日光例幣使道(3) 木崎宿
2019年11月17日(日) 快晴
東武伊勢崎線の境町駅11:40スタートして、駅前の「赤レンガ倉庫」を見学してから、前回終えた「境風の子公園」に向かう。
2019年は、初夏から秋迄異常続きの年であった。
5月は高温。7月は低温で日照不足(東京33日間連続雨や遅い梅雨明け;7/29)。夏が遅れて始まり(7月下旬)、秋(10月上旬)まで夏がずれ込んだ(8月・9月は猛暑)。一方九州では記録的な大雨(8月)。関東・東北では経験したことが無い様な猛烈な台風や大雨で日本列島各地に大きな被害が起きた年だった。
(注:解説で街道の左側、右側とは日光に向っての左右です)
【境赤レンガ倉庫】 (左側)
駅の改札を出て直ぐの左側に、境赤レンガ倉庫が建っている。
【境赤レンガ倉庫の歴史】 境赤レンガ倉庫は、境運輸倉庫株式会社により大正8年(1919)に「繭の乾燥場」、「繭の保管庫」として建設された2階建て総レンガ造りの倉庫です。 この倉庫は、戦時下に兵士用の食料の乾燥場として使用され、蚕糸業衰退後は、電気部品製造工場の製品庫として使用されました。 また、この倉庫からの繭の輸送には東武伊勢崎線(明治43年(1910)開通)が利用され、世界遺産である「富岡製糸場」にも運ばれていたとのことです。 平成28年(2016)にぐんま絹遺産に登録されたこの倉庫は、かつて蚕種・養蚕・製糸・織物などの絹産業で栄えた境地区の歴史を今に伝える貴重な遺産です。 |
もう一つの説明板には、境町の南から南西に、川を挟んで「絹産業遺産群」が点在しており、私も2年前に訪れた世界遺産4カ所が地図と共に紹介されていた。
①【富岡製糸場】 富岡市
明治5年(1872)に明治政府が設立した官営の器械製糸場であり、主要な建物はほぼ創業当時のままで残されています。
②【田島弥平旧宅】 伊勢崎市
幕末から明治にかけて、優良な蚕種(蚕の卵)を生産する養蚕技法「清涼育」を体系的に完成させ、規範となる養蚕建物も発案し、近代養蚕飼育法の確立を図った田島弥平の旧宅です。この「清涼育」に最適な住居兼蚕室の主屋の構造は、近代養鶏農家の原型となりました。(後略)
③【高山社跡】 藤岡市
高山長五郎が開発した「清温育」に最適な蚕室を目指して、明治24年(1891)に高山武十郎が建てた主屋兼蚕室であり、この地で多くの実習生が学びました。
④【荒船風穴】 伊勢崎市
明治38年(1905)から大正3年(1914)に造られた蚕種(さんしゅ)の貯蔵施設です。岩の隙間から吹き出す冷風を利用して、当時年1回であった養蚕を複数回できるようにし、繭の増産に貢献しました。
【法楽寺・女塚稲荷神社】 (左側) 12:07
赤レンガ倉庫の直ぐ先を左折して、前回終了した「境風の子公園」に行き、ここから今日の行程を再スタート(12:00)。
例幣使道を北上して来たら、この公園の北東の角を右折。少し進んで突き当たりを左折する。
左折した次の右側の「女塚会館」の脇に女塚薬師道道標があったはずだが、見逃してしまったのか、今は共に無くなっていたか見ることは出来なかった。
そのまま北上して、「東武伊勢崎線」の踏切の手前左側の道入口に、供養塔・二十二夜待塔・地蔵菩薩が建っている。
その道を更に入って行くと、石塔が並ぶ法楽寺と女塚稲荷神社がある。
法楽寺境内と女塚稲荷
【庚申塔】 (左側) 12:18
街道に戻り、踏切を渡って、突き当たりを右折する。更に二本目の道を左折して、次の「三ツ木橋西」信号を右折する。
緩い左カーブする左側に、天明八年と安政七年の二基の庚申塔が建っている。
【子育て地蔵】 (左側) 12:20
続いて、左側に「境消防団第13分団」の左前に子育て地蔵と享保十年の庚申供養塔が祠の中に収まっている。
地蔵には奉納者の名前が書かれた赤い襷が何本も掛けられていた。
この左奥に国定忠治の子分である「三ツ木の文蔵」の墓があるとの事で見に行った所、それらしい墓地はあったが、文蔵の墓は確認出来なかった。
ここで10分程時間をロスする。
【三本辻地蔵尊】 (右側) 13:06~13:10
早川を「三ツ木橋」で渡って、その先、高架下の「小角田(こずみだ)西」信号の手前で太田市に入る。
