由比宿 (後半)・興津宿 (由比駅→清水駅) <旧東海道17回目>

2003年1月1 0日(金)快晴  

 由比駅手前(2Km弱)の由比川河川敷無料駐車場に車を置いて前回の終着点である由比駅まで20分歩き、駅を本日の出発点とし、10:00スタート。

(注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

「蒲原宿 ・由比宿(前半)」 ← 「目次」 → 「江尻宿」


 旧東海道は、由比駅前の道と国道1号線が合流した地点、寺尾陸橋を右に入ります。この辺りから味わいのある古い町並みが続く寺尾集落になります。

 集落入口に「由比町観光案内板」(由比町の絵図)が掲げられています。

【寺尾(昔の街道を見る)】 

 ここ寺尾には昔、南方寺という真言宗の寺があり地名の起源となったと伝えられている。

 昔の家並みは海ぞいにあったが、たびたび津波の被害をうけ、そのため天和二年(1682)高台に新道を改さくし東海道とした。

     由比町教育委員会


【小池邸】 (左側)

 寺尾の集落に入って250mで「讃徳寺」(トイレあり)、更に250mで名主だった「小池邸」があります

 お休み処もあり休憩場所として最適です。

 入館無料。休館日:月曜。開館時間:9時30分〜15時30分(11月〜2月は10時〜14:30)

 小池家は昔、甲州 武田氏家臣が当地に移住し、江戸時代には代々小池文右衛門を名のり寺尾村の名主を務めました。

 この建物は、明治期に建てられ、大戸・くぐり戸・ナマコ壁・石垣等に江戸時代の名主宅の面影を残しています。

 町では東海道を行き交う人に休息の場として使っていただくために、購入して修復工事を行い東海道名主の館「小池邸」として蘇らせました。

     平成十年三月 由比町

 庭には、水琴窟があり小石の上に水をたらすと爽やかな音がし、備え付けの竹筒を耳にあてがうとさらにはっきり聞こえます。


【東海道あかり博物館】 (右側)

 小池邸の向かいにあります。

 日本の灯具が多数展示されているそうですが、入館料500円は高すぎる。


【松原・立合台地】 

 大沢橋を渡り、倉沢に入る少し手前の左側の茶屋跡地から眺望がいいです。

 山と海岸の狭い間に、JR東海道線・国道1号線・東名高速道路が接してカーブしており、富士山の上部が綺麗に見えました。 


【倉沢屋】 (左側) 10:30 

 桜えび・磯料理で有名な店。早めの昼食をと思っていたが、開店が11:30の為この時間では開いておらず、峠を越えるまで昼食はお預けとなってしまった。


【鞍佐里神社】 (右側)  

 権現橋を渡った所にあります。

 「日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の途中、賊の焼き打ちの野火に逢い、自ら鞍下に居して神明に念ず、其鞍、敵の火矢によって焼け破れ尽くした。依って鞍去(くらさり)の名あり」と伝えられ、鞍去が後に倉沢と転訛したともいわれている。

 鞍佐里神社は尊(みこと)が野火にあったさった峠の雲風か山中あたりに建てられていたが、後に現在地に移されたものと思われる。

 神社拝殿の蟇股(かえるまた)には尊が野火を払うところが見事に彫刻されている。

     平成四年三月 由比町教育委員会


【間の宿 本陣跡】 (左側) 

 西倉沢に入ると古い家が多くなります。

 ここ西倉沢は、薩埵峠の東坂登り口に当たる間の宿で十軒ばかりの休み茶屋があって、旅人はここでお茶を飲み、疲れをいやし、駿河湾の風景を愛で旅立っていった。

 ここ川島家は、江戸時代慶長から天保の間凡そ二百三十年間、代々川島助兵衛を名のり、間の宿の間目改所の中心をなし、大名もここで休憩したので村では本陣と呼ばれ、西倉沢村名主もつとめた旧家である。

