成田街道(5) 「志津駅入口」信号 ~ 海隣寺坂下

2017年4月8日(土) 雨  

 自宅から自家用車で志津駅前のコインパーキング迄行き、車を預けて、「志津駅入口」信号を9:30スタート。

(注:解説で街道の左側、右側とは成田山に向っての左右です)

「津田沼駅入口信号~志津駅入口信号」← 「目次」 →「海隣寺坂~京成成田駅」


【縁結神社 (右側) 10:03
 「ユーカリが丘駅」を過ぎて暫く進み、左後ろから来る「八千代バイパス」と合流した信号左側に小さな社の縁結神社がある。
 国道の左側から写真だけ撮って、近くには行かなかった。
  
 


【小竹(おだけ)城跡】 (左奥) 10:10~10:17
 右手「上座総合公園」入口を過ぎ、「上座」信号を左折して350m。道が左にカーブする場所の右側にカーブミラーが立っている所が小竹城跡入口である。
    

 上の写真のカーブミラーの後ろに説明板が立ち、カーブミラーと桜の木の間の草道を入った所に小竹五郎の墓が建っている。
 墓石の正面には『
(右上に)千葉六家之墓 (真中に)小竹五郎之墓』、右面に『維明治廿六発巳年十一月穀旦(吉日) 先祖為菩提高橋弥右エ門建之』と刻まれていた。
 また、五郎之墓の右隣の二基の小さな墓には、子供を抱いた仏が彫られていることから子供の墓と思われる。寛延三年(1750)文字が刻まれていた。

【小竹城跡と小竹五郎の墓及びその周辺の里山風景】 佐倉市市民文化遺産
  選定年月日  平成二十三年三月一日
  種     別  自然資産
  員     数  一件及び一基
 小竹城は、明徳年間(1390年頃)小竹五郎高胤によって築城されたと伝えられています。現在では一辺約五〇メートルの土塁や空堀が残るみですが、城址を大切に思う住民により、一帯は墓とともに代々守り継がれてきました。
 周辺に残る樹林や湧水を含む豊かな里山風景と合わせて、貴重な自然資産です。
     
平成二十四年三月 佐倉市教育委員会

*選定地は民有地ですので、許可なく立ち入ることはおやめ下さい。


 カーブミラーの道を入って行き、左に曲がると丸い土塁に挟まれた城郭の入口である虎口
(こぐち)が現れる。
  

 右の土塁の前には小竹城跡の説明付き標柱が立っている。
 この後方や右手にも土塁や空堀が続くが、民有地なので無断で入れず、ここから引き返した。土塁に囲われた曲輪には民家が建っていた。

【小竹城跡】
 小竹城は小竹氏の居城としての伝承を残す。しかし臼井氏の一族が小竹氏を称するのは十三世紀のことと考えられるのに対し、遺構の構造から判断される築城時期は十六世紀初頭とされている。遺構としては土塁・空堀・虎口等があり、居館的性格を濃厚に有する中世城郭である。

【皇産霊神社】 (右側) 10:22
 「上座」信号に戻った街道右側に皇産霊神社がある。
 この神社は、”みむすび”、”すめむすび”、”すめみむすび”、”こうさんれい”など色々読み方があるがここは?
 社は無く、正面に『皇産霊神社』と刻まれた石碑と、その周りに出羽三山碑が沢山建っている。
 こちらも、街道の左側から写真だけ撮った。
  
 


【不動明王堂・太子堂・馬頭観音 (左側) 10:28
 この先下り坂になり、坂の途中左側、フェンス内の広い敷地に二つの祠(大師堂・不動堂)と馬頭観音等が沢山並んでいた。
  大師堂 不動堂内部


 坂を下り切った所で、手繰川に架かる「手繰橋」を渡って臼井に入る。
 成田街道は右カーブする国道と分かれて左の旧道に進む。
  


<昼食> 10:45~11:20
 旧道に入ってすぐ右にある「ファミリーマート」のイートインで昼食とした。
 この先暫く食堂は無い。


【成田みち道標 (左側) 11:29
 旧道に入ると急な上り坂になるが、程なく平らになり、やがて丁字路に突当る。
 その突当りに文化三年(1806)の成田みち道標が建ち、隣に佐倉市教育委員会の朽ちかけた標柱が立っている。
 おそらく標柱に説明文が書いてあったのだろうが、全く読めない。
 道標の正面には『右 成田ミち』、右側面に『左 江戸みち』、左側面に『西 さくば道』と刻まれていた。
  


【實蔵院 (寄り道) 11:36
 成田街道は、この道標が建つ丁字路を右折するが、臼井城跡等へ道草する為、左折する。
 左折して、直ぐ次の道を右折すると正面に實蔵院がある。
 緩やかに上っている参道右側に如意輪観音等の石仏が10基程並んでいる。
  

