日光例幣使道(6) 梁田宿
2022年2月26日(土) 快晴
東武伊勢崎線の福居駅に降り立ち、前回終えた踏切手前の「福居町」信号を10:50スタート
(注:解説で街道の左側、右側とは日光に向っての左右です)
東武伊勢崎線の踏切辺りが八木宿の出口。 その踏切を越えて、次の信号の先、左側に立派な門を持つ旧家。
【地蔵立像】 (左側) 11:03
少し先、やや左カーブする手前左の公園に接して立ち姿がスラッとした地蔵立像が立っていて、地蔵像の背後には供養塔などの石造物が並ぶ。
【道標・庚申塔】 (分岐点) 11:14
「上渋垂(かみしぶたれ)町」バス停を過ぎた先の二股を左に進むが、その分岐点に庚申塔が建っている。正面に「庚申」と刻まれた石碑で、寛政八年(1796)の建立。
庚申塔の前には半分に折れてしまった道標が立っていて、「東南 久野ヲヘテ館林方面ニ至ル」、「西 福居ヲヘテ太田方面ニ至ル」と刻まれている。
【昼食】 (左側) 11:20~11:55
「上渋垂町」信号手前の右手にある「喜八」で昼食。 左手にはラーメン店、渡った右にインドカレー店(行く予定だったがこの日は休業していた)がある。
「上渋垂町」信号を渡って、街道は右カーブして梁田宿に入って行く。
〔梁田(やなだ)宿〕 倉賀野宿から十二里八町(48.0Km) 八木宿から三十町(3.3km) 天明宿へ二里十八町(9.8km) 今市へ十九里二十町(76.8Km)
梁田宿は、渡良瀬川を控えている為、アイヌ語で舟付場を意味するヤンタから転じた名前と云う。宿場としては明和三年(1766)の登場で、八木宿と共に飯盛女で評判だった。明治以降も女郎屋が町の半数以上を占めていたが、やがて栄町の遊郭に統合された。東武鉄道建設の際、梁田経由に反対したことから衰退していったと云う。
こけしが立っている「金箱うなぎ店」の所を左折する。今井金吾氏の本には「この右角が昔の遊女屋で連子格子が目立つ中山氏宅」、「その向かいが旅籠屋の相場家」、「北東に曲がった先の右手に、慶応四年の梁田戦争の名残の弾痕が残る五十部家」があったとのことだが、今は建て変わって何の面影も無い。
ただ、左折した直ぐ左側に立派な蔵が残っている。
梁田宿の現在の町並み(1)
【梁田宿石標】 (左側) 12:16
上述の梁田戦争は、中山道を進んできた官軍と幕府軍との戦いだが、幕軍が宴をはっていた所に官軍が急襲し、幕軍は多数の死者を出して敗退。その時の遺体を渡良瀬川畔の戦死塚に葬られたが、明治末にその碑が長福寺に移されている。
その長福寺は上の蔵の写真の直ぐ先左側にある。寺への入口に平成二十二年五月建立の「旧日光例幣使街道 梁田宿」と刻まれた石標が立っている。
奥に見える屋根が長福寺の本堂
【長福寺】 (左側) 12:17~12:25
参道を進み、「曹洞宗梁田山長福寺」と刻まれた大きな石標の立つ門を入ると正面に本堂。
本堂の左手に明治戊辰戦争梁田役東軍戦死者追弔碑が建っている。
〔梁田戦争関連史跡 明治戊辰梁田役 東軍戦死者追弔碑 一基〕 足利市重要文化財(史跡) 高さ 二六〇・〇センチメートル 大正十三年(1924) 花崗岩製の台の上に建てられた、点紋粘板岩製の石碑。 裏面には「大正十三年九月 従軍衝鋒隊士 従四位勲三等内田万次郎建之」とあり、さらに尽力者「真下菊五郎」「川島為龍」「齋藤元次郎」「中山金太郎」「塚越米太郎」の五名が刻まれている。 梁田戦争は慶応四年(1868)三月、例幣使街道梁田宿でおこった旧幕府軍と官軍との戦いである。内田万次郎は幕府軍として父と共に参戦し、その後も五稜郭の戦いまで各地を転戦した。戦後、大蔵省印刷局に奉職し、退職後碑を建立した。 戊辰戦争慰霊碑や墓碑において、幕府軍の名を刻んだものが少ない中、「東軍」と幕府軍であることを刻む当碑の歴史的価値は高い。 平成十七年三月二十四日 指定 足利市教育委員会 |
更にその碑の右奥の墓地内左端に上述の梁田戦争戦士塚がある。
