浜街道(3) JR横浜線「町田駅」~相模鉄道「西谷駅」

2014年3月29日(金) 快晴
 JR「町田駅」を出た、次の「原町田中央通り交差点」を10:55スタート。


(注:解説で街道の左側、右側とは横浜に向っての左右です)

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 前回、浄運寺毘沙門天像が参道工事中で見ることが出来なかったので再度訪れたが、まだ工事が続いていた為、設置されていなかった。仕方なく町田街道を先に進める。
 「三塚交差点」を過ぎ、「南橋陸橋」でJR横浜線を越える。
 「南中学校東交差点」を過ぎた「金森四丁目バス停」で右斜めの旧道に入る(10:35)。途中信号のある広めの道路を渡り、「小川交差点」で町田街道に合流する。
 「小鶴
(おずる)橋」で「東急田園都市線」の上を越え、「町田市辻交差点」で国道246号線(厚木街道)を渡る。

 「町田市辻交差点」から「東名高速」に突き当たるまでの道路は、道の真ん中が東京都町田市と横浜市緑区の境界になっており、左半分の横浜市側は丸いマンホールで、右側の東京都側は四角いマンホールだった。
 程なく「東名高速・横浜町田IC」に突き当たるが、徒歩で「東名高速」を越えるのには複雑な経路を辿らなければならないので、文章と写真で説明する。
正面の「横浜4」と明示されているトンネルをくぐり、階段を上る。
右側を走る国道16号線(大和バイパス)に接している細道を通り、階段を下がって二つ目のトンネルをくぐる。
トンネルをくぐったらすぐ右折して再び階段を上る。
東名高速を「第一跨道橋」で渡り、国道16号線と並行した道を直進して、左側に中華料理店が見えてくればOKである。
  

  

<昼食> 11:35~11:55
 この「東名高速」を渡った所にある中華料理「東名台」で昼食とした。ここまで一つも名所旧跡を見ることなく午前は終わってしまった。

 中華料理店のすぐ先にある「卸センター入口交差点」で国道の右側にある旧道に移らなければならないが、この交差点には横断歩道も歩道橋も無い為、渡ることは出来ない。
 歩行者がバイパスの右側に行く為には次の様に、再び大回りしなければならない。
 「卸センター入口交差点」の手前でバイパスの下を走っている「環状4号線」へ左の階段で下りて行く。「環状4号線」に下りたら「滝沢隧道」でバイパスの下をくぐり、すぐ左の階段を上ればバイパスの右側に出られる。
 そのまま、直進すれば旧道で、横浜市緑区から旭区に入る。ラブホテルが並ぶ坂道を上り「川井浄水場」の脇を進むと「川井浄水場入口交差点」でバイパスに合流する。交差点手前の歩道橋で再度バイパスの左側に渡る。渡ると左斜めの旧道があるので、そちらに入って行く。
 やがて下り坂になり、バイパスから分かれた国道16号線の旧道(八王子街道)にほぼ並行した道を進む。

【大貫谷戸水路橋】 (左奥) 12:22
 「亀甲山バス停」で国道16号から左へ少し離れ、「若葉台団地入口信号」で左を向くと、奥のほうに緑色の高い鉄橋が見える。
 この橋は、横浜市水道局が管轄している大貫谷戸水路橋で、昭和27年(1952)に建設された水道用の橋である。
 全長300m以上ある。

【長源寺】 (左側) 12:30~12:46
 「若葉台団地入口信号」からすぐの小さな「大貫橋」を渡って、二つ目のバス停左側に長源寺がある。
 参道に入ってすぐ左側に、舟の上に立つ入船地蔵があり、右側にも文政十一年の地蔵が建っている。
 更に参道を進むと、境内に上る石段の左側登り口に出羽三山の石碑と二体の地蔵+六地蔵が建っている。
 石碑の正面には『湯殿山』、右面に『月山』、左面に『羽黒山』と刻まれている。
 60段の石段を登ると、右手に鐘楼、正面に観音堂、その右に本堂が建ち、観音堂の前に歌碑、本堂の横に本尊である大日如来坐像の説明板が立っている。
【入船地蔵】
 
