成田街道(4) 「津田沼駅入口」信号 ~ 「志津駅入口」信号

2017年3月18日(土) 快晴  

 自宅から自家用車で妻の実家(京成津田沼駅前)迄行き、車を預けて、新京成電車で「新津田沼駅」に9:51到着。
 「新津田沼駅」から、前回終えた「津田沼駅入口」信号迄歩き、その信号を10:10スタート。

(注:解説で街道の左側、右側とは成田山に向っての左右です)

「西船橋駅~津田沼駅入口信号」← 「目次」 →「志津駅入口信号~海隣寺坂」


【前原の百庚申 (右奥) 10:23
 「津田沼駅入口」信号の直ぐ先で新京成線の踏切を渡り、少し行った「前原駅入口」信号を過ぎた最初の「前原東五丁目」の信号を右折すると、突当りに「船橋前原東郵便局」がある。
 その右隣に前原の百庚申と言われる、庚申塔が無数に集められている場所があり、馬頭観世音や三十三夜塔もある。
  


【道入庵 (左側) 10:28
 街道に戻って、直ぐ左側に導入庵があり、境内には、前原新田開発に当った人が建立した延宝三年(1675)の地蔵尊が安置されている。 

 この地蔵尊は、前原町三丁目八六一番地仲村毅旧「江戸屋」宅地内にありましたが当地社寺総代会が郷土史保存を企てました処之に協賛して仲村毅氏より寄贈せられたものであります。此の碑の建立は江戸時代の初期、延宝参年乙卯林鐘(六月)二十四日前原新田開墾に当られた摂洲(兵庫県)多田郡東忠村の人天野四郎兵衛、現「天野家一門の祖」が開墾完成を記念其の昔聖徳太子御作の身丈五尺三寸の地蔵尊石造のありしゆかりの地を撰んで建立されてものであります。依って此の碑安置周辺を地蔵窪と稱する。
     昭和四十一年七月二十四日 前原社寺総代会


 また、地蔵尊の左側には、これから随所で出会うことになる『新四国八十八箇所』の大師堂、右側には第四十九番の石塔が建っている。
 この先の大師堂も含めて、堂には弘法大師の像が安置されている。
      


【前原御岳神社 (右側) 10:37~10:48
 直ぐ先右側の「二宮小学校」手前に前原御岳神社がある。
 参道に入ると二つの鳥居があり、その左側に竣功碑(由緒)出羽三山佐参拝記念碑が十数基並んでいるが、明治期のものが多い。

【天皇御在位六十年奉祝記念事業由緒】 
 御岳神社は 御祭神が速須佐之男命 御神体が蔵王権現像であり 遠近祖孫の尊信が厚い 木造蔵王権現三尊立像は桧材造りであり中尊は像高九十六糎で瞳の部分に水晶を入れている 両脇侍像は像高約五十八糎で水晶の玉眼である 鎌倉時代の製作といわれ昭和三十三年四月千葉県指定有形文化財に指定され 同五十二年東京都明珍昭二によって修理された 
 延宝元年(1673年)上東野新助(旧名為右衛門)はもと大和国吉野に祭祀された尊像を開村の守護神として請い受け 林光院釈仙龍を祠掌として迎えた 江戸の神田鍛冶町から開拓地まえばらの清流湧出する丘に遷座し 新田十二石八斗五合を献じて年年の祭資に充てた 正徳五年(1715年)八月仙龍が職を辞し 田喜野井村正法寺釈精養に委託された 
 明治維新となり神仏分離 神仏職の区分が厳達された 明治三年(1870年)一月権現の称を廃し御嶽神社と改め上東野保義(旧名新次郎)が社掌に選ばれた 社境祭田については 高橋平三郎 森田新左衛門 上東野金右衛門 上東野新八等が田喜野井村との間を周旋して ほぼ元に復し 同十三年四月上東野勇次郎が御神徳の弥栄を祈念し一村の共有に改めた 
 同二十年大火にあい御神体は氏子決死の働きによって難をのがれ小林初太郎方に安置された 本殿復興を期し同年拝殿、同二十六年本殿が再建された 
 第二次大戦後農地改革が行われ 本社領も農地改革の対象とされた 昭和二十八年(1953年)七月田久保美之吉を代表役員とする宗教法人御嶽神社が設立された 同三十一年本殿屋根の改修がなされた 同三十八年二月火災により社殿が焼失し、御神体は難を免れ小林三郎方に一時安置された 同年本社領の二宮小学校敷地を船橋市が買い受けた 同資金及び奉納金により昭和四十年社殿客殿社務所が再建された 同四十九年には神楽殿が新築された 長年にわたり資金の募集に事業の推進に氏子総代諸氏が尽力され氏子諸氏等が協力された 
 天皇御在位六十年奉祝記念事業として同六十一 六十二両年に玉垣造成 造園 擁壁工事が実施された その竣工に際し本社の沿革を記し事業の概略を録し永く奉謝の意を表する
 
