大山街道(4) 高津交差点 ~ 荏田宿 (江田駅)

2015年3月22日(日) 晴

  高津駅から前回終了した「高津交差点」に戻って、ここを10:25スタート。

(注:解説で街道の左側、右側とは大山に向っての左右です)

三軒茶屋駅 ~ 高津交差点 → 「目次」 → 「江田駅~東名入口交差点(南町田駅)」


 今回の大山街道は多摩丘陵を通っているので、坂道が多いルートである。


【ニ子・溝口宿】 
 ニ子・溝口宿は上中下の三宿に分かれていた。寛文九年(1669)十二月に溝口村が宿駅に指定され、後にニ子村が分村すると両方の村で月の半分ずつ宿役を勤めた。
【ニ子の由来】 
 ニ子の起りは、江戸時代この土地の南にある坂戸村の近くに二つの塚があったので地名の由来となった。塚の前は古奥州街道であったが、矢倉沢往還が開かれてから廃道になったと言う。ニ子塚の土はかまどを作るのに良いと言われ、古くから掘りとられ、明治時代に入って彫り尽くされてしまった。その時に石棺、刀剣、埴輪が出土していることから、時の権力者の古墳ではないかと考えられている。
     大山街道ふるさと館の資料より


【ふれあいの鐘】 (右側) 10:25
 「府中街道」と交差している「高津交差点」を渡った右側の歩道上にふれあいの鐘が置かれ、台座に愛の鐘大山道の説明が刻まれていた。

【愛の鐘】
 明るく豊かな地域社会は市民相互の共感とふれあいをとおしてこそ可能である。この鐘は、ふれあいの場と機会を広め、人々の心のつながりがさらに結びつきを深めていくことを願っています。
 こころ豊かで活力ある地域社会の発展を熱望し、未来にさわやかな愛の音がこだますることを願って、この碑を建立する。
     昭和六十三年十月二十日
【大山道】
 江戸城の赤坂御門を起点に青山―三益坂(渋谷)―三軒茶屋(世田ヶ谷)―ニ子多摩川―溝口を通り多摩丘陵を上がって荏田 鶴間を過ぎ相模川を越えて厚木から阿夫利神社に至る道を大山道と言った
 大山は丹沢山塊の東部にある山で山合い深く阿夫利神社と大山寺の神仏混淆の自然信仰が古くから芽生え聖なる峯として多くの登拝者を集めてきました
 古い道標は現存し大山道が生きている証拠であります  

【田中屋秤店】 (右側)
 「高津交差点」右角に田中屋秤店があり、街道に面した壁に大山街道の説明板が掲げられている。

【大山街道】
◆大山街道とは

 江戸赤坂御門を起点として、雨乞いで有名な大山阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)までの道。東海道と甲州街道の間を江戸へ向う脇往還として、「厚木街道」「矢倉沢往還」等とも呼ばれ、寛文9年(1669)溝口村・ニ子村が宿として定められた。
 江戸時代中期には、庶民のブームとなった「大山詣」の道として盛んに利用されるようになり、この頃から「大山道」「大山街道」として有名になった。
 江戸後期には、駿河の茶、真綿、伊豆の椎茸、乾魚、秦野地方のたばこ等の物資を江戸に運ぶ輸送路として利用され、これらを商う商人たちで大変栄えた。
◆納太刀の習慣
 大山詣は、江戸を中心とした関東一円の他、遠江、駿河、伊豆、甲斐、信濃、越後、岩代、磐城などのも及んでいたと推測されている。参詣の際には納太刀(おさめだち)をする習慣があり、自分の背丈よりも長い木太刀を担いでいる参詣者の姿が多くの浮世絵などに描かれている。
     大山街道活性化推進協議会 高津区役所地域振興課

【灰吹屋薬局】 (右側) 10:29
 田中屋の一つ挟んだ隣に灰吹屋薬局がある。

【江戸時代からの薬屋】 川崎歴史ガイド・大山街道ルート
 江戸期、この辺りで唯一つの薬屋だった「灰吹屋」。街道を行く旅人はもちろん、小杉、登戸方面からも買いに来たという。今に残る蔵は、昭和三五年まで店として使われていた。

