府中宿・丸子宿 (静岡駅→道の駅「宇津ノ谷峠」) <旧東海道19回目>

2003年2月23日(日)曇  

  今回も横浜の自宅から自家用車で7:30に出発して、静岡9:45着。

 午前中「静岡浅間神社」、「臨済寺」、「清水寺」、「駿府公園」を 車で巡ってきました。

 午後からは車を駿府公園東側の市民文化会館の駐車場(30分¥100-)に置いて街道の続きを歩きました。

  (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

「江尻宿・府中宿(前半)」 ← 「目次」 → 「岡部宿」


【静岡浅間神社】 

 静岡駅正面より北上し駿府城址を越えて安倍街道に入った宮ヶ崎町にある、華麗で壮大な神社です。(静岡駅より約2Km)  御朱印をいただく[静岡浅間神社]。

 神部(かんべ)神社・浅間(あさま)神社(以上二社同殿)及び大歳御祖神社(おおとしみおや)の三社を総称して、静岡浅間神社(通称おせんげんさま)と言い、何れも創立は千古の昔にさかのぼり、駿河国総社として広く信仰されている。

 三社とも鎌倉時代以降、歴代幕府の崇敬を受け、特に江戸時代には徳川氏のあつい崇敬を受けて、寛永・文化年間両度の大改造が行われた。ことに文化元年(1804)から六十年余の歳月と、当時の金額で十万両の巨費を投じて建築されたのが現在の社殿群である。

 境内は4500m。宏壮華麗な社殿群は、いずれも漆塗りの極彩色で、特に楼閣造りの大拝殿は浅間造りの代表的なもので高さ25mあり、殿内は132畳敷きの広さがある。

 昭和四十六年六月社殿二十四棟が、平成十一年二月、宝蔵・神廐舎が国の重要文化財に指定された。まさに東海の日光と呼ばれるにふさわしいたたずまいである。また、当社は海外雄飛で有名な山田長政の産土神としても知られている。

【神部神社・浅間神社 大拝殿】 重要文化財

 徳川三代家光将軍時代、日光東照宮と共に造営された神社は、惜しくも火災にて焼失した。

 現社殿は、十一代家斉将軍時代文化年間幕府直営にて巨額の費用と多年の星霜、最高の技術を駆使して造営されたもので、豪壮華麗の美極まり「東海の日光」と稱されております。殊にこの神部神社浅間神社両社の大拝殿は他に類のない特殊な重層楼閣造りで、世に「浅間造」と稱され、当神社の象徴的建造物であります。

 高さ八十一尺(約25m)もあり外観は彩色絢爛、殿内は百三十二畳で、天井には狩野栄信(ながのぶ)寛信(ひろのぶ)の筆に成る墨絵龍と極彩色の天女図が画かれております。

     平成五年九月吉日 静岡浅間神社

【神部神社】

 第十代崇神天皇の御宇(約2000年前)の鎮座とも伝えられ、登呂遺跡の時代からの、この地方では最も古い神社であり、延喜式内社である。

【浅間神社】

 平安時代の延喜元年(901)に醍醐天皇の勅願によって、現在の富士宮市に鎮座する「富士山本宮浅間大社」の分霊を勧進して、「富士新宮」として祀られたと伝えられている。

【大歳御祖神社】

 総国風土記によれば第十五代応神天皇四年(約1700年前)の鎮座と伝えられ、延喜式内社である。もとは社名を奈吾屋社とも称した。

【その他】

 二十四の親孝行物語を題材にした彫刻で有名な「八千戈神社」、「麓山神社」、「少彦名神社」、「玉鉾神社」がある。


【臨済寺】 

 浅間神社駐車場側の麻機街道を少し北上した城北公園の先にあります。

  今川家の人質となっていた幼時の徳川家康(当時の名は竹千代)が預けられ、今川義元の軍師でもあった二代目住職の太原雪斎(たいげんせっさい)から教育を受けた寺です。後に武田、徳川の兵火によって二度の焼失を受けたが、天正15年(1587)、家康によって再建された。

