藤枝宿島田宿(前半) (蓮華寺池公園→島田駅)  <旧東海道21回目>

2003年4月28日(月)晴  

 今回も自家用車で家を7:30に出発し、そのまま車で田中城跡と田中城下屋敷に寄ってから蓮華寺池公園駐車場(一日500円)に車を置いて、前回の終着点(蓮華池公園入口バス停)より街道の続きを歩きました。11:00スタート。

  (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

「岡部宿」 ← 「目次」 → 「島田宿(後半)・金谷宿・日坂宿」


【田中城跡】 

 旧東海道から寄り道するには片道900m程あります。

 前回(20回目)紹介した成田山不動寺の次の信号を左折して県道215号線を360m行くと国道1号線の大手交差点になります。その交差点を渡り100m先で右折して県道224号線に入りますと、400mで「二之堀」に出ます。僅かですが堀が残っており、周辺は綺麗に整備されて憩いの場になっています。「二之堀」の案内プレートもありました。

 更に、その先すぐの西益津小学校・校門前に「田中城本丸跡」の木柱が立っています。

 地図で見ると、小学校を中心にしてその周りの道路が、田中城の堀を埋め立てて造られたと思われるような同心円状になっています。

【田中城】 

 田中城は、今から500年ほど前、この地の豪族・一色氏が今川氏の命を受けて、その屋敷を拡大して城としたのがその始まりだといわれています。その後、武田氏の手に落ち、さらに江戸時代になってから四之掘が増設されて、直径およそ600mの全国的にも珍しい同心円形をした城ができあがりました。現在、市立西益津小学校が建っている場所がかつての本丸で、江戸時代には4万石程度の譜代大名が城主となって、志太平野の村々を治めていました。しかし、明治維新によって、田中城は廃城となり、城跡も民間に払い下げられました。

     田中城下屋敷のパンフレットより

【田中城 二之堀】 藤枝市指定史跡

 戦国時代、甲斐の武田氏によって三重の堀、三日月堀(馬出し曲輪)をもつ田中城の原型が築かれ、江戸時代の初め、城主・酒井忠利の拡張工事によって四重の堀に囲まれた田中城が完成しました。

 二之掘は、本丸から二重目の掘りで、幅12.7〜21.8m、深さ2.1〜2.9mでした。この付近は、大手二之門の入口にあたり、掘りを渡るために長さ5.3m、幅3.6mの大手ニ之橋がかけられていました。その北西側にはかつて三日月掘りがありました。

     藤枝市教育委員会


【田中城下屋敷跡】 

 西益津小学校前の信号から更に県道224号線を南下し、六間川橋を渡ってすぐ左折すると突き当たりにあります。小学校から400m程、旧東海道からは片道1.3Kmあります。

 冠木門を入ると綺麗な庭と由緒ある建物が移築復元されています。

 入場無料ですが、年末年始(12月28日〜1月4日)は休場しています。

【田中城下屋敷】 史跡

 田中城下屋敷跡は田中城の南東隅にあり、江戸時代後期には城主の別荘がおかれていました。平成4年度から7年度にかけて、かつての庭園を復元整備し、茶室を元の場所に移築しました。また、田中城にゆかりのある本丸櫓、仲間部屋・厩、長楽寺村郷蔵なども移築復元してあります。

 この下屋敷跡は、一色氏やその後裔の古沢氏の屋敷跡だとも伝えられています。しかし、江戸時代後期には城主の下屋敷(別荘)が置かれ、築山、泉水、茶屋等を設けて四季の景色を楽しんだともいわれています。

 城にあった建物の実物が現在まで残されることは極めてまれで、歴史的価値の高い貴重な文化財といえるでしょう。

 入口の冠木門は、二十分の一の縮尺で描かれた当時の図面をもとに復元したものです。

     田中城下屋敷のパンフレットより

【田中城本丸櫓】 藤枝市指定有形文化財(平成5年4月指定) 左上の写真

○構造  木造・2階建て銅板葺

○規模  桁行3間・梁間2間(京間・46.57m

 この櫓は、もと田中城の本丸にあり、高さ9尺(約2.7m)の石垣の上に建っていたといわれてます。本丸の南東隅の石垣上に「御亭」と呼ばれる2階建ての建物のあったことが記録にみえ、これに該当するもののようです。

