箱根 東坂(上り) (風祭駅 → 元箱根港バス停) <旧東海道12回目>

2002年10月26日(土)曇一時雨

 二人旅。(「風祭駅」〜「元箱根」・近くのホテルに宿泊)

2015年11月21日(土) 晴

 「風祭駅」(9:30)から「元箱根港」(16:30)まで二人で歩く。
 二度目の挑戦は、2002年に通行不能だった箇所をカバーすることが出来、箱根東坂を完全制覇できた。



 (注:文中で街道の左側、右側とは京都に向っての左右)


「小田原宿」 ← 「目次」 → 「箱根西坂(下り)」


【風祭一里塚・道祖神】 右側) 9:33
 風祭駅入口の「箱根病院」前を過ぎて直ぐの、二股道を右に入った所に風祭一里塚の説明板と小田原市指定重要文化財の小田原の道祖神が祀られている。

【東海道風祭の一里塚】
 ここは、旧東海道に設置された江戸から21番目の一里塚があった場所である。
 慶長9年(1604)江戸幕府将軍徳川家康は、息子秀忠に命じて、東海道、東山道、北陸道に、江戸日本橋を起点として一里(36町・約4キロ)ごとに塚を造らせた。塚は男塚、女塚と、街道に左右に対で置かれ、広さは通常5間(約9メートル)四方であった。塚には榎を植え、旅人の1里ごとの目印とするとともに、夏季における木陰の休憩場所とした。
 風祭の一里塚については、天保年中の相模国風土記稿に 「東海道側に双(※)あり、高各一丈、塚上に榎樹あり、囲各八九尺、東方小田原宿、西方湯本茶屋の里(※)に続けり」とされている。
 (※ の文字は、実際は、偏にと書かれていた。)

【紹大寺】 (右側) 9:42〜9:50
 「風祭の一里塚」前の二股道は左に進み、程なく入生田
(いりうだ)に入ると、『春日局ゆかりの禅寺』と案内のある紹大寺の広い入口に着く。入口の両側には総門に使われたと考えられる加工された石積が建っている。
 入口右手に説明板、左手に境内案内図が掲げられている。

【紹大寺】
 
紹大寺は、江戸時代の初期(寛永9年(1632)〜貞享2年(1685))小田原藩主であった稲葉氏一族の菩提寺で黄檗宗大本山萬福寺の末寺である。 はじめ小田原城下山角町(現・南町)に建立された臨済宗の寺院であったが、寛文9年(1669)稲葉正則は寺を入生田牛臥山のこの地に移し、黄檗宗長興山紹大寺と号して、父母及び祖母春日局(徳川三代将軍家光の乳母)の霊を弔った。 往時は寺城方10町(1092m四方)に及ぶ広大な地に七堂伽藍の整った大寺院であった。
 
元禄4年(1691)この地を通過したオランダ南館医師ドイツ人ケンペルの紀行文にも、その壮麗な姿が描かれている。しかし、幕末と明治初年の火災で焼失してしまった。
 
現在の紹大寺は、その折、難を逃れた子院の清雲院がその法灯を継いでいる。
    現在の市指定文化財

○稲葉一族の墓所と鉄牛和尚の寿塔  ○長興山開発供養塔  ○長興山紹大寺の境内絵図
○開山鉄牛和尚の画像  ○鉄牛和尚の血書  ○長興山のしだれ桜  ○長興山鉄牛和尚寿塔付近の樹叢


 境内案内図の後ろに六地蔵が祀られている。

【六地蔵】
 この六地蔵には、寛永・慶安・寛文などの年銘があり、一時に造立されたものでないことがわかります。江戸時代初期の石仏で、このようにそろっているのは、小田原地方では貴重な存在です。


 広い境内に入るとすぐ右側(上記入口の写真で赤い自動車の後ろ)に総門(大門)跡の標柱と説明板が立っている。

【長興山紹太寺 総門(大門)跡】
 紹太寺の総門は、東海道に面したこの場所にありました。
 元禄四年(1691)ドイツ人博物学者ケンペルは、江戸に向う途中、この総門をみて 彼の著書「江戸参府紀行」に次のように記しています。

 入生田村は小さな村で、その左手の四角の石を敷き詰めた所に紹太寺という立派な寺がある。この寺の一方側には見事な噴水があり、もう一方の側には金の文字で書かれた額があり、しかも前方には、金張りの文字のついた石造りの門が立っている。
 
この長興山の扁額は、黄蘖宗の開祖隠元禅師の書き下ろしたもので、 現在子院清雲院(現・長興山紹太寺)の本堂正面に掲げられています。
 なお、現在道路の左側に積み上げてある加工された石は、この総門に使われていたと考えられます。
     小田原市教育委員会


 「総門跡」の先、左側に茅葺屋根の子院・清雲院がある。
 山門手前の右手には『長興山紹大寺』と刻まれた大きな石標、右手に石灯籠が建っている。
 また、石灯籠の手前には清雲院の説明板が立っている。

【子院・清雲院(現・長興山紹大寺)】
 清雲院は、長興山紹大寺の参道沿いにある子院の一つです。
 紹大寺の七堂伽藍は、弘化四年(1847)安政年間(1854〜59)、さらに明治の火災で焼失しましたが、この清雲院は難を逃れ、本寺である紹大寺の法灯を守り現在に至っています。
 山門前にある「松樹王」の刻銘石は、東海道の風祭と入生田の境にあった境界石です。この刻銘石の左側面を見ると「長興山境」と刻まれていることからも分かります。紹大寺の広大な寺領には、7箇所あったと伝えられ「長興山の七つ石」(五基確認)といわれています。
 山門を入って本堂正面に掲げられている「長興山」の扁額は、黄檗宗の開祖隠元禅師が書き下ろしたもので、紹大寺の総門(大門)にあったものです。
     小田原市教育委員会

 山門をくぐると正面に茅葺き屋根の本堂が建ち、正面に大きな「長興山」の扁額が掲げられている。
 本堂の左手には、入口と同じ境内図紹大寺の由緒黄檗普茶の説明板が立っている。

【黄蘖宗長興山紹太寺(禅宗)】
由緒(開創からの歴史)
 本寺は、江戸時代初期の小田原藩主だった稲葉一族の菩提寺です。当所は、小田原城下山角町にありましたが、第代稲葉美濃守正則が寛文九年(1669)、幽邃境として知られた現在地に移建し、山寺号も「長興山紹太寺」と称し、父母と祖母春日局の霊をとむらいました。
 開山は、京都宇治の黄檗山万福寺で隠元禅師のもとに修業に励んでいた名僧鐵牛和尚で、当時は東西十四町七十間、南北十町十六間という広大な寺域に七堂伽藍が配置され、黄檗宗では関東一の寺院でした。しかし、これらの堂塔が幕末安政年間の火災で焼失してしまったのは、まことに惜しまれます。境内裏には「稲葉氏一族と春日局の墓」があります。
 天然記念物「長興山のしだれ桜」は寿塔のすぐ近くです。「春を忘れぬ形見に」と稲葉正則が植えたもので、樹齢ざっと三百二十年。樹高約十三メートル。 四月初旬は巨大な花笠を広げたように開花し、多数の見物客で賑わいます。

【黄檗普茶】
 
黄檗「普茶」の名は、「普く衆に茶を供する」という意から生じたものです。
  歳月の流れと共に内容も変化してきましたが、四季折々の山野の蔬菜の持ち味を生かすという調理の神髄は変わっていません。
 1卓4人、和気藹々のうちに残さず食するのが作法となっています。皆様のご要望に応え、より多彩に美しく品揃えしたのが長興山流「普茶会席」。 大変ご好評頂いております。


 清雲院山門の左手前に建つ地蔵尊の横には母の里石段公苑と題する説明板が立っている。
【長興山「母の里石段公苑」】
 三代将軍徳川家光の乳母春日局と小田原藩主(城主)稲葉一族が眠る幽邃の地、母の里石段公苑です。
 これより三百六十段の石段を登ると、そこには奥津城が静かに佇み、遙か相模灘を望み古の歴史が彷彿として蘇ってまいります。
 神奈川県名木百選、小田原市指定天然記念物「しだれ桜」、そして県下でも数少ない樹叢の中に黄檗宗の高僧「鉄牛禅師」の寿塔があります。
 この由緒ある石段公苑にご先祖さまの化身として、釈迦如来・観音菩薩・地蔵菩薩・七福神等の石仏を石段左右に建立し、崇拝する人、知人友人の霊を追善供養、商売繁盛祈願、家内安全祈願等を念じれば、心の安らぎが得られるものと存じます。宗旨宗派等は一切問いません。ご希望の方は紹太寺までご照会下さい。
     長興山紹太寺


【別途訪問】
 上記説明文に書かれている稲葉氏一族の墓鉄牛善師の寿塔しだれ桜は、清雲院後方の山へ長い階段を登って15分ほど掛かる為、時間の関係で行かなかったが、2002年〜2003年に訪れているので、その時の説明文と写真を載せる。
〔稲葉氏一族の墓〕 (2002年11月16日撮影)


