奥の細道(9)医王寺・飯坂・白石

2014年10月2日(木) 晴

  福島駅傍のホテルから飯坂温泉を経て、白石宿まで自家用車で巡る。

(注:解説で街道の左側、右側とは大垣に向っての左右です)

「信夫の里」  「目次」 → 「笠島・岩沼・仙台」


【瀬上(せのうえ)宿】
 ホテルを8:00に出発して国道4号線を北上。
 昨日終了した「北幹線東入口交差点」を越えた先の「阿武隈急行線」のガードをくぐったらすぐ国道から分かれて左斜めの県道353号線に入って行く。
 県道の一本左の道が旧奥州街道でこの辺りが奥州街道53番目の瀬上宿である。
 西へ飯坂を経て山形(出羽)へ向う山形道と、東へ月の輪渡しを経て相馬方面に向う中村街道がこの宿で奥州街道と交わっていた事と、年貢米を、阿武隈川を利用して江戸へ積み出す河岸が設けられた事で、物資の集散地として瀬上宿は栄えた。また、瀬上花街と呼ばれた遊郭があったことも繁昌した理由の一つでもあった。


【嶋貫本家】 (左側)
 国道から県道に分かれて次の信号を越えたすぐ先左側に国登録有形文化財の嶋貫本家がある。

 県道側は東門で後ろに回った奥州街道側が西門になる。
 東側には重厚で古い、東門、蔵、建物(本家)が見られ、信号に戻って後ろに回ると西門は新しくなっていて、塀に嶋貫本家の由来が掲げられていた
 入って見たかったが完全予約制ということで、内部見学は出来なかった。
【瀬上 嶋貫本家の由来
 瀬上 嶋貫本家の先祖は、上杉の家臣であり上杉と共に各地を歩んで来たと伝えられている。
 江戸時代に武士を捨て福島の下飯坂へ移ってきたが、後に、現在の瀬上に居を構えたらしい。
 当初、「穀屋」という屋号で金貸業等を営んでいた。その後、屋号を「大黒屋」と改めた。
 当時、宿場町として栄えた瀬上で大地主となってゆくが、戦後の農地解放により多くの土地を失ってしまう。
 明治に建てられた和と洋の雰囲気を持つ母屋は平成19年より3年かけて第11代当主によって復元され平成22年から一般に公開されている(完全予約)(有料)
 平成25年国登録有形文化財となる。

【日枝神社】 (右側)
 嶋貫本家西門の前の奥州街道を北上し、左側「瀬上小学校」の前を通り、突き当りを左折する。奥州街道はここを曲がらずに真っ直ぐ北上する。
 源義経ファンの芭蕉は、瀬上宿で奥州街道と分かれて、義経の忠臣であった佐藤兄弟とその父佐藤庄司の旧跡を訪ねる。
 左折してから650m程進んだ東北本線手前の右側に日枝神社がある。

 鳥居の右手に寛延二年農民一揆発祥の地の標柱が立っていた。

【医王寺】 (左奥)
 日枝神社を後に、東北本線、東北新幹線、更にその先の東北自動車道のガードをくぐって、県道155号線をひたすら北西に進む。
 やがて、福島交通・飯坂線と平行に走っている県道3号線の信号を過ぎると畑道になる。
 次の県道5号線の下をくぐった先の突き当りを左折し、民家(釣堀センターの建物か?)の前を通り、鍵の手の上り坂(右に左に曲がる芭蕉坂)を進むと医王寺の入口に到着する。
 私達はこの民家前まで来たが、鍵の手から先の道が狭く自動車で行くのは難しいことが判った。仕方が無いので、県道5号線まで戻り側道を登って大きく南回りで医王寺に向った。

 医王寺の駐車場に着いた所は芭蕉坂の出口で、鍵の手は直ぐ先に見える程近かった。


 拝観料(200円)を払い、山門をくぐって境内に入ると、すぐ右側に天然記念物のシラカシの木が聳えている。

【医王寺のシラカシ】 福島市指定天然記念物(昭和41年2月7日指定)
 シラカシは、温暖の地方を好む日本固有の常緑広葉樹で、本県では浜通り地方でも所々にその自生が見られます。
 本種は、樹幹が強靭で葉姿が清浄であるために、社寺の境内や屋敷の周りにも好んで植えられ、関東地方以南には巨樹や老木もありますが、東北地方では気候の関係上あまり大木を見ることができません。
 本樹は、寛永年間(1624~1643)の本寺院再建時に植えられたと伝えられる直幹の堂々たる大木で、若々しい様相を呈しています。
 太さは、根回り9.45m、目通り5.03m、樹高25m、推定樹齢300年で、樹下の陰面積は96㎡あります。
 東北地方では稀に見る巨樹なので、学術研究の資料及び福島市の自然を記念するにふさわしいものとして天然記念物に指定しました。
     福島市教育委員会


 山門をくぐった右手には境内案内図が立ち、その後ろに南殿
(なでん)の桜、その右に鐘楼堂、さらにその右奥に宝物殿が建っている(下の写真)
 南殿の桜の説明板には、後ほど拝観する境内一番奥にある奥の院薬師堂の説明も併記されていた。

【南殿の桜】
 この桜は「南殿の桜」と呼ばれています。
 ここから十丁ほど離れたところに「昼の星」という小さな池があって、この桜の枝を折ってかざせば、白昼でさえも水面に星のまたたく姿が見えると伝えています。

【奥の院薬師堂】
 奥のお堂には薬師如来をおまつりしてあります。
 薬師如来は十二の誓願「ちかい」をお持ちになりその中でも衆病悉徐の請願は私たちの心の無明を解き、身体を病気から守り、ひいては延命に導いて下さるという、如来のお名前の起こりとなっております。
 この薬師如来は「鯖野の薬師様」と呼ばれ昔から広く、数多くの人びとの信仰を集めている霊験あらたかな仏様です。


 鐘楼堂向かいの内門をくぐり本殿に参る。
 内門を入った所に医王寺の説明板が立っていた。

       記
 当寺は瑠璃光山医王寺といい平安時代淳和天皇の御代、天長三年(826)の開基で弘法大師御作の薬師如来をおまつりしております。
 当地方を信夫といい、信夫の荘司であった佐藤基治は治承の昔(1177)大鳥城を居城とし、奥州南部の広域を治め非常な権勢を持っていました。信仰心の篤い基治は御堂を改修し堂塔伽藍を建立し源氏の再興を祈願し一族の菩提寺として寺門を興隆させました。
 やがて平泉の鎮守府将軍、藤原秀衡のもとにあった源義経が平家討伐に向う時、基治はその子継信、忠信の二人を遣わしました。
 兄弟は義経の忠義な家来としてめざましい活躍をしたが、惜しくも兄継信は屋島の合戦で能登守教経の矢を受け義経を守る盾となり、また後に頼朝との和を失った義経一行が京都で追手に遭い苦戦に陥った時、弟忠信は義経を名乗って敵を引きつけ主君を逃がし自分は身代わりとなった。
 その後弁慶等とともに無事奥州に下った義経一行は、平泉へ向う途中大鳥城の基治に会い、継信、忠信の武勲を伝えるとともに当寺に参籠して二人の追悼の法要を営みました。
 時は移っても、後の世までも伝わる継信、忠信兄弟とその妻たちの忠孝に心を打たれた松尾芭蕉や松平定信をはじめとする文人墨客が香華を手向けております。
     瑠璃光山醫王寺

 拝観料のみで本殿内部に上がることが出来る。
 本尊の右側には佐藤一族の位牌殿があり、兄弟の妻達の人形が祀られていた。
【佐藤一族位牌殿】
   中央の内殿には一族の位牌を祀る
   人形 右 継信公の妻 若桜
       左 忠信公の妻 楓
 義経一行は奥州に帰って来た。身代わりとなった継信、忠信はもう居ない。
 二人の息子を思いやった母・乙和の涙を見て、兄弟の妻達が、自らの悲しみをこらえ夫の甲冑姿を再現して親の心を和らげたという。
 この古事は孝行の鑑として今に称えられている。
   太刀佩いて 武装悲しき 妻の秋    自得







位牌殿

若桜


 本堂の左側に芭蕉句碑が建っている。

   笈も太刀も さつきにかざれ 紙のぼり     芭蕉翁

 この句碑は寛政十二年十月 隈東の谷無川と言う人が芭蕉翁歿後百六年目に建立したものであります


 内門に戻って鐘楼堂前に出た所に、謡曲「摂待」の説明板が立っている。
 内門から、奥の院に続く杉並木の参道を進む。

【謡曲「摂待」と医王寺】
 謡曲「摂待」は、佐藤
信、忠信の遺族を中心とする忠孝の至情を描いた曲である。
 継信、忠信の母が山伏摂待にことよせて、落ち行く義経一行を待ち受けていると、さあらぬ態でここ館(寺)に立寄った主従十二人を迎えた。
 初めは義経一行であることを隠したてていた弁慶も母尼に見破られて名乗りあい、義経の身代わりとなって戦死した兄弟の武勇を語り聞かせた。母尼は今は亡きわが子を忍びつヽ一行に酒を勧め、継信の遺児鶴若もけなげに給仕して夜を徹した。
 分かれの朝、鶴若は御供を乞うたが皆に慰めすかされ涙ながら一行を見送った。
 医王寺は義経一行が城主基治を訪れ、当寺に兄弟の遺髪を埋葬して法要を営み、冥福を祈った寺で、佐藤一族の菩提寺である。
     謡曲史跡保存会