【大山街道ふるさと館】 (右側) 10:33~10:48
 信号のある十字路を越えたすぐ先に大山街道ふるさと館があり、その前に大山道の道標が置かれている。
 ふるさと館には、大山街道にまつわる資料が展示されている。

開館時間:午前10時~午後5時
休 館 日 :年末年始(12月28日~1月4日)
入 場 料 :無料
【大山道の道標】
 大山道は、江戸時代、赤坂御門を起点にして多摩川を「ニ子渡し」でわたり、溝口を経て、相模・駿河方面に通じていました。途中、矢倉沢の関所をとおるので、正式には矢倉沢往還といいますが、江戸から大山までは大山阿不利神社の参詣で賑わいましたので、むしろ大山道の名で親しまれてきました。
 一方、府中方面にむかう府中道は、多摩川の右岸に沿って通じ、東海道川崎宿と甲州街道八王子宿を往来する人々や高幡不動金剛寺(日野)への参詣路として利用されました。
 この道標は、文政十二年(1829)、その大山道と府中道が交差する角に建てられたものです。
 (現在地より北方へ約ニ五メートルほどの位置)
〔銘文〕
(正  面) 是ヨリ北 
        高幡不動尊道 
               南川崎道
(左側面) 西 大山道
        文政十ニ己丑年三月吉日
(右側面) 東 青山道
(裏  面) 北 登戸エ一リ大丸エ二リ高幡エ二リ
         日野エ十町余八王子エ二リ
         願主江戸
                 太田氏

 館内に納太刀のレプリカが置かれていて、想像以上に大きかった。
  


【浜田庄司の家】 (右側) 11:48
 大山街道ふるさと館の隣の建物が、陶芸家の浜田庄司が少年期をすごした江戸時代から続く和菓子の「大和屋」だった家。現在は「ANDY GARDEN」という洋菓子屋になっている。
 向かいは麹屋という屋号の岩崎酒店。明治中期より続けてきた醸造所だったが昭和19年に閉鎖し、現在は小売業と上階は貸ホール・ギャラリー・会議室のあるビルになっている。

【陶芸家浜田庄司の家】 川崎歴史ガイド・大山街道ルート
 のちに栃木県益子に住み、益子焼の名を高めた浜田庄司は、わが国最初の人間国宝である。溝口で生まれ、少年期を祖父の家「大和屋」で過ごした庄司は今、この近く、宗隆寺に眠る。

【大石橋】 10:52
 浜田庄司の家の少し先で、二ヶ領用水に架かる大石橋を渡る。

【二ヶ領用水と大石橋】 川崎歴史ガイド・大山街道ルート
 徳川家康の命を受け、代官小泉次太夫は、十四年に及ぶ難事業を完成。用水は、川崎のほぼ全域にあたる稲毛・川崎の二ヶ領を潤した。その本流は、ここ大石橋で大山街道と交わる。

 橋の親柱は常夜燈になっていて、早咲きの枝垂桜や芽吹いたばかりの柳の黄緑が綺麗だった。
  
二ヶ領用水


【稲毛屋金物店】 (左側) 11:55
 大石橋を渡った左角に、稲毛屋金物店が倉庫と共に建っている。
 この店は、天保年間(1830~1844)に醤油醸造業を長年営んでいた本家稲毛屋から分家した金物店とのこと。
  


鈴木時計店 (左側) 10:56
 稲毛屋金物店の斜め向いに、川崎で一番古いと言う鈴木時計店がある。

【口上】 
 創業明治三十三年(西暦1900年)川崎で一番古い時計店として現在に至る。
 二代目、鈴木栄蔵は精工舎服部時計店で宮内庁お出入の鑑札を持つ時計職人として皇居内の時計修理をしていた。
 昭和二十年より眼鏡販売も始め現在に至る。
     大山街道 (有)鈴木時計店

