大山街道(9) 子易バス停 ~ 大山阿夫利神社下社

2016年3月5日(土) 曇時々晴

  小田急・伊勢原駅より神奈中バスで、前回終えた「子易バス停」まで行き、ここを10:47スタート。

(注:解説で街道の左側、右側とは大山に向っての左右です)

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【諏訪神社 (左側) 10:50
 「子易バス停」の直ぐ先の左側に諏訪神社がある。社の手前に御神木の古木。謂れ等は見当たらなかった。
  


【三の鳥居】 10:53
 諏訪神社から3分程の「鳥居前バス停」に三の鳥居が、鳥居の右下には『延喜式内 阿夫利神社』と刻まれた石標が建っている。
 一の鳥居は「伊勢原駅」北口前に、ニの鳥居は伊勢原駅から大山に向うバス通りの「道灌塚前バス停」に建っている。
  
 
 三の鳥居の直ぐ先右側に弧を描いて戻るような道に、小さな祠と石碑が建っていた。
  

 この辺りから先導師旅館が沢山見られる様になる。どの旅館も、塀には各地の講が立てた石柱や敷地内に記念石碑が建っている。


【新玉橋(あらたまばし) 11:00
 右の郵便局を過ぎ、左へ大きくカーブして鈴川に架かる新玉橋を渡る。
  


【ようこその門 (右側) 11:02
 突当りを右折すると、「丹沢大山国定公園」・「ようこそ大山へ」と書かれた大きな門が出迎える。
  


【加寿美橋 (右側) 11:05
 上記の門をくぐって程なく、右手に赤い加寿美橋が見えてくる。橋手前に立つ旅館の案内看板の一番上に『⇒旧参道入口』の標識があるので、これに従って橋を渡る。
 渡って、左カーブすると講の石柱が沢山並ぶ旅館が連なる。
  
  


【旧緒方竹虎別邸(松鈴庵) (右側) 11:08
 上記写真のすぐ先、右側に旧緒方竹虎別邸の標識が掲げられている懐石料理屋松鈴庵がある。
 緒方竹虎(1888-1956)はジャーナリスト、政治家。朝日新聞副社長、自由党から衆議院に当選、第四次吉田内閣の官房長官や副総理を経て、吉田辞任後、自由党総裁となる。その後、鳩山一郎率いる民主党と合同して自民党が誕生。初代首相候補と言われたが目前に急死する。
  


【愛宕瀧 (右側) 11:15
 暫く進むと左手に赤い愛宕橋が見えてくる。その橋の右手に小さな愛宕瀧がある。
    


【不動明王】 (右側) 11:19
 愛宕橋を渡って新道に合流。少し進んだ右手「東学坊・茶室・竹庵」の先に不動明王が祀られている祠が建っている。
 不動明王の姿は、右手に魔を退散させ煩悩を断ち切る利剣、左手に悪や悪い心を縛る羂索(けんさく)という綱を持ち、背に煩悩や毒等を焼き尽くす迦楼羅焔(かるらえん)を背負い、磐石(ばんじゃく)という硬い岩に立って全ての人を救うまで動かないと云う決意を現している。
  


【開山堂と良弁滝】 (右奥) 11:24
 少し進んだ右の赤い良弁橋を渡った左手に、開山堂良弁滝がある。
 下の写真は、良辨橋から写した良辨堂とその先の開亀橋
  


良辨堂内部
【開山堂(良辨堂)】
 
良辨僧正は東大寺の初代別当で相模の国の人、持統天皇三年(689年)に誕生し、宝亀四年(773年)入滅と東大寺要録に書かれている。
 大山では、東大寺二月堂の大杉に懸けられた良辨僧正が、山王の使いである猿に助け降ろされたという伝説がある。このお堂には、僧正四十三歳の像と猿が金鷲童子(こんじゅどうじ)を抱いた像が安置されている。
     大山観光青年専業者研究会
【良辨滝】 
 大山寺開山(天平勝宝七年・755年)に良辨僧正が入山最初に水行を行なった所。
 高さ一丈三尺(三メートル九十四センチメートル)
 江戸時代、たびたび錦絵や版画の題材に取り上げられ、大正時代には、歌舞伎「大山と家光」で「大山良辨滝の場」として演じられた。
     大山観光青年専業者研究会