〔梁田戦争関連史跡 梁田戦争戦士塚〕 足利市重要文化財(史跡) 慶応四年(1868)三月九日未明に勃発した、いわゆる梁田戦争に倒れた幕軍戦死者の墓である。 表面に 戦士塚 裏面に 慶応四戊辰年三月九日 戦死六十四人此地理 梁田宿 と行書をもって陰刻してある。 梁田戦争の直後、村民の手により渡良瀬河原に合葬し墓碑を建てた。しかし、河流の変遷のため、明治四十三年に星宮神社傍らに墓碑を移し、遺骸は現在地に改葬した。その後、昭和六年に墓碑も現在地に移し、今日に至っている。 昭和四十二年九月十九日 指定 平成十七年二月二十四日 名称変更 足利市教育委員会 |
【本陣跡】 (右側) 12:26
長福寺入口から左側に大きな荒井氏宅があり元郵便局長だったとのこと。その向かい辺りに本陣があったと云うが今ははっきり分からない。
梁田宿の現在の町並み(2) 左側の長い石塀が荒井氏宅
本陣から100m先に日野屋平右衛門の旅籠屋があったと云うが、これも分からないまま、まもなく梁田宿は終わる。
右側の梁田郵便局を過ぎるとまもなく渡良瀬川に突き当たり、堤防へ上って行く。
【渡良瀬川・川崎橋】
往時は、渡良瀬川に突き当たった所(下の写真)から真っ直ぐ対岸の「川さき」までは船渡しだったが、現在はこの場所に橋が無いため、ここを右折して右手に見える川崎橋を渡る。
梁田宿側渡船場付近 12:33
橋への途中土手の上で数分休憩。
橋を渡る手前に水色の標柱が立ち、右面に「利根川まで29.3㎞ 心にゆとり」、左面に「海まで161.3㎞ 水辺にやすらぎ」と記されていた。
川崎橋 12:45
【川崎天満宮】 (左下) 12:56~13:02
「川崎橋」を渡り終わったらすぐ左の堤防道を下りる。河川敷から上ってくる道と、堤防道と、堤防下におりる道が三本合わさる所まで進む。この左下が川崎側渡し場跡。
川崎側渡船場付近 12:55
右の堤防下へおりる道を少し戻ると左側に川崎天満宮がある。
堤防上から写した全景 社殿 |
〔由緒〕 天満宮は菅原道真公を奉賛す創立年代は不詳であるが旧例幣使街道筋に鎮座し皇成維新に至るまで日光例幣使参向の際必ず立寄られて拝礼大前に奉納物を献上也しとの由緒ある名社なり故に広く庶人の尊崇することは勿論川崎町の守護神なり 天保十一年四月鷲尾前大納言隆純郷例幣使として参向の折奉納の短冊に わか君は人をかゝみと見かくなる こころくもらて千代もつかへん 天保十三年四月中山宰相中将忠能郷奉納短冊に 萬代の初めを今日を祈り置きて いま行末は神所知るらん 天保十四年四月綾小路宰相有長郷奉納短冊に幣の使にことしは往行して此の宿にいこいければ 行きかへり旅のねかへを天満る 神のめくみをやなたにそ知る 今も尚社宝として秘蔵す 明治五年足利東部郷社の社格となり 同六年社殿を改築す現在の社殿之なり 以上 天満宮々司小野寺五十橿 |
社殿の右に、「書跡 日光例幣使短冊 三枚」と書かれた標柱、及び、短冊と算額の説明板が立っている。
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〔日光例幣使短冊 3枚〕 足利市指定重要文化財(書跡) 縦 36㎝ 横 6㎝ 平成3年11月22日指定 川崎天満宮には紙本の短冊が3枚遺されています。それぞれ、表面には例幣使が奉納した和歌が、裏面には詠み人の名と奉納年月日が記されています。江戸時代、京都から遣わされた例幣使は必ず当社に参拝する習わしになっていたいわれています。保存されてきたこれらの短冊は、この伝承を裏付けるもので、天満宮の歴史を知る上でも貴重です。 わが君は 人をかがみと みがくなば 心くもらで 千世もつかへむ 鷲尾前大納言隆純 天保十一年四月 萬代(よろずよ)の はじめと今日を 祈りおく いま行く末は 神そしるらむ 中山宰相中将忠能 天保十三年四月 幣(ぬさ)の使に 今年は往来(いきき)して 此宿にいこひければ 行かへり 旅のねがひも 天満(あまみつ)る かみのめぐみを やなだにそしる 有長 綾小路宰相有長 天保十四年四月 〔川崎天満宮の算額 1面〕 足利市指定重要文化財(民族文化財) 縦 44.5㎝ 横 80㎝ 厚さ 3.5㎝ 令和3年3月25日指定 算額とは、和算(日本で発展した数学)の問題等が描かれた絵馬です。本額は明治9(1876)年に、鵤木(いかるぎ)村(現足利市鵤木町)の和算家内田治部右エ門の門人であった倉沢源之助、秋山彦八らによって当社に奉納されました。表面には、墨で図形、問題文、奉納者などが書かれています。 特徴としては、裏面に下絵または創作途中で何らかの不具合が生じてそのままにされたと思われる図と罫線が残されていることが挙げられます。これにより、額面の割り付け等の算額の制作過程の一端をうかがい知ることができます。 当時地方の農村に和算が普及していたことを知ることができるとともに、人物から当時の地域の姿を推察することができる資料であり、算額の制作過程を見ることができることからも文化財として価値があります。 令和3年11月30日 足利市教育委員会 |