 山門を入った正面に本堂、その手前左側に旧制明倫中学跡の碑が建っている。

【旧制明倫中学跡】 
 明治三十六年(1903)、明倫学校は臼井台の真言宗豊山派実蔵院に、住職の山口永隆によって創立されました。建学の目的は、開祖弘法大師空海の綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)(一般庶民のための学校)にあやかり、農家の子弟に中学教育を授け、ひいては当時の疲弊した農村の振興を担う後継者を育成することでした。
 当初は校長兼教員の山口永隆を中心に、仏教精神の下に男子生徒二十七人の教育に当り、その後生徒も増え、大正十五年(1926)には中学校同等の資格を得て、翌年に明倫中学と改称されました。
 そして昭和五年(1930)には生徒数五〇〇名の増員許可を得るほどになりました。
 その後、農村不況の波を受けて生徒数が減少し、私学運営が難しい時代に入りました。この苦境にあって、山口は建学の精神を胸にさまざまな努力を重ねました。
 そして、多数の卒業生を送り出した中学は、昭和十七年(1942)第三十七回卒業生を最後として四十年の歴史を閉じました。
     平成二十三年一月 佐倉市教育委員会

【子安観音道しるべ (寄り道) 11:44
 實蔵院を後に、そのまま元(道標)に戻らずに北へ進むと、緩やかに右カーブする途中に左へ入る道がある。
 そこは曲がらずに真直ぐ行くと、すぐ左側の角地に安政四年(1857)の子安観音道しるべが建っている。
 台座には道しるべが刻まれているが擦れているので、ネット(佐倉市の道標)で調べた碑文を載せる。
 『安政四丁巳八月吉日  右ハ さくら  左ハ くすのき  五郎右エ門  七朗兵エ  杢右エ門〔他一名〕 伊左エ門〔他四名〕』
 ”くすのき”は、八幡神社の大楠とのこと。
  


【臼井妙見社(星神社) (寄り道) 11:50
 その先、突当りを左折。その突当りに『臼井史跡めぐりコース』の標柱(道標)が立っている。
 次の二股道を左に入ると直ぐ左に臼井妙見社がある。

【臼井妙見社(星神社)】 
 臼井城築城の時、城内の鬼門の地に創建された社のひとつといわれているが、縁起は、明確でない。祭礼は八月二十一、二十二日である。
 妙見とは北斗七星を神格化したもので、鎮護国家、徐災寿福の菩薩である。 千葉市一族にとってはその祖平良文以来の守護神で、その所領には、必ず妙見をまつり尊崇したという。  一族の家紋である、「月星」「日月」「九曜」は、この妙見に由来しており、当神社の社紋ともなっている。
 なお妙見社下の八幡台に通じる道には「左くすのきみち 右さくらみち」と刻まれた石仏道標がある。 これは赤子を抱いた子安観音で、側面に安政四丁巳(1857)と彫ってあり、成田街道から楠の大木のあった八幡神社旧山王社へ入る道標を兼ねていた。
     臼井田環境整備委員会

太田図書の墓】 (寄り道) 11:53
 二股に戻り、こんどは右へ進むと、次の二股の右側高台に太田図書の墓が建っている。

【太田図書の墓】 
 室町時代の中期、千葉市一族は、古河公方と管領上杉氏との抗争に巻き込まれ、二派に分かれて争った
 文明十年(1478)十二月、上杉方の太田道灌は、公方方の千葉孝胤(のりたね)を境根原の(松戸市小金)戦いで敗り、敗退した孝胤勢は、 一族の臼井持胤・俊胤の守る臼井城へ逃げ帰った。翌文明十一年(1479)正月、道灌の弟太田図書助資忠と千葉自胤(武蔵千葉氏)の軍勢が臼井城を包囲したが、城の防備があまりに堅固なため、一旦引揚げようとした。その時、城兵がどっと討って出て太田勢と、激しい戦いとなり、ついに落城したが、図書助外五十三人がこの地で討死にしたという。
     臼井田環境整備委員会

【臼井城跡 (寄り道) 11:56~12:15
 太田図書の墓のある二股を右へ下ると、直ぐ右手に臼井城跡がある。
 入口には『臼井城跡』と刻まれた石標と説明板が二枚立っている。

【臼井城跡】 
 千葉氏の一族臼井六郎常康が臼井に居を構え、臼井氏の中興の祖といわれる興胤(十四世紀中頃)の代に、この城の基礎がおかれたと伝えられる。現在の遺構は十五世紀以降のものと考えられるが、城跡は本丸、二ノ丸を中心として、空堀、土塁等の旧態を良く残している。
 戦国時代の末期には源氏が城主であったが、天正十八年(1590)小田原落城により、千葉氏とともに滅んだ。以後酒井家次三万石の居城となって、慶長九年(1604)の転封まで使用された。太田道灌・上杉謙信の軍との攻防戦は有名である。
     昭和六十二年三月 佐倉市教育委員会