 杉並木の参道途中の右側広場に、
義経と継信・忠信兄弟の石像が建っていた。

 中央が義経公、右が継信公、左が忠信公の像。


 更に、杉並木の参道を進むと、正面に薬師堂が建っている広い場所に出る。

【薬師堂】
 天長三年(今より約千百年前・西暦826年)に弘法大師が御開基になられ御直作薬師如来を安置されてありました、その後鎌倉時代に大鳥城城主佐藤基治が守本尊として立派なお堂を建立し佐藤公一門並に義経公等も深く御信仰なされた霊験あらたかな薬師如来であります。
  聲がたたねば鯖野の薬師 七日こもれば聲がたつ 等と唱えられ 毎月八日には御縁日にて参詣人も多くお茶の接待をして居ります。


 薬師堂の後ろには佐藤一族の墓があり、下記一番上の写真は右から、佐藤継信・忠信墓佐藤元治(基治)と奥方乙和(おとわ)の墓佐藤氏奉先碑となっている。兄弟の墓の前には佐藤氏顕彰碑が建っている。

【佐藤氏顕彰碑】
 平安末期 信夫の荘司佐藤基治公は大鳥城を居城とし陸奥南部の広域を治めていた 後年基治は源平合戦に臨むため平泉の鎮守府将軍藤原秀衡公のもとから旗揚げする源義経公の従臣としてその子継信公忠信公の兄弟を遣わせて義経に対する徹底した護衛を命じた その命令どおり兄継信は四国の屋島の戦いで義経を射んと放たれた能登守教経の矢を身体で受け止め盾となり主君の一命を守った また後に頼朝公との和を失った義経が追手に遭い危機に陥った時京都で忠信は義経を名乗って応戦し一行を無事遠ざけ自分はその場で犠牲となった 更に故郷に残された兄弟の妻たちが気丈にも悲しみを抑えて兄弟武将を装って姑の乙和を慰めた孝行心等数々の古事は後世の私たちに感動を与えている
     昭和六十一年九月 福島飯坂ライオンズクラブ
【墓標】 佐藤嗣信公・佐藤忠信公墓

【墓碑】 従六位下右衛尉 継信公 文治元年三月十八日卒(一一八五)
      法名 吉祥院殿八過継信大禅定門
      従六位左衛尉  忠信公 文治二年正月十三日卒(一一八六)
      法名 清光院殿釼勝忠信大禅定門   
【墓標】 佐藤元治公・乙和姫墓

【墓碑】
 大鳥城主信夫荘司佐藤元治(基治) 文治五年八月八日卒(一一八九)
      法名
 奥性院殿鉄山勝信大禅定門
      元治公の奥方  乙和  建久七年三月廿八日卒(一一九六)
      法名 光明院殿玉華昌連大禅定尼


 佐藤元治・乙和墓の左隣には供養塔群がある。
 下記文中『・・・俗信から損じています。』とは、継信・忠信の石塔(墓)を「粉にして飲むと身体が強くなる」という言い伝えで薬として使用された為、石塔が大きく削られてしまった事を述べたものである。

【医王寺の石造供養塔群】 福島県指定重要文化財(昭和61年3月31日指定)
 医王寺は、信夫荘司佐藤一族の菩提寺として知られていますが、摺上川沿岸には数多くの板碑・石塔が分布し、当寺はその一中心地をなしています。奥之院薬師堂の背後中央に荘司夫妻、右端に嗣信・忠信兄弟の墓塔と伝えられるものがあり、俗信から損じています。
 外に長方形の厚石や自然石を加工した奥州型板碑、頭部が山形でその下に二条線を刻み、額部・基部を備えた関東型板碑など、六十余基が保存されています。昭和十八年頃付近の山のものも含めて整備されたといわれています。
 いずれも凝灰岩製であるため、多くは磨耗して種子(梵字)年紀、建立趣旨などが不明ですが、弘長・正和・建武・永和などの年号が刻まれているものもあることから、鎌倉中期から南北朝のものと考えられます。
 なかに、松平楽翁の「集古十種」にのっていうるものが中央より左にあります。上部が欠けた正和二年の板碑で傍にある大形の長方形のものは銘文があります。
(中略)
 他に、大日・薬師・釈迦・阿弥陀・虚空蔵等の種子がみられ、南無阿弥陀仏の名号があり、真言密教や天台系の浄土教などが、この地方にひろまっていたことを知る中世の石造供養塔として貴重です。
     福島県教育委員会


 供養塔群の更に左には乙和椿がたたずんで、傍らには下記文中の歌を刻んだ黙翁の歌碑が建っている。
 乙和椿と呼ばれている一本の椿は、沢山蕾を付けてピンク色にまでなるが、五月上旬に花が開かないうちに全て落ちてしまうそうだ。しかし、隣の椿は花が咲くとの事。

【「乙和椿」由来】 医王寺名木
 信夫荘司佐藤基治公一族の墓域の西端にあった樹齢数百年つぼみが色つけば落ち一輪も花と開かず悲史母情を知るつばき
 義経の家来として継信忠信の二人を西国に失った母乙和子姫の悲しみは謡曲「摂待」や「甲冑堂物語」の傳うるところであるがいつの世にも華粟原ぬ親の心がしのばれる
   咲かで落つ 椿よ 西の 空かなし    黙翁
     昭和六十一年九月 福島飯坂ライオンズクラブ


 最後に瑠璃光殿(宝物殿)を見学したが内部は撮影禁止だった。芭蕉と醫王寺の文のみ筆記してきた。
【芭蕉と醫王殿】
 俳聖芭蕉は元禄二年(1689)陰暦五月二日、四十六歳の時、「奥の細道」の行脚で醫王寺を訪れています。伝え聞いていた佐藤一族の忠孝、その墓を詣でて懐古の情断ち難く当寺を去り、その夜は飯坂温泉に宿をとりました。
   句碑は本堂の左手前にあります。
 
 月の輪のわたしを越えて、瀬の上といふ宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半ばかりにあり、飯塚の里鯖野と聞きて、尋ね尋ね行くに、丸山といふに尋ねあたる。是れ、庄司が旧館なり。麓に大手の跡など、人の教ふるにまかせて涙を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし先づあわれなり、女なれどもかひがひしき名の世に聞えつるものかなと袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入りて茶を乞えば、義経の太刀弁慶が笈をとゞめて什物とす。
   笈も太刀も五月にかざれ紙幟
五月朔月のことなり。その夜飯塚に泊まる
     (奥の細道より)


【大鳥城跡】 (左上)
 医王寺を後にし、県道5号線に戻って飯坂町に向う。
 まず、大鳥城跡を見学と言うことで、国道399号線にぶつかったら左折、その先のトンネルを抜けたら戻るように左折して舘山を登る。
 ところが、中間の東駐車場に着いたら、その先が工事中で上まで登ることが出来なかった。ここから歩いたらかなり掛かりそうなので残念ながら城跡に行くことは諦めた。
 飯坂温泉街に入り、道城町の「旧堀切邸・鯖湖湯駐車場」に車を停めて、徒歩で温泉街を見学する。


芭蕉と曾良 入浴の地 
 駅から続くメイン道路に下りて進むと、鯖湖湯手前のポケットパークに芭蕉と曾良入浴の地と書かれた標柱と説明板が立っている。

 1689年(元禄二年)五月に、松尾芭蕉とその弟子、河合曾良の二人がここ飯坂に立寄ったとされています。当時の二人が感じた飯坂(飯塚)とは、どんなものだったのでしょうか。
【芭蕉 おくのほそ道 旧暦五月1日】
 其夜、飯塚にとまる。
 温泉
(いでゆ)あれば湯に入て宿をかるに、土座に莚を敷て、あやしき貧家也。
 灯もなければ、ゐろりの火かげに寝所をまうけて臥す。
 夜に入て雷鳴、雨しきりに降て、臥る上よりもり、蚤、蚊にせゝられて眠らず。
 持病さへおこりて、消入斗
(きえいるばかり)にならん。


 その夜は飯塚に泊まった。
 温泉があるので湯に入り、宿を借りたが、土間にむしろを敷いただけの粗末な貧家であった。
 灯火もないので、いろりの灯が届くところに寝床をつくり、横になった。
 夜に雷が鳴り、大雨が降って寝ている上から雨漏りがし、ノミみや蚊に刺されて眠れない。
 持病がぶりかえし、苦しみ、気を失うほどであった。

【曾良 随行日記 旧暦五月二日】
 川ヲ越、十町程東ニ飯坂ト云所有。湯有。
 村ノ上ニ庄司舘跡有。下リニハ福島ヨリ佐波野、飯坂、桑折ト可行。上リニハ桑折、飯坂、佐場野、福島ト出タル由。
 昼ヨリ曇、夕方ヨリ雨降、夜ニ入、強。
 飯坂に宿、湯ニ入。


 川を越えて十町程(1000メートル)東に飯坂というところがある。湯もある。
 村の上に、庄司の館の跡があった。(ここから北へ)下れば、福島から佐波野、飯坂、桑折へ行ける。
 (南へ)上がれば桑折、飯坂、 佐場野、福島へとでられるようになる。
 昼から曇り、夕方に雨が降り出し、夜になると(雨が)強まる。
 飯坂に宿を取り、湯に入った。


【飯坂温泉発祥之地】 
 ポケットパーク隣の鯖湖神社の鳥居手前左に飯坂温泉發祥之地碑と碑文が建っている。

【飯坂温泉と鯖湖湯のはじまり】
 はるか昔 鬱蒼とした原生林に覆われた山の端の小さな谷間に 豊かな温泉が湧き 湯の流れは沢となり 湯煙をあげて摺上川に注いでいた
 これが飯坂温泉の原点、鯖湖湯の始まりである 伝説に 日本武尊が東征の折 病に伏し佐波子湯に湯浴し たちまち平癒したといわれている
 「あかずして わかれし人のすむさとは さばこのみゆる 山のあなたか」と 古歌に詠まれた 「さばこ」は飯坂の古称ともいえるようだ
 月日は流れ 源平時代の悲劇の名将 源義経と共に永遠の語り草となっている継信・忠信兄弟の父 佐藤基治は信夫の里を統治し「湯の庄司」とよばれ 温泉とのかゝわりの深さを示している
 鎌倉も末 伊達政信は湯山城を築き飯坂氏を名のる 此頃よりこの地は湯治場の賑わいをみせる
 元禄ニ年 芭蕉は曾良と共に「奥の細道」の旅の一夜を飯坂に過ごした 随行日記の里程の正確さから この辺りかと推測する事も可能である
 明治となり こゝに初めて科学のメスが入れられた 丹波敬三の温泉の定量的分析をはじめとした幾多の研究 中でも真鍋嘉一郎によるラジウムの含有の発見は 飯坂ラジウム温泉の名を全国に広めた 悠久の大自然の中に 今も脈うつ鯖湖湯こそ 飯坂温泉の象徴であり歴史である