     平成四年三月 由比町教育委員会


明治天皇ご小休 柏屋】 

 本陣跡のすぐ先にあります。

 江戸時代から間の宿にあって、柏屋と称して茶店を営んできた。

 明治九年及び十一年、明治天皇ご東幸のみぎりは、ご小休所に当てられた。

 明治十五、六年頃、静岡県令大迫貞清が療養のため柏屋に逗留された際、倉沢の気候風土が郷里の九州ににているところから、田中びわの種子をとりよせ栽培をすすめ、当地に田中びわが普及するところとなった。

     平成四年三月 由比町教育委員会


【間の宿 藤屋】 (左側) 

 薩埵(さった)峠の登り口の前にあります。

 薩埵峠の東登り口に位置しているところから一名を坂口屋といわれ、本来は藤屋と称して茶店を営み、磯料理、あわび、さざえのつぼ焼きを名物としていた。

 ここより富士山の眺望がよいので「望嶽亭」と称し、文人墨客が好んで休憩したといわれている。

     平成四年三月 由比町教育委員会


【一里塚跡 (由比町西倉沢)】 (右側) 

 薩埵峠の登り口に「一里塚跡」の石柱と案内板が立っています。

 江戸から数えて四十番目の一里塚である。だから江戸から凡そ160キロの距離にある。

 ちなみに由比駅〜東京駅間は158.4キロである。この一里塚は薩埵峠東登り口に位置し、塚には榎が植えられていた

     平成四年三月 由比町教育委員会

 一里塚碑の反対側(海側)に、「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。

興津宿(宿境まで一里十四町) ← 由比町 倉沢 → 由比宿(宿境まで三十一町)

 一里塚碑の傍に竹の杖が置いてありました。早速借りて峠越えをしましたが、使うと結構楽です。

 その杖置き場には、薩埵峠の案内がありました。

【ふるさとを見なおそう 薩埵峠】

 戦国時代、足利尊氏が弟直義と合戦せし古戦場として知られ、又東海道随一の難所「親知らず子知らず」の悲話が伝えられている。

 峠は磐城山(いわきやま)・岫先(くまざき)ともいい万葉集に「磐城山ただただ越えきませ磯崎のこぬみの浜にわれ立ちまたむ」と詠まれ、江戸時代安藤広重の東海道五十三次のうち、ここ薩埵峠より見た富士山、駿河湾の景観を画いたものは、あまりにも有名です。

 (山の神 薩埵峠の風景は 三下り半にかきもつくせじ  蜀山人)

     昭和四十八年四月 倉沢区倉和会


 登り始めるとすぐにみかんの無人販売所があったので、ぽんかん(3個¥100−)を買って食べながら峠をめざしました。山道は険しくなく、比較的穏やかです。

 道沿いの途中途中で振り返ると、夏みかんとびわの木の間から富士山がとても綺麗に見えます。

 薩埵峠からの美しい富士山を見たくて、快晴になるこの日を待って来たかいがありました。

 美しい富士山を見るには、空気の綺麗な冬がお薦めです。

 しばらく登ると駐車場になっている見晴台に出て、更に海の青さと富士山の白雪に感嘆します。

 駐車場先端の駿河湾を見下ろす所に二基の石碑(道標)と「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。

興津宿(宿境まで一里三町) ← 由比町 薩埵峠 → 由比宿(宿境まで一里六町)

 薩埵峠を越えるルートは3つあり、望嶽亭を左に下りるのが下道で、かつては親不知子不知の海道の岩間を通る難所であった。中道と上道は、望嶽亭の前を右に登る道で、登りきった左側の駐車場に入らずに真直ぐ林間を行くのが上道。駐車場に入って左奥の階段を下りるのが中道です。

 当然私達は、広重の浮世絵と同じ景色が見られ、遊歩道として整備されている最もポピラーな中道を行きましたが、その前に上道を少し行って「駒の爪跡」碑を見てきました。


【駒の爪跡】 (上道の右側)

 駐車場入口から上道を少し登り、下りきったところの右側に小さな石碑があります。

 日本武尊が東征の折り、あまりの悪路に馬の鞍が壊れて取り替えたという。

 ここを見て再び駐車場に戻り、中道を進むと展望台があります。ここから見える景色が右下の写真です。


薩埵峠】 

安藤広重の東海道五拾三次之内・由比『薩埵

展望台から望む現在の風景

 

