奥の細道(8)信夫の里

2014年10月1日(水) 晴

  東北自動車道の二本松ICで降り、前回まで進んだ「安達ヶ原入口交差点」から福島市内まで自家用車で巡る。

(注:解説で街道の左側、右側とは大垣に向っての左右です)

「安積山・黒塚」  「目次」 → 「医王寺・飯坂・白石」


【二本柳宿】 
 二本柳宿は、奥州街道49番目の宿場。
 昭和の前半まで道路の中央に往時の宿場に見られる堀が残っていたと言うが、現在は側溝となっている。また、民家の軒先に概要付きの大きな屋号の看板が立てられていた。
【屋号の例】
 奥の細道 二本柳宿  鍛冶屋
 家業の概要:鍛冶屋は、鍬、鎌、をはじめ、農具や家庭用小物を作って販売していた。


【馬下し観音】 (右側)
 前回終えた「安達ヶ原入口交差点」を今回のスタートとして、次の「油井信号」で左斜めの県道114号線の奥州街道(陸羽街道)へ入る。
 旧奥州街道(奥州道中)はこの道の一本左に平行して北上する県道129号線で、前回見学した智恵子の生家前から続く道である。
 私達は県道114号と129号が近づいた先の「安達駅入口交差点」から左折して、一本左隣の県道129号(奥州街道)に入った。
 芭蕉一行は黒塚から阿武隈川左側の川沿いを北上してこの辺りで奥州道中に合流したようである。
 県道129号を少し北上すると二又道が現れ、奥州道中は県道と分かれて左へ進む。
 その道も500m程で右の道のみが広い十字路に出る。奥州道中(奥の細道)はこの十字路を左折する。このあたりが二本柳宿である。
 十字路を左折するとすぐ右側に馬下し観音堂が建ち、お堂の右隣には大清浄地蔵菩薩が立っている。

【大清浄 守地蔵 一時お止り下さい 馬下し観音 十一面観音菩薩】
 平成元年より約七〇〇年前西方の高僧修験者が出羽三山よりこの地に安置し この地方の人達や旅行く人々の無事安泰を祈願したと伝いられて居ります 年代から見ても非常に珍しく稀に見られない程の貴重な蓮花地蔵菩薩であります 古くより云い伝いによりますとお天気地蔵とも云われまして前の方を向きますとお天気になり後ろの方を向きますと雨になると云われています 尚家中の不和や争ひ 心配毎等の時はそっと地蔵様を夜お借りしておきますと あくる朝はけろりと和やかになると今でも語りつがれて居ります
     因  念  記
 平成元年より約四五〇年前全国各地で 土一揆一向宗 法華宗等の様々な一揆が起り所謂應神の乱と云ふ長い乱世続きでしたその末期か戦国時代の 初期頃 高貴な人か 修験者によりまして比叡山よりこの地に移し この世の平穏無事とこの地方の安泰を祈願するため 十一面観音菩薩を安置されたと伝いられて居ります 尚その昔より馬下し観音とも云われました ある日殿様が馬に乗って通らんと致しましたところ 不意に 馬から下されたと云われます それからは武将はもとより大名に至るまで必ず馬から下りて この世の中の平安無事を祈願して通って行ったと云い伝いられて居ります

【二本柳宿 問屋跡】 (左側)
 馬下し観音堂のすぐ先左側の民家の前に屋号看板と同じ問屋の案内板が立っている。

【奥の細道 二本柳宿 問屋】
  
家業の概要
 参勤交代時代二本柳宿駅として継立荷物の振り割りや馬による輸送を扱っていた。

【円東寺】 (左側)
 少し進んだ突き当たりに円東寺がある。奥の細道はこの寺の前を右折する。
 山門を入るとすぐ右手のしだれ桜の大木が目を見張る。幹は太いが頭頂部は折れてしまったようだった。

【円東寺由来】
 大同二年(807年)祖仏徳一大師によって安達太良山の猿鼻に建立された。
 両部秘密道場であって大日如来を本尊とし、慶長三年(1597)二本柳宿の成立により現在の位置に移り、真言宗豊山派の法流を伝法し今日にいたっている。

