市宿 ・鉢石宿 (下今市駅  日光橋) <旧日光街道12回目>

 

2012年5月30日 (水) 薄曇

 自家用車で東武日光駅まで行き、駅の駐車場(1回500円)に車を預けて下今市駅に戻り、ここを 10:55スタート。

(注:解説で街道の左側、右側とは日光に向っての左右です)

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 私事だが、2012年3月31日で完全にリタイヤし、4月より毎日が休日になったので、スポーツジムに通い始める等生活が大きく変わった。

 いつでも街道歩きが可能になった上、歩くには一番良い季節なのに、最後の行程が今日迄延びてしまった理由は・・・

 桜の開花に合わせて日光を訪れようと待っていたところ、今冬の異常な寒さで全国的に桜の開花が一週間遅れたこと、いざ開花したら腰痛で長時間歩けなくなったこと、腰が 治った頃に海外旅行(オーストリア)に行ったことなどによる。

 五街道中、四街道がやっと終わり、次は奥州道中を歩く予定だが、暑くなってきたので何時スタート出来るか??


【今市宿】 日本橋から34里3町20間(133.9Km)、鉢石へ2里(7.9Km)


【報徳二宮神社】 (右奥) 11:00〜11:10

 下今市駅を降りて、前回終えた小倉町交差点まで戻らず、そのまま改札を出た所から右折して、報徳二宮神社の脇から入った。

 二宮尊徳(金次郎)を祀る神社で、境内にはお馴染みの金次郎像と、本殿裏手には尊徳の墓がある。

 最下記にある通り、尊徳は「墓石や墓碑を建てるな」と遺言したが、門人や未亡人の遺志により翌年墓石が建てられた。

【由緒】

 ご祭神二宮尊徳命は江戸時代、天明七年(1787)現神奈川県小田原栢山の中農の家に生まれた。再三にわたる酒匂川の氾濫で田畑財産は流され、両親と死別して一家離散の困窮に陥ったが、二十四歳のとき独力で一家の再興を果たした。薪を背負い本を読む少年金次郎像のイメージはその頃のものである。

 この経験を元に小田原藩の家老服部家の財産再興を成功させ、武士として登用された尊徳命は、その後下野国桜町(栃木県二宮町)をはじめとする烏山・下館・相馬といった約六百の村や藩の経済復興開発に一生を捧げた。

 晩年の嘉永六年(1853)徳川幕府の命を受け旧日光神領八十九村の復興に尽力し、安政三年(1856)報徳役所にて七十歳で逝去され、手厚く埋葬された。

 即ち、『栃下県史跡 二宮尊徳の墓』である。葬列は報徳役所のある春日町より続いたという。

 その後、尊徳の終焉の地であるという全国唯一の由緒を持つこの霊地に明治三十一年神社が創建され、今日まで学問・経営の神様として信仰されている。

 尊徳命の建て直しの方法は「報徳仕法」と呼ばれ普遍性を持つことから、政治経済に携わる人々にも大きな影響を与えた。また全国に報徳社が結成され弟子たちによって継承された尊徳命の思想は「報徳運動」として実践されている。


【二宮尊徳翁遺訓】

 人生れて学ばざれば生れざると同じ

 学んで道を知らざれば学ばざると同じ

 知って行うこと能はざれば知らざると同じ

 故に人たるもの必ず学ばざるべからず

 学を成すもの必ず道を知らざるべからず

 道を知るもの必ず行はざるべからず


【二宮尊徳の墓】
 栃木県指定史跡(昭和32年8月22日指定)

 二宮尊徳(1787〜1856)は江戸時代末期の農政家・思想家であり、相模国足柄下郡栢山村(現神奈川県小田原市)の農家に生まれ、通称を金次郎、尊徳と称した。

 尊徳は、勤倹力行(きんけんりっこう)して藩家老家再興をした手腕を買われ、文政4年(1821)に小田原藩主大久保忠真の命を受け、下野国桜町領の荒村復興を実施することになり、その後半生を下野で過ごすこととなった。