【鯖湖神社とお湯かけ薬師如来】 
 上の写真で、鳥居手前の左側に立っている白い標柱が飯坂温泉發祥之地碑と隣の黒っぽい石が碑文である。
 鳥居をくぐった突き当りの小さな社が鯖湖神社でその左隣にお湯かけ薬師如来が立っている。

【円蔵院八幡寺御分霊 泉仏 お湯かけ薬師如来】
 その昔、千数百年前、「日本武尊」が東征の折、病に倒れ鯖湖湯に湯浴して平癒した伝説があり、また明治時代には東京帝大の丹波敬三博士による鯖湖湯の湯質の分析・日本の総合病院の創始者松本良順による温泉治療の評価・真鍋嘉一郎の「ラヂュウム」の含有発見等、鯖湖湯は昔から「薬湯」の名声を遺憾なく発揮して現在に至っています。
 以上の名声に合わせ、この度の新鯖湖湯の復元オープンに際し鯖湖神社(湯神様)のご本尊である「薬師如来像」を建立し、併せてその徳を広く授からん事を祈念し、お湯をかけ薬師如来の由来およびその霊験を書きしるします。
 薬師如来様は、薬師瑠璃光王如来と尊ばれ、東方の浄瑠璃世界の仏さまで左手に薬壷、右手に三界印を結び、日光菩薩・月光菩薩を脇士として種々の薬を生じて、過去・現在・未来の三世にわたって法を説きいかなるところにおいても、常に衆生を救って下さると示されております。
 また如来とは仏をさす同意語で人々を導くためにやって来た人と解釈されています。
 薬師如来様の、み心に帰依し奉り、生命力と天然の恵みの薬湯(鯖湖湯)の効能を授かりこれを多くの人々に与えられん事を念じます。
 お湯かけ薬師如来様にお湯をかけ体の不具合のところを「さする」または「なでる」して、薬湯(鯖湖湯)に入浴して頂けば効能はさらに上がることと信じます。
   「南無大師遍照金剛」   合掌

 【鯖湖之碑】 
 お湯かけ薬師如来の左隣に櫓が建っていて上には大きな桶が乗っている。その櫓の右下に鯖湖之碑がある。
 櫓の左下には与謝野晶子と正岡子規の歌碑・句碑が並刻されている。(下の写真で櫓の左下の白っぽい石碑が歌碑、真中が説明板、右奥の黒っぽい石碑が鯖湖之碑)

【鯖湖之碑の由来】
                 勅撰和歌集拾遺集より
 あかずしてわかれしひとのすむ里は さばこのみゆる山のあなたか
     碑文は白河楽翁公(松平定信)の筆による(鯖湖の恋歌)
    
鯖湖碑陰記
 土人以古鯖湖即為此地聞之
 老公
 老公書賜古歌刻碑樹之臣典謹識其陰
 詔後世使之知之
   文化十三年丙子      白河廣瀬典識
 漢詩説明
  この地の人が鯖湖はここであるということを松平定信がきいて古歌を書かれたので臣の廣瀬瀬典がこれを碑にきざんで建てた。
    
正碑移転記
 正碑或恐羅災相議移之八幡祠畔爰代以此石
   明治三十五年元旦     如電大槻修
 
漢詩説明
  老公が書かれた正碑が災にあってなくなることを心配して正碑を飯坂町八幡神社に移して代わりの副碑をここに建てた。
     平成二年葉月 湯澤町内会 鯖湖神社氏子

 与謝野晶子の歌
   
わがひたる 寒水石の 湯槽にも 月のさしたる 飯坂の里   明治四十四年八月
 正岡子規の句
   
夕立や 人声こもる 温泉のけむり   明治二十六年七月


【鯖湖湯】 
 鯖湖神社の後ろに鯖湖湯がある。

【鯖湖湯】
 
鯖湖湯は飯坂温泉発祥の地とされ、元禄2年(1689年)奥の細道の途中飯坂に立寄った松尾芭蕉が湯につかったと伝えられる名湯です。
 日本最古の木造建築共同浴場(明治22年建築)で、平成5年に明治を忍ぶ共同浴場として忠実に再現しました。
 泉   質  アルカリ性単純温泉  泉温 51.0度
 浴槽温度  47度前後(源泉かけ流しの為、熱いお湯が特徴です。)
 利用料金  大人(12歳以上)200円 子供(1歳以上12歳未満)100円
 営業時間  6時~22時(年末年始を除く)
 休 業 日   毎週月曜日(【月曜日が祝日、振替休日の場合は営業します。)

【旧堀切邸】 
 鯖湖湯の前を右折すると旧堀切邸の裏門に出る。
 鯖湖湯前を右折しないで真っ直ぐ進み、突き当たりを右折したところに表門がある。こちらから入った方が入口で資料が貰えたり、案内ビデオが見られたりするので良いと思う。
 敷地内には足湯もある。


表門

 開館時間 9:00~21:00
 入 館 料  無料
 休 館 日  年中無休

母屋
【旧堀切邸概要】
 堀切家は、1578(天正6)年に梅山太郎左衛門が、若狭(現在の福井県)からこの地に移り住んだのが始まりと言われています。
 「堀切」の名は、屋敷の西を流れていた赤川に由来しており、赤川が大雨で氾濫した時、堀を切って被害を食い止めたことから、地名を堀切とし、堀切氏と称したと伝えられています。
 江戸時代、堀切家は大庄屋として財力を蓄え、飢饉時の農民救済など地域の経済に大きく貢献しました。
 現在の屋敷面積は、4,084㎡ですが、1880(明治13)年以前には約2倍以上あったと伝えられています。主屋は、火災にあった明治13年の翌年に再建された近代和風住宅です。屋敷内には、1775(安永4)年に建築された県内で現存する建立年代が明確な最古の十間蔵や当寺の生活を伝える建物が見られます。
 堀切家では、14代良平の長男で我が国の近代政治史にその名を残す堀切善兵衛(衆議院議長、駐イタリア大使)、そして関東大震災後の東京復興に尽力した次弟、善次郎(東京市長、内務大臣、東京福島県人会長)、福島の経済界に大きな役割を果たした末弟、久五郎(衆議院議員)を排出しました。

米蔵
【旧堀切家米蔵(通称「十間蔵」)(附)棟札、百姓溜】 福島県指定有形文化財(平成19年12月6日指定)
 旧堀切家米蔵(通称「十間蔵」)は、旧堀切家の広い屋敷の中央に位置し、棟を南北に向けて建つ二重屋根式の大形の土蔵である。
 十間蔵は米収納蔵(江戸末~明治期には酒造蔵の一部に使用〔明治十三年の家相図より〕)の遺構で、桁行十間、梁間三間半、平面積三十五坪、一部は中二階建てで、県下の江戸期の土蔵のなかでも最大級と見られる。二階境の中央に建つ棟持柱の上端に打つ棟札には祈祷文と共に「安永四乙未(1775)天九月大吉祥」の記載があり、県内最古のものと考えられる。また、中二階を設けない部分には棟束等を欠くなど、構造上の古形式も残している。
 当時は、用途による改造や土壁・土扉等の破損および屋根を瓦葺きに変えたための荷重増加による上屋根の破損も見られたが、原形はよく保たれていた。
 北端に接続する「百姓溜」も有形民俗資料として見るべき点があり併せて保存した。
 なお、旧堀切邸跡地整備事業として、土壁・土扉・屋根等を補強して復元を行なった。
     平成二十二年五月一日 福島市教育委員会

【ちゃんこちゃんこ】 
 旧堀切邸の表門を出て右折し、やや広い道を渡った左角に俳聖松尾芭蕉ゆかりの地入口と刻まれた石標が建ち、その後ろの塀に「滝の湯」と「ちゃんこちゃんこ」の説明板が掲げられていた。

【「滝の湯」と「ちゃんこちゃんこ」】
 飯坂小唄に歌われる、―ちゃんこちゃんこおりて―とは、ここの石段(七十三段)で、「滝の湯」に降り摺上川畔での清遊の道でありました。
 「滝の湯」とは瀑布湯ともかき、お湯が自然に湧き滝のように流れていたところから名づけられ、古来鯖湖湯・波古湯・赤川湯と共に飯坂の名湯に数えられ文人歌人の詩情をそそり愛され、また共同浴場として町の人々や湯治客から親しまれ利用されてきましたが、惜しくも昭和十二年火災によって焼失、元禄の昔俳聖松尾芭蕉が大鳥城主佐藤庄司一族の忠誠に涙し、みちのく行脚の疲れを癒したと伝えられる名湯も廃止されましたが「熱の湯・冷えの湯」の跡にその面影を偲ぶことができ、また芭蕉ゆかりの碑があり地名ともなって残されています。
 「ちゃんこ ちゃんこ」 その土地の覇王減を口ずさみ人情の機微にふれることも旅の想い出となることでしょう。
     昭和五十七年 福島飯坂ライオンズクラブ
 滝の湯跡芭蕉ゆかりの地碑へは、そのまま直進(上の写真参照)し、ちゃんこちゃんこと呼ばれる石段を降りた所にある。

