粕壁宿(後半)・杉戸宿・幸手宿(前半) (春日部駅 → 幸手駅 ) <旧日光街道4回目>

 

2011年5月25日(水) 晴

 春日部駅入口の「公園橋(西)交差点」を10:20スタート。

(注:解説で街道の左側、右側とは日光に向っての左右です)

「越谷宿・粕壁宿(前半)」  「目次」  「幸手宿(後半)・栗橋宿」

 

 2011年3月11日に発生した東日本大震災の余震や交通機関の不安定等から東方面の日光道中を中断して、西方面で残っていた中山道を先に終わらせた。

 その後、関東地方の交通機関も正常に戻ってきたので日光道中を再開しようとしたが、暑くなってきため夏休みに入らざるを得ないと思っていた。そんな時、5月25日が曇で22℃との予報だったので、急遽休暇を取って歩いた所、予報が外れ、当日は晴れで気温27℃となってしまった。こんな日に晴男と晴女の力が出なくても良いのに思いながらも暑い中を歩いたので、予定していた南栗橋駅までは行けなかった。


【粕壁宿の説明板】 (右側) 

 「公園(西)交差点」を渡った歩道上に粕壁宿の説明板が立っている。

 また、この辺りは問屋場があった所である。

【日光道中粕壁宿】

 日光道中は、東海道・中山道・甲州街道・奥州街道を合わせた、「五街道」と呼ばれる街道のひとつで、江戸時代初期には、日光街道あるいは日光海道と記されていました。しかし正徳六年(1716年)に五街道の名称についての御触が出され、日光街道は海のない国を通るため、日光道中と改められました。

 粕壁宿は、江戸時代元和二年(1616年)に日光道中千住宿より数えて第4の宿場に定められたとされています。寛永十三年(1636年)に日光東照宮が完成し、将軍や諸大名の参詣で日光道中の各宿場はにぎわい一段と発展しました。江戸時代の終わり頃の記録によると、宿場は「名主3軒」「本陣1軒」「問屋場1軒」「寺院8軒」「旅籠45軒」をはじめ、米穀商・質屋・薬屋などの商店や農家の家並みで159軒を配し、新町橋側より横町・寺町・上宿・中宿・新宿・三枚橋・新々田・下宿の8つの字にわかれていました。


【永嶋庄兵衛商店】 (右側)
 「公園(西)交差点」から少し行った所にある永嶋庄兵衛商店は、慶長年間(1596〜1615)に玄米問屋として営業を開始し、現在に至っていると云う老舗の米屋で屋根瓦には鍾馗様が乗っている。
  


【最勝院】 (左奥) 10:27〜10:35

 日光道中は次の「新町橋西交差点」を右折して新町橋を渡るのだが、真直ぐ進んだ突き当たりの最勝院に寄り道。

 この寺には「春日部」の由来になったとも云われている春日部重行の墳墓がある。墳墓の碑は、本堂左の鳥居をくぐって墓地の奥に進むと巨木が聳える塚の上に立っている。

 墓碑には「従四位市祖春日部重行公之墓」と刻まれ、その下に説明の石板が立つ。

【最勝院】

 最勝院は、信義真言宗智山派の寺院で、華林山最勝院慈恩寺という。最勝院のあるこの付近は、粕壁でも寺町と呼ばれていて、最勝院のほか、妙楽院、成就院、玉蔵院、普門院などの寺院が集まっていて、往時の粕壁の面影を遺している。

 最勝院の本堂西の墳丘は、春日部重行を葬ったものといわれている。

 春日部重行は、南朝の臣として後醍醐帝に仕え、元弘の乱などに功を成したことなどより、上総の国山辺南部とこの春日部の地頭職を任ぜられたが、のちに、足利尊氏の軍勢と交戦し、敗れ、京都修学院鷺の森で自刃したといわれる。その後、重行の遺骨は最勝院にもちかえられ、境内に葬ったものといわれている。

 明治時代この最勝院は、粕壁小学校(明治五年)や粕壁税務署(明治四十二年)などに利用され、広い境内は大相撲の地方巡業やサーカス、村芝居の興行、各種の武道大会等にも利用された。