 上の写真の坂を上った所が二ノ丸跡で、右手の方へ行くと、更に高い所に本丸跡がある。
 
二ノ丸本丸の間は空堀によって区切られているが、本丸へ上る狭い坂道には土橋がある。

【土橋】
 土橋は、空堀により区切られたⅠ郭(本丸)の坂虎口(出入口)とⅡ郭(二ノ丸)を結ぶ通路の役割を果たしていました。
 土橋の幅を狭くすることで、一度に多勢の敵が渡れなくなります。さらに、曲がった坂をつけて敵の進む速度を低下させ、北にあるⅠ郭の土塁上から側面攻撃を受けやすくなるように工夫されています。
 現在は、盛土によって覆い、保存しております。
     平成十二年三月 佐倉市教育委員会


 上の写真の土橋を通って坂道を上ると本丸跡に出る。今日はあいにくの雨だが桜が満開で綺麗だった。
 下記文章は、城跡の入口に立っていたもう一枚の説明文である。

【城嶺夕照】 名勝・臼井八景
   いく夕べ 入日を峯に送るらん
          むかしの遠くなれる古跡
 永久二年(1114)に千葉常兼の三男常康が初めて臼井の地を治めて以来、十六代臼井久胤までの約四百五十年間、臼井氏は長くこの地の領主であった。その後臼井城は源氏や徳川家康の部将酒井家次の居城となったが、文禄三年(1593)の火事によって、この台地にあった城郭は焼失してしまった。「臼井八景」は、それからおよそ百年後の元禄期に作られたものである。臼井久胤の玄孫にあたる「臼井八景」の作者は、夕映えの美しい城跡の嶺にたって、自分の先祖が臼井城の城主であった頃の遠い昔を偲びながら、感慨深く前掲の歌を作り上げたものである。
 城跡の近くには、往時の土塁や空堀の一部が今でも昔のままに残っている。本丸跡の発掘調査により、十五世紀の中国・明時代の陶磁器の破片や、城が火事になった時の焼け米などが発見されている。
 北側の山裾には、第六代城主臼井興胤が1339年に創建した端湖山円応寺がある。また空堀の近くには、文明十一年(1479)に臼井城を攻めて討死した太田道灌の弟・図書の墓がある。
     題字 佐倉市長 菊間健夫   撰文 立原三知男


 本丸跡から北東を望むと、印旛沼が見下ろせた。晴れていればさぞかし綺麗な事だろう。
  


雷電為右衛門顕彰碑】 (右奥) 12:20
 城跡から成田みち道標に戻って成田街道を東に進むち、次の右への道の入口に雷電為右衛門顕彰碑の説明板が立っている。
 そこから右の坂道を下って行くと、右側に「すみれ保育園」と「妙覚寺」があり、寺の山門向かいに、大きな雷電之碑が建っている。
 この場所に立っていた雷電の経歴をつづった説明板は下部が擦れて読めなかったが、手形は非常に大きかった。

【雷電為右衛門顕彰碑】
 
江戸時代の寛政から文化年間にけて無敵を■(言に区)われた名大関雷電為右衛門(1767~1825)の等身大(一米九六)画像に佐久間象山(1811~64)筆の丁一文字を配した巨大な顕彰碑が妙覚寺(この奥に入る)境内にあります。
 雷電歿後百五十三年の命日に因んで建立されたものです。
     佐倉・雷電顕彰会

【妙傳寺 (右上) 12:32
 街道に戻って、下り坂が始まる右上に妙傳寺がある。
 赤い鐘楼門だけ撮影して境内には入らなかった。
  


【雷電為右衛門夫妻と一女の墓 (右奥) 12:39
 下り坂が終わる寸前の右角に「雷電の墓→」の標柱が立っているので、ここを右折。
 140m程進むと「すみれにこにこクラブ」があり、その左手奥に雷電為右衛門夫妻と一女の墓が建っている。

【雷電為右衛門夫妻と一女の墓】 
 雷電為右衛門は文政八年(1825)二月十一日没、五十九才(数え)。雷電夫人のおはんは文政十年一月二十日没、六十一才、二人の間に一女(名不詳)があり寛政十年(1798)七月八日、幼く没していることが墓石からうかがわれます。全国に四ヶ所ある「雷電の墓」のうち、家族が眠るのはここだけです。
 ここはもと浄行寺(日蓮宗)の墓地で、おはんの生家の菩提寺だったところです。

【雷電夫人おはんの甘酒茶屋あと (左側) 12:45
 街道に戻り、突当りの信号を左折して国道296号に合流する。
 直ぐの、国道が右カーブする寸前の左側に「武藤自動車整備工場」があり、ここが、雷電夫人おはんの甘酒茶屋跡である。
 階下の駐車場右奥に説明板が掲げられている。

【雷電夫人おはんの甘酒茶屋あと】 
 むかし成田詣での客で賑わった臼井上宿のこの場所(現武藤自動車整備工場)に、「天狗さま」の屋号で知られた甘酒茶屋があり、おはんはその看板娘でした。まだ関脇時代の雷電為右衛門が店に立ち寄り、彼女を見初め妻に迎え、八重と名を改め、一女をもうけます。
 そんな縁で晩年の雷電はしばらくここに住んだと伝えられています。
     佐倉市・雷電顕彰会