滝ノ湯跡 
 左カーブしている73段の石段を降りた広場が滝の湯跡である。広場の右手には摺上川が流れ、左側には、「滝の湯跡」の説明文と当時の写真が掲げられている。

【滝ノ湯跡】
 
滝の湯は古くからの温泉で、江戸時代に鯖湖湯・当座湯・波来湯と共に実在が確認されています。昭和12年に焼失し、その跡は埋められたままになっていました。
 周囲に今でも、明治・大正時代の面影が残されています。


 (左上の写真はピンボケで撮れたものを修正している為、荒れています。)
 (左側の石に下の写真が掲げられおり、右側の碑が下記の芭蕉ゆかりの地碑)
【滝ノ湯】
 左端の建物が大正期の滝ノ湯です。旅館も並んでいました。

【渡し舟】
 明治期には、摺上川に渡し舟が往来していました。

松尾芭蕉ゆかりの地 
 「滝の跡広場」の右手に松尾芭蕉ゆかりの地碑が建っている。
 碑文の脇に補足説明板が立っていた。この碑の後ろに摺上川が流れている。

【俳聖松尾芭蕉ゆかりの地】
 其夜飯塚(飯坂)にとまる 温泉あれば 湯に入りて宿をかるに 土座に莚を敷て あやしき貧家也 灯もなければ ゐろりの火かげに寝所をまうけて臥す 夜に入りて雷鳴 雨しきりに降りて 臥る上よりもり 蚤蚊にせゝられて眠らず 持病さへおこりて消入斗になん 短夜の空もやうやう明れば 又旅立ちぬ 猶夜の余波 心すゝまず 馬かりて 桑折の驛に出る

【補足説明板】
 長らく、1689年に芭蕉が入浴したのは滝ノ湯であろうと言われていました。その跡地に、1968年、「芭蕉の碑」が建造されました。
 しかしながら、おくのほそ道の研究が進み、今日、芭蕉と曾良が入ったのは、滝ノ湯ではなく、鯖湖湯あるいは当座湯であるとの見解が有力になっております。
     ニ〇一一年三月 飯坂町史跡保存会 飯坂温泉観光協会 飯坂温泉旅館協同組合

【芭蕉像】 
 駐車場に戻って「飯坂温泉駅」に向かうと、駅前広場に芭蕉像が建っていた。

 俳聖芭蕉は元禄二年(1689年)江戸を出発して奥州北陸をめぐり美濃の大垣に着くまで百五十日に及ぶ俳諧修練の旅をつづけながら旅行記「奥の細道」にまとめ後世に残した この旅行文はわが国の文学史上に不滅の光彩を放っている
 旅の途次芭蕉は門弟曾良と共にまだ温泉場としての形態を放っていない当時のひなびた飯坂温泉を訪れている
 飯坂の城主佐藤庄司基治の菩提寺「医王寺」を訪ね 源義経に従って転戦し討死した基治の息子 継信忠信兄弟の功に耳を傾け継信忠信の死を悲しむ母を慰めるため 二人の嫁が夫の甲冑を身につけて凱旋のさまを粧った話に涙を流し
   笈も太刀も五月にかざれ紙幟
の一句を残した
 然し飯坂の泊りは雷雨降り持病もおきて寝苦しい一夜であった様である
 このたび飯坂温泉の住民挙げてのご協力と日展評議員彫塑家太田良平氏の特別のご理解ある制作によりここに芭蕉の像を建立し史跡を永くとどめる次第であります
   昭和五十七年睦月 飯坂温泉観光協会・飯坂町史跡保存会・飯坂温泉旅館協同組合・飯坂町商工会・飯坂地区町内会連合会・湯野地区町内会連合会

【十綱橋】 
 芭蕉像の後ろには摺上川に架かる十綱橋が見え、像の右側に橋の由来が書かれている。

【十綱橋由来】
 みちのくの とつなの橋に くる綱の
   絶すも人に いひわたるかな     千載集
 平安の頃、この地に藤づるで編んだ吊橋がかけられていた。文治五年(1185)大鳥城主佐藤元治は、義経追悼の鎌倉勢を迎え撃つため、この橋を自らの手で切り落とし、石那坂の合戦に赴いた。その後は両岸に綱をはり舟をたぐる「とつなの渡し」にたよったが、摺上川はたびたび氾濫する川で、舟の往還にも難渋した。
 明治六年(1873)盲人伊達一、天屋熊坂惣兵衛らの努力によりアーチ式の木橋が架けられ「摺上橋」と命名されたが一年ほどして倒壊、同八年に宮中吹上御苑の吊橋を模して十本の鉄線で支えられた吊橋が架けられ「十綱橋」と名づけられた。大正四年(1915)橋の老朽化に伴い、当時としては珍しい現在の十綱橋が完成された。昭和四十年(1965)に大補修が加えられ、飯坂温泉のシンボル的存在となっている。
 飯坂の はりかね橋に 雫する
   あづまの山の 水色のかぜ      与謝野晶子
     昭和五十七年 福島飯坂ライオンズクラブ

【桑折(こおり)宿】
 上記「十綱橋」を渡り終えた信号を右折して飯坂温泉に別れを告げ、国道399号線を進む。
 程なく二股で国道は右斜めに分かれて行くが、奥の細道は二股を直進し県道124号線に入る。
 暫く道なりに進み、東北自動車道をくぐり、東北新幹線と東北本線も左カーブしてからくぐる。
 次いでS字カーを曲がると桑折寺の前で道はクランク曲がりをし、瀬上宿で分かれた奥州街道が右から合流してくる。
 合流した辺りが奥州街道54番目の桑折宿入口である。
 桑折宿は、仙台藩伊達氏発祥の地で、江戸時代に入り領主は何度か変ったが、貞享四年(1687)に天領となり代官が置かれた。日本三大銀山の一つと云われる半田銀山が近くにひかえていた為、非常に栄えた宿場だった。
 この桑折宿から羽州街道が分かれ小坂峠を越えて出羽国(山形県・秋田県)を抜け、油川宿(青森市)で奥州街道(松前道)と再び合流する。


【桑折寺(こうりんじ)】 (左側)
 奥州街道と合流した左側に桑折寺がある。
 この寺の山門は西山城の城門を移築したもので古いが、本堂は新しかった。
【桑折寺由来】
 当寺は、桑折町二十有余の寺院のなかでも最も古く、この扶桑山伊達院桑折寺は、本山・神奈川県藤沢市にある藤沢山清浄寺であって。本尊は阿弥陀如来である。
 当山は永仁五年(1297年)時宗第二祖真教上人が巡国の時にひらいたもので、その寺号からも想像されるように、当地方に寺院があまりなかったころ創設されたもので、その寺号とともに当地方の地名をもって称号とされているのである。このように地名をもって寺号としていた当山は、その後宝永二年(1705年)第二十世の怕閭上人の代に、これを改め「光林寺」と称したという。これは桑折の光林との音訓がよくにているので改めたと伝えられているが、その後、第二十四世の長世上人の代には」「光」を「香」の字に改めて香林寺としている。ところが第三十四世和田歓山和尚の代、明治二十六年に、再び「香林寺」をもとの「桑折寺」に改めるに至ったのである。その理由は、当地方最古の寺院である当山が、以前は山号院号も地名をもって称せられておったものが、寺号だけを改めて他の名称をつけるのは、この最も古い歴史をもつ寺院を永久に後世の人々に伝えるには、はなはだ遺憾であり、歴史上にもおおいに関係を及ぼし、事実を追及する上にも、しばしば不便があるというので檀家一同相談の上、現在の称号に改めたといわれている。
 当山は享保四年(1719年)に一堂を再建したことがあり、第三十一世絶三和尚の代の文政八年(1825年)に本堂を再建し、嘉永元年(1848年)には庫裏を再建したという。
 山門に掲げてある「伊達院」の額は、第二十五世善察和尚の弟子西心道の奉額で、裏面に元禄六酉年六月八日と記してある。
 当桑折寺は、伊達氏の古い分家一家の「桑折氏」の菩提寺である。
 昭和四十三年(1968年)に本堂屋根大改修、昭和四十六年(1971年)に庫裏を再建した。
●開基 遊行ニ祖他阿真教上人
●宗祖一遍上人
     平成十六年八月吉日 三十六世心阿了然 扶桑山伊達桑折寺護持会

【桑折寺山門】 福島県指定重要文化財(建築物)(昭和54年3月23日指定)
    木造、銅板葺、四脚門
 当山門は、天文十七年(1548)西山城主伊達春宗がその城を破却して米沢城に移る際、城門を桑折寺が拝領し移築したものと伝えている。文政七年(1825)、当寺の本堂を改築に際して傷んでいたこの門も修理している。
 間口の柱間は、ニ・七三メートル、奥行同一・四メートルと小型で、扉付のこの門は、切妻の唐破風を正面にみせる、いわゆる向い唐門である。屋根は、化粧たるきの上に野小屋を組み、厚手のカヤ葺としていた。細部の主調は禅宗様である。丈が高く簡素な蟇股や渦文の木鼻、また蟇股をはじめとして台輪先端や木鼻などの鋭い鎬(しのぎ)などは禅宗様の崩れが少ない。昭和五十五年に解体修理に際して、町内防火の見地から銅板葺にされた。
     福島県教育委員会

【旧伊達郡役所】 (右奥)
 桑折寺から東に進み、広大な駐車場を持つコンビニが右角にある交差点を左折するのが奥の細道(奥州街道)。
 この交差点を右折した突き当たりに旧伊達郡役所が建っている。ただ、本日は休館日だったので中に入ることは出来なかった。