【石仏群】 (左右) 13:11
街道は堤防下をそのまま進んで「川崎橋」の下をくぐり、突き当たりの道を左折する(堤防から下ってくる道との三叉路)。
曲がって直ぐの十字路を右折するが、そのほぼ正面の民家の角、電柱とカーブミラーの間に上部の欠けた地蔵尊と不動尊がある。
その角を右折した直ぐ右側に如意輪観音等の石仏が並んでいる。
〔寺岡山元三(がんざん)大師〕 (右奥) 14:00~14:30
石仏群の先を道なりに左カーブして三本目を右折する。その先は足利東部工業地帯になり、尾名川の近くまで旧道は途絶える。
三本目を右折したら次の十字路を左折。次を右折(右に足利市中央消防署東分署)。尾名川を「樋詰(ひつめ)橋」で渡り、次いで出流川を「出流橋」で渡る。
直ぐ次の信号に「寺岡山元三大師 ←左折」の大きな看板が立っている。ここを左折する。
左折した先の右手に見えるのが岡崎山。その右下にある寺岡山元三大師へ寄り道。
信号を左折して二本目の道を斜め右へ突き当たりまで進み右折。次の三差路の左が元三大師の駐車場入口。入口に「厄除け元三大師道」の道標が立つ。
その先左カーブした所に唐門が建っている。 唐門をくぐり、17段の石段を登ると正面に本堂が建っている。
唐門 本堂前の石段 |
〔歴史の町 栃木県足利市の東に鎮座する 江戸の昔より祈願一筋のお寺〕 栃木県足利市と佐野市の境目に位置し、正式名称は寺岡山施薬院薬師寺と号されます。 聖徳太子の命によって建立され、「下野八薬師」とも称されていたと寺伝に伝えられています。檀家をとらず、祈願のみの寺院として歩んできた経緯には、当時の栄華と信仰の顕れが伺えます。また、時を同じく祈願寺として人々の信仰を集めていたのが川崎大師・西新井大師と伝えられています。 〔比叡山中興の祖 元三大師―良源大僧正―〕 御本尊元三大師は名を良源、諡号を慈恵大師といいます。正月三日に亡くなられたので元三大師と呼ばれるようになりました。 その為、毎月3日は御縁日となっております。法力が強く鬼や龍の化身としての逸話も残っており、その姿を柱札にした護符は玄関などに貼る魔除けとして参拝の方々に人気がございます。 元三大師のパンフレットより |
ここは御朱印の種類が多いのに驚く。
私はオーソドックスな御朱印を頂いたが、寺の各所に鎮座する仏様の絵姿朱印、十二支と生まれ月による守護仏金色朱印、可愛い動物入りの朱印、行事毎の期間限定朱印、僧侶がイラストを描いた様々な仏様のイラスト朱印などバラエティに富んでいる。
【一本松地蔵尊】 (左側) 14:35
元三大師から岡崎山に登れるが、岡崎山の麓を時計回りに街道へ戻る。直ぐ先右側に「厄除け元三大師→」の看板が立っている所を右折する。
看板の後ろに建つ祠が一本松地
一本松地蔵尊へ行くには、ここを右折して直ぐ左の蕎麦屋の敷地に入って行き、蕎麦店の左手の石段を登る。
地蔵堂の後ろに説明文が立っているが、文字がかすれて判読が難しかった。
【岡崎山古墳】 (右側) 14:37~14:46
一本松地蔵尊入口の向かいに岡崎山への上り階段がある。岡崎山には東西南北四カ所の登り口があり、元三大師側が南口、一本松側が北口になる。