【臼井宿】 
 中世には臼井城の城下町として形成されたが、江戸時代初期の慶長九年(1604)廃城になった。その後、成田詣でが盛んになると成田街道の宿場町として再び賑わいを取り戻した。江戸川から片町、上宿、中宿、下宿、新町と続き、旅籠などが軒を連ねていた。


【明治天皇臼井行在所・臼井町道路元標 (左側) 12:46
 街道は、「中宿」信号で突当りここを右折する。
 その丁字路左角に明治天皇臼井行在所の標柱とかすれた木製説明板、また、臼井町道路元標と石製説明板が同じ場所に建っている。

 行在所の説明文は擦れて読めないが、ネットで次の様な文章が見つかった。
【明治天皇臼井行在所】
 明治十四年六月二十九日、同年七月六日及び十五年六月六日、同八日三里塚種畜場に明治天皇行幸の際に御往復共御晝餐を御召しなされたる處である
     昭和十三年十月三十日 

【臼井町 道路元標】
 明治6年に新政府は諸街道の正確な延長を調査するため、道路里程調査を行った。東京は日本橋、京都は三条橋をもって、国内諸街道の元標とし、各府県へ里程を示す木標を立てるように命じた。
 やがて、大正11年には内務省令で、道路元標の設置場所、規格、材料まで細かく規定し、各市町村の枢要な場所に元標が設置されるに至った。尚、この元標は道路新設のため、向かって右側約7米の地点より現在地に移設されてものである。
     昭和62年9月吉日 公益信託臼井街づくり基金 臼井環境整備委員会

【長源寺】 (右側) 12:56
 「中宿」信号で右折し、直ぐ次の信号を右折すると奥に、長源寺がある。
 1550年~1569年まで臼井城の城主だった原胤貞
(たねさだ)が死去すると、翌年その子胤栄(たねよし)が城主になった。
 胤栄が城主になった元亀元年(1570)の12月に、増上寺九世貫主・道誉上人を招いて開山した寺。
  


【道誉上人之墓 (右奥) 13:00
 長源寺門前の左角に『道誉上人の墓』と書かれた標柱が立っているので、門に向かって左へ120m程道なりに進むと、左側に墓地へ上る石段が現れる。上り口には『宿内公園入口』の表示がある。
 その石段を上った所に道誉上人の墓が建っているが、説明文等は無かった。
  


みちしるべ】 (右側) 13:10
 街道に戻り、右手「臼井郵便局」を過ぎ、京成本線の踏切を渡った丁字路の突当りに、みちしるべが鎖に保護されて建っている。
 左に立つ大きい道標の正面に『西 江戸道』、左側面に『東 成田道』、右側面に『南 飯重生ヶ谷道』、裏面に『文化三丙寅仲秋吉旦 品川新宿二丁目 油屋庄次郎(他9名)』と刻まれている。
 その右隣に立つ地蔵塔の正面には『さくら道 願主 文太郎』と刻まれている。

【みちしるべ(道標)】 
 江戸時代の中頃までは佐倉道と呼ばれていましたが、成田山への参詣が盛んになるにしたがい、街道の名称も成田街道 成田道へと移る。
 「西 江戸道」 
   文化三(1806)年に品川新宿の商家によって建てられた。
 「さくら道」
   年号に記されていないが大きな道標よりは古いものと推定される。

     改 修
   公益信託臼井街づくり基金 臼井環境整備委員会

【光勝寺】 (右上) 13:15~13:30
 丁字路を左折してすぐ右の上り道を行くと左に光勝寺(時宗)の本堂と一遍上人の像が建ち、右手には光勝晩鐘の説明板が立っている。

【光勝晩鐘】 名勝・臼井八景
   けふも暮れぬ あはれ幾世をふる寺の 鐘やむかしの音に響くらん
 臼井山光勝寺は臼井氏の祖・常康の菩提寺として臼井台の道場作に建てられた真言宗の寺であった。その後第五代領主臼井祐胤の時世に、一遍上人の弟子・眞教上人が下総へ回国の折、帰依して時宗に改められた。この寺は臼井城が落ちたあと、現在の地に移されたといわれる。現在この境内には、一遍上人のお札くばりの姿像が立ってる。光勝寺の本尊は阿弥陀如来であるが、印旛沼の取水時に流れ着いたと言われる閻魔大王の木造が本堂内に安置されている。
 その昔、臼井の夕暮れ時に光勝寺で搗く梵鐘の音は、殷々として湖岸に響きわり、その鐘声は里の人々に日暮れの時刻を知らせるとともに、村人に心の安らぎを与えていた。―今日も日が暮れて光勝寺の鐘が鳴っている。幾歳月を経た古寺であるが、鐘の音だけは今も昔のままに響きわたっている―と歌の作者は湖畔の夕景を詠んでいる。
 寺の参道を下りた成田街道(296号)の三叉路には、百八十年前の古い道標がある。また近くの沼辺には、第六代城主臼井興胤の乳母・阿辰の、不幸な死を哀れむ石碑が立っている。
     題字 佐倉市長 菊間健夫 撰文 立原三知男 


