奥の細道(7)安積山・黒塚
2014年7月19日(土) 雨
郡山のホテルを8:00に出発して、昨日行けなかった田村神社に戻って見学してから、二本松まで自家用車で巡る。
(注:解説で街道の左側、右側とは大垣に向っての左右です)
【田村神社】 (左側) 8:20~9:00
国道49号線を「山中交差点」迄戻って田村神社に詣でる。
表参道の鳥居の前は広い庭になっていて、鳥居の手前右側に竹垣で囲われた堂の前の桜が、また、鳥居の左横には清水寺森清範貫主御手植の桜の木が植わっている。清水寺の貫主がこの田村神社に来たのは2014年4月24日との事。
田村神社は、大同年間(806~810年)、坂上田村麻呂が東夷征伐の際に鎮守山泰平寺を建立し、本尊として大元明王像を安置したのが田村神社の元と云われる。また、『仙道三十三観音第一番札所』にもなっている。
【堂の前の桜】 堂の前とはお山の下庭をさして言う。大元明王堂の前という意味である。かなり広い庭であるが、旧暦六月十四日十五日の山中祭りには櫓が建てられ、踊りが踊られ、多くの露天商が並び参詣人で混雑する。地方の祭りがこのように賑わうのは、あまりみられないのではないだろうか。大元明王が田村六十六郷の総鎮守であった頃の名残が今もって祭りの賑わいにつながっているのだろう。 この桜は、エドヒガンの枝垂れ種で樹齢は八十余年という。古木ではないが、堂の前にはなくてはならない存在となっている。 また、参道に沿って染井吉野が植えられているが、百年以前に里人が奉納したものである。 平成二年四月四日 郡山市観光協会田村支部 |
鳥居をくぐり、太鼓橋を渡って55段程の急な石段を登ると神楽殿があり、その先に郡山市指定重文の本殿・脇社々殿が建つ。
本殿手前左手に、これも重文の延宝八年検地燈籠が建ち、その奥に泰平寺の桜(影勝の桜)が聳えている。
本殿手前右手には土俵があり、その後には神社の説明文、及び、何れも重文の厨子・絵馬・蒔絵・算額等の説明文が沢山並んでいた。歴史ある神社なので重要文化財が数多くある。
【田村神社】
元禄二年四月二十九日(西暦1689年六月十六日)須賀川を発った松尾芭蕉と曾良は、ここ田村神社に参拝している。
当時、田村神社は大元師明王といい、芭蕉らは種々の社宝を見ている。
社宝の一部は散逸したが、現在でも多くの重要文化財が保存されており、曾良日記には次のように記されている。
「先大元明王へ参詣。裏門より本実坊へ寄、善法寺へ案内シテ本実坊同道ニテ行。村雪(雪村)哥仙絵、讃宗鑑え由、見物。・・・・・・(狩野)探幽が大元明王を拝ム。」
平成元年三月 郡山西ロータリークラブ
【田村神社本殿・脇社々殿】 郡山市指定重要文化財(昭和43年3月13日指定) 本殿は三間×三間の大きさで、まわりには高欄(手すり)の付いた縁がめぐっています。周囲の壁は盲格子と呼ばれる格子の付いた板壁と連子窓(断面が正方形または菱形の棒を縦または横に平行に数多く並べた窓)で構成され、屋根は入母屋づくりです。神聖な場所である内陣は一間×二間の広さがあり、天井は板を並べて張った水平な鏡天井で、外陣はこの内陣の三辺を一間の幅で囲んでおり、天井は水平な横木をあらく方眼状に組み、間に板を張った格天井です。内陣の奥の一間四方の段上には、福島県指定重要文化財である厨子が安置されています。 この本殿は、少なくとも江戸時代初期の様式を備えております。 本殿の脇には二棟の社があり、いずれも正面の柱の間が一間の一間社で、ひとつは屋根の前のほうが長く伸びた流造り、もうひとつは正面だけ階段の上に建物に取りつく形で屋根のある春日造りです。この脇社々殿も本殿とほぼ同じ頃のつくりと思われます。 郡山市教育委員会 |
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【延宝八年検地燈籠】 郡山市指定重要文化財(昭和62年3月31日指定) 延宝八年検地燈籠は、高さ233cmの六角形石燈籠です。 かつてこの付近は、寛永二十年(1643)から二本松領主丹波氏の預かり領とされておりましたが、江戸幕府は天領を直接支配する方針から、延宝六年(1678)六月に検地を命じ、延宝八年(1680)までの二年を要し完了しました。 幕府の命令により諸国で検地を行っていますが、その奉謝としての検地燈籠が、地域の鎮守神にあることは全国にも余り例が見られません。 また技術面でも、全体的形態並びに各部に加えられた石土手法は、いずれも江戸時代中期頃の手法によって作られており、ほぼ造立当時の姿を残しており、歴史上の事実を裏付ける石造遺物として学術的価値が大きいと思われます。 郡山市教育委員会 検地とは、現在の課税台帳整備に当るもので、中世から近世にかけて行われた田畑・屋敷地の面積・石高を調査し、村高・村境を決定する土地・人民調査をいう。 |
【泰平寺の桜(影勝の桜】
慶長三年(1598)正月、上杉影勝は越後より会津に移り、当地方も影勝の支配するところとなった。慶長五年(1600)、前沢御陣の折、八幡神社より御幣が出現し、お山の上を飛び回ったという。それを聞き付けた守山城代、本庄越前が小野郷入水の増ヶ池、鶴ヶ池の水を汲ませ、大元明王の御前で湯立の神事を執り行ったところ、前沢御陣は必ず勝利するだろうとの託宣があった。託宣の通り勝利の帰陣となり、希代の不思議と三百石の領地を寄進したという。桜もこの時、植えられたものであろうか。古い絵図を見ると熊野神社のこの桜とともに、八幡神社の横にも桜があったことが分かる。当時植えられたものであれば、樹齢は約四百年となるであろう。種類はエドヒガンであるが、紅が濃く見応えのある桜である。
平成二十四年四月 郡山市観光協会田村支部
境内を見学していた所、氏子の代表が「今日は、子供達が神楽を奉納する祭りの日で、これから社殿を開けて掃除をするので内部を見ても良い」との事で、有り難く社殿内に上がらせて頂いた。昨日、トラブルも無く予定通り訪れていたらこの様な機会に巡り遇わなかったと思うと、何が幸いするか分からないものだ。
