黒野田・駒飼宿 (笹子駅 →
甲斐大和駅) <旧甲州街道9回目>
2008年1月4日(金) 快晴
電車で笹子駅迄行き、駅前を10:25スタート。
(注:解説で街道の左側、右側とは下諏訪に向っての左右です)
「大月・花咲・初狩・白野・阿弥陀海道宿」 ← 「目次」 → 「鶴瀬・勝沼・栗原
・石和宿」
<甲州街道の難所笹子峠越えについての注意>
笹子駅を含め駒飼宿を過ぎるまでコンビニ・売店はありません。かつて峠入口にあったコンビニは閉店しています。昼時に峠越えをする人は事前(乗車駅等)に弁当を購入しておく必要があります。阿弥陀海道から続けて歩く人は「笹一酒造」で食料を購入したら良いでしょう。自販機(100円〜)は峠登り口手前にありますので後ほど紹介します。
また、全行程でトイレはありません。笹子駅でも見つからなかったので、必ず電車の中ですませて下さい。不謹慎ながら男性は何とかなりますが、女性は大問題です。5時間以上の我慢を覚悟する必要があります。私達も乗り換えをした大月駅で行ったきり甲斐大和駅まで5時間半我慢 しました。
【黒埜宿笠懸地蔵】 (左側) 10:35
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笹子駅前のJR中央線ガードは、右側の人用の小さなトンネルを潜って進む。150m弱しかないがこちらが旧道である。
ガードから400m程で右手に見える小さな橋を過ぎ、そのまま国道20号線を進むと左手に火の見櫓が見えてくる。その下に写真のように変わった地蔵ある。 之を黒埜宿、笠懸地蔵と呼ぶ、しかし其の由来に就いては今も詳ならず。 創建は安政二年卯五月、十三代将軍徳川家定の天領政治時代と刻字が有る。 此の地蔵創建の根源を考証するとき、遠くは天明、百姓一揆を、農史にとどめた。天保の大飢饉、徳川天領時代の七公三民の重税、領民の生活は農作物等の不作に依る餓死、心中、乞食、其の他の窮乏は後絶たず、領民は襲ってくる苦汁に満ちた諸行を善しかれと地蔵に心願して来たものである。 今は只、笠懸地蔵として伝へる術しか有り得ない。 平成四年 黒埜宿領民説之 |
【黒野田宿】 日本橋から二十 七里ニ十九町十九間(109.2Km)、下諏訪へ二十 五里二十三町五十三間(100.8Km)
天保14年(1843)で人口334名、総家数79軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋14軒。
【本陣跡】 (左側)
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笠懸地蔵から1軒おいた隣の天野宅 が本陣跡で、立派な門が残っている。 旅籠屋も兼ねていたとのこと。 |
【普明禅院・一里塚跡・芭蕉句碑】 (右側) 10:40
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笹子川に架かる「黒野田橋」を渡った右側が「普明禅院」で、写真に写っている門前左側の木柱に『一里塚跡 黒野田』、右側の石柱に『江戸日本橋ヨリ二十五里』と書かれている。左側木柱の裏側(境内内側)には新しい「芭蕉句碑」が建っている。
行くたびに いどころ変わる かたつむり 再び笹子川の「矢影橋」を渡ると右側に「笹子鉱泉」が見えてくる。左側の店で管理している様である。 |
東京より108Kmポストの先左側に「ハッピードリンクショップ」と銘打った自販機が沢山並んでいる場所があります。
『100円〜』と安いのでここで飲料を購入することをお勧めします。特に冬場に弁当を持参した人は、ここでホッとドリンクを購入して保温袋等に入れていけば山頂での昼食で暖かい飲み物が飲めます。
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(左の写真)11:10 国道20号線が大きく右カーブする所に沢山の道標が掲げられている。
ここで『県道212号線』『←笹子峠』『矢立の杉
ここより4Km』と示している方に左折して、国道左側に平行して架かる橋を渡る。 その橋を渡った先で左に曲がり、少し行った所でもう一つの橋を渡るとすぐ「新田下」バス停と青い家があるのでここを右折する 。 |
