藤沢宿 (藤沢駅 → 茅ヶ崎駅)
<旧東海道8回目>
2002年5月25日(土) 晴
二人旅。(JR「藤沢駅」〜JR「茅ヶ崎駅」)
2014年9月14日(日) 快晴
「藤沢駅」から「遊行寺前バス停」迄バスで行き、バス停(9:45)から「茅ヶ崎駅」(14:40)まで2002年と同じ行程を一人で歩く。
(注:文中で街道の左側、右側とは京都に向っての左右)
「戸塚宿」 ← 「目次」 → 「平塚宿・大磯宿(前半)」
旧東海道8回目も、2002年と同じ行程を歩いたので、2014年2月現在に全文改訂した。途中経過時間も新たに記載した。
文中に経過時間を記載しているが、一人で資料、地図、写真撮影、メモ取り等を行なっていて各地点で少々時間が掛かっている為、ゆっくりペースに感じるかも知れません。
【桔梗屋】 国登録有形文化財(昭和25年12月24日) (右側)
前回終了した「藤沢橋」傍の自動車排気ガス測定局前の「遊行寺前バス停」を9:45にスタートして、やや左カーブしながら国道467号線を進むとすぐ右側に黒い土蔵造の店蔵がある。
宿場的雰囲気がある店蔵(桔梗屋)は、明治44年の建築で国登録有形文化財になっている。 本社は横浜に移転したという桔梗屋は、藤沢宿で茶・紙問屋を営んだ旧家で、この時間店は閉まっていたが、現在も藤沢支店として使用されているとのこと。 |
【旅籠小松屋跡?】 (左側) 9:50
左側「藤沢本町郵便局」の二ツ隣に「ラーメン小松屋」がある。
ここに往時、小松屋源蔵が営んでいた旅籠小松屋があったと言われているが確証はない。
小松屋源三に付いては、下記【永勝寺】の項参照。 |
【蒔田本陣跡】 (右側)
「ラーメン小松屋」の斜め向かいに「ラーメンすゞノや」があり、その前の歩道上に蒔田本陣跡の標柱が立っている。
【蒔田本陣跡】 藤沢宿の本陣は江戸時代中期から蒔田源右衛門が勤めました。本陣は大名や公家などの専用宿泊で、江戸時代に来日した朝鮮通信使も利用しました。 藤沢市教育委員会 |
【坂戸町問屋場跡】 (左側)
再び街道左側に戻って、すぐ先左側の消防署前の歩道上に坂戸町問屋場跡の標柱が立っている。
【藤沢宿坂戸町問屋場跡】 問屋場では公用書状の宿送り、人馬手配、助郷村への賃金支払いを行なった。問屋役は有力町民が担い、幕末、西隣の杉山弥兵衛が努めた。 藤沢市教育委員会 |
【常光寺】 (左奥) 10:00〜10:10
上記消防署の脇道を左折すると突き当たりに常光寺がある。
山門手前左側に藤沢警察署発祥の地碑が置かれ、山門を入るとすぐ左手に万治と寛文の庚申供養塔が二基並んでいる。
本堂の左横から墓地内に入ると正面に大きなカヤの木が聳え、更に右奥に進むと野口米次郎辞世碑が建っている。
お寺の謂れ等は無かった。
【藤澤警察署發祥の地】 明治五年八月常光寺に邏卒屯所が設置され以後境内地の提供により警察出張所警察署に昇格 大正十四年洋風庁舎を建築し昭和三十九年四月本鵠沼の新庁舎に移転するまで九十年間署が置かれていた発祥の地である 藤沢警察署創設百年を記念して碑を建立す |
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【万治二年・寛文九年 庚申供養塔】 市指定有形民俗文化財(昭和59年4月13日指定) 万治:総高169センチメートル 火成岩製 寛文:総高178センチメートル 火成岩製 向って右が万治二年(1659)、左が寛文九年(1669)に造立された庚申供養塔です。ともに塔身に笠石をのせています。 万治二年塔は、塔身正面に「萬治二年」「己亥正月吉日」の造立年記があり、下部に十三名の造立者名が陰刻されています。上部にある梵字は、キリーク サ サクと読み、阿弥陀仏・観音菩薩・勢至菩薩の阿弥陀三尊を表現するもので、この石塔の本尊になっています。その下の五つの梵字は、ア・ピ・ラ・ウン・ケンと読み、胎蔵界大日如来に祈るときの呪文で、万物の生成要素である地・水・火・風・空を表すものです。下方に猿と鶏が陽刻され、両側面と背面に「南無阿弥陀佛」の六文字が刻まれています。 寛文九年塔は、塔身両側面に「寛文九己酉年」「五月廿八日」の造立年記が陰刻されています。この刻銘の日は、十干・十二支を組み合わせた暦法で六十日ごとに巡ってくる庚申の日でした。かつて庚申の夜には、三戸(さんし)という虫が睡眠中に身体から抜け出して天帝にその人の罪を告げるため寿命が縮められてしまうので、その夜は眠らずに過ごすという風習がありました。正面下部にある八名の造立者名は摩滅していて読みとれませんが、この人たちも夜明かしをしたのでしょう。その石塔はその時の記念に建てられたものです。塔身の頂部左右に日と月が、上部に阿弥陀三尊の梵字が刻まれています。下方には正面と両側面に「見ザル・聞かザル・言わザル」が一体ずつ配されています。庚申塔に三猿像が彫られているのは、三戸に告げられないように、あるいは庚申の申が猿と通じるからなどの説があります。 平成二十一年(2009)三月 藤沢市教育委員会 |