 この横を更に登って行くと新しい堂宇と、臼井八景『光勝晩鐘』の鐘楼と歌碑が建っている。
 また、ここは高台で遮るものも無いのでバックに印旛沼が綺麗に見える。

【光勝晩鐘】 
 けふも暮れぬ
    あはれ幾世を
         ふる寺の
     鐘やむかしの
       音に響くらん

【馬頭観音】 (左側) 13:48
 街道は右カーブして京成本線に接した後、更に右カーブして暫く進む。
 「新臼井田」信号を過ぎて「八丁坂」を上り始めると、左手に竹薮が見えてくる。その竹薮が始まる草むらに馬頭観音が並んでいる。
  

 この辺りに一里塚があったとされるが、今は何も無く場所も分からない。


【江原(えばら)刑場跡】 (左側) 13:56
 坂を上り詰めた突当りの信号手前の「江原一号公園」に、江原刑場跡の碑が建っている。
 下記、説明文中の首洗井戸は見つけられなかった。

【江原刑場跡(江原)】
 ここは旧佐倉藩の刑場であった。
 天保十四年(1843)三月 蘭医学研究のため、藩医・鏑木仙安が友人小柴百之・広瀬元恭と共に刑死者の解剖を行った。
 これが佐倉藩最初の人身解剖である。
 題目の供養塔は寛政八年(1796)諸宗寺院の建立したもので、附近には首洗井戸がある。
 〔京成臼井駅へ約ニKm(徒歩約二十四分)〕
     昭和五十七年一月 佐倉市

【八幡神社】 (左側) 14:20
 右後ろからの道と合流する突当りの信号を左折し、直ぐの「聖隷
(せいれい)病院入口」信号も越えて「角来(かくらい)」に入ると下り坂になる。
 暫く進んで、更に下り坂の途中左側に八幡神社がある。
 高台で見晴らしが良いとの事だが、60段位の石段を上らなければならない為、下から見上げただけで神社には行かなかった。
  


【角来馬頭観音】 (左側) 14:25
 八幡神社の直ぐ先の信号で左の旧道に入る。
 旧道に入って直ぐ左側に、ブロック製の祠に入っている角来馬頭観音が祀られている。
 真中に比較的新しい板碑、両側に『馬頭観世音』と刻まれた石塔が建っている。

【角来馬頭観音の由来】 
 時は第四代将軍家綱の初期である。佐倉城主堀田上野介正信は老中松平伊豆守信綱の消極的な政治を弾劾し、万治三年(1660)十月八日、幕府に諫書を提出して江戸を無断で立ち退き、只一騎佐倉城に馳せ向かった。そして、角来の八幡神社の前に差し掛かったとき、疲れ果てた馬はついに倒れて息絶えたという。正信の諫書は認められず、江戸を無断で退去した罪により所領十万石は没収された。
 その後佐倉惣五郎伝説に付合して人々は怨霊の祟りによって正信は発狂しこの挙に及んだものであると噂した。
 それから八十六年経った延享三年、正信の弟正俊を初祖とする第五代堀田相模守正亮(後に十一万石老中筆頭となる)は山形から佐倉に転封となった。その八月初めて佐倉城に着任した日だった。角来の八幡神社の前に差し掛かると一人の老人が現れ、正亮の馬の手綱を持って大手門まで案内した。ところが、家臣の目にはその老人の姿は見えなかったのである。不審に思った正亮は家臣の者達に色々と尋ねたところ、一人の老臣が「それは正しく惣五郎の亡霊であろう」と答えた。正亮は「万々この理なき事なり」と笑っていたが宝暦年間に惣五郎を将門山の口之明神に祀り毎年二月と八月に盛大な祭典を行なった。この角来馬頭観音も、そのとき倒れた馬の供養の為、正亮が建立したものと伝えられている。
     佐倉市文化財審議会委員長 青柳嘉忠

【鹿島地蔵】 (右側) 14:30
 旧道は、角来馬頭観音の所で右折して国道に合流する。
 「千葉県工業用水佐倉浄水場」を左に見て、鹿島川に架かる「鹿島橋」を渡るが、橋の手前右側に溺死者の供養と言われる鹿島地蔵が建っている。
  


【佐倉城址公園】 (右上) 14:45~15:30
 「鹿島橋」を渡ったら直ぐ右折して再び旧道に入る。
 旧道に入ってすぐ左折。左カーブして国道を斜めに横断して、国道の左側の旧道に入る。突当りを右折して国道に戻る。
 国道に戻ると右側にが見える。
  

 「歴史博物館」信号を右折すれば佐倉城址入口である。
  

 右折するとすぐ左に田町門跡・愛宕坂の説明板が立っていて、ここから愛宕坂を上って行く。

【田町門跡・愛宕坂】
 成田街道に沿った城下町の一部「田町」から城内への門で、門の裏手に番所がありました。現在歴博のある場所は椎木曲輪と呼ばれ武家屋敷がありました。田町門から現在歴博のある椎木曲輪へ上がる坂は、愛宕神社の下にあるため「愛宕坂」と呼ばれていました。現在の歴博入口は連隊建設の際にまっすぐに出入できるように変更されたものです。


