、久保町の踏切迄の累計:倉賀野駅入口交差点から、十四里三十町(58.2Km)。
 寄り道を含めた実歩行距離 : 9.4Km(富田駅~佐野駅) 累計:76.6Km
 4時間5分 13,700歩

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