【こま参道】 
 良辨滝左の石段を上り、「開亀橋」を渡って街道に戻る。
 街道に戻って直ぐ左斜めに入る細道が旧道。諏訪神社の前を通り少し行くと、右手新道に「大山ケーブルバス停」が見える。
 程なく「千代見橋」を渡って新道に戻ると、すぐ右斜めに入るコマ参道へ進む。
 入口にはこま参道の標柱が建ち、大山ケーブル駅13分とあった。また、標柱の足元にはコマ参道の説明石板があった。

【こま参道】
 大山阿夫利神社・大山寺へ向うこの参道は名物「大山こま」にちなんで名付けられました。

【コマ参道】
 大小のコマの絵が踊り場の数を示している。
 この参道脇には、コマを挽く「木地師」の店が並んでいる。
     大山観光青年専業者研究会


 こま参道は、362段の石段と27ヶ所の踊り場がある。

【大山こまを数えながら歩こう】
 大山の代表的なみやげ物「大山こま」をデザインしたタイルが、ここから大山ケーブル駅までの各石段の踊り場27か所にあります。
 (小さいこま1個の絵)が1、(小さいこま2個の絵)が2、(小さいこま3個の絵)が3、(大きなこま1個の絵)が10の数を表わしています。
 たとえば(大きなこま1個の絵)+(小さいこま2個の絵)+(小さいこま3個の絵)
は、こま参道入り口から15か所目の踊り場を示しています。
 皆さんもこのタイルにある大山こまを数えながら歩いてみてください。
     伊勢原市

<昼食> 11:45~12:15
 こま参道中間にある「西の茶屋本店」で名物の大山豆腐の3品コース(1,620円)を頼んだ。
 ところが出てきたのは、小さな豆腐と小鉢が2品であまりにも少なく、更に御飯は別料金だった。一人1,900円以上も出して食べた気がしない量だったので、憤慨しながら出てきた。星一つもあげられない様な店だ!


【八意思兼(やつごごろおいかね)神社】 (正面) 12:25
 土産物屋と旅館が並ぶこま参道を抜けて橋を渡ると右手に「大山ケーブル駅」がある。
 歩いて登る人は直進して、階段を上ると『↑女坂、→男坂』と書かれた案内板が立っている。それによると
『女坂:大山寺20分・大山阿夫利神社下社40分。 男坂:大山阿夫利神社下社30分』となっていた。
 標識から更に石段を登ると、途中から左へ女坂の道が分かれていて、真直ぐ登ると直ぐ突き当りに八意思兼神社が建っている。この神社から右に進むと男坂になる。

 八意思兼神は、日本神話に登場する知恵を司る神様。天照大神が天岩戸に隠れた時、八百万の神に岩戸から誘き出す知恵を授けた神として有名である。

【女坂七不思議】
 
男坂は見るべきものが無いので、女坂を登ることとする。
 女坂の分岐点に女坂七不思議の説明板が立っている。
 その先、橋を渡ると、坂と云うより石段が連なる道になる
(12:30)



【女坂に七不思議あり】
 一、弘法水
 一、子育地蔵
 一、爪切り地蔵
 一、逆さ菩提樹
 一、無明橋
 一、潮音洞
 一、眼形石
   七不思議を探そう!
      大山観光青年専業者研究会

【弘法水 (右側) 12:37
 右上写真の石段を登って行く途中の右下に、女坂七不思議一番目の弘法の水がある。
 立てかけた梯子を使って下りなければならないのと、弘法水を占拠していた人がいたので、傍に寄らずに石段の上から撮影するだけに留めた。

