大山街道(5) 江田駅 ~ 東名入口交差点(南町田駅)

2015年4月26日(日) 晴

  「江田駅」を9:30スタート。

(注:解説で街道の左側、右側とは大山に向っての左右です)

高津交差点 ~ 荏田宿(江田駅) → 「目次」 → 「東名入口交差点 ~ 海老名駅」


 「江田駅」の南側ガード下から国道246号(厚木街道)へ出て右折する。直ぐ先を右折して東急のガードをくぐり、左折する。
 暫く線路沿いの緩い上り坂を進み、東急のトンネルが見える二股を右斜めへ行く。
 左の写真で、道路上にポールが立っている所を右折。

【市ヶ尾竹下地蔵堂】 (右側)
 上の写真で右折した次の二股では平行している右の「長谷第一公園」脇の旧道を通り、直ぐ元の道に戻る。
 左カーブした先の「市ヶ尾小学校南側信号」を右折すると「地蔵堂下信号」手前の右手高台に市ヶ尾竹下地蔵堂が建っている。

 石段の下に庚申塔や地蔵尊の石仏が並び、石段を登って正面が地蔵堂。
 地蔵堂の右手にも石造物が多数並び、その真中には統誉上人の墓が建っていて、墓碑には宝暦元年(1751)と刻まれている(真中の一番高い墓石)。
 ここには統誉上人即身仏の伝承があるとのこと。

【市ヶ尾横穴古墳群】 (右奥) 
 市ヶ尾竹下地蔵堂から裏道に出て左に進み、道成りに右折して「市ヶ尾小学校」の脇を行くと、小学校の北隣の「市ヶ尾遺跡公園内」に、市ヶ尾横穴古墳群がある。
 6世紀後半から7世紀後半に造られたA群、B群の二箇所に分かれている横穴墓(おうけつぼ)群が見られる。
 入口から見学路を上って行くと広場があり、横穴墓群の説明と配置図が描かれているタイル板が置かれている。

【横穴墓群】 (説明文の一部に欠損(ピンク部)があった為、想像で記載した)
 
鶴見川上流の市ヶ尾周辺には、丘陵の谷間の崖面に、多くの横穴墓群がつくられています。
 市ヶ尾の横穴墓群は、その代表的なもので、6世紀後半から7世紀後半にかけてつくられたA群12基、B群7基の計19基からなりたっています。これは、横穴墓内部から発見された副葬品から、この地方の有力な農民たちの墓地と考えられています。この市ヶ尾横穴墓では、前庭部と呼ばれる横穴入口にちかい墓道の部分からも、刀・土器類などが発見されました。ここで死者をいたみ、祖先の霊を祭る儀式が行なわれていたのではないかと考えられています。また、19基の横穴の内部のつくりにいろいろな形式がみられ、時代とともにしだいに変化していったようすも、うかがえます。
 昭和8年(1933)・31年(1956)に発掘調査が実施され、昭和32年(1957)に神奈川県史跡になりました。

 
 広場の後ろの斜面にA群横穴墓が12基並んでいて、斜面への登り口に横穴墓と前庭部の説明タイルが置かれている。

【横穴墓と前庭部】 
 昭和57・58年(1982・1983)、横穴群前面の広い前庭を発掘調査した結果、それぞれの横穴入口にいたる墓道(ぼどう)が発見され横穴の造られた順序なども推定できるようになりました。また、A-4号横穴の前庭部からは、須恵器(すえき)の甕(かめ)の破片が、並べられたような状態で出土しました。この頃の須恵器は、日常用品の土師器(はじき)とちがって、古墳に葬られる死者にそなえられたり、墓前の儀式に使われる貴重な土器でした。古代の人たちは、どのような思いをこめて、この大切な須恵器を墓の前で、割ったのでしょうか。