 明治維新によって、田中城には高橋伊勢守(泥舟)が入りました。村上氏はその配下にあり、しかも泥舟の4男を養子とした関係で、明治3年この櫓の払い下げを受け、移築して住宅としました。また、泥舟はこの建物を「光風霽月楼」と名付け扁額を掲げています。屋根はもと柿葺であったようです。

 田中城より移築した建築物の中で、昔から最も著名な建物です。


【泡波(あくなみ)神社】 (左奥) 11:12

 前回終了した蓮生寺に戻り、二つ目の信号で駿河銀行のある千歳交差点を左折すると、次の信号左手にあります。

 御朱印をいただく『飽波神社』。

【由緒】

 当神社は古墳時代第十六代仁徳天皇六年十月(316)飽波郷(旧藤枝一円)の鎮守の神としてお祀りされた志太平野で最も古い伝統のある神社です。

 御祭神は少彦名命と申し上げて、大国主命と共に日本の国を開き産業を進め、医薬の術を教え、人々にさまざまな知恵を、お授け下さるなど幸福をもたらす神様です。

 昔この山裾の小石のまわりから清らかな水がこんこんと涌き出て諸病に霊験があったと伝えられ人々に命の水を恵み、又瀬戸川の水害から守ってくれることから川関大明神とたたえられ湧波神社とも称せられました。


【大慶寺】 (左側) 11:23〜11:33 

 千歳交差点から130m行ったところに入口があり、日蓮聖人お手植えの「久遠の松」で有名な寺です。

 久遠の松は太くて見上げるほどの巨木です。(写真参照)

【由来】 日蓮聖人京都遊学往復お立寄りの霊跡

 今を去る七百余年前、鎌倉時代建長五年(1253)初春、日蓮聖人が京都比叡山へ遊学の折、往復お立ち寄りになって、道園・妙園の両夫婦を説法教化され、題目の本尊と毘沙門天王を授興され、記念に一本の松をお手植えされました。この松は「久遠の松」と命名されました。

 道園・妙園の名は、聖人より授けられた法号で、後年、両夫妻は自宅に法華堂を建立して、当山の基を開きました。両夫婦の墓碑は鎌倉時代の作で、大宝塔の下部に安置されています。圓妙山の山号は、道園・妙園両夫婦の法号よりとり、大慶寺は、法華経流布の大慶にちなんで寺号としました。

 当山は、東海道有数の日蓮上人直接お立寄りの霊跡であります。現在の本堂は、間口、奥行十間(18m)四面で昭和二年完成したものです。

 当山は徳川期より明治前迄は、「さむらい寺」と称せられ、田中城主(四万石)姫君病気平癒の功により祈願寺とされました。境内には田中城主 大田摂津守、田中藩姫君、同藩漢学者 石井縄斎先生(日知館創立者)、国学者 熊沢惟興先生を初め、家老高瀬重富氏等の墓石並に大塚亀石・荷渓・翠崖等地方文化人の墓石があります。

【久遠の松】 静岡県指定天然記念物(昭和30年2月指定)

   説明

 クロマツの大樹で、県下でも有数の樹勢を誇る美しい姿で、古くから「久遠の松」と呼ばれています。

   樹高 25.0m  根回 7.0m  目通 4.5m  枝張 東西 28.0m 南北 28.4m  推定樹齢700年

   由来

 寺の縁起によると、鎌倉時代、日蓮聖人は京都比叡山に学びに出かけるときこの地に立ち寄り、12年後に帰郷する際に再び訪れました。法華経に教化された老夫婦が別れを惜しんで願い出たところ、日蓮聖人が1本のマツを植えていったと伝えています。「久遠」とは法華経の経文のなかにみえる言葉です。

境内の建築物】   

 庫裡は相良城(田沼公)の御殿を天明八年(1788)に移築したものであり、境内には鐘楼堂・三光堂・弁天堂・浄行堂がある。


【正定寺】 (右側) 11:40 

 大慶寺から300m先にあり、こちらは田中城主が植えたとされる「本願の松」で有名な寺です。

 こちらの松は横に大きく広がって美しい姿です。

【本願の松】 藤枝市指定天然記念物 (松の前に置かれた石碑)