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【常光寺のカヤ】 藤沢市指定天然記念物・かながわの名木100選(昭和59年12月指定) 幹がまっすぐに伸び、中ほどから大きく枝を四方に張り出した巨木で、樹勢も旺盛で堂々としている。 周辺の樹林を含めて藤沢市の天然記念物に指定されている。 樹高 25メートル 胸高周囲 5.0メートル 樹齢 約300年(推定) カヤは、宮城県から屋久島の山地に生える常緑高木で、幹は直立し、よく分枝し、横枝は水平に出る。 樹高35メートル、胸高周囲8メートル、樹齢約1000年に達するものもあると言われている。 |
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〔野口米次郎辞世碑〕 明治八年愛知県に生まれ、二三年単身渡米、新聞記者となり、のち英国に渡る。詩集を出版するなど両国の詩壇で活躍し、 三七年日露戦争の報道のため帰国、兄が住職を勤める常光寺や鎌倉円覚寺に住した。慶応大学で教鞭をとり、世界各地で日本文芸について講演し、また広重・春信などの浮世絵や正倉院宝物について英文出版、さらに日本での最初の英文案内書『Kamakura』を出版したりして日本の文化・文芸を世界に紹介し、“ヨネ・ノグチ”の名で親しまれている。昭和 二二年疎開先の茨城県で没した。 平成五年十月 藤沢市教育委員会 |
【済美館】 (左側)
街道に戻って直ぐ先の「藤沢公民館分館」は、済美館として生まれ変わった建物である。
【済美館記念碑文】 この地域は、江戸時代以前から、遊行寺の門前町、東海道の宿場町として栄え、商業(問屋街)も盛んで、近隣の町村から多数の人が集まりました。 また、大正初年から町役場があり、市制が布かれてからも昭和二十六年(1951)まで市役所が置かれ、本市の歴史・文化並びに経済の中心地でもありました。 済美館は、昭和十七年(1942)一月武道場として飛嶋繁氏によってこの地に建設、藤沢市に寄贈されました。 この「済美館」の名称は明治三年(1870)十月大久保町の名主堀内悠久の子郁之助氏により、土地の子弟教育のため藤沢宿に創設された藤沢郷学所済美館の名にあやかり命名されたものです。 その後、一時期市議会議場として使用されたほか、昭和六十二年(1987)まで主に市民の武道練成の場として利用されてきました。 当館は、建築後五十年近くを経、この度、地域住民の熱望により、地域の活性化と、住民の交流を図るための機能を加え、新しい済美館(藤沢公民館分館)として生まれ代わり、ここに完成をみました。 これを記念するとともに、「世々その美を済す」という済美館の原意通り、当館が生涯学習の拠点として、これを利用する人々の創意と工夫により、将来に向けて、今後ますます発展していくことを祈り、この碑を建てます。 平成二年十一月 藤沢市教育委員会 |
【永勝寺】 (左奥) 10:18〜10:23
「市民病院入口信号」の先、「JRさがみ藤沢」の手前を左折して100m程入った左側に永勝寺がある。
『浄土真宗 本願寺派 鳳凰谷山永勝寺」と刻まれた石柱の脇を通って緩やかな階段を登ると山門があり、その山門前右側に永勝寺(飯盛女の墓)と書かれた説明板が立っているが、お寺自体の謂れ等は無かった。
山門をくぐって境内に入ると正面奥に本堂があり、すぐ右手には鐘楼、左手には再び永勝寺「飯盛女」の墓と書かれた説明板が立っていて、その後ろに多数の飯盛り女の墓が並んでいる。
【永勝寺(飯盛女の墓)】 (山門横の説明板)
墓地の中に飯盛旅籠を営んでいた小松屋源蔵の墓があります。飯盛女の墓はこの源蔵が建てたものです。 |
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【永勝寺「飯盛女」の墓】 (境内に入った所の説明板)
飯盛女とは江戸時代、宿場の旅籠屋で給仕をする女として公認されていたが、遊女としての側面ももっていた。藤沢宿大鋸町では、飯盛女のいない宿場がさびれたため、万延二年(1861)宿民のためとして一旅籠屋二名の飯盛女を置く許可を役人から得ている。 |
【伝源義経首洗井戸】 (右奥) 10:25
街道に戻ったらすぐ右側に渡り、100m程進んだ「白旗交差点」少し手前の右側歩道上に説明文付伝源義経首洗井戸と書かれた標柱が立っている。
その標柱の矢印に従って右の細道を入って行くと、突き当たりの小さな公園内に義経の首を洗ったと云われている井戸がある。
井戸は公園右手の竹塀の前にあり、格子蓋が被せてある。中を覗くとやや深い円筒形で、涸れ井戸だった。