 また、明治二十六年に粕壁から越谷、草加を経て足立区千住までも結んで開業した千住馬車鉄道は、この最勝院を起点としている。

     昭和六十一年三月 埼玉県 春日部市

【春日部重行公御霊古墳の記】

 南朝の忠臣贈従四位春日部重行公は逆臣北條高時の専横極まるところ 恐れ多くも後醍醐帝は隠岐に遷され給い王業の光正に淡きを嘆ずる時 護良親王の令旨を奉じ勤皇の義兵を春日部に挙げ 建武元年(1334年)新田義貞を共に鴟張(しちょう)の賊北條氏を鎌倉に滅ぼし建武の中興の大業を成す。

 更に足利尊氏の反旗を翻して九州より東上するや大儀の血潮渾(さかん)に燃えこれを京に迎え撃つ然れども南風遂に競わずして戦時に利あらず延元元年(1336年)六月三十日鷺の巣において恨み深き自刃を遂ぐ。其の長子家縄遺骨を携えて帰郷し 最勝院に墳を築き此処に葬る。

 大正七年(1918年)其の功を嘉し 特旨を以て従四位を贈らる。


【小渕一里塚跡と庚申塔】 史跡 (右側) 10:46

 最勝院より「新町橋西交差点」にもどり、左折して新町橋を渡る。

 「新町橋西交差点」を春日部駅から来て左に入った左側に古民家(山田商店?)が見えたが行かなかった。

 新町橋を渡ったら、次の信号を左折後右カーブして県道319号線を行く。
 新町橋から10分程進むと、畑(ビニールハウスもある大きな家庭菜園?)の北側に、日本橋から9番目の小渕一里塚が天保三年建立の庚申塔と並んで立っている。右の道に入った所に日光側を向いているので振り返らないと見逃す。

 下の写真は日光側から写したもの。右の道が日光道中で奥が新町橋方向。
  


【追分道標】 

 小渕一里塚のすぐ先のY字路が小渕の追分で、左へ分かれるのが日光道中、右へ分かれるのが関宿(せきやど)道である。県道319号線は右に分かれる。
  

 そのY字路の三角点に大小二つの追分道標が立っており、大きいほうの正面には「青面金剛」、左側面には「左日光道」、右側面には「寳暦四年甲成 十一月九日鐫(ほる)」と刻まれている。また、小さいほうは宝永六年(1709)の建立で、読みにくいが正面に「左方あふしう道」、右側面は一部が欠けて「右方せきやど道」と刻まれている。「あふしう」はもちろん「奥州」のこと。
  

 左に進んだ日光道中は、すぐ「小渕交差点」で右後ろから来る国道4号線と合流する。この交差点では国道16号線の「春日部野田バイパス」が高架で交差している。


【観音院】 (左側) 10:58〜11:07

 「小渕交差点」を渡って5分進んだ左に観音院の立派な楼門(仁王門)が見える。

 私達が行った日は、仁王門の周りに綱が張られ、手前に次の様な立札が立っており、数人の関係者が山門の下で協議をしていた。

【参詣者の方へ】

 このたびの地震で山門が損傷の疑いがあるので山門を通らないで下さい。専門家の調査を依頼しています。
    観音院

  仁王門

 境内(山門を入ってすぐ左)に芭蕉の句碑が建っている。

   毛(も)のいえば 唇さむし 秋の風  はせを

 観音院は「こぶとり観音」とも云われ、7躰の円空仏も納められている。また、本堂の彫刻や掲げられていた額も立派だった。


本堂

【小渕山観音院】 (一部、誤字脱字と思われる箇所があるが原文通り載せる)

 小渕山観音院は、新編武蔵風土記稿の小渕村、観音院の項に「本山派修験、京都聖護院末、安永二年(1773)正年行事職を許さる。小渕山正賢寺と号す。本尊正観音、応安二年(1369)住持玄通が書し縁起有に拠ば、古き像なるべし。中興開山は尊慶と云、年代を知らず。」と記されている由緒ある古刹である。