 展望台から少し行くと、牛房坂に出ます。坂といってもしばらく平らですが、ここには薩埵峠の案内板と「牛房坂」の石柱があります。

 この日は、紅梅がすばらしく綺麗で、赤い花、青い空、白い富士山と絶妙のコントラストでした。

【薩埵峠】

 薩埵峠は、東海道興津と由比宿の間に横たわる三キロ余の峠道で、古来、箱根・宇津の谷・日坂などと共に街道の難所として知られてきました。

 江戸幕府の東海道伝馬制度が定められたのは関が原の戦いから間もない慶長六年(1601)のことで、その後「一里塚」なども整備されましたが、この峠道の開通はずっと遅れて、明暦元年(1655)と記録されています。

 薩埵峠には上道、中道、下道の三道がありました。下道は峠の突端の海岸沿いの道であり、中道は、明暦元年に開かれた山腹を経て外洞(そとぼら)へ至る道です。また上道は、峠を下るところより内洞へ抜ける道であり、この道が江戸後期の東海道本道です。

【風光明媚な絶景の地】

 その昔、現在の富士市から興津川河口一帯を田子の浦と呼んでいました。万葉の歌人、山部赤人の有名な歌は、この付近から詠まれた歌ではないかと伝えられています。

   田子の浦ゆ うち出てみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りけり

 また享和元年(1801)狂歌師の蜀山人(大田南畝)が峠にあった茶店に休息した時、小さな祠が目に止まり亭主に訊ねると、山の神だと返事したのが面白く即興で作った狂歌が薩埵峠の名を有名にしました。

   山の神 さった峠の風景は 三下り半に かきもつくさじ

 この先清水市に入り、峠越え最後の駿河湾を見下ろす見晴台(清水市指定名所薩埵峠)に出ます。快晴だから海がより綺麗に見え、ここにも石碑と案内板と「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。

興津宿(宿境まで十七町) ← 清水市 薩埵峠 → 由比宿(宿境まで一里十五町)

【薩埵峠の歴史】

 鎌倉時代に由比倉沢の海中から網にかかって引き揚げられた薩埵地蔵をこの山上にお祀りしたので、それ以後薩埵山と呼ぶ、上代には岩城山と称し万葉集にも詠まれている。

 (岩城山ただ超え来ませ磯崎の 不来海の浜にわれ立ち待たむ)

 ここに道が開かれたのは1665(明暦元)年朝鮮使節の来朝を迎えるためで、それまでの東海道は、崖下の海岸を波の寄せ退く間合いを見て岩伝いに駆け抜ける「親しらず子しらず」の難所であった。

 この道は大名も通ったので、道幅は4m以上はあった。畑の奥にいまも石積みの跡が見られ、そこまでが江戸時代の道路である。

 今のように海岸が通れるようになったのは、安政の大地震(1854年)で地盤が隆起し陸地が生じた結果である。

     興津地区まちづくり推進委員会

【薩埵山の合戦】

 薩埵山は、京都と鎌倉を結ぶ重要な戦略地点で、たびたび古戦場となっている。

 1351年(観応の騒乱)に足利尊氏はここに陣を張り、弟足利直義の大軍を撃破した。「太平記」に見える陣場山、桜野などの地名は、これより北方の峰続きに存在する。

 降って戦国時代の1568年12月、武田信玄の駿河進攻の時、今川氏眞はこの山に迎え討って敗退した。その翌年の春には、今川救援のため出兵した小田原の北條氏と武田軍が二ヶ月余も対陣したが決定的な戦果ははなくて武田方が軍を引いた。