全景

左の四角いのが正則の墓

春日局の墓
〔稲葉氏一族の墓〕 小田原市指定史跡
 稲葉氏は、寛永九年(1632)から貞享二年(1685)まで正勝、正則、正通の三代五十余年間、小田原城主でありました。正則は寛永十二年(1635)、父母の追福のため菩提寺を城下に建て、後に寛文九年(1669)に紹大寺を移しました。
 春日局は正勝の実母で、正則は幼少の時から、祖母の局に養育され成人したと伝えられています。ここの局の墓は、正則が祖母の追福のために造った墓で本墓ではありません。
 正勝とその夫人の墓は、正則が父母のめい福を祈るために造った墓で、本墓ではありません。なお、正則とその夫人の墓は、ここが本墓であると伝えられています。
 墓の配列は、正面向って右より
●塚田
木工助正家の墓(正勝の侍臣)  (伝・正則造立)
●稲葉美濃守正則の長兄の墓      (伝・正則造立)
●稲葉丹後守正通の継室の墓      (伝・正通造立)
●稲葉美濃守正則の正室の墓      (伝・正則造立)
●春日局の墓                 (伝・正則造立)
●稲葉丹後守正勝の墓           (伝・正則造立)
●稲葉丹後守正勝の正室の墓      (伝・正則造立)
●稲葉美濃守正則の墓           (伝・正通造立)


【鉄牛善師の寿塔】 
(2002年11月16日撮影)

【鉄牛和尚の寿塔】 小田原市指定史跡(昭和36年3月30日指定)
 塔の高さは、二・六五mあって、二重基壇の上に反花座と請花座を造り、その上に円形板状の塔身が立っています。
 鉄牛和尚は、はじめ臨済宗の京都大徳寺の大龍和尚に参禅し、後に黄檗宗の本山宇治万福寺の隠元禅師に師事しましたが、その後、稲葉正則に招かれ小田原に来て、寛文九年(1669)紹大寺の開山となりました。元禄一三年(1700)八月に死去しましたが、正徳二年(1712)の一三回忌に朝廷から生前の功績をたたえられ、大慈普応禅師の称号を賜った高僧です。
 寿塔は、貞享四年(1687)に鉄牛和尚の長寿を祝福して、その門人で紹大寺二世であった超宗和尚が建立しました。
     小田原市教育委員会


【しだれ桜】 2002年11月16日及び、2003年4月6日撮影)


2002年11月

2003年4月

2003年4月
〔長興山の枝垂桜〕 小田原市指定天然記念物(昭和32年3月30日指定)
 シダレザクラは、本州中部以西に生えるエドヒガン(ウバヒガン、アズマヒガン)の変種で、枝が垂れ下がる点が特徴です。また、サクラの種類のうちでも寿命が長く、大木になり、特異な樹形となることから、神社や寺院の境内によく植えられ、市内でも早川の真福寺、下大井の保安寺、城内の二宮神社などに見られます。
 この木は、枝を八方へ平均に広げ、シダレザクラの基本的な形を整えています。3月下旬から4月上旬にかけて濃い緑の樹叢を背景に開花する姿はまことに美しく、県下にも比類のない名木です。このサクラは、稲葉氏が紹大寺を建立した頃、その境内に植えられたもので樹齢三三〇年以上と推察されます。
     小田原市教育委員会

【長興山のシダレザクラ】 かながわの名木100選(昭和59年12月選定)
 
県下最大のシダレザクラで、4月上旬に開花するが、滝のようにしだれるその姿は、夏の尺玉花火を思わせるほど華麗で壮大である。
 小田原市の天然記念物に指定されている。
 樹高    13メートル   胸高周囲 3.8メートル
 樹齢 約300年(推定)
 
 シダレザクラは、本州中部から九州の山地に分布するエドヒガンの枝が垂れるもので、各地に栽培されている園芸品種である。
 樹高20メートル、胸高周囲5メートル、樹齢約500年に達するものもあると言われている。


 2003年4月6日(日)は、朝早く家を出て花見に行って来た。

 9:00に到着したおかげでまだ混雑しておらず、ゆっくり見られた。下に戻ったら大勢の人が登りはじめていたので「早起きは三文の徳」。

 前日が大雨だったので心配したが、その時点で8分〜9分咲きのため大事に至らず、この日は快晴のうえ満開状態で最高だった。

 花見後、入生田駅前の神奈川県立「生命の星・地球博物館」を見学してから再び紹大寺に戻り、有名な黄檗普茶(おうばくふちゃ)料理を食べた。普段は4名以上で予約が必要な普茶料理(\7,000-)と普茶会席(\9,000-)だが、予約無しでもOKだった季節限定の松花堂(普茶料理)弁当が\3,000-で味わえた。(金額は2003年現在)


【駒ノ爪橋跡 (右側) 9:56
 「紹大寺」から旧街道に戻って、直ぐの民家の前に球形の道祖神があったが見当たらなかった。
 箱根登山鉄道の「入生田踏切」を渡って少し行くと、小田原町から箱根町に入る。
 町境の小さな沢に架かる橋を渡り、少し上った右側の線路の石垣下に駒ノ爪橋跡の説明板(石製)が建っている。
 この前後には、皇帝ダリアが綺麗に咲いていた
(下の写真で小屋の先に咲いている紫色の花)

【駒ノ爪橋跡】
 天保年間に書かれた『新編相模国風土記稿』の、入生田村(小田原市)の項には、「駒留橋 東海道中湯本村界の清水に架す。石橋なり。長3尺(90センチ)幅2間(3.6m)、両村の持。橋上に頼朝卿馬蹄の跡と伝あり。旅人此橋に足痛の立願す。」と載っています。
 これには、往時源頼朝が富士の巻き狩りから帰る際、この橋まで来ると馬が暴れてしまい、その際に橋の上に馬のひずめの跡が残ってしまったという逸話が残っています。
 そこで、旅人は「石に足跡をつけた頼朝の馬の頑健な脚にあやかりたい」と、道中足が痛まないように祈願したというです。
 後に小田原市板橋の山県有朋公の別荘古希庵の庭園に使われていたようです。

     箱根町

【日本初の有料道路】 (右側) 9:57
 「駒ノ爪橋跡」の直ぐ先、国道1号線に合流する手前に日本初の有料道路の説明板(石製)が建っている。

【日本初の有料道路】
 
明治8年(1875)9月、小田原の板橋から湯本まで全長4.1Km幅員平均5メートルの我が国初の有料道路が開通しました。
 江戸時代の東海道を広げ、2ヶ所の急坂を人力車が通れる勾配の緩い道に付け替えました。碑が建っている道は、その時に付け替えた道です。
  開通した日から5年間、道銭(通行料)を取りました。人力車は1銭、大八車7厘、小車は3厘でした。
 この道路の開通で、人力車はもちろん、間もなく乗り合い馬車も入ってきました。かの福沢諭吉から「箱根山に人力車の通れる道を造れ」と提言され、 二宮尊徳の高弟として知られる福住正兄が建設の先頭に立ちました。
     箱根町

【交通安全モニュメント】 (右側) 9:59 と (左側) 10:20
 国道に合流してすぐ右側の階段を上って、一段高い歩道を進む。その上り口に達磨を描いた交通安全之碑、110m歩いて階段を下りたら右の旧道に進む。その旧道と国道の間にも交通安全モニュメントが建っていた。

    


【箱根路碑と大名行列のレリーフ】 (左側) 10:13
 やがて、「山崎インター」となっている、国道1号・西湘バイパス・箱根新道が合流する道に出る。
 右側に高い擁壁のある新しい歩道を進む。国道も整備工事中で、13年前とだいぶ雰囲気が異なっていた。おかげで左側の見通しが悪くなり、2002年に撮影した箱根路の石碑を見逃してしまった。
 その先、左側歩道のフェンスに大名行列のレリーフが掲げられている。
  
2002年撮影  


【矢立杉蹟】 (右側) 10:18
 やがて『←畑宿〈732〉 ↑三島 宮ノ下(1)』の道路標識が現れ、左の早川に架かる三枚橋を渡って畑宿方面の旧東海道(箱根路)に入る。
 その先には「箱根湯本駅」が見える。
  

 「三枚橋」を渡る前、国道右側の「三枚橋バス停」の傍らに矢立杉蹟の石碑が建っている。

【矢立杉蹟】
 承平天慶ノ乱ニ六孫王(源経基) 召サレタル関東兵ハ出征ノ途次山杉 表矢ヲ射立テ軍ノ勝敗ヲ卜シタリ 曾我兄弟亦之ニ倣フ爾来此名アリ

【三枚橋】 
 「三枚橋」から右奥にニ子山が見える。
  

 橋を渡った頭上には『〈734〉大涌谷三叉路〜大涌谷 通行止め』の標識が掲げられていた。
 これは、2015年4月以降の大涌谷周辺の火山活動により、11月現在も大涌谷周辺に濃度の高い火山ガスが観測され、引き続き立入り禁止規制が行なわれている為である。

【大涌谷周辺の地震・噴火警戒に於けるこれまでの経過】
 2015年4月26日より箱根山の地震活動が急増。
 同5月6日、大涌谷周辺の火山活動に伴い、噴火警戒レベル1(平常)から2(火口周辺規制)へ引き上げられた。
 同6月下旬、警戒レベル2から3(入山規制)に引き上げられた。

 同9月11日、警戒レベル3から2に引き下げられた。
 同11月20日(金)14:00、レベル2から1(平常:活火山であることに留意)に引き下げられた。


 「三枚橋」を渡って、いよいよ天下の険・箱根旧街道、2回目の挑戦となるが、70歳になって、13年前と同じ様に歩けるか少し不安もある。
 ここから先、昼時に簡単に食事をする処がないので、右カーブした所にある「セブンイレブン」で弁当を購入する。
 ついでにトイレを借りたが、これが誤算。先客がやたらと長く籠もっていた上に、待っている人も居て、結局コンビニで20分もロスしてしまった。
 コンビニの出発は、10:45。


