徳次郎宿 (宇都宮宿追分  一里塚バス停) <旧日光街道10回目>

 

2012年2月25日(土) 雨のち曇

 自家用車で宇都宮城址等を見学後、ホテルに車を預けて宮の橋から大通りを追分に向かい、前回終了した追分を13:20スタート。

(注:解説で街道の左側、右側とは日光に向っての左右です)

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 この日、横浜は大雨だったが、ホテルが予約済みだったことと、予報では宇都宮は小雨なのでいつも天気にツキがある二人なら問題ないだろうと、寒さのなか車で出かけることにした。

 しかし、宇都宮に近づいても雨は強いままで一向に弱まる気配がなく、この状態で歩いたら二人とも風邪を引いてしまうのがおちだろうと、最終日に予定していた日光東照宮見学に急遽変更することにした。

 ところが、宇都宮ICを下りて日光高速道に入ったとたん、今までの雨が大雪に変わり、道路はたちまち真っ白になってしまった。滑り止めを持参しておらず危険な為、大沢ICで高速を下り、今市宿に向かって歩くはずだった日光道中(国道119号線)を逆走して宇都宮に戻るしかなかった。

 途中の杉並木道では枝から雪の塊が車の上に落ち、ボコボコ大きな音をたてていたのがすごかった。

 幸い、宇都宮市街に戻ったら雪からみぞれへと変わり、やがて小雨となったので、取りあえずは車で宇都宮市街の名所巡りを行うことにした。

 ニ荒山神社から市庁傍の大イチョウを見、最期に宇都宮城址公園を見学したところで雨も止んで来たので、再度、当初の予定に戻して、行ける所まで街道歩きをすることにした。

 宇都宮駅から南へ6分程にある今夜宿泊するホテル「サン・ロイヤル」に車を預けて、宮の橋から「大通り」を追分に向かった。その途中、パルコの西側「ドン・キホーテラパーク」地下1階にある「来らっせ」で宇都宮餃子を食べた。ここは城址公園の資料館職員から教えてもらった店で、日替わりで宇都宮中の餃子が一個ずつ合わせて六個ほど皿に盛られているスタイルで、それが数種類あり、各店の味が楽しめて良かった。宇都宮餃子はどれもあっさりしており、幾つでも食べられそうだった。



≪下記三か所は車で見学≫ ≪後日、「松が峰教会」を追加≫


【宇都宮二荒山神社】 下野国一之宮

 日光街道と奥州街道との追分から、「大通り」を宇都宮駅に向かって13分程の「馬場通り一丁目交差点」左側にある。

【由緒】

 主祭神、豊城入彦命は、第十代崇神天皇の第一皇子であらせられ勅命を受けて東国御治定のため、毛野国(栃木県・群馬県)に下られました。国土を拓き、産業を奨励し民を慈しんだので命の徳に敬服し、族は鎮まり、その子孫も東国にひろく繁栄され四世の孫奈良別王が第十六代仁徳天皇の御代に下野国の国造となられて国を治めるに当たり、命の偉業を偲び御神霊を荒尾崎(現在の下之宮)の地に祀り合せて国土開拓の神大物主命(大黒)、事大主命(恵比寿)を祀られました。その後承和五年(838)に現在の臼ケ峰に遷座されました。以来平将門の乱を平げた藤原秀郷公をはじめ、源義家公・源頼朝公、下って徳川家康公などの武将の尊崇を受けられました。古くは、延喜式内社、名神大、当国一之宮明治になって国幣中社に列せられ、「お明神さま」の名でひろく庶民に親しまれ篤く崇められてきております。宇都宮の町もお宮を中心に八呈発展してきたので市の名も社号をそのまま頂いてきており市民憲章にも「恵まれた自然と古い歴史に支えられ二荒の社を中心に栄えてきた」とうたわれています。


【宇都宮城址公園】  

 日光道中からは一向寺を過ぎた「六道の辻 」(日光道中9回目参照)の交差点を東に15分程行った所。または、二荒神社前を南に10分程行った所にある。

 西側の公園入口前に無料駐車場があり、その西隣には宇都宮市役所がある。

 宇都宮城は平城で、堀を掘った際の土砂を周りに積み上げて土塁にしている。

 西側入口のおほり橋を渡って本丸広場に入れるが、土塁右手角に富士見櫓、左手角に清明台という櫓が復元されている。広場に入ってすぐ左手に資料館があり、城や城下町の模型などが展示されている。また、資料館内のエレベーターで土塁の上に出られ二つの櫓を間近で見られる。