 横穴墓の一部にはワイパーが付いたガラスが嵌め込まれ、自動点灯のライトで当時の墓内部の様子が見られる様になっている。
  A-8号横穴  A-12号横穴

 A群から右へ、B群に向う山道の途中に再びタイル説明板が置かれ、古代社会と横穴墓や副葬品・道具等の説明と保存整備について書かれていた。
【古代社会と横穴墓】 
 古墳がさかんにつくられた時代を、古墳時代(4~7世紀)と呼んでいます。
 古墳は九州から東北地方にまで広く分布していますが、この時代の特徴は、日本にも統一的な国のしくみができたことです。農耕社会が発展し、人びとの間には貧富の差や身分の差が生じ、各地に有力な豪族があらわれてきました。これらの豪族たちをさらにまとめて大和政権が誕生したのです。古墳は、こうした豪族たちの墳墓として、彼らが支配する地域を見渡すような場所に、自然の地形を利用したり、人工的に土を盛り上げたりしてつくられました。古墳時代後期(6~7世紀)になるとこうした豪族たちの下で、村の中にも貧富の差が広がり、家父長を中心とする農民の家族が成長してきます。彼らは水田耕作に適した河川の中・下流域ばかりでなく、上流域の丘陵地帯にも耕地を開き、集落を営み、横穴墓や小さな円墳などの群集墳をつくりました。

 山道を少し登った所にB群横穴墓が7基並んでいる。
 また、この高台から大山・富士山・丹沢山地等が望める展望図が掲げられていたが、木々が生い茂り景色を見ることは出来なかった。
 B群にも開口している横穴と閉鎖保存している横穴がある。

【B群横穴墓】 
 B群横穴墓は、A群横穴から南へ約40m離れた丘陵西側斜面につくられています。横穴墓群は、7基から構成され、これらは発掘調査によって6世紀後半から7世紀後半にかけてつくられたことが明らかになるとともに、B-1小群(1~5号)とB-2小群(6・7号)の二つの小群からなっていることがわかりました。また、それぞれの横穴入口部の前面には、比較的せまい前庭部が、ほぼ平坦につくられています。

【B-7号横穴】 
 横穴の大きさは、玄室で奥行き約2.5m、幅約3m、最大高さ2.2mです。玄室内部の羨道(せんどう)より一段高く、周囲には排水溝が設けられています。
 横穴内部には、岩盤の層の間にある砂層や弱い土の層が削られた状態にあり、天井や壁は表面の岩盤が崩れ落ち、すでに羨道は崩壊しています。このように危険な状態にあることから保存のため、内部に補強措置を行い入口を閉鎖しました。その補強は、床や壁、天井に和紙を貼り、厚さ50cmの発砲スチロールブロックを積み重ね、天井などとの隙間に発砲セメントや発砲ウレタンを充填しました。
 これらの材料が構造体となって、天井や壁を支えています。そして入口は土色に仕上げた厚さ10cmのコンクリートの板で塞いでいます。 

【旅籠綿屋】 (左側)
 街道に戻り、「地蔵堂下信号」の次の道を左折して緩い「猿田坂」を下る。その途中右側に「入定塚の碑」が建っているとのことだが、見つからなかった。
 坂を下った十字路の左側に建つ古い二階建てが、明治十五年に建てられたという旅籠の綿屋だった建物。明治末期に廃業したとのこと。
 道を挟んだ斜め向い側には茶屋兼旅籠の「石橋屋」と「小石橋屋」があったと云うが、こちらは現在マンションになっている。
  


【川間橋】 
 綿屋の右横を抜け、広い県道にぶつかったら右折し、次の「総合庁舎入口交差点」を左折して谷本川(下流は鶴見川)に架かる川間橋を渡る。
 往時の大山道は、広い県道を真直ぐ横断して谷本川を渡り下記の大難の辻で合流していた。
 川間橋は、江戸時代末期に川間吉兵衛が私費で橋を架け、利用者から三文取ったから、「三文橋」とも呼ばれた。また、葛飾北斎の浮世絵・大山道にも描かれている橋である。
  
川間橋  谷本川


【大難(おおな)の辻】
 川間橋を渡った先の二股は大難の辻と呼ばれ、昔は急坂で、大雨による土砂崩れが起きるとこの辺りまで土砂が押し寄せた為に名付けられたと云う。この二股は右の細い道に行く。
  


【田中屋】 (左側) 
 次の十字路を渡った左側に田中屋があるが、ここは、マムシ治療薬を販売していた店の跡で、三代将軍・徳川家光も使用したと伝える。
 真直ぐ進む。
  


【一里榎】 (右側) 
 その次の十字路右角の民家の庭に一里榎がある。樹齢600年以上で、明治三年(1870)の火災で幹が空洞になってしまったそうだ。
 このエノキは、横浜市の名木古木に指定されている。
  