 この寺は、この地方の観音信仰の霊場として有名で、家内安全、商売繁盛のほか、こぶ、あざにご利益あるといわれている。毎年八月十日には、この日参拝すると四萬六千日分のご利益が授けられると言われる四萬六千日祭があり、県内の山伏が参集して護摩修行を行い、近隣の善男善女が枝豆を奉納し参拝する祭礼がある。

 また、三月には、かって馬寄せ祭があり、農耕に従事した牛馬がいろいろな飾りをつて安全を祈願する祭があった。本堂内には、木像の白馬が安置されている。

 本尊「正観音像」には、その昔、洪水でこの地に流れ着き、一度はもとの寺に戻したが、その後の洪水でまたもこの寺に漂着したのでお堂を建てて安置したものといわれる伝説がある。

 本堂の格天井には花鳥の彩色が施され、格縁ごとに大勢の粕壁宿の商店主の名が記されており、外壁には、多数の絵馬のほか、八丁目の和算士栗原伝三郎が奉納した算額が掲げられている。

 また、寺には、「毛のいへば 唇さむし 秋の風」と詠まれた芭蕉の句碑、市内唯一の楼門(仁王門)、七体の円空仏などがある。楼門は昭和四十七年に春日部市指定の有形文化財に指定されている。

     昭和六十一年三月 埼玉県 春日部市


【36度線モニュメント】 (右側) 11:16

 やがて国道は「小渕小入口交差点」を過ぎ、杉戸町に入るとすぐ、歩道上に36度線モニュメントと称する地球儀が建っていた。

 近づくとここは北緯36度で、地球儀には世界中の北緯36度に位置する都市等が示されていた。

 地球儀の後ろには「SUGITO MAP」が立っていて、地球儀にもはめ込まれていた「北緯36度線上の都市名、地名」が書かれていた。

 中  国  チンタオ(青島)

 アメリカ  ナッシュビル・ラスベガス・グランドキャニオン

 イ ラ ン  テヘラン

 日  本  杉戸町

 (海 峡)  ジブラルタル

 ( 海 )  地中海

 (山 脈)  カラコルム


【道しるべ】 (左側) 

 北緯36度から国道を少し北上した「堤根(南)歩道橋」の手前を左斜めに入る道が日光道中。

 左折してすぐ先左側に丸品寺があり、その境内の左角に建つ祠の左側に道しるべと説明板が立っている。

 道しるべは、街道に向いた面が「右 江戸」、左面が「青面金剛」、裏面が「左 日光」と刻まれていた。向きが違っているのは、別の場所、おそらく道路の反対側に建っていたものが移設されたものと思われる。

 また、この寺の向かいには立場があったといいい、古そうな家が建っていた。

【日光街道の道しるべ

 この道しるべは、天明四年(1784)堤根村の農民四十二人が協力して、新川村(春日部市)の石工・星野常久に作らせ、江戸と日光方面を知らせた。また、この道路の向い側の高野家が、立場を営み、馬で荷物を運ぶ人・駕籠をかつぐ人・旅人・馬などが休む場所となっていたので、この道しるべを多くの人々が見ながら旅を続けたと思われる。

 この石塔は、庚申の夜、青面金剛に疫病の予防治療と人間の身体にあって、人を短命にするという三戸(さんし)を除いて、長生きできるように祈る庚申信仰を表す庚申塔であり、道しるべを兼ねたものである。

 なお、見ざる・聞かざる・言わざるは、三戸になぞらえ、眼や耳や口をふさいで悪事を天の神に報告させないという意味がある。

     杉戸町教育委員会


 しばらく前の国道からこの先も含め、屋根にブルーシートを被せている家が至るところで見受けられた。

 街道沿いで古い家が多い為か、この辺りの揺れが強かったのか、屋根瓦が落ちた家があまりにも沢山あったのには、あらためて今回の地震のすごさを思い知らされた。

<昼食> 11:45〜12:15

 道しるべを過ぎて「ワークマン」前広場から、右側に平行している国道4号線沿いに「「山田うどん」と「すき屋」が見えたので「山田うどん」で昼食を取った。


【三本木一里塚】 (右側) 12:36

 旧道に戻り、すぐ先の「堤根(南)交差点」で国道4号線に合流する。

 更に13分程北上した「堤根交差点」(三叉路)で再度国道と分かれて左斜めへ進み、杉戸宿へ入って行く。

 旧道に入り6分ほど進んだ左側「木村屋パン店」の斜め向かい、民家の生垣の中に日本橋から10番目となる三本木一里塚の案内板が立っていた
 下の写真で、生垣が刈り込まれている所に立っている白い板が案内板

