越ヶ谷・粕壁宿(前半) (新越谷駅 → 春日部駅 ) <旧日光街道3回目>

 

2011年3月6日(日) 晴

 新越谷駅入口交差点を 9:55スタート。

(注:解説で街道の左側、右側とは日光に向っての左右です)

 「草加宿」 ← 「目次」 → 「粕壁宿(後半)・杉戸宿・ 幸手宿(前半)」

 

 最近、平岩弓枝さんの「はやぶさ新八御用旅」シリーズを読み始めた。

 この本は、江戸町奉行・根岸肥前守鎮衛(やすもり)の家来で内与力をつとめる隼新八郎が主命による御用旅の途中、事件に巻き込まれながら もこれを鮮やかに解決するという時代小説である。

 「(一)東海道五十三次」を読み終えて、現在「(二)中仙道六十九次」を読んでいるところである。

 これが実に面白い。何が面白いかと言うと、本の中に出てくる登場人物が見たり味わったりしたする名所旧跡や名物が、実際に旧街道をこの足で歩いて来たので実感出来、まるで江戸時代に主人公達と一緒に旅をしている気がしてしまうからだ。是非ご一読を薦めます。

 中仙道を読み終えたら、次は「(三)日光例幣使道の殺人」、「(四)北前船の事件」が待っている。

 先週末にまた腰を痛めて会社を2日ほど休んだが、楽になってきたのでゆっくり歩くことを心がけて出かけた。

 しかし、午前中は調子が良かったが、午後から腰に違和感が出てペースがぐんと落ちたり、長い休憩を取らざるを得なくなったりした。従って、特に午後は通常より時間が掛かっていると思います。

 ところが不思議なことに帰ってきた翌日、足腰が実に楽になっていた。多分無理をせずに運動したことで血流が良くなった為かと思われる。身体は痛みが無ければ恐れずにある程度動かさないと、かえって固まって悪くなるものだと実感した。


【窮民救済の碑】 越谷市指定有形文化財・歴史資料(平成6年3月30日指定) (右側) 10:15

 新越谷駅入口交差点から武蔵野線のガードをくぐり、瓦曽根歩道橋が架かる交差点右側にある照蓮院駐車場の奥に窮民救済の碑、力石等が金網に囲われてある。

 この石碑は、天保九年(1838)一月、瓦曽根観音堂敷地に稲垣宗輔らが建立した窮民救済の碑である。

 稲垣宗輔は、浅草福富町の豪商稲垣氏・池田屋市兵衛方に婿養子に入った、瓦曽根村名主中村彦左衛門重梁の次男である。

 天保五年から七年(1834〜36)にかけては、全国的な大冷害により関東地方なども大凶作となり飢餓に瀕した人々が数多く、各地で穀物商などを襲って食糧を奪い取る打ちこわし騒動が頻発していた。

 この碑銘を要約すると、中村彦左衛門は代官久保田十左衛門支配のとき、凶年手当用として御貸付所(幕府の銀行)に預金していたが、天明年間の凶作年には、御貸付金の元利金を下ろして窮民に与え、飢餓より救った。

 重梁は、その子らにも凶年手当金を備えておくよう遺言して没したが、稲垣家に養子に入った宗輔はこれを受け、文政九年(1826)浅草猿屋町会所御貸付所(当時勘定奉行遠山景元)に凶年手当金として百両を預金し、天保七年(1836)の大凶作にはそこから金九十二両を下ろし、瓦曽根村の窮民九十二名宛てに金一両づつ施金してこれを救った、との旨が記されている。

 また、碑文と歌は、宗輔とは弥従兄弟にあたる恩間村の漢学者兼国学者渡辺荒陽(瓺玉斎)によるものである。

     平成六年 越谷市教育委員会


【照蓮院】 (右側) 〜10:25

 駐車場に接する「照蓮院さくら幼稚園」の後ろに照蓮院がある。境内には千徳丸供養塔があるというが、何の案内もなかったので見つけられなかった。

【千徳丸供養塔】 越谷市指定記念物・旧跡(昭和50年5月2日指定)

 瓦曽根秋山家の祖は、甲斐国武田氏の家臣秋山信藤であり、その子長藤、天正十年(1582)三月、武田氏滅亡の際、武田勝頼の遺児幼君千徳丸をともなって瓦曽根村に潜居した。千徳丸は間もなく早世したが、それを悲しんだ長藤は照蓮院の住職となってその菩提を弔ったと伝える。