     
昭和六十二年(1987年)三月吉日 御嶽神社宮司 田久保敦利 御嶽神社総代会長 瀬山久


 長い参道を進むと境内右側に神楽殿、参道奥に拝殿、拝殿の後方に本殿が建っている。本殿の右には三本の長い葉が特徴の三葉松
(さんようのまつ)が聳えている。
  
(拝殿の右奥の木が三葉松)


【馬頭観音 (左側) 10:50
 「二宮小学校」を過ぎ、左へ下る細い道の入口右角に、四基の馬頭観音が並んでいる。一番右だけに像が陽刻され、寛政五年(1793)の銘がある。
 左角にも碑が建っている。朽ちて良く分からないが、無縁法界供養塔のようだった。
   


【旧二宮役場跡碑 (右側) 10:54
 直ぐ先、「船橋市二宮出張所」の前面駐車場右手に旧二宮役場跡の碑が建っている。
  


【東福寺滝台阿弥陀堂 (左側) 10:57
 その先左側に小さな「船橋市消防団第14分団2班器庫」が建っていて、その後ろに東福寺滝台阿弥陀堂があるが、街道からは一見民家風で、入って行かないとお寺とは思えない。
 その境内には
、第五十五番の『新四国八十八箇所』大師堂と石碑、その横には石仏が並んでいた。
   
 


【長屋門 (右側) 11:01
 斜め向いに立派な長屋門が建っている。
  


【成田山道標 (右側) 11:06
 その先左側にある「宗家源吉兆庵」の向いの電柱の下に成田山道標が建っていて、正面に『成田山』、左側面に『船橋 拾八町』、右側面に『大和田道』と刻まれている。
  


【道祖神 (左側) 11:08
 「宗家源吉兆庵」の二軒隣の駐車場入口右側の電柱の下に、安永八年(1779)の小さな道祖神が建っている。
  


【高憧(こうとう)庵】 (右奥) 11:12~11:20
 次の信号(薬園台入口)を渡ったすぐ、一本目の道(「伊原自動車工業」の横)を右に入った所に高憧庵が建っている。
 現在はお寺としての機能は無いらしく、内部は集会場の様で、壇のみが祀られている。
   

 この建物の右手に墓地があり、木食
(もくじき)僧・観信の墓、観信作と言われる木っぱ地蔵丹羽正伯供養碑が建っている。



市指定史跡(昭和40年3月17日指定) 管理者 木っぱ地蔵保存会

【観信の墓 附 木造地蔵菩薩坐像】 (左上の写真の中央の墓石が観信の墓、右側の祠に左下写真の地蔵が安置されている)
 米穀を絶ち、木の実などを食べて修行する僧を木食僧と呼びます。江戸時代、その一人である観信はこの地に高憧庵を開き、享保11年(1726)に亡くなりました。観信の墓には「開山 権大僧都理性院阿闍梨 木食観信 享保十一丙午歳七月」と刻まれています。一方位牌には「権大僧都阿闍梨理性院木食観信不生位 享保十一丙午天八月六日」とあり、没年の年月に違いがみられます。
 その観信の作と言われ、通称「木っぱ地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩が観信の墓の傍らの祠に安置されています。かつて上飯山満高野にあった「揺ぎの松」という巨木が枯死し、その木っぱに観信が彫ったものといわれています。飯山満町にある「ゆるぎ地蔵」も、同松を用いた観信の作と伝えられています。