【醫薬神社】 (右側) 
 一里榎の先の突当り手前右上に、小代官の家跡があると云うが良く分からなかった。小代官とは屋号だそうだ。
 突当りを左折し、次を右折して上り坂を登った「医薬神社前交差点」の右手「柿の木台第三公園」の奥に醫薬神社がある。ここは明治初年に神仏分離で廃寺となった「東光寺」跡である。

【醫薬神社由緒】 
 戦国時代末期の天正年間(1573~1592)、真言宗関東三ケ寺の一つとして創建された醫王山薬師院東光寺の境内に山号の「醫」、寺号の「薬」を取り「醫薬神社」として祀られたのが始まりという。
 江戸時代末期、水戸藩主徳川済昭の庶子として生まれた東光寺住持諦恵が明治初年に新政府が神仏分離令を発布したとき水戸神道を奉じて僧侶から神職となり、近隣の上谷本・下谷本・上市ヶ尾・成合の四ケ村の檀家は神社神道に改宗し、東光寺を廃祀して醫薬神社を独立創祀した。
 諦恵はこのとき谷本の村名を姓として名乗り、こんこんと湧き出る境内の井戸に因み名を泉と称した。
 当所の社殿は、一尺五寸四方の小祠で、昭和の初期に改造営したが、戦後に至って朽ち果てたため新社殿を再建し、昭和四十二年三月二十一日遷座奉祝祭を斎行した。
 その後土地区画整理事業により街並みが一変したため、社殿の向きを南向きに変えた。
 御祭神大国主神が稲羽の素兎を助けた神話に因み、病気平癒・厄除・安産成就・無病息災・延命長寿のご利益のある神社として遍く崇敬されている。

 社殿の右側と公園との間を社殿の裏手に回ると、覆い屋の中に双体道祖神地神塔・大師坐像・五輪塔が建ち、地神塔の側面に『左リ大山道』、その左隣の大師坐像の台座にも『左大山道』と刻まれていた。
 一里榎の方から歩いて来た場合は、公園手前の細道を右に入り、石段を登れば、神社より先に出合える。
  


<昼食> 
 「医薬神社前交差点」で左折し、突当りを右折すると上り坂、左手に「ゴルフクラブ」がある。更に上って行くとやがて坂のピークなり、今度は下る。
 下る途中の左側に「藤が丘地区センター」があり、トイレと飲食スペースがあるのでお八つ休憩するにはもってこいの場所である。
 和菓子店ある突当りを左折し、次を右折するのであるが、その左角にある「ジョナサン藤が丘店」で昼食をとった。
 往時の大山道は、和菓子店の所を直進していた。この和菓子店から長津田宿へ入る「片町交差点」迄の旧道は殆ど消滅しているので、左折と右折を何度も繰り返すことになる。
 「ジョナサン」で右折せずに国道下をくぐり真直ぐ行けば300m程で、東急「藤が丘駅」に着く。


 「ジョナサン」の所で右折すると上り坂になり、「ビバホーム」の前を通り、右カーブした次の十字路を左折して「ヤマダ電機」前を進む。その先の信号を左折して国道246号と東急線をまたぐ陸橋の「再勝橋」を渡る(左の写真)
 陸橋を渡ったら次の信号を右折、更に突当りを右折して「つつじヶ丘第二公園」前を左カーブしながら進む。
 坂を下り切った所の広い道を右折し、国道下をくぐると「青葉台交差点」に着く。ここを右折すれば直ぐ東急田園都市線の「青葉台駅」。
 大山街道はこの交差点を左折する。直ぐ次の国道のガード手前を右折して、しらとり川に架かる「榎田橋」を渡ると緩い上り坂。この川の右側は暗渠となっている。
 突当りを右折し、次の十字路を左折して急な坂を右カーブして上ると、左側に日本料理「青柳」がある。次の十字路を左折し、その次の「宮川酒店」のある十字路も左折して、すぐ右折する。

【宝篋印塔】 (左側) 
 「ホテル」前を通り右カーブして下り、左側の墓地に沿って左折する。曲がると、墓地に上がる石段が四ヶ所あるので、三つ目の石段を登ると大木の下に、元亀四年(1573)の銘がある宝篋印塔が2基完全な形で保存されている。傍らに五輪塔も建っている。
 この宝篋印塔は、恩田卿に居住していた地方武士の糟屋家が法要時に造立したものと云われる。
  