【桜の大木(しだれ桜)】 二本松市指定天然記念物(昭和53年7月3日指定)
 本堂の前に立っており、別に”円東寺の糸ザクラ”とも称されている。根元周囲四.一m、樹高一〇.五m。
 小枝の最長は七mを越え、四月上旬に紅色の花をつける。「二本柳沿革名義考」によると、天正年間(1573~1597)すでに二本柳の地名がみえ、現在地一帯は原野であって、このサクラが存在したとされている。その後、二本柳の町割が行なわれた時、安達太良山の猿鼻の麓にあった当寺は、慶長三年(1598)現在地に移設建立されたといわれている。
 推定樹齢四〇〇年をこすともいわれ、樹勢は旺盛で開花寺は見事である。

【鹿の鳴石】 (左側)
 円東寺を出ると下り坂になり、小さな橋を渡ると上り坂になる。その上り坂の途中左側の草地に鹿の鳴石がある。

伝説の石 鹿の鳴石】
 昔、二本柳と長谷堂の中間に大きな沼があり、そこに沼の主(竜神)が住んでいた。
 あるとき沼が決壊して、水がなくなり、自分の相手とはぐれてしまった。
 沼の主は鹿に化身し、この自然石の上で鳴き、相手を呼んだが見つからず、山を越えて土湯の女沼に移り住んだといわれる。
 この鹿の鳴き石の周囲を左に三回廻ると、鹿の鳴き声がきかれるという。
      安達町教育委員会

【八丁目宿】 
 奥州街道50番目の宿。八丁目の名称は安達郡(現・二本松市)と信夫郡(現・福島市)の郡境である境川から八町(約870m)の距離があることから名付けられたと云う。現在は福島県松川町。
 戦国時代には伊達氏の支城であった八丁目城の城下であったが、天正十八年(1590)頃廃城になった。後に城下の集落が八丁目宿となった。
 この宿場は、奥州街道が通るだけではなく米沢街道や相馬街道の合流点でもある為、大いに繁盛したという。


【めがね橋】 
 鹿の鳴石から暫く進むと松川町に入り、左手「奥州八丁目天満宮」を過ぎた先の水源川に架かる「松川橋」は通称めがね橋として有名である。

 この橋を渡った左に西光寺があり、橋の袂に「空石積工法」の名橋・めがね橋と書かれた標柱が立っている。
 水面に写ったアーチの影が「めがね」の様に見えることから「めがね橋」と呼ばれる。

 西光寺は、天正年間の開山で、本尊の阿弥陀如来坐像は快慶の作と云われている。

【ますや旅館】 (右側)
 めがね橋を渡って少し進むと県道52号線は突き当たりになる。その突き当りの手前右側にかつての旅籠屋「枡屋」(現:ますや旅館)が新築されて今も建っている。

 玄関の垂れ幕には『奥州街道八丁目宿 旅人宿 枡屋銀五郎』と染め抜かれていた。

【八丁目本陣跡】 (右側)
 奥の細道(奥州街道)はますや旅館先の突き当りを右折し、再び信号のある突き当りを左折して県道114号線を北上する。その二番目の突き当たり正面にガソリンスタンドがあり、そこが八丁目本陣跡である。

 ガススタンドの右端に標柱が、その奥に『奥州街道 八丁目宿 本陣跡』と書かれた看板が掲げられていたが、説明板等は無かった。

【州羽神社】 (左奥)
 八丁目本陣跡前で左折し、次の「松川駅入口信号」を右折するのであるが、その信号を左折すると州羽神社があり、鳥居前の駐車場右上の土手には色とりどりのコスモスが咲き乱れていた。
 石段を登り、鳥居をくぐって参道を進み、再び数段の石段を登ると右手に諏訪山のサクラが、奥に社殿が建っている。現在桜の上部は欠落しているが根元の太さには目を見張らせる。
 この神社の左隣には訪れていない常光院があり、この背後に八丁目城があったというが、神社の方には城の説明も案内も無かった。
 山城として保存状態が良く、土塁の跡が多数確認出来ると言うが、何処から行けば良いか分からなかった。

【諏訪山のサクラ】
  古くから松川町の住民によって愛され、大切に保存されてきた古木桜である。
由来
 言い伝えによれば天正年間(1573~1587)、伊達政宗公が江戸より桜の苗木を大量に買い求め、各地の宿駅を経由して仙台まで運搬した。途中当地八丁目宿問屋場に休憩した際、宿場の人々が懇願して桜の苗木三本を頂いた。現在、そのうちの一本はこの諏訪山の桜、一本は竹ノ内の狐水稲荷の桜と伝えられている。諏訪山のサクラは当地方のシンボルとして春には桜花爛漫として咲き乱れ、毎年衆人の目を楽しませてくれる。
 昭和58年福島県緑の文化財(樹齢約400年、樹高10.0m、胸高周囲4.5m)に登録された。
      福島県県北地方振興局・福島県県北農林事務所