〔ご案内〕 岡崎山(標高五二・七メートル)は、古くから地域の人々と深くかかわり、生活の中心であった時代がありました。そして昭和の一時期まで森や林は子供達の格好の遊び場として守り育てられてきました。 山頂からの眺めは里山ならではの格別なものを感じさせます。東に筑波山、南に遠く富士山や秩父の山々、西に浅間山、北には男体山の雄姿を望むことができます。そして旗川の清流の先には限りなく広がる関東平野が一望でき、岡崎山は昔から景勝の地として多くの人々に親しまれ愛されてきました。 足利市では、平成二年この丘陵地に古墳が発見されたことから「岡崎山古墳」として埋蔵文化財の指定をしております。散策すると古き時代のロマンさえ感じさせてくれます。 岡崎山を昔のような地域の里山林として取り戻すことができないが。地域住民の熱い思いから、平成二十一年に「とちぎの元気な森づくり県民税」を利用した里山林整備事業がスタートしました。そして先人達が育んできた岡崎山が、里山林として生まれ変わろうとしております。 私達は、森や林・景観を守り、人と自然とのふれあいの場所として、この里山林を次の世代に引き継いで行きます。 平成二十四年四月 岡崎山里山林整備事業管理団体 寺岡自治体 |
山と言うより古墳なのですぐ緩やかな明るい道となる。北口の登り初めが「さくらヶ丘」、山頂が「つつじ平」で岡崎古墳群の標柱が立っている。
更に少進むと山頂に御野立所址の石碑が建っていて、ここは、昭和九年十一月十一日に栃木・群馬・埼玉三県合同大演習の時、昭和天皇が行幸された所である。
碑の側面にもこの事が刻まれている。
石碑の左手は「富士見ヶ丘」となっている。今日は残念ながら富士山は見えなかった。
【厄除元三大師道碑】 (右側) 14:47
街道に戻り、旗川に突き当たった右側に厄除元三大師道碑が建っている。ここを右に行くと先ほど訪れた元三大師の唐門に繋がる。
後ろの丘が岡崎山
街道は旗川沿いに直進する。 その先右手に「太平記運動児童公園」がある。
二股は左の直進道を進むが、ここを右に入った直ぐ左下の「地蔵そば」という蕎麦屋は、大河ドラマ「太平記」(1990年)のロケが運動公園で行われた時の休憩所になったと言う。
私は入らなかったが真田正之などのサインが壁に直接書かれているらしい。
【道標】 (左側) 14:56
二股を直進して県道67号線にぶつかる手前、左側に道標が二基建っていて、左側の大きい方は元文五年(1740)の建立、右側に小さい方は寛政三年(1791)の建立。
その隣に平成七年三月三十日建立の「考古資料 日光例幣使街道道標」と書かれた標柱、その隣に「厄除元三大師道」と刻まれた石柱が建っている。
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〔日光例幣使(街)道道標 二基〕 足利市重要文化財(考古資料) 左側の道標は安山岩製の四角柱型で高さ九〇㎝、幅三六㎝、奥行三八㎝をはかる。造立時には上部に尊像様のものがあったと考えられる。正面に「佐野道」右側面に「足利道」左側面に「太田道」裏面に「元文五庚申十一月二十四日 下野国足利郡寺岡村宿」の銘が刻まれている。 右側の道標は安山岩製の四角柱型で高さ四二㎝、幅三〇・五㎝、奥行三〇・五である。塔身には正面に「日光道」「道祖神」「佐野道」、左側面に「江戸道」「館林道」「○主 山元兵蔵」、右側面に「善光寺道」「太田道」「足利道」、裏面に寛政三辛亥年〇月吉祥日」、また各面には「東」「西」「南」「北」の銘が刻まれている。 日光例幣使(街)道に関する市内の近世の資料は少なく近世の宿駅、交通路を伝えるものとして貴重である。 昭和五十五年一月二十二日指定 足利市教育委員会 |
【山本屋藤吉の跡】 (右側)
例幣使道はここを右折するが、道標の向かいの右角の家は、お休み処・山本屋藤吉の跡とのことだが今は何も無い。
左の家が山本屋跡、奥の民家の前が上記の道標
【両社神社】 (左側) 15:00
右折して直ぐ先の左側に両社神社がある。本殿の彫刻が立派だった。
社殿の左側の出口に三角の道標が立ち、右面に「向 佐野道」、左面に「向 足利道」と刻まれていた。
両社神社で今回の旅は終了。
ここを左折して約1Km先の両毛線「富田駅」へ向かう。
第6回目終了(15:05) 寺岡町・両社神社。
【本日の記録】
江戸時代の街道での距離(福居駅入口~寺岡町・両社神社) : ニ里六町(8.5Km)。
江戸時代の街道で、両社神社迄の累計:倉賀野駅入口交差点から、十三里二十町(53.2Km)。
寄り道を含めた実歩行距離 : 12.6Km(福居駅~富田駅) 累計:67.2Km
4時間20分 19,500歩