井戸の手前右には説明板、左には『武蔵坊辨慶公之靈 九郎判官 源義経公之首塚 亀井坊 片岡坊 伊勢坊 駿河坊 各靈』と刻まれた石碑と、『源義経史蹟
藤沢市』と刻まれた石柱が建っている。
【伝源義経首洗井戸】 (歩道上の標柱)
平泉で討れた義経の首は首実験後片瀬の浜に捨てられ、境川を逆り白旗に漂着したものを里人がこの井戸で洗い清めたということです。 |
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【伝 源義経首洗井戸】 (井戸の前の説明文)
「吾妻鏡」という鎌倉幕府の記録によると兄頼朝に追われた義経は奥州(東北)でなくなり文治五年(1189)に藤原泰衡から義経の首が鎌倉に送られてきました。義経の首は首実検ののち腰越の浜へ捨てられました。それが潮に乗って境川をさかのぼりこの辺に漂着したのを里人がすくいあげ洗い清めた井戸と伝えられます。 |
【白幡神社】 (右奥) 10:30〜10:55
「白旗交差点」手前右側に『歩いて見よう藤沢宿』と題する旧絵図と新地図が掲げられているので参考になる。
今まで歩いてきた国道467号線は「白旗交差点」を右に曲がって行くが旧東海道は直進する。
この交差点を右折して白旗神社へ寄り道する。
「白旗交差点」を右折したら、次の「白旗神社信号」を横断し、白硯川に架かる「御典橋」を渡ると大きな石の鳥居が建っている。
鳥居をくぐると正面のこんもりとした小山に石段が見え、これを登った中段に源義経公鎮霊碑が建ち、更に登った所に白鳥神社の拝殿と本殿がある。また、拝殿の右手には弁慶の力石なるものが鎮座していた。
【白旗神社】 御祭神 寒川比古命、源義経公 配神 天照皇大神・大国主命・大山祇命・国狭槌命 由緒 古くは相模一の宮の寒川比古命の御分霊を祀って、寒川神社とよばれていた。しかし、創立年代はくわしくはわからない。 鎌倉幕府によって記録された『吾妻鏡』によると、源義経は兄頼朝の勘気をうけ、文治五年(1189)閏四月三十日奥州(岩手県)平泉の衣川館において自害された。その首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。高平は、腰越の宿に着き、そこで和田義盛・梶原景時によって首実検が行なわれたという。伝承では、弁慶の首も同時におくられ、首実検がなされ、夜の間に二つの首は、此の神社に飛んできたという。このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として此の神社に祀るようにとのことで、義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。弁慶の首は八王子社として祀られた。 |
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【源義経公鎮霊碑】 文治五年(1189)閏四月三十日、奥州平泉、衣川の高館で、藤原泰衡に襲撃された義経公は自害し悲壮な最期を遂げた。その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に葬られ、また一方の御首は奥州路を経て、同年六月十三日、腰越の浦の首実検後に捨てられたが、潮に逆流し白旗神社の近くに流れつき、藤沢の里人により洗い清められて葬られたと語り伝えられる。 本年、源義経公没後八百十年を記念し、両地有志の方々より「御骸」と「御首」の霊を合わせ祀る鎮霊祭を斎行し、茲に源義経公鎮霊碑を建立する。 平成十一年六月十三 白旗神社 (鎮霊碑の後ろが拝殿) |
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【白旗神社「弁慶の力石」】 力石の起源は、石占(いしうら)といわれています。神社に置かれた特定の石を、老若男女にかかわらず願い事を唱えて持ち上げ、その重い・軽いの感触によって願い事の成否・吉凶を占っていました。 しかし、時代の流れによって娯楽や鍛錬のための力試しになったといわれています。 白旗神社「弁慶の力石」はその昔、神社の西側古美根茶屋(現、古美根菓子舗)前に置かれ、茶屋で一服する近郊農家や町内の力自慢がこの石を持ち上げ力比べをしたといわれています。 この石は神石とも呼ばれ、この石に触れると健康になり病気をしないといわれています。 ご参拝の皆様には、この石に触れ、御加護を頂かれますようにご案内申し上げます。 尚、お参りにこられない方・遠方にお住まいの方のために、「弁慶力石守」をお頒け致しておりますので社務所にお越しください。 |
石段を登る手前の右手広場には、新しい社殿と社務所があり、社務所前の生垣の前には鎖で囲われた白玉石のお祓い所があり、その脇に湯立神楽の説明板が立っている。生垣の中には灯籠や枝垂れ桜等の奉納品が多数あった。