普段見ることが出来ない重要文化財の厨子や絵馬が見られて本当に良かった。
厨子 |
【田村神社厨子】 福島県指定重要文化財(建造物) (昭和56年3月31日指定) 方一間(正面真々1.72m、奥行真々1.5m) 胸高約3.8m、中央部軒高約2.5m、入母屋造、板ぶき 厨子を安置する田村神社本殿は、古く大元師明王を祀る堂として創立されたと伝えられ、明治初年の神仏分離で田村神社(大元師神社)と改称した。 現在の社殿は、寛文十一年(1671)禅宗様仏堂として再建されたもので、その後、内外陣境や向拝などがいくらか改造をうけている。 厨子はこの堂の内陣正面の来迎柱を背にした須弥壇植上に安置され、大元師明王を祀っている。方一間単層入母屋造、平入りの禅宗仏殿形式で比較的大きく、丸柱の上下に粽(ちまき)をつけているのをはじめ、工事は入念である。禅宗様の踏襲状況や扉のまわりの文様重視の絵様などからみて、桃山時代を下らない遺構と見られる。 福島県教育委員会 |
絵馬 佃島南望之図 絵馬 三国志三傑図 |
【絵馬 佃島南望之図】 福島県指定重要文化財(昭和55年3月28日指定) 絵師は曙山楼田一。文政13年3月に奉納。縦180cm、横270cm。 【絵馬 三国志三傑図】 福島県指定重要文化財(昭和55年3月28日指定) 浮世絵師鳥居派の鳥居忠次作。縦180cm、横270cm。 この他の重要文化財として、絵馬の『大江山図』『繋馬図』『鎮西八郎為朝図』、蒔絵の『神馬図額』、『算額』等があるが、共に説明文を近写しなかったので読めなかった。 |
表参道は南側の旧道から真っ直ぐ続く道であるが、「山中交差点」からは東参道の石段がある。後ほど神社の上から下りてみたら、東参道の石段途中に芭蕉の句碑があった。
『風流の初やおくの田うえ唄』と刻まれている。 |
【日出山宿・小原田宿・郡山宿】
田村神社を後に、国道29号線を郡山方面に戻る。「金山橋」で阿武隈川を渡り、東北新幹線のガードをくぐった先の「日出山交差点」を右折して左からくる奥州街道(陸羽街道・県道355号線)に合流する。
この「日出山交差点」の南側は、奥州街道39番目の日出山宿があった所で、北側は40番目の小原田宿があった所である。小原田宿の名残として「小原田郵便局」の前の道は枡形になっている。
東北本線のガードをくぐると「本町」に入り、この辺りが41番目の郡山宿である。
郡山宿は、元和九年(1623)頃町割が始まり、寛永二十年(1643)頃上町と下町の二町で宿を成す。陸羽街道が整備され陣屋が置かれた寛文三年(1663)頃から発展してきたと云うが、元禄二年(1689)芭蕉一行が郡山で宿泊した頃、やっと集落が整ってきた程度で、曾良が『宿ムサカリシ』と記した様にまだ汚かったらしい。正式に宿場として開設されたのは文政七年(1824)である。
【日吉神社】 (左奥)
郡山駅への大通りを越え、逢瀬川に架かる「安積橋」を渡り、磐越西線のガードをくぐって郵便局先の信号を左に入ると日吉神社がある。こちらは脇参道だが、私達は車移動なので車で入れるこちらに回った。脇参道の鳥居の右横に伊東肥前の碑、石造塔婆(十六基)の標柱が立っていた。
表参道は、郵便局手前の道を左に入った突き当たりにある。その表参道の石段途中右側に石造塔婆が覆屋に集められていた。
更に石段を登ると正面に日吉神社の社殿が建ち、境内左奥の稲荷社手前に伊東肥前の碑がある。
【石造塔婆】 福島県指定重要文化財(考古資料) (昭和33年8月1日指定) この石造塔婆群は、この付近にあったものを土木工事などによって、ここに集められたものである。十六基指定され、その内に正安三年(1301)のもの一基、文保二年(1318)のもの一基を含んでいる。多くは、頭部を三角形に切り、二条の刻線があって額(ひたい)が突き出し、その下に大きく種子(しゅうじ)(仏・菩薩などを標示する梵字)を切っている。岩質は、安山岩質凝灰岩であるため、関東地方の板碑とは異なり、東北方板碑といわれるものである。 それらのうち、上部を欠くが大きく阿弥陀の種子(キリーク)を刻み、その下に三行に草体の梵字が刻まれているものもある。 この付近は、板碑の多い地帯で、近くの本栖寺には、永仁(1293~98)銘のものの外、阿弥陀仏を浮彫にした笠石塔婆があって、これらは、本県中世の仏教文化上注目すべきものである。 福島県教育委員会 |
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【伊東肥前の碑】 郡山市指定史跡 俗に仙台佛と言われ天正16年(1588)7月伊達・佐竹両軍が窪田城(久保田城)で相対した際、伊達政宗の臣伊東肥前重信は手兵30人余騎と共に伊達政宗を救い戦死したので伊達家ではその後の参勤交代の途上必ずここに駕をとめて香花を手向けたと言われる。 尚この碑はもと逢瀬川の北にあったが水害で崩壊したので元文5年(1740)に現在の郡山機関区付近に移され昭和15年10月に改修同32年1月に機関区構内に移されていたが同45年10月県道拡張に伴い伊達家本陣跡と言われたこの地に移された。 郡山観光協会 |
【福原宿】
日吉神社から街道に戻り再び奥州街道を北上。すぐ国道288号線の「三春街道」を横断する。ここを右に行けば「三春滝桜」で有名な三春町は近い。
「三春街道」を横断した先が42番目の福原宿である。
【一里坥阯】 (右側)
右側「富久山郵便局」の先、「どんぐり歯科医院」の前に史跡 一里坥阯と刻まれた石碑が建っている。
説明板等はなかった。また、この右側一角(狭い範囲)の町名は「一里坦」となっている。 |
【日和田宿】
奥州街道が東北本線に近づいた「牛ヶ池バス停」で二又になっているので左の旧道へ進む。この辺りから前方に安達太良山が見えるというが、本日は雨なので見えなかった。
旧道は弧を描いて再び東北本線に接するが、線路で分断されて真っ直ぐ進めない為、線路の上を越えるループ道で線路の右側に出て、日和田町に入る。