【奥州・相馬道の分岐点、六地蔵道標】 (右側)
 州羽神社から「松川駅入口信号」に戻り、真っ直ぐ東へ進む(八丁目本陣跡から来た場合はこの信号を右折する)と次の変形十字路の右角に奥州・相馬道の分岐点六地蔵道標と書かれた標柱が立っている。

 説明板等は無いが、傍らに六地蔵が浮彫にされている道標が建っている。
 ここで奥州街道は左に、相馬道は右に分ける。

【清水町宿】 
  奥州街道は、六地蔵道標で左折し再び北上する。
 その先、突き当りを右に取り、東北本線(下り)のガードをくぐり、県道114号線に合流する。
 次いで、東北本線(上り)のガードをくぐるが、ガード前後の右側に少しだけ旧道がある。
 左手「福島大学」入口を過ぎて国道4号線に合流する手前の「若宮」は、間宿浅川新町宿(当初は若宮宿)である。
 淺川新町宿を抜けると登り坂になるが、この下には東北新幹線の福島トンネルが通っている。
 程なく国道4号線にぶつかるが中央分離帯があってここでは横断出来ない為、国道手前の道を右折して国道の下をくぐり、国道右側の道へ進む。
 旧道に入り、街道が右カーブしてきた「清水町」が奥州街道51番目の清水町宿である。宿名は宿の入口付近にあった愛宕堂の清水に由来すると云われる。


【清水町一里塚跡】 (右側)
 街道は「仲興寺」前で左後ろに曲がるように左折する。
 緩い上り坂を進み、右手「杉妻自動車学校」入口を過ぎた次の右角の民家の塀に清水町一里塚跡の説明文が掲げられている。

【清水町一里塚跡】
 
江戸時代慶長九年(1604)徳川家康が江戸日本橋を起点として、東海道・東山道(奥州街道)・北陸道の三街道に一里(四粁)ごとに、五間(九米)四方の塚(街道の両側に土を盛る)を築かせ、塚の頂に榎や松を植え旅行者に便宜を与え路程表の役割を果たした。幕府はのち三街道以外にもこの制度を広め、諸藩もこれにならい脇街道に築いたが、その後改修に熱意がなく次第に廃壊し天明頃には原型を失うものが多かったという。
     平成二十四年九月二十七日 清水町一里壇 丹波正義

【旧奥州道】 
 清水町一里塚跡を過ぎるとすぐの国道4号線の上に架かる陸橋を渡ってラブホテル横の細道を進む。
 程なく「共楽公園」の真中を通るが、車一台が通れる位の幅である。この公園からは福島市街が見渡せ、公園内には石碑や東屋等が建っているが車なので通り過ぎる。
 公園を過ぎると急な下り坂となり、やがて旧国道4号線に合流する。この合流した右角に道標が立っていて『左 旧四号国道』、『右 旧奥州道(陸羽街道)』と書かれていた。
【左 旧四号国道】
 明治十年代より数次の改良工事により現在に至る。一部旧道が残っている。
【右 奥州道(陸羽街道)】
 天正年間(1573~1593)伊達政宗公により開設されたという、清水町仲興寺前に通じる。


【福島宿】 
 旧国道4号線に入って二ツ目の信号の左が南福島駅。
 更に北上して荒川に架かる「信夫橋」を渡れば奥州街道52番目の福島宿に入る。右手には阿武隈川が流れる。
 宿場町であると同時に福島城の城下町でもあり、阿武隈川の水運の中継地でもあった。
 荒川の北詰・柳町(江戸口)、荒町、中町、本町、上町、北南町、馬喰町(仙台口)の七町で構成されていた。

 奥州街道は国道13号線の「本町の交差点」で右折、次の「福島警察署前交差点を左折、二つ目の信号のある交差点を右折、国道4号線の「北町交差点」を横断してすぐ次を左折し、国道4号線と平行する一本右の道を北上する。


【福島城址】 (右奥)
 福島城址に寄る為、「本町交差点」の手前で、今夜泊まる「ホテルサンルート福島」と「福島中町郵便局」のある中町の交差点を右折する。
 右折するとすぐ「福島県庁」が右手にあり、この周辺が福島城址である。
 左手の駐車場と本庁舎間を奥に進んだ突き当たりの県知事公館辺りが本丸跡で、駐車場側に標柱が立っている。
 本庁舎が二の丸跡でその東側の紅葉山公園が二の丸御外庭になる。
 県庁の門を入って左手の駐輪場前に福島城址の石碑と説明板が立っている。
 紅葉山公園内の県庁寄りに大佛城跡出土の宝塔と板碑が、阿武隈川沿いに板倉神社があり、境内に若山牧水の歌碑が建っている。