 江戸時代の享保十五年(1730)に田中城主土岐丹後守頼稔が植えたと伝えられている。

 丹後守は境内の弁天堂に祭られている弁財天の信仰が篤く、大阪城代に登用されるに当り報恩謝徳のために植えたといわれ、別名を延命の松という。

 弁天堂は老朽のため明治四十五年に解体され、昭和四十七年に再建された。

  目   通 3m

  樹   高 6.3m

  枝張東西 11.5m

     南北 14m

【本願の松】 藤枝市指定天然記念物(昭和61年10月指定) (境内の案内板)

 樹種  クロマツ

 形状  傘状に枝張りした美しい外観を呈する

 目通  約3m

 枝張  東西11.5m 南北14m

 樹勢  良好

 本願のマツ(別名 延名のマツ)は、枝張・姿の点で市内では優れたクロマツである。

 田中城主土岐丹後守頼稔が大坂城代となった時(享保十五(1730)年)に寄進したものと、その由来を伝えている。

     藤枝市教育委員会


【藤枝宿】 江戸から 50里1丁(196.5Km)、京へ75里19丁 人口約 4430人 

 安藤広重の東海道五拾三次之内・藤枝『人馬継立

 上伝馬町の問屋場(といやば)における人馬継立の風景が描かれている。

 前の宿より荷物を運んできた人足と馬がここで交代するところで、次の宿までは別の人足と馬が運ぶのである。 即ち運ぶ人や馬は同じ場所を行ったり来たりしていた。

 問屋場を仕切る人は、絵のように高いところにいた。これは、全体を見渡すためである。

 また、金銭などもめごとがあっても人が上がれないように高くしてあるという説もある。

 


<昼食> 12:00〜12:45 かき揚げ蕎麦★★★

 瀬戸川に架かる勝草橋を渡り、「志太温泉入口」バス停少し前の角を右に入った蕎麦屋(志太おろしの「石ヶ谷」)で『かき揚げおろし』(1000円)を注文。

 蕎麦にしては値が張ると思っていたが、食べたら納得。海鮮がたっぷり入った大きなかき揚げが乗っており、食べきれないくらいでした。


【志太郡衛跡】 (右奥) 

 「志太温泉入口」バス停の先を右折して約10分のところにあります。

 志太郡衛の遺跡が発見された国の史跡。古代の群役所の建物が復元されていて、資料館もありました。

 資料館に入らなかったので詳しいことは分からないが、わざわざ寄り道して行くほどのところではなかった。

 30分の寄り道で元の街道に戻りました。 


 この先、旧東海道は、国道1号線の青木五叉路を真直ぐ方向に渡り、国道の左側に出ます。

 旧道に入ると、青島史蹟保存会が立てた案内板が充実しており、それぞれに整理番号が付けられていました。番号が飛んでいるのをみると、街道から離れた所にも史蹟が沢山あるのだろう。


田中藩領 牓示石蹟 (整理番号D (左側) 13:24 

 旧道をしばらく行くと、最初は「田中藩領」の石柱と案内板に出会います。

 瀬戸新屋村は田中藩領と掛川藩領が入り込む特異な村で、藩境に境界を示す牓示石を立てた。

 この牓示石は一丈余(約3m)の石柱で、「従是東田中領」と書かれていた。

 これと対となるのが市内鬼島の「従是西田中領」で、美濃国岩村藩領横内村との境界の法の川の所に立てられていたが、今は西益津中学校に移されている。

 牓示石は、田中城主本多正意(まさおき)が家臣の書家、藪崎彦八郎に命じて書かせたもので、その書の見事さは旅の文人を驚かせたという。

 上青島にも牓示石があった。

     平成十年五月 青島史蹟保存会


【鏡池堂六地蔵尊】 (左側) 13:28 

 「牓示石蹟」の先、新屋の追分にあります。左後ろから県道222号線が合流する三角地です。

 敷地内には鏡池堂と、三角地頂点に六地蔵を浮き彫りにした新旧の石仏が前後して建っており、他にピンクのエプロンを掛けた石をそのまま地蔵にした古い形の石仏も残っていました。下の写真で、白いのが六地蔵を彫った新しい石仏、その裏(写真では手前)が古いものです。