 寛永十四年(1637)秋山家墓所に「御湯殿山千徳丸」と刻まれた五輪塔が造立された。これが千徳丸の墓石供養塔であるといわれる。なお、長慶の兄虎康の娘は徳川家康の側室となり、おつまの方と称したが家康の五男武田信吉を生んでいる。

     平成十五年一月 越谷市教育委員会


【里程標】 

 照蓮院前のY字路を左に進むのが日光道中。

 その頂点にある三角州に江戸に向いて里程標が立っていて、次のように刻まれていた。

  東京雷門   五里   二十粁

  浦   和   三里半  十四粁

  大   宮   五里   二十粁

  川   口   四里   十六粁

  鳩   谷   三里   十二粁

 ここから越谷宿に入って行く。この宿場通りは昔の面影が残る古い建物(格子窓の古民家・旅館・診療所等)がかなり残っていた。


【越ヶ谷宿】 日本橋から6里8町(24.4Km)、鉢石へ29里31町20間(117.3Km)
 越ヶ谷宿は江戸に近く、ここを訪れる江戸の門人墨客も多かったという。大慨帳によると、「瓦曽根村境より大房村境迄宿往還長壱八町四拾八間(約2.1Km)、但し、大沢町共」とある。

 宿内人口は4,603名、総家数は1,005軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋52軒だった。


【たぶの木の家】 (左側〜左奥) 10:40

 越谷駅入口の交差点を過ぎて中町に入ってすぐ左側に、奥まで黒塀が続く路地がある(左下の写真)

 この路地を左に入り、蔵がある所で右折すると、黒塀内に建つマンションの前にタブの巨木が聳えているのが見える。途中に「たぶの木の家」と書かれた表札が掲げられている黒門もある(右下の写真が黒門とタブノキ)

【有瀧家のタブノキ】越谷市指定天然記念物(昭和42年1月11日指定)

 タブノキは、クスノキ科の常緑喬木で暖地に自生する。一名イヌグスとも呼ばれ、クスノキに較べてはるかに耐寒性が強いが樟脳は採れない。

 有瀧家のタブノキは、樹回りは3.7m、樹高は17m、枝張り(径)は10mである。幹の1.5mのところに寄生菌サルノコシカケの寄生跡があったが、昭和五十九年に除去し消毒したので、あと何百年かはその寿命を保つとみられている。その樹齢は四百年以上と推定されている。

     平成十四年三月 越谷市教育委員会


【浅間神社】 (左奥) 10:45

 タブの木を見学したら戻らずにそのまま進むと、大きな道路に出た反対側にケヤキの大木と浅間社がある。

【浅間神社のケヤキ】 越谷市指定記念物・天然記念物(昭和58年3月31日指定)

 浅間神社のケヤキは、樹回り7m、樹高はおよそ23mあり、幹は地上6mのところで六本に分岐し、さらに上方で多数の枝を広げている。幹の西側に幅1.5m、長さ2.3mにわたって洞穴状の枯損部があるが、樹勢はきわめて旺盛である。

 ニレ科の落葉喬木であるケヤキは越谷市の木、埼玉県の木として制定されているが、浅間神社のケヤキは、市内で一番大きなケヤキであり、樹齢およそ六〇〇年と推定される。

     平成十八年八月 越谷市教育委員会

 また、懸仏の説明板も併設されていたが、お堂の内部を見ても扉が閉められていて見ることは出来なかった。

【懸仏】 越谷市指定有形文化財・工芸品(昭和47年10月25日指定)

 中町浅間神社の懸仏は、丸い木型に富士山をかたどった銅板が張られ、裏面に「富士山内院御正躰南無浅間大菩薩 上野介満範」とある。さらにその添書には「本書応永三十二年(1425)六月一日、千時文明八年(1476)六月一日」という年号と奉納者とみられる「別当中納言阿闍梨(あじゃり)良清」の名が記されている。普通この種のものは「御正躰(おしょうたい)」とよばれているが、円形の上部左右に、懸垂に便利なように獅子歯がつけられ、これを壁面に懸けて安置したことから、懸仏といわれた。こうした懸仏は、市内には他に例がなく、貴重なものと言える。

