保土ヶ谷宿 (洪福寺 → 戸塚駅) <旧東海道6回目>
2002年5月1日(水) 曇一時小雨
二人旅。(「洪福寺バス停」~JR「戸塚駅」)
2013年6月5日(水) 快晴
「松原商店街入口交差点(洪福寺バス停)」(12:00)から「保土ヶ谷二丁目バス停」(15:10)までの一人旅。
2013年10月27日(日) 快晴
「保土ヶ谷二丁目バス停」(9:50)から「戸塚駅」(14:15)までの一人旅。
(注1:文中で街道の左側、右側とは京都に向っての左右)
(注2:このページでは、三回分をまとめた形で編集する為、途中経過時間は省略)
【江戸方見附跡】 (左側)
国道16号線(八王子街道)と交差している「松原商店街入口交差点」を渡って少し進んだ「ほうさい殿第二駐車場」前に江戸方見附跡の案内板が立っている。
【江戸方見附跡】 (歴史の道)
「東海道分間延絵図」によれば、芝生(しぼう)の追分から国道16号を越え天王町にいたる途中に保土ヶ谷宿の江戸方見附がありました。保土ヶ谷区郷土史では、天王町391・393番地先(現在の天王町1丁目11-3付近)にあったとされています。
江戸方見附は、各宿場の江戸側の出入口に設置されているもので、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしています(このため「土居」とも呼ばれています)。こうした構造から、見附は本来簡易な防護施設として設置されたことがうかがえますが、同時にまた宿場の範囲を視覚的に示す効果を合わせ持っていたと考えられます。
ここ江戸方見附から京都(上方)側の出入口に設置された上方見附までは、家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内」と呼ばれ、保土ヶ谷宿では外川神社付近の上方見附まで19町(約2キロメートル)になります。大名行列が来ると、宿役人が見附で出迎え、威儀を正して進みました。
平成15年3月 保土ヶ谷区役所
【橘樹神社】 (右側)
江戸方見附跡の少し先に橘樹神社がある。神社の由緒等は無かった。
石の鳥居をくぐって境内に入った右側に大きな明治天皇東幸遺跡碑が建ち、正面の門柱の後ろに一対の狛犬、その奥に社殿が建っている。 この神社の狛犬は、ペリー来航の前年である嘉永五年(1852)に建てられたものである。 |
社殿の左手に力石三つと延宝六年の石盥盤(いしだらいばん)が置かれている。その奥に青面金剛と神田不動尊のお堂が並んで建っている。
【力石 三個】 たすき石、さし石などの異名であるを思へば、人がその力のかぎりを神に捧げ或は天地神明に誓うと云う原始信仰の神事に由来するものであらう。後世はこの石でもて遊び民俗風習となって各地に分布した様である。 【石盥盤】 保土ヶ谷区郷土史に天王社へ江戸より石盥盤寄進せらる延宝六年霜月と明記されている。延宝年間は350年前である。 |
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【青面金剛(しょうめんこんごう)】 ◎寛文九年(1669年)二月合掌六手青面金剛 ◎青面金剛としては横浜市最古であり、また六手青面金剛としては県内でも最古の像と思われる。 青面金剛像は、寛文の始め頃から江戸の石工を中心に作られるようになり、やがて地方にも普及した。 ◎青面金剛は下二手に弓と矢を持つのが、普通であるが、この像は弓矢の代わりに羂索と棒を持っている。 青面金剛は、もと流行病を流行らせる悪鬼であったがのち改心して病を駆逐する善神となったとされている。儀軌に示された青面金剛は、三叉戟、輪、羂索、棒を持った四手の青鬼であるが、この像はこれに合掌二手を付け加えて善神に変わったあとの姿を表現しようとしたもので青面金剛像の成立道程を示す貴重な像である。 ◎青面金剛は必ず炎髪で作られるものであるが、この像は丸い髪である。 円髪、後頭部の光輪、太く短い棒などは同じ時代に京都土産として各地に持ち帰られた大津絵の影響を示すもので他に類例を見ない。 青面金剛は江戸時代の代表的な像である。 平成五年十月吉日 橘樹神社宮司謹書 区内桜ヶ丘在住郷土史家 大畠洋氏著『保土ヶ谷の謎と謎解き』による |
【旧帷子橋跡】
橘樹神社の直ぐ先で帷子川に架かる「帷子橋」を渡って、相模鉄道本線の「天王町駅」ホーム下をくぐると、目の前の「天王町駅前公園」に旧帷子橋跡がある(下記【保土ヶ谷宿】の現在の写真参照)。
公園入口に『江戸日本橋より八里』と刻まれた石柱が立っている。また、その横の『歴史の道』道標に『→旧古町橋跡 230m・↑問屋場跡 900m・↑本陣跡 1270m・↓江戸方見附跡 690m』とあった。
【旧帷子橋跡】 横浜市地域史跡(平成10年11月9日登録)
江戸時代、東海道が帷子川を渡る地点に架けられていた帷子橋は、絵画に描かれたり、歌や俳句に詠まれるなど、保土ヶ谷宿を代表する風景として知られていました。中でも初代広重の「東海道五十三次之内 保土ヶ谷」は特に有名です。
大橋や新町橋などとも呼ばれていた帷子橋について、『新篇武蔵風土記稿』の帷子町(保土ヶ谷宿のうち)の項には、「帷子橋 帷子川ニ架ス板橋ニテ高欄ツキナリ、長十五間、幅三間、御普請所ナリ」という記載がみられ ます。
昭和三十九年(1964)七月に、帷子川の流れがそれまでの相鉄線天王町駅南側から北側に付け替えられたのに伴い、帷子橋の位置も変わりました。かつての帷子橋の跡地は、現在の天王町駅前公園の一部にあたります。
横浜市教育委員会
【旧古町橋跡】 (右奥)
「天王町駅前公園」前を右折した「帷子公園」の先のマンション駐車場の角に旧古町橋跡の説明板が立っている。
【旧古町橋跡】 歴史の道
江戸時代初期の東海道
現在知られている「旧東海道」は、慶長6年(1601)に保土ヶ谷宿が成立した当時のものではなく、慶安元年(1648)に竣工されたもので、それまでは追分(宮田町1丁目)から上方方面の東海道はここを通っていました。現在、追分から神明社あたりまでの道筋は判明していますが、そこから境木までの道筋には諸説あります。