【白山神社】 (左側) 10:52
 上り坂を行くと、すぐ先にも「ファミリーマート」があった。
 「箱根湯本郵便局」を過ぎ、更に登ると左側に白山神社の鳥居が見えてくる。
 少し高い所に社殿の屋根が見え、境内に水が湧き出てしっとりした場所があるとの事だが、コンビニで時間を取られすぎた為、街道から拝礼したのみで境内には入らなかった。
  


【早雲寺】 (右側) 10:53〜11:05
 「白山神社」の斜め向かいに早雲寺惣門(薬医門)が建っている。13年前の時より屋根は葺き替えられ、全体が改修されて綺麗になっていた。
 この門からは入れないので、脇の駐車場から入る。 余談だが、この駐車場にトイレがあったので、コンビニの時間ロスが惜しまれる。
  


 短い参道を進むと道を隔てて「早雲寺」の入口がある。
 13年前には、ここに瓦が乗っている白壁の立派な塀と門があったが、今は竹垣の塀のみで門は無くなっていた。
 入口前の道路で振り返ると、早雲寺ヒメハルゼミの説明板が立っている。
 「早雲寺」から始まり、箱根町の名所・旧跡の説明板に番号が振られていた。
【一、早雲寺】
 
早雲寺は、大永元年(1521)北條早雲の遺命により、その子氏綱によって建立された寺であり、 以来北條氏一門の香火所としてその盛衰をともにし現在に至っています。 この寺には、北條文化の香りを伝える数多くの文化財が残されており 北條文化を語るのに欠く事のできない寺です。
〔ヒメハルゼミとその棲息地〕 町指定天然記念物
 このヒメハルゼミは、東洋系の昆虫で、その分布の中心は台湾である。
 雄は第四腹節の両側に突起があり、雌は長い産卵管があるので、他のセミと容易に区別が出来る。
 その分布の北限として新潟県能生(のふ)、茨城県片庭、千葉県八幡山の三ヶ所が国指定の天然記念物になっている。

 神奈川県では、この付近に発見されたのみである。このセミは、7月中に出現し椎の梢に群集し、特異の合奏をするので有名である。即ち一匹が「ジリジリ」と鳴くとたちまち他のセミがこれに合わせて、あたかもモーターの唸るがごとき音になり、数分にして合奏がピタリと止み、もとの静けさにもどる。
 そして再び十数分後に音頭取りが鳴き合奏が始まる。当地においては、このセミのことを勤行セミとも呼んでいる。
 この付近一帯は名刹早雲寺境内であって、古来「不入」の地として自然景観が保護されてきたのであり、貴重な天然記念物と共に永く保護しなければならない。

     
昭和四十一年三月一日 箱根町教育委員会

 竹塀より境内に入ると、正面に本堂が建っている。

本堂(方丈)】 箱根町指定重要文化財
本尊    釈迦三尊(釈迦如来坐像、文殊・普賢菩薩)
開山    以天宗清(大徳寺83世)
開基    北條氏綱
中興開山 菊径宗存(早雲寺27世 大徳寺165世)
創建    大永元年(1521
再建    寛永四年(1627)

※現本堂は寛政年間(1790年代)の建立。
平成15年6月近世寺社建築の遺構として初めて町指定文化財に指定されました。元は茅葺き寄棟造。


 本堂に向って右手には、県重文で茅葺き屋根の鐘楼が建っている。



【梵鐘】 県指定重要文化財
 元徳年(1330)鋳造、豊太閤 天正十八年小田原攻めの時 石垣山一夜城で使用したものです。


 本堂左手の墓地に入るとすぐの所に、今大路道三玄鑑之墓が建っている。

 二代将軍秀忠公侍医
 曲直瀬家三代
今大路道三玄鑑之墓
     寛永三年九月十九日没
       享年五十歳


 その前を右に進んで行くと突当りの一段高い所に、北條五代の墓がある。

〔史跡北條五代の墓〕
 天正十八年(1590)四月五日、豊臣秀吉軍は箱根山を越え早雲寺に入り本陣とした。六月下旬一夜城が完成すると火を放ち、当時関東屈指の禅刹として威容を誇った早雲寺の伽藍、塔頭寺院は尽く灰燼に帰したのである。
 七月五日北條氏が降伏し、同十一日氏政・氏照は切腹、氏直は高野山に追放され、翌天正十九年十一月四日逝去した。なお北條一門では、伊豆韮山城主であった氏規(氏政の弟)が秀吉より大阪河内内狭山に約一万石を許され(狭山北条氏)、鎌倉玉縄城主北條氏勝が家康の傘下に入り、下総岩富に一万石を与えられて(玉縄北條氏)、その家系は江戸時代を通じて存続している。
 早雲寺の再建は、元和・寛永期に当山十七世菊径宗存によって着手されるが、その復興に北條両家の外講は欠かせないものであった。
 こうして、北條五代の墓は寛文十二年(1672)八月十五日狭山北條家五代当主氏冶によって、早雲公(伊勢新九朗長氏)の命日に竣工したのである。小田原北条氏滅亡から八十二年後のことであった。

北條早雲 (1432〜1519)
 俗名、伊勢新九郎長氏。備前生、戦国時代初期を代表する武将。京都から駿河今川家に身を寄せ伊豆・相模を攻略、戦国時代の幕を開いた。伊豆韮山で没。享年八十八歳。
北條氏綱(1486〜1541)
 父早雲の遺志を継ぎ武蔵・下総へ進出、小田原北條氏の領国を拡大した。享年五十六歳。
北條氏康(1515〜1571)
 扇谷上杉を滅ぼし関東の覇権を握る。領国経営にすぐれた手腕を発揮した。享年五十七歳。
北條氏政(1538〜1590)
 夫人は信玄の娘黄梅院。信玄の西上を後援、その没後は信長と連携して武田勝頼討伐に加担。やがて秀吉に敗れ切腹。享年五十三歳。
北條氏直(1562〜1591)
 夫人は家康の娘督姫。下野宇都宮氏を降し後北條氏最大の領国を形成。上野真田昌幸の名胡桃城を奪取して秀吉と対立して破れる。家康の助命で高野山に流される。享年三十歳。


 「北條五代の墓」の右手奥には、当地で没した室町時代の連歌師宗祇法師之墓がある。

【連歌師宗祇の墓】
 
連歌師飯尾宗祇は、文亀元年(1501)二月越後上杉氏の許を発ち、弟子宗長・宗碩らと関東各地で連句を催しながら駿河・美濃に向かう旅の途上、翌文禄二年七月三十日箱根湯本で客死した(享年八十二歳)。
 
弟子たちは、宗祇の遺骸を担いで箱根山を越え富士山の裾野、桃園の定輪寺に埋葬した(宗長『宗祇終焉記』)。早雲寺の宗祇の墓は、終焉の地に建てられた供養塔である。
 江戸時代に入ると多くの俳人や旅人が宗祇を偲んで早雲寺を訪れ、連句や画像を奉納するようになった。蕉門の服部嵐雪は元禄十二年(1699)宗祇墓前で『石塔を撫でてはやすむ一葉かな』の句を詠み、幕府歌学方の北村季吟は同十四年宗祇二百年忌の連吟を早雲寺に奉納している。
 稲津祇空は紀伊国屋文左衛門の手代をしていた頃、蕉門の榎本其角から俳句を学び正徳四年(1714)住職柏州和尚を戒師として宗祇墓前で剃髪出家して宗空と号し、江戸浅草を中心に活躍したのち、享保十六年(1731)再び早雲寺を訪れ境内に石霜庵なる草庵を結んで宗祇の墓守として晩年を送った。同十八年四月に十三日没(享年七十歳)。


 この他、今回は行かなかったが、本堂の裏には、北條幻庵作・史跡庭園・枯山水香爐峰がある。


【正眼(しょうげん)寺】 (左側) 11:10〜11:20
 「早雲寺」を後にして、350m程進んだ左に上る階段が正眼禅寺の小田原側入口である。

【二、正眼寺】
 この寺は曽我兄弟の伝説を伝える古刹です。この寺の創建は明らかではありませんが、鎌倉時代、箱根地方に広がった地蔵信仰の中から生まれた寺であすことは確かなようです。寺には地蔵信仰ゆかりのある寺宝がいくつか残されています。


 石段を上って、左側に正眼寺の案内板が立っている。

【正眼寺の史跡・文化財案内】
 正眼寺は、鎌倉時代、箱根山に広まっていた地蔵信仰の中で生まれた寺 です。創建年代は定かではありませんが、この寺の前身である湯元地蔵堂の別当寺として鎌倉前期には存在し、その頃は、勝源寺と呼ばれていました。戦国時代には一時衰退し ましたが、江戸時代になりますと、江戸屈指の材木問屋冬木屋の援助により講堂が再建され、また、小田原城主大久保氏より境内地・地蔵田が安堵され、復興されました。
 再興開基には早雲寺十七世菊径宗存を招請し、この時より当時は臨済宗大徳寺派に属す禅寺となり、今日に至っています。
1 曽我堂
 曽我仇討で有名な曽我五郎・十郎の菩提供養のため建立された堂宇、堂内には、俗称曽我五郎地蔵菩薩立像(県重文)、同十郎地蔵菩薩立像(町重文)が安置されています。
 