町に入った所が奥州街道43番目の日和田宿になる。
【蛇骨地蔵堂・傘マツ】 (左奥)
「日和田駅」入口を過ぎて、190m程で左奥に蛇骨地蔵堂があり、地蔵堂の左側には立派な西方寺の傘マツがある。
西方寺の本堂は地蔵堂の北隣にある。
【蛇骨地蔵堂】 郡山市指定重要文化財(平成12年4月25日指定) 蛇骨地蔵堂は、養老七年(713)に開山され、現在の建物は、享保三年(1718)の再建といわれております。当初は東勝寺の所管でありましたが、幕末に東勝寺が廃寺となってから、西方寺に移されました。 禅宗様式を基調とした佇まいは、時代の特徴をよく表しており、仕上げも上質です。 柱や梁の架構も雄大であり、使用部材にも見るべきものがあります。 屋根に一部傷みが見られるものの、内部の保存状態は大変優れており、郡山市内においても随一の仏堂建築であるといえます。 郡山市教育委員会 |
【蛇骨地蔵堂】
日和田の城主浅香左衛門尉忠繁に、「あやめ」と言う娘がいた。家来に、安積玄番時里と言う大変乱暴なものがいて、「あやめ」を妻にしたいと思ったが許されず、大変怒って姫を館から追い出し、ほかのみんなを殺してしまった。姫は時里をきらい、くやしさの余り、「死に変り生き返り、お前の仇をうつであろう」と言って、館の近くの沼に身を投げた。姫は大蛇に化身し、この地方を荒らした。困った人々は神に祈り、村の娘をひとりずつ、毎年三月二十四日に人身御供として差し出した。三十三人目の娘は、片平村の権勘太夫の娘に当った。夫婦は、長谷観音にお参りして、そこで「佐世姫」に出会った。「佐世姫」は、娘のかわりに身を捧げることとなった。大蛇が現れた時、姫は声高らかにお経を読み上げた。その時、大蛇は沼に沈んだと思うと、天女になって現れ、蛇の骨を残して消え去った。その蛇骨を彫って地蔵尊を作り祀ったところ、日和田の里に平和がおとずれるようになった。「あやめ姫」「佐世姫」の伝説を秘めたお堂には、蛇骨で刻まれた地蔵尊が安置され、堂の裏には人身御供された美女三十三体の観音が祀られている。
郡山市観光協会
【蛇骨地蔵堂の鰐口の由来】
蛇骨地蔵堂は、養老七年(732)松浦佐世姫が開山したと伝えられる御宇堂である。
東勝寺は、平安時代の前期(834年以前)日和田の町の南方「寺池」の地に辯応道天により開山されその後、蛇骨地蔵堂の建立地に移設された天台宗の祈願堂で、蛇骨地蔵堂を管理していたが、慶長四年(1599)の大火で蛇骨地蔵堂と共に焼失した。
享保三年(1718)両堂宇とも二本松藩主の丹羽秀延の篤志によりようやく再建した。
再建三年後の享保六年(1721)鋳物師藤橋彦太郎が鰐口を鋳造し東勝寺に奉納した。この鰐口には「奉喜鰐口家門長久 福寿万安 祈攸」の刻銘がある。
藤橋家は勅許を得て、全国の鋳物師を支配する真継家から鋳物師免許状を交付された二本松藩御用鋳物師で、鰐口のはか寺院の銅鐘など数多く鋳造している。
安積山宝珠院東勝寺は、明治の初め廃寺となったため、鰐口は蛇骨地蔵堂に移され現在に至っている。
平成二四年四月二四日 蛇靴地蔵堂保存会
【西方寺の傘マツ】 郡山市指定天然記念物(平成12年7月25日指定) 西方寺の傘マツは、樹齢250年と判断され、樹高は4mあります。地上から2mの高さで水平にニ本の枝が伸び、笠松状に生育しています。 胸高直径は60cm、幹周りが188cm、枝張りが東西南北とも11mあり、非常に立派な体裁を放っています。 天明六年(1786)に建立した旨の記録がある書家橘定立(貞立)の顕彰碑に枝が寄り掛かり「ひじかけ」の松として、独特の趣を醸し出しています。 これほどの樹勢があり管理が行き届いておりかつ、形の整えているものは、大変珍しく、市内で天然記念物に指定されている松は、この一本だけです。 郡山市教育委員会 |
【安積山(あさかやま)公園】 (右側)
街道に戻って、少し北上すると右側に安積山公園がある。街道南側に歩行者入口があり小高いところに東屋がある。街道北側に駐車場がある。
芭蕉一行が旧暦の五月一日に訪れた歌枕の安積山であるが、本来はここではなく西の額取山という説もある。 古歌「みちのくの安積の沼の花かつみ かつみる人に恋ひやわたらん」に詠まれた『花かつみ』にあこがれた芭蕉が、人々に尋ね歩けども分からずに日が暮れかかってしまったという。 ハナカツミは、古くはショウブやマコモ等の説があるが、現在はヒメシャガとしている。園内にも花は咲いていなかったがヒメシャガが植えられていた。 駐車場から遊歩道を進むと右一段上に奥の細道の碑、その先右上に万葉集・安積采女の歌碑、更に左下に山ノ井清水がある。奥まで進むとトイレ・公園・野球場がある。 左上の写真は、駐車場から園内への入口で奥が遊歩道。 |
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奥の細道の碑 【あさかの沼】 等躬が宅を出て五里斗檜皮の宿を離れて安積山有路より近し此あたり沼多しかつみ刈る比もやヽ近うなればいづれの草をはなかつみと云ぞと人々に尋ね侍れども更に知人なし沼を尋人にとひかつみかつみと尋ありきて日は山の端にかヽりぬ 奥の細道より |
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万葉集・安積采女の歌碑 【あさか山】 (駐車場入口の説明文) 安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに (万葉集 巻十六) 元禄二年(1689)五月朔日 天気快晴 日出ノ此 宿(郡山)ヲ出 壱里半来テヒハダ(日和田)ノ宿 馬次也 町はづれ五六丁程過テ あさか山有 壱リ塚ノキハ也 右ノ方ニ有小山也 アサカノ沼 左ノ方谷也 皆田ノ成 沼モ少残ル 惣テソノ辺山ヨリ水出ス故 いずれの谷にも田有 いにしえ皆沼ナラント思也 曾良 旅日記より 芭蕉・安積山来訪三百二十周年記念 平成二十一年(2009)五月一日 郡山市花かつみの里ひわだ推進会 |