【丹羽正伯供養碑】 (左上の写真の左手前の石碑が丹羽正伯供養碑
 丹羽正伯は伊勢国松坂(三重県松阪市)生まれの医師・本草学者です。正伯は江戸幕府の医員となった享保7年(1722)、和薬を作るための薬草園用地として、ここ滝台野30万坪のうち、15万坪を幕府より預けられました。残り15万坪は江戸薬種問屋の桐山太右衛門に預けられ、共に薬園開発を命じられました。正伯は宝暦6年(1756)に江戸で亡くなりましたが、万延元年(1860)、正伯を敬慕する薬園台新田の人々によりこの地に供養碑が建てられました。正面には法名「諦通院日慮」とあります。

     船橋市教育委員会


 上の写真の更に右手には、第四十一番の『新四国八十八箇所』大師堂が建っている。
  


<昼食> 11:30~12:10
 街道に戻って、少し進んだ右側にある「船橋薬円台食堂」で昼食とした。
 この食堂は、沢山の惣菜が並んでいるカウンターから食べたいものを選び、最後に会計をしてテーブルで食べるセルフサービス方式である。
 前菜、主食、小鉢等、好きなものをお腹に合わせて好きなだけ選べるのが良かった。


【庚申塔 (左側) 12:12
 左側、消防車1台きりの消防署の直ぐ先、大きなマンションの手前に庚申塔が四基建っている。
 右から、『御大典記念 庚申塔』と刻まれた大きな板碑型、次が寛延三年(1750)、続いて明和二年(1765)の共に青面金剛像が陽刻されたもの、一番左が『青面金剛 中村』と刻まれた文字庚申塔。
  


【道祖神 (右側) 12:21
 「二宮神社入口」信号に薬円台歩道橋が架かり、成田まで30Kmの標識が掲げられていた。
 その右側にある「メガネ・時計店」の左隣の電柱下に天明三年(1783)の小さな道祖神が建っている。
  


【郷土資料館】 (左側) 12:22~12:26
 直ぐ先左に郷土資料館があるが、残念ながら現在は、耐震補強工事のため、平成30年1月まで休館になっていた。
 資料館の前には蒸気機関車D-51が展示されて、資料館の工事に伴い、平成28年9月から、年末年始と雨天時を除き、毎週日曜日の10:00~16:00まで運転席が公開されている。
 今日は土曜日なのでこちらも見られず残念。
  

 このD-51の前には、昭和三年三月建立の境界石が建っていて、『従是南 千葉郡津田沼町  従是北 千葉郡二宮村』と刻まれていた。
 津田沼駅北口辺りに建っていたものが、ここに移設されてものらしい(とネットにあった)。
  


 郷土資料館とD-51の後ろには薬園台公園があり、そこに移設された明治天皇駐蹕之処の碑が建っているが、見逃してしまった。
 この辺りの広い(船橋市・習志野市・八千代市に跨る)地域は、かつて大和田原と呼ばれていたが、明治天皇が、明治六年(1873)四月二十九日に陸軍の演習を御覧になった。
 その時の篠原陸軍少将の指揮が素晴らしかったので、後日演習した場所を、”篠原に習え”という意味で「習志野原」と命名した。これが「習志野」の地名の由来とされる。


成田山道標】 (右側) 12:56
 資料館の右手は「陸上自衛隊習志野駐屯地・航空自衛隊習志野分屯基地」が広がっている。更にその先右側には広大な「習志野駐屯部隊演習場」がある。
 長い「演習場」のフェンスが終わった信号のある交差点で、船橋市から八千代市に入る。
 次の「新木戸交差点」信号の右側、「さわだ動物病院」の看板下に成田山道標が建っている。その脇には八千代市観光賑わいセンターの『八千代市歴史散歩コース Eコース④ 「成田山」道標』と書かれた標識が立っていた。
 道標の正面には『成田山 是より七(里)』、左側面には『一り塚 大和田町大新』と刻まれている。
  