     平成十九年九月 越谷市教育委員会


【塗師屋】 (右側) 10:50

 浅間神社から街道に戻った交差点のすぐ先に立派な蔵を持つ古い店が建っている。

 屋号を塗師屋といい、かつては呉服屋、その前は漆を取り扱っていたが、現在は商いをしていない。

 店も蔵の様な造りでどっしりしていた。また、蔵の横には防火用と思われるレンガ塀も残っている。

 塗師屋の隣も古い建物で鍛冶忠商店といい、雑貨屋を営んでいる。


【越ヶ谷御殿跡】 越谷市指定旧跡(昭和47年10月25日指定) (右奥) 11:03

 程なく日光道中は元荒川に架かる大橋に至るが、この橋を渡る前に大きな寄り道をする。

 大橋手前、越ヶ谷本町の信号(10:55)を右折し、次の「元荒川橋」も渡らずに川沿いの細道を真直ぐ進むと、右手に川が現われて越ヶ谷御殿跡の碑と説明板が右側に立っている。

 天下に君臨した徳川家康は、慶長七年(1602)奥州道を公道に指定し、越ヶ谷宿を取立てるなど、道中の整備を進めさせました。そして慶長九年(1604)には増林にあった御茶屋御殿を越ヶ谷郷の土豪会田出羽資久の敷地内に移し、壮大な御殿を建造しました。これを「越ヶ谷御殿」と称しました。

 家康は、しばしばこの越ヶ谷御殿に宿泊し、民情視察を兼ねた鷹狩りを重ねていました。ことに慶長十八年(1613)には三度も訪れ、一日に鶴を十九羽も捕獲したとあります。また、二代将軍秀忠も、同じく越ヶ谷御殿を訪れ、一ヶ月にわたり宿泊し鷹狩りに興じていました。

 しかし明暦三年(1657)一月の江戸大火で江戸城が全滅したため、急遽越ヶ谷御殿を解体し江戸に運び、江戸城を再建しました。

 越ヶ谷住民は御殿が江戸に移されてからも、将軍の別荘があった所として、この地を「御殿」と称し今に至っています。その面積はおよそ六町歩(約六ヘクタール)です。

 現在では御殿の面影を偲ばせるものは残っていませんが、「御殿町」という地名にその名を残し越谷の人々に語り継がれています。

     平成十一年三月 越谷市教育委員会


【建長元年板碑】 越谷市指定有形文化財・考古資料(昭和45年3月23日指定) (右奥) 11:05

 御殿跡から川沿いをそのまま進むと左側に板碑が立っている。

 越谷周辺から発見されている板碑は、秩父の緑泥片岩で造られている。塔婆の一種であることから、板石塔婆とも呼ばれている。この板碑は、板碑初発期にあたる鎌倉時代の建長元年(1249)銘の年号が刻まれてもので、市域で発見された板碑のなかでは最古のものである。しかもその高さ155cm、幅56cmに及ぶ最も大きな板碑でもある。種子(仏をあらわした梵字)は弥陀一仏で、その彫りは深く、初発期板碑の特徴をよく現している。

     平成十一年三月 越谷市教育委員会


【久伊豆神社】 (右奥)  11:25〜11:35

 板碑から更に先に進むと、「宮前橋」に行き着く。

 ここから久伊豆神社の参道になり、橋を渡って本殿まで、長さ550m(10分)の道のりとなる。参道途中の左側に東屋があり、ここで5分ほど休憩した。また、その先の「緑の森公園」にはトイレがある。

 宮前橋から三つの鳥居をくぐり境内に入ると、左の池の前に大きな藤の古木があり、花の時期はさぞかし壮観なことだろうと思われる。

 正面が本殿で、本殿壇上の左右に祀られている狛犬の前足は何故か縄でぐるぐる巻きに縛られていた。その理由は下記由緒を参照。

 左の写真は、最後の鳥居と奥が本殿、鳥居の左横が藤棚。

 右の写真は、縄で足を縛られた狛犬。

久伊豆神社は、祭神として大国主命、事代主命など五柱が祀られ、例祭は毎年九月二十八日である。

 当社の創立年代は不詳であるが、社伝によると平安末期の創建といい、鎌倉時代には武蔵七党の一つである私市(きさい)党の崇敬を受けたという。古来、武門の尊崇を集めて栄え、室町時代の応仁元年(1476)に伊豆国(静岡県)宇佐見の領主宇佐見三郎重之がこの地を領したとき、鎮守神として太刀を奉納するとともに社殿を再建したと伝えられる。江戸時代には、徳川将軍家代々の信仰が厚かった。

 当社は、徐災招福、開運出世の神として関東一円はいうまでもなく、全国に崇敬者がある。また、家出をしたり、悪所通いをする者に対して、家族の者が“足止め”といって狛犬の足を結ぶと必ず帰ってくるといわれている。  