【山ノ井清水 由来】
いにしえよりあさか沼に向いて立つこの山を安積山と称し、また、その山裾より湧き出る一条を山ノ井の清水と呼ぶ。
日和田の人々のむかしをしのびこの清水の保全を計る。
一九九三年三月 花かつみの里 ひわだ推進会
【本宮観音堂】 (右側)
安積山公園を後に、磐越道の高架をくぐり奥州街道(県道355号線)を北上。やがて郡山市から本宮市に入る。更に進んで、本宮駅手前の逆二又道の右側に本宮観音堂がある。
この観音堂は、仙道・三十三観音・第四番札所、及び、安達・三十三観音・第三十番札所となっている。 観音堂右手に、郷土につくした小沼貞長公霊碑が、左手には石仏群があった。 |
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【郷土につくした人 小沼貞長】 貞長は田村郡船引城主でしたが、田村氏が没落したのち浪人となり、慶長五年(1600)五十七歳の年に本宮に移り住み、若松城主上杉景勝から荒地ニ五〇石を与えられ、通称南町の地に新しい町の建設を計画しました。 伊達政宗が本宮通過の際、新しい町建設の話をしたところ、政宗は賛成し、永楽銭ニ〇〇貫を与えました。 貞長はこれに感激し、賛同した人々に奨励金を分け与え建設に着手し、慶長十三年(1608)若松城主蒲生秀行の代に新しい町を完成させました。 慶長十五年(1610)八月十八日、六十八歳でこの世を去りました。 平成三年三月 本宮教育委員会 |
【追分】 (左側)
観音堂の前は三叉路の追分になっていて、三角広場に普度供養塔が建っている。
本宮駅の方(北)から見る形で、『右 あい津 普度供養塔 左 江戸』『天保十四年卯年十月十七日』と刻まれている。 ここが会津への追分で、北から来るとここで右に別れ、越後街道を通り、猪苗代湖の北岸を回って会津若松へ至る。 左の道が江戸方向。(左上の写真参照) |
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【普度供養塔】 天保十四年(1843)に本宮字南町名主の大内良忠怒(?)信により建てられた道標(みちしるべ)を兼ねた供養塔。普度は全てのものを救う「衆生済度」か仏陀を意味する「○○」を表していると考えられ、旅の安全を祈って建てられたもの。 明治十六年(18813)の道路改修までは奥州道中と会津街道が分岐する観音堂北側に建てられていた。その後数ヵ所を経て、平成二十二年に現在地に移設された。 施主 大内良忠怒信 |
【戊辰戦争供養碑】 (右側)
観音堂のすぐ先右側にお堂(薬師堂?)があり、その敷地右側に戊辰戦争戦死者の供養碑が建っている。下の写真で供養碑のうしろに写っているお堂は本宮観音堂。
【本宮の戊辰戦争】 1868年(慶応四)一月三日、鳥羽・伏見の戦いで始まった戊辰戦争は九月二十二日の会津藩降伏によって、福島県内での戦いは実質的に終わったといえる。 本宮周辺はその地政学的位置から西軍(新政府軍)にとっては二本松藩、会津藩攻略の要地であり、また東軍(奥羽同盟軍)にとっては二本松・会津を守るためには欠くことのできない場所であった。このため両軍は本宮宿をめぐってはげしい攻防戦をくりひろげた。 ●七月二十七日、前日に三春藩が降伏したので、三春宿営の西軍は正午頃本宮及び小浜に向けて出発する。この頃、本宮守備の二本松藩士はニ小隊程度と手薄であった。糖沢村城之内の戦い、二本松藩士二十九名、農兵二十八名戦死。民家三十軒焼失。 高木・本宮間の戦い、阿武隈川をはさんだ攻防戦。二本松藩士二十四名、農兵二名、土佐兵(断金隊長美正貫一郎)戦死上高木十四軒焼失。西軍本宮宿を占領。 ●七月二十八日、西軍は本宮宿に宿営し、各方面に兵を配置する。東軍は雷神堂山、会津街道、仁井田村等で西軍と打ち合うが、いずれも敗れて猪苗代村、玉井村山入へ退却した。西軍死傷者二十名、東軍死者四十二名、傷者三十四名。 ●七月二十九日、西軍主力は二本松に向けて午前六時頃本宮を出発。正午頃二本松城陥落する。 平成二十四年十一月 本宮市教育委員会 |
【本宮宿・南町本陣跡】 (左側)
観音堂から少し進んだ左側に「本宮郵便局」があり、そのすぐ先にスーパー「ソレイユMOTOMIYA」がある。その店の右端に本宮宿・南町本陣跡の説明板が立っている。
【本宮宿・南町本陣跡地】 直江兼続(2009年NHK大河ドラマ「天地人」主人公)ゆかりの地 今から400年前(1608年)それまで荒地だった安達太良川以南の一帯は、上杉家重臣直江兼続によってこの地を与えられた小沼貞長が通称南町と呼ばれる現在の下町・中條・上町を造り、当地内に南町本陣が置かれました。 本陣は江戸時代、主要な街道に宿場の拠点として設置され、大名の参勤交代や幕府役人の休泊に使われました。 本陣南側にあった日輪寺(明治37年焼失後、山田に移転)の跡地からお地蔵様の台座が発見されたのをきっかけに、毎年5月24日に供養祭りが行われ、現在同時期に「子育て・長寿お地蔵さま祭り」が催され地域の活力源となっています。 又日輪寺の跡地には、1914年(大正3)娯楽の殿堂として本宮座(定舞台)が建設され、現在は本宮映画劇場として残っています。 中條三区商工振興会 |
【本宮宿・北町本陣跡】 (左側)
本宮駅入口の信号を越え、ほぼ突き当たりの状態の信号を左折し、直ぐ右折して県道355号線を行く。
但し、現在の奥州街道は右折せずに真っ直ぐ進み、東北本線の左側を走る国道4号線に乗って二本松まで北上する
右折したすぐ先の左側に立派な松と明治天皇本宮行在所趾の石碑が建っている所が本宮・北町本陣跡である。 説明文等は見当たらなかった。 |
【南・北杉田宿】
本宮・北町本陣跡の先で街道(県道355号線)は左折後、すぐ右カーブして再び北上する。
街道が東北本線に一旦接したのち右カーブして離れて行くが、カーブが終わった「薬師寺」入口で右に少し旧道が残っている。
その旧道も左カーブしてすぐ県道に戻る。県道に戻った辺りが46番目の南杉田宿である。