【石塔坂の供養塔兼道標】 (右側) 
 墓地を出ると直ぐ国道に合流するが、その手前の右側、駐車場前に供養塔兼道標がある。台座正面に擦れているが『上り江戸道・下り大山道』、右側面に『文化三年辰年』(1806)、左側面に『四月二十三日』と刻まれていた。
    


【長津田宿】 
 国道を右折して、恩田川に架かる「恩田大橋」を渡ると青葉区から緑区に入る。
 「片町交差点」を渡ると、右斜めへの「大山街道の案内柱」が立っているのでそちらへ進むと長津田宿の下宿に入って行く
(下記写真)
  
 長津田宿は、江戸初期から宿駅に指定。江戸から九里、荏田宿から二里、鶴間宿へ一里。宿場の家数は幕末頃で約五十軒。昭和二十八年(1953)の大火で宿場の面影は焼失してしまった。


【片町地蔵堂】 (左側) 
 横浜線のガードをくぐり、坂をほぼ登りきった左側に地蔵堂があり、三軀の地蔵が祀られている。
 内一体に『向テ右かな川』、他の一体に『南つる間 東江戸道』と刻まれていた。
 地蔵堂の広い道路を挟んだ向かいに「道路改修記念碑」が建っている。
  


古碑群 (右側) 
 地蔵堂の少し先左側に、古碑群下宿常夜燈には『文化十四年』(1817)、地神塔には『てんくわ泰平 五穀成就』、庚申塔には『元禄六年』(1693)と刻まれていた。他に馬頭観音・地蔵尊・弁財天が並んでいる。
 常夜燈の前には碑文がある。


【記】 
 この古碑群は、古くは元禄(1690年代)より地域の信仰の場として庚申塔・道祖神・大山講・地神尊等を崇拝し、天下泰平、五穀豊穣、家内安全を願い、祈り代々引き継がれて今日に至っている。
 以前は田奈村長津田大字長津田字前沢一六五二番地に昭和九年四月国より窪田トヨ、河原一平、新倉金之助、久保田五平、河原藤太郎ら五名の共同名義で払下げを受け古碑を整備され、今回横浜市都市計画道路山下長津田線工事に伴い一部を復元し、本土地に移築整備したものである。
     平成二十戌子年十二月十日

 常夜燈の説明文。
【長津田宿常夜燈二基】 横浜市地域史跡(平成元年12月25日登録)
 県北を通る公道矢倉沢往還(大山街道)は、東海道の裏道にあたり、大山参詣の信仰の道でもありました。長津田は江戸初期から荏田とともに宿駅に指定されていました。
 現在、上宿、下宿に常夜燈が残されています。当時の宿の繁栄を物語るものの一つです。
●上宿常夜燈(緑区長津田町2322-1)
  総高二四〇センチメートル、天宝十四年(1843)に宿中の秋葉山講中が建立したもの。
●下宿常夜燈(緑区長津田町5丁目1652-1)
  総高二一〇センチメートル、文化十四年(1817)に宿中の大山講中が建立したもの。
     平成二年三月 横浜市教育委員会


 ここは、長津田十景の7番目「下宿晴嵐(しもじゅくせいらん)」の地である。
 古碑群群右横の広場には長津田十景のタイル絵が嵌め込まれており、この先の歩道上にも嵌め込まれていた。

【長津田十景⑦下宿晴嵐】 
 宵闇のなか旅人を迎えてきた常夜燈はまさに長津田の宿場町の歴史を象徴する歴史的資産であり、晴嵐はかつての宿場町の活気を表わします。
 宿場の入口には常夜燈があり、灯火を灯して道を照らし、宿場の安全と暗い夜道を行く旅人のための道しるべでありました。
 下宿常夜燈とともに上宿常夜燈も横浜市の地域史跡に登録されています。
 平成20年12月この地に移築されました。
     長津田地区まちづくりの会 緑区チャレンジ提案事業

【大林寺】 (左奥) 
  寄らなかったが、「長津田駅南口入口交差点」手前の細道を右に入ると隋流院がある。この寺の旧号が「長蔦寺」で、これが長津田の地名の由来になったとのこと。
 「長津田駅南口入口交差点」を左折し、二つ目を右折すると、江戸時代に長津田領主岡野家の菩提寺として建立された大林寺がある。