境内には、県指定旧跡となっている幕末の国学者平田篤胤の仮寓跡や、篤胤の門人が奉納したといわれる軒指定天然記念物の藤の老樹が枝をひろげている。

 なお、当社は昭和五十九年度に県から「ふるさとの森」の指定を受けている。

     昭和六十年三月 埼玉県 越谷市

【久伊豆神社社叢(しゃそう) 越谷市指定記念物・名勝(昭和42年1月11日指定)

 越ヶ谷久伊豆神社本殿裏の社叢は原植生であるスダジイ林が残されている。その林相は、6m以上の高木層にはスダジイを中心にヒノキ・タブ・モチノキ・ケヤキ、6m〜3mの亜高木層にはヤブツバキを中心にスダジイも混在している。3m以下の低木層には、アオキ・サカキ・ソロダモを中心にニワトコ・アカメガシワなどが茂っている。最下層の下草にはジャノヒゲ・フユノハナワラビ・メアブソなどの植物が地表を覆っている。

 これらの中には、本来の植物相ではなく、小鳥や風によって種子が運ばれ自生したと思われるものがあるが、スダジイ林が定着しているのはきわめて稀で、学術的にも価値が高いと評価されている。

     平成八年 越谷市教育委員会 久伊豆神社

【久伊豆神社の藤】 埼玉県指定天然記念物(昭和16年3月31日指定)

 この藤は、株廻り7m余り、地際から七本にわかれて、高さ2.7m、南北30mほどあり、天保八年(1837)越ヶ谷町の住人川鍋国蔵が下総国(現千葉県)流山から樹齢五〇余年の藤を舟で運び、当地に移植したものといわれています。樹齢およそ二〇〇年と推定されます。

 花は濃紫色で、枝下1.5mほど垂れ、一般に“五尺藤”と呼ばれています。花期は毎年五月初旬が最も見ごろで、毎年このころに「藤まつり」が盛大に開かれます。

 フジはマメ科に属する蔓性の落葉樹で、日本、中国、アメリカ、朝鮮に少しずつ異なったものが自生しています。わが国のフジは、大別して、ツルが右巻きで花は小さいが花房は1m以上になるノダフジと、左巻きで花は大きいが花房は20cm前後のヤマフジとがあります。当神社の藤は前者に属し、基本種は本州、四国、九州の山地に自生しています。

     昭和五十八年三月 埼玉県教育委員会 越谷市教育委員会 久伊豆神社

 帰りは神社の左手を走る県道に出て南下し、地蔵橋から元荒川の北岸を通って、10:55に分かれた大橋の北詰に戻り再び日光道中を北上する。

 戻ったところで11:50、約一時間の寄り道だった。


【本陣跡・脇本陣跡】 (左側)

 大橋を渡って次の十字路左角にある「パン ケーキ きどころ」が本陣(大松屋福井家)だった。

 この本陣跡から右に分けるのが野田街道(常陸道)である。

 その先の信号のある交差点付近左側に山崎脇本陣、更に進んだ北越谷駅入り口交差点付近左側が深野脇本陣だったらしいが、何の手掛りも無く不明である。


<昼食> 12:05〜12:35

 途中平行している県道に和食処があったが混んでいたので、結局北越谷駅前の「マクドナルド」で昼食とする。


【宮内庁埼玉鴨場】 (左側)

 北越谷駅を過ぎると日光道中は東武伊勢崎線の線路に接したところで、高架下をくぐって線路の左側、桜堤通りを進む。

 左側に移った堤防の上がり口、宝性寺駐車場の向かいに道標が立っていたが、達筆で全体を読むことが出来なかった。

 元荒川の堤防を上がった所の駐車場に沢山の車が入り、続々と人々が川に沿って奥の方に進んでいるのが何かと思っていたら、奥に梅林公園があるらしく梅祭りを行っていたことが案内板で分かり納得。

 ここから県道325号線を5分ほど進んだ左奥に宮内庁埼玉鴨場の門と林が見える。勿論中に入ることは出来ないので街道から門を撮影しただけで、近寄ることはしなかった。

 入口の電信柱に「越谷市環境保全条例」の制定文が巻かれていた。

 (前略)

 ここ「宮内庁埼玉鴨場周辺」は、元荒川の豊かな水辺と色濃い緑が良く調和した越谷市を代表とする環境です。越谷市環境保全条例に基づき、ここを環境保全区域として、皆さんとともに永く保全していくことといたします。