【庭園の説明】

 本庭園は、天正年間に徳川家康が伽藍を再建せし時に築造せられたるものなりと傳ふ自然の傾斜地を背景として利用し之より流水を渓谷風に先づ大書院前の池に導き更に飛泉によって方丈前の池に注がしむ、あかまつ、らかんまき、そてつ 等を主木となり之につヽじの丸物を配す江戸時代の景観を有し東海道地方に於ける有数の庭園なり。

     注意

一 庭樹、庭石を毀損せざる事

一 其他現状の變更を為さヾる事

     昭和十五年六月一日 文部省


【清水寺(音羽山清水寺】

 駿府公園の東側、静岡鉄道「音羽町駅」のすぐ傍の高台にあり、神社の麓は清水山公園になっています。

 また、境内には芭蕉の『駿河路や はなたちばなも 茶のにほひ』の句碑もある。

 清水寺は、永正年中(1504〜)、印隔法印(いんゆうほういん)が開いた檀林(学問所)の古地に、当時今川八代守護大名氏輝の遺命によって永禄二年(1559)家臣の朝比奈丹波守元長が創建したものである。開山は、京都から迎えられた尊寿院大僧正導因と伝えられている。この地の眺望がすばらしく、京都の音羽山清水寺に似ていたので、その名がつけられた。

 境内には、慶長七年(1602)徳川家康が建立した観音堂をはじめ、薬師堂、聖天堂・霊牌、金比羅神社、熊野神社などがある。観音堂の中には、同じ頃に建立されたと思われる禅宗様の宮殿型厨子が安置されている。いずれも安土桃山時代の建築様式を伝え、昭和三十一年五月に県の文化財に指定されている。

 また、清水寺境内は文学碑の宝庫でもある。初夏の駿河路を吟じた松尾芭蕉の有名な句である“駿河路や はなたちばなも 茶のにほひ”の句碑をはじめ、山村月巣、小林文母らの句碑が数多くある。樹木におおわれ、苔むした句碑が静寂な境内にひっそりとたてられており、いっそう歴史の重みを感じさせている。

なお、当寺は規律の厳しい寺であるため、観音堂、薬師堂など、殿堂の一般公開はしていない。

     昭和五十八年十月 清水市


【駿府城址・駿府公園】 (右側)

 写真は、駿府城址の東御門側の角にある、弥次郎と喜多八の銅像です。

【駿府城】 

 駿府城は外堀・中堀・内堀の三重の堀を持つ輪郭式の平城。本丸を中心とした回字形に本丸・二の丸・三の丸と順に配置され、中央の本丸の北西角には、五層七階(外観五層、内部七階)の天守閣があったが、寛永十二年(1635)に焼失しています。

 駿府城が城郭としてその姿を見せるのは、天正十三年(1585)に徳川家康が築城を開始したことに始まります。この天正期の駿府城は現在の城跡に比べるとひと回り小さいと考えられますが詳細は不明です。

 この後、江戸幕府を開いた家康公が、慶長十二年(1607)将軍を退き、駿府に移り住むために天正期の駿府城を「天下普請」として拡張、修築しました。

 当時の駿府は江戸と並ぶ政治の中心地として重要な役割を果たしていました。

     平成八年三月 静岡市


【府中宿】 江戸から44里26丁(175.6Km)、京へ80里半12丁 人口約 14,070人 

安藤広重の東海道五拾三次之内・府中『安倍川

 この絵には、安倍川を渡る方法が色々描かれています。

 駕籠ごと蓮台に乗っている人、歩いてきたまま乗っている人。おぶわれている人、担がれている人、更には、手を引かれて自分で歩いている人もいます。ほとんどの馬は水が嫌いなため、なれた人足が引っ張っています。

広重の絵は西側から見た安倍川の川越の風景であるが、

私が撮った場所は東側です。

こちらの方が雰囲気が似ていたので載せました。

 

 