 桜町領を復興させたことにより、各地で教えを乞われ指導し著しい効果を挙げ、現在でも水路等の成果が各地にのこっている。

 これらの実績により幕府に日光神領89ヶ村の復興を命ぜられ復興開発方法を書き、嘉永6年(1853)には今市に報徳役所を設置して日光神領復興に全精力を注いだ。

 しかし、安政3年(1856)に事業半ばで報徳役所において70才で死去した。

 今市の如来寺で葬儀が行われ、現在の地に埋葬された。

     栃木県教育委員会・今市市教育委員会

【二宮尊徳翁の遺言と墓碑の建立】

 『我が死応に近きあらん、我を葬るに分を越ゆること勿れ、墓石を建つること勿れ、碑を建つること勿れ、只々土を盛り上げて、その傍に松か杉を一本植え置けば、それにて可なり、必ず我が言に違う勿れ。」と遺言されたが、忌明けの安政四年に門人間に墓碑建立の議が起り、是非の意見が区々として容易に決定せず、遂に未亡人の遺志を伺って建立し、今日に至っている。


【いまいちの水】 (左側)

 報徳二宮神社から日光道中に戻ると、すぐ先左側に醸造所渡邊佐平商店があり、この辺りに高橋本陣があったが今は何も無い。

 「渡邊佐平商店」隣の「ショッピングプラザ」前に、竹筒からチョロチョロと水が流れ落ちて、ご自由にお飲み下さいと書かれたいまいちの水がある。今市商店振興会が昭和62年3月に設置したものだが、立札には『おいしい(水道水)』と書かれていた。水道水だけに、どのHPにも書かれている通り味はいまいち(今一)だった。


【如来寺】 (右側) 11:20 

 「ショッピングプラザ・鹿沼相互信用金庫」の向かいを入った如来寺は、室町時代中期に創建された寺で、江戸時代には三代将軍家光の宿泊用御殿が建てられた。また、二宮尊徳の葬儀が行われた寺でもある。境内には「車止め地蔵」と呼ばれる地蔵堂が建っている。

【木造 地蔵菩薩立像】 日光市指定有形文化財(彫刻) (昭和41年7月20日指定)

   規   模:像高160a、肩幅33a、台座高38a

   建築年代:江戸時代初期と推定

 伝承によれば、鎌倉時代に二位の禅尼(北条政子)が安達盛長に日光山奉納するよう運ばせた途中、この地で車は動かなくなり、一宇を建立して安置したと伝えられる。そのため、「車止め地蔵」と称している。

 手法は、胴体に、頭部、肘、足は別木をはめ込んで造られている。眉は美しく、豊かな頬の温容な容貌で、白毫は水晶、目は彩色彫眼である。胴体は両襟が直角に下がり、豊胸に両袖がひるがえる。力強い彫刻に繊細な工芸手法である。

     日光市教育委員会


【旧会津西街道】 (右側)  11:30

 如来寺より日光道中に戻り、右二つ目の道を入った所(石岡時計店の先)に旧会津西街道相之道通りと書かれた木柱が立っている。

 会津西街道は関東側から呼んだ名称で、江戸時代に初代会津藩主(保科正之)によって整備された会津若松城下から下野今市に至る街道。会津側からは下野街道南山通りと呼ばれていた。

 現在の国道121号線がそれに当り、栃木県内を会津西街道と称し、福島県からは日光街道と呼んでいる。また、街道の途中には重要伝統的建造物群保存地区として選定されている大内宿がある。

 日光市(神橋)まで8キロ(2里)

 会津若松市まで112キロ(28里)


【今市宿市縁ひろば】 (右側) 11:35〜12:17

 国道121号線を渡ったすぐ先右側に、広い駐車場を持つ今市宿市縁ひろばがあり、入口の右端に「今市宿 日光街道・二宮新徳翁 終焉の地」と記された木柱が、右端に「明治天皇御小休之蹟」と刻まれた石碑が建っている。

 奥に「今市観光案内所」とその2階に「手打ちそば 日光の庄」と、手打ちそば道場があり、ここの「日光の庄」で<昼食>をとる。


【瀧尾神社】 (左側) 12:22

 今市宿市縁ひろばのすぐ先右側に大きなフクロウの石像が2体建っている格子の家があった。

 格子の家のすぐ先、歩道橋のある交差点左側に市総鎮守の瀧尾神社があり、参道には沢山の風車が回っていた。

【かざぐるまを祀る神社】

 瀧尾神社の御神体は、霊峰日光連山と深い関係にあります。当社の主祭神は「大黒様」、「田心姫」、「恵比寿様」です。四季の風に乗った神様のお力をかざぐるまで受け止めて、あなたの運力を高めます。