【溝口神社】 (右側) 11:00
 次の「溝口駅入口交差点」を越えた先に溝口神社の入口があり、社殿は、参道を真直ぐ進んだ60m程奥にある。
 参道の途中には、溝口神社と簡易水道の川崎市歴史ガイドが立っている。

【溝口神社と簡易水道】 川崎歴史ガイド・大山街道ルート
 赤城社と呼ばれた溝口の総鎮守。この辺りは飲み水に不自由した。親井戸から水を引いた時代、ようやく完成させた簡易水道の時代。参道わきの水神社や水道組合碑が当時の苦労を物語る。
【川崎の祈願所 溝口神社】 
《御祭神》
 天照皇大神  日本武尊
《神社のいわれ》
 神社の創立年代は定かでないが、神社保存の棟札によれば、宝永五年(1709)武州橘樹郡稲毛領溝口村鎮守、赤城大明神の御造営を僧・修禅院日清が修行したと記されている古社で、江戸時代まで神仏習合の神社として、溝口村の鎮守・赤城大明神と親しまれ、社名を赤城社と称しておりました。
 明治維新後、神仏分離の法により、溝口村・下宿・中宿・上宿・六軒町・六番組の各部落を統合、総鎮守として祀るべく新たに伊勢の神宮より御分霊を奉迎し、御祭神を改め溝口神社と改称、更に明治六年(1873)弊帛共進村社に指定されました。
 今日では、伊勢神宮の分霊社として、川崎市内でも最も尊い神社の一社として広く信仰を仰いでおり、開運・厄除けをはじめ安産・子育て・縁結び・家内安全の御利益で広く知られております。
《お祭り》
 毎年九月十五日に近い土。日曜日

【宗隆寺】 (右奥) 11:08~11:18
 溝口神社から街道まで戻らずに、上の写真の太鼓橋と門の間の道を西へ進むと隣に赤城社から分離した宗隆寺がある。

【宗隆寺と御会式】 川崎歴史ガイド・大山街道ルート
 日蓮宗のこの寺では、御会式
(おえしき)が古くから行われ、その賑いは、池上本願寺に次ぐという。今も十月二一日の夜、近くの寺や講中から担ぎ出された万燈(まんとう)が、灯りの列を作って集まってくる。

 この寺の本堂手前の左側に芭蕉句碑が建っている。




【芭蕉句碑】 
 文政十二年(1829)玉川老人亭宝水(溝口の灰吹薬局二代目二兵衛)によって建立された芭蕉の句碑があります。
   世を旅に代かく小田のゆきもどり
と刻まれ、宝隆寺山門と同様に時代のおもかげを残しています。

     高津観光協会・高津区役所

 更に左手の墓地には濱田庄司が眠っている濱田家の墓がある。

【陶芸・濱田庄司の墓】 
 陶芸家、故、濱田庄司先生は「橘樹群、高津村、溝ノ口」に明治二十七年、十二月に生まれました。父方は「溝ノ口の大和屋」という江戸時代から続いた菓子舗で、母方、太田氏も藩医を努めた溝ノ口の旧家でした。
 明治十四年、先生は高津村小学校に入学し、そこには上級生をして「大貫カノ」、のちの岡本かの子氏がおりました。陶芸家として世に出た先生は栃木県益子に窯を築き「世界の濱田」と称えられる活躍をされましたが本籍地は生涯「溝ノ口672」のままでした。先生は優れた業績と現代陶芸界にあたえた大きな影響力により人間国宝の指定、文化勲章の受章など栄誉をうけられましたが、川崎市においても郷土の生んだ偉大な芸術家として川崎文化賞を受賞されています。宗隆寺は濱田家の菩提寺であり先生の本葬もここで営まれ墓所も当寺にあります。

【さかえ橋の親柱石】 (左側) 11:20
 街道に戻って、すぐの「栄橋交差点」を左折すると東急田園都市線の「溝の口駅」とJR南武線の「武蔵溝ノ口駅」になる。
 この交差点を渡った左角に大山街道の案内板が建っている。上述の田中屋秤店に掲げられていたのと同じ文章が載っていた。