古町通
このあたりには江戸初期まで屋敷や寺が多くありましたが、新道の造成に伴い屋敷は新道沿いに移され、新しい街並みを形成しました。ここから追分へ至る道は「新町」(現:岩間町、帷子町)に対比して「古町通」と呼ばれ、元禄年間の書物には「古町通屋敷跡」の字(あざ)が見られます。
旧古町橋
この場所には江戸時代初期の東海道が帷子川をわたる「古町橋」がありました。慶安年間の新道の開通にともなって架けられた旧帷子橋は、これに対応して、「新町橋」と呼ばれていました。また、かねてから暴れ川として氾濫を繰り返していた帷子川の改修が昭和38年(1963)に決定され、帷子川の流路は北側に変更されました。それにともない、現在の古町橋は昭和41年(1966)に、ここから約120メートル北に架設されています。
平成16年3月 保土ヶ谷区役所
【保土ヶ谷宿】 日本橋から8里9町(32.4Km)、次の戸塚宿迄2里9町(8.8Km)、三条大橋へ117里24町(462.1Km)
天保14年(1843)の人口2,928人、総家数558軒、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠屋67軒。
安藤広重の東海道五拾三次之内・保土ヶ谷『新町橋』 2002年アシカの「タマちゃん」で有名になった帷子川に架かる新町橋を前景に、神戸町、岩間町、保土ヶ谷町へ続く宿場町を描いている。 |
旧帷子橋跡 |
保土ヶ谷は新町ともいった。もともと保土ヶ谷の宿場は新町橋(帷子橋)より北西にあったが、慶安元年 (1648)に新しい道ができたと共に、帷子町、神戸(ごうど)町、岩間町の 三町も移転してきて、新宿場町ができた。新しくできた町なので新町といった。この先保土ヶ谷町と続く。
【香象院(こうぞういん)】 (右側)
旧帷子橋跡に戻って大通り(環状1号)を6分程進んだ「大門通り交差点」先に香象院がある。
街道に面して大きな鉄釜が左右に置かれているが、かつて本堂の前に置かれた天水桶(消火用の雨水を溜める桶)で、本堂再建の折に門前に移し、危険防止のため蓋を付けたとのこと。 門を入って左側のお堂には延命地蔵菩薩など七体の地蔵が祀られている。 境内に「新四国東国 第二十六番 薬師如来」の標柱が立っていた。 |
【見光寺】 (右奥)
香象院から一つ置いた隣に見光寺がある。
境内に保土ヶ谷出身の青木雨彦の句碑がある。墓もあるそうだが見つけることは出来なかった。
【青木雨彦 コラムニスト】 一九三二年横浜市保土ヶ谷区に生まれる 都会的辛口の文章で独特の境地を拓く 一九九一年三月没 当寺に眠る。 一九九三年二月二十八日 建立実行委員会 刻まれている句は、『塗箸の 剥げて小芋の 煮ころがし 雨彦』 |
【天徳院】 (右奥)
見光寺の次の角を右に入った突き当りに天徳院がある。
天徳院には入らなかったが、入口に『本尊地蔵大菩薩』の大きな石碑が建っている。 後で調べたところ、地蔵菩薩坐像が厨子の内に安置され、胎内には運慶作と云われる地蔵尊を蔵しているとのこと。 |
【大蓮寺】 (右奥)
天徳院の左隣に大蓮寺がある。
石段入口の看板と石段途中右側の石碑には『日蓮大聖人 帷子の里 御霊場』と刻まれている。 |
山門をくぐった正面に本堂があり、その左手前に『徳川家康公側室 おまんの方 御手植 柘榴』と刻まれた石碑と二代目の柘榴(ざくろ)の木が植栽されている。
おまんの方は熱心な日蓮宗の信者だったので参詣の折に寄進されたとのこと。ちなみに、これから行く戸塚駅近くの「清源院」はおまんの方が尼になった寺で『於万の方火葬趾
供養碑』がある。
【宗祖感得釋尊像安置】 仁治三年(1242年)日蓮大聖人御年二十一才の時、房州清澄山より比叡山へ陸路御遊学の途次、東海道保土ヶ谷宿、浄土宗の一民家に御宿泊の砌り、家兒釋尊像を玩弄せるを見たまいて、その本末の誤れるを教示し、自ら開眼感得せられたる釋尊像を安置す。 建長五年(1253年)四月、大聖人開宗の際、その家主大聖人に帰依し、己が邸宅を法華堂と改め、寛永ニ年正住院日圓上人の代に、御霊跡妙栄山大蓮寺と稱するに至りたるものなり、後、養珠夫人(おまんさま)帰依参詣の折、中老僧日法上人御眞作の宗祖木像及び境内に柘榴一株の寄進を受け、法運愈々隆昌に現在に至る。 昭和五十一年四月二十八日 御霊跡 大蓮寺 |
【旧中橋跡】 (右側)
街道に戻り、すぐの「反則センター交差点」の手前右角に旧中橋跡の説明板が立っている。
この交差点を右折した突き当たりに遍照寺がある。この寺の本尊である木造薬師如来坐像は横浜市指定有形文化財。
【旧中橋跡】 歴史の道 今井川の改修 かつて今井川はここで宿場を横切っており、「中橋」が架けられていました。その川筋は慶安元年(1648年)に新しい保土ヶ谷宿が建設された際に人工的に造られたものでした。しかし、その流路の構造から大雨のたびにここで水が滞り、しばしば下流域を浸水することになりましたが、なかなか改善されませんでした。 しかしながら幕末にいたって人馬の往来が急増してきたため、嘉永5年(1852年)宿場では改修費用100両を準備するとともに、町役人が200両の借用を代官に陳情し、認められるとただちに現在の川筋に改修されました。 保土ヶ谷宿と品川台場建設 今井川改修で発生した多量の残土の処理に困った名主苅部清兵衛は、当時建設中だった品川台場(外国の侵入に備えた砲台)の埋め立て用の土として幕府へ献上することを申出、3000立坪(約18,000m3)あまりの土を船で品川に運び、この問題を解決したと伝えられています。 |
【遍照寺】 (右奥)
「反則センター交差点」を右に少し入った突当りに遍照寺がある。
この寺の本尊は横浜市指定有形文化財の薬師如来坐像。創建は不詳だが、876年開山と伝えられる。