 ここの日光街道一里塚は、江戸に向かって左側が堤根村地内、右側が清地村地内で、大きさが、縦・横ともに約九メートル、塚の上に榎が植えられていた。しかし、明治時代なかば以降には、交通の発達などによって取り払われてしまった。なお、江戸に向かって次の一里塚は、小渕村(春日部市)、日光に向っては、茨島村(杉戸町)にあって。いずれも榎が植えられていた。

 こうした一里塚ができるまでには、まず慶長五年(1600)徳川家康が江戸を中心に、東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道をととのえた。その後、慶長九年(1604)主な街道に、道のりを表す目じるしとして、日本橋から一里(約四キロメートル)ごとに塚を築いて旅行者の目安とした。

     杉戸町教育委員会


【杉戸宿】 日本橋から10里23町(41.8Km)、鉢石へ25里16町20間(100.0Km)

 宿内人口:1,663人、総戸数: 365軒(本陣1・脇本陣2・旅籠46)


【関口酒造】 (右側) 12:48

 右手「杉戸町役場」を見て、次の「清地二丁目交差点」を渡ったすぐ右側に関口酒造という造り酒屋がある。

 創業文政五年(1822)で、製造銘柄は、豊泉・杉戸宿。
  関口酒造


【南側用水路の由来】 (右側)  12:53

 「JA埼玉みずほ」の前にベンチと南側用水路の由来が掲げられており、かつての用水路には蓋が架けられ遊歩道になっていた。

 南側用水路は、江戸時代初期の万治3年(1660年)、利根川筋・本川俣村に葛西用水の取水口が作られた際に、その支流として当時の幸手領南側一帯(幸手市から杉戸町を経て春日部市まで)に農業用水を供給すらために設けられました。

 杉戸町を9.5Kmに渡り流れる南側用水路は、大切な農業用水路としての役割を果たすとともに、清らかな水に魚が泳ぎ、沿線の人々の生活に深く係わりながら、身近な水辺として親しまれてきました。

 しかしながら、農業用水のパイプライン化により、昭和63年3月に300年あまりに渡る用水路としての役割を終えました。

(後略)

     平成6年7月


【明治天皇御小休所阯】 (右側) 13:02

 「本陣跡地前交差点」手前右側の「中央三井信託銀行・杉戸支店」前に明治天皇御小休所阯の石碑が立っている。

 ここの交差点は本陣跡地前になっているが、この辺りを捜しても本陣跡は無い。ここから120m先である。

 交差点を渡った右側に「とらや薬局」があり、古く由緒もある店だが、面影はあまりない。


【本陣跡】 (右側) 13:05
 
「本陣跡地前交差点」から2分、左側「松屋」の向かいで奥まった所が本陣跡で、現在は本陣門と大きな松のみ残る。
 この本陣跡の向かいに脇本陣があったが、今は案内も何も残っていない。
  


【杉戸宿の町並】 
 本陣跡の先で街道は右にくの字型に曲がる。その左側に蔵を持つ古民家が建っている。
  

 そこを曲がったすぐ先の左側に「宝性院」があり、その門前に「奥の細道関東三十三か所霊場」と刻まれた石碑が立っているが、奥の細道に関係あるものは無く、奥の細道を名乗っただけ札所である。

 「宝性院」すぐ先の電柱に、昭和22年カスリーン台風による実績浸水深(青テープ)が標示されている
 この先何度もお目にかかる表示で、この辺りの浸水高さは、0.4mであった。

  