 東海道五十三次の19番目の宿場町。宿場の規模などの説明は前回(18回目)の最後を参照して下さい。

 徳川家康が築いた城下町で、東海道でも重要な宿場だった。

 古代から政治の中心地で、駿河国の国府が置かれていた。中世に入って府中の意味で駿府と呼ばれるようになった。

 家康は江戸幕府を開いてわずか2年後に将軍職を息子の秀忠に譲って、大御所としての実権を握り続けながらもここ府中を隠居の地に選び、没するまでの晩年の9年間を過ごした。


 車を 駐車して、前回終了した新静岡駅先の五叉路(御幸町)を今日のハイク出発点とし、11:45スタート。万歩計を”0”にする。

 左の地図で、KOの所を通っている細い赤線が旧道街道です。

 Oの五叉路(江川町交差点)を過ぎたら呉服町交差点を右折して呉服町通りへ。

 この通りの「和風レストランうおよ」で昼食(11:50〜12:25)

 青葉通り(市役所前の緑の道)を過ぎて七間町通りを左折。

 角に「札の辻」の標柱があります。

 広い昭和通り(七間町交差点)を横断し2本目の道を右折。

 更に2本目の道(梅屋町)を左折して新通りを真直ぐ行けば安倍川に至ります。

 B浅間神社、H臨済寺、N清水寺

 O西郷・山岡会見の地、P徳川慶喜公屋敷跡


【札の辻址】 12:35

 呉服町通りと七間町通りの交差点に石碑が立っています。

【札之辻町】

 札之辻町の町名は、江戸時代、ここに高札場があったことに由来 します。「元禄五年駿府町数井家数人数覚帳」によると、札 之辻町家数は十一軒人数百三十二人でした。高札とは、幕府の法令を庶民に徹底させるため、各地域の要所に設置された掲示板です。札之辻の高札場は、現在の七間町通りと呉服町通りが交差する駿府城寄りの道の中央に立てられていた。辻之札界隈は、当時から商家が軒を連ね、多くの人々で賑わっていたようです。

 また、近世の東海道は、この四つ辻で直角に折れ、七間町と呉服町を結んでいました。

 昭和二十年、辻之札町は呉服町、両替町、七間町の一部となりましたが、「札之辻」の地名は今も市民に親しまれています。


 安倍川手前で新通りと本通り(県道208号線)が合流する所の三角地が公園になっており、幾つかの史跡等がありました。13:05

 

【安倍川の川会所跡】

 交番の前に立っています。

 江戸時代、東海道で架橋を禁じられていた川に安倍川や大井川などがある。東海道を往来する旅人は川越人夫に渡してもらわなければならなかった。

 川越人夫による渡しでは、小型川越えの興津川、中型川越えの安倍川、大型川越えの大井川などが、いずれも代表的な存在であった。この川越人夫が人や荷物を渡すのを監督する所が川会所であった。

 安倍川のも両岸に川会所があった。ここには、毎日川役人が勤務して川越人夫を指示したり、川越え賃銭の取扱いをするほか、町奉行所からも川場係の同心二人が毎日出張して警備監督に当っていた。

 この川会所は、間口六間、奥行四間半であり、五人位の裃を着た役人が詰めていたといわれている。

 ちなみに。安倍川の川越え賃は、脇下から乳通りまでは一人六十四文、へそ上は五十五文、へそまでは四十八文、へそ下は四十六文、股までは二十八文、股下は十八文、ひざ下は十六文であったといわれている。