 坂の途中右手に臼杵磨崖仏のレプリカがあり、上り切った右側に「国立歴史民俗博物館」
(上の写真の建物)が建っている。
【城址公園案内】
 佐倉城は台地と沼・川など自然の地形を巧みに生かして、近世の初め徳川氏の命により老中土井利勝が完成したといわれます。
 佐倉城址は、印旛沼の南岸に注ぐ鹿島川の河口近くの小高い台地上にあり、昭和39年に佐倉城址公園として計画決定されました。


 「博物館専用駐車場」の脇を抜けると城址に入って行く。
 入って右に曲るが、その右手に馬出し空堀がある。
 次いで左に曲がると右に椎木門跡の説明板が立っている。背後には桜が綺麗に咲いていた。

【椎木門跡】
 北面、木造、本瓦葺、二階造り、梁間三間、桁行七間。
 前面に馬出しが設けられていた。
     国立歴史民俗博物館


 道成りに進むと、右に空堀の説明板が立っている。

【空堀】 
 城の防御のための溝で水の無いものを空堀と呼びます。空堀は土塁とともに城を外敵から守るために掘られたもので、空堀を巧みに配置し城の守りとしています。また、水のあるものを水堀と呼びます。


 突当りを右折すると、右角に堀田正睦公像が、左角にタウンゼント・ハリス像が建っている。
 その二つの像の間を行くと、直ぐ右側に二の門跡の説明板が立っている。突当りを左折すると三の門跡を出て大手門に至る。

【二の門跡】
 東面、木造、本瓦葺、二階造り、梁間三間、桁行八間。
 本丸から大手門にいたる第二の門で「二の御門」と
呼ばれていた。
 一の門の東方一直線上にあたり、武器庫として使用された。門内は二の丸といい、藩政を執る役所が置かれていた。
     佐倉市


 その直ぐ先左に子規の句碑が建っている。

【常磐木や冬されまる城の跡】
 明治期における俳句・小説家・文芸評論・写生画などに活躍した正岡子規(1867~1902)は、1894(明治二十七)年十二月、本所駅(現錦糸町駅)-佐倉間に開通した総武鉄道に初乗りして佐倉の地を訪れています。
 子規は、総武鉄道佐倉駅(現JR佐倉駅)より、まず佐倉の街の広がる「馬の背」のような台地を眺め、「霜枯の佐倉見上ぐる野道かな」を読んでいます。現在の表町、新町方面より、日清戦争における清国人捕虜収容所となっていた海隣寺の前を通っています。その後、海隣寺坂(現市役所脇の坂)を下り、田町を抜け、田町の堀付近(現歴博下水堀付近)で城を眺め、この句を詠み、もとの道を佐倉駅へ引き返しています。
 子規は佐倉の麻賀多神社で幼少期を過ごした鋳金工芸作家の香取秀真や旧佐倉藩士であり佐倉で幼青年期を過ごした洋画家の浅井忠とも親交がありました。
 「霜枯の佐倉見上くる野道かな」の句碑は、JR佐倉駅前城南端付近にあります。
     平成二十七年十二月 佐倉市役所 産業振興課


 その先、本丸跡入口の左に一の門跡の説明板が立っている。

【一の門跡】
 東面、木造、本瓦葺、二階造り、梁間四間、桁行八間。
 本丸からみてはじめての門で一二の御門」と呼ばれていた。門内は本丸といい、天守閣、銅櫓、角櫓
、御殿が置かれ、御殿の前庭には金粉をすりこんだ栗石が敷かれていたと伝えられている。
     佐倉市


  本丸跡の写真
  
 

 本丸跡に入ってすぐ右手に土塁がある。

【土塁】
 佐倉城は石垣のない土づくりの城です。城の防御のための土手を土塁と呼びます。土塁は城を外敵から守るために築かれたもので、土塁を巧みに配置して市路の守りとします。本丸の土塁の上には土塀が存在しました。 


 その先、右手に夫婦モッコクが聳えている。

【佐倉城の夫婦モッコク】 千葉県指定天然記念物
 モッコクは清澄山より東海道以西、四国、九州の近海地に自生する小喬木である。
 本樹は、もともと二株植えられたもののうち、一株が夫婦モッコクになったものか、三株寄植えしたもののうち二株が癒合してできたものか、明らかでない。樹高十一・六メートル、目通り幹囲二・六メートルで、モッコクとしては巨木である。
 佐倉城の築城については、「土井利勝が慶長十六年(1611)から元和三年(1617)まで七年をかけて完成し規模こそ小さくとも本丸等に種々の庭樹を植え雄大な風格を示した」との伝えがある。
 このモッコクは庭樹の一つであったと考えられている。佐倉市松林寺境内にも巨木が所在する。
     昭和五十七年二月十一日 千葉県教育委員会 佐倉市教育委員会