次の「小角田」信号を左折するが、往時の例幣使道は、信号手前から斜め左に石田川迄、直線的に進んでいた。
現在は、一部斜めの道は残っているが川を渡ることが出来ないので、「小角田」信号を左折し、次の「小角田北」信号を渡ってから右折し、石田川を「小石田橋」で渡る。
橋を渡ったら直ぐ土手を左折すると一本左の旧道に入れるので、そちらに進む。
「来迎寺」を過ぎ、暫く進むと、緩い左カーブし始める右手に三本辻地蔵尊の祠と、その脇に庚申塔・二十二夜塔・馬頭観音が建っている。
祠の右横に建っている新しい標柱の正面には『太田・日光道 三本木地蔵尊』、右面には『旧日光例幣使道』、左面には『秩父・中瀬道』、裏面には『四ば・倉がの道』と刻まれていた。
【辻地蔵】 新田町指定重要文化財(平成12年4月6日指定) 本地蔵尊は、高さ一二〇センチメートル、幅三〇センチメートルで、台座には銘文があります。 本地蔵尊のある場所は、かつて例幣使道から分かれて利根川中瀬の渡しに通じる道がありましたが、斜めの道であったために、明治時代後期に施工された耕地整理の際、消滅してしまいました。地蔵尊は、中江田本郷地区に住んでいた椎名長兵衛が観音札所の西国三十三ヵ所、板東三十三ヵ所、秩父三十四ヵ所、合計百ヵ所の観音寺を無事に参詣したのを記念して、親族の繁栄を祈願し建立したものです。 中山道は西国札所への道順で、例幣使道柴宿は板東水沢・白岩観音への道順で、中瀬道は秩父札所への道順です。 銘 文 正徳五年乙末九月吉日 (1715) 奉納 板東 妙儀四は道 西国 為六親菩提 秩父 秩父中瀬道 くわん主(願主) 椎名長兵衛 平成十三年三月 新田町教育委員会 |
【医王寺】 (左側) 13:15
少し先の右側に二本の大銀杏が聳えている医王寺がある。
新田の名木】 樹木名 銀杏(いちょう) 所在地 医王寺境内 樹 齢 約二~三〇〇年 目通り (幹周り)三・六メートル(十二尺)雌木 目通り (幹周り)二・九メートル(九・六尺)雄木 樹 高 二〇メートル この二本の銀杏は、当寺の本堂前の参道に、同時期に植樹されたと思われる。木崎宿が盛んな頃は、眼病を治す薬師様として知られ、近郷から参詣者が訪れ、縁日には、出店が並んだ。 当寺は、薬師如来を祀り、康平四年(1061)に恵心僧都の高弟源意法印が草創と伝う。応永(1394)、文明(1469)に兵火に罹り、また木崎宿の移転で、現地に移った。 明治三十一年の寺の古文書に、「銀杏目通り壱丈壱尺廻り壱本」「銀杏目通り七尺廻り壱本」と誌されている。境内にはその他、樫の大木(目通り七尺廻り)六本、杉三十二本があり、鬱蒼として、蝙蝠が飛び廻っていたといわれる。 第二次大戦後、伐採され銀杏のみが残った。平成十五年危険防止のため、銀杏の大枝を伐りおろした。 平成十七年三月 新田町観光協会 |
【木崎宿】 倉賀野宿から七里十町(28.6km) 境宿から一里十二町(5.2Km) 太田宿へ一里三十町(7.2Km) 今市へ二十四里十八町(96.2Km)
「医王寺」辺りから木崎宿に入る。宿名は、昔からあった貴先神社からとったと伝えられている。
宿になったのは明和三年(1766)からと言われるが、例幣使道が成立した時には本格的な宿場として活動していて、飯盛り女が沢山いたことでも有名だった。本陣一軒、旅籠三十四軒。
度重なる火災で古い町並みは失われ、道路も拡張されて往時の面影は殆ど残っていない。
【上の問屋跡・山崎酒造】 (右側・左側) 13:21
すぐ先の右手辺りに上の問屋があった。
その斜め向かいには明治八年(1875)創業の山崎酒造が現在も建っている。
【木崎宿標柱(道標)】 (左側) 13:25
次の「新田木崎町」信号左角に新しい石の木崎宿標柱(道標)が立っている。
正面に『日光例幣使道 木崎宿 東 太田宿 日光 西 柴宿 京都』、右側面に『北 大通寺 銅山道 南 前島 利根川』、左側面に『平成十六年三月吉日 「飯盛女供養塔建てる会」 新田町観光協会』と刻まれていた。
【下の問屋跡】 (右側) 13:30
「新田木崎町」信号を渡って、直ぐ右側に一本松が残っている「さいとう接骨院」が、『松の木斉藤』と呼ばれた下の問屋跡である。
【茂木本陣跡】 (右側) 13:30~13:38
「さいとう接骨院」の隣の空き地が茂木本陣跡と言われているが?