 正面の門に向う途中に閉じられている横門があり、続いて大きな延命地蔵尊が祀られている。
 その先右折すると、大きな仁王像が立つ山門があり、くぐると正面に本堂、左手に鐘楼、裏手の墓地には領主や、初代引田天功等の墓がある。


 また、ここは、長津田十景の1番目「大林晩鐘(だいりんばんしょう)
の地である。


 
【長津田十景①大林晩鐘】 
 大林寺は江戸時代に旗本岡野家の菩提寺として建立され、平成20年に再建されました。
 晩鐘は夕靄
(もや)に包まれた鐘の音を表現しています。
 ここで見逃してはならないものは、山門をくぐり正面に本堂、右側に客殿、左側には五百羅漢堂、座禅堂があり、裏の墓地には領主岡野家殿様の墓地、関根範十郎、引田天功、兎来
(とらい)(俳句の号)等の墓地があります。
 領主岡野家のお墓は横浜市の地域史跡にも登録されています。
     長津田地区まちづくりの会 緑区チャレンジ提案事業

【お七稲荷】 (左奥) 
 大林寺の山門を出て南に進み、突当りを右折して大通りを横断した先の道、「コメダ珈琲店」の後ろのマンション「エクセルコート」の入口にマンションに向って八百屋お七を祀るお七稲荷がある。
 但し、名称等は一切書かれていなかったが、この先のも祠等が無かったので、これがお七稲荷と思われる。
    


【大石神社】 (右側) 
 街道に戻って少し進むと、コンビニ(ファミリーマート)のすぐ先に右に登る細道があるので、そちらに入る。
 ここは大石神社の女坂で、上がるにつれて急坂となってゆく。その坂の途中左側に天保十四年(1843)に宿の講中が建立した長津田上宿常夜燈が、その隣に翌年に建立した地神塔が建っている。
 常夜燈の説明文は、上記【古碑群】で載せた【長津田宿常夜燈二基】と同じ文面であった。
  女坂  

 坂を登り切ると在原業平を祀る社殿がある。
 帰りは、社殿正面の男坂を下ると大山街道に戻る。



 男坂
【大石神社について】 
 当社の由緒については詳ではない。
 たヾ新編武蔵風土記に載る所によると、元長津田村大石権現社を称し、在原業平朝臣(ありわらのなりひらあそん)をまつったものとつたえられている。万有百科大事典によると、業平朝臣は平安朝前期の人(825~880)平城天皇の孫にあたらせ、古今の和歌の先駆をなし、美男で放縦な性格を持つとされて居る。
 御神体はだ円形の自然石で、文字等の刻込は全くなく現在本殿に四角な台石に、下部をはめ込んで立ててある。台石の上に現れている部分の高さは一・三五米、中央部の一番広い所の幅一・一〇米、上部は漸次細くなりて突起となる。正面から見ると円味をおびいかにも均衡の取れた、形のよい石を田奈郷土誌にも記されている。
 又、武蔵風土記に、神石は昔武相の国境にあつたが、武蔵、相模、両国の百姓己々其の帰属を主張して譲らず遂に争いとなったが神意により武蔵に鎮座したものと言われる、その神意とは、古老は語る、神石を積んだ車は曳けども押せども、相州方面には動かず、而して、武州方面には易々と動いたと言う。
 神石の在ったところと称する地点を元石と言い、今尚その地方が現在して居るのである。
 古老又曰く、業平朝臣は此の地で、その討手か、又賊かに取りかこまれ、周囲から火を放された。火勢ようやく、衰えたあとには、人影更になく、某所に残されたものは大きな丸石たヾ一個、以上が神石にまつわる伝説である。従ってその真疑については問う所ではない。
 下って、元禄七年五月、領主岡野平兵衛社殿を修復し、更に宝暦二年六月社殿を造営した旨、現存の棟札に記してある。
 大正十二年五月、神明社、稲荷社を合し、同年九月一日関東大震災により石造本殿が崩壊したので、宮内省より御用材を賜りて再建したが、早急のため粗末であったので、後日現在の蔵造りに建替えをした。又、此の当時まで境内に業平竹と言う竹林があったが今はいずこもそれらしきものは見当たらない。
 昭和二十一年八月一日宗教法人法により神社本庁の宗教法人を設立宗教法人をして届け出て今日に至る。尚 祭礼日は毎年十月十日を定められている。
  本殿 土蔵造かわら葺九・五四平方米   
  拝殿 木造入母屋宮造トタン葺十九・〇八米
  境内面積四,三〇八平方米          
  所在地 長津田町二三二二番地
     大石神社奉賛会