その先、街道は東北本線の下をくぐり、杉田駅の傍を北上する。その杉田駅傍が47番目北杉田宿である。
やがて街道は「国道4号線・二本松バイパス」の下をくぐって国道の左側に出る。次いで、東北本線に接した所で県道から離れて右の道へ入る。
道なりにしばらく進むと、県道355号線と交差する「若宮交差点」に出る。
奥の細道は「若宮交差点」を渡り、次の十字路を右折、更に突き当たりを右折して県道の「本町交差点」で左折して県道を東に進む。直ぐ「二本松駅入口」。
【二本松宿】
二本松駅周辺が48番目の二本松宿で大宿場町であった。
【大隣寺】 (左奥)
上記で「若松交差点」を渡り、次の十字路を右折すると述べたが、ここで大隣寺と二本松城跡に寄り道をする。
二本松藩主丹羽家の菩提寺である大隣寺は、「若松交差点」の先の十字路を左折し、次の信号を右折した左側にある。
入口の石段下左側に少年隊二階堂衛守、岡山篤次郎戦死の地碑、石段を登った所が山門趾で正面に本堂、本堂手前左手に二本松少年隊墓所、本堂裏手の山の上に藩主の御廟・家族墓・歴代藩主の御廟がある。
歴代藩主の霊廟は高い所にあり、雨が激しかったので行かなかった。
【曹洞宗 巨邦山 大隣寺】 二代丹羽長重公は、初代長秀公の菩提を弔う為、寛永四年(1627)越前国の融法全祝大和尚を招き、白川(河)の地に大隣寺を建立した。融法全祝大和尚は、越前総光寺三世雪山どん秀禅師を開山として迎え自ら二世となる。寛永二十年(1643)、三代光重公は白川より二本松へ国替えとなり、同年冬には大隣寺も当地に移り、二本松藩主歴代の菩提寺となった。寺領は百石余、その後、方角などの理由から城下内において二度移転し、現在地へ移った。伽藍は数度となく改築や改装が行われたが、文化八年(1811)の大改修によって現有の本堂ができた。戊辰の役直後には、二本松藩庁の仮事務所や藩校などにも使用された。 寺号は、初代長秀公の法名(総光寺殿大隣宗徳大居士)の大隣に由来し、寺紋には丹羽家の家門『違棒』を用いている。 境内には、歴代藩主の霊廟、丹羽家の位牌堂である御霊屋、戊辰の役で幼い命を散らした二本松少年隊の墓がある。また、延命子安地蔵菩薩や十二支守本尊が安置されており、西国三十三観音を祭った霊場観音山と共に信仰を集めている。 |
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二本松少年隊の墓 |
【二本松少年隊の墓】 慶応四年(1868)七月二十六日、三春藩の突然の降伏により二本松藩の横腹を突く形となった西軍は、潮の如くニ本松城下に迫りつつあった。そのため藩は止むなく少年隊の出陣を命じることになり、十二歳から十七歳までの六二名が緊急に各隊に配属され、西軍との応戦体制に入った。 二十九日朝、隊長木村銃太郎・副隊長二階堂衛守の率いる少年隊士ニ五名が出陣した大壇口で戦闘が開始された。少年隊の放つ速撃弾は次々と命中、大いに西軍を悩ませたが、多勢に無勢、新式銃を具備した西軍を前に徐々に戦況は悪化し、ついに隊長が敵弾に倒れ、戊辰戦争中最大の激戦・大壇口の戦いは終焉を告げた。その後、少年隊士は各々果敢に戦いを続け、敵弾に倒れ、また返り討ちにあい、計十四名の戦死者を数えた。 時代の流れとはいえ、維新の夜明けを前に義に殉じた純粋にして可憐な少年達、会津白虎隊に優るとも劣らない壮烈な戦士を偲び、その忠魂を讃え、心から冥福を祈る参詣者が今も絶えない。隊長・副隊長と十四名の少年隊士の魂がここに眠る。 |
本堂 |
【二本松藩主丹羽公の略歴】 丹羽公の祖は尾張国丹羽郡児玉村に住し、室町幕府三管領の筆頭で越前・尾張の守護である斯波氏に仕え三十代忠長の時に「丹羽」を姓とした。 三十一代長政の第二子であった長秀は若くして斯波氏の守護代・織田氏に仕え、1562年、織田信長は異母兄・信広の娘を長秀に嫁がせ、以降重臣として軍事・民事を支配させた。1572年、近江国佐和山五万石の城主となり初めて戦国大名となる。 1582年、本能寺の変に際し逡巡して時期を失い以前の部下であった豊臣秀吉に帰属、若狭国と近江国内の二郡を与えられる。 1583年、賎ガ岳・北の庄の合戦で柴田勝家を攻め滅ぼし、秀吉より越前国と加賀国内の二郡を加増され百二十三万石余の大大名となる。 1585年、長重公家督を継ぐ、1600年、関が原の合戦で徳川家康より所領を没収され以後流浪の身となる。1603年、常陸国古渡一万石を得て大名に復帰、1622年、陸奥国棚倉五万石の城主として移封。1627年白河十万石余の城主として移封。 1637年光重公家督を継ぐ、1643年、二本松十万七百石の城主として移封。以来、明治戊辰まで二百二十五年間に渡る二本松藩政が展開された。 |
【二本松城跡】 (左側)
大隣寺前の観光センターで昼食後、車なのでそのまま坂を登り、「東北自動車道」直前を右折して後ろ側から二本松城跡(霞ヶ城公園)に入る。指定面積168,366.40m2もの広い城跡である。
上の駐車場から本丸跡を見学後、下の駐車場に移動して箕輪門・三ノ丸広場等を見学した。
上の駐車場から石垣脇の坂を登って本丸広場へ向うと、二本松市の全貌が望める。また、本丸広場の奥には天守台が残っている。
その天守台の左脇に丹羽和左衛門・阿部井又之丞自尽の碑が建っていた。
本丸跡の石垣 |
【二本松城跡】 国指定史跡(平成19年7月26日指定) 二本松城跡は、15世紀前半、畠山氏の居城として築城されたといわれています。その後、伊達・蒲生・上杉・松下・加藤と城主がかわり、寛永20年(1643)に丹羽光重が二本松藩10万700石で入城し、以後、丹羽氏の居城として明治維新を迎えました。 発掘調査によって、各時代の遺構が見つかり、さらに近代城郭への大規模な改修が寛永4~20年(1627~1643)の加藤氏時代に行なわれたことも判明しました。 二本松城跡は中世城館と近世城郭が同一箇所で営まれ、かつその変貌がよくわかる、東北地方を代表する城跡です。 二本松市教育委員会 |