【旧伊達郡役所】 重要文化財(建造物)(昭和52年6月27日指定)
 この建物は、明治十六年(1883)十月、三島通庸県令のときに、桑折町の大工棟梁山内幸之助・銀作の両氏によって建てられた。
 洋風官衙建築として、東北地方に残る優品の一つであり、当時の形態と位置を同じくして現存する珍しい建物であることが高く評価されています。
 大正十五年(1926)七月一日郡役所の制度が廃止になるまでの約四十三年間、郡行政の役割を果たしてきました。その後、伊達郡各種団体事務所、更に県の出先機関としての地方事務所が設置されてきましたが、昭和四十四年三月県行政の改革により廃止となり、昭和四十九年五月七日県重要文化財に指定され、同年七月二日桑折町に移管されました。
 昭和五十二年国重要文化財指定と同時に、文化庁並びに県の指導と援助により、半解体保存修理工事に着手し、十九ヶ月を経て昭和五十四年六月三十日滞りなく完成しました。
 往時を忍ぶ威厳ある風格は、町のシンボルとして、この貴重な国民的文化遺産を永く後世に伝えるものであります。
     昭和五十六年三月 桑折町教育委員会


 旧伊達郡役所の右隣には種徳美術館が建ち、更に右奥には芭蕉像が建ち、像の足元には『奥の細道』の文が刻まれていた。

【奥の細道】
 月の輪の渡しを越えて・・・・・(上記「医王寺・瑠璃光殿(宝物殿)」に記載済)
 その夜飯塚に泊る 温泉あれば湯に入て宿をかるに 土座に莚を敷て あやしき貧家也 灯もなければ ゐろりの火かげに寝所をまうけて臥す 夜に入て 雷鳴 雨しきりに降て 臥る上よりもり 蚤・蚊にせゝられて眠らず 持病さへおこりて 消え入る斗りにならん 短夜の空ももやうやう明れば 又旅立ぬ 猶夜の余波(なごり) 心すゝまず 馬借りて桑折の駅に出づる 遥かなる行末をかゝへて かゝる病覚束(おぼつか)なしといへど 羇旅辺土(きりよへんど)の行脚 捨身無常の観念 道路に死なん是天の命なりと 気力聊か(いささか) とり直し 路縦横に踏んで伊達の大木戸を越す

【桑折町道路元標】 (右側)
 コンビニ前の交差点に戻ると、渡った右角に桑折町道路元標が立っていた。この交差点から再び北上する。
  


【桑折宿本陣跡】 (右側)
 道路元標のすぐ先右側に桑折宿本陣跡の標柱のみ立っている。
  


【法圓寺】 (左奥)
 交差点から300mほど行った左側に「桑折郵便局」があり、そのすぐ先左奥に法圓寺がある。
 壇上に弘法大師の石像が多数並ぶ参道を入って行くと正面に本堂があり、その手前右側に芭蕉の田植塚がある。また、左手には芭蕉の坐像が置かれていた。

【芭蕉の田植塚】 桑折町指定文化財・史跡(昭和55年3月八日指定)
 当時の俳人・佐藤馬耳(ばみ)が芭蕉の
   風流の初めや奥の田植歌
という句の短冊を埋めて「芭蕉翁」と刻んだ石碑を建てたのは、享保四年(1719)のことである。これが田植塚で、同時に全国の俳人の句を集め、近隣の俳人を招いて芭蕉追悼の句集「田植塚・乾坤」の二集を刊行した。
 松尾芭蕉は、元禄二年(1689)五月三日、桑折宿を通過している。桑折宿が芭蕉ゆかりの地であること、当時桑折俳壇が隆盛の機運にあり、蕉風普及の指導者であった馬耳は「田植歌」の短冊を入手し、これにあやかる碑を建てたのである。
 江戸時代に刊行された『諸国翁墳記』では、東北で最古のものとされている。
     平成二十三年三月三十一日 桑折町教育委員会

【無能寺】 (左側)
 街道に戻り、次の交差点を越えたすぐ先左側に無能寺がある。

 入口に明治天皇桑折御小休所と刻まれた石碑が建っている。
 クランク曲がりをしている綺麗な参道を進み山門をくぐると目の前に大きな笠マツが現れて、思わず目を見張ってしまう。
【無能寺の笠マツ(御陰迺松)】 福島県指定天然記念物(平成20年4月4日指定)
 
このアカマツは、幹が西に傾き、根回りは九・五m、樹冠は、根元中心から東に六m、西に九・ニm、南に六・ニm、北に八・六mあり、ほぼ近世のとれた笠形をなしている。笠の頂の高さは地上から六・ニ四mある。
 明治十四年(1881)八月十日、明治天皇東北御巡行の折、無能寺で小休された際、命を受けた宮内大輔杉孫七郎によって「御陰迺松(みかげのまつ)」と命名された。
   おほきみの みかげの松の 深みとり
   夏も涼しき  色に見えつつ
と詠われた。
 当時で樹齢三〇〇年といわれることから、現在では四〇〇年以上の松の古樹である。
 笠松として気品に満ち、地域文化の象徴として価値も高く、また、よく保護管理がされている銘木として貴重である。
     平成二十三年三月三十一日 桑折町教育委員会

    


【奥州街道・羽州街道 追分】 (正面)
 街道に戻り、桑折駅入口である次の信号の一つ先に二股道が現れ、この先端に奥州街道・羽州街道 追分の標柱、標石、柳の句碑、説明文が掲げられている休み所が建っている。
 この二股左側の「割烹 仙台屋」の入口にも新しい道標が立っていて、正面に『桑折宿 追分』、右面に『右 奥州街道 至仙台』、左面に『左 羽州街道』と刻まれていた。

【奥州街道・羽州街道 追分】
 ここは東北地方の二大街道、奥州街道と羽州街道の分岐点、いわゆる「追分」です。
 五街道としての奥州街道は江戸日本橋から白河までですが、延長線上のそれ以北の福島、仙台、盛岡を経て青森から津軽半島の三厩へ至る街道も、奥州街道と呼ばれていました。全体で百十四次に及ぶ日本最長の街道といえ、現在は国道4号が代替となっています。
 羽州街道は、ここ桑折宿で奥州街道と分岐し、七ヶ宿、上山、山形、秋田、弘前を通り、油川宿(青森県)で奥州街道と合流する五十八次の街道でした。参勤交代で多い時には13家の大名が往来し、また福島県内や関東地方から出羽三山への参詣路となった信仰の道でもあり、また物資や文化を運ぶ主要街道でした。現在は国道113号、13号、7号が代替となっています。
 追分にある、道標には「右 奥州仙台道」「左 羽州最上道」と刻まれています。
宝永五年(1708)の建立とされています。
安永8年(1779)に詠まれた句碑「夕暮れに心の通う柳かな」は、江戸や陸奥、出羽の交流の要衝となった桑折宿の文化を窺うことができます。
 これらの追分の姿は、平成18年12月江戸時代の絵に基づいて復元されたもので、往時をしのぶことができるようになりました。
【柳の句碑由来】
   『夕暮れに心の通婦柳哉』
 この歌碑は、安永八年(1778)当時の俳諧の師匠、卜而翁の急逝したため、社中の人々がその徳を慕って、ここ追分に建立したものであった。
 『・・・・・五月中の一日ゆくりなく身まかりけるに高きも下たれも此の人をなん惜しむはあらざる也○に社中の友みつから石を荷い土を運びてありの○碑を建碑面に柳の一句を記し先生の高徳をあふぎ慕ふものなるべし』と背面に記されているが、現在は朽ちて判読が難しい。
 桑折宿はかつて奥州、羽州諸藩大名の参勤交代の街道筋に当たり、旅人の往来、物資の輸送など大いににぎわっていた。
 もう一つの重要なことは、人物の往来によって文化面の交流が促されたことである。芭蕉の奥の細道行脚以降、これに触発された中央の文人の往来交流が盛んになり、一方大名や代官所、銀山役人など多様な階層の人々による俳諧の催しが、度々開かれその句集も多く残っている。
 このように中央から俳諧の情報が得られることによって、地元の愛好者による同人も結成されるなど、大きな影響を及ぼしさらに、近郷への文化の発信地ともなっていた。
 中には江戸の元禄文化を、桑折に初めて伝えた田村茂左衛門(不碩)がおり、また本陣宿役でこの地方俳諧の中心的人物、佐藤五左衛門(馬耳)は、仙台五代藩主伊達吉村公宿泊の折には、歌会を催しそれが縁で、柱碩という俳号を贈られるほどの親交があった。
 柳の句の作者は、馬耳より二十数年後の人物であるが当時、俳諧が身分の高低にかかわらず、地域の底辺広く親しまれたことをこの句碑が物語っている。
 昭和初期国道拡幅に伴って句碑は他に移され、半ば忘れかけていたのを、町文化財保存会は重要な史跡として、保存顕彰に努めてきた。平成十八年羽州街道起点の整備に伴い、地元の要望もあった下の場所に移築復元することができた。
 その往昔の人々が句碑に込めた想いを蘇らせ、さらに心が通い合い、文化の香るまちを願うシンボルでもある。
     08.4.13 猪

【谷地一里塚跡】 (右側)
 奥州街道・羽州街道 追分で右の道(奥州街道)へ250mほど進んだ右側の「斉藤歯科医院」の駐車場前に尾州街道谷地一里塚跡と書かれた標柱が建っている。

 奥州街道72里目の一里塚だが、標柱のみで説明文等は無かった。

【藤田宿】 
 谷地一里塚跡を過ぎたら暫く道成りに進む。やがて信号のある県道46号線(七ヶ宿街道)を横断したら、続く信号を右カーブし、その先を左カーブして行く。
 県道を横断した辺りから奥州街道55番目の藤田宿へ入ってゆく。右へ左へ曲がるのは枡形道であろう。
 藤田宿は代官の取締りがゆるく、女郎目当てに近隣村民や半田銀山の抗夫が集まって賑わったと云う。江戸時代二は幕府領となり、桑折代官の支配下になった。