     興津地区まちづくり推進委員会

 峠を下りたところに休憩所がありトイレも付いています。その先、右に曲がれば遠回りで興津に行く中道(上道)、左に曲がれば下道へ合流します。

 私達は下道方向に行きましした。JR東海道線を渡ってぶつかった道を右折し、興津橋を渡れば興津宿に入ります。

 興津橋(石橋)を渡るとすぐ右に小さな階段があるので、これを下るのが旧道です。ただし、すぐ国道1号線に合流します。


【興津宿】 江戸から 40里30丁(160.4Km)、京へ84里半6丁 人口約 1670人 

 安藤広重の東海道五拾三次之内・興津『興津川』

 左の岩山は薩埵山、右の帆は清水湊へ出入りする船。

 興津側を渡っているのは2人の力士。

  お相撲さんだけに、4人でかつぐ「四つ手駕籠」に乗っており、束袋に入れた大刀を差している。

 束袋は、ほこりや水が入らないようにかぶせる袋。大刀とは刀身2尺8寸以上のもので、これをさせるのは武士だけである。したがって、この力士は大名がスポンサーとなっているお抱え力士で、武士待遇ということになる。

 江戸時代には、各藩お抱えの相撲取りがいて、藩の名誉を賭けて戦っていた。

 これ等の力士の番付表には藩の名前が書かれていた。(現在の番付表は出身地が書かれている)

【興津宿の規模】

  東海道十七番目の宿場ですが、東の由比宿には二里十二町(9.2Km)の距離があります。その過程に親知らず子知らずの難所「薩埵峠」があり、西に至る旅人は、峠を超えてほっとするのが興津宿であり、東に旅する人は興津宿で旅装を整え、峠の難所を超え由比宿 に至ります。

 また、西の江尻宿には一里二町(4.2Km)ですが、川や山の難所とは異なり平地であることから通過の宿場として興津宿よりも繁華性は低いといわれています。

 興津宿の宿内、町並みは東西に十町五十五間(1.2Km)人馬継問屋場一ヶ所、問屋二軒、年寄り四人、帳附四人、馬指五人、人足差三人、宿立人馬百人百匹。

 天宝十四年(1843)宿内家数316軒、うち本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠34軒、人数1668人(男809人、女859人)でした。

     この先の「水口屋」の展示資料より

【興津の歴史】

 興津は、江戸時代の東海道五十三次のうち東海道 十七番目の宿場町として栄え、興津郷とも称されていました。現在興津と呼ばれている地名はかつて「奥津」「息津」「沖津」とも呼ばれていました。

 興津川の下流部にあり、東は興津川、薩埵峠、西は清見寺山が駿河湾に迫る難所に位置することから、古代より清見寺山下の清見関(きよみがせき)は坂東(関東地方・諸説ある)への備えの役割を果たし ました。

 鎌倉時代以降には、興津氏が宿の長として支配し、戦国時代には今川氏被官としてここに居館を構え、薩埵山に警護関を設置しました。

 慶長六年(1961)東海道の宿となり、以後宿場町として発展しました。興津からは身延、甲府へ通ずる甲州往還(身延街道)が分岐、交通の要衝でした。

 江戸時代中〜後期には興津川流域で生産される和紙の集散地として知られ、明治以降は明治の元勲の別荘が建ち避寒地として全国的にも知られています。

     この先の「水口屋」の展示資料より


<昼食>  12:40−13:15(11,600歩)

 興津側を渡った先のお好み焼き「望月」でミックス焼きそば(¥630−)を食べました。


【国道52号線の起点標】 

 国道1号線と合流するとすぐに右(北)へ伸びる 国道52号線の起点(興津中町交差点)に来ます。ここには、起点標と「塩の道の立役者たち」の案内板があります。

【塩の道の立役者たち】

 この街道の「塩の道」の発展の歴史は、戦国時代の代表的名将である今川義元、北条氏康、武田信玄の三人の存在が大きい。この三名将の時代に軍事的な目的と経済的目標が合わさり、大きく人と物産の行き来が拡がり始めた。特に、海を持たない甲斐においては、貴重な塩を自国で生産 できないという事情があったため駿河や相模に通じる街道に関して並々ならぬ執着があった。義元の軍師雪斎が提唱した三国同盟も長く続かず、甲斐への「塩止め」後の1968年12月信玄は大軍を率いこの河内路を南下、駿府に攻め込み義元を遂う事となる。


【宗像神社 】 (右側)