また、社務所の奥には義経藤(奉納)、広場の右奥には大きな弁慶藤(奉納)があり、その弁慶藤の前には文化二年建の芭蕉句碑が建っている。
【湯立神楽】 藤沢市指定重要無形民俗文化財(平成8年3月1日指定) 白旗神社を中心に神官により継承されている神事芸能。湯立てを伴う神楽で、湯花神楽、鎌倉神楽等の名称で、藤沢、鎌倉から三浦半島一円におよんでいる。古くは、関東一帯に分布したとされる神代神楽を源流とし、鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の神楽男が伝承し、次第に近隣に定着したものとされる。 「湯立て」という神事手法に組み込まれた神楽には品格があり、舞にも洗練されたものがある。演目は十一で打噺子、初能、御祓、御幣招、湯上、中入、掻湯、大散供、笹の舞、弓祓、最後の剣舞・毛止機で神人共楽の内に終了する。 白旗神社神事 十月ニ八日 藤沢市教育委員会 |
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芭蕉句碑のうしろの藤棚は弁慶藤。 句碑には『草臥(くたひれ)て宿かる比(ころ)や藤の花』と刻まれている。 |
石段手前の左手には、多数の庚申供養塔が並んでいて、その一番手前には江の島弁財天道標が建っている。
【寛文五年庚申供養塔(有形民俗文化財)】 市指定重要文化財(昭和52年4月13日指定) 庚申信仰は、十干・十二支の組合せによって、六十日に一度めぐる庚申の日に、徹夜で無病・息災・長寿を願う信仰である。「人の体内にいる三尸の虫が庚申の夜、天に登ってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる」 とする道教の教えに由来している。 この供養塔の中央上の梵字は釈迦如来(主尊)、続く八字はナモアミダブソワーカーの一呪、下の梵字はここでは青面金剛を表している。猿像の脚ぼその彫刻は、江戸時代初期のものに見かけられるものである。 |
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【江の島弁財天道標(建造物)】 市指定重要文化財(昭和41年1月17日指定) その昔、杉山検校が「多くの参詣者が道に迷うことがないように」との祈念から建てられたものと伝えられる。 もとは四十八基あったといわれ、現在は十基が残存している。いずれもほぼ同型で、この道標も尖頭角柱形の三面に、「一切衆生」
「ゑのしま道」 「二世安楽」と刻まれており、造立者の温情がしのばれる。 |
【眞源寺】 (左側) 11:03
「白旗交差点」に戻って、街道を西進。
小田急江ノ島線に架かる「伊勢山橋」を渡って右折すると「藤沢本町駅」、左の石段を登ると眞源寺。
お寺の謂れ等は無かった。
本堂右手には遊行上人の書がある無縁塔が建っている。 |
【かざり屋】 (右側)
眞源寺前の信号を渡って街道の右側に行くとすぐかざり屋という太陽熱温水器製造店がある。
店の大きな看板が邪魔して歩道からは見にくいが、二階の戸袋には『風神・雷神』の銅板絵が見事である。 只、痛んできているのが惜しい。 逆光と高所に在る為、綺麗な写真は撮れなかったが、一応載せておく。 |
【見附跡】 (右側) 11:10
かざり屋の三軒程隣、中華料理「玉佳」手前の歩道上に見附跡の説明付標柱が立っている。
ここが、藤沢宿の京側入口である。
【見附跡】 見附は宿場の入口に設けられた見張所で、有事の際には関所としても機能しました。石垣の土居を築き榎が植えてあったようです。 |
【若松旅館(行在所)】 (右側)
見附跡から少し進んだ右側に、「藤沢台町郵便局」が入っている「若松ビル」があり、その郵便局隣の階段を数段登った左の壁に若松旅館の説明板と行在所の看板写真が掲げられている。
【「若松」旅館の光栄】 明治初期、東海道藤沢宿台町坂下(現白旗交差点西北角)に「若松」と称する高級旅館が存在した。これは代官江川太郎左衛門の配下で南相模一体を差配し、「鬼の権次」の俗称で住民に畏怖された初代三橋善太郎の経営せるものであった。 当館は左記のとおり明治天皇御宿泊の栄に浴した外、維新の高位顕官、開港に沸く横浜の豪商達に愛顧されたが、東海道の開通後姿を消した。 当ビルは三橋善太郎の後身である藤沢土地合資会社がその住居跡に建設したことから名誉ある「若松」の名を後世に伝えるべく命名された。 平成十二年七月 三橋鐵雄 記 ( 解 題 ) 行在所御札裏書 明治十四年四月廿八日相州愛甲郡於テ 近衛兵実地対抗運動 天覧其 御帰途即四月三十日夜当 三橋慎助方於テ 御一泊之際小官 番ニ候而建設於 御門前ス仍而証 明干落 神奈川県七等属川喜多壮蔵 読み方 明治十四年四月廿八日相州愛甲郡において 近衛兵実地対抗運動 天覧その御帰途すなわち四月三十日夜、当 三橋慎助方において御一泊之際、小官 番にそうろうて御門前において建設、よって証明 ここにおとす 神奈川県七等属川喜多壮蔵 |