 上の写真で、右側に車が見える向こう隣り家が、立派な石垣、蔵、本陣門の様な門を持つ豪邸であった

 表札を見ると、現在の当主の脇に(勘左エ門)と記されていたので、江戸時代から続く由緒ある家の様だった。また、「電話 三番」の銘板が貼られていたことから、この辺りで三番目に電話が開通したのだろう。おそらく一番と二番は役所と警察が考えられるので、民間では一番目に電話を引いた家ではないかと 思われる。

   


【恭倹舎・大島有隣遺跡】 県指定史跡(昭和6年3月31日指定) (右奥) 13:45〜13:55

 日光道中は杉戸宿が終わって、再び国道4号線に合流する。更に国道を25分程進んだ「大島交差点」を右折して2分程入ると稲荷大明神の赤い鳥居が見え、隣に恭倹舎・大島有隣遺跡がある(下の写真で、鳥居の右後ろの建物が恭検舎)。恭倹舎の上り框(かまち)に腰掛けて休憩。

 大島有隣は、諱を義展、通稱幸右衛門といい、宝暦五年(1755)十二月四日、この地(旧葛飾郡大島村)に生まれた。

 天明元年(1781)、有隣二十七才の時、同郷の関口保宣と共に江戸に出て、参前舎で、当時の心学の大家中沢道二の教えをうけ天明五年(1785)、関口保宣・藤城高右衛門と共に「恭検舎」を建立し、農民や町民に心学を講説した。

 寛政四年(1792)、有隣は再び江戸に出て参前舎で学び、やがて参前舎の主宰に推薦され、諸大名、旗本等に進講し、夜は、町民の家に出かけ、時を惜しんで心学の教化につとめたが、天保七年(1836)十月、八十二才で病没した。

 この恭検舎は、病没するまでの五十余年間地元の人々に心学を説いた建物である。

     昭和五十三年十二月十五日 埼玉県教育委員会 杉戸町教育委員会


【茨島一里塚】  (左側) 14:02

 国道に戻り、数分行った右側「山田うどん」の駐車場に、日本橋から11番目となる茨島一里塚の説明板のみが立っている。

 但し、後半部分は字が擦れて判読しずらかったが、一里塚の解説はどこも同じようなので雰囲気で読むことが出来た。

 慶長九年(1604)、江戸幕府は大久保石見守長安に命じて、東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道の五街道をはじめとする主要街道に一里塚を築かせた。江戸日本橋を起点とし一里ごと(約四キロメートル)に街道の両側に大きさ約九メートル四方の塚を築き、道のりを表す印として旅行者の目安とした。

 ここ茨島一里塚は、杉戸宿と幸手宿との中間に位置し、塚の上には榎が植えられてあった。次の一里塚は、それぞれ清地村三本木(杉戸町)と内国府間村(幸手市)にあり、いずれも榎が植えられていた。

 こうした一里塚も明治時代なかば以降には交通の発達や道路の拡張工事にともない取り去られてしまった。

     杉戸町教育委員会


<休憩> 14:10〜14:30

 本日は予報に反して暑くなってきたので、熱中症 になる前に、幸手市に入った「幸手団地入口交差点」(東武・杉戸高野台駅入口)にあったマクドナルドで休憩。


【上高野村道路元標】 (右側) 14:44

  日光道中は、右手「書店」、左手「Honda Cars久喜」のあるY字路を左に入る。次いで「ジョイフル本田」前で東武日光線の「上高野踏切」を渡る。

 踏切から200m行った右手「幸手市南公民館」前に上高野村道路元標が建っている。

 御成街道ぞい石井酒造前の橋のたもとに建てられていたもので、平成二年一月の歩道工事のとき、旧日光街道ぞいでもあるこの場所に移転されました。

 道路元標とは、市町村の道路の起点となるもので、この地点から他の地点への距離を測定したものです。

 この元標の年代は不明ですが、大正八年(1919)に法律の定めにより各市町村に一ヶ所ずつ建てられることになった、という記録が残っているので、合併以前の旧村時代のものと考えられます。