【奥山家住宅】 (左側)
 左カーブした先の信号を越えたすぐの左側に和洋建築の奥山家住宅(国登録有形文化財)がある。

 大正10年竣工の建造物で、随所に彫刻による装飾が施されている住宅(主屋)と塔屋を持つ洋館からなる。
 奥山家は、江戸末期から昭和初期にかけて、呉服屋・金融業等を営み、明治からは製材業も営んだと云われる。

【国見神社】 (左奥)
 奥山家住宅を後に、「国見小学校」の前を通り、国道4号線に合流するが、すぐ先で右斜めの旧道に入る。
 旧街道に入ってすぐの十字路を左折し、国道の下をくぐったすぐ先右の石段上に国見神社がある。社殿は修理中であった。

 神社の後ろを更に登って行くと義経の腰掛松があるとのことだが、道がよく分からないので行かなかった。

【国見神社由緒書】
 国見神社は阿津賀志山の南麓、国見の丘陵上に鎮座し、祭神は『古事記』にある出雲神話の中で、素盞鳴尊による数々の試練を経て、小彦名神と国づくりに尽くされ、天孫降臨に際しニニギノ尊に国土を献上された大国主命。
 五穀豊穣、縁結びや子孫の繁栄に、霊験あらたかな神として、近郷近在の人達に崇敬されてきた。勧請創建の時期は明らかでないが、往古より伊達郡西根郷の総鎮守とされ、明治維新の際には郷社に列せられ、同八年に石母田村の村社となった。
 例祭は四月三日である。
     平成十七年九月吉日 国見神社

【阿津賀志山(あつかしやま)防塁(下) (左側)
 国見神社の上の道(上記石段の上で社殿のある所)から国道に合流すると、すぐ左側に阿津賀志山防塁と書かれた大きな看板が現れる。

【阿津賀志山防塁(国道4号北側地区)】 国指定史跡(昭和56年3月14日指定)
 文治5年(1189)に、源頼朝率いる鎌倉軍と奥州藤原泰衡の命を受けた、藤原国衡率いる平泉軍が決戦を行なった阿津賀志山周辺には、中腹から阿武隈川旧河道まで3.2Kmもの長大な防塁が築かれています。この要塞施設は、平泉軍が、短期間に完成させたもので、現在もその痕跡を随所で見ることが出来ます。
 この国道4号北側地区では、外堀が完全に埋まっていますが、良好に残る内堀と、外・中・内の3本の土塁跡を観察することが出来ます。また、近年の発掘調査から、東と西に防塁の範囲が広がることが分かりました。
 両軍が対峙したこの遺跡に立ち、鎌倉方(南方向)を眺めてはいかがでしょうか。
     平成二十四年三月三十日 国見町教育委員会

 ここから登って行っても防塁が見られると思うが、私達は車なので、一つ先の長坂の方から車で登って、山の上から防塁を見学した。


国見峠長坂跡】 (左上)
 上記看板から国道を少し(160m程)進むと、左へ登る道があり、入口に『町史跡 旧奥州道中長坂跡 これより200m・国史跡 阿津賀志山防塁 これより400m』の案内板が立っている。
 ここを左折して長坂跡防塁を訪れる。

【旧奥州道中国見峠長坂跡】 町指定史跡(昭和60年3月15日指定)
 国見峠は、厚樫山の東腹部に位置し、古代においては律令政府の都である奈良や京都、中世以降は武家政権の幕府が置かれた鎌倉、京都や江戸より、陸奥、出羽の両国へと続く官道がこの峠越えに、伊達と刈田郡境の地狭部を通り北へと走っていた。この道は、東山道、奥の大道、奥州道中、陸前街道と時代により呼称が異なるが、奥羽地方の幹線道路として機能していた。
 伊達駅(藤田宿)を経由しほぼ直線状に延びた古代の東山道は、阿津賀志山防塁を切り通したあたりから長坂と呼ばれる急な坂道にさいかかり、登りつめた所が国見峠である。この峠周辺一帯の地は、文治五年(1189)の奥州合戦で源頼朝と藤原泰衡の率いる両軍が激戦を交えた古戦場であり、信夫郡石那坂(現福島市)の戦いで敗死した泰衡の郎従佐藤基治等一族の首級は経ヶ岡の地にさらされた。
 近世におけるこの道は仙台、盛岡、松前藩などの諸侯が江戸と国元とを往来する参勤交代に使用され、元禄二年(1689)松尾芭蕉が『奥の細道』の紀行で、「路縦横に踏んで伊達の大木戸を越す。」と旅をしたのもこの道である。明治十年代の後半になると国見峠の急な坂道は馬車の通行に適せず、山麓に新道が開通されるにおよんで、長坂道は廃されて歴史的な使命を終えるが、旧道の景観と遺構はよく保存がなされている。
     平成十五年十二月 国見町教育委員会

【阿津賀志山防塁(上) (左上)
 上記写真の道を左に上り、突き当りを左折した先に阿津賀志山防塁が見られる。防塁手前の駐車場の前にも説明板が立っていた。

【国指定史跡 阿津賀志山防塁】 
 
文治五年(1189)奥州平泉の藤原泰衡は、源頼朝の率いる鎌倉軍を迎え撃つべく、防御陣地阿津賀志山防塁をこの地に築いた。
 この地点の阿津賀志山防塁は、厚樫(国見)山中腹の始点部より東北自動車道、JR東北本線を挟んで三五〇メートルに位置している。昭和十五年ころ堀江繁太郎が描いた『二重堀図』の断面図(県立図書館所蔵)によれば、この付近における防塁は、三重の土塁と二条の空堀からなり、堀幅は約二四メートルほどあって、形状は箱薬研堀(はこやげんぼり)状をなしていた。中央土塁の頂上が、旧石母田村と旧大木戸村との境界であり、南側の土塁と空堀遺構は失われている。
 この地点には、旧石母田村の、大清水
(おおすず)、蛭澤廃寺跡、駒場、牛石、弁天澤下紐関跡などを経て、国見山の南麓を斜めに上り、防塁にいたる坂道が遺されており、旧東山道跡との伝えがある。この道は防塁の直前で枡形に折れ、切り通し状に防塁を横断して、国見峠の方向に向っていた。この旧道については確証がないが、大化の改新後の地方行政組織である 国郡制度の施工に伴い、都と多賀国府を結ぶ東山道が整備され、国見峠に遺る幅の広い長坂路はこの道であろう。前記の旧東山道の名称を遺す道筋は、これ以前の信夫国、名取国など「国造制」下の通路とも考えられる。
     平成十八年三月 国見町教育委員会

  


【大木戸窯跡】 (右奥)
 国道に下り、すぐ先を右折して国道から分かれた旧道に戻る。
 旧道を少し進むと右側の「大木戸小学校」手前の右折道に岩淵遺跡の案内板が出ていたので寄り道をすることにした。
 しかし、車でも非常に遠いので歩いている人はここからは絶対に行かないように忠告します。
 右折して暫く進むと左側に大木戸窯跡の石標と説明板が立っていた。但し、池の中にあるらしく道路からは見られなかった。

【大木戸窯跡】 町指定史跡(昭和48年3月指定)
 この遺跡は、八世紀前半(奈良時代)に須恵器の生産が行なわれた四基からなる窯跡群である。
 須恵器は、大陸からの技術系譜を持つ窖窯(あながま)で焼かれた青灰色の硬い焼き物(陶質土器)であり、祭司や日常の生活に供する容器(什器)などに用いられた。
 窯跡群は、現在大部分が堤の水面下にあり、窯の頂上部が現れているにすぎないが、国見町はもとより県北の古墳群や、大規模な条里遺構とともに、県内の歴史を解明する上で貴重な遺構である。
     平成二十三年三月三十一日 国見町教育委員会

【岩淵遺跡】 (右奥)
 大木戸窯跡で左折し、この後案内板に従って左へ右へと、何処を走っているのか心配なる程回ってやっと岩淵遺跡にたどり着いた。
 行ってみたら説明板と東屋が建っているだけの只の原っぱだった。

【岩淵遺跡】 町指定史跡(昭和51年2月26日指定)
 岩淵史跡は国見町大字高城字岩淵地内に位置する縄文時代と平安時代の集落跡です。
 遺跡は昭和四十七年(1972)に果樹園造成のおり発見されたもので、昭和四十八年五月に町教育委員会が町史跡編纂事業のため、昭和四十八年七月と四十九年七月に国見町教育委員会と福島大学考古学研究会による発掘調査が行なわれ、遺跡のほぼ全容が解明されました。
 これら一連の調査で縄文時代中期後半の竪穴住居後が五ヶ所、埋設土器、平安時代の竪穴住居跡が一ヶ所などが確認されております。
 遺跡は西の丘陵から張り出した台地の上に営まれた集落で、それを構成する住居群のうちこの住居跡は縄文時代中期後半の竪穴住居跡で直径約七・五メートルの円形を呈し、床面には長さ三・二メートル、幅一・八メートルの最大級の複式炉が設置されており県にでも著名な竪穴住居跡です。
 この住居跡に設置されている複式炉は埋設土器と石組炉が組み合わされた南東北を代表する炉で、最初に福島県で発見・命名されたものです。
 昭和四十九年に復元した住居が老朽化したため、福島県教育庁文化課 木本元治専門学芸員の指導のもと全面的に改修し、園地を整備したものです。
      平成十三年三月 国見町教育委員会

   岩淵遺跡から、そのまま先に進んだら意外と早く旧道(旧奥州街道が国道4号に合流する直前)に戻れたので、こちらから行くと比較的近いかも知れない。その入口に案内板が立っているかは確認していない。


【貝田宿】 
 旧奥州街道が斜めに国道4号と交差するので、そのまま信号を横断して左斜めに進む。
 国道の左側の旧道に入った所が奥州街道56番目の貝田宿である。程なく右側に貝田宿入口の看板が見えてくる。