【安倍川架橋の碑】  

 公園の東側に立っています。

 この石碑は、宮崎総五氏が社会事業のためにと、明治七年に多額の私財を投じて建設した安倍川橋の架橋の顛末を、後世の人に伝えるために、明治四十一年に建てたものです。

【由比正雪の墓】  

 同じ公園の西側に立っています。

 正雪は、慶安四年(1651)に幕府転覆を企てた慶安事件の首謀者とされ、府中宿の旅籠で自害した。

【冠木(かぶき)門】  

 バス停前に復元された柱だけの簡単な門が建っています。

 この冠木門は、静岡市制110周年記念事業として開催された静岡「葵」博会場に建てられたものです。

 東海道宿駅制度400年を記念して、府中宿 西の見附に近いこの場所に移築したものです。

 冠木門は、寺社や宿場の出入口、関所などに広く用いられたものです。

     平成三年八月 駿府ウエイブ

【弥勒町】  

 道路側に立っています。

 江戸時代の地誌「駿河志料」には、現在の弥勒町一帯は、古くは安倍川の河原で『正保年間に開かれ、江戸時代のはじめ慶長年間に、弥勒院という山伏が還俗(げんぞく)して安倍川の河原で餅を売るようになった。この餅を安倍川餅という。これが「弥勒町」の名の由来となった」と記されています。

 十返舎一九の「東海道中膝栗毛」には、『ほどなく弥勒といへるにいたる ここは名におふ安べ川もちの名物にて 両側の茶屋いづれも奇麗に花やかなり』と著され弥勒茶屋と呼ばれた茶店の賑わい振りをうかがうことができます。

 弥勒町は、駿府の城下町の西の見付の前面に位置し、駿府九十六ヶ町に準じた扱いを受けていました。

 近世の安倍川は、歩行渡の川として川越のための川会所が設けられていました。しかし、明治四年の渡船と仮橋、明治七年の宮崎總五の手になる安水橋の架橋からの安倍川の通行形態の移り変りと共に、弥勒の町も大きく変化を遂げてきました。

 弥勒の町には、近世以降の歴史の中で「由井正雪墓址碑」、昭和初めの小学四年の教科書に載った「安倍川の義夫の碑」、溺死や剱難者のための「慰霊碑」、幕末から明治にかけて広く社会に尽くした宮崎總五の篤行を称える「頌徳の碑」と「安倍川架橋の碑」をはじめ、近世以降の弥勒を語る多くの歴史の跡が残されています。

     平成七年七月 監修 静岡市教育委員会

 さらに、「夢舞台・東海道」の標柱も立っていました。

丸子宿(宿境まで十六町) ← 静岡市 弥勒 → 府中宿(宿境まで二町)

 【十返舎一九について】

 府中の生まれで、父親は徳川家の家臣。一九の本名は重田貞一、武士だったが途中から町民になった人。安藤広重も徳川家臣である。

 「東海道中膝栗毛」は、初め箱根までの予定であったが、面白くてあまりにも売れたので大阪まで書いた。しかし、当時の新版は正月にしか出なかった為、全八編で8年かかった。その後も、評判の為、四国・宮島・草津等書いたが、12編まで21年かかったそうである。

 栗毛とは馬のことを指すので、「膝栗毛」とは「自分の膝を馬として旅行する」という意味で、徒歩旅行を洒落て言ったものである。

 江戸時代は平穏だったこともあり、旅行が盛んであったが、「東海道中膝栗毛」は更に旅行ブームに拍車をかけた本である。現代でもそうであるが、外国人も驚いたほど当時の日本人は旅行好きであったとのこと。

 十返舎一九の辞世の句

    この世をば どりやお暇(いとま)に線香の 煙とともに灰左様なら(はいさようなら)


< 土産>  安倍川餅★★★★★

 安倍川橋手前の左側にある「石部(せきべ)屋」(創業文化元年)で名物の『安倍川餅』 を購入。これが絶品。今まで新幹線や東名のドライブインで買っていた安倍川餅と称するものは、安倍川餅ではありませんでした。

 せきべやの『元祖安倍川餅』は本物の餅を使用し、黄粉とこしあんの2種類が入っています。あんこは昔ながらの甘く、ねっとりしてたっぷりついています。黄粉自体は甘くないが白砂糖がたっぷりかかっています。店内でも食べ られます(お茶付きで¥500-)。本当は店で出来立てを食べたかったが、昼食の直後だったのでお土産用(¥1000-から3種)を買いました。私個人としてはこれまでのお土産では、街道一と思っています。