     幸手市教育委員会 幸手市南公民館


【日光道中と日光御成道の合流点】  (左側) 15:02

 日光道中は、突当りの信号で、左から来る日光御成街道(県道65号線)と合流して右折する。
 
この信号手前の左角に御成道との合流点の説明板が立っている。
【日光道中・日光御成道合流点】  
 日光道中は宇都宮まで奥州街道を兼ね、千住から草加・春日部を通り幸手へと至り、ここで日光御成道と合流します。
 川口・鳩ヶ谷・岩槻を抜けて幸手に至る御成道は、家光の時代に整備され、徳川家康を祀る東照宮に参詣する代々の将軍が通行しました。
 また、地元で羽生道と呼ばれている道も合流しており、ここを多くの旅人が行き交ったことと思われます。
     幸手市教育委員会


【石仏群】 (左側)
 日光御成街道と合流して左折したら最初の道を右に入ると墓地のブロック塀の前に石仏が沢山並んでいた。
  


【太子堂】 (左側)
 街道に戻ってすぐ右側、太子会館の脇に太子堂が建っているが、説明文等はなかった。
  


【神宮寺】 (左側) 15:02

 その少し先左側に神宮寺があり、参道には数えきれない程の石仏や石碑がぎっしり並んでいた。

【神宮寺】

 鷹尾山誓願院神宮寺と称し、浄土宗の寺で、本尊は薬師如来です。

 源頼朝が奥州征伐の折に、この地で鷹狩りをし、戦勝を薬師様に祈って開基したとも伝えられ、この故事から鷹尾山誓願院の名がつけられたといわれています。

 薬師如来像と脇の十二神将ともに立派な彫刻で春日賢門作といわれています。

 中世の頃は、神宮寺村と村名になるほどの大寺で、一村寺領であったこともありました。

     幸手市教育委員会


【神明神社】 (右側) 15:13

 東武日光線の踏切をもう一度渡り、左カーブした所の志手橋を渡ると、すぐ右側に神明神社がある。

 境内には、草加宿の神明神社で見たのと同じ几号高低標があった。(旧日光街道2回目参照)

【神明神社とたにし不動尊】
 神明神社は、宝暦五年(1755)に伊勢皇太神宮の分霊を祀った神社です。
 境内に成田・菅谷両不動尊があり菅谷不動尊は「たにし不動尊」ともいわれています。眼病の人が、たにしを描いた絵馬を奉納して祈願すればご利益があるといわれ、この絵馬は他にあまり例のないものです。その他に大杉神社の神輿や大正十二年(1923)の関東大震災の記念碑などの文化財があります。
 神社の前の道は、江戸時代の五街道のひとつである、かつての日光道中です。志手橋を渡ったこの周辺は幸手宿の入口で、開発者の新井右馬之助にちなみ、右馬之助町と呼ばれていました。
 また、江戸時代にはここに高札場があり、幕府の掟書や法令などを書いた高札が掲げられていました。

     幸手市教育委員会


【几号高低標(英国式水準点)】

 この案内板の後ろの石は、以前神社に奉納された灯篭の基礎の部分で、長い年月の間に上部が壊れたために脇に置かれていたものです。

 その側面に「不」の記号が刻まれていますが、これは「几号高低標」といいます。

 明治七年(1874)にイギリス式の測量方法が導入され、東京・塩竃(宮城県)間の水準測量を行なった際に神社の鳥居や灯篭等に設置されたもので、横線は測量に用いる平板を表し、下の部分は三脚を表しています。

     幸手市教育委員会


【明治天皇行在所跡】 (左側) 15:18

 神明神社を出てすぐの「幸手駅入口交差点」手前左側に明治天皇行在所跡の碑が建っている。

【明治天皇行在所跡】

 明治天皇は、明治九年六月奥州巡幸の際、十四年七月・同十月山形・秋田・北海道巡幸の際、二十九年十月近衛師団の演習天覧の際に幸手を通られ、明治九年には元本陣の知久家に、あとは右馬之助町の元名主であった中村家に宿泊しています。