【養命寺】 (右側) 11:25
15分弱進んだ所で引地川に架かる「引地橋」を渡る。渡った「引地橋西交差点」から100m程で右斜め上に養命寺がある。
無人の寺だが、この日は法事が終わったあとだったようで本堂の扉が開いていて中を見ることが出来た。
ここには重文の薬師如来像があるが、十二年に一度しか公開しないとの事で、お前立ちしか見られなかったが、普段は中を見ることが出来ないので、開いていてラッキーだった。
【木造薬師如来坐像】 国指定重要文化財(彫刻) (昭和2年4月25日指定) 檜 寄木造り 漆箔 玉眼 像高九〇・五センチメートル 引地山養命時の本尊です。鎌倉初期の量感豊かな優品です。普段は公開していませんが、十二年に一度寅年に公開されています。 薬師如来は、人々の病苦をなくそうと誓って修業し、人間の住む世界からはるか東の彼方にある浄瑠璃世界に住むとされています。古来医薬の仏として信仰され、その形像はほとんどが本尊のように左手に薬の入った壷をのせた姿で表されます。 本像は、大正十二年(1923)の関東大震災で破損し、解体修理をした際、像内に写真下の墨書銘が発見されました。その作風や構造技法の特色とも一致するので、銘記ある建久八年(1197)に制作されたと考えられています。作者は当代を代表する仏師であった運慶の一門、願主は当地域の有力武士だった大庭景義・景廉父子、または三浦義澄・義村父子と推定されています。 養命寺は本像より新しく十六世紀末の創建と伝えられていますが、大庭には十四世紀初めに薬師堂のあったことが知られているので、両脇に安置されている木造日光・月光菩薩立像も鎌倉末〜南北朝期、十四世紀の作とされています。 平成二十年(2008)七月 藤沢市教育委員会 (薬師如来坐像の写真添付) |
【おしゃれ地蔵】 (左側) 11:30
養命時のすぐ先左側におしゃれ地蔵と呼ばれる地蔵(双体道祖神)が小さな祠に祀られている。
顔には白粉と赤い口紅が差され、新しい花が捧げられていたので今でも信仰が絶えない様だった。
【おしゃれ地蔵】 「女性の願い事なら、何でもかなえて下さり、満願のあかつきには、白粉を塗ってお礼をする。」と伝えられており、今でも、お顔から白粉が絶えることがないという。そのような所から、誰からともなく「おしゃれ地蔵」と名付けられたとされる。 形態的には「地蔵」ではなく、道祖神(双体道祖神)の表現が妥当であると考えられるが、土地の言い伝えを大切にしていきたい。 平成七年十二月 藤沢市教育委員会 |
【四谷不動と大山道標】 (右側) 11:50
おしゃれ地蔵をあとに、「メルシャン」の工場前を通過して暫く進むと「四ツ谷交差点」で国道1号線に合流する。旧東海道はこの交差点を左折して、茅ヶ崎市を抜け、平塚市に入るまで国道を歩くことになる。
ここで大山道標が国道の右側にあるので、「四ツ谷交差点」で反対側に渡っておく。
交差点を渡って左折するとすぐ右斜めの細道があり、その三角地に不動明王が乗っている大山道標がお堂の中に納められている。
堂の左横には平成十七年一月に再建された新しい道標、右側には記念碑が建っていた。
【四谷不動(大山道標)】 東海道と大山道が交差する四谷辻に建てられていた道標で、大山不動尊の下、正面に「大山道」、両側面に「これより大山みち」とあります。延宝四年(1676)に江戸横山町の講中が建てたものです。堂外の道標が初代のもので、万治四年(1661)に江戸浅草蔵前の講中によって建てられたものです。江戸時代を通じて、江戸町人の大山参詣が盛んでした。四谷辻には多くの茶屋が立ち並び参詣客を誘いました。今でも七月一日の大山開きには、四谷町内会の年中行事として、辻堂元町の宝珠寺の住職のもと護摩供養が行なわれています。 平成五年二月 藤沢市教育委員会 |
藤沢バイパス道路新設工事ノタメ四ツ谷不動尊移転トナリコレガ敷地藤沢市辻堂字餅塚一番地鈴木得郎氏ノ御好意ニ依奉納サレタ依ツテコレヲ記念シ永遠ニ傳ヘンガ為此ノ碑ヲ建立シマシタ
昭和三十八年二月三日 四ツ谷町内会一同
【一里塚跡】 (右側) 12:00
大山道標のすぐ先の「羽鳥交差点」を渡ると松並木が見えてくる。
松並木の始まる右側に一里塚の標柱が立っているが、説明等は無かった。 |
【二ツ家稲荷神社・庚申供養塔】 (右側) 12:05
一里塚跡から続く松並木を少し進んだ、次の信号手前右側に二ツ家稲荷神社があり、一の鳥居の右側の歩道寄りに庚申供養塔がある。また、境内には二ツ家公民館も建っていた。
【二ツ谷】
江戸時代、大山詣で帰りの道者や信者たちが宝泉寺へ詣り、さらに江ノ島・鎌倉方面へ向う途中の休憩所(立場茶屋)として二軒茶店があったことからといわれています。 又、「二ツ家」が本来の地名であったとも伝えられています。