 国道52号線を超えるとすぐ鳥居が見えてきます。松などの巨木が多い神社です。

【由緒】

 創建年代は不詳一説に筑前(福岡県)より勧請したとも言う。

 昔よりの国碑に盧原(よばら)神社、俚俗(ぞく)に宗像神社とも言われていた。当社は興津川の西にあり女体の森と言って舟人たちの灯台がわりとされていた。興津川の水源は高瀬・西河内から出た名を浦田川と言っていたが、後に興津川と言うようになった。これは当社の祭神である奥津島姫命の名によって興津川になったとも伝えられている。また興津川の名の起こりも、大昔にこの祭神が八木に乗って大海原を渡り、この地に住居を定めたことから興津と言われるようになったとも言われている。古くは境内も広く今の小学校新運動場一帯も社域であった。現在地は字宮の後と言うから昔の神社は東海道沿いにあったと思われ、多分高波を恐れて今の地に遷座したのであろう。

 当社はもと弁才天宮・宗像弁才天・興津三女の宮・宗形大明神などど称していたが、明治元年より現社名に改称している。

 祠官は代々宮川家が受継いで明治初年に及んでいる。

 当社の記録類は明治十三年中宿町の大火により焼失している


【身延道道標 ・髭題目の碑】 (右側) 

 宗像神社のすぐ先、道路の角にあります。

 身延道は、身延山参詣の道であることにその名の由来があるが、もともとは駿河と甲斐を結ぶ交易路として発達してきた街道で、鎌倉期にはそのルートが開かれていたといわれている。街道成立当初は、興津川沿いの村落を結ぶ程度の道でしかなかったものと思われるが、戦国時代になると駿河進攻をもくろむ武田信玄によって整備され、軍用路として重要な役割をはたすようになる。また江戸時代初期には身延山参詣の道としても確立されるが、街道として最も賑わったのは幕府甲府勤番が設置され役人の往来も激しくなった江戸時代中頃からのことである。

 この先、「一里塚跡」の石柱を見て、興津駅前交差点を13:45に通過。更に、興津公民館を過ぎた右側に「興津宿東本陣跡」の石柱が立っています。


< 土産> 宮様まんじゅう★★★★

 興津駅を過ぎた左側菓子店「潮屋」の“宮様まんじゅう”は、天皇陛下も喜ばれた小さなまんじゅうです。菓子折りに二段入りでたくさん入っているし、安くてとても美味しいです。お勧め品。

【宮様まんじゅうの由来】 *****菓子折りに入っていた解説書*****

 東京の有名な店から菓子をとりよせるのが、一番楽でしたのですが、陛下は、そういうものになれておられることが分かっていましたので、何か変わったものを差し上げたかったのです。始めの日には宮様饅頭という興津特産の小さなお菓子を差し上げました。五十年ほど前に、或る宮様が清見寺にお泊りになった時に差し上げたもので、そのために宮様饅頭という名前ができたのです。宮様はこれが大変お気に召し、また幸い、陛下もお気に召されたのです。

     〜O・スタットラー著 ニッポン「歴史の宿」より

【宮様まんじゅう】

 米糀の甘酒を用いた昔ながらの製法で酒の香りをそのままに、皮に独特の風味を持たせた酒まんじゅうです。上皮中の酒精分の為、饀に多少の酸味がある。その日の内に食べるのが最上だが、皮が固くなったら、蒸し器・電子レンジ等に入れてふかすか、薄く衣をつけて天婦羅にするか、そのまま焼いてやわらかくすると美味しくなる。


【一碧楼水口屋(いっぺきろうみなくちや) 跡】 左側

 “宮様まんじゅう”のすぐ先にあります。門を入った左側に「興津宿 脇本陣水口屋跡」と「一碧楼水口屋跡」の石柱が建っており、館内(ギャラリー)には興津の資料が展示されています。