【奥州街道 貝田宿】
 江戸時代、奥州街道の宿場町としてにぎわいをみせた貝田宿は、町中を流れる風呂沢川(姥上沢)をはさんで、長さが四丁(約四三五m)、道路幅四間(約七・三m)あります。戸数は六十戸前後で推移しましたが、度々の大火で家並みの大半は焼失し、昔のおもかげをとどめていません。
 下の図は元禄ごろ(1687~1703)の貝田宿の家並みを描いたもので、町の中ほどには検断屋敷、制札場が置かれています。道の両側には町屋が軒をつらね、石垣によって区切られた屋敷割りは、現在でも残っており、また、宿場町時代の旅籠屋などの屋号を持つ家もあります。問屋場を兼ねていた名主の家は、東大枝宿に通じる梁川道の基点の反対側で、一段高いところにあります。
 街道を南に向うと町頭、国見峠を越え藤田宿に入ります。風呂沢橋を渡って北へ進むと町尻より街道は左に折れ、ゆるい坂道を上がって口留番所岡田家、最禅寺の前を通り仙台藩領、越河宿へと向かいます。
 にぎわった貝田宿も、江戸幕府が崩壊すると大名の参勤交代が廃止され、また、東北本線の開通によって宿泊者が激減して宿場町としての歴史的な使命を終えました。
     平成五年三月 国見町教育委員会 国見町貝田町内会 国見町郷土史研究会貝田方部会

  


【貝田姥神沢旧鉄道レンガ橋】 (左奥)
 貝田宿入口看板のすぐ先、左に入る道の入口に『国見町文化財 貝田姥神沢 旧鉄道レンガ橋 240m』の案内板が出ていたので見に行く。



 案内板で左折し、その先を右折すると程なく左側に鉄道車輪の展示(上の写真)と説明板が立っていて、その下を覗くとレンガで造られたアーチの橋(下の写真)が見られた。


【貝田旧国鉄軌道敷跡町道整備記念碑文】
 
この場所に鉄道が敷かれたのは今から115年前の1887年(明治20年)12月私鉄の日本鉄道が開業、初めは阿武隈川沿で白石に通す計画であったが、ばい煙で、信達地方の養蚕桑園が、全滅すると言う事で反対により止む無く路線を変更、貝田の急勾配の所を通らざる得ず工事は困難を極めた。
 又、宿場町で家並みの直ぐ裏を通り、ワラ屋根のため、火の粉で、たびたび火災が発生、線路の上に散火板(火の粉を受ける屋根)を取り付けたと言う。
 開通時には町内に停車場は無く100年前の1902年(明治35年)9月に藤田駅が出来、その後明治39年国有鉄道に買収、国有化され幹線鉄道の改良整備が進められた。
 1917年(大正6年)に現在の線路に移動、貝田駅は1922年(大正11年)6月に信号所として発足1952年(昭和27年)6月駅に昇格した。
 1961年(昭和36年)3月電化され蒸気機関車から電車となり1965年(昭和40年)8月に、複線化、現在に至る。
 町道の整備記念に、有志相談り浄財を募り史実を後世に伝えるため車輪を飾る。
     2002年8月吉日

【貝田宿説明板】 (左側)
 元の街道に戻り、少し進むと左側に貝田宿の説明板が掲げられていた(上記【貝田宿】の文章と地図を参照)。

 説明板の向かいには、立派な屋敷門を持つ旧家が建っていた。

【貝田番所跡】 (左側)
 説明板の先、風呂沢川に架かる「風呂沢橋」を渡って少し進むと、左に入る道の入り口に『奥州街道 貝田宿』の看板と『貝田番所跡 0.1KM』、『貝田姥神沢旧鉄道レンガ橋 160m』の案内板が立っている。
 旧奥州街道はここを左折し、右カーブして貝田駅手前で国道4号に出る。



 案内板に従って左折するとすぐ左側の民家の塀前に『おくのほそ道自然歩道 貝田番所跡』の看板が立っていたが、説明等は無かった。

 栃木県との県境にあった境の明神
(旧奥州街道6回目参照)から始まった福島県内の『おくのほそ道自然歩道』は、宮城県との県境であるここ貝田宿で終わりとなる。

【越河(こすごう)宿】 
 国道4号線に合流して貝田駅前を通り過ぎると福島県と分かれて宮城県に入る。
 県境を過ぎるとすぐ右側に下紐の石があるとの事だが、往来の激しい国道の為、止ることも出来ずに断念する。用明天皇の后の玉世姫がここの石の上でお産の紐を解いたとの伝説が残されているとのこと。
 国道4号の左側に沿ってJR東北本線が走り、前方上に東北自動車道が交差している所で、左を見ると線路の向こうに『越河番所の跡』と書かれた大きな標柱が建っているが、ここも横目で見るだけで写真も撮れずに通過する。
 東北自動車道をくぐると下りになり、次の信号で左斜めの道に入る。

 旧道に入った所から奥州街道57番目の越河宿となる。この宿は仙台藩領の南端にあたり、境目足軽が住んでいて、藩境を越えてくる人物や物を改めていた。
 現在は、往時面影を残すものは殆ど無い。

 越河小学校を越えた先、東北本線のガードをくぐって、線路の左側に出る。暫く進み、越河駅手前で再び東北本線の踏切を渡ってすぐ左折し、越河駅前を行くと、やがて国道4号に合流する。


【田村神社・甲冑堂】 (右側)
 国道4号線を北上し、左側「馬牛
(ばぎゅう)」の脇を通る。沼の中に石碑が建っているが、鯉供養碑との事。また、明治天皇御駐蹕之碑もあるとのことだが、車では目に入らなかった。
 馬牛沼の先で右斜めの道に入る。
 やがて鐙摺
(あぶみすり)になる。かつては奥州街道最大の難所だったと云う。坂の名前の由来は、源義経が鐙を石に摺りながらここを通ったことによる。
 鐙摺坂を下って行くと、右側に田村神社・甲冑堂がある。入口には大きな標識が立っていて『甲冑堂 源義経の家臣 継信・忠信の妻 楓・初音の像』と書かれていた。
 ここには、2009年10月10日に家族と訪れているので、まだ記憶に新しい。

 参道を入って鳥居をくぐると正面が田村神社の社殿で左手に六角形の甲冑堂、その右側には桃隣句碑が建っている。
 甲冑堂の中には、甲冑姿の楓・初音の木像が祀られているが、社務所に申し出ないと開けて貰えない。
 桃隣句碑は昭和14年に再建された甲冑堂を記念して建てられたもの。元禄九年(1696)に奥の細道をなぞって旅をした桃隣がこの地に来たときに詠んだ句『いくさめく 二人のよめや 花あやめ』が刻まれている。

【田村神社・甲冑堂 略記】 白石市斎川鎮座
  田村神社
    祭神  坂上田村麻呂 (他十一柱 合祭)
    例祭  四月日曜日  七月三十日(身滌祭)
       由 緒

 桓武天皇の延暦年間坂上田村麻呂が蝦夷を討ち平らげた思徳を慕い祠を建てまつったという。
     明治五年九月十四日  村社となる、
     同  八年六月下旬    社殿に放火され消失する、
     同  十二年三月     再建落成。
  甲冑堂
     祭神  福島県飯坂大鳥城主佐藤荘司基治公の子継信・忠信兄弟の妻、楓、初音のニ柱。
       由 緒
 文亀年間佐藤左ヱ門亮信治が建立、ニ柱は源平合戦の時、源義経の家来として活躍し戦死した継信、忠信兄弟の妻で子に代り親につくした孝心と今の世に伝えている、古来より種々の文献に載録され江戸元禄時代頃、人の鑑ともなるべき孝婦の像と全国に知れわたった。
     明治八年六月下旬    放火により消失、
     昭和十四年十二月三日 再建落成。

     堂設計  工学博士       小倉 強
     像彫刻  帝国美術院委員  小室 達
     壁  画              岡田 華郷
  孫太郎虫
       由 緒
     当祭神のお告げにより九百年以前より強壮霊虫として全国に知れわたる。
【田村神社】 (2009年に訪れた時、掲示されていた説明文)
 今を去る千ニ百年前頃(平安時代初期・桓武天皇時代・八百年頃)この辺は朝廷の政治力もおよばず乱れていた地区だった。奥州街道を通る旅人をおそい、地区民の田畑の収穫物を奪い、年頃の婦女子をさらうなど乱暴狼藉をはたらく山賊(鬼)が住んでいた。今でも神社の東側に、鬼摺石、西側の人喰沢または人嚙沢との名が残っている。
 時の征夷大将軍 坂上田村麻呂が東夷征伐に来たとき、地区の住民の苦しみを聞き、その賊(鬼)を平らげてくれた。その時に体や武器を洗った(清めた)川を禊ぎ(みそぎの川)の川、斎川と言うようになったという。そして地区の名も斎川としている。
 その時、田村麻呂の馬が馬入沼に沈んで亡くなったので、地区民は白馬を選び献上して、村はずれで見送ったと言われ、現在も神社に神馬として奉っている。
 平和で、豊かな里になったとして、坂上田村麻呂を神として尊敬し、田村神社を造りお祭りした。