【血流地蔵道道標 (左側) 12:58
 「新木戸交差点」信号の左側、「出光」のガソリンスタンド角に血流地蔵道道標が建っている。ここにも『Eコース⑤』の標識が立っていた。
 この交差点から左への道も、木下街道と呼ばれている。

【「血流地蔵道(ちながれじぞうみち)」道標】 
 これは、貞福寺の本尊とされた「血流地蔵」を案内する道標です。江戸深川の人たちによって、享和三年(1803)に、ここ新木戸三叉路に建てられました。
 次のような銘文が刻まれています。
   (正面)  地流地(蔵)道
              (壹)里
   (左面)  貞(福寺)
   (右面)  右江 成田
          左江 江(戸)道
   (背面)  江戸深川大工 □者中
         葵享和三年  世(話人) 川崎屋喜兵衛
         亥正月吉日         石屋勘兵衛
 貞福寺は、ここから左に入り木下街道を四キロメートルほど進んだ吉橋にあります。
 吉橋には「吉橋城主高木伊勢守胤貞(たねさだ)が後北条氏に滅ぼされたあと、主君の守り本尊を遺臣が血流地蔵として貞福寺にまつった」という伝承があります。
 この道標は、今まで上部だけがここに置いてあり、下半分は道路工事のために側溝の下に埋まっていました。
 八千代市郷土歴史研究会では、江戸時代の貞福寺参詣の貴重な資料であることに注目し、八千代市の平成十二年度市民企画提案事業としてこの道標下部を発掘し、形を整えて復元設置しました。向かい側の「成田山」道標とともに、交通史の重要な文化財として、後世に伝えていきたいと願っています。
     平成十四年五月 八千代市郷土歴史研究会 愛宕山貞福寺         

【八幡神社 (左側) 13:15~13:22
 「高津歩道橋」を過ぎ、「新木戸八幡公園」の先に、「Eコース⑥」の八幡神社がある。
 正面拝殿の左手に多数の子安像が並んでいて、六基は明治以降の建立だが、手前の一基は天保三年(1832)の建立だった。
   

 拝殿の後ろに本殿が、その後ろに第六十七番の『新四国八十八箇所』大師堂が建っていて、扉が開放されていた。
  
 


【神明社前石碑群】 (左側) 13:27
 「タイヤ館」のある信号を渡った直ぐ先の一段高い所に「Eコース⑦」の石碑群がある。
  

 左から馬頭観音群、上部に庚申塔群、その右に二十六夜塔群等、さらに右に出羽三山碑群がそれぞれ固まって集められていた。
     


【神明社 (左側) 13:32
 上記石碑群右側の石段を上って行くと、石碑群の後ろの小山に「Eコース⑧」の神明社がある。
  

 石段を上ると鳥居が建ち、参道の一番奥に社殿が建っている。
 社殿の手前右側にが建っていて、中には、右手に『仙元宮』、左手に『小御岳 石尊 大権現 大天杓 小天杓』と刻まれた石碑が安置されていた。
 共に富士信仰を表す石碑である。
  


【無縁法界供養塔 (右側) 13:38
 少し進んだ右側、「カラオケSHIDAX」の大きな看板の下に無縁法界供養塔が建っている。
 無縁塔とは、供養してくれる親戚縁者のいなくなったお墓を、寺の境内に、塔として一か所に集められているものが多いが、街道に一基だけ置かれるのは珍しいのではないか。
  


【おたきさん道の道標 (左側) 13:45
 「工業団地入口」信号を渡った左角に、「Eコース⑩」のおたきさん道道標が建っている。
 道標の正面には『おたきさん道 是より壱り半□』、左側面に『麦丸村 願主 櫻井幸八 櫻井幸七 佐倉□町 舛屋武右エ門』、右側面に『慶応元巳丑年七月』と刻まれている。
 「おたきさん」とは、ここから北西に直線距離で約6Km、船橋市金杉にある「御瀧山
(おたきさん)金蔵寺」という寺院のことで、通称「御瀧不動尊」と呼ばれている。
  