子宝を 乃せて笑顔代 地蔵尊
     平成二年一月吉日
【木造 大日如来坐像】 横浜市指定有形文化財(彫刻) (平成7年11月1日指定)
   時      代  室町時代
   構造及び形式  技法 寄木造、玉眼、肉身部金泥、着衣部漆箔
              寸法 像高三三・〇cm
   員      数  一軀
 このお像は長源寺の本尊で、頭髪を高く結い上げて銅造の宝冠をかぶり、胸の前で智拳印を結ぶ金剛界の大日如来坐像です。
 張りの強い面部や下半身の装飾的な衣の皺の刻出などに鎌倉時代の作風を受け継ぎ、丁寧にまとめられており、像底部の銘文から、東国仏教界に強い影響を与えた高僧の印融
(いんゆう)が、永正十年(1513)に寄付したことがわかります。
 印融は、永享七年(1435)に、現在の緑区三保町に生まれ、港北区鳥山町の三会寺や鶴岡八幡宮で学んだあと、高野山で修行し、のちに関東に戻り三会寺を拠点に、真言密教の復興に努めました。
 このお像は、当代の佳例であるうえ、印融のおこなった真言密教の復興運動の一相を示してくれるなど、資料的価値も高いといえます。
     横浜市教育委員会
【観音堂】
 旧小机領三十三所子年観世音
 第二十七番霊場川井観世音
   御歌
 観音の誓いも深き川井にて 筧の音も絶えぬ御手洗い
     一九八四年四月

【神明神社】 (左側) 12:54
 旧道は「宮の下信号」で八王子街道に合流する。その合流した左上に神明神社がある。


 由緒等は無く、木の鳥居をくぐり28段の石段を登ると広場の様な境内にシンプルな社殿が建っている。

 社殿右奥の『浜街道』沿いには庚申塔が建っていて、文字が擦れているが道標も兼ねているようである。

 浜街道はこの神社の東角(鳥居の写真でこの右手)を左折して、庚申塔の前を通る旧道を進む(庚申塔の写真で右下から右奥に続く道)。

【岩船地蔵】 (左側) 13:10
 神明神社の庚申塔から少し進んだ高齢者ホームの「サリューブルあさひ壱番館」前の二又に見える道(実際は変形十字路)は右に行く。
 続いて、右は下り道で、左はやや上りの二又道は左に行く。
 そこから少し進んだ左側に岩船地蔵が祀られる祠が建っている。祠の中の左側に説明文が掲げられ、祠の左脇には二基の庚申塔が置かれていた。
お地蔵様の由来】
 当地のお地蔵様は岩船地蔵尊と云われ今から二百八十余年前の享保年間(享保十年、1725年)に建立されました。
 当時、全国的に享保の飢饉と云われた、農作物の不作、疫病の蔓延等で人心は動揺し社会は不安定となりました。このため疫病等の進入を防ぎ、老人や幼稚を守るためにお地蔵様は建立されたものと伝えられております。
 以来二百八十余年間、この地に建って人々の信仰を受け、川井の地を見守ってこられました、今でも子育地蔵として多くの参拝者が訪れています。
 このお地蔵様を川井地区の貴重な文化財として、これからも人の心の拠り所として宗教、宗派をこえて広く信仰し永く保存してまいりたいと考えております。

【折れ釘が付いている蔵】 (左側) 13:18
 岩船地蔵から少し進んだ広い道を横断したすぐ先の左側に、折れ釘が沢山付いている蔵を発見。
 この様な蔵は、以前日光街道の粕壁(春日部)宿を歩いた時に見たものと同じ様なもので懐かしく、見入ってしまった。
 『日光街道3回目』の田村家田村荒物店の蔵に折れ釘があった。
 浜街道の蔵には梯子が折れ釘に吊るされていた。

【屋敷門】 (左側) 13:46
 その先の突き当りを左折。右手に見える八王子街道の信号は「川井宿町」。
 右カーブして、小さな橋を渡り、暫く進むと「都岡バス停」のある十字路で中原街道を渡る。この中原街道は2014年1月25日に通ったばかりで、この十字路の左手には道標庚申塔天拝日蓮大菩薩塔都築郡役所創設之跡の碑が建っているので、当HPの『中原街道(4)』を参照。
 程なく「築池交差点」で八王子街道に合流して国道を行く。
 500m程進んだ「今宿西町信号」で左斜めの旧道に入る。入ってすぐ左側に屋敷門と蔵が建つ旧家がある。

【地蔵堂と双体道祖神】 (左側) 
 上記旧家の小道を挟んだ隣に地蔵堂が建っていて、中に二体の地蔵尊が立っている。 その先、小さな十字路の左角に双体道祖神が祀られている。