【遍照寺の縁起】 帷子上町の北裏にあり、古義眞言宗久良岐郡太田村東福寺末、医王山延壽院と號す。開山の年代を傳へず、其後賢海といへる僧寛永十年再興せしにより此を中興開山とす、本尊は藥師なり、相傳ふ此本尊は弘法大師の作にしてもと郡中佛向村寶寺金堂の本尊なりしが、彼堂破却の後他へ傳りついに此寺の物となりて本尊とせしと云、長ニ尺八寸の坐像なり、客殿四間に四間半巽に向ふ、前に石階あり。 新編武蔵風土記稿より |
【助郷会所跡】 (右側)
次の五差路を真っ直ぐ行く細い道が旧東海道、左の太い環状1号線はすぐ保土ヶ谷駅に突き当たり終点となる。
旧街道に入り2分ほど行った右側に時間貸し駐車場「NPC」横に助郷会所跡の標柱が立っている。
標柱の下部には『旧東海道』の表示もあった。
【助郷会所跡】 歴史の道 助郷村々の人馬を手配するため設けられたのが助郷会所です。 各助郷村の代表はここに出勤して問屋場の指示に対応するとともに、村が手配した人馬が不公平な割り当てを受けたり、不当に使用されないよう監視する場所でもありました。 |
【問屋場跡】 (左側)
助郷会所跡の直ぐ先左側に問屋場跡の説明板が立っている。
【問屋場跡】 歴史の道
宿場の公的な業務のうち、幕府の公用旅行者や大名などの荷物運搬(人馬継立)、幕府公用の書状等の通信(継飛脚)、大名行列の宿泊の手配などを担っていたのが問屋場で、宿場の中でも最も重要な施設のひとつです。宿場ではこの業務をつとめるのに十分な数の人足と馬を用意するよう定められていました。問屋場には問屋を筆頭に、年寄、帳付、馬指などの宿役人が詰めていました。
宿場で賄いきれない人馬を、指定された周辺の村々から動員することを助郷、指定された村を助郷村といいます。助郷は東海道が整備されてから交通量が増加してきた17世紀後半頃に次第に制度化されていきました。享保10年(1725)に定められた保土ヶ谷宿の助郷村は全部でおよそ40か村、現在の保土ヶ谷区のみならず、旭・西・中・南・港南・磯子・戸塚等の各区域に及びました。こうした助郷村々は助郷動員の指示に対応するため、問屋場の近くに助郷会所という事務所を設けていました。
高札場は、幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した木の札=「高札」を掲示した施設です。通常、土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲んだ内部に高札が掲示され、屋根がかけられています。宿場の高札場には人馬の駄賃や宿代などを記した高札が掲示されており、宿内の中心地に設置されました。
平成16年3月 保土ヶ谷区役所
【高札場跡】 (右側)
問屋場跡の直ぐ先、右に入る道の角に高札場跡の標柱が立っている。
【高札場跡】 歴史の道 宝暦十三年(1763)に普請された保土ヶ谷宿の高札場は幅二間半(約四.五メートル)高さ一丈(約三メートル)の規模でした。 宿場の高札場には一般の法令等に関するものだけでなく、隣の宿場までの荷物の運搬料金や旅籠屋の木賃(宿泊料)等を細かく記載した高札も掲出されました。 |
【金沢横丁】 (右側)
次の十字路の右角に、歴史の道 金沢横丁の標柱(道標)が立っていて、次のように書かれていた。
正 面:『←→旧東海道 ←本陣跡200m 問屋場跡150m→ 旧帷子橋跡1050m→ 平成23年3月 保土ヶ谷区役所』。 右側面:『←かなさわ・かまくら道 ←道標四基8m ←政子の井戸300m ←北向地蔵590m』(←は旧東海道から見て左折方向)。 |
【金沢横町道標四基】 (左側)
金沢横丁の標柱がある十字路を左に8m入った所に四基の道標が並べられ、後ろに説明板が立っている。
【金沢横町道標四基】 横浜市地域有形民俗文化財(平成元年12月25日登録) ①円海山之道[天明三年(1783)建立] |
【政子の井戸】
金沢横丁の標柱に書かれていた政子の井戸と北向地蔵に寄り道する為、金沢横丁道標の前をそのまま進み、JR東海道線の上岩間踏切を渡り、続いて国道1号線も渡ると、やや細い坂道が見える。その入口に『歴史の道』の案内板があり、下記の案内と付近の地図が載っていた。
『↑かなさわ・かまくら道↓ ↑政子の井戸150m ↑北向地蔵450m ↓金沢横道道標150m ↓旧東海道150m』
『かなさわ・かまくら道』は、先ほどの道標があった保土ヶ谷宿の金沢横町から南下して、現在の蒔田・弘明寺・上大岡・笹下・能見台・金沢八景を通り、六浦陣屋(現在の金沢八景駅近くの六浦藩・米倉氏藩邸)へ至る道(金沢道)で、更にそこから朝比奈切通しを経て鎌倉へ通じている為、『金沢鎌倉道』とも呼ばれていた。
国道1号線の案内板がある正面の「いわな坂」を登って行くと、その途中の右側に竹垣で囲われた御所台(ごしょだい)の井戸(政子の井戸)がある。
【御所台の井戸(政子の井戸)】 横浜市地域史跡 この道は旧金沢道(金沢・浦賀往還)、俗称金沢横町と呼ばれる道で、古くより鎌倉へ至る道として知られていました。この坂は石難坂(石名坂)といい、坂の上の辻に北向地蔵があります。 鎌倉時代、源頼朝の妻政子がここを通りかかった時、この井戸の水を汲んで化粧に使用したと伝えられ、「御所台の井戸」と呼ばれています。 また、保土ヶ谷宿の苅部本陣(保土ヶ谷町1丁目68番地)に江戸時代、将軍が休息した時、御膳水としてこの井戸の水を使用したと伝えられています。 (社)横浜国際観光協会、横浜市教育委員会文化財課 平成4年3月 |
【北向地蔵】
政子の井戸から更に急坂を7分、やっとの思いで登り切った「横浜清風高校」のある交差点を渡った右角に北向地蔵堂が建っている。