【女坂の七不思議 その一 弘法の水(こうぼうのみず)】
 「弘法の加持霊水」ともいい、弘法大師が岩に杖を突いたら、その跡から清水がこんこんと湧き出たという。
 夏でも枯れることがなく、いつでも水の量が変わらないという。
      大山観光青年専業者研究会

【子育地蔵】 (右側) 12:39
 弘法水からすぐ上の「紅葉橋」を渡った所に、女坂七不思議ニ番目の子育て地蔵が祀られている。



【女坂の七不思議 そのニ 子育て地蔵(こそだてじぞう)】
 最初は普通のお地蔵様として安置されたが、何時の頃からか顔が童(わらべ)に変わっていた。この地蔵に祈ると子供がすくすくと丈夫に育つといわれる。
      大山観光青年専業者研究会

【爪切り地蔵 (左側) 12:41
 子育地蔵から自然石を積んだ石段となり、その途中に巨石から彫られた女坂七不思議三番目の爪切り地蔵が祀られている。

【女坂の七不思議 その三 爪切り地蔵(つめきりじぞう)】
 弘法大師様が道具を使わず、一夜のうちに手の爪で彫刻されたと伝えられている。
 何事も一心に集中努力すれば実現できるとの教えである。
      大山観光青年専業者研究会

【逆さ菩提樹】 (左側) 12:44
 爪切り地蔵から少し登った所に、女坂七不思議四番目の逆さ菩提樹が植わっているが、現在は二代目に変わり、不思議さがない普通の菩提樹になっていた。

【女坂の七不思議 その四 逆さ菩提樹(さかさぼだいじゅ)】
 上が太くて下が細く、逆さに生えたように見えることから、逆さ菩提樹という。
 現在は二代目である。
      大山観光青年専業者研究会

【来迎院・龍神堂 12:46
 逆さ菩提樹のすぐ上に、宝珠山来迎院があり、扁額には『前不動明王』と書かれていた。
 来迎院の左には龍神堂が建っている。

【龍神堂(八大堂)】 
 元は二重滝にあり、寛永十八年(1461年)に再建、三代将軍の徳川家光公により寄進される。
 奈良時代に、大山寺別当の良辨僧正が大山龍神を感得す。
 以後、八大龍王と呼び大山の守護神にして雨乞いの本尊なり。
   ~数々の龍神伝説あり~
     青専研

【大山寺 12:48~13:04
 龍神堂を左回りに後ろに登って行くと、左手に大山寺への石段が現れる。
 石段の真中には燈籠が連なり、両側には沢山の童子の像が並んで、虚空蔵童子等それぞれに名前が刻まれていた。
 この石段の前を右に行くと大山ケーブルの「大山寺駅」に至る。
  

 70段以上の石段を、息を切らせて登ると、正面に本堂が建っている。
 本堂奥の奉安殿の中に本尊で国重文の鉄造不動明王及ニ童子像が、左の護摩壇に県重文の木像不動明王坐像安置されている。
 御朱印をいただく。



【大山寺(おおやまでら)】 真言宗大覚寺派
 昔から「大山不動さん」と呼ばれた大山寺は、山号を雨降山といい、天平勝宝七年(755)奈良東大寺の別当良弁僧正が、父母の孝養のために建てたといわれる。赤子の時、大鷲にさらわれた良弁を探して、日本国中を尋ね廻った父母が、盲目の乞食になり果てていたのを、不動明王のみちびきで、親子の再会が出来たと、大山寺縁起絵巻に書かれている。
 良弁に帰依深かった聖武天皇は、良弁親子の再会に強く感動され、大山寺を勅願寺とされた。寺はその後いくたびか災厄にあったが、鎌倉・足利・徳川幕府の保護をうけ、その都度再建された。
 本尊不動明王・矜迦羅
(こんがら)童子・制吁迦(せいたか)童子の三体は、珍しい鉄像で、鎌倉時代(1270年頃)大山寺中興の祖、願行上人作と伝えられ、国の重要文化財である。他に平安前期(782~897)の木像不動像をはじめ多くの仏像がある。
 この寺はかつて、日本古来の預言者から発展した山岳宗教の、「修験道」の道場で、大山不動信仰を世に広めたのは、この修験者たちであった。今でもその象徴である天狗の面が土産店で売られている。
 庶民が期待する大山不動尊信仰の特別の冥加は、濃・漁・商・工・職人・技芸人等多くの人々の間で、その子供たちが親の職業を立派に引き継ぎ栄えるよう、加護を受けることであった。
     昭和五十七年十一月三日 伊勢原ライオンズクラブ