*地蔵菩薩の一般公開は、毎年春秋の彼岸中に行われます。

2 曽我五郎の槍突石 
 曽我五郎が病回復の証に、槍で突いたと言い伝えの残る石で、江戸時代までは、箱根旧街道筋の槍突沢にありました。
3 曽我兄弟の供養塔
 
江戸前期、冬木屋上田家が建立した供養塔。
4 石造大地蔵
 小田原城主稲葉氏の菩提寺、長興山紹大寺にあったもの、慶應四年(1868)焼失した当時の地蔵菩薩像の身代わりとして招聘されたものです。

5 勝源寺燈籠
 室町時代応永四年(1397)の在銘のあるこの地方最古の石燈籠。
6 芭蕉句碑
 土地の俳人が建立した。
 「山路来てなにやらゆかし菫(すみれ)草」の追悼句碑。

7 冬木屋上田家の墓
 江戸深川の材木問屋で、尾形光琳・乾山とも親交のあった上田家一族の墓。当寺の再興開祖です。
8 金箔色彩襖絵
 本堂を飾る襖絵。唐美人図(四面)、四季草花図(四面)。いずれも江戸時代狩野派の絵師の手になるものです。

 案内板の後ろに「起雲閣」が建ち、その前に石造大地蔵が座っている。
  

 「地蔵尊」の脇を通って左奥に入って行くと「起雲閣」の横に、曽我五郎の槍突石(上記案内板の2)がある。
  


 「地蔵尊」まで戻って、「庫裏」の前(街道側)に、芭蕉句碑(案内板の6)が建っている。
  

 「庫裏」の右隣に「本堂」があり、その右手に曽我兄弟供養塔(案内板の3)が建っている。
  


 「曽我兄弟供養塔」の左上に冬木屋上田家一族の墓(案内板の7)がある。
  


 「本堂」の裏に曽我堂(案内板の1)があるのだが、見忘れてしまった。


【仲睦ましい道祖神】 (左側) 11:21
 「正眼寺」の三島側入口から旧街道に出て傾斜がきつくなってきた坂を登って行くと、直ぐ先に仲睦ましい道祖神と題した双体道祖神が、小さな祠と共に祀られている。
 後ろに立っている説明板は13年前と同じもので、かなり擦れてしまっていた。一昔と云う年月を感じてしまう。

【仲睦まじい道祖神】
 
江戸時代、この辺りは「湯本茶屋村」といい、その村境の道祖神です。
  男女の神が頬を寄せ手を取り合い、その睦まじきことを示すことによって、 悪霊が村に入ってこないよう念じ立てたものです。
     湯本茶屋自治会


【一里塚跡・白川洗石生家跡】 (右側) 11:23
 「双体道祖神」を過ぎ、緩くカーブしながら更に登って、右側に「静観荘」が現れたら建物に続いて、一里塚跡の石碑と白川洗石生家跡の石製の説明板が一緒に建っている。
 一里塚の細長い石碑には『旧箱根街道一里塚跡の碑』と刻まれている。

【一里塚】
 江戸幕府が慶長九年(1604)大久保長安に命じ、 江戸−京都間に一里ごとに旅人の目印として街道の両側に盛土をし、その上に通常榎をうえたのである。
 
この塚は日本橋より二十二番目にある。
 一里(六十間=一町・三十六町=一里・約三九五二米)
     箱根町教育委員会

【白川洗石生家跡】
 江戸末期に湯本茶屋へ移り住んでいた、浜松市出身の指物師白川三代吉は、同じ湯本茶屋の勝俣儀兵衛の姉アキと結婚しました。
 
そして、明治4年(1871)8月7日には長男の鶴之助(後に洗石と号する)が誕生しました。鶴之助は、明治17年(1884)湯本小学校卒業と同時に父について、指物の指導を受けながら寄木細工の技法を学びました。
 作品の制作中、父が細かい線や曲線に苦労していたのを見て、洗石は象嵌細工の技法にミシンを応用することを考え、繊細な作品を作ることに成功し、新しい木像嵌技法の普及に務めました。
     箱根町


【箱根旧街道・最初の石畳】 (県道の右側) 11:27〜
 「一里塚跡」の直ぐ先、右斜め下に下りて行く道が、箱根旧街道で最初の石畳である。
 下り口に道標が立っていて、柱に『石だたみ入口・箱根湯本観光協会』、右腕木に『箱根観音 5分』、左腕木に『正眼寺 10分』とあった。
 続いて箱根旧街道入口の説明板が立っている。

【箱根旧街道入口】 国指定史跡
 
江戸幕府は、延宝年(1680)に箱根旧街道に石を敷き、舗装をした。
 この先から約二五五メートルは、その面影を残しており、国の史跡に指定されている。
 この道は県道に通じ、元箱根方面への近道となる。
     昭和五十年三月二十五日 箱根町教育委員会


 説明板の向い、上記写真の白い家の前に馬の飲み水桶が置かれている。

【馬の飲み水桶】
 江戸時代、この辺りは「馬立場」といって馬子が一休みしたところです。
 この桶には、山から引いた水が満々とたたえられ街道を往復する馬の飲み水になっていました。
     湯本茶屋自治会


 いよいよ、ここから石畳が始まる。最初は下り道で、下り切った所で猿沢に架かる猿橋を渡る。
 この辺りは「箱根湯本ホテル」の敷地内で、頭上には右下の本館と左上の別館を結ぶ渡廊下が見える。
 以前、会社の忘年会で宿泊したときは、この渡廊下を渡ったものだが、現在、渡廊下と本館は休館になって建替えの為か取り壊しが始まっていた。
 「猿橋」を渡ると登り道になり、「福寿院(箱根観音)」で先程分かれた県道に合流する
(11:36)
  下り  猿橋  上り


【観音坂】 11:43〜12:05
 県道に合流して少し登って行くと、右下に「南風荘」が見えてくる。
 やがて右下へ「南風荘」等の旅館に下りる二本道に出る。
 この入口小田原寄りの角に観音坂の石碑が建ち、碑の左側に説明板も立っている。石碑には『観音坂 登リ二町許』と刻まれていた。

【観音坂】
 奥湯本にある坂で、幕末に編さんされた『新編相模国風土記稿』に 「海道(東海道)の西方にあり、登り二町(約二百八十米)ばかりこの辺りを字古堂と唱ふ」とあり、昔観音堂があったので、坂の名がついたと記されています。


<昼食> 11:45〜12:05
 上記石碑の向いにバス待合所(東屋)があったので、昼食(コンビニのサンドイッチ)にした。
 また、ここには「箱根湯本 早雲通り温泉郷」の案内板があり、『畑宿まで 3.5Km、甘酒茶屋まで 6.7Km、元箱根(芦ノ湖)まで 9.5Km』とあった。


【葛原坂(くずはらざか) 12:15
 勾配のきつい坂を登って二つ目の「葛原バス停」前にある「豊栄荘」を過ぎ、右カーブすると、平になる少し手前の右側に葛原坂の説明板が立っている。
 この日は、上から途切れることなく下って来るゼッケンを着けた箱根を歩くイベントの参加者と大勢擦れ違った。

【葛原坂】
 『新編相模国風土記稿』には、「海道(東海道)中、須雲川村境にあり、登り一町ばかり」としか書かれていません。地名が葛原で、この辺りは今もクズの葉が生い茂っています。

【初花ノ滝】 (右側)
 平らな所に出て、堀木沢に架かる「堀き橋」を渡ると、右手に金ぴかの山門と寺院を持つ「宗教法人 天聖院」がある。但し、撮影禁止の寺院だった。
 その先、右手に「ホテルはつはな」がある「須雲川インター」を過ぎ、二之塔沢に架かる「二の戸橋」を渡ると、右側に初花ノ瀑と刻まれた石碑があったはずだが何故か見つからなかった。
 また、ここから対岸の山の中腹に初花ノ滝が見えるが、石碑を探すことに気を取られ、これも見逃してしまった。
 仕方がないので、2002年に撮影した碑と滝を載せる。


石碑

初花ノ滝
【初花ノ滝】
 夫勝五郎ノ仇討チ本懐祈願ノ為メ初花ガ垢離ヲ取ツタ滝トシテ傳ヘラル
     箱根振興會

【須雲川】 (左側) 12:30
 箱根町消防団第三分団の前に須雲川の説明板が立っている。

【三、須雲川】
 この周辺の集落を須雲川といいます。むかしは、川端とも呼ばれていました。この場所に集落ができたのは、江戸の初め寛永のころです。天下の街道となった箱根道を往来する人々のためまた、道を維持管理するために、一定の間隔をおいて集落をつくる必要があったのです。

【鎖雲寺】 (左側) 12:35〜12:40
 その先、左カーブすると小さな滝が落ちて、風情のある所に出る。
 滝の傍には『靈泉山 鎖雲禪寺』と刻まれた
大きな石標が建っていて、石標の裏側に鎖雲寺の説明板が立っている。

【四、鎖雲寺】
 鎖雲寺は、江戸の初め、当時早雲寺の山内にあった一庵を引いて建立された禅寺です。この寺には「箱根霊験記」で有名な勝五郎と初花の墓と初花堂があります。