【六地蔵尊の由来】 

 この六地蔵尊の由来を概略して記すれば、昔の人の遺い伝えと郷土の史跡から六地蔵は近在の名所として亦々東海道筋の由緒ある歴史の地として広く知られている所である。六地蔵尊は神龍凄みし鏡ヶ池から出現したるにより鏡池堂六地蔵尊と称し駿河国弐拾四番札所第九番の霊地に指定せられ東海道を旅する著名な人々がここに立寄って祈願をされたという記録、また、正徳三年には大草太郎左エ門当地支配の節御嗣子なきため六地蔵尊に祈願せしところ感銘あってお子様が授けられしにより御手代向坂仁右エ門を普請役として派遣されこの堂守を寄附されたという。また六地蔵尊の本像は知証大師の自作とされ長さ三十糎ばかりの金色に彩色した木仏である。さらに鏡池堂の額は儒学の人渡辺崋山の揮亳であると伝えられている。六地蔵尊の霊験は著しくあらたかにして願いごとが叶えられ災難消除・延命長寿・家内安全・交通安全等祈願すれば必ず感応すること疑いなし。依而近郷庶民帰依頼みに厚く遠近よりの参詣者絶えず。

 この堂宇は昭和三十三年に昔の形をのこして改築したものである。六地蔵尊の縁日は毎年八月二十三、四、五日に行い、二十四日の晩は附近に夜店が並び余興もあって近郷界隈より参詣する善男善女でにぎやかく夏の夜の盛り場として有名である。

 六地蔵尊の開扉供養(お開帳)は三十三年毎にそのときは本像を開けて信者に拝観せしむるその外に一切開扉しない。

 尚六地蔵尊の周辺は時代の変遷により変化しておるが堂宇の位置は変わっていない。

 六地蔵尊霊験あらたかなることは以上の通りであり、この由緒ある状況を今の人たちに広く知って頂くと共に永くこれを保存顕彰して次の時代に伝え遺したい所存であります。

     昭和五十八年八月吉日 瀬戸新屋町内会

 

 県道222号線に入ると、左右に史蹟の案内板と石柱が次から次へと現れます。到着時刻を見れば如何に接近しているかが分かると思います。


【古東海道蹟】 E (右側) 13:33 

 昭和三十年代までは、ここから西に瀬戸山の丘が続いていた。

 この碑の所から細い道が瀬戸山の上を通って、山を下ると内瀬戸の部落へ通じていた。

 この道が中世からの瀬戸の山越えと呼ばれた古東海道である。

 松並木の東海道ができた頃も、大井川の洪水が山裾に寄せたときは、旅人は丘の上の道を通った。

 古代は東海道が初倉から小川、更に初倉から前島へ通っていた。

 島田から志太の山沿いに藤枝への道を通るようになったのは、鎌倉幕府を開いた翌年、源頼朝上洛の帰路が初めてであるといわれる。

     平成十年五月 青島史蹟保存会


【東海道追分】 F (左側) 13:34

 ここには瀬戸山を越える中世の古東海道と、山裾に沿う旧東海道がある。

 瀬戸新屋や水上は池や湿地が多い所だったので、東海道が六地蔵を通るようになったのは、開拓が進んでからである。

 当時、東海道はこの碑の所から東へ竜太寺山をまわり、前島境で初倉からの道と合して南新屋(五叉路)へ通っていた。

 東海道が瀬戸新屋を通るようになって、東海道とこの古道と分かれる所を追分と呼んだ。古道はその後も主要道路として、青島村当初の学校や役場が沿道に置かれた。

     平成十年五月 青島史蹟保存会


【染飯(そめいい)茶屋蹟】 H 市指定文化財 (右側) 13:42 

 瀬戸の染飯は東海道が瀬戸山の尾根伝いに通っていた頃から尾根の茶屋で売り始めたといわれ、天正十年(1582)の「信長公記」に、その名が記されている。

 東海道が平地を通るようになっても現在の茶店蹟で江戸時代の終わり頃まで売られていた。

 染飯とは強飯をくちなしで染めて薄く小判型にしたものであったという。

 くちなしは足腰が強くなるというので旅人には好評だった。

 染飯を売る時の包紙に押した版木が市の指定文化財として石野家に残っている。

     平成十年五月 青島史蹟保存会


【千貫堤(せんがんづつみ) I 市指定文化財(昭和31年1月指定) (左側) 13:42 〜13:48

 標柱の所を左に入ると、民家の生垣が真直ぐ堤状になっているのが見られます(写真参照)。

 慶長や寛永の大井川の大洪水でこの地は度々水害に悩まされた。

 寛永十二年(1635)田中城主となった水野監物忠喜は領内を洪水から守るため、ここ下青島の無縁寺の山裾から南方藤五郎山(今はない)をはさみ本宮山(正泉寺)まで約360m、高さ3.6m、巾2.9mの大堤防を一千貫もの労銀を投じて造築したものでこの名がある。