【福島城跡】
 現在の福島県庁の地には福島城がありました。この地は、戦国時代までは、杉目城(杉妻城)または、大仏城とよばれていました。「大仏城跡出土宝塔」(県重文)は大仏城の由緒を示しています。応永二十年(1413)、伊達持宗が大仏城に立てこもり、関東公方足利持氏に背いたとの記録があり、戦国時代末まで伊達氏の居城でした。
 豊臣秀吉の奥羽仕置により、蒲生氏郷から信夫五万石を任された木村吉清は文禄元年(1592)ころ大森城から杉目城に移り、福島城と改称しました。しかし、文禄四年、秀吉の命で福島城は取り壊され、その後当地は、上杉氏(1589~1664)、本多氏(1679~82)、堀田氏(1686~1700)が入部し、その間は幕領となるなど頻繁に領主が変りますが、新たに城は築かれず、陣屋での支配が行なわれました。
 元禄十五年(1702)、板倉氏が三万石で信濃から入り、福島城の整備が行われました。福島城の総面積は約二五ヘクタールで、天守閣はないものの三万石の大名の居城としては大規模なものでした。本丸は現在の知事公館付近、政務をとる二の丸は県庁舎付近にあり、城の南東を阿武隈川が流れ、その流水が内堀を巡っていました。藩主が住む殿中から眺めたお庭が現在の紅葉山公園です。また庁舎の南側には当寺の土塁が残っています。
     福島県
【大佛城跡出土(宝塔)】 福島県指定重要文化財
 この宝塔は、明治の初め、県庁西庁舎南の土塁近くにあったものです。
 円筒形の塔身に梵字で、阿弥陀如来を現し、反花座 雄蕊を線刻し「弘安六年癸未四月廿日 孔子□□
(不明)」ときざまれています。
 (1283年)弘の字を「方ム
(両方で一字)」とし、梵字の彫り、端正な字体は鎌倉時代特有のもので、笠石 請花宝珠は後で補ったものです。
 この宝塔は墓しるしに建てられたもので、福島城の前身は杉妻寺という寺を城とし、眞浄院にある延慶三年の板碑もこの地にあったものです。宝塔は平泉願成就院(藤原時代)につぐ古いもので、大佛城の名の起こりを示す重要な文化財です。なお、左にある石塔は鎌倉時代の板碑で、梵字(釈迦如来)のみで年号はありません。大正十三年、松齢橋工事中河底から発見したもので、やはり杉妻寺大佛城にゆかりがあるものとみられます。
     福島県
【二の丸御外庭】
 紅葉山公園一帯は、福島城の二の丸御外庭で、福島藩主板倉重寛が池、茶屋、築山などを設けました。
 池は、三河国八ツ橋(愛知県知立市八幡町)のかきつばたの名所をまねてつくったと言われています。
     福島市教育委員会

【板倉神社】
 板倉神社は、福島藩の初代藩主であった板倉重昌を祀ったのが始まりである。文化二年(1805)ここ福島城内に社殿を造営し、代々の藩主をはじめ家臣の崇敬を集めた。
 明治になって福島藩が三河国重原に移ることによって社も移ったことがあったが、明治十三年(1880)藩士や縁ある市民の手によって、ここ紅葉山のこの地に旧社殿を移し拝殿を建立して、御分霊をまつり、藩にかかわりのある人びとをはじめ、多くの市民の信仰を集めてきました。
 板倉藩福島城の名残を残す紅葉山の一角に唯一残される近世以来の信仰は今日まで続いている。拝殿内には歴代藩主の二人、八代勝長、十代藩主勝顕が献じた絵馬(市指定)と共に市民の祈願をこめていた姿も残っている。
【若山牧水の歌碑とその譜碑】
   つばくらめ ちちととびかひ阿武隈の 
      きしの桃のはな いまさかりなり

 歌人若山牧水は、大正5年(1916)4月に福島に来て、この「阿武隈川のうた」を残した。
 大正年間には、ここ紅葉山から阿武隈川の岸辺を見渡すと、その岸辺-山麓にかけて桃畑が続いて、その花が美しく咲いていたのであるろう。
 昭和41年(1966)になってこの地に、この碑を立て、福島氏の生んだ作曲家・古関裕而によって『阿武隈の歌』の曲を得て、永久にここに残ることになった。