甲冑堂と桃隣の句碑(右端の石碑)
【甲冑堂と芭蕉】 (2009年に訪れた時、掲示されていた説明文)
 元禄二年(1689)五月三日(太陽暦で六月十九日)朝、福島市飯坂温泉を出発した芭蕉と曾良は、宮城・福島の県境付近にあった越河番所を経て、仙台領内に第一歩を踏み入れた。越河番所即ち伊達の大木戸のことで、それから馬牛沼のほとりをすぎ、鐙摺りにさしかかった。鐙摺りは、斎川の入り口にあたった馬のあぶみをこする岩のある一騎立ちの難所であった。今はその面影を偲ぶべくもない。
 甲冑堂については、芭蕉は、奥の細道の中で何もふれていないが、飯坂医王寺の下りで、源義経の家来となって、屋島・京都でそれぞれ義経の身代わりとして戦死した、飯坂の大鳥城 城主佐藤庄司基治の子、佐藤継信・忠信の嫁、楓・初音について、二人の嫁がしるし先ず哀れなり書いている。医王寺と甲冑堂での印象感情が二重写しとなって交じりあって脳裏を去来していたであろう。
 甲冑堂については、曾良の随行日記にまわったと書いている。芭蕉の門人で、元禄九年(1696)この地を訪れた天野桃隣の紀行文、陸奥千鳥や、寛政の頃刊行された橘南鶏の東遊記等によると、この場所に高福寺という寺があり、境内小高い所に二間(四米)四方の小堂があった。甲冑堂とも、故将堂とも呼ばれ甲冑をつけ、長刀を持った婦人像ニ体が安置してあったという。
 甲冑堂は、明治八年消失したが、昭和十四年、小倉強の設計で再建された。婦人像は木彫彩色で、小室建の彫刻。壁画等の装飾は、岡田華郷が彩管をふるったものである。
 堂の傍らにある記念碑には、天野桃隣の
    軍めく 二人の嫁や 花あやめ  の句を堂再建の時に、小倉博の書で刻み立てる。
    うの花や おどし毛ゆゆし 女武者  と山崎北華もこの地でうたっている。

【斎川宿】 
 田村神社を出て、直ぐの斎川に架かる「斎川大橋」を渡ると奥州街道58番目の斎川宿に入って行く。 

 程なく左側に斎川宿の標識が出てくる。
 宿場の長さは三丁十間(約345m)程で、元禄五年(1692)時点で家屋は五十八戸だった。

 産物は紙、ジュンサイ、孫太郎虫であった。孫太郎虫は子供の疳(かん)の虫の妙薬とされ、斎川に生息するヘビトンボの幼虫を乾燥させたもので、これが宿場の大きな収入源となっていたという。


 斎川はかつてドイツ人建築家ブルーノ・タウトがほめたたえた宿場町であるが、今は下記検断屋敷が残るだけ昔の面影は無い。

【検断屋敷、明治天皇斎川御小休所所・御前水】 (左側)
 斎川宿の中ほど左側に、現在は無人の廃墟と化し、朽ち掛けた姿の検断屋敷がある。



 検断とは、中世では、警察権・刑事裁判権のことで、近世では、大庄屋に相当する役。斎川宿では、島貫家が努めた。
 島貫家は、伝馬をはじめ宿駅関係の一切を仕切り、本陣の役割も兼ねていたとのこと。
 また、明治天皇の東北行幸の際には小休止されたところである。

 門の手前には標柱が、門の右後ろの屋敷内には『明治天皇齋川御小休所・附御前水』の石柱が建っている。
 門は開いているので敷地内を覗くことが出来るが、建物も手入れが行き届かないらしく荒れていた。  

【白石宿】 
 斎川小学校の前を通り、突き当りを左折し、東北本線を越えて国道4号線に合流する。
 東北新幹線と東北自動車道をくぐり、「大平バス停」の先で右斜めの旧道(奥州街道)に入って行く。
 「田町交差点」を越えた次の十字路を右折、更に次の十字路を左折する。ここが枡形で奥州街道59番目の白石宿に入った。

 白石城を中心にそれを取り巻くように配置された郭内が武家町、郭外は町人町で宿駅であった。東側外周部に奥州街道が通り、町人町の主要部は、本町・中町・長町・亘理町・短ヶ町・新町の六町であった。
 産物としては紙布と紙衣がある。


【当信寺】 (右側)
 枡形道を2回曲がった右角に当信寺があり、下の写真の山門は白石城の二の丸大手門を移築したものだが、一部改修されているとのこと。

【功徳山当信寺 浄土宗】
 慶長二年(1597)良益上人開山と伝えられる。本尊は阿弥陀如来立像(木造)で黒本尊ともよばれ大阪夏の陣に従軍した片倉家中遊佐勘四郎によって、大阪天王寺よりもたされたと伝えられている。室町時代頃の作   (風土記書出)
【白石城東口門】
 三間一戸、二階建瓦葺、もとの二の丸大手門(東口門)で、現在の白石高等学校裏門附近に建っていたものである。
【白石老人の墓】
 江戸時代の初め頃、白石老人と呼ばれた名前も生国も年齢も一切不明で仙人のような不思議な老人が白石の阿子島彦惣家に宿泊していた。老人は文武百芸、何ごとにも精進し人々に尊敬されていた。また人々を呼ぶに皆「せがれ」と自分の子供のように呼び、百七歳で亡くなった。
 角田の長泉寺の長老天鑑和尚さえ「せがれ」と呼んでいたという、こうしたことから、この老人は滅亡した甲州武田家の名のある武将ではなかったと言われていた老人の墓である。(白石翁伝)
 墓石には「無名実徳大徳」「天禄六癸酉二月十八日」「道心老翁墓年数不知」「卒千阿古箇嶋氏彦惣所」と刻まれている。
【真田阿梅・真田大八の墓】
 白石老人の墓と並んである。大阪方の名将真田幸村の遺児たちの墓である。

【壽丸(すまる)屋敷】 (右側)
 当信寺から北上すると、「中町交差点」の右角に壽丸屋敷が建っている。

 紙問屋や雑貨商を営んでいた豪商・渡辺家の屋敷。明治中期に建てられた土蔵二階建ての店蔵や大正時代の母屋からなる。
 洋風の要素も積極的に取り入れた部屋などもあり、また、玄関は唐破風の付いた格式の高い形式を取っている。
 1999年、持ち主が取り壊しを検討したところ保存を求める市民運動が起り、同年秋に白石市に寄贈された。
 現在はイベントなどに貸し出されているとのこと。入館無料。

【白石城】 (左奥)
 「中町交差点」を右に行くと白石駅。左に行くと白石城がある。
 白石城には2009年に家族と訪れているので今回は寄らなかった為、その時の写真を載せる。
 現在の天守は、平成七年(1995)三月に木造建築による完全復元天守として復元されたものである。
【白石城のパンフレットより】
 白石城は白石市の中心部にあった平山城です。今回の復元工事では、歴史を永代に伝えるため、文化財の保護を重視し、発掘調査を行い、そのうえで忠実に城郭として機能した文政6年再建後の最晩年の構造による三階櫓(天守閣)、大手門としての本丸の一部を復元しました。
 建物は、日本古来の建築様式に基づき、数百年の歳月に耐え得る、全国的にも数少ない、木造による復元を採用し、このことにより、学術的にも評価を得られ、更に、市民の誇りと成る「白石市のシンボル」として復元しました。
 開館時間  9:00~17:00(4月~10月)、9:00~16:00(11月~3月)
 休   館  12月28日~12月31日
 入 館 料   300円

【白石城】 別名:益(桝)岡城

 天正十九年(1591)豊臣秀吉は、伊達氏の支配下にあったこの地方を没収し、会津若松城とともに蒲生氏郷に与えた。蒲生氏家臣蒲生源左衙門郷成は、白石城を築城し城主となった。慶長三年(1598)上杉領となるや上杉氏家臣甘糟備後守清長は白石城の再構築を行い居城した。
 慶長五年(1600)関ヶ原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻略し、この地方は再び伊達領となり、伊達氏家臣片倉小十郎によって大改修がなされ、以後明治維新まで260余年間片倉氏の居城となった。
 白石城は標高七六メートルの最頂部には本丸・二ノ丸・中ノ丸・西曲輪、中段には沼ノ丸・南ノ丸・巽曲輪・帯曲輪・厩曲輪を置き丘の上に館堀川を巡らし、南は空堀で斤陵を切断、館堀川を隔てた平地には三ノ丸・外曲輪を配置した平山城である。本丸は高さ九メートル余の石垣の上に土塁を囲み三階櫓・巽櫓・坤櫓・大手門・裏三階門を備え、御成御殿・表・奥の諸建物があった。二ノ丸以下はすべて土塁で囲み、木柵をまわした崖を利用する等中世と近世城郭を併用した縄張であった。
 元和の一国一城令以後も仙台藩は仙台城と白石城の二城が許され、明治維新には奥羽越列藩同盟がこの城で結ばれ、公議府が置かれ輪王寺宮が滞城された。その後按察府の設置、兵部省兵隊屯所になるなど、日本の歴史の変転期には一役を担う重要な城であった。

     白石城のパンフレットより


【武家屋敷】 (左奥)
 奥州街道は「中町交差点」から更に北上し国道113号に突き当たったら左折して国道を少し西進。「城北交差点」の次の十字路を右折して白石川を渡っていた。
 但し、現在は真っ直ぐ川を渡れない為、土手を東に戻って県道12号線の橋を渡って行く。
 武家屋敷は、「城北交差点」から最初の左の道(上記右折道の一本手前の道)を左折し、2本目を右折した沢端川沿いにある。
 ここも家族と行っているので、外観だけ撮影するに留めた。門右手前の標柱には『片倉家中武家屋敷』と書かれている。

 この武家屋敷は、白石城北、三の丸外堀にあたる沢端川に面した後小路に建つ中級家中である旧小関家の屋敷で、享保十五年(1730)の建築であることが確認されている。
 平成三年(1992)に、主屋・門・塀が小関家から白石市に寄贈されたのを機に全面的に修復されて一般公開され、平成五年に宮城県指定文化財となっている。
 開館時間・休館日は白石城と同じで、こちらの入館料は200円。

 県道12号に戻って白石川に架かる橋を渡り、「白石市福岡信号」で国道4号線に合流。
 すぐ先の東北自動車道・白石IC入口で今回の旅を終了する。



福島~飯坂   4里     (15.7Km)   計  97里17丁(382.8Km)
飯坂~白石   7里27丁 (30.4Km)   計 105里 8丁(413.2Km)


「信夫の里」  「目次」 → 「笠島・岩沼・仙台」