 この公園に、「明治大帝行在所御跡」と刻んだ記念碑、指定説明を記した説明板(台・屋根部分は復原したもの)、現在は効力を失っていますが、当時の史跡名勝天然記念物保存法による指定標識、の三点が移設され、保存されることになりました。

     幸手市教育委員会


【明治天皇行在所説明板】

 説明板の文面は次のとおりです。

        (台・屋根部分は復原)

      説 明

明治十四年山形秋田両縣及北海道巡幸の際七月三十一日 同御還幸の砌十月十日行在所となり、明治二十九年十月近衛師團小機動演習天覧の為埼玉縣下行幸の際 同月二十日より二十二日行在所となりたる處にしてよく奮規模を存せり

      注 意

一、火気に注意する事

一、工作物樹木等を損傷せざること

    昭和十年十一月二日

             文部省

     幸手市教育委員会


【幸手宿】 日本橋から12里12町(48.4Km)、鉢石へ23里27町20間(93.3Km)

 宿内人口:3,937人、総戸数: 962軒(本陣1・旅籠27)
【幸手宿のなりたち】 (2016年12月追加)
 
日光道が整備される以前より、幸手は利根川水系による河川舟運と、鎌倉街道中道の人との往来で、交通の要衝として栄えたとされる。特に中世では、古河公方の重臣・幸手一色氏との縁が深く、政治的・軍事的にも重要な場所であったことが窺われる。
 江戸時代になり日光道が整備されると、1616(元和二)年に幕府より人馬継立を命じられ幸手宿となった。幸手宿は日光道のみならず、将軍家による日光社参の道である日光御成道との結節点でもあり、重要な地だったと考えられる。

【幸手宿の構成】
 (2016年12月追加)
 宿駅としての幸手宿は、南から右馬之助町、久喜町、仲町、荒宿の4ヶ町より構成されており、開宿当初は、久喜町、仲町の2町が宿の中心で、荒町、右馬之助町が宿に組み込まれたと考えられている。
 1843(天保十四)年の「日光道宿村大概帳」によると、幸手宿の長さ」585間(9町45間)、道幅6間、家数962軒、人数3,937人、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒とあり、城下町に併設された宿を除くと、千住宿、越ヶ谷宿に次ぐ日光道3番目の規模を誇った。


【幸手宿 問屋場跡】 (右側) 15:28

 次の「中一丁目(南)交差点」右側のポケットパーク入口に八坂夏祭りの説明板と、奥に問屋場跡の説明板(石製)がある。

【幸手宿 問屋場跡】

 幸手宿は、江戸日本橋を起点に日光道中六番目の宿駅であり、また日光御成道との合流地点として知られています。

 幸手は、古代より奥州へ通じる道筋の古い集落でしたが、元和三年(1617年)日光東照宮社殿の竣工を期に、幕府がその参拝道として整備した宿駅です。

 ここは幸手宿問屋場跡です。近くには本陣(大名宿)があり、商店・旅篭屋・茶屋などが軒を連ね賑わった所です。

 問屋場は、公用私用を問わず旅人の世話・荷物の運搬、その他街道に関わる一切の事務を管理する役所です。この屋敷は街道に面し、間口六間一尺(一間は約1.8メートル)、奥行三十三間半、五畝十八歩(一六八坪)で、ここに問屋場・人足溜・馬小屋などの建物がありました。

 幸手宿の問屋場役は、問屋四人、年寄八人、帖付四人、馬指四人、見習一人、月行事四人の総勢二十五人で、年間休むことなく交替しながら業務を続け、人足二十五人と馬二十五頭の常駐が義務づけられた重責でした。参勤交替の大名行列の通過や、幸手宿商人が月々行う六斉市の二・七の日には、問屋場は特に混雑したものと思われます。