【岩谷観音】 (左奥)
 福島県庁を後に、国道4号線と平行する一本右の道を北上する。福島競馬場前を過ぎ、「岩谷下交差点」で国道4号線に合流する。その「岩谷下交差点」を左折した所に岩谷観音がある。
 最初に見上げてしまうほどの長い石段(85段・
下の写真)があり、石段下の左に境内案内図や岩谷観音の説明板等が立っている。

【岩谷観音(磨崖仏)】 (説明石)
 岩肌に彫刻された磨崖仏は、西国三十三観音を中心に大小六十体に及ぶ供養仏である。中には古仏の梯をただよわせた優品もあり、まさに敬けんな民衆の信仰が生んだ傑作である。
     福島信夫ライオンズクラブ

【市指定史跡及び名勝「岩谷観音」】 (説明板)
観音堂>

 平安時代の末に、飯坂の大鳥城に居城を構えて信夫郡一帯を支配した佐藤庄司基治は有名ですが、その叔父と伝える伊賀良目七郎高重は、ここ五十辺に館を構えていました。この子孫である春顕が応永23年(1416)10月に先祖伝来の観音像を本尊として建立したのが観音堂の始まりであると伝えられています。
磨崖仏>
 西国三十三観音本尊像をはじめ、60体に及ぶ供養仏がありますが、宝永2年(1705)の聖観音像・同7年の巳待供養弁財像が年紀のわかるものとしては古いものです。三十三観音もおおかたこのころから彫られたものと思われますが、西国の札所名と本尊のお姿が正確で仏像の儀軌に通じた修行僧が敬虔な鑿(のみ)をふるったものと思われます。
     岩谷観音保勝会・福島市教育委員会

 その石段をやっとの思いで登ると、正面に多数の磨崖仏が現れ、右手に観音堂が建っている。 

【岩谷観音】 福島市指定史跡および名勝
 古くから「岩谷観音」の名で親しまれていたこの地は民衆の素朴な霊場であります。
 それは、平安末期から鎌倉期にかけて五十辺の「館」に居館をかまえてきた豪族、伊賀良目氏が持仏の聖観音を安置した「窟観音」に始まるものと思われますが、遠い都の貴族たちの三十三観音巡拝の風が地方の民衆にまで普及するにつれて、西国三十三観音の磨崖仏が彫られ、現在の「岩谷観音」が形成されました。その時期は宝永六~七年(1709~10)前後と思われます。
 ともあれ、市内唯一の磨崖仏であり、かつ三十三観音のほか六十体にもおよぶ供養仏が群像をなしている偉観は他に類例が少く、そのできばえも素直で美しく、民衆の信仰の敬虔なこころをよく伝えております。
 さくらの花どきや新緑の風かおる季節、はては松林に紅葉をめでながら眺望するもよく、半肉彫りの仏像群を拝し歴史をしのびながら遊歩するにたる史跡および名勝地として指定しました。
     昭和三十九年九月十四日 福島市教育委員会

   観音堂より)    (磨崖仏群)    (鐘楼への道)

 観音堂から磨崖仏群を見ながら左手に行くと更に階段があり、少し登った所に鐘楼とこちらにも磨崖仏や供養仏があった。

 岩谷観音の後背に信夫山(標高275m)があり、鐘楼の後ろに続く道を登れば「信夫山公園」を経て山に行ける。
 信夫山は西側の羽山(別名:湯殿山)、中央の羽黒山(別名:谷山)、東側の熊野山(別名:金華山)の三山(信夫三山)の総称で、青葉山、御山という別名もある。

【文知摺(もちずり)観音】 (右側)
 岩谷観音から「岩谷下交差点」に戻り、国道4号線を横断して国道115号線を東に進む(福島駅方面から来た場合はこの交差点を右折する)。
 奥の細道は阿武隈川に架かる「文知摺橋」を渡ったらすぐ、国道と平行の一本左の道を行く。すぐ国道に合流するが、今度は直進する形で国道の右側の道へと進む。間もなく国道が右カーブしてきて旧道と斜めに交わるのでこの信号のある交差点を横断して更に直進する(国道に案内板あり)。
 程なくして正面に文知摺観音の看板が見えてくる。
 普門橋を渡って境内に入るとすぐ左奥に鐘楼堂、左手前に「信夫文知摺公園案内図」、右手に松尾芭蕉像が建っていて、台座に奥の細道の「信夫の里」部分が刻まれていた。