【安部川 の義夫の碑】 (左側) 13:15

 石部屋の隣りにあります。

 この碑は、正直な川越人夫の顕彰碑である。

 元文三年(1738)初秋の頃、紀州の漁夫が仲間と貯めた金150両の大金を持って、安倍川を渡ろうと川越人夫を頼んだが、渡し賃が高いため、自分で川を渡った。しかし、着物を脱ぐ際に、大切な財布を落としてしまったのである。たまたま、その近くにいた人夫の一人(川原町彦右兵衛門の息子喜兵衛)が財布を拾い旅人の後を追い、宇津の谷峠で引き返してくる旅人に出会って財布を渡した。旅人は喜んで礼金を払おうとしたが「拾ったものを落とし主に返すのは当たり前の事だ」といって、喜兵衛はどうしても受け取らないので、駿府町奉行所に礼金を届けた。そこで、町奉行が喜兵衛を呼び出し、礼金を渡そうとしたが受け取らないので、その金を旅人に返し、代わりに奉行所から褒美の金を喜兵衛に渡したのである。

 昭和四年(1929)、和歌山県と静岡県の学童や有志の人々によって、安倍川橋の近くのこの地に碑が建てられたのである。

  【碑文】 難に臨(のぞ)まずんば忠臣の志を知らず

       財(たから)に臨まずんば義士の心を知らず

     昭和六十年一月 静岡市


【安部川】 安倍川を渡 り終えたのは13:20。

 上記【府中宿】の広重錦絵と現代の風景を参照。


【地蔵堂】 13:50

 「手越原」で国道1号線に合流したら、歩道橋を渡って国道の左側へ行き、230m先を「丸子市街」方面へ左斜めへ入ります。

 国道から分かれるとすぐ右側に子授け地蔵と呼ばれている古い地蔵堂があります。

 

 

 


 この先から丁子屋までの短い間、石柱が次々と現れ 、このあたりが丸子が宿場町だったころの中心地です。

 また、ほとんどの家には「臼屋」「かじ屋」「藤屋」 「とうふ屋」など、屋号を書いた看板が掲げられています。

 

 

        

【一里塚跡】 (右側) 14:03

 道路右側の車道側にあります。(上の写真左から1番目)

【明治天皇御小休所阯】 (左側) 14:13 

 横田脇本陣があった所で、明治元年十月に小休されています。同じ碑がすぐ先にもあります。

【丸子宿本陣跡】 (右側) 14:15

 石碑の側面に宿場と本陣の由緒が書かれています。(上の写真左から2 番目)

 丸子宿が、東海道伝馬制の制定によって宿場町が定められたのは、関ヶ原の戦の翌慶長六年(1601)です。江戸から数えて二十番目の宿場町で、江戸期の宿場戸数は二百戸余りでした。

 宿場町には本陣・脇本陣等が設けられ、本陣は参勤交代の諸大名・幕府の役人・勅使や公家等の宿泊所で大名宿ともいわれました。建物は書院つくりで、門・玄関・上段の間が設けられた広大な規模の陣屋でしたが、明治三年新政府によってこの制度は廃止されました。

【明治天皇御小休所阯】 (右側) 14:17

 鞠子脇本陣があった所で、明治元年十二月と明治二年三月の二回小休されている。(上の写真の左から3番目)

【お七里役所】 (右側) 14:18

 16回目 の蒲原宿にもありましたが、ここは民家の駐車スペースの奥にあり、側面に解説が書かれています。(上の写真左から4番目)

 江戸時代の初期、寛文年間紀州徳川頼宣は、江戸屋敷と領国の居城の間、百四十六里に沿って七里間隔の宿場に、独自の連絡機関として二十三ヶ所に中継ぎの役所を設けた。県内では《沼津》《由比》《丸子》《金谷》《見付》《新居》に設けられ、この役所を『紀州お七里役所』と呼び五人一組の飛脚を配した。これには健脚にして剣道、弁舌に優れた仲間が選ばれ、昇り竜、下り竜の模様の伊達半天を着て《七里飛脚》の看板を持ち腰に刀、十手を差し御三家の威光を示しながら往来した。普通便は毎月三日、江戸は五の日、和歌山は十の日と出発し道中八日を要し、特急便は四日足らずで到着した。幕末の古文書に入山勘太役所、丸子勘太夫などと記されている。丸子宿におけるお七里役所は、当家のことである。徳川頼宣は、徳川家康の第十子で家康が亡くなって三年後に駿府を追われ紀州和歌山にお国替えさせられた。こうした事もあって紀州家では、幕府の行動を警戒する諜報機関としてお七里役所を置いたのである。