 水口屋初代当主 望月氏は、かつて武田信玄の家臣であったが、400年ほど前にこの地に移り住み、塩や魚などを買い付け、甲斐へ物資を送る商人であったといわれている。天正十年(1582)夏に初めて旅人を泊めたと伝えられ、江戸時代には興津宿の脇本陣として宿屋を営み、明治以降はたとえば、元老西園寺公望や牧野伸顕といった政治家、高松宮殿下や伏見宮殿下といった皇族方、岩崎小弥太や福澤桃介といった財界人、それに夏目漱石や黒田清輝といった小説家、画家など、各界著名人の別荘旅館として愛され、全国に名をはせた。さらに昭和 三十二年(1957)十月「静岡国体」の折には、昭和天皇・皇后陛下が「御幸の間」にお泊りになられた。

 第二次大戦後、一時占領軍に接収され、その一員として来日していたアメリカ人、オリバースタットラー氏が「JAPANESE INN〜東海道の宿 水口屋ものがたり」を昭和三十六年(1961)に出版し、海外にも紹介されたことから評判となり、多くの外国人観光客がここを訪れるようになった。

 その後、時代の趨勢から徐々に客足が減り始め、また後継者がいないことから、昭和六十年(1985)一月、第二十代当主、望月半十郎氏が廃業を決断、約400年の歴史に幕を閉じた。同時に、鈴与且オ代鈴木ゆ平会長に当主半十郎氏から依頼があり、この施設を譲り受け保護し、有効に活用する目的で「鈴与興津研修センター」を開設し、併せてその一部を、平成 十一年(1999)三月より「水口屋ギャラリー(フェルケール博物館別館)」として開館した。

【元老と興津】

 元老とは、政界の長老的存在を指すのではなく、明治天皇より「元勲優遇」と呼ばれる特別の勅語を受けた人達で、天皇の相談役でした。

 明治以来、伊藤博文(長州)、黒田清隆(薩摩)、山県有朋(長州)、松方正義(薩摩)、井上馨(長州)、西郷従道(薩摩)、大山巌(薩摩)、桂太郎(長州)、それに西園寺公望(京都)の9人が元老であり、その内伊藤、松方、井上、西園寺の4人は興津に別荘(借別荘を含む)を持ったが、他の人々もほとんど井上や西園寺に会いに興津(水口屋)を尋ねている。尚、元老9人の内、西園寺を除いて薩長同数というのは、当時の新政府の派閥力学の産物である。

 松方正義が死去した大正十三年(1924)以降は、西園寺が昭和十五年(1940)に死去するまで、ただ1人元老を務めた。

【興津の海】

 東海道線が静岡まで単線開通したのは、明治二十二年のことで、このとき興津駅が開通した。またこの年には、皇太子(大正天皇)が来訪して清見寺に滞在し、興津の海(清見潟)で海水浴を楽しまれたことで、興津は全国的に有名になった。


【大正天皇在東宮海水浴御成道】 

 清見寺の総門正面の道路側に石碑が立っています。かつて清見寺の南側は一面の海で、大正天皇が皇太子のころ、明治22年と23年の2度にわたり、この地に海水浴に来られたことを記念したものです。


【清見関跡・傍示杭礎石】 (右側)

 清見寺入口手前の石垣の前に木柱と礎石があります。

 東北の蝦夷に備えて、この地に関所が設けられ清見関と呼ばれていた。白鴎年間(680)の設置と言う。

 掘り出された傍示杭の礎石は徳川時代に置かれていたもの。


【六道地蔵尊】 

 同じく清見寺の門前に立っています。

 人はこの世を終わって後、冥土の長旅をして六道の辻に出ると云う。而して生前の行いに因って六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上道)の内何れかを自ら選ぶと云うのです。

 地蔵尊は、常にこの辻に立って冥土の人の心の支えになられています。


【清見寺 】 (右側)

 清見寺の入口に着いたら正面の石段を登り、総門(左下の写真)をくぐって左手へ回り、JR東海道線に架かっている橋を渡ると山門があります。

 清見寺は、徳川家康が今川氏の人質として幼年時代を過ごし、当時の住職より教育を受けた寺です。晩年再三来遊したことなど諸所の因縁によりこの寺は三葉葵の紋を許され、徳川時代260年間にわたって徳川家の帰依をうけることになった。

 御朱印をいただく[聖観世音]。

街道側入口

明治天皇宿泊時の玉座

庭園

 