 案内板の右隣にはさかえ橋の親柱石が建っている。

【さかえ橋の親柱石】 
 この角型で細長い石造物は欄干の親柱で、橋の名は字の通り「さかえはし」。
 その名は平瀬川と根方掘(二ヶ領用水)が交差したこの場所にあった。ここが溝口村上宿と下作延村片町の境にあったことから「境橋」、あるいは古代から中盤にかけ、このあたりに馬上からの検見(見積り)で税などが免除された田畑があったと伝えられていることから「馬上免橋」とも呼ばれてきた。
 また、明治二十一年の溝口村の「地誌」には「栄橋」とある。これは溝口村と周辺の村々の繁栄を祈願して命名されたものであろう。その地誌には
   栄橋
   所在 字南耕地   幅   巾弐間
   長   長四間     構造  木造
   雑項 本橋ハ矢倉沢往還ニ属シ橘樹郡菅生村字長沢ヨリ発源ノ谷川ニ架設ス
 とある。橋は、長さ四間(約七・二m)・幅二間(三・六m)の「木橋」であったので、この親柱が建った「石橋」は、それ以降に架けられたことになろう。
 このたび溝口駅北口再開発事業の工事にともない、さかえ橋の親柱石の一本が掘り出されたので、それをここに保存・展示し、地域に伝わる貴重な歴史を後世に伝承することにした。
     平成九年十月 川崎市建設局

【濱田庄司生誕の地】 (左側) 11:26
 「栄橋交差点」を越え、南武線の踏切を渡った右側の「川崎第一ホテル溝ノ口」前に、濱口庄司生誕の地の碑が建っている。

【濱口庄司生誕の地】 
 第一回人間国宝・文化勲章受章者 濱田庄司は、ここで生まれました。
 父の家は溝口の和菓子「大和屋」です。
 「陶芸こそ人の役に立つ」とのルノワールの言葉で陶芸作家板谷波山が教える東京高等工業学校(現在の東京工業大学)窯業科に進み、卒後は京都市窯業試験場で釉薬調合の実験に従事しました。
 河井寛次郎や柳宗悦、志賀直哉、バーナード・リーチと意気投合し、帰国するリーチと共に英国セントアイブスに窯を構え、最先端の芸術運動に触れました。帰国後、栃木県益子で陶作に励み、世界各地の民芸品を収集し「益子参考館」に展示しました。
 夏は益子、冬は沖縄で作陶し、昭和53年1月5日益子にて84年の生涯を終えました。菩提寺の溝口宗隆寺で本葬され眠っています。碑意は「陶匠は跡を留めず」
     高津観光協会・高津区役所・大山街道活性化推進協議会

【溝の口駅前の庚申塔】 (左側) 11:28
 濱口庄司生誕の地の碑が建っている右隣に庚申堂が建っている。
 庚申塔には文化三年(1806)の銘があり、右側面に『大山道』、左側面に『江戸道』と刻まれていた。

【庚申塔と大山道標】 川崎歴史ガイド・大山街道ルート
 「見ざる・聞かざる・言わざる」で知られた庚申信仰は、平安時代に始まる。特に盛んになった江戸期、この地に作られた庚申塔は、大山街道をゆく旅人の道標をかねていた。

<昼食> 11:30~12:20
 庚申塔先の交差点を渡って右カーブの上り坂に進むが、交差点を渡った郵便局前の左側にあるイタリアンレストラン「Bambu」で昼食とした。
 ランチのパスタを頼んだが、この店は大当りだった。
 この日は、菜の花(シャキシャキ)とベーコン(たっぷり)のパスタに、しっかり味のコンソメスープ・新鮮なサラダ・飲み物付で1,080円。味は全て絶品でこの値段。文句なしの★★★★★。