【屋号】

 一番右の写真のように、各家々の門や玄関にはこのように真新しいさまざまの看板が掲げられていました。


【鞠子 (丸子)宿】 江戸から46里8丁(181.5Km)、京へ79里12丁 人口約 800人 

藤広重の東海道五拾三次之内・鞠子『名物茶店

現在の『丁子屋』

 

 江戸から数えて、20番目の宿で、江戸期の宿場戸数は200戸あまりでした。また、この宿は山間部にあって、東海道五十三次中最も小さな宿場であった。


【丁子屋】 (右側) 14:21

 広重の浮世絵と「ととろ汁」で有名な店。(上記写真参照)

 当時の丸子宿にも「とろろ汁」を出す店が何軒もあって、江戸時代にすでにあったというガイドブックにも載っているほどで、多くの旅人もこの宿の「とろろ汁」を目当てにやってきたという。

 丁子屋の敷地に入ると、「丁子屋付近地図」「芭蕉句碑」「十返舎十九の碑」「辰石」などがあります。

【芭蕉句碑】 

 大津の荷物問屋で門人の乙州(おとくに)が江戸へ下るときに餞別として贈った句。

    梅わかな 丸子の宿の とろゝ汁

 梅の花が咲き、宿の食膳には若菜が出され、丸子宿では名物のとろろ汁を食べたりして、良い旅をして下さいという意味。

【十返舎一九東海道中膝栗毛の碑】 

    かんくは(喧嘩)する 夫婦は口を とがらして 鳶とろろに すべりこそすれ

 東海道中膝栗毛の中で、茶店の夫婦が喧嘩を始め、女房が亭主にとろろの入ったすり鉢を投げつけてとろろまみれになって滑って転ぶ大騒ぎになり、結局弥次さん喜多さんはとろろ汁を食べそこなったという話を記したもの。

【辰石】 

 徳川家康は駿府城築城にあたりその石垣は丸子など近在より集めたと伝えられる。

 この石もその一つで、丸子舟川より運び出されたが、三百七十余年目前の旧東海道の下で眠っていたものを丙辰(1976年)正月、電話ケーブル埋設事業の際掘り出されたもので辰年にちなみ龍が爪あと(くさび割りあと)を残して天に上った。

 丸子の縁起ものとして辰石と名づけました。

     丁子屋 主人

 ここでとろろ汁を食べたかったが、昼食後のため次回までおあずけ。

 丁子屋前で丸子橋のたもとに「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。

岡部宿(宿境まで一里二十七町) ← 静岡市丸子宿 → 府中宿(宿境まで一里四町)


【丸子宿高札場】 (右側) 14:30

 旧道は、丁子屋の前の丸子橋を渡って行きます。渡ったたもとに真新しい高札が復元されていました。

 丸子橋を渡らずに真直ぐ1Kmほど行くと吐月峰紫屋寺(次回紹介)です。

 旧道を少し行くと国道1号線に合流するが、すぐ左下の道に下りて長源寺前を通り再び国道へ出ます。

 更に2回ほど右側の小道へ行くのが旧道ですが、非常に短いのと国道を渡るのが大変なため、我々はそのまま「道の駅」まで国道の左側を歩いて行きました。



 19回目の旅終了(15:30)「道の駅・宇津ノ谷峠」(宇津ノ谷トンネル手前)。 ◆本日総歩数:28,000歩

 道の駅からバスで新静岡へ戻り、前回と同じJR静岡駅の駅ビル6階の「 魚がし鮨」にて夕食後、車で帰宅しました。

 

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