【旧報徳役所跡】 ( 左奥) 12:30〜12:38

 瀧尾神社の前を左に入り、次いで「今市小学校」前を左折した「報徳今市振興会館」の隣(裏手)に、二宮尊徳が最後に勤めた旧報徳役所跡がある。敷地内には尊徳の像、報徳役所書庫、尊徳の記念品が展示されている建物が建っている。

【報徳役所書庫】 市指定有形文化財(建造物) 昭和40年3月指定

 旧報徳役所(現報徳今市振興会館敷地)内にある。

 安政六年(1859)建造、木造石屋根石張二階建

    間口 二・五間   奥行 二間

    延坪 一〇坪    当時経費 七三両

 二宮尊徳が、嘉永六年(1853)幕府より日光神領の復興を命ぜられ、安政二年に報徳役所六十坪を建築した時、土蔵書庫三坪が狭小の為に拡張したのがこの書庫である。石材は、地元の板橋石で、同所の六左衛門が運搬した。大工、左官等延べ四一三人で建築した防火施設である。

 収蔵された十五年間にわたる仕法記録一万巻は、戊辰戦争の時、福島県相馬に避難した。書庫は、明治五年以後転々とし、最後は栃木市の小江沼家に買い取られたが、小江沼家が市に寄贈、百年祭りを機にここに復元した。

     平成九年三月 日光市教育委員会


【杉並木公園】 ( 右側) 12:42〜

 日光道中(瀧尾神社前)に戻り、交差点を渡って国道119号線に並行している一本右の旧道に入って行く。

 旧道の右側は杉並木公園で、更に右に入って行くと重連も含め数基の水車が見られる。その右側には東武日光線が走っている。 

【杉並木街道と参詣(瀬川地区)】(旧道に入ってすぐ立っていた案内板)

 この案内板が位置する今市市瀬川地区は、日光街道の今市宿(第1番目の宿千住から数えて20番目)と鉢石(現在の日光市で日光街道の最後の宿)の間にあり、江戸(現在の東京都 起点は日本橋)からの距離は約34里(約136Km)です。

 日光街道というと江戸時代は、5街道(東海道・中仙道・日光街道・甲州街道・奥州街道)の一つとして、人や物や情報が行き交う重要な交通路でありました。

 また、日光東照宮への参詣のために、公家・大名・文人や数多くの庶民がこの並木の道を行き交い、徳川将軍家みずから日光東照宮に参詣することを日光社参といわれ、その多くは東照宮例大祭(4月17日)に参拝したそうで、このときもこの並木の中を通りました。

 最後の日光社参となった天保14年(1843)に第12代将軍家慶社参の時には、時の老中水野忠邦が幕府の権威回復のために実施したといわれ、この時の共奉した人数は約14万人余におよぶ大行列であり、この事業のために幕府が要した費用は莫大なもので、人馬調達や助郷役が命ざれた村々は関東一円におよんだといわれる。

(後略)

     平成5年3月 栃木県


【旧江連家】 ( 右側) 13:00

 一旦、杉並木が途切れる手前あたりに瀬川一里塚があるはずだが案内等はなく、注意して見ていたが分からなかった。

 その途切れた右側、公園内に旧江連家が移築されている。昨年、茅葺屋根が銅板葺に葺きかえられてしまってしまい、趣が薄れたのは残念である。

 その左隣には、農家を復元した「手打ちそば・うどん 報徳庵」がある。

 また、国道を越えた左奥にある月蔵(がつぞう)は、幕末期に大老を務めた井伊直弼が日光参詣の際に宿とした寺として知られている。

【旧江連(えずれ)家】 

 この住宅は、天保元年(1830)に南小倉村小倉(現日光市小倉)に建築され、建築後175年の住宅を江連氏から、平成5年(1993)に市が寄贈を受け、現在の場所に解体移築したものです。

 移築にあたっては、保存材を最大限に利用する施工方法をとりましたが、老朽化が進み改修整備するにあたり、平成23年(2011)に、防火及び維持管理上の理由から屋根材を当時の茅葺から銅板葺に葺き替えています。

 江連家は、江戸時代に南小倉村の世襲名主を務めた家で、建築面積は約91坪(約300u)の木造茅葺屋根平屋建てで、間取りは、馬屋・土間・囲炉裏付居間の他、囲炉裏付茶の間や納戸等座敷が6間もあり、当時の名主や農民の暮らしぶりが見えてくる貴重な歴史的資料です。