     昭和六十二年三月 越谷市


 埼玉鴨場の先で県道325号線は左に折れて行くが、日光道中はそのまま北上する。ここでも、この先でも梅見と思われる車が沢山左折して行った。

 やがて道中は軽く右カーブして、東武伊勢崎線を今度は踏み切りで越え、更に左カーブして国道4号線「越谷春日部バイパス」の高架下をくぐる。くぐって左折すると大袋駅。

 埼玉県の県境から長らくお世話になった県道49号線も、照蓮院前で別れて平行していたが、日光道中の一本右にあるバイパスとのICで国道4号線と合流して終わりとなる。

 バイパスをくぐって20分程行ったY字路を右に進んで3分。「陸橋入口信号」で国道4号線に合流する。

 冒頭で述べた通り、腰に違和感が出てきたので、国道に合流したすぐ先の「せんげん台交差点」の右側にあるスーパーで長い休憩(13:50〜14:10)を取った。この交差点を左折すれば「せんげん台駅」。

 せんげん台駅入口手前で国道の距離標を見たとき「日本橋から30Km」、「春日部まで5km」とあった。暫く休んだので楽になり、5Km位なら何とかなると思い、この駅で止めずに先に進むことにした。


【備後一里塚跡】 (右側)15:50

 「せんげん台交差点」を過ぎ、架け替え中の「戸井橋」を渡ると春日部市に入る。

 ここから何も見るべきものが無い国道を歩くこと40分。やっと「備後(北)信号」の右側に備後一里塚の標石を見つけた時はホッとした。

 一歩でも脇道に入れば何もなくともこれほど疲れることは無いが、ただ国道を歩くものほど堪えるものはない。

 一里塚の標石は、民家のブロック塀の前に立っているのみで、説明等は何もない。

 正面には「史跡 備後一里塚跡」、左側面に「昭和四十五年八月二十一日」と刻まれていた。


【粕壁宿】 日本橋から9里2町(35.6Km)、鉢石へ27里1町20間(106.2Km)

 宿内人口:3,701人、総戸数:773軒(本陣1・脇本陣1・旅籠45)

 粕壁宿は、現在の春日部大通りにあたり、江戸日本橋から千住、草加、越谷(越ヶ谷町と大沢町)に続く日光道中4番目の宿場町でした。

 江戸からの距離は9里2町(約35.6Km)、宿場内の通りの長さは24町35間(約2.7Km)、道幅約5間((約9m)でした。町並は通りに沿って南北10町25間(約1.1Km)にわたり、天保14年(1843)ごろには家数773軒、人口3,701人を数えました。

 宿場は、公用の出張者が利用する馬や人足を、乗り継いで交代するための場所として、諸街道に設けられた町です。また、大名や日光門主が利用できる宿泊施設が整っており、公的な書類の飛脚業務も行っていました。粕壁宿には人馬の手配など行う問屋場が1ヶ所あり、宿泊施設である本陣と脇本陣が各1ヶ所ありました。一般旅客も泊れることができる旅籠は45軒でした。

 粕壁宿から日光・奥州方面へ向かうと、杉戸、幸手、栗橋と宿場町が続き、房川渡中田関所(栗橋関所)を通って利根川を渡り、対岸の中田宿(現茨城県古河市)へ至ります。

     春日部市郷土資料館のパンフレットより

 春日部の地名の起こりは、大きな謎につつまれています。一説には、今から1400年以上昔、大和時代の安閑天皇皇后春日山田皇女らの私有民(部民・べのたみ)が居た、御名代部(みなしろべ)であったといい、また、水の浸かった土地カスや、川のほとりカワベなど、地形を表す言葉から起こったとする説があります。平安時代末には、紀氏の一族が土着し、春日部氏を名乗りました。

 地名の漢字表記では、南北朝時代の春日部が古く、その後戦国時代に糟ケ邊糟壁と変化し、江戸時代中ごろ以降は、粕壁と書かれるようになりました。

 昭和十九年(1944)粕壁町と内牧村の合併により、春日部となります。

     同上パンフレットより(文字の色もパンフレット通り)