【北向地蔵】 横浜市地域有形民俗文化財(平成元年12月25日登録) 所在地 保土ヶ谷区岩井町405番地 時 代 享保二年(1717) 寸 法 地蔵坐像 総高七十三センチ 蓮華座 総高三十一センチ 径 九十四センチ 厚 五十二センチ 角柱 総高 一五〇センチ 幅 五五・五センチ 北向地蔵は、僧三誉伝入が享保二年(1717)に、天下泰平・国土安全を祈念するとともに旅人の道中安全を祈願して建立したものです。この場所は東海道の保土ヶ谷宿の通称金沢横町から分岐した金沢・浦賀往還への途中に所在するため、角柱には「是より左の方かなさわ道」「是より右の方くめう寺道」と刻まれ、金沢方面と弘明寺方面への道案内も兼ねています。 平成六年十一月 横浜市教育委員会 |
【保土ヶ谷宿本陣跡】 (正面)
北向地蔵から元来た道を金沢横丁の標柱がある十字路まで戻り、再び旧東海道を先に進む。
東海道線の踏切を渡って、国道1号線の「保土ヶ谷1丁目本陣前信号」を渡った正面に保土ヶ谷宿本陣跡があり、新しい説明板と古い石の説明板、及び標柱(道標)が立っている。
【本陣跡】 歴史の道 (新しい説明板) 慶長6年(1601年)正月、東海道の伝馬制度を定めた徳川家康より「伝馬朱印状」が「ほとかや」(保土ヶ谷町)あてに出されたことにより、保土ヶ谷宿が成立しました。 東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名は、宿場に設置された本陣に宿泊しました。保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣苅部豊前守康則の子孫といわれる苅部家が代々つとめています。同家は、問屋・名主を兼ねるなど、保土ヶ谷宿における最も有力な家で、安政6年(1859年)に横浜が開港する際、当時の当主清兵衛悦甫が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政に尽くしました。明治3年(1870年)に軽部姓に改称し、現在に至っています。 本陣が混雑した際、幕府の役人や参勤交代の大名は脇本陣に宿泊しました。保土ヶ谷には藤屋・水屋・大金子屋の33軒の脇本陣がありました。 平成15年3月 保土ヶ谷区役所 |
【保土ヶ谷宿本陣跡】 (石の説明文表面)
(1601~1870)
江戸時代に幕府が諸大名に参勤交代をさせため、東海道五十三次の宿場毎に本陣を置いたもの。横浜開港東京遷都の頃までありました。
1965 横浜市長 飛鳥田一雄記
(石の説明文裏面)
父 軽部三郎の五周忌を記念して建てた
1965.9.13 軽部吉久
贈 横浜市南区大岡町 阿久津建設株式会社
ここには、今は使われていないと思われる古い家が建ち、その前に本陣門だけが横木と鎖に支えられて建っている。隣の駐車場から本陣門の裏側を覗いてみたら、2002年に訪れた時に掲げられていた古い説明板が置かれていた。
【保土ヶ谷宿本陣跡】 (2002年当時の説明板) 慶長六年、伝馬の制がしかれ、保土ヶ谷、岩間、神戸、帷子四か町をもって保土ヶ谷宿となった。 宿駅には、本陣(将軍・諸大名の指定宿舎)、問屋(人馬の継ぎ立て、休泊のせわ、旅荷物一切などを取り扱う所)、名主(町村の最高責任者で法律の施行、納税、戸籍等をつかさどる)を置く定めがあった。初代 苅部清兵衛がこの諸役を命ぜられ、代々清兵衛を名のった。 苅部氏は小田原北条氏の臣苅部豊前守康則の子孫。三代吉重の室妙秀尼は樹源寺を開き、八代悦根(?)は苅部姓に帯刀を永代許された。十代悦甫は、横浜が開港されると、町の責任者である総年寄を命ぜられ、横浜町の発展に尽くした。 十一代悦巽のとき明治三年本陣廃止軽部姓に変えた。墓所は大仙寺にある。 昭和四十八年十一月 保土ヶ谷区役所・保土ヶ谷史跡保存会 |
本陣跡前の歩道上に道標(標柱)が立っている。
【標柱(道標)】 歴史の道
正面に 『↑問屋場跡350m ↑旧帷子橋跡1250m ←上方見附・一里塚跡500m』
右側面に『金沢横町200m→ ↑上方見附・一里塚跡500m』 平成16年3月 保土ヶ谷区役所
【近隣旧跡の案内図】 (右側)
「保土ヶ谷1丁目本陣前信号」をもう一度渡って旧東海道の右側に行くとすぐ先の歩道上に保土ヶ谷区役所が建てた旧跡の案内図が掲げられている。
【脇本陣(大金子屋)跡】 (右側)
地図のすぐ先に脇本陣(大金子屋)跡の標柱が立っている。
【脇本陣(大金子屋)跡】 歴史の道 天保年間の大金子屋(八郎右衛門)の規模 建坪119坪(約393㎡) 間口7間(約12.7m) 奥行17間(約30.9m) 室数14 玄関付 平成16年3月 保土ヶ谷区役所 左の写真で、右端に脇本陣跡の標柱が立っている。 また、この写真は「保土ヶ谷1丁目本陣前信号」に向って写しているので、道路反対側のマンションと蔵の間の樹木がある所が本陣跡である。 |
【脇本陣(藤屋)跡】 (左側)
街道を左側に渡ってすぐ「保土ヶ谷橋バス停」前に脇本陣(藤屋)跡の標柱が立っている。
【脇本陣(藤屋)跡】 歴史の道 天保年間の藤屋(四郎兵衛)の規模 建坪119坪(約293㎡) 間口6間半(約11.8m) 奥行18間(約32.7m) 室数14 玄関付 平成16年3月 保土ヶ谷区役所 |
【脇本陣(水屋)跡】 (左側)
続いて「保土ヶ谷消防署・本陣消防出張所」前に脇本陣(水屋)跡の標柱が立っている。
【脇本陣(水屋)跡】 歴史の道 天保年間の水屋(与右衛門)の規模 建坪128坪(約423㎡) 間口8間(約14.5m) 奥行16間(約29m) 室数14 玄関門構付 平成16年3月 保土ヶ谷区役所 |
【保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設】 (左側)
脇本陣(水屋)跡標柱の右に保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設の説明板が並んで立っている(上の写真参照)。
【保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設】 歴史の道
本陣・脇本陣
公用の宿泊・休憩施設として参勤交代の大名などに利用されたのが本陣(1軒)脇本陣(3軒)で、明治3年の宿駅制度廃止まで続いていました。しかし、その格式と引き換えに制約や出費も多く、経営は必ずしも楽ではなかったようです。