【宇都宮城】 (パンフレットより)

 宇都宮城は、平安時代に築かれたといわれています。

 鎌倉時代以後は、宇都宮氏の居城でした。宇都宮氏はこの城を根拠地にして、二荒山神社の祭祀を行い、周辺を支配していたのです。

 このころの城のようすはよくわかりませんが、鏡が池という水辺をはさんで、二荒山神社が北に、宇都宮城が南にあり、城主は祭礼などのときは、威儀を整えて城から神社に向ったことでしょう。

 南北時代から戦国時代は、日本中が戦乱に巻き込まれましたが、宇都宮城とその周辺もたびたび戦いの舞台になりました。

 戦国時代の終わりごろには、後北条氏の攻撃によって、城下町が焼かれたこともあります。

 このころの宇都宮城は、敵の攻撃に備えるため、深い堀と高い土塁(土手)をもつ守りの固い城になっていました。

 約500年間宇都宮を支配してきた宇都宮氏は、豊臣秀吉に滅ぼされました。江戸時代には、譜代大名の居城となりましたが、そのなかでも本多正純は、城と城下町のつくりかえを行いました。現在の宇都宮市中心部の骨格はこのときつくられたといわれています。

 江戸時代の宇都宮城は、東西・南北とも1キロ近い大きな城でした。天守閣はなく、石垣も一部にあるだけでしたが、城主の居館をはじめ、いろいろな施設がたちならび、二階建ての櫓もありました。

 宇都宮城の最大の特徴は、将軍が日光参詣に行くとき宿泊したということでしょう。将軍の行列はとても人数が多かったので、城も城下町も大変なにぎわいでした。今も残る絵図面のなかには、本丸に大きな建物が描かれているものがあり、これは将軍が泊まる御殿だといわれています。将軍の日光参詣(「日光社参」という。)は全部で19回ありました。


【「釣天井事件」って何のこと?】

 宇都宮城主本多正純が日光社参から帰る将軍を、からくり仕掛けの天井をつくって暗殺しようとした事件のことです。もちろん事実ではありません。正純が突然宇都宮城をとりあげられて、出羽(秋田県)へ流されたことから生まれた創作です。その後、講談・芝居の題材となり、全国的に広まりました。

【宇都宮城址公園】 (公園入口の説明板より)

 ここは、近世宇都宮城の本丸があったところです。

 宇都宮城址公園は、歴史資料や発掘調査結果に基づいた本丸の一部復元、中心市街地の活性化の拠点づくり、防災の拠点づくりを3つの柱として整備したもので、復元した土塁や堀、櫓、土塀は、江戸時代中期の姿を現代によみがえらせたものです。

 宇都宮城のはじまりは、平安時代の後期に築かれた館だといわれています。中世には宇都宮氏が500年にわたって城主をつとめ、戦乱の世を乗り切っていきます。江戸時代には譜代大名の居城として威容を誇りました。また、釣天井伝説の舞台、関東七名城の一つとしても有名です。

 この城址公園は、宇都宮の新しいシンボルであり、次代を担う子どもたちに宇都宮の歴史を伝えるとともに、市民や多くの来訪者の憩いの場です。

 (左の写真は、西側駐車場前から写した富士見櫓)


【宇都宮城炎上−戊辰戦争と宇都宮−】
 (資料館の 展示資料より)

 戊辰戦争がはじまると、宇都宮藩など北関東諸藩の多くも新政府方につきました。旧幕府勢力は、江戸を脱走して周辺地域で抗戦していましたが、その中で主力部隊であった大鳥圭介や土方歳三の軍勢に攻撃を受け、宇都宮城は落城します。このとき、敵の手に渡ることを恐れて宇都宮藩兵が二の丸御殿に火を放ち、宇都宮城の建物の多くは焼失してしまいます。

 その後、新政府軍の救援隊が到着し、幕田、六道辻、松が峰門付近での激しい攻防戦の末。旧幕府方を北方に退却させ。宇都宮城を奪還します。

宇都宮藩は新政府方についたため旧幕府方の土方歳三らに攻撃を受け、多くの人が亡くなり、城下町も焼け野原になってしまった。


【旧幕府軍による宇都宮城攻撃の状況】   宇都宮城は、北と西に城下町が広がり、守りが固くなっています。土方歳三率いる旧幕府軍は、守りの弱い城の南東部から攻撃してきました。簗瀬(やなせ)村の農家につけられた火は、春の南東の風にあおられてまたたく間に城下町全体に燃え広がってしまいました。