 地蔵堂内、右側の地蔵尊は寛文九年(1669)、左側は宝暦八年(1758)と刻まれていた。

【六ツ塚・重忠公霊堂】【薬王寺】 (左奥) 14:09~14:22
 双体道祖神から道は左右にカーブして「今宿東町信号」で八王子街道に合流するが、次の「鶴ヶ峰本町信号」で再び左斜めの旧道に入る。
 旧道は緩やかな上り坂になり、二又道を左へ行く。更に上り坂を進むとすぐ左側の地蔵堂前に「旭区観光協会」が立てた『↑史跡 六ツ塚・重忠公霊堂』の案内板が立っている。
 地蔵堂内には左から地神塔地蔵尊馬頭観音が祀られていた。
 案内板に従って左の細道を上って行くと、すぐ右側に薬王寺があり、角には、『畠山重忠公戰歿之地』と刻まれた六ツ塚の説明板が立っている(左上の写真)

 道路を挟んで二箇所に分かれている薬王寺の境内には六ツの塚が点在している。

 その場所は、本堂右手前、本堂左手前、左奥(下の写真)と道路を挟んで右の敷地に三箇所である。
六ツ塚】 横浜市地域史跡
 おおよそ乱世には学問道義は衰えるが畠山重忠公は智仁勇の三徳を兼備えた武将で今なお親み慕われている
 その時鎌倉北条時政から急ぎ鎌倉に出頭せよの命に接した公は菅谷の館(現埼玉県比企郡)を六月十九日発し鶴ヶ峰にさしかかるや雲霞の如き数万騎は、ここ霊堂の前方帷子川を越えた彼方の台地(万騎が原)方面から突然攻め寄った、公は策にかかったとは知ったが、武士としてここに決戦を覚悟した、この時公の重臣らは一度菅谷の館に引き返し軍を整えて鎌倉方を待たるるよう進言したが、公は毅然としてしかすれば我に陰謀があったと無実が事実となり永久に汚名を着ると論した上、午の刻(正午より数時間にわたる激戦のはて愛甲三郎季隆の矢に当り遂に一族郎党一三四騎とともに玉砕した。時は元久二年六月二十二日(1205年今より768年前)公は四十二才、この地に主従一同と六ヶ所に葬り代々伝えて六ツ塚と言う。
     昭和四十八年六月二十二日 旭区役所 旭区観光協会


 (左下の写真は、六ツ塚の内、境内左奥にあった、標柱に『畠山重忠公の霊位』と書かれていた塚)

【駕籠塚】 (左上) 14:30
 地蔵堂まで戻り、次の二又道の手前左側に「旭区観光協会」が立てた『史跡 駕籠塚→』の案内板が立っているので、それに従って左の道を行く。次いで次の曲がり角にも案内板が立っているので、ここを左折して急坂を登って行く。
 登り切った「鶴ヶ峰浄水場」の少し手前右側に『遺跡 駕籠塚』の石柱と『畠山重忠古戦場跡-駕籠塚-』の標柱が立っていて、その奥に塚と説明碑がある。
【武州鶴ヶ峰駕籠塚碑文】 横浜市地域史跡(昭和63年11月1日指定)
 元文二年六月二十二日畠山重忠公ハ岳父北條時政ノ策謀ニ因リ冤罪ヲ被ムル
 北條義時大軍ヲモッテ之ヲ迎撃セントス
 重忠公一族百三四士悉ク死ヲ決スルノ悲報秩父・菅谷ノ館ニ達ス
 内室急遽北條ニ至ラントスルモ公既ニ戦死ス 悲嘆慟哭シ乗駕中殉ズ
 駕籠塚ハ長永ク其ノ霊ヲ弔ウテ今日ニ至ル

 駕籠塚から街道に戻り(坂を下った2本目の案内板の所)、自信は無いが浜街道は、ここから東に進み左カーブ後、右回りで坂を下って「白根交差点」に出る道と思われる。
 但し、私は畠山重忠ゆかりの地を見に行く為、最初に『駕籠塚』の案内板があった二又道に戻って寄り道をする。

【百番観音供養塔】 (右下) 14:38
 二又道に戻って、今度は右の道を下る。
 下る途中左側に百番観音供養塔が建っていたが、説明等は何も無かった。建立年号はかすれて読めなかったが古そうな碑だった。
 刻まれている文字は『奉納百番観音供養』で、下部はセメントで固定され『養』の字の下半分は隠れていたので、その下に『塔』が刻まれていたかは不明。