 滝の脇の階段を上って境内に入るのだが、見上げると民家かと思われる建物があり、一瞬入ってよいものかと躊躇ってしまう。
 しかし、上ると住居部に続いた本堂があり、玄関前に初花と勝五郎の話が掲げられている。

 “此らあたりは山家ゆえ紅葉のあるのに雪が降る・・・”とは
ご存じ歌舞伎狂言に名高い 浄瑠璃の一句で 初花の夫勝五郎を恋うる名台詞であります
父の仇敵を追って 箱根山中に差しかかりましたが 不図したことから 勝五郎の病は募るばかりに 大望を抱く身の勝五郎の病状を案じた初花は夜毎に夫の眠るのを待って 向山の滝で身を清め箱根権現へ夫の病気平癒と 仇討ち成就の願をかけ ひまさえあれば山中に深く分け入り 天来の薬餌で名高い自然薯を堀り集め夫に薦めるのでした
初花の一念天に通じ 慶長四年八月 遂に仇敵の佐藤兄弟にめぐり合い  見事に本懐を遂げさせたと言う 
貞女初花の伝説は四百年後の今日でも何か 私達の心にひしひしと 深い感銘をおぼえさせるものがあります
二人の眠る墓は この寺の境内の墓地に 誰が建てたか 哀惜の比翼塚として 葬られております
どうか皆様も ご供養のつもりで 香華を手向けて戴きたいと存じます

     昭和四十八年三月吉日 はつ花そば店主 小宮吉晴建立


 本堂の右手に初花堂があり、その左上の墓地内に勝五郎・初花の墓がある。
  
  


【須雲川自然探勝歩道】 (県道の左側) 12:43〜
 「鎖雲寺」の須雲川に架かる「須雲川橋」の手前左側に須雲川自然探勝歩道の入口がある。
 その入口手前に綺麗なトイレが完備しているのが嬉しい。
 ここから芦ノ湖まで、本格的な箱根旧街道の連続となり、入口に探勝歩道の地図が掲げられている。地図によると畑宿まで45分とあった。

 
   

 探勝歩道に入る所には、注意看板が立てられており、それには次の様に書かれていた。
”須雲川増水時のご注意”
 この先約五〇〇メートルの須雲川を渡るところは大雨のときや、川の水が増えている間は通れませんので県道を利用してください。
     神奈川県


 注意看板の傍には、女転(ころ)し坂の石碑が建っていて、『女轉シ坂 登リ一町餘』と刻まれていた。

【五、女転し坂】
 箱根道の難所の一つであり急な坂道が長く、馬に乗った婦人がこの附近で落馬し死んでしまったことから「女転し坂」と言われるようになったようです。


 右下に須雲川を見ながら下ったり登ったりして進む。途中、橋から見る川の美しさや、丸太を切断した飛び石状の橋があったりして楽しい道である。
    

 
発電所のフェンスに突当ったら、右下に下りて須雲川に架かる二本の丸木橋を渡る。
 丸木橋の間の石は濡れて滑り易く、川を渡るのには苦労した。左手には発電所の施設が見える。
(下の写真左から、渡る前、発電施設、渡り終えて振り返った道)
      

 川を渡ったら急な上り階段が待っている。これを登りきると県道の「発電所バス停」前に出る(13:15)
 ここに派手な宗教法人の「天聖稲荷大権現」の鳥居が建っていた。鳥居の前で数分休憩。
  


【割石坂】 (県道の右側) 13:09〜
 上記階段を上って国道に出たら左折すると、右側に割石坂の登り口がある。
 登り口には、『割石坂 登リ一町餘』と刻まれた石碑、割石坂の説明板、『須雲川自然探勝歩道』の看板が立ち、畑宿1,000米とあった。

【割石坂】
 曽我五郎が富士の裾野に仇討ちに向かう時、腰の刀の切れ味を試そうと、路傍の巨石を真二つに切り割ったところと伝えられています。
     箱根町


 少し登ると、『これより江戸時代の石畳』と書かれた道標が立っていて、往時の人が踏みしめた同じ石畳を歩くことが出来る。
 3分程進んだ上にも同じ道標が立っていて、この間が江戸時代の石畳で比較的丸い石が多い。近年整備されたものは角ばった石が多いようだ。
 江戸時代の石畳の途中に自然探勝歩道についてと題する説明板が立っている。


江戸時代の石畳
【須雲川自然探勝歩道について】
 
この歩道は、須雲川のせせらぎを聞き、野鳥の声を聞きながら歴史を研究する芦ノ湖の南岸元箱根〜奥湯本を結ぶ自然探勝歩道です。
 この付近の石畳は、江戸時代のものを明治、大正時代に元の須雲川小学校の通学路として一部補修したものです。
 前後の新しい石畳は、今回県が整備した歩道です。
     神奈川県自然県境保全センター


 江戸時代の石畳が終わって、2分ほど進んだ所に箱根路のうつりかわりと題する説明板が立っている。

【箱根路のうつりかわり】
 箱根路は、古来より東西交通の難所であり、文化の流通に大きな障壁となってきました。
 この壁を通過する交通路は、地形の制約をうけながら常に箱根山を対象に設けられてきました。
 箱根路のうつりかわりは、日本の歴史にも深いつながりをもち、各時代のうつり変りと共に箱根越えの路も変わってきました。
(灰色)碓氷道
   箱根で、もっとも古い峠道。
(緑色)足柄道
   奈良、平安時代に利用された路。
(肌色)湯坂道
   鎌倉、室町時代に開かれた路。
(赤色)旧東海道
   江戸時代に開かれた路。
(青色)国道(1号線)
   現在の東海道。
     環境庁 神奈川県


 「割石坂」が終わり県道に合流する所に接待茶屋の説明板が当時の写真付きで掲げられている
(13:18)

【接待茶屋】
 
江戸時代後期、箱根権現の別当如実は、箱根八里を往還する旅人や馬に湯茶や飼葉を施し大変喜ばれていましたが、資金が続かず行き詰まってしまいました。
 如実は、江戸呉服町の加勢屋与兵衛らの協力を得て施行の断続を幕府に願い出、文政7年(1824)ようやく許可がおりました。
 再開にあたって新しく設置する施行所を畑宿と須雲川に希望していましたが、2か所とも立場であるため許可されず、東坂は割石坂のこの辺に、西坂は施行平に設置されました。
     箱根町

【大澤坂】 (県道の左側) 13:22〜
 県道に合流して左カーブしている途中に、左に下りる石畳があり、入口に『国指定史跡 箱根旧街道』の標柱が立っている。
 この石畳は、湿っているのみならず急な下り坂で、滑り易かった為、大変怖い思いをして下りた。
 下り切った所が大沢川で、板橋が架けられていた。2002年に訪れた時には、この板橋が流され、通行禁止になっていた為、この旧道を通ることが出来なかった。
    

 板橋を渡ると登りの石畳になり、
右側には大澤坂の石碑と説明板が立っている。
 石碑には『大澤坂 登リ二町餘』と刻まれていた。

【大澤坂】
 大沢川を渡ったところです。
 幕末の下田奉行小笠原長保の「甲申旅日記」に、「大沢坂又は坐頭転ばしともいうとぞ、このあたり、つつじ盛んにて趣殊によし」 と書かれています。
 当時の石畳の道が、一番残っている坂で、苔むした石畳は往時をしのばせてくれます。


 また、左側には石畳の構造と題する説明板も立っている。

【石畳特別保存地区 石畳の構造
  この付近の石畳は、江戸時代初期、石畳施設当初の構造を今に伝えています。
 石畳は、小石と土とを密に固めた地面の上に、石と石とを組み合わせて並べており、さらに石畳の横に縦の排水路を持っています。
 また、並木が植っていた土手も人工的に造られたものです。
     平成二年十一月 箱根町教育委員会


 更に5分程進んだ所に、斜めの排水路と題する説明板が立っている。
 ただ、この場所の排水路は、はっきりしていなかったので割愛し、このあと別の坂道で出てきたとき載せることにする。

 最後に12段の階段を登ると畑宿(13:35)
  


【畑宿】 
 「大澤坂」から県道に上った所から間(あい)の宿・畑宿に入る。
 箱根伝統工芸の寄木細工が盛んで、観光バスも必ず立ち寄るため賑わっており、土産店では寄木細工の実演もしている。


【本陣跡】 (右側) 13:37
 県道に上って数十メートル進んだ「本陣跡バス停」の右に、茗荷屋と呼ばれた畑宿の本陣があった。
 家屋は焼失してしまったが、庭園だけは残っているとの事
(下の写真で茶色い車がとまっている所)

【本陣跡】
 
ここ畑宿の本陣は、屋号を茗荷屋(みょうがや)と呼ばれた旧名主の本屋敷跡です。家屋は約七十年前大正元年全村火災の折、消失しましたが、庭園は昔を偲ぶそのままで残されました。本庭園はご覧のように小規模ですが街道に日本庭園として他になかったようです。
 
畑宿は、今から百二、三十年前の江戸時代の中期には本街道の宿場として今より多く栄えた集落です。この本陣をめぐり一般に余り知られていない事柄があります。安政四年十一月二十六日米国初代総領事伊豆下田におけるお吉物語で有名なハリスタウゼントが江戸入りの途中、ここに休息勧賞したことです。ハリスの箱根越えはエピソードが多く大変だったようです。
 