【兵士が文字を彫り込んだモッコク】
 本丸跡にある県指定天然記念物。幹に「昭和十八年十月」「砲隊」といった落書きが彫られています。


 夫婦モッコクの左手に佐倉城天守跡があり、『下総国佐倉城天守跡』の石碑が建っている。

【佐倉城本丸天守及びその石碑について】 
 佐倉城の天守(天守閣)は、2段の土塁上に片側を掛ける造りでした。
 本丸側からは4階建て、反対側崖下(搦め手側)からは3階建てに見えました。
 その造りを石碑で再現しています。
 天守(天守閣)は、文化十年(1813)に盗人の行燈が倒れたことによる火災により焼失し、その後再建されませんでした。
 天守(天守閣)の模型は、城址公園東端にある佐倉城址公園センターに展示されています。
※佐倉城は、旧下総国周辺に良好な石の産地がなかったこと等から石垣を使用していない珍しい近世城郭です。
 その一方で戦国時代から続く土の城の最終到達点(集大成)といわれています。
     平成29年3月 佐倉市


 帰りは、一の門を出た所で左手の空堀(下の写真)を見ながら二の丸跡(下の写真で奥の台地)へ進んで、「博物館専用駐車場」の入口迄戻る。
  

 入口直前で、右下へ降りる階段があり、「姥が池」と「JR佐倉駅」への案内があったのでそちらから帰ることにした。結果、かなり遠回りになってしまったが大手門跡等を見ることが出来た。
 下り切ると姥が池と菖蒲園や梅林等の気持ちのいい広場があった。

【姥が池】 
 この池は江戸時代、かきつばたの名所でした。春先には近在のひき蛙が数千匹あつまり、左右にわかれて昼夜7日間、蛙合戦を行っていたと、「古今佐倉真佐子」(江戸時代中頃の書物)に記されています。
 後に(天保年間)この池のまわりで家老の娘をおもりしていた姥があやまって娘を池に落としてしまい娘はそのまま沈んでしまいました。姥は困り果て身を投げたと伝えられ、以来「姥が池」といわれるようになりました。


 姥が池からは上り階段になって、南東側の佐倉城址公園入口に出る。
 以前(2014年6月3日)に訪れた時はこちら側から城址公園に入り、三の門跡を通り、二つの像の間を抜けて本丸広場に向かった。当時は天守の碑と説明文は無かった。


【大手門跡】 
 南東側の城址公園入口を出て、右(南)佐倉東高校、左(北)佐倉中学校前の間を進むと、中学校の校門向かいに大手門跡の案内板と石碑が建っている。

【大手門跡(追手門)】 
 大手門は惣曲輪の表門。この門の西側には広小路、中下町、大下町といった武家屋敷地が整備され、三の丸御殿、会所なども置かれていた。
 中央に広小路通りと重臣屋敷の塀が写されている(説明板の写真)
     佐倉市

【成徳書院跡】 
 直ぐ先右側の「市民体育館」入口に成徳書院跡の石碑と藩校の絵図が建っている。
 碑には『佐倉藩 藩校 成徳書院跡 藩校創立二百二十周年記念』と刻まれていた。
  


【済生病院】 
 成徳書院跡の隣にある「印旛郡市広域市町村圏事務組合水道企業部」の前に済生病院の説明板が掲げられている。
【浜野昇と済生病院】
 浜野昇(1854~1920)は、堀田家に古くから仕える藩医の家に生まれ、順天堂二代目堂主の佐藤尚中に師事し、西洋医学を学びました。明治三年(1870)、尚中とともに東京に出て、大学東校(東京大学医学部の前身)に入学しドイツ医学を学んでいます。卒業後、陸軍軍医として西南戦争に従軍しました。
 済生病院は、反乱軍鎮圧後佐倉に戻った昇が、明治十三年(1880)にこの地に開設した私立病院です。本町の佐倉順天堂病院とともに、『日本博覧図 千葉之部初遍』に『千葉懸佐倉町私立済生病院』として紹介されており、地域医療の発展に貢献しました。
 昇は、明治十六年に再び鹿児島に赴き、鹿児島医学校校長兼病院長・鹿児島県地方衛生委員会に就任します。以後、明治十八年に佐倉に戻るまで、地方の衛生行政に関わることとなります。佐倉に帰省後は病院長として患者の治療にあたる一方で、明治二十四年の大日本私立衛生会佐倉支会の結成に尽力し、衛生知識の普及活動を広げていきました。
 また、医師として活躍するだけでなく、千葉県会議員、佐倉町会議員、衆議院議員などをつとめ、政治家としての活動も行い、医学教育の重要性を説きました。ほかにも台湾の医療の普及に協力したり、千葉県立佐倉中学校(現県立佐倉高校)の初代校医に就任し、地域の医療の普及に心血を注いだ人物として知られています。
     佐倉市教育委員会