天守台 |
【二本松城の歴史】 二本松城は、室町時代中期に奥州探題を命じられた畠山満泰が築城し、以後畠山氏歴代の居城として、140年余り続きました。その後天正14年(1586)伊達政宗の南奥制覇のために落城しました。 豊臣時代になると二本松城は、会津領主となった蒲生氏郷の重要な支城として、中通り(仙道)警備の任を与えられました。二本松城に石垣が積まれ、近世城郭として機能し始めたのはこのころだと推定されます。 その後、徳川時代初期も会津領として上杉氏・蒲生氏・加藤氏らの支配下にありました。とくに、加藤氏支配時代には本丸を拡張したことが石垣解体調査で確認されました。 二本松藩が誕生した寛永20年(1643)、初代藩主丹羽光重が10万700石で入城し、幕末まで丹羽氏10代の居城として、220有余年続きました。戊辰戦争に際し、西軍との徹底抗戦で城内・家中屋敷のすべてを焼失し、慶応4年(1868)7月29日落城しました。 |
自尽の碑 |
【丹羽和左衛門(城代 六十六歳)・阿部井又之丞(勘定奉行 六十五歳)自尽の碑】 当碑は、慶応四年(1868)七月二十九日、戊辰戦争による二本松城落城に際して、共に自尽(割腹)した両人の供養碑です。 丹羽の自尽の様子は、床机(腰掛け)に腰をおろし、軍扇を膝の上に広げ、割腹したのち内臓を軍扇の上につかみ出し、前屈みになって絶命した、と伝えられています。 当所この碑は天守台の中央奥に建っていましたが、平成七年本丸石垣修築復元工事完成に伴い、当所に移設しました。 |
本丸見学後、下の駐車場に移動して、こんどは城跡(霞ヶ城公園)の正面から三ノ丸広場へ上がって行った。
城跡に入るとすぐ正面に二本松少年隊群像が目に入る。
【二本松少年隊】 慶応四年(1868)七月戊辰戦争の最中、二本松藩大半の兵力が西軍を迎え撃つべく出陣し、城内・城下は空虚同然であった。この緊迫した状況の下、少年たちの出陣嘆願の熱意に、藩主は止むなく出陣許可を与え、十三歳から十七歳までの少年六十二名が出陣。七月二十九日、城内への要衝・大壇口では隊長木村銃太郎率いる少年二十五名が果敢に戦ったが、正午ごろ二本松城は炎上し落城した。 この二本松少年隊群像は、大儀のため戦う隊長及び少年隊士と、我が子の出陣服に藩主丹羽氏の家紋・直違紋(すじかいもん)の肩印を万感迫る思いで縫い付ける母の像を表したものである。 なお、この地は「千人溜(せんにんだめ)」といい、藩兵が集合する場所であり、少年隊士もここからそれぞれの守備地に出陣した。 二本松市 |
群像の脇を通り、緩やかな階段を登ると城壁と櫓が聳え、右手に折れると箕輪門が現れる。
【箕輪門】 箕輪門は二本松城=霞が城の正門にあたり、江戸初期城主丹羽光重の建造である。 城下箕輪村山中にあった樫の大木を主材としたのでこの名がある。 聳え立つ石垣と累々たる城壁城門は十万石大名の威容を示していた。 戊辰戦争によって灰燼と帰したが再建の声高まり、年余の歳月と二億円の費を投じて昭和五十七年八月に完成をみた。 二本松市 |
箕輪門をくぐり城内に入ると、左手石垣の上に下まで枝が垂れている松の巨木が聳えていた。天然記念物の箕輪門のアカマツである。
アカマツが植えられている石垣の後ろに回りこみ、石垣の上の段まで石段を登ると広い三ノ丸広場に出る。そこでは早くも菊花展の準備をしていた。
【箕輪門のアカマツ】 二本松市指定天然記念物(平成12年4月1日指定) 箕輪門北側の石垣上に植えられているアカマツの古木群で、四本は三ノ丸への石段の南東の段上に一列に並び、一本は石段の裾右側の石段上に立っている。 目通り幹囲がニ~ニ・五メートル、樹高九~十二メートルあり、樹冠が傘状を呈しているのが多く、長い枝を石垣下に垂れている。 これらの松は、土塀に代えて石垣上に植えられたものと思われ、明暦三年(1657)に箕輪門周辺石垣の破損を修理した記録などから推定すると樹齢は三五〇年を越える。保存状態が良好で樹勢は旺盛である。 個々の木が美しい樹形を持つとともに全体が周囲の石垣や石段とよく調和し、見事な景観を呈しており、二本松城石垣の松の大木として高い価値がある。 二本松教育委員会 |
【観世寺】 (右奥)
二本松城跡から県道355号線に戻る(二本松駅近く)。
県道を東に進むと「亀谷交差点」で枡形になっている。更に進み左カーブして一旦、国道4号線(二本松バイパス)に合流する。
国道に合流してすぐの「安達ヶ原入口交差点」を左折したら、すぐ右カーブの登り道を行く。そのまま国道の上を越えて阿武隈川に架かる「安達ヶ橋」を渡る。
橋を渡った先、観世寺・黒塚の看板に従って左折すると、黒塚の石標と「名所 鬼女伝説の霊場 奥州 安達ヶ原 黒塚」の看板を掲げる、真弓山 観世寺に着く。
拝観料400円を払って境内に入るとすぐ右側に鬼婆石像が鎮座し、老中 松平定信の歌が掲げられている。
『行く末は、安達ヶ原の、露の身も、国を守りの、鬼とならん』
観世寺入口 |
【奥州安達ヶ原「黒塚」縁起概説】 (観世寺のパンフレットより) 歌舞伎や謡曲でも有名な黒塚である。ここ安達ヶ原の「鬼婆」は、その名を「岩手」といい、京都のある公家屋敷の乳母であった。永年手塩にかけて育てた姫の病気を治したい一心から、「妊婦の生肝を飲ませれば治る。」という易者の言葉を信じ、遠くみちのくに旅立ち、たどりついた場所がこの安達ヶ原の岩屋だった。 木枯らしの吹く晩秋の夕暮れどき、伊駒之助・恋絹と名のる若夫婦が一夜の宿をこうたが、その夜、身ごもっていた恋絹がにわかに産気づき、伊駒之助は薬を求めに出て行った。 老婆「岩手」は、待ちに待った人間の「生肝」を取るのはこの時とばかり、出刃包丁をふるって、苦しむ恋絹の腹を裂き「生肝」を取ったが、苦しい息の下から「私達は小さい時京都で分かれた母を捜し歩いているのです。」と語った恋絹の言葉を思い出し持っていたお守りを見てびっくり。これこそ昔別れたた自分のいとしい娘であることがわかり、気が狂い鬼と化してしまったという。 