【東陽寺】 (右側) 15:30

 備後一里塚から再び見るべきものが無い国道をひたすら歩くこと40分。

 一ノ割駅入口、東武野田線のガードを過ぎて、はなはだ疲れた所にやっと着いた三方向に分かれる「一宮交差点」を左折するのが日光道中である。

 国道は真直ぐの道だが、この交差点から左折すると粕壁宿に入る。

「一宮交差点」を渡ってから左折すると、すぐ右に東陽寺がある。

 ここは奥の細道で芭蕉と曽良が宿泊したと伝えられている寺である。ただ、粕壁ではここではなく別の寺に泊ったといも云われている。

 山門の右下には、傳 芭蕉宿泊の地と刻まれた石柱が立っている。

 山門から入って、後ろの国道側の右壁に碑文が全て漢字で書かれた蕉斎翁記念碑が、左側本堂の脇に平成元年五月に建てた奥の細道紀行三百年記念之碑が立っている。三百年記念碑には「七日夜カスカヘニ泊ル江戸ヨリ九里余」と刻まれていた。


【春日部市郷土資料館】 (左奥) 15:40〜16:00

 粕壁宿に入ってすぐの「市民文化会館交差点」を左折し、次の「粕壁小交差点」左角にある「春日部市教育センター」内一階に春日部市郷土資料館がある。

 この資料館は無料で、内部に江戸末期想定・1/200の「粕壁宿推定模型」(左の写真)が置かれ、本陣・脇本陣・問屋場の場所が分かるので、この宿に来たら最初に訪れるべき場所である。その他の資料も大変参考になる。

 多くの資料で本陣は、現在のロビンソンデパートの向かい辺りにあったと云われるが、資料館の模型ではそこは脇本陣で、本陣はその先の方に置かれていた。どちらが正しいのかは現地に何の痕跡もなかったので不明。

【資料館の案内】

 開  館:午前9時

 閉  館:午後4時45分

 休館日:月曜日、国民の祝日、年末年始(ただし、月曜日と祝日が重なった場合は、火曜日も休み)


【碇(いかり)神社】 (右奥) 16:10

 ロビンソンデパートの先を右折して突き当りの「古利根川」の川岸で下を覗くと、船着場が見える。そこを左折してすぐのこんもりした木々の細道を左に入ると碇神社があり、社の左脇には天然記念物のイヌグスの大木が 茂っている。

【碇神社のイヌグス〕 埼玉県指定天然記念物(昭和三十年十一月一日) 所有者:多田キヨ

     現 状

   高     さ : 12m

   根回り周囲 : 9.48m

   目通り周囲 : 4.4m

 この木は、中部以南の主として海岸地に多く自生している暖地性の常緑高木です。

 学名をタブノキといい、老樹の材に巻雲状の美しい模様の現れたものは、タマグスと呼ばれます。

 イヌグスという名は、クスに似ているがクスではなく、木質が劣っているところから、頭に犬の字をつけてこう呼んだものです。

 昔、粕壁宿は、米麦の集散地で、船運が盛んでした。帆掛船は、古利根川を上り下りし、イヌグスのあるこのあたりは船着場でした。根方に祭られている祠を、碇神社と呼ぶ習わしも、そのようなこところからきたものといわれています。

 碇神社のイヌグスは、樹齢六〇〇年といわれていますが、樹勢は極めて良く、イヌグスのうちでは巨木に属します。

     昭和五十年三月二十五日 埼玉県教育委員会 春日部市教育委員会


【田村家と道標】 (右側) 16:15

 街道に戻り、駅の方へ少し進んだ所に、蔵を持った田村家(左の写真)の大きな屋敷が建つ。

 その前面に天保五年二月建立の道標(右の写真)が立っていて、前面に「西南 いハつき」、右側面に「東 江戸」、裏面に「北 日光」、左側面に年号が彫られていた。

 碇神社で一緒になった、解説付き歩き旅の講師が言う事には、この碑は本来ここに有ったものではなく、別の所にあったが目立たないのでこの場所に移したとのこと。


【田村荒物店】 (右側) 

 田村家のすぐ先の「公園橋(西)交差点」手前右角に田村荒物店があり、側面に回ると分かるが、川まで続く はど立派な蔵が建ち並ぶくらいこちらも大きな家だった。上記田村家が本家でこちらが分家とのこと。

 この「公園橋(西)交差点」を左折すると、春日部駅である。



 3回目の旅終了(16:30) 春日部駅入口の公園橋(西)交差点。

  春日部駅より東武伊勢崎線 、北千住から地下鉄日比谷線、上野から京浜東北線に乗り換えて横浜へ。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、13.0Km新越谷駅入口交差点公園橋(西)交差点

          日本橋から九里八町(36.2Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、17.8Km(新越谷駅〜春日部駅) 累計48.5Km

          6時間50分 28,700歩。

 

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