【ねもじり坂】 
 右カーブの坂道(カラー舗装)を登って、マンションが並ぶ間の左折道の入口にねもじり坂の川崎市歴史ガイドが立っている。


【ねもじり坂】 川崎歴史ガイド・大山街道ルート
 「ねもじり」の由来は明らかでない。昔は今より急坂で、東京へ野菜を運び、帰りには下肥を積んでくる牛車・荷車などにとっては、別名「はらへり坂」とも呼ばれた難所であった。

【笹の原子育て地蔵】 (左側) 12:26
 ねもじり坂を登り切った三叉路の右角に立派な笹の原子育て地蔵が建っている。
 写真を撮ろうとしていると近所の母子ずれが立て続けに二組通りかかり、共に小さな子が熱心にお参りしていた。これを見ると地蔵堂が地元に愛され、子供の教育もしっかりされていると思った。地蔵堂は平成四年九月に新築されたもので、扉は閉まり中を覗けない構造だった。

【笹の原子育て地蔵】 川崎歴史ガイド・大山街道ルート
 子育て地蔵は、いわば「子授け地蔵」でもある。昔、西国巡礼から戻った村人が、子を授かったお礼に建てたという。地元が講を作って守りつづけ、今も、子授けを願う人の姿がみえる。

 堂の左手には空襲で亡くなられた人を弔うものと云う地蔵菩薩立像、右手には弘化四年の秩父・西国・坂東 供養塔が建っている。
  
  


【道標兼庚申塔】 (左側) 12:36
 次の三叉路の信号を左折すると東急田園都市線の「梶が谷駅」。
 この信号を越えたすぐ先の左手「第二富士見ハイツ」の前に道標兼庚申堂が建っている。
 庚申塔の右側面には『右大山道』、左側面には『左やうがすじ道』(用賀筋道)と刻まれていた。
    


【梶ヶ谷交差点・末長歩道橋】 12:43
 国道246号・厚木街道に交差したら左手の「梶ヶ谷交差点」に架かる末長歩道橋を使って反対側に渡る。
 渡ったら前方の道標を見て「東名・馬絹」方面の左斜めの道へ進む。
  
 


【宮崎大塚】 (左奥) 12:51~12:55
 「馬絹」方面へ入って直ぐの「宮崎中学校入口信号」で、川崎市高津区より宮前区に入る。
 ここで宮崎大塚による為に、この信号で左斜めの道に入ると、突当り正面の民家の敷地内に塚が見えてくる。
 突当りを左折し、直ぐ右折すると塚の上に登れる石段(2箇所あり)が見えてくる。細い石段で頂上に登ると馬絹大塚供養塔と刻まれた石碑が建っていた。
 径約25m、高さ約5.5mの円墳で、武器を隠した塚とか物見の塚とか言い伝えられているが、詳しくは不明である。
      


【庚申坂】 
 街道に戻って、「宮崎団地前交差点」で右側に渡り直進すると下り坂。
 下りきった交差点で振り返ると右側に庚申坂の標柱が立っている。

【庚申坂】 
 昔、この坂の近くに「庚申堂(こうしんどう)」があったことから、庚申坂と呼ばれていました。
 大山参りの人々などが庚申堂に立ち寄り道中の安全を祈ったと言われています。
     平成十三年二月一日制定 宮前区

【八幡神社】 (右側) 13:24
 庚申坂を下ったら、少し上って左側に「宮崎第二公園」がある信号を渡る。更に上って右カーブした次の「花園橋北交差点」を右折し、直ぐ左折する。
 ビックリするほど大きな「宮崎二葉幼稚園」前を通り、次の「宮前平第3公園」角を左折して、すぐ広い道路を右折する。
 更に、正面にコンビニがある二股を左に下って行き、東急田園都市線の側壁にぶつかったら右折すると「宮前平駅」前に出る。
 駅の右には八幡神社の長い石段が見えてくる。その石段を数段少し上った鳥居の左下に小台庚申堂が建ち、中には正徳四年(1714)の庚申塔がある。
 この神社は高台にあるので見晴らしが良いと聞いていたが、長い階段なので二人で顔を見合わせて登るのをやめにした。
      