 昭和四十年代の土地開発によって、藤五郎山を始め堤は取り除かれ、現在は石野家の南側に約40mの堤がそのままの姿で残っている。

     平成十年五月 青島史蹟保存会


【育生舎跡 明治初年の学校 (右側) 13:48 

 明治五年八月二日 学制発布

 同七・四・十四 上青島村、下青島村、内瀬戸村、瀬戸新屋村、久兵衛市右衛門普請田村の五ヶ村が聠合し、上青島村一番地(庄屋、小沢家の所有地)に公立小学校を創設、育生舎と名づけ開校

 同十四・四・二十二 上青島村字松原141番地に校舎を新築移転

 同十九・三・一 尋常小学校、青島学校と改称

 同二十三・五・二 村制施行により、下青島字広島に創立された青島尋常小学校に合併移行す

     青島地区には前島(現、小石川町)に博習舎、志太に偽善館がありました


【田中藩領牓示石 J (左側) 13:51 

 江戸幕府は細かく藩を区分して行政をしき、田中藩も他領と入り組んでいたため、藩境に境界を示す牓示石を立てた。

 田中藩領上青島は、横須賀藩領の下青島村と複雑に接し、また、この標石を立てた少し前、上青島村の一部が旗本日向銕太郎の所領となっている。

 この標石は一丈余(約3m)の石柱で「従是西田中領」と書いてあった。

 これと対になるのは田中藩領細島の西端と考えられる。

 市内には瀬戸新屋村と鬼島村に田中藩領の牓示石があった。

     平成十年五月 青島史蹟保存会


【東海道(上青島)一里塚跡】 (左側) 14:08 

 清酒「喜久酔(きくよい)」を造っている青島酒造の前を通り、東光寺谷川に架かる瀬戸橋を渡って進むと、「上青島」バス亭先の松並木中ほどに「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。

島田宿(宿境まで二十九町) ← 藤枝市 上青島の一里塚跡 → 藤枝宿(宿境まで一里五町)

 その標柱の隣に一里塚跡の木柱と石柱が立っており、石柱の側面に「江戸(東京)日本橋より五十一里」と書かれているだけで案内板はありませんでした。

 一里塚跡からすぐの「一里山信号」で国道1号線に合流し、島田市に入ります。


<休憩> 

 国道の左側「島田信用金庫」前の「六合(ろくごう)」バス停のベンチは、1時間に1本程度しか来ないのでバスの合間に休憩するにはもってこいです。更に木陰なので暑い時期は助かります。

 信金の先、六合駅入口交差点の手前を斜め右に入る道が旧東海道です。但し500〜600mで再び国道に合流します。

 旧道に入った所に「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。14:48。

島田宿(宿境まで九町) ← 島田市 阿知ヶ谷 → 藤枝宿(宿境まで一里十町)

 旧道から国道に戻った所にも「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。14:56。

島田宿(宿境まで九町) ← 島田市 道悦島 → 藤枝宿(宿境まで一里十町)


【昭和天皇御巡察之処】 (左側) 15:05

 国道に合流してすぐの大津谷川に架かる栃山橋を渡りますが、橋手前のお茶問屋に『抹茶ソフトクリーム』があったのでまた休憩しました。

 茶問屋の先のお茶屋の前に昭和天皇御巡察之処の石柱がありました。

 側面に「昭和二十一年六月十八日丸三製茶工場」と書いてあったので、お茶屋さんが建てたものでしょう。明治天皇の聖跡は各地で沢山見てきたが、昭和天皇に関しては、お手植えの松があっても石碑は非常に珍しいものだと思います。

 栃山川を渡って250m先の御仮屋信号を斜め左(島田駅方面)に入ります。

 その角に「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。15:11。

金谷宿(宿境まで三十三町) ← 島田市 島田宿 → 藤枝宿(宿境まで一里ニ十五町)


<おやつ> 鯛焼★★★★

 国道から分かれて、しばらく行くと右側に「海道一の名物 鯛焼」の看板が見えてきます。

 ここの鯛焼(2003年現在、一個100円)は地元でも美味しいと言われて、行列ができるほど有名な店です。

 持ち歩くには重たいので5個しか買わなかったが、皮が薄くパリパリして、尻尾の先ぎりぎりまであんこが入っており、とても美味しかった。

 並んでいた地元の人が「冷凍しておき必要な分だけオーブントースターで焼くと美味しい」と言っていましたが、自宅に帰ってから暖めなおして食べても本当に美味しかったのでなるほどと思いました。