 山門をくぐると右手前方に鐘楼が見え、大方丈の前に家康お手植えの「臥龍梅」が現在も 生き続けています。

 鐘楼後ろの庫裏を入れば本堂、庭園、家康ゆかりの品等を見学できます。

 また、左手奥の斜面には五百羅漢が鎮座しており、様々のしぐさや表情をした石仏が沢山見られます。

 古来より亡者供養の一つとして、石像中より亡き人の面影を偲ばせる方をさがしあて、それを供養することに依て亡き人の冥福を祈ると云う。

 五百羅漢そばの仏殿の壁面に、島崎藤村の小説の一節が掲げられていました。

 更に南側の海を見下ろせる所には、山下清の「清見寺スケッチの思い出」からの文章が掲示されていました。

【清見寺】

 白鳳時代(7世紀)天武天皇のとき、鎮護の関寺として清見ヶ関とともに仏堂が建立されたのが創建として伝えられ、東海道屈指の名刹。

 徳川家康が幼少の頃、今川の人質として預けられていた。清見寺には、家康の愛した清見寺庭園(江戸初期の作)や、家康手植えの臥龍梅、宋版石林先生尚書伝、梵鐘、山門、紙本墨画達磨像、猿面硯、梵字見台など数多くの指定文化財がある。その他、五百羅漢は、それぞれ違った表情をしており、島崎藤村の「桜の実の熟する時」の一節にも登場している。

 琉球王国の親善使節の一員だった琉球王子は駿府で急死し、当時外交的役割を果たしていた清見寺に葬られている。平成6年には境内全域が朝鮮通信史関係史跡に指定されるなど、歴史の宝庫となっている。

【臥龍梅】

 徳川家康公曽って来遊の砌り清見関所の庭の梅枝を取らして接木したと云う。

  龍臥して法の教へを聞くほどに 梅花の開く身となりにけり   与謝野晶子

     昭和十二年秋 来遊の節の詠歌

【梵鐘】 県指定文化財

 正和三年(1314)鋳造されたもので謡曲「三井寺」に出づ、又天正十八年(1590)豊臣秀吉、韮山城攻伐の際、陣鐘に用いた。

 又、この鐘にまつわる興味ある伝説がある。昔この地方に浄見長者があった。ふとしたことから最愛の一人娘が人買にさらわれて行方知れずになった。その母親は半狂乱になって娘の行方を全国に捜し求めた。はしなく近江の三井寺に参詣した。折りしも響く三井寺の梵鐘「なんとまあこの寺の鐘の音は故郷清見寺の鐘の音を思い出させるではないか」と思わずつぶやいた。その時不思議に長者の娘も三井寺に来合わせていた。娘は故郷清見寺の名を云う者あるきを聞き驚いた。あたりを見ればそこになつかしの母の姿、母子は思わぬ再開に相擁して泣き、鐘のみちびきに感謝した。

【名勝清見寺庭園】

 江戸時代の初期、山本道斎によって築庭されたと伝えられ、のち江戸中期に少し改修された。家康は殊の外この庭を愛し、駿府城より虎石、亀石、牛石を移してこの庭に配した。

 又柏樹を手植えして庭の景趣を添えた。庭前の砂利盛りは銀砂灘と称し、周囲の緑色に反映して美しい。而して庭は現在国の指定を受けて保護されている。

【五百羅漢石像】

 釈迦如来の御弟子で仏典の編集護持に功績のあった方々です。江戸時代中期(天明年間)の彫像にして作者不詳形相悉く神異非凡の作であります。此の羅漢尊者の群像は島崎藤村の小説「桜の実の熟する時」の最後の場面になっています。