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右折すると笹子峠の登り口になるが、峠の案内板は右折して振り返った所に掲げられていた。何故曲がる手前に掲げてくれないのだろう。
山道に入るとすぐ正面に大きな砂防ダムが見えてくるので左へ回り、廃車の脇を通ってさらに登って行く。ここからは、かろうじて踏み跡が認められる程度の林の中で、雪が積もっていたらたどることが困難と思われる道である。
残雪や太い霜柱、更に道の真ん中を流れていた水が厚く凍っていたり、倒木が道を塞いでいたりと変化のある中を進んだ。こんな獣道みたいな所が甲州街道なのかと不安を抱 きつつ登って行ったが、やがて左上に県道のガードレールが見えてきたときは正直ホッとした。
正月休みで足が鈍ってしまったのか20分程度の山登りがきつく、最後に県道に上がる所の大きな段差は足が重かった。11:40
県道に上がったら右折してしばらく県道を歩く。下諏訪方面から来た人は左側ガードレールに貼ってある赤いテープの所を降りる。中山道ではおなじみの目印テープが甲州街道にもあったのかと思うと嬉しくなった。この先も 赤テープはあるのだろうか?
赤テープは別として、峠道は案内板が充実しているので迷わず進むことが出来る。
【三軒茶屋跡・明治天皇野立 所跡】 12:00〜12:25
県道は新田沢を渡り、大きく右カーブ次いで左カーブし、3つ目の右カーブに「笹子峠自然遊歩道」の案内板が見えてくる。(左下の写真)11:48
簡単な地図も併設されており、案内板には次のように書かれていた。
この自然遊歩道は、旧甲州街道で左側に谷川のせせらぎを聞きながら登ると、三軒茶屋跡、明治天皇御野立跡があり約800mで矢立の杉に至る。(大月市)
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(左の写真) ここで県道から分かれて、矢印に従ってUターンするように再び山道を登る。 都会では見られなくなった太い霜柱をバリバリと踏みしめながら登ること十数分で石垣のある開けた場所に出る。 (右の写真) ここが「三軒茶屋跡」で、二本の木の間には「明治天皇御野立跡」の石碑が建っている。 広場にはベンチも置かれており、暖かったのと丁度正午になったので持参の弁当を広げた。 |
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【顕彰の記】
過ぐる明治十三年六月十九日大帝本懸御巡行に際し 畏れ多くも此の地天野治兵衛家に御野立あらせられ、聖蹟を永久に残させ給へりと雖も 時代の変遷と文化の発達による中央線の開通は 此の地を過ぐる者をして絶無ならしめ 為めに聖蹟も又口碑に傳ふるに過ぎざりき
聖蹟の主 天野治兵衛氏
之を慨嘆する事多年其の効空しからず 陸軍大将菱刈閣下の御揮毫を得て 記念碑を建立し以って之を永久に傳へんとす
昭和十二年十一月七日
※ 明治天皇御野立所跡記念碑除幕式における笹子村長天野五六様祝辞より抜粋
【矢立の杉】 12:30 〜12:35
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「三軒茶屋跡」を過ぎ、橋の無い小さな沢を二度続けて渡った先の階段を登る。登る途中で振り返ると杉の大木が見えてくる。 矢立の杉の樹幹は中が大きな空洞になっている。外側だけしか無いうえに、内部にまで人が入って踏み固めているので可哀相と思いつつも 、やはり入らずにはいられない。 写真左が「矢立の杉」の全体。右下が空洞に入れる口。 右上が木の中に入って見上げた空。 ここを訪れた人は必ず中から空を見上げた写真を撮り、ホームページに載せているが、そういう私も載せてしまった。