【大和田宿】 
 大和田村と萱田村にまたがった宿で、成田街道のほぼ中間に位置するため、江戸を発った成田詣での旅人が最初に泊る宿場として大変賑わった。


【新四国三十二番碑 (左側) 14:01
 おたきさん道道標の直ぐ先右側に「Eコース⑬」の一本松・石造物群とあるが、小柴家の個人的な墓ばかりに見えたので、ここはスルーした。
 三叉路を真直ぐ進み、「大和田新田下区公会堂」バス停の所を左に入ってすぐ左側に新四国三十三番碑が建っている
(左下の写真で、町内案内板の左下)
   


【大和田新田下区公会堂 (左奥) 14:03
 上記写真の道を入っていた突当りに「大和田新田下区公会堂」があり、その右手に二つの祠が建っている。
 一つは不動明王堂で、もう一つは第三十二番大師堂である。上記のはこの祠の案内であった。
 その他に大師像秩父・西国百観音・坂東四国八十八箇所霊場の巡拝記念碑が並んでいる。
   


【石造物群 (左側) 14:10
 直ぐ先「昭和ゴム工業」の角、左に入る道の対面に「Eコース⑯」の大和田新田下区・石造物群がある。
 十九夜塔や子安塔等が建っているが、像が崩れているものが多い。
  
側面 
街道面


【無縁法界塔】 (左側) 14:20
 「大和田新田」信号を過ぎ、「市役所入口」信号を渡った直ぐ左の「さわ田茶屋」の右角に文久元酉年(1861)の無縁法界塔が建っている。
   


【長妙寺 (左側) 14:24
 「八千代市萱田町歩道橋」を過ぎた左に長妙寺がある。
 山門をくぐって正面に本堂が建ち、その左手に墓地が広がる。その墓地を入って直ぐの所に八百屋お七之墓が建っている。
 墓碑の台座には『天和二年三月二十九日 妙榮信女 八百屋お七』と刻まれている。本郷の自宅が火事になったのが天和二年(1682)十二月、放火のため火刑に処せられたのが翌年の天和三年三月二十九日なので、台座の年月は?
 諸説あるが、お七は現在の八千代市大和田の生まれで、子供がなかった江戸本郷の大きな八百屋に養女として迎えられた。天和二年に自宅が火事になった時、現在の文京区白山にある円乗寺に避難した。避難中、寺の小姓と恋仲になり、やがて再建された自宅に戻ったが、小姓に会いたい一心でつけ火をした。このため火刑に処せられので、実母がこれを悲しみ彼女の骨を探し出し、ここ長妙寺に葬ったと云う。
 円乗寺にも、八百屋お七の墓があるが、こちらは供養塔である。中山道第1回目で円乗寺を見逃してしまったのが、今でも残念に思う。
  
 


【明治天皇行在之處 (左側) 14:32
 「成田・佐倉(国道296号)↑ → 大和田駅(県道201号)」の道標が掲げられている柱の左側で、「東京東信用金庫八千代支店」の手前の駐車場入口に明治天皇行在之處碑が建っている。
 大和田町が大正十一年九月に建立したもので、裏側に碑文が刻されているが、現在では使われていない文字が多くて書き写すことが出来なかった。
   


【かやた道の道標 (左側) 14:36
 三叉路の信号を渡ってすぐ左側に、東芝ストア「河野電機商会」があり、その手前左へ入る道側の店に接する角にかやた道の道標が建っている。
 正面には『可やた道 いつな大権現道』、右側面に『従十二町別當長福寺』、左側面は電柱の陰に隠れて判別困難だが、何とかカメラだけ突っ込んで写した所『天保四(1833)癸巳六月吉祥日』と読めた。