 八幡神社のすぐ先に交番があり、これを左に見て左折すると東急のガードが斜めの横切っている「宮前平ガード下交差点」に出る(下の写真)
 ここで真直ぐ先に見える小台坂を上って行くのだが、旧大山道が右に回るようになっているので、「宮前平ガード下交差点」を右折し、すぐの「ニッポンレンタカー」の営業所の所を左折、次を左折、次を右折して小台坂を登って行く。
 下の写真で、真直ぐ見えるのが小台坂方向。旧道は右に見える「ニッポンレンタカー」の後を左回りで回って、前方に見える2台の車の後ろに出ることになる。
  


【阿弥陀堂】 (右側) 14:00
 かつてはもっと急だった小台坂を上って、左手「小台公園」の角を右折、すぐ左斜めへ進むと緩い上り坂。やがて下り坂になり、突当りを右折。
 「鷺沼交番前交差点」を渡った次の「みずほ銀行」を左折して、八幡坂を下る。
 下りきった国道246号の「新有馬交差点」を右折するとすぐ右側に阿弥陀堂が建っていて、中には、元禄元年(1688)の阿弥陀立像と小さな地蔵菩薩が安置されている。
    


 往時の大山道は、阿弥陀堂から「有馬さくら公園」傍を通って横浜市との市境まで南西方向にほぼ真直ぐな道であったが、現在は消失してしまっているので、この先ジグザグに進むしかない。


【道標兼馬頭観音】 (右側) 14:05
 次の「鷺沼二丁目交差点」を左折すると、すぐ右側に道標兼馬頭観音が建っている。
 傍らに解説が書かれている大きな石碑も建っている。笠付馬頭観音の文字は擦れているが、左側面に『左大山道』、右側面に『右王禅寺道 文化二年(1805)』と刻まれていた。

【碑文】 
 此の石仏は共に馬頭観音であり、この辺を通っていた矢倉沢往還の路傍に立てられていたものである 向って右のものは笠付の立派なもので道標をかねており 右王禅寺道 左大山道と刻まれている 造立は文化二年十一月である 当時馬は物資運搬のにない手あった その役目を果たしてたおれていった馬の供養と人々の旅の安全を願って路傍に立てたものであろう 台石にこれを立てた数名の村人達の名が刻まれていたがいまは剥落して見えない 矢倉沢往還は江戸初期 一六〇一年に開かれ 江戸赤坂御門より 渋谷 上目黒 三軒茶屋 用賀 ニ子 溝の口 馬絹 有馬 荏田 長津田を経て 厚木へ抜け 相模の中部を横断し 秦野 松田を通り矢倉沢の関所から 足柄峠を越え 御殿場 駿河方面へ通じる東海道の脇往還として栄えた道である しばしば大名行列に出会い土下座をしたり 雲助の難もあった東海道とちがい気楽に往来できるので 一般庶民が好んで利用し また俗に大山街道と呼ばれ江戸中期頃より明治の終わり頃迄 関東の霊山である大山参りの人達で賑わったとい言う 最盛期の宝暦年間 一七五一~六三年には年間二〇万人の人達が阿夫利神社へ参詣したと言われている 秦野たばこをはじめ沿道に生産される産物 相模川でとれた鮎などもみな此の道を通って江戸に運ばれたのである また関西より箱根 足柄の天険を越えて江戸に入る最短直線道路として 幕府も軍事上重要視し小田原の殿様 大久保保候の参勤交代の専用道でもあったと言う この矢倉沢往還 明治三〇年 四〇年代にかけて改修された県道一号線にその使命をゆづり旧道として残されていた 第二次大戦後県道一号線は更に幅員を拡幅し舗装され 国道二四六号線となり いまや昼夜を通して疾走するくるまの音の絶えた事がない さて昭和二十七年東急電鉄KK会長の五島慶太氏が多摩田園都市開発の構想を打ち出し三十六年より次々に着工された区画整理工事によって多摩丘陵は大きく変わった それまで残されていた旧道はそのほとんどが姿を消していった そして四十六年 この石仏の立っていた上有馬地区を最後に市域からその残されていた面影は全く失われて行った 信州諏訪の生んだ考古学者藤森栄一氏はその著書 古道の中にこう記している 道ばたの丘に埋もれたヤジリや土器片から私たちは 古代の道をたどることができる 愛も憎も 生も死も 眠っている道である 私はいつかこの言葉に深い感銘をおぼえた事がある 長い間の使命を終りこの丘陵から消えて行った矢倉沢みち それは東海道の裏街道として栄た 明治の終り頃まで手甲脚絆草鞋履き白装束に身をかため きござを着た大山参りの人達も大ぜい通ったみちでもあった それらを路傍でじっと見守って来た石仏たち せめてこの石仏だけでも永久に保存していきたいと願いこの地に移して安置しこの事をながく後の世に伝えて
いきたいと思ったのである
     昭和五十三年五月 高津図書館友の会郷土史研究部代表 持田春吉しるす 石工千葉県勝浦市 元吉喜重郎 