以来、宿を求めた旅人を殺し、生血を吸い、肉を食らい、いつとはなしに「安達ヶ原の鬼婆」といわれるようになり、全国にその名が知れ渡った。 数年後、紀州熊野の僧「阿闍梨祐慶東光坊」が安達ヶ原を訪れ部屋の秘密を知り逃げた。老婆すざましい剣幕で追いかけてくる。東光坊はこれまでと、安座す如意輪観音の笈をおろし祈願するや尊像は虚空はるかに舞い上がって一大光明を放ち白真弓で鬼婆を射殺してしまったという。 そしてその後、東光坊の威光は後世に伝わり、この灼(あらた)かな白真弓如意輪観音功徳甚深なる利生霊験は、奥州仏法霊場の”随一”と称する天台宗の古刹となり、一千ニ百六十年の今日まで赫々(かくかく)の名を残したのであります。 鬼婆を生めた塚を「黒塚」といい、そこには平兼盛の詠んだ有名な みちのくの、安達ヶ原の黒塚に 鬼こもれりと、聞くはまことか の句碑が建立され、その昔を物語っております。境内には鬼婆の棲んだ岩屋、鬼婆石像、夜泣石他、又、聖俳正岡子規が黒塚を訪れ”涼しさや、聞けば昔は鬼の家”と詠んだ句碑や文久元年、養蚕繁昌を祈願して建てられた”養蚕神”等の碑があります。近くには恋衣地蔵堂(安達ヶ原公園頂上)、伊駒地蔵堂(北向)も建立されております。 |
鬼婆石像の向い(境内左側)には巨岩が横たわり、その前に謡曲「安達ヶ原」と黒塚の説明板と『松尾芭蕉(元禄二年)・正岡子規(明治二十六年)参詣の地』の看板が掲げられていた。
また、その左隣には名所 鬼婆供養石が置かれていた。
【謡曲「安達ヶ原」と黒塚】 謡曲でも名高い「安達ヶ原」の鬼女縁起説は、平兼盛(平安時代)の歌「陸奥(みちのおく)の安達ヶ原の黒塚に、鬼こもれりと聞くはまことか」の詠歌と基として、その名は世に著われた。 熊野の行者阿闍梨祐慶東光坊が廻国行脚の道で行き暮れ、安達ヶ原の一軒家に宿を求めた。 主の老婆は桛輪(かせわ)を使って糸を紡いで見せた後、焚火の薪を取りに裏山に出かけた。 行者は老婆が執拗(しゅうよう)に禁じた閨(ねや)の内を不審に思い密かに覗くと、死骸の山、累々としているのに驚き「これこそ安達ヶ原の鬼の棲家であったか」と笈(おい)を背負うもそこそこに必死に退散した。怒った老婆は鬼の正体を現して追いかけ、激しく争うが行者の祈りを、遷座する如意輪観音の調伏(ちょうふく)に遭い、鬼婆「岩手」も悲惨な最後を遂げてしまった。 鬼婆を埋葬した処を黒塚と云い、今も往時の姿を物語るようである。 謡曲史跡保存会保存会 |
鬼婆供養石の所から奇岩群を右回りに巡る細道がある。巨石が幾重にも重なり壮観である。
途中胎内くぐりがあったが、雨で濡れていて衣服が汚れそうなので入るのは断念する。 続いて、『南無阿弥陀仏』の文字と『仏像』が刻まれている大きな安堵石(あんどいし)があった。 【安堵石】 誰にも語れぬ胸の内なる苦しみを、この石に託して心身の悩みを追放し執着の手を緩められたという、語り継がれし、聞き受けの石であります。 |
安堵石の左隣に夫婦杉が聳え、その先に観音堂が建っている。
夫婦杉と観音堂の間を右に曲がると、祈り石と甲羅石が現れ、道の真中に竹垣で囲われた夜泣き石がある。
その隣にはメインの鬼婆が棲んだ岩屋・笠石がでんと座っている。
【祈り石】 (岩の右側の説明板が祈り石で、その上の説明板が甲羅石) 行者東光坊、懐疑の念にかられ、寝間を覗くと死骸の山、山積している。恐怖に戦き逃げ去るが、この様子を感知した鬼婆はもはや追い掛けるのが困難と見て、それ以上前進せぬようこの石に封殺の祈釘を打ち込みて追い掛ける。この後、三度返りに於いてこの両雄の対決を見るに至る。 【夜泣き石】 (竹垣で囲われている石) 往来の旅人、道中の夜もすがら、この怪奇な岩屋に差し掛かれば、昔時、鬼婆に殺められし赤子と覚ゆる泣き声が、この処より夜な夜な聞こえたという夜泣きの石であります。 |
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【鬼婆の棲んだ岩屋・笠石】 安達ヶ原の鬼婆と称せる鬼女の棲みたる処なり。 |
笠石の奥に(左隣)に芭蕉休み石がある。
【芭蕉休み石】 芭蕉がここに腰掛けたと云われる石で、座ってみると、なるほど座り心地が良い石だった。 |
芭蕉休み石の手前、観音堂の横には蛇石が「血の池」とも称する出刃洗の池に接して横たえている。
【蛇石】 蛇石の謂れは、何時の程か、白蛇がここ巨岩の一帯に住み着き、祀られし白真弓如意輪観音の化身也と崇め尊ばれ、当山観音の守護として、亦、参詣人の道中無事身の安全を守ったと伝えられる蛇石の所以であります。 |
観音堂の正面に回ると、観音堂の向かいに薬師瑠璃光如来と毘沙門天王がなまこ壁の土蔵の様な建物に収まっていた。
【白真弓如意輪観音堂】 安達三十三観音霊場第十四番札所 鬼婆を降伏せし、東光坊が遷座する如意輪観音を祀る。 堂宇廣からずと雖(いえど)も、佛徳宏大、祀りし秘仏如意輪観音は、奈良時代の名僧、行基菩薩の御手なるものと云えり。 あらとうと、大慈大悲の白真弓 やおよろずよと、祈る皆人 ―安達第十四番御詠歌― |
観音堂から池まで戻って来たところで全体を見ると、最初に境内に入ったときに見た巨石は蛇石だったことが判明した。
観音堂の左に蛇石、その手前に出刃洗いの池がある。 最後に宝物館を見学する。内部は撮影禁止で、1260年前に鬼婆が使用した遺品、什物や絵画等が展示されている。 |
【黒塚】 (右奥)
観世寺を出たら右手の阿武隈川の土手に上がり、「安達ヶ橋」の袂を見ると大きな木が立つ黒塚が見つかる。木の下には碑が建っている。
【奥州安達ヶ原黒塚の由来】 奥州安達ヶ原黒塚は、奈良時代の神亀三年(西暦726年)紀州熊野の僧、東光坊阿闍梨祐慶が、如意輪観音菩薩を念じ、破魔の真弓に金剛の矢をつがえ、鬼婆を射て、埋葬したところである。 平 兼盛が詠んだ みちのくの 安達ヶ原の黒塚に 鬼こもれりと 聞くはまことか の歌をはじめ、歌舞伎、謡曲、浄瑠璃等で昔から演じられている安達ヶ原の鬼婆の物語は、全国的に知られている。 なお、菩提寺である観世寺には、鬼婆の棲家であった奇岩怪岩の岩屋が、今なお残っており 俳人 正岡子規の 涼しさや 聞けば昔は 鬼の家 の句碑がある。 |