 百番観音とは、西国三十三箇所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所を合わせたもので、この百番観音供養塔を拝めば、西国・坂東・秩父の百観音を巡礼したと同じ功徳が得られるものではないかと思われる。

【畠山重忠公終焉の地】 14:44
 更に坂を下って、八王子街道の「鶴ヶ峰交差点」を横断する。この交差点から南下している道は厚木街道になる。
 厚木街道に入った最初の「鶴ヶ峰駅入口交差点」を渡った右角に『吾妻鏡 畠山重忠公終焉の地 吾妻鏡 鶴ヶ峰・二俣川合戦の地』と二面に書かれた大きな標柱が立っていて、敷地内入口に畠山重忠公碑の説明板、奥に畠山重忠古戦場跡の石碑とその左脇にさかさ矢竹及びその説明板が立っていた。
 ここは高台になっていて、下に帷子川が流れている。
【畠山重忠公碑】 横浜市地域史跡
 
鎌倉時代の武将・畠山重忠公は、元久二年(1205年)六月にこの地で戦死しました。この碑は、重忠公没後七五〇年を迎えた昭和三十年(1955年)六月に、地元・鶴ヶ峰と埼玉県川本村(現・深谷市)の有志により建立されたものです。
 旭区制25周年記念施設 平成22年2月吉日改修
     旭区誕生40周年記念事業実行委員会
【さかさ矢竹の由来】
 鎌倉武士の鑑、畠山重忠公は、この地で僅かの軍兵で、北條勢の大軍と戦って敗れた。公は戦死の直前に「我が心正しかればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と、矢箆
(やの)二筋を地に突きさした。やがてこの矢が自然に根付き年々二本ずつ生えて茂り続けて「さかさ矢竹」と呼ばれるようになったと伝えられる。
 このさかさ矢竹も昭和四十年代の中頃までは、現在の旭区役所北東側の土手一面に繁っていたが、その後すべて消滅してしまった。
 この度畠山重忠公没後八百年にあたり、ここにさかさ矢竹を植えて再びその繁茂を期待いたします。
     平成十七年六月ニ十二日 横浜旭ロータリークラブ

【首塚】 14:53
 「鶴ヶ峰駅入口交差点」を駅の方に横断すると、左角に『あさひ』と刻まれた大きな石が置かれて、その横に「史跡 鎧橋→」の案内板が立っている。
 鎧橋は後にして、首塚を先に見に行く。駅に下りてゆく道の一本南(旭区役所寄り)の細道を入って行くと、区役所の後ろあたりに首塚がある。
 ここには標柱、説明板、地蔵堂、七重の石塔が建っている。
【首塚】 横浜市地域史跡
 
畠山重忠公は鎌倉時代の武将で、源頼朝の忠臣として幕府の創設にも力を尽くし、智・仁・勇を兼ね備えた武将として名声をはせていました。しかし幕府の実権を巡る争いに巻き込まれ、旭区の二俣川付近で戦死しました。
 ここは重忠公の首が祭られたところといわれています。現在は西向きに建っていますが、以前は南を向いていたそうです。
     平成二十二年二月吉日設置 旭区誕生40周年記念事業実行委員会 旭区観光協会

【鎧橋】 14:58
 首塚から元来た道を戻り、最初の道を右折すると「鶴ヶ峰駅入口交差点」から駅へ向う広い道に出る。
 広い道を右折すると直ぐ「鶴ヶ峰公園」に鎧橋(跡)がある。
 左側公園入口に『鎧橋』の説明板と、その隣に『水道みち「トロッコ」の歴史』が周辺地図と共に掲げられていた。
 水道みちの地図によると、現在地の鶴ヶ峰2丁目は、三井用水取入所から35Kmの地点になる。
【「鎧橋」と「帷子川」】 
 鶴ヶ峰公園のこのあたりは、古くは帷子川として流水をたたえたところですが、河川改修により埋め立てられ誕生しました。
 鎧橋は、明治時代に横浜水道敷設のために造られた水道みちと帷子川が交差していたこの場所に架けられました。当初、木で造られていた橋は、時代とともに架け替えられながら永く親しまれてきましたが、平成15年の道路改修工事によりはずされました。
 鎧橋という名の由来は定かではありませんが、一般には、やや上流の旭区役所付近に「鎧の渡し」と呼ばれた渡し場があったことから名づけられたといわれています。
     平成15年3月 旭区役所