【奥の細道より】
 
月日は百代の過客にして 行きかふ年も又旅人也・・・・・・
 二本松より右に切れて 黒塚の岩屋一見し 福島に宿る
 あくれば しのぶもち摺の石を尋ねて 偲ぶのさとに行 遥山蔭の小里に 石半土に埋てあり 郷の童部の来たりて教ける 「昔は此山の上に侍しを 往来の人の麦草をあらして 此石を試侍をにくみて 此谷につき落せば 石の面下ざまにふしたり」と云 さもあるべき事にや

    
早苗とる手もとや
      昔しのぶ摺
 
               元禄二年五月二日


 境内には見るべきものが沢山あり、社務所で拝観料を払い中に入ると左に文知摺観音の説明板が立ち、その先は順路が示されているので、それに従って順に紹介してゆく。
   拝観時間:午前9時~午後5時
   拝 観 料 :400円
【文知摺観音】 福島県指定史跡及び名勝(昭和38年12月13日指定)
 この地は信達三十三観音二番札所としての霊地であり、また文知摺石をめぐる伝説の地としても古くから市民に親しまれてきた所であります。
 この信仰と伝説とが中核となって、この地には長い歳月にわたり堂塔が建立され多くの碑が配置されてきました。そのなかには甲剛の碑のように由緒がつまびらかでないものもありますが、文永四(1267)年の文字が刻まれている鎌倉期の板碑や元禄九(1696)年に、福島城主堀田正虎が文知摺石を顕彰した碑、また信達の俳人たちが京都の俳人丈左房を迎えて建てた松尾芭蕉の句碑などは史実が明らかで、しかも当地の文化や歴史を跡づける価値の高いものであります。
 さらにこれらの堂塔建碑の配置が静寂な自然の中にとけこみ、新緑に映える多宝塔、紅葉の樹下に苔むす文知摺石など、市民が遠い伝説のゆかりや民間信仰が生みなした民俗遺跡をしのびながら遊歩するのにたる風致をそなえております。かつて都人たちが枕歌として詠じ芭蕉が奥のほそ道の行脚に立ち寄り、文人正岡子規や墨客小川芋銭が足を運んだこの地は、市民の憩いの地として長く保存されるのにふさわしい史跡および名勝であります。
      福島市教育委員会


 まず正面に甲剛の碑柴山郡長顕彰碑が並んで建ち、その後ろの築山に芭蕉句碑がある。

【甲剛碑】
 異様な二字ですが甲剛の古字と解されています
 甲剛とは金剛と同様で北斗(北斗七星)を意味するものといわれています
 北畠親房の筆になるものをその子顕家が建立したと伝えられています。
     信夫文知摺保勝会
【柴山郡長顕彰碑】
 明治十八年(1885)信夫郡郡長柴山影綱が文知摺石を発掘 現在の状態にしたことを顕彰し 明治三十七年三月建立した 撰文は旧福島藩督学兼侍講・高橋忍南 書は安洞院十四世瓦嶽玄彰和尚による
     信夫文知摺保勝会
【芭蕉句碑】
 元禄二年(1689)旧五月二日 門人曾良と共に文知摺石を尋ねて詠む
   早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺
 句碑は京都の俳人・丈左房が寛政六年(1794)五月 追遺の句会を開催 自ら揮毫し霊山町の松青と協力して建立したものである
     信夫文知摺保勝会


 芭蕉句碑の後ろに一番見たい文知摺石がある。
 石柱と鉄の柵に囲われた中にある大きな石が文知摺石(鏡石)で、その手前に菱形石が横たわっている。



【石の伝説】
 遠い昔の貞観年間(九世紀なかばすぎ)のことです。陸奥国按察使
(あぜち) 源融(とほる)公が、おしのびでこのあたりまでまいりました。夕暮れ近いのに道もわからず、困り果てていますとこの里(山口村)の長者が通りかかりました。
 公は、出迎えた長者の女
(むすめ)、虎女の美しさに思わず息をのみました。虎女もまた、公の高貴さに心をうばわれました。
 こうして、二人の情愛は深まり、公の滞留は一月余りにもなりました。
 やがて、公を迎える使いが都からやってきました。公は始めてその身分をあかし、また会う日を約して去りました。
 再会を待ちわびた虎女は、慕情やるかたなく、「もちずり観音」に百日詣りの願をかけ、満願の日となりましたが、都からは何の便りもありません。
 嘆き悲しんだ虎女が、ふと見ますと、「もちずり石」の面に慕わしい公の面影が彷彿とうかんで見えました。なつかしさのあまり虎女がかけよりますと、それは一瞬にしてかきうせてしまいました。
 虎女は、遂に病の床についてしまいました。
   みちのくの忍ぶもちずり誰ゆえに、みだれそめにし我ならなくに  (河原左大臣源融)
 公の歌が使いの手で寄せられたのは、ちょうどこの時でした。
もちずり石を、一名「鏡石」といわれるのは、このためだと伝えられています。
     信夫文知摺保勝会