【砲弾打込杉】 (右側)
 13:15一旦途切れた杉並木はすぐ始まり、しばらく快適な道を進むと、右手に案内板が立っている杉に出会う。この杉は砲弾打込杉と云って、日光側面を見上げると大きな凹みが見られる。

 附近は明治戊辰の役に官軍が日光に拠る幕府軍を攻撃した際、前哨戦を行った所である。この杉の凹んでいるところは砲弾が当って破裂したあとである。

 写真は日光側から写したもので、幹に凹みがある一番左手前が砲弾打込杉である。


【石の梵鐘】 (右側)
 13:30  杉並木を更に進み、民家が現れたらそのすぐ先の街道沿いに石の梵鐘が捨て置かれていた。後ろは薬師堂

 明和五年(1768)、村人が石で造った梵鐘を奉納しようとしたが、重すぎたため竜頭が壊れ、ここに置かれたままになったと伝わる。
  

 この梵鐘の手前の広場に日光杉に関する解説が掲げられていた。

【杉の自然と植生】

 公園周辺に植えられている杉のうち、最も古いものは江戸時代初期に植えられ、約360年を経て今日に至っております。樹高は約45m、直径約1.8mと大変大きなものです。

 ここで少し『杉』のことについて考えてみましょう。

 『杉』は日本特産で、各地に広く自生し、また有用樹種として最も多く植林されています。(注)スギの学名:Cryptomeria Japonica

 なお、大きな分類でのスギ科では世界に8属、15種あり、日本に2属2種が自生しています。

 日本で最も長寿と言われる鹿児島県屋久島の杉は3000年をこえるものがあります。これに比べると、日光杉並木は10分の1程度の年月しか経っていなく、屋久島の杉とでは子供みたいなものですが、数を含めた並木の延長では正に世界一であります。

 また、我が国においては、杉の代表的な産地があります。

 地名に冠して、『秋田杉』(秋田県)、『北山杉』(京都府)、『見延杉』(山梨県から静岡県にかけて)等と呼ばれています。

 これらの産地はいずれも雨が多いことがあげられ、水を好む杉にとって必要不可欠の要素なのです。それでは、前記した産地に比べて雨量の少ない日光地域の杉がどうしてこんなに大きく育ったかというと、大谷川の伏流水(河川の下に、自然に溜まった水をいう)によるところが大きいといわれています。この案内版が立っている左側に大谷川がありますが、この大谷川は中禅寺湖に源を発し華厳の滝を経て本地域周辺を流れており、正に奥日光全体の自然そのものがこの杉並木を育ててきたことになるのです。

 自然は本当に雄大で神秘的です。こんなことを考えながらもう一度『日光杉並木』を鑑賞してみて下さい。

     平成5年3月 栃木県


【並木太郎】 日光市七里 (右側) 13:58

 程なく旧道は国道119号線に合流する(13:45)。

 国道を12分程進んだ右側に見える「生岡神社」入口の石碑が立つ信号を越えた少し先右側に並木太郎と呼ばれる杉がある。

 並木の中で一番大きな杉であり周囲五・三五米、樹高三八米、材積三三・五立方米である。

 その姿の美しく端正なことより並木太郎と呼ぶにふさわしい名木である。

と説明板にあったが、素人目には他の杉と区別がつかない程度の杉に見えた。

 この写真は日光側から写したもので、電信柱の横、一番手前の杉が並木太郎


【銀杏杉】 (右側) 14:07
 並木太郎
から7分進んだ右側に、根元が銀杏の葉に見える銀杏杉がある。

 杉の根元が銀杏の葉のように広がっており根張りの幅が八米余ある。この雄大な根張りがあれば樹木ばかりでなく大丈夫というところより別名「人生杉」とも呼ばれている。

 但し、この辺りには、ここまで大きくないまでも、この様な根張りの杉が何本か見受けられた。


【明治天皇七里御小休所】  (左側) 14:10

 銀杏杉から1分で黒門と石碑が建つ明治天皇七里御小休所に着く。

 文部省が立てた説明板は擦れて、『明治九年奥州巡幸の際、6月6日及び同9日小休した』位しか判読できなかった。

 庭は綺麗だった。 門の後ろの建物は古いものなので天皇が休憩した建物か。
  


 この先左に尾立岩なるものがあるとのことだったが、分からなかった。


【麻疹(はしか)地蔵】  (左側) 14:27

 明治天皇七里御小休所から10分程進んだ「宝殿交差点」は真中の道(国道)を進み、「筋交橋」を渡るが、その手前左下にある御堂に麻疹地蔵が祀られている。

 麻疹になった時、この橋の下をくぐると治ったと云われがある。橋の下だから「はしか」で、地蔵も橋の下に鎮座しているので「はしか」を治す「はしか地蔵」と呼ばれるようになったらしい。