藤沢市
【二ツ家稲荷神社歴表】
当町稲荷社ハ昔古ヨリ設立延宝七年六月并ニ天明六年九月再築享和三年二月新築天保九年二月再建是マデ修繕致シ束リ今回大破ニ及ビ氏子一同協議之上新築仕リ度何分少数ナル町民負担ニ堪ヘ兼テ有之有志諸氏多少ヲ不満新築費ノ内御寄付被成下度伏テ願
ヒ奉候也 |
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【寛文十年(1670)庚申供養塔】 藤沢市指定重要文化財(昭和52年4月13日指定)
庚申信仰は、十干・十二支の組合せによって六十日に一度めぐってくる「庚申の日」に、その夜を眠らずに過ごして無病・息災・長寿を願う信仰である。その源流は、「人の体内にいる三尸の虫が、庚申の夜、天にのぼってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる」
とする中国の道教の教えに由来している。 |
<昼食> 12:15〜12:30
稲荷神社直ぐ先の「二ツ谷バス停前信号」の左角にある「すき屋」で昼食。
【大山街道入口の石碑】 (右側)
その次の「大山街道入口交差点」を渡った右角の松の木の下に石碑が建っている。ここから右斜めの道が大山道(下記写真の道)なのだろう。
碑の正面には『奉巡禮西国坂東秩父』、右側面には読みにくい崩し字で『あふり山わけ入る道にしおり置くつゆの言の葉しるべともなれ』と刻まれていた。 かつてはこの歌の案内柱が傍に立っていたが今は無くなっていた。 |
【明治天皇御小休所阯】 (右側) 12:42
「大山街道入口信号」の先で、藤沢市から茅ヶ崎市に入る。
道の両側に続く松並木の木陰が嬉しい街道を暫く進み、「赤松歩道橋」を過ぎた右側の民家と駐車場の前に明治天皇御小休所阯の丸い石柱が建っている。 説明文等は無かった。 |
【上正寺】 (右側) 12:50
「東小和田交差点」を過ぎ、「上正寺前信号」を右折すると突き当たりの山門脇に親鸞聖人の像が立つ上正寺がある。
山門を入ってすぐ左側の鐘楼の下に大きな旧寛永寺の石燈籠が建ち、正面奥に本堂が建っている。
お寺の謂れ等は無かった。
【上正寺の聖徳太子像】 茅ヶ崎市指定重要文化財(昭和49年1月23日指定)
木造聖徳太子立像 一躯 寄木造り、玉眼嵌入。上半身は肌部は素木に古色仕上げし、袴は朱彩が施されています。この姿は、聖徳太子が二歳のとき、東方に向かって「南無仏」ととなえ合掌すると、手の中から舎利が出たという伝えを表し、「南無仏太子」とよばれます。 |
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【上正寺の旧寛永寺石灯籠】 茅ヶ崎市指定重要文化財(昭和49年1月23日指定)
東京都台東区上野公園内にある寛永寺に納められていた灯籠が本市にもたらされたものです。寛永寺は徳川将軍家の菩提所で、竿石にある銘から、延宝九年(1681)、前年に亡くなった四代将軍徳川家綱の墓前に、対馬守安藤重治(重博)が奉納したものであることが分かります。 |
【地蔵堂】 (左奥) 13:02
街道に戻って、少し進んだ左側の店舗つきマンション「メゾンドピア2」の所を左に入った突き当たりに地蔵堂が大小二つ建っている。
大きな地蔵堂の中には『奉納 南無地蔵大菩薩』、『念佛講中供養塔』、『百万遍供養塔』と刻まれた石碑も入っていた。 また、地蔵堂の対面や後ろには石仏・石塔群があった。 いずれも説明等は無かった。 |
【千手院】 (左側) 13:10
街道に戻って、次の「小和田信号」手前に千手院がある。
この寺は、境内に入ってすぐ右手に閻魔堂があり、閻魔王様が有名だが、現在は正面の本堂内左手に遷座されていた。 お寺の謂れ等は無いが、2002年のとき見た本堂は改築され、本堂前の見事な生垣も無くなっていた。 閻魔堂は変わっていなかったが、前に「閻魔王様は本堂に遷座です」と書かれていた。 |
【熊野神社】 (右奥) 13:15
千手院の向かいの細道を右に入ると、「廣徳寺」の先に熊野神社がある。
入口の左に『熊野神社』の標柱、右には神社でも時折見かける鐘楼が建っていた。 その鐘楼の後ろの池には小さな太鼓橋と小さな祠が建ち、「東武ワールドスクエア」に行った様で可愛らしい。 |
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次いで鳥居と参道が続き、奥に親子の狛犬に守られて社殿がある。 また、境内には、道祖神や庚申供養塔など石碑が色々あった。 |
【牡丹餅立場跡】 (右側) 13:30〜13:38
街道に戻って「松林小学校入口信号」を越えた「菱沼歩道橋」の手前右側に牡丹餅立場跡の説明板が立っていいて、そこに東海道細目分間之図も載っていた。
ここのバス停のベンチで5分間の休憩を取る。