 こうして、古い歴史と繁栄をほこった宇都宮城と城下町は焼失し、多くの大切な文化財を失ってしまったのです。

【清明台】

 宇都宮城本丸の土塁北西部にあった櫓で、江戸時代の絵図には二階建て瓦葺きで描かれており、広さ三間(5.9m)×三間半(6.9m)と記録されています。清明台のあった部分の土塁は、ほかの部分よりも高く、天守閣の役割を果たしていたのではないかといわれています。

 (資料館内のエレベーターで土塁の上に出た所から写した清明台)


【大いちょう】 

 宇都宮市役所入口からは真北方向、次の交差点(「中央通り」と「いちょう通り」との交差点)左角に大銀杏が聳えている。

 石垣に説明板が掲げられていたが、後ろから車が迫ってき て駐車しそびれた為、後日( 2012年10月11日 )再訪した時に撮影した説明文を追加する。

【大いちょう】 宇都宮市指定天然記念物(昭和32年10月4日指定)

   推定樹齢   四百年

   樹   高   三十三メートル

   枝張東西   十   メートル

      南北   十三  メートル

   目通周囲   六、四 メートル

 大いちょうは、宇都宮城の三の丸と百闌@の境の土塁の上にあり、宇都宮城ゆかりの名木である。今では、宇都宮市民のシンボルとして、多くの人々に愛されている。

     平成元年三月建 宇都宮市教育委員会


【宇都宮空襲と大いちょう】

 宇都宮市は、1945年(昭和20年)の7月12日深夜から翌日未明にかけての空襲で、中心市街地の約半分を焼失し多くの犠牲者をだしました。大いちょうも、この空襲により、真っ黒に焼けるほどの被害を受けましたが、翌年には、新芽を吹き見事に再生しました。空襲にも負けなかった大いちょうの強さは、戦後、焼け跡に残された宇都宮市民を勇気づけました。

 そのことにより、大いちょうは、宇都宮市の戦後復興のシンボルとなり市民に親しまれています。その後、市制九十周年を向えた1986年(昭和61年)に、「いちょう」は、市の木に制定されています。

     平成十八年七月 宇都宮市教育委員会


【松が峰教会】
大いちょうの裏手にあるカトリック教会。2012年10月11日に訪れた時の写真と説明文を追加する。

 この建物は、本格的なロマネスク様式(11〜12世紀に西ヨーロッパに広まった美術・建築様式)に基づいた教街堂で、現在わが国に残る最大の大谷石建造物である。設計者は、スイス人建築家Mx.ヒンデル(函館トラピスチヌ修道院を設計)である。

 本教会の創立者カディヤック神父は、教会堂建築のために資金を集め、昭和7年(1932)11月に完成した。教会のアンジェラスの鐘は、第二次世界大戦中の金属回収によって供出され、現在のものは昭和57年(1982)に鋳造されたものである。



≪以降、日光道中再開≫


【日光街道と奥州街道の追分】 (左側) 13:20

 前回終了した日光街道と奥州街道の追分に当初11:00に予定していた時刻より大幅に遅れて到着。

 日光道中への曲がり角に青い説明板が立っているが、写真が不鮮明だったので読み取れなかった。 


【株式会社 上野】 (右側)
 追分を左折すると「清住町通り」で、すぐ右手に大谷石の塀に蔵と黒い建物があり株式会社上野の看板が掲げられていた。追分の右側にあった上野本陣家と何か関係があるのだろうか。

  


【弥勒堂】 (左側) 

 株式会社上野の向かいに、弥勒堂が建っている。看板の下には廣隆寺と書かれていたが近くの仏閣等はなかった。


【三峰神社】 (左側) 

 弥勒堂のすぐ先に、大谷石で出来た小さな社が建っており、参道入口には三峰神社と八坂神社の石柱が立っていた。

 当 三峰神社は天保三年(1832)武州三峰山(火防の神)の分身を頂建立祭祀したのが始まりとされています


【勝善神(そうぜんがみ) (左側) 13:48

 三峰神社から少し進んだ変則四差路の右側に桂林寺の入口があり、蒲生君平の墓があるというが入らなかった。

 この辺りに往時木戸があったという。宇都宮宿もここで終わり、その先右側に古民家 を利用した店が建っていた
  

 更に枡形があり、桂林寺入口から13分進んだY字路の三角点頂点に勝善神と彫られた大きな石碑が建っている

 初めて見る石碑で、馬の神を祀ったものらしいが、諸説あり良く分からない。

  