解説に樹齢は書かれていないが、この先いつまで生きながらえるのだろうと心配になる。 【笹子峠の矢立のスギ】 山梨県指定天然記念物(昭和35年11月7日指定) このスギは昔から有名なもので、昔の武士が出陣にあたって、矢をこのスギにうちたてて、武運を祈ったことから「矢立のスギ」と呼ばれてきたものである。 そのような名木であるうえに巨樹であるために、県指定天然記念物にされているものである。 その規模は次のようである。 根廻り幹囲 14.80m 目通り幹囲 9.00m 樹 高 約26.50m 幹は地上約21.50mで折れ樹幹中は空洞になっている。 昭和50年10月 山梨県教育委員会 |
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「矢立の杉」の東屋を過ぎたらすぐ、左に下る道があるので、そちらへ行くのが甲州街道である。但し、沢まで降りてから再び細くて急な坂を登る険しい道である。
右方向へ行く道は、自動車で見学に来た人が使うと思われる県道へ出る楽な道である。 写真では角度が分からないが、これがものすごい急坂で、一気に登ることが出来ず何度も休んでしまった。 写真の一番上がこの道の頂上で、あとは県道に出るまで下りになる。 県道に出た所で12:55。 そのまま県道を左方向へ15分行くと左下の写真の笹子隧道に到着する。13:05 |
【笹子隧道】 登録有形文化財(第19−0022号)
四方を山々に囲まれた山梨にとって昔から重要な交通ルートであった甲州街道。その甲州街道にあって一番の難所といわれたのが笹子峠です。
この難所に開削された笹子隧道は、昭和十一年から十三年まで国庫補助を入れて二十八万六千七百円の工費を投入し昭和十三年三月に完成しました。抗門の左右にある洋風建築的な二本並びの柱形装飾が大変特徴的であります。
昭和三十三年、新笹子トンネルが開通するまでこの隧道は、山梨、遠くは長野辺りから東京までの幹線道路として甲州街道の交通を支えてきました。南大菩薩嶺を越える大月市笹子町追分(旧笹子村)より大和村日影(旧日影村)までの笹子峠越えは、距離十数キロメートル、幅員が狭くつづら折りカーブも大変多いためまさしく難所で、遥か東の東京はまだまだ遠い都だったことでしょう。
昭和前期の大役を終え静寂の中にあるこの隧道は、平成十一年、登録有形文化財に指定されました。
大月市土木事務所
【笹子峠】 13:15
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笹子隧道に到着したら、左の写真の矢印のようにトンネルの右脇を登って行くのが旧道である。 短い登りだが崖のような急坂で、滑りやすいため一部手をつかなければ登れない箇所もあった。 トンネルを潜って行けば2〜3分の道も、旧道を登って越えると20分位掛かる。 登り始めて7分ほどで狭くて窪んでいる峠に到着。 |
笹子峠は4方向を示す道標が立っている交差点のような場所で、右へ登ると「笹子雁ケ腹摺山 約1時間10分」、左へ登ると「カヤノキビラノ頭(三境)約1時間30分」、手前に降りると「笹子駅 約2時間」、真直ぐ下ると「大和村日影 かいやまと駅 約2時間30分」と示されていた。
私達は峠を13:15に出発し、少々寄り道しても甲斐大和駅に15時40分に着いたので道標の時間は余裕を持った時間と解釈できる。
【八ヶ岳連峰展望台】 (右奥) 13:25〜13:35
峠から下り始めてすぐ右手上方に小さな赤い鳥居が見えた。行かなかったが「天神様」らしい。
残雪と落ち葉の気持ちいい道を下ること7分で左カーブし県道が現れる。そのカーブした右側に巫女のような道祖神があった。
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(左の写真) 県道に出たら、真直ぐ横断してガードレールの隙間を更に下る。 左の写真の雪がある所が笹子隧道の西の出口である。 この県道を右へ100mほど下がると東屋の建っている展望台がある。ここからは八ヶ岳連峰が良く見える。 |
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【甘酒茶屋跡】 13:42
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展望台から元のガードレールに戻り(上記左の写真)、細道を5分ほど下ると再び県道に接する所に出る。 江戸時代、笹子峠を往来する人々の憩いの場所として休憩所を設け、甘酒等を売っていた所。