【牡丹餅立場(牡丹餅茶屋)の跡】 徳川家康は、慶長六年(1601)、東海道に宿場を設けて伝馬の制度を定めました。その後、宿場と宿場の間にも旅人などが休んだりする立場という施設ができてきました。 藤沢宿と平塚宿の間には、四谷、牡丹餅、南湖、八幡の四つの立場ができました。 立場には飲食ができる茶屋がありました。「牡丹餅立場」は牡丹餅が有名なのでそのように呼ばれていました。 また、牡丹餅立場には、紀州の徳川家が江戸屋敷と国元を結んだ専用の飛脚中継所である七里役所も設けられていました。 平成十九年一月吉日 茅ヶ崎市教育委員会 菱沼茶屋町稲荷講中 国土交通省 |
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【東海道細目分間之図】 元禄三年(1690)に浮世絵師菱川師宣が描いた東海道図のうち当市域の一部、小和田村から浜之郷村の間です。 東海道沿いに、牡丹餅茶屋、一里塚、南湖立場の茶屋、鶴嶺八幡社などが描かれています。 海には姥島が見えます。 元禄時代には、牡丹餅、南湖の両立て場が成立していることがわかります。 |
【東海道の松並木】 (右側) 13:46
「茅ヶ崎高校前信号」を過ぎた「茅ヶ崎高校前歩道橋」のすぐ手前右側、校庭フェンス前の生垣の中に東海道松並木の説明板が立っている。
【東海道の松並木】
茅ヶ崎市内の国道一号線沿いの黒松は幹回り(地上より一・二メートルの高さで測定)二・ニメートル(推定樹齢四百年)の大きな松が育っております。 |
【海前寺】 (右奥) 13:50〜13:58
「市立病院入口信号」を越えた次の道を右折すると突き当たりに海前禅寺がある。
山門前の両脇には覆いの無い石造りの仁王像が立ち、寺は白壁で囲われていた。 お寺の謂れ等は無かった。 |
山門手前左手に、二代将軍秀忠菩提の為に奉納した石燈籠が建ち、その左後ろには鐘楼が見える。
山門をくぐって、正面の本堂前の両脇にも、九代将軍家重菩提の為奉納した石灯籠が建っている。
【門前の石灯籠】 この石灯籠は台徳院殿徳川第二代将軍秀忠菩提の為め、慶安四年(1651)辛卯七月、筑後久留米城主二十一万石従四位下有馬中務少補源朝臣忠頼の奉献したものである。 |
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【本堂前左の石灯籠】 この石灯籠は淳信院殿徳川第九代将軍家重菩提の為め、宝暦十一年(1761)辛巳六月十二日、従五位下堀長門守藤原直寛の奉献したものである。 【本堂前右の石灯籠】 この石灯籠は淳信院殿徳川第九代将軍家重菩提の為め、宝暦十一年(1761)辛巳六月十二日、播磨国(兵庫県)安志城主小笠原信濃守源長逵の奉献したものである。 |
【八王子神社】 (右奥) 14:10
街道に戻り「本村交差点」を過ぎた「本村一丁目歩道橋」の手前を右に下った突き当たりに八王子神社がある。
短い石段を上って、首に注連縄が巻かれた立派な狛犬の前を通り、鳥居をくぐるとすぐ社殿がある。
社殿の左前に力石、社殿の左隣に順に本村天満宮、本村八坂神社、本村稲荷大明神社が並び、その社の向いに鐘楼が建っている。
【八王子神社由緒沿革】 【神徳】 家内安全、身體壮健、交通安全、武運長久等の郷土開拓の守護神で、 往古は郷民の崇拝の外、旅人の道中安全祈願のため賑わったと伝えられている。 【沿革】 創立年代は不詳なれど、社領地内に郷民が祖先の墳墓を築き、その霊を社に記して、八王子権現として敬神崇祖の誠を表したものと思われます。 当神社を中心とする一帯を本村と称するは、茅ヶ崎発祥の本源を立証するものであります。 鎌倉幕府開府後は、将士の武運長久を祈る者多く、元弘参年(1333)五月拾八日、新田義貞鎌倉討入の際、當神社に祈請し、神火を拝げて兵勢を挙げ、北条氏を滅し、依って建武貳年(1335)上洛の途次社参し、社殿を改修し奉齋の誠を捧げております。 慶安貳年(1649)徳川将軍家より社領の寄進も有り、延享参年(1746)拾壱月には社殿を大きく再興されております。 天保拾壱年(1840)子歳秋八月、拝殿幣殿が再興されております。 明治維新の際は、八王子権現を八王子神社と改称し、圓蔵寺の別当を停め、明治四拾年(1907)四月指定村社に列格されました。 現在の社殿は関東大震災後、氏子の方々の浄財奉納に依って、昭和貳年(1927)四月、再建されたものであります。 平成貮拾年五月 |
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【力石】 昔、何年頃から行なわれるように成ったかは不詳なれど、祭禮など氏子の若者達が集まった際、この石を持ち上げて己の力量を競い合った事から、誰云うこと無くこの弐個の石を力石と名付けた。 |
【茅ヶ崎一里塚】 (左側) 14:20〜14:25