【麻賀多(まかた)神社】
 程なく国道296号の「新町」信号に着くが、その手前に麻賀多神社がある。

【麻賀多神社略記】 
御祭神
 稚産霊命(わかむすびのみこと) 
 お名の「稚」は若い、「産霊」は形成するの意で、若いものを育てあげるという御神徳を表しておられ、人・作物・事業等の生成、発展をお加護くださる神さまで、お稲荷さまの御親神にあたられます。
御由緒
 麻賀多神社と云う神社という社名は、今から一、〇五〇年ほど前の政令というべき「延喜式」の下総の項に、この社名がすでに記載されております。
 佐倉の総鎮守、産土(うぶすな)さまで遠い昔から「まかたさま」とこの地方の人々にしたしまれ崇敬されてきたお社です。徳川時代は佐倉城の大手門近くに位置する神社なので歴代の城主、家臣も城地鎮守の神としてあがめました。現在の御社殿は天保十四年藩主堀田正睦公が再建、境内前面の石垣は明治初年に最後の藩主同正倫公が奉納されたものです。
御例祭
 一〇月一四・一五・一六日
 御神幸に使用される大神輿(大輪巾一五一せんち、市指定文化財)は享保六年、当時の藩主稲葉正知公の家臣と町方が協力し金子三〇〇両の経費をかけ製作されてもので、今日数少ない江戸神輿の代表的な存在です。


 「新町」信号を左折し成田街道を逆に京成佐倉駅を目指して戻り、佐倉市役所脇の海隣寺坂下で本日の行程を終了。
 「京成佐倉駅」より「志津駅」に戻って車で帰宅。


【佐倉城址周辺の名所】
 
2014年6月3日に訪れた名所を紹介


【武家屋敷】
 麻賀多神社の少し南に武家屋敷通りがあり、江戸時代の武家屋敷が5棟残り、内3棟が一般公開されている。
 通りには、東から旧河原家住宅くらやみ坂旧但馬家住宅旧武居家住宅大聖院ひよどり坂等があり、風情のある通りとなっている。
公開されている武家屋敷の情報
  開館時間  9:00~17:00
  休館日   月曜日(祝日の際は翌日) 年末年始(12/28~1/4)
  入館料   ¥210
【宮小路(旧鏑木小路)の武家屋敷通り】
 近世の初め(慶長-元和)初代佐倉城主土井利勝が鹿島台に築城し東方に城下町を廃しました。武家屋敷は城内および城外の地元で尾余(びょう)と呼ぶ台地の先端部に屋敷割されていました。
 ここ宮小路の武家屋敷は、なかでも往時のおもかげが良く残っているところで、通りに面したところに土手を築き、その上に生垣を巡らせています。
 これは馬上から屋敷内を覗かれないようにするためだと伝えられています。
 屋敷内には小さな畑があり、うしろは急な崖で、シイ・竹が生い茂り緑に包まれた、たたずまいとなっています。

【旧河原家住宅】 
  

【くらやみ坂】 
  

【旧但馬家住宅】 
   

【旧武居家住宅】 
  

【大聖院】 
 佐倉藩刀工細川忠義の墓があり、本尊は佐倉市指定文化財です。
 美しい和風庭園があります。
  

【佐倉 サムライの古径(こみち) ひよどり坂】 
 武家屋敷通りの西外れにあり、江戸時代とほとんど変らない竹林に囲まれた古径です。
  

【旧堀田邸・さくら庭園】 
 麻賀多神社の南東、国道296号と旧成田街道の間に旧堀田邸・さくら庭園がある。



【旧堀田邸(重要文化財 旧堀田家住宅・さくら庭園】
 旧堀田邸・さくら庭園は、最後の佐倉藩主であった堀田正倫が、旧領地に住居を移すために建設した建物と庭園です。
 主屋は木造平屋建て一部二階建て、屋根は寄棟造瓦葺きの建物5棟で構成され、明治23年(1890)に竣功しました。その後、明治44年(1911)には湯殿が増築されました。主屋や門番所、土蔵はほぼ建設当時のまま良好な状態で残されております。庭園には、芝を中心に赤松やサルスベリなどの樹木と景石や石塔を配し、高崎川と対岸の台地を借景にした眺望が広がっています。
 平成9年3月26日に佐倉市指定文化財名勝に、平成13年3月30日には千葉県指定文化財名勝にそれぞれ指定され、平成18年7月5日には住居部5棟と門番所、土蔵の合計7棟が国の重要文化財(建造物)に指定されました。


5回目の旅終了(16:10)。京成佐倉駅。

本日の記録】
 現代の街道のみの距離は、9.0Km(「志津駅入口」信号~海隣寺坂)。
 累計:水戸街道と成田街道の追分(「中川大橋東」信号)から、39.1Km。
 寄り道を含めた実歩行距離は、17.0Km (志津駅~京成佐倉駅) 累計:65.0Km
 6時間40分 27,800歩。

「津田沼駅入口信号~志津駅入口信号」← 「目次」 →「海隣寺坂~京成成田駅」