ここで県道には出ずに、「甘酒茶屋跡」木柱の裏側、すなわちガードレールの外側を下って行く。(左の写真で妻が歩いている所) |
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林道の右側に注意しながら少し行くと、前半部分が折れてしまった緑色の「・・・道峠道」の道標が立っているのが見つかるので、ここの細道を右へ谷に向かって下りて行く。 道標の下には朽ちかけた古い道標が転がっていた。
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上の写真の降り口から10分ほどで、倒木を利用した丸太の橋の架かっている沢に出る。(左の写真) 丸太の下には氷の芸術があった。(右の写真)
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左右に新旧の石垣を見ながら丸木橋で沢を渡る。ここの橋は丸太を組み合わせたしっかりしたものである。 但し、両標識とも表示 面は反対側(峠へ登る側)で、左「甲州街道峠道」、右「自害沢天明水」と書かれていた。 「自害沢天明水」方面には行かなかったし、帰ってから調べても何であるかは分からなかった。
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【清水橋】 14:10
視界は開け、やがて柵が整備されている道では左側に山が綺麗に見えてくる。
広くなった草道を下りるとすぐ「甲州街道峠道」の終点である清水橋(県道)に出る。出た所の右側に「笹子峠」の説明板が立っている。県道を左折して清水橋を渡るのであるが、ここから先は旧道が消滅しているので駒飼宿まで県道をだらだら下って行くしかない。
【笹子峠】
徳川幕府は慶長から元和年間にかけて甲州街道(江戸日本橋から信州諏訪まで約五十五里)を開通させました。
笹子峠はほぼその中間で江戸から約二十七里(約百粁)の笹子宿と駒飼宿を結ぶ標高壱千九十六米、上下三里の難所でした。
峠には諏訪神社分社と天神社が祀られて広場には常時、馬が二十頭程繋がれていました。峠を下ると清水橋までに馬頭観世音、甘酒茶屋、雑事場、自害沢、天明水等がありました。また、この峠を往来した当時の旅人を偲んで昭和六十一年二月十二日、次のような唄が作られ発表されました。
甲州峠唄
作詞 金田一 春彦
作曲 西 岡 文郎
あれに白いは コブシの花か
峠三里は 春がすみ
うしろ見返りゃ 今来た道は
林の中を 見え隠れ
高くさえずる 妻恋雲雀
おれも歌おうか あの歌を
ここは何処だと 馬子衆に問えば
ここは甲州 笹子道
この唄の発表によって旧道を復元しようという気運が高まり昭和六十二年五月、清水橋から峠まで地域推進の一環として、日影区民一同と大和村文化協会の協力によって荒れていた旧道を整備して歩行の出来る状態にしました。
佐藤 達明 文
【桃の木茶屋跡】 (右側) 14:23
清水橋を過ぎ大きなカーブを2回曲がった右側に木柱のみ立っている。
甲州街道の往来が盛んなころ、憩いの場所としての茶屋があった所です。
平成十四年三月三十一日 建立 大和村教育委員会
【津島大明神】 (右側) 14:55
「大持沢橋」を渡り、左手上に建っている「飯田コンクリート」の会社入口の所で県道は通行止めのバーが下りていた。雪は殆んど解けていたがこの時期笹子峠には車で行けないようだ。それとも他に理由があるのか明記されていないので不明だった。
この先もショートカットできる道が殆んどなく、県道は大回りしながらひたすら下る。
駒飼の集落が見えてきた所で左に行けそうな道があるが、そのまま県道を進み、最後の大きな左カーブを曲がると宿場の入口に掛かる「天狗橋」に出る。その橋の手前右奥に「津島大明神」という小さな祠がある。
【津島大明神】
古来より郷土を鎮めるための神として、素盞鳴尊を祀ってあります。
(現在の祠は昭和十二年頃建立)