正式な本陣に匹敵する規模と格式を持つ茶屋が上方見附付近にあり、「茶屋本陣」と呼ばれていました。苅部本陣を利用しない大名が休息するほか、参勤交代の大名の出迎えもしていたとされています。
はじめは「木賃旅籠屋」といって食事を出さず、旅人が持参した食糧を自炊する薪を提供するだけでしたが、元禄(1690年代)のころから食事や酒を提供する旅籠屋も増えてきました。保土ヶ谷宿の旅籠屋の数は寛政12年(1800)には37軒でしたが、天保13年(1842)には69軒となっています。
往来する旅人が休息するために宿内には茶屋がありました。文政7年(1824)の保土ヶ谷宿には33軒の茶屋があり、金沢横町の茶屋七左衛門が茶屋惣代でした。
平成16年3月 保土ヶ谷区役所
【旅籠屋(本金子屋)跡】 (左側)
消防署から少し行った所に旅籠の面影を残している格子の建物が建っている。建物の前に旅籠屋(本金子屋)跡の標柱が立ち、塀に旅籠の建造物の説明板が掲げられている。
【旅籠屋(本金子屋)跡】 歴史の道 天保年間の本金子屋(伝左衛門)の規模 建坪79坪(約261㎡) 間口7間(約12.7m) 奥行11間半(約20.9m) 室数13 平成16年3月 保土ヶ谷区役所 |
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【旅籠の面影を残す建造物】 まちかど博物館 旅籠 本金子屋跡 ■本金子屋の歴史■ 本金子屋は、江戸時代に旅籠として栄えました。 明治二年に建替えられた現在の建物も、東海道沿いに建つ旅籠の面影を残しています。 過去に国道1号が7mほど拡幅される前は、現在の母屋の前に大名門と前庭がありました。現在、当時の大名門は建物正面の外壁として使われています。 敷地内には本格的な日本庭園(非公開)があります。これは戦後に造られたものですが、四国の石で造られた燈籠や、大正天皇がお忍びで旅をしたときお茶を飲むのに休まれたといわれている石などがあります。 |
【茶屋本陣跡】 (右側)
旅籠屋跡近くの信号で国道の右側に渡り、少し戻った「八幡橋バス停」前の会社のタイル塀に『東海道五十三次 保土ヶ谷宿』の町並パネルが埋め込まれている。それには「江戸時代末期の元治元年(1864)に徳川幕府が調査した往還町並絵図をもとに想像復元したもの」という本陣から上方見附間約270mに並ぶ建物が1/300の縮尺で描かれている。
そこから再び信号まで戻り、その先、軽部家前の歩道上に茶屋本陣跡の標柱が立っている。
【茶屋本陣跡】 歴史の道
元治元年(1846)の茶屋本陣(九左衛門)の規模
建坪63坪(約208㎡) 間口10間半(約19.1m) 奥行6間(約10.9m) 室数8 門構付
平成16年3月 保土ヶ谷区役所
【一里塚跡・上方見附跡】 (左側)
国道の左手を流れる今井川が国道に接したところに架かる「瀬戸ヶ谷中橋」の先の歩道上が緑地になっており、手前から小振りの一里塚、次いで見附の石垣が復元されている。
この直ぐ先が保土ヶ谷宿の京都側の出入口になる。
【歴史の道】 一里塚跡 街道の距離の目安として、一里ごとに設置されたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土盛した小山を作り、その上に遠くからでも目立つよう榎など木々が植えられていました。この付近にあった一里塚は、江戸から八番目のものです。 上方見附跡 保土ヶ谷宿の京都(上方)側の出入口となる上方見附は、保土ヶ谷区郷土史によれば、外川神社の前にあったとされています。 見附は、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしており、「土居」とも呼ばれています。この上方見附から江戸方見附までは、家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内」と呼ばれています。 平成15年3月 保土ヶ谷区役所 |
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上の写真の奥に見える仙人橋から写した一里塚と松 |
【東海道保土ヶ谷宿の松並木と一里塚】
保土ヶ谷宿の松並木 |
【外川神社】 (左側)
一里塚の後ろの仙人橋を渡った所に、横浜市の名木古木に指定されているケヤキが聳え、その奥に外川神社が建っている(左下の写真)。
短い坂道を登ると新しい狛犬が建ち、その足元には古い狛犬が置かれていた。狛犬の後ろに燈籠が立ち、社殿はコンクリート製だった(右下の写真)。
その右隣に道祖神社と稲荷社が建っていてこの二社は他から現在地に移設されたものである。
【外川神社の由来】 外川神社は、保土ヶ谷宿内の羽州湯殿山の講中の先達であった清宮興一が、湯殿・月山・羽黒の三山の霊場を参拝し、明治二年、この地に羽黒山麓の外川仙人大権現の分霊を勧請したもので、以来、小児の虫封じ、航海安全に利益があるとされてまいりました。 明治初年、神仏分離令の発布によって祭神を日本武尊とし、外川神社と改称しました。 そして平成六年九月十三日、今井川河川改修工事にともない、無格社外川神社は宗教法人として認可され現在に至りました。 平成九年十二月吉日 |
【樹源寺】 (右側)
外川神社の先の「岩崎ガード信号」に架かる「保土ヶ谷歩道橋」で国道の右側に移っておく。次の「保土ヶ谷二丁目信号」で国道と旧道が二又に分かれていて、旧東海道は右の細道に進む。
その二又の角に『歴史の道』の道標が立っていて、右方向の矢印には『旧元町橋跡450m』とあった。
旧道に入って300m進んだ右側に樹源寺があるが、「檀家と関係者以外の拝観は申出が必要」と書かれていたので、山門から覗いただけで早々に引き上げた。
【旧元町橋跡】 (右側)
樹源寺から3分程進んだ右側に建つ「横浜市保土ヶ谷消防団 第一分団 第二班」左横のゴミ置き場の後ろに旧元町橋跡の標柱が立っている。建物の陰になっているので見落としに注意。