 ここは、
長津田十景の3番目「大石観桜(おおいしかんおう)」の地である。

【長津田十景③大石観桜】 
 王子神社とともに長津田の鎮守である。境内に続く坂の途中には上宿常夜燈があり、宿の名残を感じさせる。市指定の名木とともに桜があり春には美しく開花します。
 大石神社は長津田宿の西方の小高い丘の上にあり、南が正面で大山街道に接しています。ご神体は石神で、この大石には在原業平朝臣をはじめいくつかの伝説があります。
     長津田地区まちづくりの会 緑区チャレンジ提案事業

【長坂】 
 大石神社の正面石段を下りて街道を右に行くと、直ぐ右に曲がるのが大山道である。坂を登ると三叉路に出る。真直ぐが「長津田小学校」の校門。右へ行くと「八坂神社」と「皇太子殿下(昭和天皇)御野立之跡」碑が建っている(後述)。

 大山街道は、三叉路を左の砂利道に進む。その入口に「旧大山街道」の案内柱と「長津田十景⑧長坂夜雨」の説明板が立っている。
 「これぞ大山道!」と思える雰囲気のある短い雑木林を通り、小さな石段で舗装道路に出たら右折し、すぐ左斜めの石段を下りる。
 下りきった所の信号で右折すると右側が「森村学園」。
 「長津田小学校」から「森村学園」迄の雑木林が長津田十景の8番目「長坂夜雨(ながさかやう)
の地である。



【長津田十景⑧長坂夜雨】 
 大山街道は、次第にその道筋を変え、長坂は現在の国道から取り残されました。
 坂に通じる長津田小学校脇から森村学園脇の旧道には、昔の矢倉沢往還の雰囲気を僅かなりとも伝える場所が一部残っており、蓑笠をつけた旅人が雨の中を歩く様子を連想させます。
     長津田地区まちづくりの会 緑区チャレンジ提案事業

【陸軍殉職の碑】 (左側) 
 「森村学園」前の二股を左に進み、「横浜田園都市病院」前を通り長い上り坂、上りきって国道246号線に合流。この先の歩道は行き止まりになっているので、合流したところで国道の左側に渡る。
 やがて右側に「フィールドアスレチック横浜つくし野コース」が現れ、その外れ、歩道橋手前にある左斜めの旧道に進む。この旧道が神奈川県横浜市緑区と東京都町田市の都県境になる。左側が横浜市、右側が町田市。

 ごく短い弧を描く旧道で、大きく右カーブする左側木立の下に隠れる様に陸軍殉職の碑が建っている。
 公用中に事故死した軍曹の為に仕官学校の学友が昭和14年に建てた供養碑。碑の裏側に説明文が刻まれていたが修理跡が見られ、読みにくかった。

【馬の背】 
 すぐ国道に出て反対側(右斜めの道)に渡りたいが、横断歩道が無いので歩道橋まで戻って渡る。国道の右側に行き、「つくし野信号」を渡ったら右斜めの上り坂に入って行く。馬の背と呼ぶ急な上り坂。左カーブして上りつめると突然視界が開け大山・富士山・丹沢山塊が望める。この日は霞んでいたが、うっすららとこれらの山々を見ることが出来た。崖下には東急線の線路と「すずかけ台駅」が見える(下の写真)
  


【南つくし野こうま公園】 (右側)
 やがて下ると「東工大入口交差点」で国道に出る。
 再び右斜めの下り道に入ると、「すずかけ台駅」に下りれる「馬の背橋」に出る。
 「馬の背橋」を右に見て、前方の二股を左の上り坂に進む
(左下の写真)。更に左にある国道をくぐる道は「東工大」への入口である。
 上り坂を登りきった右手の公園
(左下の写真で真中の緑部分)内に親子馬の像が建っている。但し、こちらの大山街道からは公園内に入ることは出来ない。
    