下田から籠で上京したハリスは箱根関所で検査を受けることになった。その際、ハリスと関所側は、検査をめぐってトラブルが起き、下田の副奉行が中に入ってほとほと困り抜いたと云う。
 ハリスは「私はアメリカ合衆国の外交官である」と検査を強く拒否したことから副奉行がハリスを馬に乗せて籠だけ検査することで関所側と妥協した。ハリスは怒ったり笑ったりで関所を通った。そして畑宿本陣に着いてから彼がはじめて見る日本式庭園の良さに心なごみ機嫌はすこぶる良好になったといいます。
【明治天皇】
 
明治元年十月八日東京遷都の御途次
 同年十二月十日皇后冊立のため京都還幸の御途次
 同二年三月二十五日東京再幸の御途次
  小休ナラセラレタ聖跡です
【七、旧茗荷屋庭園】
 
畑宿の名主茗荷屋畑右衛門の庭は、山間から流れる水を利用して滝を落とし、池にはたくさんの鯉を遊ばせた立派な庭園で、当時街道の旅人たちの評判になりました。ハリスやヒュースケンなど幕末外交の使者たちもこの庭を見て感嘆しています。


 上の写真で車の左横に倒れている材木は、本陣跡の標柱である。
 13年の歳月は長かったという証拠に、2002年の時の標柱と2015年の朽ちた標柱を載せる。

    

この家の左隅に明治天皇御駐驛之跡と刻まれた大きな石碑が建っている。

  


【明治時代の畑宿】 (左側) 13:43
 「畑宿バス停」手前左側の店(金指ウッドクラフト)の前に明治時代の畑宿の写真と説明文が掲げられ、店の脇には箱根旧街道の絵地図が立っていた。
    

 「畑宿バス停」で県道は右に大きくカーブして行くが、旧街道は真直ぐ石畳の道を進む。
 石畳入口の左側にトイレがあり、その手前に畑宿の説明板が立っている。
 入口右側には、箱根路 東海道の碑が建ち、それに並んで『箱根旧街道一里塚 江戸より二十三里 ←この先30m』の標柱も立っている。

【八、畑宿】
 畑宿は、郷土の伝統工芸箱根細工が生まれ、育ったところです。畑宿で、木地細工が作られた記録はかなり古く、小田原北條氏時代までさかのぼります。江戸時代畑宿は箱根旧街道の間ノ村として栄え、沢山の茶屋が並び名物のそば、鮎の塩焼、箱根細工が旅人の足をとめました。


【畑宿一里塚】 (両側) 13:53
 石畳に入って直ぐ、「品農一里塚」と同じく両側に立派な塚が残る畑宿一里塚がある。
 一里塚の説明板は平成24年に新調され、以前の文面とは異なっていた。また、右塚の後ろの登り口に『箱根旧街道之一里塚之碑』と刻まれた石碑が建っていた。

【箱根旧街道 畑宿一里塚】
 江戸時代はじめ、徳川幕府は街道や宿場を整備し、交通基盤を整えました。さらに、距離を明確にするため、街道の一里(約4Km)ごとに一里塚を置きました。
 東海道の一里塚は、後に二代将軍となる徳川秀忠の命により、慶長九年(1604年)2月につくり始められ、全てが完成したのは慶長十七年(1612年)であったと考えられています。
 畑宿の一里塚は江戸日本橋から23里目に当たるもので、明治時代以降、一部が削られてしまうなど江戸時代往時の姿は失われてしまいましたが、発掘調査と文献調査の結果を基に復元整備を行い、箱根町の中では唯一往時の様子を現代に伝えるものです。
 山の斜面にあるこの塚は、周囲を整備した後、直径が約5間(9m)の円形に石積を築き、小石を積み上げ、表層に土を盛って、頂上には標識樹として、畑宿から見て右側の塚にはモミが、左側にはケヤキが植えられていました。
 一里塚は、旅人にとっての旅の進み具合が分かる目印であると同時に、塚の上に植えられた木は、夏には木陰をつくり冬には寒風を防いでくれる格好の休息場所にもなりました。
     平成二十四年三月 箱根町


  左側の塚  右側の塚  石碑


【西海子(さいかち)坂】 13:58〜
 一里塚の石碑が建つ所から急な石畳の登り坂となる。
 3分程登ると下を通る「箱根新道」を陸橋で渡り、更に2分程登ると、斜めの排水路がはっきりと分かる場所に出る。
 「大澤坂」と同じ文面の説明板が立っていた。

石畳特別保存地区 斜めの排水路
 ここには、石畳の上を流れてきた雨水を、石畳の外へ追い出すための、斜めの排水路があります。
 排水路は上流側に小さな石、下流側に大きな石を斜めに敷き、段差を造り出すというかたちをしています。
 水はこの大きな石の側面を伝わり、並木・敷土手の外にある沢へと流れ出るようになっています。
     平成二年十一月 箱根町教育委員会

 続いて「大澤坂」と同じ文面の石畳の構造と題する説明板も立っていた(大澤坂の項参照)。

 更に急な登りとなり、県道に出る手前で20段の石段となる。その石段下に箱根旧街道の説明板と西海子坂の石碑が建っている。石碑には『西海子坂 登リニ町許』と刻まれていた。
 この坂は実際に落馬して即死した早飛脚もいたという急坂であった。

 西海子坂の階段を登り、舗装道路を左に進む(14:06)

【十、箱根旧街道
 江戸幕府は宝永八年(1680)箱根道を石畳道に改修しました。それ以前のこの道は、雨や雪のあとは大変な悪路になり、旅人はひざまで没する泥道を歩かなければならないため、竹を敷いていましたが、毎年竹を調達するのに大変な努力と費用がかかっていました。

【七曲り】 14:08
 県道に上ると直ぐ、大きく右カーブしている左側に「これより1.2Kmの間七曲り」の看板が立っている。
  

 ここから県道は七曲りどころか12ものU字カーブが続き、その間、箱根新道が上になったり下になったり3回ほど交差している。
 箱根旧街道は、この七曲りを縫うようにショートカットして一気に高度を稼いで行くので、大変きつい区間である。
 七曲りに入って一つ目(上の写真)のカーブを曲がると、左側に最初の石段(34段)が現れる。
 二つ目のカーブをショートカットした階段を上ると、眼下に小田原の街並みが見えた。また見上げると、”紅葉”と”うろこ雲”が綺麗だった。

    


【橿木(かしのき)坂】 (県道の左側) 14:23〜
 
三つ目のカーブ
で箱根新道の陸橋をくぐり、四つ目のカーブでもUターンしてきた箱根新道の朱色の陸橋をくぐる。
 五つ目を曲がり、六つ目では再びUターンしてきた箱根新道が今度は県道の下をくぐっている。
 「橿の木坂バス停」を過ぎ、七つ目のカーブを曲がる所で、左側に二つ目の石段が現れる。
 ここの上り口に橿木坂の説明板と石碑が建っている
(下の写真の左端、上り口に建つ石)。石碑には『橿木坂 登リ五町許』と刻まれていた。

【橿木坂】
 『新編相模国風土記稿』に「峭崖(高く険しい崖)に橿樹あり、故に名を得』とあります。
 『東海道名所日記』には、けわしきこと、道中一番の難所なり。おとこ、かくぞよみける。
   「橿の木の 
   さかをこゆれば、
    くるしくて、
   どんぐりほどの
      涙こぼる」
       と書かれています。


 この石段はきつかった。まず85段上って、踊り場から更に109段あった。
 上から降りて来る人が「このような石段がまだまだ沢山出てくる」と言われた時は、よけい足が重くなってしまった。
 でも、上る途中で県道の方を見たら紅葉が綺麗だった。下の写真はそれ程でも無い様に写っているが実際はもっと綺麗だった。
  


【見晴橋】 14:31
 合計194段の息を切らせて登った所で、道は二手に分かれる。
 角に旧街道 見晴橋と書かれている道標が立っていて、それによると真直ぐの上り石段方面が『元箱根 車道』、左の橋を渡る道は『須雲川自然探勝歩道 元箱根 3KM』、今まで登って来た方向は『畑宿 1.5KM』となっていた。
 自然探勝歩道を歩いているので、道標に従って左へ見晴橋を渡って行く
(下の写真・左)
 短い橋を渡った所に『箱根旧街道(新設歩道)』の吊り案内板があり、『甘酒茶屋 一、三〇〇米・元箱根 三、〇〇〇米』とあった(下の写真・中で、橋が終わった所に立っている緑岩の右隣)
 その先には、今までと同じ須雲川自然探勝歩道の地図が掲げられている(下の写真・右)
      

【見晴し茶屋下広場】 14:33
 地図の直ぐ先に、ベンチが置かれた広場があり、右の階段を上ると県道に建つ見晴し茶屋がある。名物は「十割そば」。
  

 また、この広場には雲助と呼ばれた人たちと題する説明場が立っている。

【雲助と呼ばれた人たち】
 「箱根の雲助」というと知らない人はいません。ところが雲助とよばれた人たちは、実は、この小田原の問屋場で働く人足たちだったのです。しかし雲助というとなにか悪者のように考えますが、それは一部の人で、問屋場では人足を登録させ仕事を割当てていましたので、悪さをした人などはいなかったといいます。
 日本交通史論という資料によると、雲助になるのは次の三つにパスしなければならなかったそうです。その内容をみると、なかなかむずかしく、誰でもすぐなれるという職業ではなかったようです。