【薬師寺】 (右側) 14:46
 少し進んだ右側に山門がぽつんと建っているが、街道に名前が出ていない薬師寺がある。
 山門の先、右手に本堂、左手に第五十九番の『新四国八十八箇所』大師堂が建っていて、突き当りには子安観音等の石仏が並んでいる。
    


【時平神社 (左側) 14:52~14:57
 国道は宮坂を下って行くが、その坂の途中左側の石段を上った所に時平神社がある。
 石段を上ると鳥居があり、その先にブロック塀で囲われた小さな社殿が建っている。由緒等は何も無い。



 この周辺には時平神社が、ここを含めて四社ある。何れも御祭神は、ライバルの菅原道真を大宰府に左遷させた左大臣・藤原時平である。
 菅原道真が左遷先で亡くなると、その直後に時平も延喜九年(909)39歳という若さで死去した為、当然のことながら道真の祟りであると噂された。
 時平をはじめ親族が次々と亡くなった状況下で、祟りを恐れた妻と娘(高津姫)が大阪から船で逃げ出し、下総の久々田(くぐた)に上陸した。
 親子は現・船橋市の二宮神社に身を寄せ、道真の霊を供養した。
 
その後、移り住んだ場所が、高津姫の名を取って高津と呼ばれるようになったと云う。
 高津には「高津(ひめ)神社」や「高津観音寺」があることから、高津姫の伝説を今に伝えている。

 時平神社は、高津姫が時平を祀ったもので、八千代市にこの神社があることについては、八千代市郷土博物館のHP「八千代の伝説・その1」に、『一説には「三山の荘(みやまのしょう)」と呼ばれる荘園があった縁だとも言われているが、定かではない。』と書かれていた。『高津は、この荘の範囲だったと考えられる。』ともあった。


 ここは、高台にあって右手が開けているので、「村上」から「勝田台」方面の展望が良い。
  


【新川 15:05
 宮坂を下って、新川に架かる「大和橋」を右側の歩道用の橋を使って渡る。
 この川は幕府が印旛沼の干拓と治水の為に作った川で、現在、左手に大和田機場がある。
  左(北)側 
右(南)側


【皇産霊神社】 (左側) 15:09
 橋を渡った左側に皇産霊神社がある。私達は右側から写真を撮っただけで境内には行かなかった。
 読み方は、「みむすびじんじゃ」と思われるが、「こうさんれい」と呼ぶ人も??
 境内には、八千代市保存樹木の”えのき”が植わっているが、上部が切られて痛々しかった。
  


白籏神社】 (左側) 15:12
 直ぐ先、国道16号線と交わる「下市場」交差点手前左側に白旗神社がある。こちらも右側から写真を撮っただけで境内には行かなかった。
 白幡は源氏の旗印である「白幡」に由来して、源氏の氏神である誉田別命(応仁天皇)が御祭神。
 境内左手には、第十六番大師堂が建っている。
  


【長屋門】 (左側) 15:16
 「下市場」交差点を渡って直ぐ左側に立派な長屋門が建っている。
  


【八坂神社 (右側) 15:19~15:23
 次の信号手前の「大洋鮨」の隣に八坂神社がある。
 入口入った所に道祖神が祀られ、鳥居をくぐって狛犬の手前右に第七十八番大師堂が建っている。
   

 社にお参りして、社殿の右側に進むと、一番奥の右に道標兼庚申塔が建っている。
 正面に『庚申塔』の文字と三猿、右側面に『右さくば 左よこと ちば ミち』、左側面に『天保十一子三月吉日』(1840)と刻まれていた。
  
 


【台町稲荷神社 (右側) 15:27
 信号を渡って「勝田台」に入るとすぐ左側に台町稲荷神社がある。
 

 石段を上り、鳥居をくぐると直ぐ左に庚申塔子安塔群、参道右に第八十四番大師堂
   

 正面の民家風建物の後ろに社殿が建っている。
  


【道標兼庚申塔 (左側) 15:44
 「勝田台入口」の信号を渡ると、八千代市から佐倉市に入る。
 次の信号を越えた先、左側の「auショップ」と「ゴルフ5」の間の道の「ゴルフ5」側の角に道標兼庚申塔が建っている。
 正面に『庚申塔』、左側面に『本木下道』と刻まれていた。
  