【鶴間の一里塚】 (左奥)
 親子馬像の目の前の「すずかけ歩道橋」を使って国道246号(厚木街道)の左側に渡っておく。
 国道を少し進むと「町田市辻交差点」に出る。この交差点と交わっている道は浜街道(絹の道)で、2014年3月29日の浜街道3回目で歩いた道である。
 大山街道は、交差点を越えたら直ぐ左斜めの道に進む。
 その先、国道16号線(大和バイパス)と交わる「東名入口交差点」で本日の歩きを一応終了とし、この交差点を右折して、途中の一里塚に寄ってから「南町田駅」に向う。

 「東名入口交差点」を右折し、すぐ隣の国道にある同名の「東名入口交差点」も渡る。
 国道16号を進んだら最初の左斜めうしろの道に曲がる。曲がって100m程で左側に鶴間の一里塚があり、塚の頂上には「御嶽神社(小さな祠)」が祀られている。
    

 一里塚見学後、国道16号線に戻ったらすぐ左斜めの道に入り、道成りに進めば程なく右手にある「南町田駅」に着く。


【残りの長津田十景】 
 長津田十景の残り六箇所は、大山街道から離れている為、別途二日後の4月28日(火)に車で訪れたので、回った順に記載する。

 長津田十景の5番目「高尾暮雪(たかおぼせつ)」は、「すずかけ台」にある「東工大」の南側にある標高100mの高尾山からの景色で、山頂には飯縄神社が建っている。あいにくこの日も富士山は霞んで殆ど見えなかった。

【飯縄神社御由緒】
鎮座地 横浜市緑区長津田町字西の原(高尾原)
     当地は標高百余メートルで、市内唯一の一等三角点があり、横浜市北部方面で最も高く、眺望のよい場所である。
御祭神 飯縄大権現
祭  事 毎年四月上旬の休日
 この神社の御祭神である飯縄大権現は、八王子市にある高尾山薬王院の飯縄大権現を勧請したものと伝えられている。また、飯縄大権現は不動明王の化身とも言われて、いろいろな苦しみを除いたり、福を授けたりする霊験あらたかな神として信仰されてきた。
 この飯縄大権現が長津田の地にいつ頃勧請されたのか定かではないが、古老や篤志家によれば、次の通りである。

 一、寛文六年(1666)の頃検地帳に高尾原という地名があるので、そのころすでに勧請されていたものと思われる。
 二、文化十年(1814)に社殿が再建されており、病魔退散、養蚕の守護神として信仰されていた。
 三、長津田の領主であった岡野家から供米を奉献されていた。
 四、大正十年(1921)と昭和三十五年(1960)にも社殿が朽廃したので、再建されている。
 五、この神社は昔から福泉寺が神守として管理し、祭礼を主宰している。
 この度、辻、岡部谷戸の氏子並びに崇敬者の寄進によって、銅板葺九尺二間の社殿が造営され、平成十一年三月吉日、竣工報告をかね、例祭を執行した。
 この飯縄大権現を信仰するものが、あらたかな霊験による御利益をいただいて安らかで幸せな暮らしができることを、祈念するものである。
     氏子一同
【長津田十景⑤高尾暮雪】 
 高尾山は、1等三角点が存在することからも分かるように、周囲をよく見晴らせる非常に眺望のよい場所である。山頂には飯綱
(いいづな)神社がある。暮雪は遠くに雪を頂いた山を見渡すイメージ。
 緑区で一番高いところに位置し標高100.5mあり、ここを分水嶺として南東は緑区岩川へ、西は瀬谷区へとそれぞれ水源となしていました。辻を眼下に見下ろし、その果てる所は大山や丹沢連山が横たわっています。
     長津田地区まちづくりの会 緑区チャレンジ提案事業


 長津田十景の6番目「天王鶯林(てんのうおうりん)」は、国道246号「宮の前交差点」から南下した「天王様バス停」にある天王社
 社は長い石段を登った高い所にあるが、社殿の周りは木が茂って、眺望は遮られていた。



【長津田十景⑥天王鶯林】
 天王社とその周辺は谷戸を隔てる丘陵の尾根に当たり、未だに都市の喧騒から隔てられた景色が広がり鳥のさえずりが美しい。
 小高い丘の上にあり、正しい名は牛頭天皇宮と言い、京都祇園社(八坂神社)が本社です。祭神は素盞鳴尊で疫病排除の神とされていました。
     長津田地区まちづくりの会 緑区チャレンジ提案事業