 『按察使』とは、巡察官のこと。
 『しのぶもぢ摺り』とは、もじれ乱れた模様のある石に布をあてがって、その上から忍草などの葉や茎の色素を擦り付ける染色のこと。
 『奥の細道』で童部から教えて貰ったいきさつとは、
「この石は、むかし山の上にあったが、ここを通る人達が麦の葉を取り荒らしてその石にこすってゆくのを憎んで、村の人がこの谷に突き落としたものだから、石の表にあたる所が伏したようになったのです」。

 結局、虎女は二度と源融に会うことはなかった。


 文知摺石の右手から坂道を登った一段上に人肌石・小川芋銭歌碑がある。

【人肌石・小川芋銭歌碑】
 人肌のようなぬくもりを持っているところから人肌石と呼ばれている 墨客・小川芋銭は明治・大正年間に二度訪れ 人肌石を見て詠む
   若縁 志のぶの丘に 上りみれば 人肌石は 雨にぬれいつ
 歌碑は昭和二十三年四月十七日池田竜一氏の書により清野勘助翁が建立した
     信夫文知摺保勝会


 人肌石の左隣に足止め地蔵尊が建っている。

【足止め地蔵尊】
 家出人や走り人があるとき この地蔵尊の足あたりを縛っておくと 必ず無事に帰ってくるというところから 足止地蔵尊と呼ばれるようになった 後に危険から身を守り 足の怪我や病にもご利益があると信仰を集めるようになった
     信夫文知摺保勝会


 足止め地蔵尊の左手に観音堂が建ち、その左に河原左大臣歌碑が建っている。更に左手には堀田正虎表碑がある。
観音堂】
 ここには、かつて大悲閣「また大悲堂ともよばれた観音堂がありました。
 この方形造りのお堂は、宝永六(1709)年に安洞院の第三世漢補和尚が一万人の浄財をあつめて改築したものです。
 もともとは、南面して建てられたものですが、明治十八(1885)年、時の信夫郡長柴山氏が、もぢずり石の周辺を整備した時、いまの西面になおしました。本尊は行基菩薩一刀三礼の作と伝えられる二寸二分(6.5cm強)の木造観音で三三年ごとにしか開帳されない秘仏であります。
     信夫文知摺保勝会

【河原左大臣歌碑】
 百人一首で知られる源融・河原左大臣の和歌
   陸奥の 忍ぶもち摺 誰故に 乱れ染めにし 我ならなくに
 歌碑は村民の協力を得て 明治八年(1875)八月十七日建立された 書は仙台の書家・松窓による
     信夫文知摺保勝会


 足止め地蔵尊に戻って、その横の石段を登った正面に三十三観音堂が建っている。

【三十三観音堂兼経蔵】
 安政四年(1857)安洞院十一世大箸慧琳和尚が西国三十三観音霊場を擬して三十三観音像を安置 以前あった経蔵を併設して建立 仏像の作者は会津若松城仏師・法橋守行師
     信夫文知摺保勝会


 三十三観音堂の右手に正岡子規句碑が建っている。

【子規句碑】
 明治二十六年(1893)七月二十五日 子規がこの地を訪れ詠む
   涼しさの 昔をかたれ しのぶ摺
 句碑は昭和十二年十一月子規追遺会に建立された 書は子規の真筆である

     信夫文知摺保勝会


 子規句碑の後方に夜泣き石虎女と左大臣の墓があることがこのとき気がつかなかった為、見ていない。
 三十三観音堂の左手に行くと多宝塔が建っている。

【安洞院多宝塔 一棟】 福島県指定重要文化財(建造物)・(昭和57年3月30日指定)
   木造、重層、方三間、銅板ぶき(とも板ぶき)、正面唐破風付
 この多宝塔は、寺伝の記録によると文化九年(1812)安洞院八世光隆和尚の建立と伝えられ、棟梁は地元旧山口村の藤原右源次と口伝されている。明治十七年に現在の銅板ぶきに改められた。
 小型の塔で、小さい起こり
(むくり)をもつ亀腹とこれに重ねた上層の塔身などは従来の多宝塔形式を備えているが、初層の正面につけられた唐破風や、請花を省略して竜車を立方体とした相輪などには、この塔独特の工夫もみることができ、全般に入念で安定を志向した構法がとられている。
 