【駒飼宿】 日本橋から二十 九里三十四町五十一間(117.7Km)、下諏訪へ二十 三里十八町二十一間(92.3Km)
天保14年(1843)で人口274名、総家数64軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋6軒。
笹子峠の西麓にあった駒飼宿は、江戸時代には幕府の公用を継立する役目を果たし、旅行者の休泊のため、本陣・脇本陣・旅籠などが設けられた甲州街道の要所として知られていました。
笹子への道の往還を、人が休み、その名の通り馬が餌と水を与えられたこの宿場は、今でも家が建ち並び、往時の雰囲気を残しています。
(駒飼宿本陣趾に掲げられていた説明板より)
【脇本陣跡】 史跡 (左側) 14:57
天狗橋を渡った少し先に消火栓が置いてある空き地があり、その消火栓の脇に「史跡 甲州道中 脇本陣跡」と書かれた白い木柱が立っている。富屋脇本陣趾である。
この地は江戸時代に大名、幕府の役人等の脇役が宿泊するために設けられた所。
平成七年三月二十八日 建立 大和村教育委員会
【本陣跡・明治天皇御小休所址】 (左側) 【萬霊塔】 (右側)
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脇本陣跡に続いて、一軒置いた空き地に「明治天皇御小休所址」の石碑と「史跡 甲州道中 駒飼本陣跡」と書かれた白い木柱が立っている。 また、駒飼宿の説明と往時の宿場の屋号が描かれた絵地図も掲げられている。 |
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「日影」バス停で左折する。(左の写真) 甲州道中駒飼宿と鶴瀬宿を結ぶこの古道は往時の面影を今に伝えています。 |
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松の木から下り坂になり、右カーブして「古道橋」を渡る。 何度かカーブすると目の前に中央高速道路の大きな鉄橋が現れる。 この写真の橋を潜り、左手に可愛い地蔵と道祖神が並んでいる前を通過するとまもなく、日影バス停で別れた県道に下りて行く。
下りた左が国道20号線の「大和橋西詰」交差点である。県道を右へ少し戻ると「笹子峠入口」バス停に日影地区の石碑と駒飼宿の説明、及び甲州街道周辺案内図がある。 甲州街道は、「大和橋西詰」交差点 を左折して鶴瀬宿へ向かう。 |
9回目の旅終了(15:25)
国道20号線「大和橋西詰」交差点。 日本橋から二十九里十八町(115.9Km)。
本日の記録 : 街道のみの距離は、9.1Km(笹子駅前〜「大和橋西詰」交差点)
寄り道を含めた実歩行距離は、12.5Km 21,500歩(笹子駅〜甲斐大和駅)
5時間 20,000歩
街道のみの距離と実際歩いた距離に大きな差があるのは、第1回の冒頭で述べたとおり、江戸時代の峠越えは原則として直登するからです。
「大和橋西詰 」交差点を右折して諏訪神社に寄り、甲斐大和駅より電車で帰宅。
交差点から駅まで約800m。駅までの途中にあった「諏訪神社」と駅の裏手にあった「武田勝頼公之像」に寄る。
【諏訪神社】 (左側)
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鶴瀬、宮本、水野田、丸林区の土産(うぶすま)の神であって、境内には本殿、拝殿、随身門と神木の朴の木、甲州街道の三本杉の一つに数えられていた巨木の切り株がある。 本殿は、延享元年(1744)九月吉日、南巨摩郡下山村の棟梁、土橋文蔵により再築されたものである。本殿の周囲に刻まれた竹林の七賢人、上り龍、下り龍等の彫刻は甚だ巧妙であり、その華麗さは類を見ない。 なお、本殿は県指定文化財となっている。 本殿の裏にある神木の朴の木は、二千数百年を経たといわれており、幹は幾度か枯れては根元から発芽し、現在に至っている。 この朴の木は、日本武尊がこの地に憩った折り、杖にしたものが発芽したものと伝承されている。古来からこの神木を疎かにすると、不祥の事件が起こると信じられているので、神意にさからわないようししている。 平成元年三月建立 大和村教育委員会 |