一、力が非常に強いこと。(これは仕事の性質上ぜひ必要です。)
ニ、荷物の荷造りがすぐれていること。(荷物を見ると、だれが造ったものかわかり、また箱根で一度荷造りした荷物は、京都まで決してこわれなかったそうです。)

三、歌をうたうのがじょうずでないと、一流の雲助とはいわれなかったそうです。
 こうした人足のほかに、馬をひく「馬子」、駕籠をかつぐ「駕籠かき」たちの雲助が、元箱根や湯本など箱根の各地に住み、通行や温泉遊覧のたすけをしていました。
     環境省・神奈川県


【山根橋】
 14:35
 広場を出ると山根橋が架かっていて、その手前に須雲川自然探勝歩道についてと題する説明板が立っている。

【須雲川自然探勝歩道について
 この歩道は、須雲川沿いに畑宿より元箱根に至る旧東海道(江戸時代西暦1680年頃)に沿った 歴史的なたたずまいをもつ自然歩道です。
 途中には旧東海道そのままの石畳が残され、当時の面影をしのばせております。
 元箱根までは、甘酒茶屋を経て杉並木に至る約キロメートルの道のりとなっております。
     神奈川県


【甘酒橋】 14:42
 「山根橋」を渡ると石畳は下り坂になり、やがて少し上って平になる。その後35段ほどの石の階段を上ると甘酒橋が架かっている。
 この橋の標柱に『元箱根まで2.7Km』と書かれていた。
  
下り坂  

【猿滑(さるすべり)坂】 14:53
 「甘酒橋」を渡って、石畳を登る。途中17段の石段を上ったと思ったら4段下りる。その後緩い登り坂が少し。
 最後に急坂が続き、県道に出る階段が見えてくるとその手前に猿滑坂の説明板と石碑が建っている。石碑には『猿滑坂 一町餘』と刻まれていた。

【猿滑坂】
 『新編相模国風土記稿』には、「殊に危険、猿猴といえども、たやすく登り得ず、よりて名とす。」と、難所らしい坂の名の由来が書かれています。県道の横断歩道橋がかかっている辺りが、当時の坂でした。


 石碑の先に石畳歩道についてと題する説明板が立っている。
【石畳歩道について】
 
この石畳は旧東海道(江戸時代 西暦1680年)の歴史的な街道に沿った歩道です。
  旧東海道は、関東大震災(西暦1923年)及び北伊豆地震(西暦1930年)等たびかさなる災害により、大半が崩壊・埋没しましたが、残された一部の石畳を再現し、自然歩道として神奈川県が整備したものです。
     神奈川県

 40段の石段を上って県道に出ると、向い側に手摺つきの石段が見える(一番左の写真)
 横断歩道を渡って、35段のこの石段を上るだけかと思っていたら、踊り場で90度右に曲がって、更に84段の石段があるではないか。「猿滑坂」の急坂を登って来た後に予定外だったこともあり、精神的にもきつかった
(2番目の写真)
 疲れた足でやっとの思いで上ると、県道に平行した現代の石畳道が続いていた(3番目の写真)
 そのまま県道の高さで合流するのかと思っていたら、27段下りるではないか。苦労した87段は何だったのだ、27段分返してくれと叫びたくなった(4番目の写真)(15:02)
    

    


【追込坂】 (県道の右側) 15:05
 県道に下りて、少し進んだ所に再び須雲川自然探勝歩道の地図が立っている。
 その先、右へ木組みの十数段の階段があり、上り口に追込坂の説明板と石碑が建っている。石碑には『追込坂ニ町半餘』と刻まれていた。

【追込坂】
 「新編相模国風土記稿」のふりがな(万葉がな)とみると、フッコミ坂といったのかもしれません。甘酒茶屋までのゆるい坂道の名です。


【笈の平】
 
 この石碑の左隣の広場は笈の平
(おいのたいら)と呼ばれ、親鸞上人の大きな石碑歌碑が建っている。
 石碑には『笈平 親鸞聖人御旧跡 性信御坊決別之地』と大きく刻まれていた。

【十二、親鸞上人と笈ノ平】
 東国の教化を終えての帰路、四人の弟子と上人が険しい箱根路を登ってこの地に来たとき、上人は弟子の性信房と蓮位房に向かい、「師弟打ちつれて上洛した後は、たれが東国の門徒を導くのか心配であるから、御房がこれから立ち戻って教化してもらいたい」と頼み、師弟の悲しい別れをした場所と伝えられています。
 上記説明文の隣に建つ『親鸞聖人詠歌』には崩し字で、次の様に刻まれている。

 病むるをば あずけて帰る 旅の空
  心は ここに 残りこそすれ

【箱根旧街道休憩所】 (県道の右側) 15:10
 上記「追込坂」の階段を上り、左に曲がって枯葉の絨毯の道
(下の写真)を進むと広場に出て道は二手に分かれている。右手は旧街道に続く道で、左手は無料の箱根旧街道休憩所から県道へ出る道である。
 左手休憩所へ向う途中に植物群落の説明板が立っている。

【箱根二子山の風衝低木植物群落】 神奈川県指定天然記念物
 二子山の山頂部は風当たりが強く、土壌堆積が薄く、岩が露出しています。そのような場所に、ハコネコメツツジを主体にしたオノエラン・ハコネコメツツジ群集と呼ばれる植物群落が見られます。これは風の影響で他の植物が成長し得ない岩場などにしがみついて発達する背丈の低い群落で、ハコネコメツツジ、ハコネハナヒリノキなどの低木類と、ウラハグサ、ハコネギク、オノエランなどの草本植物から構成されています。
  オノエラン・ハコネコメツツジ群集と命名されているこの群落は、フォッサマグナ地域特有の植物に富んでおり、土壌が悪く、乾湿差が大きく、風当たりが強いなどのきびしい立地条件のもとに生育しています。
 この植物群落は、県内の他の地域では、ほとんど見ることのできない貴重なもので、群落の発達している二子山山頂部付近を天然記念物に指定しています。
お願い この天然記念物を伐採したり荒らしたりしないで大切にしてください。
     平成7年3月31日 神奈川県教育委員会


 旧街道休憩所の内部には古い調度品などが置かれていた。

【十三、旧街道資料館】
 
箱根旧街道の面影を偲んで訪れる人々や広く一般の方のための休憩所です。
 茅葺屋根の内部は、土間や囲炉裏が設けられています。
  無料ですので、ご自由にお休みください。


【甘酒茶屋】 (県道の右側) 15:12〜15:33
 「旧街道休憩所」の隣に甘酒茶屋があり、両建物の間の広場にはテーブルとベンチが置かれている。また、「甘酒茶屋」の説明板が県道脇とは別に立っていた。
【東海道「箱根地域」における「甘酒茶屋」について】
 江戸時代、徳川幕府は人々や物資の往来が盛んになるように街道の整備を行いました。東海道はその中でも主要な街道で、この箱根地域(湯本〜箱根関所間、通称「東坂」)は道が大変険しく、当時の旅人が普通一日十里(一里は4キロメートル)を旅するところ、箱根地域では八里しか歩けなかったようです。
 道中には「甘酒」をふるまう茶屋が設けられるようになり、文政年間(1818〜29)には「甘酒小屋」と記録があり、箱根地域には9箇所も植えられて設けられていたようです。この地には4軒あり、付近の追込坂上、樫木坂上、猿滑坂下にもありました。
 しかし、明治十三年(1880)国道1号の開通などから街道を歩く人々が減少して、現在ではこの地に1軒が残るのみとなっています。

 明治十四年(1881)当時は、ここにまだ3軒あったようです。材料を畑宿から運搬し、製造していたようです。
 *当時「甘酒」が旅人の疲労回復に役立っていたと言われています。
     神奈川県 箱根町教育委員会

 この甘酒茶屋で名物の甘酒と力餅で休憩。

【十四、甘酒茶屋】
 赤穂浪士の一人、神崎与五郎の詫状文伝説を伝えるこの茶屋は、畑宿と箱根宿のちょうど中ほどにあり、旅人がひと休みするには適当な場所でした。当時この茶屋は箱根八里間で十三軒あり、甘酒を求める旅人でにぎわいました。

 ちなみに、2015年現在の価格は
 
 甘酒         400円(丸やかな自然の味で砂糖などの添加物は一切入っておりません)
  力餅         500円(いそべ・うぐいす)
  みそおでん     450円(自家製みそ)
  ところてん      500円(天草使用)
  冷たい抹茶     400円
  しそジュース    400円
  くろごまきなこもち 500円(個数限定)


【於玉坂】 (県道の右側) 15:44
 「甘酒茶屋」を出て店の裏に回り、番号が付いている送電線の鉄塔に沿った細い旧街道を行く。その入口に「猪が出ます!」の注意看板が立っていた。
 整備された石畳杉の根がむき出しなっている道を進み、「元箱根線6」と掲げられている鉄塔を過ぎると、左側に小石が積み上げられた岩が現れる。
 その岩の傍らに於玉坂の石碑が建っていて、『於玉坂 登リニ町半餘』と刻まれていた。

      


【白水坂】 (県道の左側) 15:47〜
 「於玉坂碑」から2分で県道に出るが、出る所に吊り案内板があり、『箱根旧街道(新設歩道) 元箱根一、ニ〇〇米』と書かれていた。
 向い側に次の旧街道の入口が見える。
  