内部は正面の二本の来迎柱の間に禅宗様の須弥壇をおいて、金剛界五知如来を祀る厨子を安置する。天井は絵様を施した格天井である。
 多宝塔遺構は畿内には多いが、関東以北には一〇棟位しかなく、これは東北唯一のものである。
     福島県教育委員会


 多宝塔の左手に澤庵和尚歌碑が建っている。

 みたるなと 人を諫むも 折からに 我が心より しのぶもちすり   澤庵


 澤庵和尚歌碑の先に相田みつお歌碑が建っている。

   自分の花
 名もない草も実をつける いのちいっぱいに 自分の花を咲かせて   みつお


 相田みつお歌碑の前を通って奥に行くと美術資料館の傳光閣がある。

 館内は撮影禁止で、芭蕉をはじめ子規などの真蹟や絵画、歴史資料等が展示されている。
 また、窓から見える多宝塔と庭が美しく、絵画を見ているようだった。

【虎が清水】 (右奥)
 文知摺観音の境内を出たら左折(境内に向って右折)して水路に沿って100m位行くと左側にフェンスが切れた所がある
(下の写真左)。水路を渡ると標柱と説明板があり、その左奥に虎が清水がある。

入口  清水  清水には葦簀(よしず)が掛けられていたので、それを外して撮影した。

【虎が墓】 (右奥)
 虎が清水から更に水路に沿って少し進んだ道が左カーブする少し手前左上の草むらの中に標柱の頭と祠の赤い屋根の一部が見える。
 水路がある為、ここから中に入ることは出来ないが、ここが虎が墓である。

 左の写真で白い標柱の左のこんもりの左に赤い屋根の一部がかろうじて見える。
 冬になって草が枯れたら良く見えると思うが、この季節はだめだった。
 車を止めて置く事が出来ない細い道なので近くに寄る事が出来ず、車内から見ただけで早々に立去る。
 虎が清水からか、カーブの先から入ることが出来るかも知れないが、せめて草刈をしておいて欲しかった。

【月の輪の渡し碑】 (右側)
 虎が墓から文知摺観音入口まで戻り、そのまま真っ直ぐ北に進む(文知摺観音境内に向って左)。
 入口から130m程で県道は右カーブするが、奥の細道は左折する。
 途中右側に旧道もあるが暫く道なりに進み、比較的広い道に出たらこれを横断してやや右寄りの細道に入る。「トッパンレーベル」の工場に着いたら左折し、工場前の「宮畑遺跡」を抜けて更に北上する。
 やがて県道4号線の広い道に出たらこれも横断して細道を進む。すぐ先十字路の右手前に月の輪の渡し碑が建っている。


【月の輪の渡し碑】
 
  月の輪のわたしを越て 瀬の上と云宿に出づ
                           おくのほそ道より
月の輪の渡し碑建立記
 元禄二年五月、松尾芭蕉は弟子曾良と信夫文知摺を経て、月の輪の渡しを越えている。山麓の河原跡に古川、船前という地名あり、当時を忍ばせる。
 また、藤原兼実公の「月の輪御所」や「御所清水」の史実も伝えられている。ここに本碑を建て、「月の輪の渡し」を明らかにするものである。
     平成八年十一月吉日 月の輪の里にて 梅宮幸次郎

 月の輪の渡し碑の先で広い県道に出る。程なく阿武隈川に架かる「月の輪大橋」を渡る。
 ここの右手河原に月の輪の渡しの跡があるらしいが車を停められず確認出来ない。更に大橋の欄干に芭蕉の句碑橋の由来などが掲げられていたがこれも車両が多い為、車を停める事が出来ず残念ながら通り過ぎるだけであった。
 大橋を渡り、1.6Km程行くと国道4号線(奥州街道・陸羽街道)の「北幹線東入口交差点」に出る。この交差点を越えた一本西側の道が旧奥州街道である。ここを右折するとすぐ奥州街道五十二番目の瀬上宿である。

 本日は「北幹線東入口交差点」で終了とし、国道4号線へ左折して今夜の宿泊先である福島県庁傍の「ホテルサンルート福島」に向う。




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