街道に戻り、相模線の上に架かる跨線橋を越え、右側の「イオン」を通り過ぎると、「一里塚交差点」に着く。
この交差点手前右側の三角地に平成の一里塚、左側に茅ヶ崎一里塚がある。
【平成の一里塚】 一里塚は、慶長9年(1604年)、徳川家康が息子の秀忠に命じ、旅人たちの目安となるよう東海道や東山道、北陸道の沿道に一里(約4Km)ごとに設けられました。塚は、沿道の両脇に築き、大きさは5間(約9m)四方と決められていました。市指定文化財である一里塚は、起点である江戸の日本橋から14番目のものです。現存する一里塚の向かいにあたるこの近辺に、塚があったといわれています。しかし、昭和に入って、道路の拡張に伴い取り除かれてしまいました。 参勤交代の大名行列もとおり、多くの旅人たちが行きかった東海道。記録によると、塚の右側からは姥島(烏帽子岩)が見えたと伝えられています。また、エノキが植栽されていたことが、延享2年(1745年)の『東海道巡覧記』や幕府の道中奉行が作成した『東海道宿村大概帳』などに記されています。 この場所は、歩道整備工事の一環として平成22年、ポケットパークとして整備され、江戸時代の一里塚と同様にエノキが植栽されています。 一里塚は、市内でも数少なくなってしまった近世茅ヶ崎の東海道の面影と、当時の素朴なぬくもりを伝えてくれる貴重な文化財です。南側の史跡「一里塚」とともに「平成の一里塚」として、末永く市民に愛される場となることを願っています。 平成23年10月 茅ヶ崎市 茅ヶ崎市教育委員会 ちがさき丸ごとふるさと発見博物館 |
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【茅ヶ崎一里塚】 茅ヶ崎市史跡(昭和36年8月15日指定) 徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年、慶長六年(1601)、東海道に伝馬の制を制定し、以後江戸を中心とした交通網の整備にとりかかりました。 慶長九年(1604)、徳川幕府は東海道などの一里(約四キロ)ごとに塚を築き、旅人の目安にしました。 東海道は江戸の日本橋を起点にしています。 茅ヶ崎の塚は日本橋から十四番目にあたります。かつては道の両側にありました。 茅ヶ崎市教育委員会 |
【旧寛永寺石燈籠】 (右側)
茅ヶ崎一里塚の次の「茅ヶ崎駅前交差点」は地下歩道でしか横断できない。
その地下歩道に入って、右斜め先のA2出口から国道右側の地上に出ると、右手「茅ヶ崎市役所」手前の木立の中に四基の石燈籠が並んでいるのが見える。旧寛永寺石燈籠である。
【旧寛永寺石燈籠 四基】 茅ヶ崎市指定重要文化財(昭和49年1月23日指定) 東京都台東区上野公園内にある寛永寺に納められていた燈籠の一部が本市にもたらされたものです。寛永寺は徳川将軍家の菩提所で、各地の大名たちは、代々の将軍の供養のために、競ってこのような大きな石燈籠を寄進しました。 本市では、この歴史的な建造物を重要文化財に指定し、保護しています。 並んだ四基の燈籠の竿には、向かって右から、後に記した文字が刻まれています。 これらの銘文から、二番目の燈籠は「巌有院」という おくりな を付された四代将軍徳川家綱の供養のために、 西暦1681年に寄進されたもので、一番目と三及び四番目の燈籠は「浚明院」の おくりな を付された十代将軍徳川家治の供養のために、西暦1786年に寄進されたものであることがわかります。 茅ヶ崎市教育委員会 ちがさき丸ごとふるさと発見博物館 |
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奉献 石燈籠 兩基 (右・一番目) 武州 東叡山 浚明院殿 尊前 天明六丙午年九月八日 従五位下甲斐守大江朝臣毛利氏匡芳 奉献上 石燈籠 一基 (左・二番目) 東叡山 巌有院殿 尊前 延寶九年五月八日 従五位下信濃守丹治姓大関氏増榮 |
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奉献 石燈籠 兩基 (右・三番目) 東叡山 浚明院殿 尊前 天明六丙午年九月八日 稲葉能登守越智弘通 奉献 石燈籠 兩基 (左・四番目) 武州東叡山 浚明院殿 尊前 天明六丙午年九月八日 松平伊賀守源忠済 |
8回目の旅終了(14:35) 「茅ヶ崎駅前交差点」 (茅ヶ崎駅から帰宅)
今回の記録:街道のみの距離は、8.0Km(遊行寺橋〜茅ヶ崎駅前交差点)
日本橋から十四里十六町(56.7Km)。
寄り道を含めた実歩行距離は、 12.9Km(藤沢駅〜茅ヶ崎駅) 総計101.3Km
歩数:17,200歩(2014年) 18,000歩(2015年)
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