【旧元町橋跡】 歴史の道 保土ヶ谷区郷土史(昭和十三年刊)によれば、明治時代の東海道線鉄道工事以前の今井川はここで街道を横切っていました。 橋は江戸時代の「東海道分間延絵図」にも描かれています。また、かつての字名は、ここから東側を「元保土ヶ谷」、西側を「元保土ヶ谷橋向」となっていました。 平成16年3月 保土ヶ谷区役所 |
登り口の右角に『歴史の道』の道標が掲げられていて、『↑境木地蔵尊1.5Km ↑権太坂 →本陣跡1.7Km』となっていた。 |
碑面には『旧東海道・権太坂 改修記念碑 昭和三十年十月吉日建之 横浜市長 平沼亮三』と刻まれている。 |
【権太坂】 横浜市地域史跡(平成15年11月4日登録) この辺りは、権太坂と呼ばれる東海道を江戸から西へ向かう旅人がはじめて経験するきつい登り坂でした。 日本橋から四番目の宿場であった保土ヶ谷宿まではほぼ江戸内湾沿いの平坦地でしたが、宿の西にある元町橋を渡ったあたりより、長く続く険しい登り坂となります。 「新編武蔵風土記稿」に、名前の由来は、道ばたの老齢の農民に旅人が坂の名を聞いたところ、耳の遠いこの老人は自分の名を聞かれたと思い、「権太」と答えたため、とあります。また、坂の上から目の下に見える神奈川の海は大変美しかった、とあります。 旅人にとっては印象深い場所になり、浮世絵などにも描かれる保土ヶ谷宿の名所ともなりました。 平成十六年三月 横浜市教育委員会 |
【投込塚之跡】 此の地は権太坂投込塚と稱し旧東海道品濃坂につぐ難所であって 往時旅人の行倒れせし者多く之を埋葬せる處也 偶々當地区開発に当り多数の白骨を發掘現在平戸町東福寺境内にて再埋葬供養碑を建て之が菩提を弔ひ在者也 昭和三十九年四月建之 |
【境木立場跡】 歴史の道 立場茶屋 宿場と宿場の間に、馬子や人足の休息のためなどに設けられたのが立場です。中でもここ、境木の立場は権太坂、焼餅坂、品濃坂と難所が続くなか、見晴らしの良い高台で、西に富士、東に江戸湾を望む景観がすばらしく、旅人が必ず足をとめる名所でした。また、茶屋で出す「牡丹餅」は境木立場の名物として広く知られており、たいへん賑わったということです。「保土ヶ谷区郷土史(昭和13年刊)」によると、こうした境木の立場茶屋のなかでも特に若林家には明治中期まで黒塗りの馬乗門や本陣さながらの構えの建物がったとされ、参勤交代の大名までもが利用していたと伝えられています。 平成16年3月 保土ヶ谷区役所 |
2013年10月現在 2002年5月現在 |
境木立場跡の向かいにあるお屋敷の門。 2002年に訪れた時の写真と、2013年に再度訪れた時の写真を並べてみた。 ご覧の通り、門の両側の木は同じようにあったが、門と塀の雰囲気がかなり違っていた。 |
【保土ヶ谷観光名所 境木地蔵由来】 ここ境木は、武蔵・相模の国境で、江戸時代にはそのしるしが建てられていて、境木の地名はそれからおきたと いわれています。 また境木は東海道中の難所であった権太坂を登りきった所にあり、名物の牡丹餅を食べながら旅の疲れを休めることができて大変賑わったとも伝えられています。 境木の名を有名にしたものは地蔵で、江戸の人達にも崇敬され今でも境内に寄附された燈籠が残っています。 なおこの地蔵には次のような珍しい伝承があります。即ち、いつの頃か相模国鎌倉腰越の海辺に漂着した地蔵が土地の漁師の夢枕に立ち、「俺は江戸の方に行きたい運んでくれたらこの海を守ろう」と告げたので、漁師たちが江戸へ運ぶ途中此の境木で動かなくなった為、村人達は地蔵を引き取りお堂を建てて安置したところ、それからは村が繁盛したということで す。 地蔵堂の鐘は、明治になって野毛山の時の鐘に使用され横浜市民に大正の大震災まで親しまれ ました。 平成元年十月四日 岩間町見光寺 |
【境木の由来】 (柱の裏面) ここは武蔵国と相模国の国境で、江戸時代にはそのしるしとして傍示杭(ぼうじぐい)あるいは境杭(さかいぐい)と呼ばれる木柱が建てられ、「境木」の名の由来になったと伝えられます。またケヤキの大木があったとの説もあります。 (柱の表面) この武相国境モニュメントは、ほどがや協働まちづくり工房が企画し、 保土ヶ谷在住の横浜マイスターにより制作されました。 (左の写真で、木柱の右後ろが境木地蔵) |
【焼餅坂】 旧東海道を戸塚方面に下るこの坂は「焼餅坂(別名:牡丹餅坂)」と呼ばれています。 武蔵国と相模国の国境にあたる権太坂と焼餅坂は、昔の旅人にとって日本橋を出発してから最初の難所でして。 このあたりには、一服する旅人を目当てにした茶屋が並んでおり、坂の傍らで焼餅を売っていた事がこの坂の名の由来だと言われています。 |
【萩原代官屋敷跡・萩原道場跡】 萩原家は代々旗本杉浦海の代官職として、この地に屋敷を構えました。旗本杉浦氏は、県下では茅ヶ崎市小和田・菱沼・平塚市四之宮・寒川町宮山・市内では平戸を所領としていました。 幕末から明治初年の当主太郎行篤は嘉永4年(1851)直心影流の免許皆伝を得、ここに道場を開きました。道場には数多くの剣客が訪れ、萩原家所蔵の「剣客名」には「安政5年(1858)8月、天然理心流近藤勇」の名が記され、慶応2年(1866)9月までの入門者の総計が225名に達したといいます。現在の保土ヶ谷区・戸塚区・鎌倉市から三浦市にかけて、また、平塚市・茅ヶ崎市・寒川町等の広範囲にわたる門弟のため、出稽古を行っていました。 明治45年には萩原家敷地内に「剣道師範萩原君碑」が建立されています。 (社)横浜国際観光協会 横浜市教育委員会文化財課 平成3年3月 |
左の塚(東側) 右の塚(西側) 右塚の頂上(品農一里塚公園) |
【品農一里塚】 (説明板)