 問屋場筋の道は昔は狭い二間巾の道でした。今でも問屋場横町と呼び親しまれ、昔日の問屋場が偲ばれています。

     1998年3月 幸手市商工会


【八坂夏祭り】 市制施行五周年記念 幸手八景

 京都の八坂神社に端を発する祇園祭りは日本全国に広まっており、八坂夏祭りもその一つで、幸手で最もにぎわう祭りです。

 食物などが腐りやすい夏に、神霊の強い力で疫病や悪霊などを退散させようとするものでした。

 七月十五日に近い土・日曜日に山場を迎え、昔の幸手宿を主な舞台として、七台の山車が引き回されます。

 八坂夏祭りは、人と山車と町並みが織りなす勇壮な景色なのです。

  ふるさとの祭り囃子に沸くまちの

    夜店にあかき綿菓子を買う    郷子

     幸手市・幸手市教育委員会


【幸手宿本陣 知久家跡】 (左側) 15:31
 すぐ先「中一丁目交差点」手前の「割烹 蒲焼 義語家」前に本陣知久家跡の説明板が立っている。

 知久家は本陣(大名宿)・問屋・名主の三役を兼ね、幸手宿で最も重要な役割を果たした家柄でした。初代帯刀(たてわき)は長野県伊奈郡の豪族の出で、同郷の関東郡代伊奈熊蔵より幸手宿の久喜町開拓を命ぜられ、諸役を務め、明治三年(1870)に本陣が廃止されるまで、代々幸手宿の繁栄に尽くしました。

 明治六年、知久家の書院で小学校が開設され、明治九年、明治天皇が東北巡幸の折に宿泊されています。

 屋敷は、間口約39m・奥行約80mで、約千坪ありました。

     幸手市教育委員会


【天神神社】 (左奥)

 これからの行程を考えると、次の南栗橋駅まで行きたかったが、本日は暑さに参ったのでこの「中一丁目交差点」で終了とする。

 「中一丁目交差点」を左折し、さらに次の道を左折した途中右側に天神神社が建っている。日光道中から見れば一本左の道である。

 天神神社は、もとは裏町天神といわれ、祭神は菅原道真である。

 この神社の創建については明らかではないが、戦国時代の幸手庄の領主一色氏によって創建されたと伝えられる。一色氏は学問の神様である天神信仰に帰依されて、幸手地方に多くの天神社を造営した。特に裏町・天神島・平須賀・神扇・上高野の五社は一色五天神と称されている。この裏町天神は一色氏館の鬼門に位置していたともいわれ、館の守護神として祀られたと伝えられている。

 以前は、裏町も天神社にあやかって天神町(現在は、住民表示により中一丁目)とよんでいたことがある。

     昭和六十三年三月 埼玉県 幸手市


【正一位一色稲荷大明神 (左奥) 15:40

 天神神社前を進んだ突き辺りに一色稲荷神社がある。

 先の明治天皇行在所跡があった「幸手駅入口交差点」を左折すれば200m入った左側になる。その先すぐ幸手駅である。

【一色館跡と陣屋稲荷】

 幸手駅附近一帯に、城山又は陣屋という地名が残っているが、ここは古河公方足利氏の家臣一色氏が館を構えた跡といわれている。一色直朝(なおとも)は天文年中(1532〜55)に足利晴氏、義氏にしたがい、のち田宮庄(幸手庄)に住したという。直朝の子義直も幸手庄に父とともに住したが、小田原の北条氏没落後は徳川家康に仕え、幸手庄のうちにおいて五一六〇石余の領地を与えられている。

 現在は昔をしのぶ土塁跡などは見ることが出来ない。ただ館跡と思われる位置から巽(南東)の方向に祀られている陣屋稲荷は、別名一色稲荷とも呼ばれ、一色氏の守り神として祀られた氏神であると伝えられている。

 今でも地元の人々の信仰を集めており、毎月二十二日の縁日と、初午祭などの祭が行われている。

     昭和六十二年三月 埼玉県 幸手市



 4回目の旅終了(15:45)  幸手駅。

  幸手駅より、北千住、日暮里経由で横浜へ。

 本日の記録 :街道のみの距離は、12.4Km(公園橋(西)交差点〜幸手宿本陣前)

          日本橋から十二里十三町(48.6Km

          寄り道を含めた実歩行距離は、15.2Km(春日部駅〜幸手駅) 累計63.7Km

          5時間30分 23,590歩。

 

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