【異人石】 日光市宝殿 (左側) 14:30 

 「筋交橋」を渡ったらすぐ左の旧道に入る。

 入ると杉並木となり、左手に異人石と云われる石の椅子が 見つかる。

 明治の頃、杉並木を愛した一人の外人がいた。

 その外人は、この石を石屋に頼んで座りやすくしてもらい、毎日ここで並木を鑑賞していたので異人石と呼ばれている。


【鉢石宿】 日本橋から36里3町20間(141.7Km)


【木戸門跡】 14:43

 旧道から国道に出たら反対側に渡り、JR日光線のガードをくぐり、再び右の細い旧道に上がって行く。この旧道もほんの僅かの距離で国道に合流する。

 日光道中は、この辺りから終着点まで緩い上り坂となる。

 国道に合流した次の信号の「相生町交差点」を右折するとJR日光駅。その次の信号が「東武日光駅前交差点」で駅前広場がある。

 その広場の国道側に『日光山志』と書かれた石の説明板が立ち、木戸門の説明や往時の町並図も描かれていた。

【日光山志〕

 江戸時代にはここに木戸門があり参詣人の居住地を訊問していました。

 また、左には番屋と高札堤があったとの記録もあり、日光の入口として重要な場所でした。


【絵図内の説明文】
 (日光入口東町 尺長十四五町 許)

 日光山の門前町は、西町と東町に分かれる。

 日光道中に沿って鉢石村の地内に町立てされたのが東町であり、広義の鉢石宿である。

 東町の東西の端には冠木門(カブラギモン)があった。

 その東側の大木戸門がこの周辺にあったとされている。

 この歴史的遺産として大木戸門の東石跡を建立するものである。

 『日光入口の町にて、木戸門を設く。古は此あたり松ばらにて有りといふ。』


【本陣跡】  (右側) 

 鉢石宿には2軒の本陣があった。 

 『ロマンチック街道』と称される国道119号線を進み、「御幸町交差点」を過ぎた「ガスト」のすぐ先右側のそば屋「魚要」が一つ目の入江本陣があった場所。

 もう一つの高野本陣は、その先の道が右カーブした辺り(郵便局の手前)にあったが、共に説明等は無かった。


【鉢石】 日光市指定文化財 (右側) 15:15 

 郵便局のすぐ先にある「日本生命」横の細道を右に下ると、鉢石宿の名前の由来となった鉢石がある。

種   別・・史跡

構成要素・・地表に露出した岩盤。ほぼ楕円形で、直径最少約270cm、最大約360cm、高さ約40cm


 地中から地表に突き出た岩盤の一端が鉢を伏せたような形のため、古来より「鉢石」と称されている。

 江戸時代に往古の伝承をまとめた『日光山堂舎建立記』に、「鉢石」の由来について、「勝道上人開山ノ時、此所ニ初テ達人家、鉢石町ト名ク、此町ノ北、大谷ノ南岸ニ、鉢ノ形ナル岩アリ、因テ名トス」と見え、勝道上人の日光開山伝説に因んでこの石が親しまれていたことがわかる。

 古来より日光山の門前町として栄えた「鉢石町」は、江戸初期の東照宮造営を契機に、江戸五街道の一つである日光道中最終宿場として拡充整備され、東町全体を「鉢石宿」と総称するようになった。

 こうした由緒により昔から地元の人々に大切にされ、石の周辺に柵を設け、注連縄を張って神聖化されて保護の手が加えられてきた。

 日光開山にまつわる民間伝承の古墳として、また日光における門前町の発達と近世街道宿駅を示す価値ある史跡である。

     昭和四十三年三月十六日指定 日光市教育委員会


【磐裂(いわさく)霊水】  (右側) 15:20

 日光道中終点の日光橋手前右側の小さな公園に磐裂霊水という、左の写真の様に水が湧き出ている所がある。

 傍らの説明板には日光のおいしい水と記されており、今市の水とは雲泥の差がある本当においしい水だった。

 一二〇〇余年前日光開山の祖勝道上人がこの地に清水を発見し、以来修験者が神仏に供えた霊水と伝えられる。この水は男体山系の湧水で、日本でも最もおいしい水として定評がある。