【宝の木】 (左奥) 14:05

 勝善神のすぐ先「松原3交差点」で国道119号線に合流する。

 国道に合流して次の「国立栃木病院入口交差点」を左折すると病院正門に着く。入ってすぐの守衛室の後ろに宝の木と呼ばれている樹齢450年以上の古木がある。古木と云うので大きな木かと思っていたが、普通の立木だった。かえって正門横の桜の木の方が巨木で枝ぶりも良かったので、当初これが宝の木だと思ってしまった。たまたま、駐車発券機のトラブルで出てきた守衛さんが、尋ねる前に指差してくれたので分かったくらいの地味な木だった。よく見れば木の前に説明板が立っていた。

木  樹 名   宝の木

学   名   猿の手柏(コノテカシワ)

推定樹齢   約450年以上

周   囲   1.1メートル

樹   高   約 8メートル

 

【由来】

 本木は寛文十年頃、今より約350年前、現在の宝木地区の一部に六軒と呼ばれた集落が有り、ここに広さ約100平方メートル、高さ約4メートルの古墳のような大塚があり、そこに一老木があった。

 名の知れぬままに当時の住民は『宝の木』と呼んでいた。

 明治五年土地区制が施行され、六軒付近の十集落が併合され、この老木『宝の木』の名称に因んでこの地区を宝木村と称した。

 この宝の木は、字細谷の荒井庄一郎氏の所有であったが、明治四十年宝木地区内に宇都宮第十四師団司令部設置の際に、司令部の庭木として荒井氏から寄贈移植され現在にいたる。


【上戸祭一里塚】 (左側) 

 「宮環上戸祭町交差点」を越えると桜並木になり(14:30)、左側に「文星短大」が現れる。この辺りに上戸祭一里塚(28里目)があるはずだが、二つ目の「文星短大・芸術大学」を過ぎて暫く進んだところで一里塚を見逃したことに気が付いた。ウォーカー達のHPで桜並木から杉並木に変わった所にあり、 『杉の陰で見落としに注意』と言われていたのにも関わらず見逃してしまった。

 帰りのバスの車窓から見られたのがせめてのなぐさみで、「文星短大」を過ぎた辺りの左側の塚に大きな標柱が立っていた。

 杉並木の歩道は両側とも車道より一段高い所にある為、早めに左側に移っていたほうが良い。私達は右側を歩いたが右塚にも気が付かなかった。


【静桜】 (右奥) 

 杉並木が終わり、釜川を渡ると程なく道が左カーブした左側に光明寺の鐘楼付き山門現れる(15:02)。

 その前を右に入り、更に右へ入って行った民家の敷地内に、静御前が挿した桜と云われる静桜があるとのこと。場所もよく分からないし、お願いしないと見られない為、寄ることはしなかった。


【高谷(こうや)林一里塚】 (左右) 15:40

再び桜並木が続く国道を進むが、畑は昨日降った雪で一面真っ白だった。

 やがて上を119号線のバイパスが交差する「宇都宮IC入口交差点」を過ぎ、東北自動車道の高架が見える手前の両側に高谷林一里塚がある。29里目で一部修復されているが、左右とも現存する一里塚である。