奥の細道は、「安達ヶ橋」に戻り、阿武隈川を渡ってから北上して福島市を目指す。
私達は、県道355号線の「二本松亀谷郵便局」まで戻って、奥州道中を少し巡ってみた。
【幸田露伴 ペンネームゆかりの地】 (奥州道中・左側)
「二本松亀谷郵便局」前の信号を右折(黒塚から来て右折)して亀谷(かめがい)坂を登って行くと、頂上付近左側に亀谷観音堂がある。
観音堂入口右手の街道上に文豪・幸田露伴 ペンネームゆかりの地碑が建っていて、傍らに説明板も立っている。
【ペンネーム「露伴」誕生ゆかりの地・にほんまつ】 第一回文化勲章受章者で、著書『五重塔』などで知られる明治~昭和の代表的な文豪・幸田露伴(本名・成行)は、二十歳になって文学を志し、電信技士として赴任していた北海道余市から上京の旅に出ました。 明治二十年(1887)九月二十八日の日暮れ近く福島に到着、ここで一泊すると乗車賃が不足する(当時東北本線は郡山まで開通)、夜中歩いて郡山まで行こうと決め出発、飲まず食わずで二本松に来たのは夜半近くでした。 街は提灯祭り(当時は新暦九月でした)で賑わう中、懐中わびしながらも亀谷坂頂上の阿部川屋で餅を買い、食べながら歩いたものの、体力・気力もすでに限界でした。 道端に倒れ込み、こうもり傘を立て野宿を決意、いつか野たれ死にをする時が来たら、きっとこんな状態だろうと思案し、口をついて出た句が 「里遠し いざ露と寝ん 草まくら」 でした。二年後、文壇初登場の時、二本松で露を伴にして一夜が忘れられず、発奮の意味をこめて、この句からペンネームを「露伴」にしたと日記などで後述しています。 他に「蝸牛」「脱天子」など多数の雅号を持つ露伴でしたが、文学を志した熱き想いと苦難の突貫道中を忘れぬよう、ペンネーム「露伴」を生涯大切にしたと言われています。 |
【亀谷観音堂】 (奥州道中・左側)
石段を登れば正面に亀谷観音堂があり、右手に芭蕉句碑が建っている。
【亀谷観音堂の芭蕉句碑】 二本松市指定史跡(平成元年2月1日指定) 高さ約一・三メートル、最大幅約一・一メートル、厚さ約ニ五センチメートルの板状の自然石を用い建立されている。風化および一部破損のため少々判読しにくいが、春鏡塚と題し、「人も見ぬ 春や鏡の うらの梅」の句と、建立者として蔵六坊虚来の名が刻まれている。裏面には「題春鏡塚碑陰」として、芭蕉の略歴と虚来が建立したことを記し、末尾に「安永丙申之春 藤宗英識」とあり、安永五(1776)年に建立されたことがわかる。藤宗英とは、当時二本松藩主の侍医であり文学者であった遠藤鹿山のこと、虚来については正体は明らかでない。 市内にある歌碑・句碑の中では最も古く、本市の文化史を考える上で貴重である。 当句は元禄五(1692)年元旦に作られ、その意は「鏡の裏の模様の梅は、ひっそりと春の訪れを告げている。人が見もしない春とでもいうべきであろう。」と解されている。 二本松市教育委員会 |
【奥州二本松藩御用蔵】 (奥州道中・左側)
亀谷観音堂の先で下り坂になり、「竹田交差点」を右折する(県道129号線になる)。その直ぐ先左側のバス停前が広場(駐車場)になっていて、奥に二棟の蔵が建っている。二本松藩御用蔵の天明蔵と天保蔵が一段下がった所に並んでいる。
敷地の右手には春日形灯籠が置かれ、裏手に回ると阿武隈川に繋がっている鯉川が流れている。
【天明蔵】 (写真右) 江戸・天明5(1785年)、大内屋和泉の屋号で藩御用商人として茶・菓子業を営み使用していた蔵で、築226年になります。 ”町屋”の典型的な構えで、街道側から、店→住宅→蔵となっており、蔵は、北側を流れる「鯉川」を利用し、阿武隈川と結ぶ”舟運”のために、裏手に当る北側も”出入口”を設けると言う合理的な平面構造となっています。 主に一階を代々の”家業の風景”をイメージした家業伝承館として、実際に使用された品々を展示しています。 *建坪 17.7坪の総二階造り。 *土台 いかだ造り(土蔵の本体の基礎脇に二本の丸太を敷き、間知石を積み上げた構造) *外壁 土台より総漆喰塗り上げとなっていましたが現在、腰部分は下見板張りで保護。 *屋根 当初は”瓦葺き”であったと思われます。現在は鉄板葺きタール塗装。 *構造 建物中央に”大黒柱”を持つ”大社造り” 【天保蔵】 (写真左) 江戸・天保14年(1843)、に建造された二本松藩御用蔵です。 天明蔵の建造から58年後に建てられ、天明蔵とおなじく北側を流れる「鯉川」を利用し、阿武隈川と結ぶ”舟運”のために、裏手に当る北側も”出入口”が設けてあります。 当所、敷地と「鯉川」との段差は現在ほどなく、蔵の北口から「鯉川」までは石段があり、荷の積み下ろしの”舟寄せ”が川沿いに設けられていました。 主に一階は絵画、二階は古銅、陶器などを展示した『くら美術館』となっています。 |
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【春日形灯籠】 江戸時代中期(十七世紀・元禄時代) 初代藩主丹羽光重公の宮下御殿の庭園に据えられた。戊辰戦争、落城後に当家四代目久蔵がもとめ、庭飾りとして現在に至る。 |
【智恵子の生家】 (奥州道中・左側)
奥州道中は次の「根崎交差点」を左折し、次いで鯉川を渡ったら右折する。
その先左カーブして少し進むと左側に杉玉が下がる屋号「米屋」という「酒類醸造元」がある。ここが『智恵子抄』で有名な智恵子の生家である。
生家の裏側には智恵子記念館がある。
左の写真は智恵子の生家である「米屋」。 【智恵子記念館】 開館時間 9;00~16:30 休 館 日 水曜日(祝日の場合はその翌日)、12月28日~1月3日 入 館 料 410円 |
郡山~福島 9里 (35.3Km) 計 93里17丁(367.1Km)