今井氏の著書によると、裏手の大きな木がある隣が本陣の庭で、小さな石祠が残っているとあったので、空き地の左脇の細道を抜けて裏手に回ったが、何処が庭跡かよく分からなかった。
【貴先神社】 (右奥) 13:40
裏手の道をそのまま東に進むと、広い道を渡った所に貴先神社が建っている。
境内は児童公園も含めて広いが、宿名の由来となっている神社の社殿としてはそれ程大きくは無かった。
【色地蔵・長命寺】 (左奥) 13:45
街道に戻って、直ぐ先左側の長命寺辺りで木崎宿は終わりとなる。
その長命寺の門前左側に色地蔵と呼ばれる子育て地蔵堂が建っている。
|
【木崎宿色地蔵】 新田町指定重要文化財(平成12年4月6日指定) 「木崎下町の三方の辻に、お立ちなされし石地蔵様は、男通ればニコニコ笑い、女通れば石持て投げる、これがヤー本当の、色地蔵様だがヤー」 木崎音頭の歌詞は数種類ありますが、末尾には必ずこの部分が付いています。この一節に唄われている色地蔵様がこの石地蔵尊です。石地蔵尊は高さ七十三センチメートルで、頭部は破損しています。台座には銘文があります。この銘文から、風邪のはやる季節に亡くなった子供達の霊をなぐさめ、子供達の成育を祈願して建立した「子育地蔵」であったことがわかります。ところが、江戸時代の木崎宿には飯盛女がたくさんいて、彼女達は前借制年季奉公で遠出が制限されていたため、宿端ずれの本地蔵様に参詣して心の安らぎを得たのです。こうして数多くの色街の女(飯盛女)が訪れたことから、何時の間にか「色地蔵様」と呼ばれるようになり、木崎音頭にも唄われるようになったのです。 銘 文 寛延三庚午霜月日 木崎下町 (1750) 施主 茂 木 長 吉 斉 藤 □郎八 寒念佛供養 多久和 次郎□ 幸 池 茂 七 小 嶋 伊勢松 惣子位 平成十三年三月 新田町教育委員会 |
長命寺の入口前右側には、庚申塔、馬頭観世音、二十二夜塔が建っている。
【木崎宿石標】 (左側) 13:50
例幣使道は、長命寺の次の道を左折して旧道に入る。
その左折道の入口に木崎宿石標が建っている。
石標には『日光例幣使道 上州木崎宿 太田宿江一里三拾町 平成十年十月吉日』と刻まれていた。
【一番公園・休憩】 (左側) 14:15~14:25
旧道に入り、「東橋(あずまはし)」を渡って少し進んだ突き当たりを右折する。
直ぐ県道に戻って少し進むと、二股道の間に「お食事処・さかえや」があるので、そこを右斜めの旧道に入る。
上の写真に示す右側の旧道はすぐ終わり、そのままやや斜めに県道を横切って左側の旧道に続いて行く。
左側の旧道を右回りに進むと大きな道路にぶつかるので、これを車に注意しながら渡ると、直ぐ左側に一番公園が現れる。
この公園には簡易トイレとベンチがあるので10分間休憩した。
【群馬泉・島岡酒造】 (右側) 14:45
一番公園の先で十字路を右折して再び県道312号(例幣使街道)に戻る。県道を少し進んで、「宝町」信号を左折する。
暫く直線道路を進むと、右手に文久三年(1863)創業の「群馬泉」醸造元である島岡酒造が現れる。
店(左下の写真)の前から右カーブして、曲がりきると長屋門(右下の写真)が見られる。
【威光寺】 (左側) 14:47
長屋門の直ぐ先の左側に、新田義興の菩提寺である威光寺がある。
この寺は、次回訪問することにする。
【庚申塔】 (右側) 14:48
威光寺の直ぐ先で二股道が現れ、その手前右側のガードレールと塀の間に庚申塔が建っている。下半分は埋もれていた。
写真は綺麗に撮れなかったので次回に載せる。
この庚申塔で今回の旅は終了し、ここから右折して細谷駅に向かい帰宅した。
第3回目終了(14:48) 「細谷駅分れ道」(太田市由良町)。
【本日の記録】
江戸時代の街道での距離(境風の子公園~細谷駅分れ道) : ニ里六町(8.5Km)。
江戸時代の街道で、「威光寺」迄の累計:倉賀野駅入口交差点から、八里十一町(32.6Km)。
寄り道を含めた実歩行距離 : 12.0Km(境町駅~細谷駅) 累計:39.9Km
4時間10分 14,500歩