 本堂の右手には青銅宝篋印塔が建っている。塔の前を振り返ると崖下の福輪に向って投げる、かわらけ投げ場がある。

【青銅宝篋印塔 ―通称―】 作者 東都鋳師 西村和泉守藤原政時
     塔の由来
宝篋印塔は、「一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼教」に依って建立するものなり教に曰く「若し人福を求めて此塔の所に至って、一華一香を以て禮拝供養し右に廻って行道せば、是の功徳に由って
  官位栄耀 求めざるに自ら至り
  寿命冨饒 祈らざるに自ら増し
  怨家盗賊 討たざるに自ら敗れ
  疫病邪気 払わざるに自ら避け
  善夫良婦 求めざるに自ら得る
  賢男善女 祈らざるに自ら生じ
一切の所願意に任せて満足せんと」
登山参拝の善男善女は、この天下無双の霊塔の前に虔んで禮拝し、塔の回りを右に三遍お廻りなさい
 真言宗 雨降山・大山不動尊 阿部利山  大山寺 主監謹白
     記(塔の大きさ)
一、地盤   二丈五尺
一、台    七尺四寸
一、青銅塔 二丈八尺
一、総高さ 三丈五尺四寸
 勧進元 供僧坊廣徳院憲海房が、寛政七年(1795)旧大山寺境内(現下社)に新建立、大正三年現境内に再建、大地震で上部が倒壊、大正十五年に復元す


 境内からは、伊勢原市街が眺望できる。


【無明橋】 13:04
 大山寺の本堂に沿って右に廻るのが女坂で、本堂の裏側に出ると右上に、女坂七不思議五番目の無明橋が見える。
 橋の手前左に綺麗なトイレがある。

【女坂の七不思議 その五 無明橋(むみょうばし)】
 話をしながら通ると、橋から下に落ちたり、忘れ物や落し物をしたり、悪い事が起きたりするという。
      大山観光青年専業者研究会

【芭蕉句碑 (左側) 13:05
 無明橋を渡った左の崖に芭蕉の句碑が建っている
(上の写真で橋を渡った左に写っている石碑)

 山寒し 心の底や 水の月   芭蕉

【潮音洞】 (左側) 13:07
 無明橋を渡って、自然石の石段を少し登った左側に、大木の根が絡んでいる洞がある。洞の中には頭部が欠けた小さな双体道祖神置かれていた。
 この洞が、女坂七不思議六番目の潮音洞である。

【女坂の七不思議 その六 潮音洞(ちょうおんどう)】
 洞(ほこら)に近づいて心を鎮め耳を澄ませると遠い潮騒が聞こえるという。
 この洞の中にどのような神秘が隠されているのであろうか?
      大山観光青年専業者研究会

【眼形石 (右側) 13:09
 潮音洞のすぐ上に、女坂七不思議七番目の眼形石がある。

【女坂の七不思議 その七 眼形石(めかたいし)】
 人の眼の形をしたこの石に、手を触れてお祈りすれば、不思議に眼の病が治ると言い伝えられている。
      大山観光青年専業者研究会

 この先、阿夫利神社までの女坂は、自然石のため歩幅が不揃いのうえ、長く急な石段の連続だったので本当にきつかった。
 途中手摺が設けられていたり鎖場もあったりしたが、トレッキングポール(登山用ストック)を忘れてきたこともあって、休み休みにやっとの思いで登った。
 この最後の石段でまたまた、70歳という歳を感じてしまった。
  