 県道を横切ると左側に往時の旧街道入口がある。
 入口右側の吊り案内板には『箱根旧街道 元箱根まで四十分』と書かれていた。また、左側には『史跡 箱根旧街道』と刻まれた石碑が建ち、その左脇には五輪塔も建っていた。石碑の後ろには箱根旧街道の説明板が立っている。

【箱根旧街道】 国史跡(昭和35年9月22日指定)
  件    名  箱根旧街道
  指  定  者  国
  指 定 名 称  史 跡
  指定年月日  昭和三十五年九月二十二日
  所  在  地  箱根町湯本茶屋〜箱根

 江戸幕府は元和四年(1618年)十六夜日記でも知られる旧来の湯本から湯坂山−浅間山−鷹ノ巣山−芦ノ湯を経て、元箱根に至る湯坂道(現ハイキングコース)を廃し、湯本の三枚橋から須雲川に沿い畑宿を通り、二子山の南側を経て、元箱根に至る古い山路をひろげ、世に箱根の八里越えと伝えられる街道を作った。この街道は、寛永十二年(1635年)参勤交代の制度ができて、一層交通が盛んとなり、そのありさまは詩歌、物語等にも多く歌われた。延宝八年(1680年)幕府の手によりはじめてこの街道に石が敷かれたが、この石敷の道は現在も所々に存し、国の史跡に指定されている。現在残っている石畳は、文久三年(1863年)二月、孝明天皇の妹、和宮内親王が十四代将軍徳川家持のもとに降嫁されるにあたり幕府が時の代官に命じ文久二年(1862年)に改修工事を完成させたものだといわれている。平均、約三・六メートルの道幅の中央に約一・八メートル幅に石が敷きつめられていたという。この地点から元箱根に至る約一キロに石畳が現存している。
     昭和四六年三月 文化庁 箱根町教育委員会


 ここからの石畳は長く急な登り坂で、「橿の木坂」の数倍の辛さで、こちらこそ”どんぐりほどの涙”が出そうになった。
 少し登った右側に白水坂石碑が建っていて、『白水坂 登リ十二間餘』と刻まれていた。
  
  

 石碑のすぐ先に「大澤坂」にもあった石畳の構造と題する説明文が立っている
(右上の写真の左へカーブする所)。文面は全く同じだったが再度載せておく。

【石畳特別保存地区 石畳の構造
  この付近の石畳は、江戸時代初期、石畳施設当初の構造を今に伝えています。
 石畳は、小石と土とを密に固めた地面の上に、石と石とを組み合わせて並べており、さらに石畳の横に縦の排水路を持っています。
 また、並木が植っていた土手も人工的に造られたものです。
     平成二年十一月 箱根町教育委員会


【天ヶ石坂】 15:56
 更に続く急坂を登ること7分、右側に大きな石が現れる。その石の傍らに天ヶ石坂石碑が建っていて、『天ヶ石坂 登リ七間餘』と刻まれていた。
  

 上記「大岩」から3分登ると、石だたみについての説明板が立っている。

【石だたみについて】
 江戸時代の初め、それまで尾根伝いを通っていた湯坂路に替わり、須雲川に沿った谷間の道が東海道として整備されました。整備した当初は箱根に群生するハコネダケという細い竹を毎年敷き詰めていたようです。しかし、大変な費用と労力がかかることから、延宝八年(1680年)、石を敷いた石だたみの路になりました。その後、江戸時代末期の文久二年(1863年)、十四代将軍徳川家茂が京都に上洛する際、全面的に改修されました。
 なお、この箱根旧街道は昭和三十五年(1960年)、国の史跡に指定されています。
     神奈川県


 更に3分登った16:02に、やっと石畳は平になった(下の写真)
 4箇所で写真を撮る為に立ち止まったが、この坂の14分間は何度も言うようだがきつかった。

 写真を撮っている間に妻に離されても通常はすぐ追い着くが、この坂だけは追い着くどころか更に離されてしまった。70歳になった今、このような状況での三つの歳の差は大きいと感じた。
  


【箱根馬子唄碑】 16:05
 程なく下り坂になった右手に小さな広場があり、箱根馬子唄の歌碑ニ子山についての説明板が立っている。
 歌碑には『箱根八里は馬でも越すがこすに越されぬ大井川』と刻まれている。

【二子山について】
 
二子山は、駒ヶ岳、神山、台ヶ岳などとともに中央火口丘の一つで箱根の火山活動のうち一番最後に出来たものです。頂上付近にはハコネコメツツジと呼ばれる富士火山帯特有のツツジ類を始め、サンショウイバラやキワザクラ、ヒメイワカガミなどが育成していて自然状態が良く残されています。
 現在は保護のため入山を禁止しております。
     神奈川県


 上記「歌碑」から3分ほど石畳を下った所に旧東海道の説明板が立っていて、日本語以外にも英語・中国語・韓国語で書かれていた。
 この説明板の直ぐ先で舗装道路を横断するが、そこに『元箱根まで十五分』の吊り案内板が立っていた。
旧東海道】
 この付近は江戸時代の東海道が鎌倉時代の東海道と交わると考えられています。
  鎌倉時代の東海道は湯坂路と呼ばれ、それまで箱根を避けて通っていた足柄道に替わり整備された道で、この付近から箱根峠を経て三島方面と、鷹ノ巣山、湯坂山を経て湯本、小田原方面へと続いていました。
 江戸時代の初め、それまで尾根伝いを通っていた湯坂路に替わり、須雲川に沿った谷間の道が整備されました。江戸時代の人々は皆この道を通って箱根を越えていました。
     神奈川県


【権現坂】 16:12
 舗装道路を横断して、更に急な石畳を下る。
 もう一度U字の舗装道路を横断すると、元箱根へ出る最後の石畳である権現坂を下って行く。12月は日が暮れるのが早く、この時間で夕日が眩しくなって来た。
  

 上記舗装道路を横断し、再び石畳に入って直ぐ右側に権現坂の石碑と説明板が立っている。この石碑には『権現坂』としか刻まれていなかった。

【十六、権現坂】
 小田原から箱根路をのぼる旅人が、いくつかの急所難所をあえいでたどりつき、一息つくのがこの場所です。 目前に芦ノ湖を展望し、箱根山に来たという旅の実感が、体に伝わってくるところです。


 「元箱根」(芦ノ湖)に下りる最後の権現坂は、急坂で苔むしているうえに、2002年と同じに今回も濡れて非常に滑り易かった為、転びそうで怖かった。
 片側は階段状になっていたが、段差が高く足にくるので、どこを歩けばいいか苦労した。トレッキングポールを持っていなかったらもっと大変だっただろう。
 やがて芦ノ湖が見えてきて石畳の坂も終わると、右に曲がって杉並木歩道橋を渡る。
      


【ケンペル・バーニー顕彰碑】 (右側) 16:19
 「杉並木歩道橋」を渡って県道の右側に下りる。
 下りた先に冠木門が建ち、傍らに須雲川自然探勝歩道の地図が立っていた。
    

 その直ぐ先に、ケンペル・バーニー顕彰碑が建っている。

【ケンペル・バーニー】
 ドイツの博物学者エンゲルベルト・ケンペルはオランダ通商使節団の一員として元禄四年(1691)と翌五年に箱根を越え、箱根の美しさを世界に紹介してくれました。C・M・バーニーは、この地に別荘を持っていた英国の貿易商です。大正十一年にケンペルの著『日本誌』の序文を引用「自然を大切にするように」と碑を建てました。

     昭和六十一年十一月 箱根町町長・ケンペル祭実行委員会長


【賽の河原】 (右側) 16:28
 「ケンペル・バーニー顕彰碑」から石段を下ると「興福院」の前に出る。その先で国道1号線にぶつかったら左折する。
 土産物店などで賑わう通りを進み、大きな赤い鳥居(箱根神社一之鳥居)の所まで来たらその右側に賽の河原がある。

【賽の河原】 町指定史跡
 この地は地蔵信仰の霊地として、江戸時代、東海道を旅する人々の信仰を集めたところです。その規模は大きく、多数の石仏・石塔が湖畔に並んでいました。

 しかし、明治時代に入ると、仏教の排斥から多くの石仏が失われ、また芦ノ湖畔の観光開発の中でだんだんその規模を縮小し、現在のようになりました。

 現存する石仏・石塔の中にも、鎌倉後期と推定される層塔を始め貴重なものがあります。

     昭和六十一年六月 箱根町教育委員会


 「賽の河原」から鳥居をくぐって、隣の元箱根港(海賊船が発着する港)から16:35発のバスで帰宅。
 【三枚橋】の項で述べたように、前日の金曜日に箱根山の警戒レベルが2から1に引き下げられたことで観光客が押し寄せ、バス停はごったがえしていた。
 宮ノ下経由小田原行きのバスは長蛇の列で、何時に乗れるか分からない状態だったが、箱根湯本駅行き旧街道経由のバスが空いていたので座って帰ることが出来た。
 このバスは1時間に2本しか運行していないが、バス停に着いて5分で出発したので二重にラッキーだった。



 12回目の旅終了(16:30) 「元箱根港バス停」

 今回の記録:街道のみの距離は、12.0Km(風祭駅入口〜元箱根港)
         日本橋から二十四里二十七町(97.2Km)。
         寄り道を含めた実歩行距離は、13.7Km(風祭駅〜元箱根港バス停)  総計163.2Km
         歩数:22,400歩(2015年)


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