【島崎藤村著「桜の実の熟する時」の小説の一節】

 興津の清見寺だ。そこには古い本堂の横手に丁度人体をこころもち小さくした程の大きさを見せた青苔の蒸した五百羅漢の石像があった。起ったり坐ったりして居る人の形は生きて物言ふごとくにも見える。誰かしら知った人に逢へるといふその無数な彫刻の相貌を見て行くと、あそこに青木が居た、岡見が居た、誠之助が居た、ここに市川が居た、菅も居た、と数えることが出来た。連中はすっかりその石像の中に居た。捨吉は立ち去りがたい思をして、旅の風呂敷包の中から紙と鉛筆とを取出し、頭の骨が高く尖って口を開いて哄笑して居るやうなもの、広い額と隆い鼻とを見せながらこの世の中を睨んで居るやうなもの、頭のかたちは円く眼は瞑り口唇は堅く噛みしめ歯を食いしばって居るやうなもの、都合五つの心像を写し取った。五百もある古い羅漢の中には、女性の相貌を偲ばせるやうなものもあった。磯子、涼子それから勝子の面影をすら見つけた。

【山下清「清見寺スケッチの思い出」より】

 清見寺という名だな このお寺は古っぽいけど上等にみえるな お寺の前庭のところを汽車の東海道線が走っているのはどうゆうわけかな お寺より汽車の方が大事なのでお寺の人はそんしたな お寺から見える海は うめたて工事であんまりきれいじゃないな お寺の人はよその人に自分のお寺がきれいと思われるのがいいか自分のお寺から見る景色がいい方がいいかどっちだろうな


【細井の松原】 

 旧東海道は国道1号線バイパスの下をくぐり、JR東海道線を越えて横砂に入るとすぐ右側に「延命地蔵堂」がある。

 そのまま横砂、袖師と進み、やがて辻町の交差点で1号線から分かれて右に入る。

 その分かれ道に「細井の松原」の案内板と「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。

江尻宿(宿境まで三町) ← 清水市 細井乃松原 → 興津宿(宿境まで二十七町)

【ほそいの松原】

 慶長六年(1601)徳川家康は、東海道五十三次の宿場を制定し江尻宿場が設置された。同九年(1604)二代将軍秀忠は江戸へ通ずる主要街道の大改修を行い、江戸防備と旅人に安らかな旅が出来るよう樽屋藤右ヱ門、奈良屋市右ヱ門を工事奉行に任命して街道の両側に松の木を植えさせ、同十七年(1612)完成したと伝えられている。

 元禄十六年(1703)駿府大寒守屋助四郎の検地によると辻村戸数110戸、松原の全長199間2尺(約360m)、松の本数206本とあり、松原に「松原せんべい」を売った店があったと伝えられている。

 当時の旅人は、夏にはこの松原で涼み、冬には茶店で憩い、旅の疲れを癒したりした。

 ほそいの松原は太平洋戦争のとき松根油(航空機燃料)の原料として伐採されたので現在その跡もない。

 いまの松は平成四年二月、社団法人清水青年会議所から寄贈され植樹されたものである。

     辻地区まちづくり推進委員会


【一里塚跡】【高札場】【江尻宿東木戸跡】 

 辻町商店街に入ると、史跡の簡単な案内板のみが掲げられていた。

【一里塚跡】

 江戸時代、東海道には江戸日本橋を基点として一里塚が設置された。
 塚は五間四方に盛土され、榎や松が植えられ旅人の里程の目安となっていた。
 辻の一里塚は江戸より四十二番目にあたり、道の両側に向かいあって存在した。

【高札場】

 高札は奉行所や代官所の命令・布告を書いた立て札で、街道筋など人目につく場所に設置した。
 辻村の高札場は西に向って右手の一里塚前にあったことが絵図に記されている。

【江尻宿東木戸跡】

 江尻宿東端の出入り口として、辻村と本郷の境に木戸(見付)があった。
 この付近は道路が枡形ではないが「く」の字形に曲がり、外から宿内を見通すことが出来ないように工夫してある。木戸の脇には番小屋も建っていたものと思われる。


 辻町から本郷町に入り、国道1号線と交差する「江尻東交差点」で本日の旅を終えました。この交差点を左折すれば正面が清水駅です。



  17回目の旅終了(16:00)JR東海「清水駅」。   ◆本日総歩数:23,500歩

 清水駅より東海道線で「由比駅」へ戻り、歩いて駐車場まで戻り車で帰宅 。 

 

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