慶長九年(1604)徳川幕府は、五街道を整備し、あわせて宿場を設け、交通の円滑を図りました。 それと同時に、当時あいまいであった駄賃銭を決めるために、江戸日本橋を起点とした距離が判るように、明確な里程標が必要になりました。そのため街道の両側には、一里(約四キロメートル)ごとに五間(約九メートル)四方の塚が造られ、塚の上にはエノキやマツが植えられました。これが一里塚です。 一里塚は、旅人にとって旅の進みぐあいがわかる目印であると同時に、塚の上に植えられた木は、夏には木陰をつくり、冬には寒風を防いでくれるため、旅人の格好の休憩所にもなりました。そのため、一里塚やその付近には茶店ができ、立場が設けられるようになりました。 ここ品農の一里塚は、日本橋から九番目の一里塚で、保土ヶ谷宿と戸塚宿の間に位置しています。旧東海道をはさんでほぼ東西に二つの塚があり、地元では一里山と呼ばれていました。東の塚は平戸村内に、西の塚は品農村内に位置し、西の塚にはエノキが植えられていた ようです。 このように、今でも道の両側の塚がともにほぼ当時の形で残っている所は、神奈川県内でもこの一里塚だけであり、昭和四十一年に県の史跡に指定されました。 平成七年六月 横浜市教育委員会 |
『福壽観音縁起』等によると、東戸塚地区の開発と新駅誘致の中心となった、観音菩薩を信仰していた新一開発(株)の福原政二郎社長が願主となり1982年ここに一宇を建立。 また、『東戸塚駅沿革概略記』等によると、地元住民の長年の請願運動の末に福原政二郎が中心となって1980年に開業した駅で、福原が多額の工事費を負担したことなども含め、同氏が個人で造り成したものと称しても過言でない駅と云う。 |
【品農坂上】 旧東海道 品農坂は、朝早く江戸を発ち、日暮れまでに戸塚宿へと向う旅人には宿場町までもう一歩の所です。一方、江戸方面へ向かう人にとっては最後の急な上り坂で、この難所を越えれば境木の立場まであと一息でした。海も見えてきて、江戸へ思いを馳せていたかもしれません。写真は明治初期の品農坂です。 |
それによると、陸橋を左に下りた所で右折し、すぐ左折するのが旧街道である。 写真で階段を降りた奥に見える道。 |
右側の「山崎製パン」を過ぎ、「ポーラ横浜研究所」の正門を過ぎたら、左側コンビニの隣に白壁の蔵が建っている(左の写真)。 街道の雰囲気があるが何かは不明であった。 |
【柏尾の大山道道標】 横浜市地域史跡(平成元年12月25日登録) 大山は、江戸時代から広く関東一円の人びとのあいだに信仰されていた。大山道はこうした参詣者の道で、旧東海道から大山の入口が柏尾で す。 大山道への道標は次の四基で、ほかに燈篭一基と庚申塔一基があります。 ①漢文十年(1670)の建立。建立者は柏尾村。五處の橋供養をかねます。 ②正徳三年(1713)の建立。半跏の不動明王像(石造)を主体とします。建立者は柏木藤左衛門ほか。 ③享保十二年(1727)の建立。建立者は江戸神田三河町の商人越前屋小一兵衛。 ④明治五年(1872)の建立。建立者は下総葛飾郡加村、船大工鈴木松五郎。 庚申塔は、延宝八年(1680)、柏尾町施主拾五人により、燈篭は、元治二年(1865)、松戸宿の商人によって建立されたもので、大山信仰のひろがりが知られています。 道標をふくめた六基は、近代になって現在地に集められたと考えられます。 平成二年三月 横浜市教育委員会 |
【益田家のモチノキ】 神奈川県指定天然記念物(昭和56年7月17日指定) モチノキ(モチノキ科)は暖地に生育する雌雄異株の常緑広葉樹で、高さは通常三~八メートルに達し、四月頃に黄緑色の群生した小さな花を咲かせ、球形の果実を付けて赤く熟す。この樹皮より鳥もちを作ることからモチノキの名の由来があり、古くから人々に良く親しまれている木である。 指定された「益田家のモチノキ」は、国道一号の旧東海道に面し、樹高十八メートル、目通り二・四メートル、根回り三・一メートル雄株と、これより〇・七五メートル離れて並ぶ、樹高十九メートル、目通り三・二メートル、根回り四・九メートルの雌株の二本である。これほどまでに生長した大木は他にほとんど類を見ないばかりか、共に美しい樹冠で接しているのも珍しい。 「相模モチ」の愛称で郷土の人たちから愛され、なじまれてきたこのモチノキ二本は、稀有な大木となって今なお樹勢もきわめて旺盛であり、旧東海道に面してきたという歴史的背景もあるので、将来にわたり永く保護することが望ましく、神奈川県指定天然記念物に指定するものである。 神奈川県教育委員会 |
ここから護良親王首洗井戸と四つ杭跡へ寄り道をする。 史蹟への小径に入ったら、この先全て突き当りを右折、左折、右折、左折と4回曲がると、新しい住宅地に入り赤い道になる。 住宅地を更に進むとY字路になっている真中の緑地帯手前に護良親王首洗井戸と刻まれた石碑が建ち、その後ろに枯井戸がある(左上の写真)。 更にその奥に四つ杭跡の碑が建っていて、裏面に由来が刻まれていた。 2002年に訪れた時は井戸に蓋が無く、周りは綺麗になっていたが、2013年の時はごく浅い井戸にもかかわらず格子の蓋がかぶせられ辺りは雑草だらけだった。 (下の写真で左が2013年、右が2002年に撮影した首洗井戸) |
【由来】 柏尾の里は古来より北から南へと鎌倉道が通じる地にして皇統第六十九代後醍醐天皇の皇子護良親王を偲ぶ伝説を秘めた里なり 元弘の昔天皇の理想の意に従い幾多の苦難を克服され武家政治を退け天皇親政の御代建武中興の偉業を成就され其の實りを念願せし皇子であらせられたが再び武家の陰謀にて建武元年十月京の都より鎌倉薬師ヶ谷理智光寺に送られ幽閉の身と成れり 先に中納言藤原藤房卿は親王の有事を予期し諫言を残し朝廷を失踪し直ちに吉野郡十津川郷に駆り親王に供奉せる数名の同族武将と共変装して柏尾に潜入し親王を奪還に智謀を廻らし厳に鎌倉の動向を窺いしもついに建武二年七月廿二日夜足利高氏の下僕義博の刃に弑殺の悲運に至る郷士達は御首だけは渡すまじと格闘自刃の末に奪守し柏尾の里まで捧げ来りて清水で淨め四本の杭を打ち祀檀と成し平伏し供養す 時に側女三位局南の方は深い悲しみの内に珠念され藤房卿の計にて東山道を京に向われたと聞く首洗い井戸と併せ四っ杭谷戸と往古より傅へ聞く地なり 昭和六十二年三月十五日 建武中興六百五拾年記念事業委員会 建立 |