 ここの塚は右側だけに大きな標柱と説明板が立っているので右側を歩いたほうが良い。


左の塚


右の塚
  江戸から日光までの三十六里余(約百四十粁)のこの街道は「日光道中」と呼ばれ、江戸時代から徳川家康を祭る日光東照宮に参拝するための道として栄えた。

 江戸時代、五街道の一つであったこの街道には一里(約四粁)ごとに塚を築き旅人に里程を知らせた。

 この一里塚は、宇都宮城下と徳次郎宿の間に位置し、江戸(日本橋)から二十九里であることを示すものである。

 なお、この一里塚は昭和五十八年に一部修復整備したものである。

     昭和五十九年三月 栃木県宇都宮市


【第六接合井】 国登録有形文化財 (右側) 15:50
 高谷林一里塚のすぐ先、塚の上に第六接合井が六角形のレンガ造りで建っている。

 接合井は、今市浄水場で浄水した水を、距離約26キロメートル、標高差240メートルある戸祭配水上まで送る際、送水管にかかる水圧を弱めるために建設された施設です。

 この接合井は、今市浄水場と戸祭配水場間の日光街道沿いに、標高が約30メートル下がるごとに設けられ、全部で6箇所設けられました。

 これらの接合井は、昭和24年の今市地震により、残念ながらその大半が倒壊しましたが、この第六号接合井だけは、創設当時のままの姿を今も残しています。


【大谷道の道標】 (左側) 16:00

 東北高速道高架下をくぐり、10分程進んだ「山王団地入口交差点」左側、ガソリンスタンド前の生垣で囲われた中に道標が立っていて、「大谷之道」と刻まれていた。

 ここから南西に直線距離で5.5Km行った所に大谷観音がある。
  


【徳次郎宿】 日本橋から29里25町20間(116.7Km) 鉢石へ6里14町(25.1Km


【田中道道標】 (左側) 16:17

 大谷道の道標から15分程で「徳次郎交差点」に着くが、その手前左に入る細道の入口に田中道道標が立っていて、「神社入口道約五丁 田中道」と刻まれている。上部が欠けて神社の名前が分からなくなっているが、神明宮とのこと。下部もかなり傷んでいる。向かいは「バーミヤン」。


【智賀都(ちかつ)神社】 (右側) 16:30

 「徳次郎交差点」から12分ほど進んだ右側に智賀都神社があり、鳥居の後ろには樹齢700年と云う夫婦ケヤキが聳えている。

 神社の右手方向には二宮用水が流れている。

【沿革】 (字がかすれて不明確)

 当神社に日光二荒山神社より、○亀九年六月二十日外鯨邑千勝(とくじらむらちかつ)の森に勧誘遷座せしものにして、大正五年に特定郷社に列せられしも、昭和二十二年占領軍の指令により社格○上となり現在に至る。

 

【長壽の夫婦欅】 栃木県指定天然記念物(昭和29年9月7日指定)

所 有 者   智賀都神社

樹    高   二本とも 40m

目通し周囲   東の株 8.0m、西の株 7.3m

枝  張 り   東の株 東西 26m、南北 44m

          西の株 東西 22m、南北 37m

推定樹齢    約700年

 けやきはニレ科の落葉高木で、本州各地の平地から山地に自生する。普通は風景樹として、また将来の建築材として民家や神社仏閣境内に植えられることが多い。

 このけやきの西側の株は天に向い、東側の株は天を受けるように枝を広げている。

     栃木県教育委員会・宇都宮市教育委員会


【徳次郎智賀都神社祭礼付祭屋台】
 宇都宮市指定文化財(平成元年12月20日指定)

 智賀都神社は、徳次郎六か郷(西根・門前・田中・上町・下町・中町)の鎮守で、毎年7月31日、8月1日に宵祭、例大祭が行われる。屋台の奉納は、付祭として8月1日、日没とともに行われるが、現在は3年に一度となっている。

 屋台は、江戸時代末から明治時代にかけて作られた彫刻屋台である。彫刻は富田(現・大平町)に住んでいた磯邊敬信や後藤正秀、大出常吉らの手によるものである。


【徳次郎六本杉】 (中央分離帯) 

 智賀都神社のすぐ先、「六本杉バス停」近くの道路の真ん中(短い中央分離帯)に6本の比較的若い杉が植わっていて、徳次郎六本杉と書かれた立札が立っている。


【石那田一里塚】 (右側)

 「上徳次郎バス停」、「一里塚バス停」を過ぎ、「船生街道入口信号」右手に石那田一里塚がある。30里目で右塚のみ残っている。

 塚には木は植わっておらず、一里塚と彫られた石柱が立っているのみで、前には殆どかすれてしまって判読不能な説明板が立っていた。 

 (前略) (かすれていたので感で読んだ文章)

 この一里塚は、○○と○○間に位置し、江戸日本橋から数えると、三十里であることを・・・・・。

 なお、この一里塚は、昭和五十年に一部修復を行ったものである。



 10回目の旅終了(16:55) 石那田一里塚

  「一里塚バス停」より17:02の関東バスで宇都宮に戻り、ホテル(サン・ロイヤル)泊。

  本日の記録 :街道のみの距離は、12.5Km(宇都宮宿追分〜石那田一里塚

           日本橋から三十里二十九町(120.9Km) 

           寄り道を含めた実歩行距離は、15.5Km(ホテル〜一里塚バス停) 累計162.0Km

           3時間35分 14,800歩(追分〜一里塚バス停)。

 

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