 (左の写真が鎧橋のあった所で、後に延びているのがかつての帷子川だった「鶴ヶ峰公園」)
【水道みち「トロッコ」の歴史】
 この水道みちは、津久井郡三井村(現:相模原市津久井)から横浜村の野毛山浄水場(横浜市西区)まで約44Kmを、1887年(明治20年)わが国最初の近代水道として創設されました。
 運搬手段のなかった当時、鉄管や資機材の運搬用としてレールを敷き、トロッコを使用し水道管を敷設しました。横浜市民への給水の一歩と近代消防の一歩を共に歩んだ道です。

【鶴ヶ峰坂】 (左奥) 15:15
 浜街道に戻る為、上記写真の鶴ヶ峰公園を横断することにした。
 公園の外れで帷子川に架かる「鶴峰橋」を渡ると、正面に「鶴ヶ峰稲荷大明神」が建っている。その右脇を通って階段を上ると八王子街道(国道16号)に出る。
 国道に上ったら右折して「鶴ヶ峰バスターミナル信号」を渡ると、次が「白根交差点」になる。
 この「白根交差点」を左折すると、すぐ左の上り坂入口に鶴ヶ峰坂の説明付標柱が立っている。
 上記【駕籠塚】で述べた浜街道は、この鶴ヶ峰坂を下りて来る道であるので、ここで浜街道に戻ったことになる。
【鶴ヶ峰坂】
 長さ二町(ニ一八m)の急坂で旧八王子街道の難所であった。
 馬の蹄鉄を造った鍛冶屋が坂の両側にあった。
     平成六年十一月吉日設置 平成二十二年二月吉日改修 旭区誕生40周年記念事業実行委員会 旭区観光協会

【不動道入口】 (左側) 15:26
 「白根交差点」から右斜めの旧道を下って行く。程なくして二又道を左へ進み、八王子街道に合流する。
 次の「愛宕信号」で左に戻るような道の角に不動道入口と書かれた標柱と道しるべの不動像が建っている。
 「白根不動尊」は、ここから600m程入った所にある。
【不動道入口】
 八王子街道より白根不動尊への参道入口。
 道しるべの不動像は寛政九年(1797)にたてられた。

【白根村道橋改修碑】 (左側) 15:30
 不動像のすぐ先、左側の細い登り坂が浜街道である。
 この坂の入口に白根村道橋改修碑がある。石段の壁に説明が掲げられ、その上部に標柱と碑が建っている。
白根村道橋改修碑】 横浜市地域史跡(平成4年11月1日登録)
 この碑は、江戸中期、八王子往還白根村地先の難路改修の由来を記したものです。
 江戸の住人櫻井茂左衛門が供養のため、田畑を買収し、破損した橋を改修し、往来の難儀を救ったとあります。元文四年(1739)十一月に建立されたものです。
 八王子往還は、芝生(現在の西区浅間町)で東海道から分岐し、町田、八王子へと通じている街道です。
     平成五年三月 横浜市教育委員会

 浜街道は、上記写真の坂道を登り、少し行くと急な下り坂になる。
 広い道を横断して細い道に入り、「愛宕人道橋」を渡る。
 突き当りを右折すると、左側崖下に「猪子山緑地」の説明板が立っている。
 次の突き当たりを左折するのであるが、突き当たりの下に大きな水路と「帷子川分水路トンネル」がある。
 左折した道はやがて「西谷バス停」で八王子街道に合流する。合流した所から横浜市保土ヶ谷区に入る。
 すぐ先に見える「西谷町第ニ歩道橋」を渡って国道の右側に下りたら、右斜めの旧道に入って行く。
 すぐ相模鉄道本線の踏切を渡り、線路に沿ってY字路を真っ直ぐ進むと相鉄「西谷駅」に着く。
 浜街道はY字路を右折して新幹線のガードをくぐって行く。
 本日は、この「西谷駅」で終了とする。


 第3回目終了 15:50。(相鉄「西谷駅」)

 今回の記録 : 街道のみの距離は、14.8Km(原町田中央通り交差点~西谷駅入口)。 「八日町交差点」から33.3Km。
           寄り道を含めた実歩行距離は、17.3Km(町田駅~西谷駅)。 累計43.5Km。
           26,000歩(町田駅~西谷駅)。


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