 長津田十景の9番目「長月飛蛍(ちょうげつひけい)」は、天王社の少し南にある「玄海田公園」の一角にある入場制限されている地域。

【長津田十景⑨長月飛蛍】
 玄海田公園の一角にあるこの谷戸は自然の姿を残し、清水の湧き出る周辺は蛍沢と呼ばれ、数多くのゲンジボタルが飛び交う姿は見事の一言である。また野草も自生しその種類も多く、四季の花が咲き乱れる等、自然の美しさを観察できる貴重な場所であることから、入場は制限し、生物保護区域となっている。
     長津田地区まちづくりの会 緑区チャレンジ提案事業


 長津田十景の10番目「住撰夕照(じゅうせんせきしょう)」は、大林寺の南にある高台の「長津田みなみ台公園」からの景色。眼下は遊水地になっていて、見晴らしが良い。



【長津田十景⑩住撰夕照】
 長月飛蛍と同じ区画整理地内にあり、古くから”住撰”(地名)と呼ばれています。公園からは長津田の広い範囲を見渡すことができ、とても見晴らしが良く、夕景色がよい場所であります。
     長津田地区まちづくりの会 緑区チャレンジ提案事業


 長津田十景の4番目「王子秋月(おうじしゅうげつ)」は国道246号「宮の前交差点」そばの王子神社

【王子神社御由緒】
 天正十八年(1590)徳川家康の江戸入城に伴いその旗本岡野房恒公が長津田(千石)の領主として知行を許された。
 房恒公は善苔寺として大林寺を開基し、長津田村鎮守として国家安泰極楽平穏の霊験あらたか神として平安時代から全国の人びとに尊崇され「伊勢へ七度、熊野へ三度」とか「蟻の熊野詣で」といわれる程信仰の厚かった熊野三山(本宮、新宮、那智)のうち新宮(速玉大社)より若一王子権現をこの地に勧請して慶長元年(1596)に創建、別当寺(神社の護持職)として福泉寺を開基して管理運営に当らせた。
 明治維新の神仏分離令によって権現をとり若一王子神社と改めて明治六年に長津田村の村社に列せられ村人の崇敬をあつめてきたが昭和三十三年の狩野川台風によって社殿が損壊し翌々年、仮社殿を建てて、岡野家の造営になる立派な奥宮を保存してきたところ時代の変遷と共に本殿再営の気運次第に高まり、昭和六十一年全額、氏子並びに崇敬者の寄進によって台湾檜の良材を得、秋田の名工の技による権現造りの立派な社殿の完成をみたのである。
【長津田十景④王子秋月】
 大石神社とともに長津田の鎮守である王子神社は、境内に市の指定した名木もあり、空に輝く円月を想い起させます。
 熊野信仰が盛んな頃には、全国各地に若一王子神社が祭られました。
 若一王子神社とは、熊野三山(本宮、新宮、那智)のうち新宮速玉大社にまつられている熊野十二所権現の一つで、この長津田王子神社も含まれます。
     長津田地区まちづくりの会 緑区チャレンジ提案事業


 長津田十景の2番目「御野立落雁(おのたちらくがん)」は、上記【長坂」の項で記した「八坂神社」・「皇太子殿下御野立之跡」碑の地。



【長津田十景②御野立落雁】
 大正10年の陸軍大演習で、当時の皇太子殿下(昭和天皇)が演習をご覧になった場所です。眼下に恩田川とその周辺の地を一望できる場所であります。
 落雁は雁が空から舞い降りる様子。
 このとき皇太子殿下が記念に松を一本植えられました。これを記念して約7メートルの記念塔「皇太子殿下御野立之跡」が立てられました。
     長津田地区まちづくりの会 緑区チャレンジ提案事業


 5回目の旅終了(15:40)。「南町田駅」。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、10.1Km(江田駅~東名入口交差点)
          赤坂御門から新道ルート経由で、八里二十四町(34.0Km)
            寄り道を含めた実歩行距離は、13.3Km(江田駅~南町田駅)  累計:60.5Km
            6時間10分 22,000歩。

高津交差点 ~ 荏田宿(江田駅) → 「目次」 → 「東名入口交差点 ~ 海老名駅」