【天海大僧正(慈眼大師)銅像】  (右側) 

 磐裂霊水の隣に天海大僧正の銅像が建っている。説明板は一部擦れて読みづらい箇所があった。

 天海は比叡山で天台宗の奥義をおさめた後、徳川家に仕え、日光山の貫主となる。当時の日光は豊臣秀吉に寺領を没収され、荒廃の極にあった。家康が亡くなると天海はその遺言を守り、久能山から遺骨を日光に写し、東照宮の創建に尽くした日光山中興の人である。

 天海は、寛永二十年(1643)一〇八歳で大往生した。この銅像は、日光出身の彫刻家、倉沢実の作。


【板垣退助銅像】 (左側) 

 天海大僧正の銅像の向かい側には板垣退助の銅像が建っている。

 板垣退助は、「板垣死すとも自由は死せず」の名言で知られる明治の政治家。

 明治の初期に自由民権運動を展開し、自由党を結成。土佐(高知)出身。

 明治元年(1868)戊辰戦争の時、彼は新政府軍の将として、日光廟に立てこもった大鳥圭介らの旧幕府軍を説得し、社寺を兵火から守ったと言われる。

 その遺徳を讃え昭和四年に建立されたが、最初の像は、第二次大戦に軍需に徴収された。昭和四十二年に再建。

 彫刻家、新関国臣の作。


【神橋】 国指定重要文化財 (左側) 15:25

日光道中も日光国立公園の入口となる大谷川に架かる日光橋で完歩。

 日光橋の左側には神橋が架かる。

 

 橋の長さ28m、幅7.4m、水面よりの高さ10.6m。2011年12月に世界遺産に登録される。

 奈良時代末期に架けられ、寛永13年に現在の神橋に造り替えられてからは、神事・将軍社参・勅使・例幣使などが参詣のときのみ使用され、一般の人々は下流に架けた仮橋(日光橋)を通行した。

 昭和48年より有料で一般に公開されるようになり、平成9年〜17年にかけて大修理が行われた。

 山間の峡谷に用いられた「はね橋」形式としては日本唯一の古橋で、山口県錦帯橋・山梨県猿橋と共に日本三代奇橋の一つに数えられている。

 二荒山神社所有。


【杉並木寄進碑】 特別史跡 (正面)
 15:37日光橋を渡った正面に杉並木寄進碑が建っている。

 松平正綱とその子正信の親子二代が、二十余年を費やして山内地区と東照宮へ通じる日光街道、御成街道、例幣使街道、会津西街道沿いの延べ三十七キロメートルにわたり、二十数万本の杉を植え、東照宮に寄進した。この碑は、そのことを記念して、正信が慶安元年(1648)に建てたものである。同様の碑が他に三基、各街道の日光神領の境ごとに建てられ「境石」とも呼ばれる。


【輪王寺・東照宮・二荒山神社】  15:45〜17:00

 杉並木寄進碑脇の階段(東照宮・輪王寺・二荒山神社参道)登り口に世界遺産と刻まれた大きな石碑が置かれている。

 そのまま階段を上り、上記二社一寺を、社寺共通拝観券(1000円)を購入して駆け足で拝観。

 いずれも拝観時間は17:00迄だが、16:30迄に入らないと閉門となってしまう為、大急ぎで廻り、最後の大猷院を出た所で17:00だった。

 輪王寺の三仏堂は修理中で、外側全体に覆いがかけられていた。⇒東照宮の鳥居の手前には、『東京スカイツリー頂上の高さ634m』の看板が立っていた。→五重塔→三猿→陽明門(国宝)→唐門(国宝)→拝殿(眠り猫と奥宮は別料金)→本地堂(鳴竜)⇒二荒山神社輪王寺大猷院(家光廟・本殿は国宝)では、徳川三代将軍家光と生母「お江の方」の御位牌公開中だった。



 12回目の旅終了(15:25) 日光道中終点の日光橋。

  本日の記録 :街道のみの距離は、8.3Km(小倉町交差点〜日光橋)

           日本橋から三十六里十五町(143.0Km) 

           4時間30分。 17,380歩(下今市駅〜日光橋の東照宮見学含まず)

           寄り道を含めた実歩行距離 は、16.0Km(下今市駅〜東武日光駅に戻る迄の東照宮等見学含む 累計193.0Km。

 

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