【皆川園】 (左側) 14:18
 馬頭観音のすぐ先で、現在の道路面に対して斜めに建っている家が何軒か見受けられる。これはかつての大山街道が斜めに走っていた時の道に合わせた名残である。
 右側にある「赤ちゃん安心おなかま保育室」の所を右折し、坂を上って右手「有馬さくら公園」がある次の十字路を左折する。上記の馬頭観音は、この十字路近くにあったと云う。
 更に、次の十字路を右折し、次の角を左折して真直ぐ上りきれば緑豊かな細道に出る。ここで川崎市と別れ横浜市都築区に入る
(下の写真・左)
 ここから早渕川に下りて行くまでの間は往時の大山街道を彷彿させる道となる。
 左手に連なる広大な樹木群は皆川園の植木である。
 変則十字路でやや左カーブしている真直ぐ方向に進むと、左側に「皆川家」が建っている。ここは往時、立場だった所で、地形的にも峠付近になっている(下の写真・右)
      
この入口の左に皆川家が建っている。


【霊泉の滝(不動滝)】 (左側) 14:43
 「皆川家」の先から急な下り坂でうとう坂と言う。続いて血流れ坂(共に案内等は無い)となり、突当りを右折して更に下る。
 下り終わって広い道路に出たらこれを横断して血流れ坂の延長線上にある真直ぐ先の道に進みたいのだが、この場所に横断歩道が無いので、右手の「あゆみが丘信号」に迂回して渡らなければならない。
 再び旧道に入り、横浜市営地下鉄ブルーラインの高架くぐる。この道路は都築区と青葉区の区境となっている。
 高架をくぐって整然と並んでいる新興住宅地を進むと、左前方にこんもりした緑が見えてくる。この木立の下に霊泉の滝(不動滝)がある。

【霊泉の滝】 
 滝不動尊は、誠に霊験あらたかです。
 此の地域に雨の降らない時雨乞いすると必ず降りました。昔から喘息・百日咳・風ひきなどお水を戴きながらお願いすると必ず治癒しました。
 滝壺等汚さないで下さい。

     馬鍛冶山不動尊 堂守

 ご参拝ご苦労様です
 霊泉のお水利用なされる皆様、近代食生活の向上に伴い、体質の弱体化もありますので、お持ち帰りになって、一回わかしてからご利用下さい。
 諸道具等の洗滌、動植物放流禁止致します。

     老馬鍛冶山不動尊 管理者

【不動堂】 (左上) 14:45
 霊泉の滝の隣に狭い石段があり、これを登ると滝の上に老馬鍛冶山不動堂が建っている。
    


【荏田下宿庚申塔】 (左側) 14:55
 不動滝のすぐ先で、早渕川に突当る、往時は突当った所で真直ぐ川を渡って左に行ったが、現在はここに橋が無いので、左手の「鍛冶橋」を渡る。
 昔は、突当った対岸に生麦事件がきっかけで出来た番小屋があったとの事である。
 「鍛冶橋」を渡ったら直ぐ左折し、右側の「ライオンズマンション」を回り込む様に右カーブして行くが、そのカーブの左側に平成六年に改築された庚申堂が建っている。