【東海道島田宿一里塚阯】 (右側) 15:30 

 「鯛焼屋」の先、本通り7丁目交差点からは県道34号線になります。

 交差点を越え、左側「島田信用金庫」のすぐ先に一里塚阯の石柱が立っています。


【刀匠島田顕彰碑】 (左側) 15:35 

 閉店になったスーパーの前に、刀の先端の形をした石碑があります。

【由来】 

 島田の刀鍛冶は室町時代より江戸時代末期にわたる約四百年間の歴史を持ち、繁栄期にはこの島田に多くの刀工が軒を連ね、鍛冶集団を形成していたという。

 その系譜は義助、助宗、広助を主流とし、作風は相州風、備前風、などのみえる業物打ちであった。江戸時代になると貞助系、忠広系が派生し、信州などに進出していった刀工たちもある。

 彼ら島田鍛冶は地方的な存在であったが、戦国大名の今川・武田・徳川氏などに高く評価され、多くの武将に珍重された。とくに、義助の「お手許の槍」や、武田信玄所蔵という助宗の「おそらく造りの刀剣」など、刀剣史上に今なおとどめる秀逸な作品も少なくない。

 紀行文や文芸作品・芸能にも島田鍛冶は取り上げられ、往時の繁栄ぶりと名声のほどがうかがわれる。また室町末期に活躍をした連歌師宗長は、島田の刀工義助の子であったといわれている。

 島田鍛冶集団は、中世末期から近世にいたる島田の歴史の中でも、とりわけ燦然と輝いている。

     昭和六十一年三月吉日 島田市


【五丁目まちかど物語】 (左側) 15:37 

 本通り五丁目の交差点を渡った角に碑があります。

 その先右側にからくり時計台もあります。

 1932年、日本で最初の私設天文台がこの地に開設されました。その5年後、1937年1月それまで行方不明となっていたダニエル彗星が開設者・清水真一氏(島田市名誉市民第一号 1889−1986年没)により再発見されたのです。

 それはアマチュア天文家の周期彗星検出第一号という世界的快挙となりました。これにより日本天文学会天体発見賞を授与され、その功績が大いにたたえられました。


【俳聖芭蕉翁遺跡・塚本如舟邸宅】 (左側) 15:42 

 時計台の左側、静岡銀行島田支店の前に碑があります。

【俳聖芭蕉翁遺跡 塚本如舟邸宅阯標識について】

 塚本如舟は通称を孫兵衛と云い元禄の頃川庄屋を勤めた島田の名家であり俳人でもあり好事者でもあった。芭蕉翁は元禄四年十月東下の際初めて如舟邸を訪れて

   宿かりて名を名のらする時雨かな

   馬方はしらじ時雨の大井川

などの句を残したが越えて元禄七年九月西帰の際それは芭蕉翁最後の旅ともなったが再び如舟邸を訪れたまま大井川の川止めにあい四日間も滞在して

   さみだれの雲吹きとおせ大井川

   ちさはまた青葉なからになすび汁

など咏じ更に興に乗じて田植えの連句

   やわらかにたけよことしの手作麦

の如舟の発句に翁は

   田植えとともにたびの朝起

と附句し且

   元禄年 五月雨に降りこめられて あるじのもてなしに心うごきて聊筆とる事になん

と後書まで添えた真跡が二百六十年後の今日までそのまま塚本家に傅えられたことは何ともあり難い事である。この標識の碑面は其連句の真跡を写真摸刻したものである。

 願うにわが島田の地に俳聖の佳吟が残され又夙くから蕉風の唱えられたのも如舟交遊の賜であった、誠に郷土として永く伝う傅うべき文化史跡というべきである。

 昭和廿八年癸已芭蕉忌

     島田 早苗会同人誌


【芭蕉翁碑】 (右側) 15:47 

 次の本通り2丁目交差点の島田信用金庫本店角にも芭蕉の碑があります。くずし字で書かれていたので読むのに苦労しました。

 するがの国に入て  はせを

  するがぢや はなたち花も ちゃのにほい

 この句は句集芭蕉七部集中の『炭俵』上巻夏の部にあり「島田よりの便に」という後書きがついています。此句の碑は既に静岡には音羽町の清水寺と市の北足久保との二ヶ所にありますが、当島田には特に縁り深きを思い、このたび同士によりここに、建碑することとなったものであります。