 男坂と女坂の下の追分から、丁度60分掛かって上の追分に到着した。しかし、阿夫利神社下社まではまだまだ石段が続くのである。
 若い人なら下社まで60分で行けると言う。
 追分に登った所に道しるべが建っていて、『従是女坂道』『これより女さか』と刻まれていた。
 
右下の写真は上から写したもので、真直ぐが男坂、右に下りるのが女坂。
    


【大山阿夫利神社下社】 13:30~14:05
 追分から、下社の下の広場(土産物店や大山ケーブル阿夫利神社駅入口)まで、辛い石段が続く。
 やっとの思いで、広場に着いたと思ったら、更に社殿まで長い石段があるではないか。思わずため息が出てしまった。



【大山阿夫利神社】 御祭神 大山祇神 高龗神 大雷神
 大山は、またの名を「あふり山」という。あふりの名は、常に雲や霧を生じ、雨を降らすのでこの名が起ったといわれる。
 標高は、一二五一・七米で、関東平野にのぞんで突出している雄大な山容は、丹沢山塊東端の独立峰となっている。
 阿夫利神社は、古代からこのあたりに住む人達の心のよりどころとなり、国御岳(国の護りの山)・神の山としてあがめられてきた。山野の幸をつかさどる水の神・山の神として、また、海上からは羅針盤をつとめる海洋の守り神、さらには、大漁の神として信仰をあつめると共に、庶民信仰の中心として、今日に及んでいる。
 山頂からは、祭りに使ったと考えられる縄文時代(紀元前約一、〇〇〇年頃)の土器片が多く出土していて、信仰の古さを物語っている。
 仏教が伝来すると神仏習合の山となり、阿夫利神社は延喜式内社として、国幣の社となった。武家が政治をとるようになると、代々の将軍たちは、開運の神として武運の長久を祈った。
 引目祭・簡粥
(つつがゆ)祭・雨乞い・納め太刀・節分祭・山開きなど、古い信仰と伝統にまもられた神事や、神に捧げられる神楽舞・神事能・狂言などが、昔のまま伝承されている。
 全山が四季おりおり美しい緑や紅葉におおわれ、神の山にふさわしい風情で、山頂からの眺望もすばらしい、都市に近いため、多くの人達に親しまれ、常に参詣する人の姿が絶えない。
     昭和五十七年十一月三日(平成十年十月吉日 修復) 伊勢原ライオンズクラブ


 参拝後、社殿右手から社殿下にある神泉(大山名水)・さざれ石等を見学して、御朱印を頂く。
 休憩後、社殿右手から頂上登山口を見に行く。登山口には門付きの鳥居が建っていて、登山の注意事項が掲載されていた。
 次回には山頂まで登るつもりでいたが、急で長い登山道を入り口から見上げた時、気持ちが萎えてくる自分がいた。下社で終わりにするか、本社・奥の院まで行くか暫く考えたい。
  


 下の広場に戻って、ケーブルカーで「阿夫利神社駅」(山上駅)より「大山ケーブル駅」(山麓駅)に降りる。
  阿夫利神社駅  大山寺駅(中間駅)

 大山ケーブル駅よりバス停まで歩いて、バスで小田急・伊勢原駅に戻る。
 バス停前の石壁には、葛飾北斎や初代安藤広重が描いた浮世絵のタイル画が嵌め込まれていた。
  北斎(ろうべんの滝)  広重
(東海道五十三次細見図絵



 9回目の旅終了(14:00)。「阿夫利神社下社」。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、3.6Km(子易バス停~阿夫利神社下社)
          赤坂御門から新道ルート経由で、十六里十五町(64.5Km)
            寄り道を含めた実歩行距離は、4.5Km(子易バス停~大山ケーブル・阿夫利神社駅)  累計:100.7Km
            3時間15分 7,600歩。

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