【いわれ(由来)】 
 この庚申塔は、その昔寛政五年(西暦1793年)徳川時代中期に荏田村下宿の婦人達によって建てられたもので当時盛んだった庶民信仰の一つに疫病、厄払いの為六十日ごとの庚申(かのえさる)の日に講中の人(女)が集まって眠らずに祈願し、一夜を過ごす風習(ならわし)があったそうです。
 ここは昔栄えた大山街道の道筋で江戸を発った旅人の一日目の宿場の入口でもあり道標としても親しまれてきました。又、交通安全、幼童安穏の神をしても知られ遠方から訪れる人もあります。本年下宿講中の仲間が集まり昔を偲び心のよすがにもと古びた祠を改築いたしました。

     平成六年十一月 下宿庚申講

【荏田宿】 
 荏田宿は、日本橋から七里(27.5Km)の所にある宿場で、「日本橋を朝発ちで、夕方にたどり着くのが荏田の宿」と云われ、大山街道最初の宿泊地であった。
 私達はここまで4日も掛かっているので、改めて江戸時代の人の健脚に驚く。
 この地は鎌倉街道と矢倉沢往還が通る交通の要衝で、鎌倉時代には荏田城が築かれ、城下集落として発展。江戸初期に長津田宿と共に宿駅に指定されたが、明治二十七年の大火によって当時の面影は失われてしまった。
 宿の東の入口は上記庚申塔があった所で、西に向って下宿、中宿、上宿となっていた。文久三年(1863)頃は旅籠が三軒、商店が三十軒程並び大いに栄えたと云う。


【荏田宿常夜燈】 (右側) 15:00
 下宿の庚申塔から「JA横浜荏田」の前を中宿へ進むと、「荏田交差点」手前右側の民家(小泉家)の庭に荏田宿常夜燈が建っている。

【荏田宿常夜燈】 横浜市地域史跡(平成元年12月25日登録)
 県北を通る公道矢倉沢往還(大山街道)は、東海道の裏街道にあたり、大山参詣の信仰の道でもありました。荏田は長津田とともに、江戸初期から宿駅に指定されていました。当時の宿の繁栄を語るものとして常夜燈が残されています。
 総高ニ三〇センチメートル。中台に「秋葉山」、笠に「常夜燈」と刻まれ、文久元年(1861)に建立されました。秋葉講の案内宿に建てられたもので、宿中を初めとして、神奈川宿・市ケ尾村などからも寄付をあおぎました。
     平成二年三月 横浜市教育委員会

【荏田城址】 (右上) 15:05
 「荏田交差点」を渡って、コンビニ(セブン・イレブン)が建っている次の十字路を左折する。往時、この四つ角に高札場が立っていた。
 旧道は徐々に国道に近寄って行き、やがて合流する。この旧道の右手小高い所は荏田城址である。
 荏田城の歴史については、資料も無くほとんど不明。鎌倉時代に築城された平山城で土塁・空掘・曲輪跡が残っているとの事だが、現在は私有地で一般公開していないそうだ。
  


【地蔵堂】 (右側) 15:16
 国道246号(厚木街道)に合流して直ぐ右側の「城南信用金庫」を過ぎた所に、ごく小さな橋がある。これを渡ったら右折し、再び旧道に入る。
 「東名高速道路」の高架をくぐり交差点を渡ると、江田駅手前右側の奥に地蔵堂が建っている。
 三軀の地蔵菩薩が赤い帽子と前垂れを掛けて立っている。
  


 東急田園都市線・江田駅下のガードをくぐり、左折すると「江田駅西口」に到着する。
 大山街道は、もう一度江田駅下のガードをくぐって国道に出て行く。
 本日はこの「江田駅」で終了とする。



 4回目の旅終了(15:25)。「江田駅」。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、8.7Km(高津交差点~江田駅)
          赤坂御門から新道ルート経由で、六里三町(23.9Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、10.2Km(高津駅~江田駅)  累計:47.2Km

          5時間 17,400歩。



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