 当此碑稿は元禄七年(1694)五月芭蕉翁西帰の途次、当宿塚本如舟邸を訪れた際書き残された翁の筆跡から廊大したものであります。

     昭和五十年十月十二日


【大井神社】 (左側) 15:57〜16:18 

 島田駅前交差点を過ぎるとすぐ左側にあります。

 境内拝殿の横にひっそりと佇んでいる二体の「田のかんさあ(田の神様)」(右の写真)が可愛かった。 御朱印をいただく『大井神社』。

【宣勅正一位大井神社御由緒】 

 大井神社は、貞観七年授駿河国正六位上大井神と三代実録に記載の見える古社である。

 昔、大井川が乱流し、度重なる災害に悩まされた里民は、子孫の繁栄と郷土の発展の為に御守護を祈るべく大井神社を創建した。幾度かの遷座の後、島田宿東海道五十三次の要衝として宿場の固まった元禄初年、当地に正式に遷座し、元禄八年より御神幸の神事が始まり、下島(現御仮屋)の旧社地は御旅所と称せられ、日本三奇祭「帯祭」と讃えられるようになった。

 島田宿の氏神として尊崇され、また、大井川川越の公家、大名、一般旅人からも大井川渡渉の安全を祈願する為深く信仰された。(神社本庁別表神社)

【拝殿】

 大正八年明治神宮造営御用材の一部下賜をいただいて総桧造奉建

【本殿】(左側奥へ) 

 文久三年(1863)造営

 名彫刻師立川昌敬の彫刻が各所に施されていることで有名である

 本殿から南へ向う参道の途中に小さな太鼓橋があります。

【石の太鼓橋】 

 この神橋は江戸時代正徳三年(約二百八十年前)神輿のお渡りの為に造営された。横の平石橋は安政三年(約百四十年前)川越連中が奉納した。


【正覚寺】 (左奥) 16:18

 大井神社の南側参道を出て、東海道を挟んで反対側にあるお寺です。

 駅に向う途中に見つけたので入ったら、境内には巨大なクスノキがありました。


【宗長庵阯(そうちょうあんし) 市指定史跡 16:28

 島田駅の観光バス案内所前に石碑が建っています。

 連歌師宗長は、文安五年(1448)駿河国島田に鍛冶職人の五条義助の三男として生まれたといわれています。宗長は宗祇(全国に連歌を広めた室町時代後期の人)に師事し連歌を学ぶとともに、駿河国の守護今川氏に仕えました。また宗祇没後は連歌界の第一人者として二世花の下宗匠になり、三条西実隆や一休和尚などと親交がありました。五十七歳の頃に、丸子宿(現在の静岡県丸子)吐月峰へ草庵「柴屋」を営み住家としましたが、その後幾度となく旅に出て、その生涯の大部分を旅に暮らし、享禄五年(1532)八十五歳で亡くなっています。

 ここには石碑が三基建立されています。

 右から順番に紹介します。

 ・宗長句碑

 〜遠江国、国(故郷の意)の山ちかき所の千句にこゑ(声)やけふ(今日)はつ蔵(初倉)山のほととぎす〜

 ・芭蕉翁を慕う漢文碑(釈文省略)

 ・芭蕉さみだれ古碑(断碑)

 〜(さみ)たれの(空)吹きおとせ 大井川〜

 この場所は、元禄年間(1688〜1704)に、島田宿の俳人「塚本如舟」が、宗長法師の昔を慕って、如舟所有の土地に宗長庵(長久庵)を営み、島田宿の雅人達と諷詠を楽しんでいた所です。また如舟と親交の深かった松尾芭蕉もここを訪れています。

 昭和三十二年(1957)三月二十二日、市の史跡に指定されています。

     島田市教育委員会宗長



  21回目の旅終了(16:30)島田駅。 ◆本日総歩数:28,000歩

 島田駅から藤枝駅までJRで、藤枝駅から蓮華寺池公園までバスで戻り、公園に駐車していた自家用車で帰宅。

「岡部宿」 ← 「目次」 → 「島田宿(後半)・金谷宿・日坂宿」