石巻(康慶)五太夫は小田原北条氏の家臣で豊臣秀吉の小田原攻めのとき北条方の使者でした。北条氏滅亡後、鎌倉郡中田村で謹慎していた五太夫が、天正十八(1590)年江戸に入る徳川家康をこの辺りで出迎えたところから、五太夫橋の名がついたといいます。泉区の中田町には五太夫の墓があります。 |
【宝蔵院】 真言宗のお寺で天文十六(1547)年に阿闍梨朝興法印が東峰山光圓寺として中興し、本堂を宝蔵院と称しその後は現在地へ移転しました。本尊は不動明王で境内には地蔵堂、日本舞踊芸道精進の扇塚などの石造物があります。 【戸塚不動尊】 寳蔵院は天文十六(1547)年に中興され、御本尊は寛永九(1632)年御作の不動尊である。 以来衆生を守護し導く如来界の使者として御活動下さっている。 真言宗準別格本山東峰山寳蔵院、戸塚観光協会 |
【江戸方見付跡】 (右側)
宝蔵院の斜め向いにあるダイエーの入口左にあるステーキレストラン「フォルクス」の前に江戸方見付跡の碑が建っている。
碑の左側に『横浜市地域史跡 昭和63年11月1日登録』の表示と説明付き旧東海道・江戸方見付跡の標柱が立ち、右側にステンレスの説明板が置かれていた。
【旧東海道・江戸方見付跡】 (標柱) 見付とは、宿場の出入り口のことです。ここは戸塚宿の江戸側の出入り口です。 旧東海道の宿場に設けられた見付は、宿場を見渡しやすいような施設となっていることが多いようです。参勤交代の大名らを、宿役人がここで出迎えました。 (戸塚区役所) 【江戸方見付跡】 (ステンレス板) 江戸時代に、戸塚の宿で町並みを形成し、二十町十九間を宿内とし、その両端に道を挟んで見付を築き、これを宿場の入口の標識とした。 貴賓の送迎はこれから行はれ、大名行列もこれより隊伍を整えたものである。 |
【戸塚宿】 日本橋から10里18町(41.2Km)、次の藤沢宿迄1里30町(7.2Km)、三条大橋へ115里15町(453.3Km)
天保14年(1843)の人口2,906人、総家数613軒、本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠屋75軒。
吉田町と矢部町の境を流れている柏尾川に架かっていた大橋(吉田橋)を描いている。「こめや」は旅籠屋。副題の『元町別道』はかまくら道を指している。 |
現在の吉田大橋 |
【妙秀寺】 (左奥)
江戸方見付跡から少し進んだ「元町信号」を過ぎた次の十字路を左折して、140m行った左側に妙秀寺がある。十字路を左折するところに「妙法寺」の看板が掲げられている。
この寺の境内には上記浮世絵の橋のたもとに描かれている延宝二年(1674)建立の『左かまくら道』の道標が保存されている寺である。 石段を登って山門をくぐると、左手に手水舎があり正面に本堂が建っている。その手水舎のうしろに道標が立っている。 説明文等は一切無いため知らない人は見過ごすだろうが、この道標を広重も見たかもしれないと思うと感激する。 |
【戸塚一里塚跡】 (左側)
妙秀寺から街道に戻って、直ぐ先の歩道上に旧東海道・吉田一里塚跡の説明標柱と戸塚一里塚跡のステンレス製説明板が並んで立っている。
【旧東海道・吉田一里塚】 (標柱) 吉田の一里塚は明治に入りずいぶん早い時期に取り壊されてしまったようです。江戸から十番目の一里塚で、日本橋から約四十Kmになります。昔は、これだけの距離を一日で歩いており、旅籠のある戸塚の町まで、大橋を渡ってあともう一息といった場所です。 【戸塚一里塚跡】 (ステンレス板) 旧東海道の一里塚は江戸日本橋から10里で、慶長9年、街道の附属施設として1里ごとに造られたが、国道拡幅により遺跡保存となった。 戸塚観光協会 |
【木之間(このま)稲荷社】 (右側)
一里塚跡を過ぎるとすぐ柏尾川に架かる吉田大橋に着く。この大橋を渡る手前の右側に木之間稲荷社が建っている。
【木之間稲荷社縁起】 當木之間稲荷社は伏見稲荷大社の御分霊を祭祀した社です。 相州戸塚宿吉田本町字宿下の住民が五穀豊穣を祈願する素朴な敬神の心を以て、江戸時代中期(約二〇〇年以前)に創建されました。 以来人々の厚い信仰を得て今日に至る由緒深い稲荷社です。 昭和六十一年柏尾川の拡幅工事に伴い、現在の地を基として遷座いたしました。 ここに記念として石碑を建て後日の記と致します。 氏子一同 |
【吉田大橋】
上記【戸塚宿】で左側の広重の浮世絵に描かれている橋が大橋で、右側の写真が現在の吉田大橋である。
橋手前の交差点の名前は「吉田大橋」だが、橋の名前はただ「大橋」になっていた。
浮世絵に描かれている橋のたもとに左かまくら道の道標が立っている通り、橋の手前を左折し、大船駅傍を南下すれば鎌倉の「鶴岡八幡宮」に通じている。
橋の手前左側の歩道上に、広重の浮世絵『東海道五十三次之内戸塚』が描かれた説明付き銘板が立っている。
また、橋の欄干には戸塚宿を描いた他の浮世絵も掲げられていた。
【戸塚区制50周年記念】
この銘板の浮世絵は、天保4年(1833年)に安藤広重が東海道五十三次の戸塚宿(大橋附近)を描いたものです。宿場町として栄えていた頃の様子がしのばれます。
平成元年4月 横浜市戸塚区役所 戸塚土木事務所
吉田大橋を渡ればS字カーブして550m程で戸塚駅の大踏切に到着する。
平成25年(2013年)10月現在、開かずの踏切として有名な大踏切を渡らずに済むように、平成26年末完成を目指してJR線の下を通るトンネル(吉田大橋を渡った「矢部団地入口信号」から「清源院入口信号」まで)の工事をしている。
6回目の旅終了「戸塚駅」
今回の記録:街道のみの距離は、10.2Km(松原商店街入口交差点~大踏切)
日本橋から十里十五町(40.9Km)。
寄り道を含めた実歩行距離は、 2日で16.7Km(興福寺バス停~戸塚駅) 総計76.8Km