【大師堂】 (右側) 15:52
 少し進んで、右側「井野町会館」の前に大師堂が建っている。左側は「マツモトキヨシ」。

【記碑】 
 仏法遥かにあらず。心中にして即ち近し
                     空 海

昭和56年11月29日付 井野町区祭壇管理運営委員会役員
  会   長  氏名略(以下同じ)
  副 会 長
  会   計
  監   査
  運営委員
 管理する祭壇は、御大師諸巡行を保つ海上山千葉寺のご縁により 平成25年6月4日生前供養。管理運営費は、井野新田番外大師堂改築に寄進。記碑建立をもって了す。  合掌
     平成26年3月吉日建立 世話人 


 大師堂の後ろに見えている道を入った奥に、妻が管理しているレオパレスがあるので、確認の為しばし寄る。
 その後、直ぐ先の「マクドナルド」で20分休憩。


【成田道道標と常夜燈 (左側) 16:24
 その先、茶色いビル「アメニティハイム21」の前に成田道道標と常夜燈が建っている。

【成田道道標と常夜燈】 
 これらの石塔群は、成田山新勝寺に参拝する旅人のために建てられたもので、向かって右側の道標は、歌舞伎の名優である七代目市川団十郎が、天保二年(1831)に建立し、ここから北一五〇メートルに所在する加賀清水を「天はちち 地はかかさまの清水かな」と詠んだ句と成田山への信心が記されています。
 中央の道標は、明治二十七年に信集講社の岩田長兵衛が建てたもので、成田街道沿いに五基確認されています。
 左側の道標は、江戸の豪商・古帳庵夫妻が天保十一年(1840)に大和田原(現・八千代市)の情景を詠んだ自作の句を刻んで建てられました。三基の道標は、当初は現在の場所から西側の道路角にあったものを移設しました。
 中央奥の常夜灯は、文政十年(1827)に加賀清水の水を汲み、茶を振る舞って繁昌していた林屋の前に建てられ、今も当時と同じ場所にあります。林屋は、『三峰山道中記図絵』(明治四年)に描かれ、「御贔屓の恵も厚きはやしやと人にたてられ石の灯籠」と詠まれており、当時の賑わいがうかがえます。
     平成二十五年十一月 佐倉市教育委員会 

【加賀清水公園 (左奥) 16:29
 この茶色いビルの左側(道標の手前)の細道を北に入って行くと、突当りに加賀清水公園がある。
 公園には、湧水を湛えている池がある。過去には湧水が減って池がかれてしまう事が多かったそうだが、地域の協力で雨水浸透マスを設置したした結果、湧水は増え、池がかれてしまう日数が激減したそうである。
 池の奥には厳島神社が建っている。

 この清水は第八代佐倉城主大久保加賀守忠朝(1678~1686)が愛飲し、江戸への往来の時に必ず立ち寄ったところから、加賀清水、または井野清水と呼ばれるようになったと伝えられる。
 その後、成田街道脇の林屋という茶屋がこの清水を客に振舞っていた。現在国道二九六号線脇に、加賀清水道路標があり、往時の林屋の繁盛振りが偲ばれる。
     昭和五十七年三月 佐倉市

【稲荷神社】 (左奥) 16:32
 加賀清水公園の左隣に稲荷神社がある。
 境内には如意輪観音像や出羽三山碑が沢山並んでいる。
  



 街道に戻って、少し先の「志津駅入口」信号で本日の行程を終了し、京成本線「志津駅」より「京成津田沼」に戻って車で帰宅。
 



4回目の旅終了(16:40)。志津駅。

本日の記録】
 現代の街道のみの距離は、12.2Km(「津田沼駅入口」信号~「志津駅入口」信号)。
 累計:水戸街道と成田街道の追分(「中川大橋東」信号)から、30.1Km。
 寄り道を含めた実歩行距離は、15.8Km (新津田沼駅~志津駅) 累計:48.0Km
 6時間50分 24,200歩。

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