雀宮宿・宇都宮宿
(石橋駅 → 宇都宮駅)
<旧日光街道9回目>
2011年11月13日(日) 曇のち晴
ホテルの駐車場に車を預けたまま小山駅から石橋駅まで電車で行き、昨日終了した「石橋交差点」を7:50スタート。
(注:解説で街道の左側、右側とは日光に向っての左右です)
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【鞘堂地蔵尊】 (右側) 8:25〜8:30
国道4号線を北上し、右手「下野警察署」を過ぎて「北関東自動車道」が見えてきた右手の広場の奥に鞘堂があり、手前に東屋も建っている。
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【鞘堂地蔵尊の由来】 (句読点等原文通り記す) 寛政六年(1794)に書かれた天保十四年(1843)に発行された紀行文によれば室町時代には足利義満が将軍の時代には将軍と将軍が争うことが多くこの地方でも小山と宇都宮の合戦が発生し戦争の中心地となったところです 茂原合戦ともいわれています この地内には地蔵院とゆうお寺がありました戦争で焼かれた多くの人々が亡くなりました村人達は戦死者の散乱した刀の鞘を拾い集めてお寺の焼後に埋め小さなお堂を造りその中に石仏の地蔵様を安置しました それが鞘堂とゆう地名になったそうです 明治・大正・昭和の初めには地蔵尊入口両面には桜の並木があり安産地蔵様として親しまれ、お祭には露天商がたち並び手づくりの舞台で演劇や踊りで大勢の参拝客で賑わいました。今ではその桜の木もなくなり昭和五十三年にお堂も老朽化で解体され大勢の方々のご協力により御覧のようなお堂が新築されました地蔵尊の中には地蔵様の頭五〜六寸大と、日本画で全身像が額縁で安置されています 鞘堂のお墓にはお寺の住職のお墓もあり、寺田とゆう地名も残っています鞘堂地蔵尊は安産地蔵として古くから男の子は白、女の子は赤と、細い紐を作り安産のあとに二本かいすことになっています このように鞘堂地蔵尊はこの地の名所として古くから知られているようです。 お祭り(縁日)旧三月二十四日 壱万灯 六月二十四日 鞘堂自治会 |
【下古山一里塚】
鞘堂地蔵尊のすぐ先左側の「星宮神社」を過ぎ、「北関東自動車道」の高架をくぐる。そのすぐ先当り辺りに下古山一里塚があったと云うが、説明など一切無い。
「北関東自動車道」の高架をくぐって10分行った信号のある交差点から宇都宮市に入る(8:45)。
その交差点を渡って標識を見上げると「東京街道」と書かれていた。東京から日光に向かうから日光街道と言うが、逆に東京に向って行けば東京街道と言いたくなるのだろう。
【茂原正観音道】 (右側) 8:55
「茂原観音入口」バス停を過ぎた先右側に茂原正観音道と刻まれた石柱が建っている。
茂原観音はここを右に入り、JR線を越えて、現在の道で1.6Km先にある。
次の「茂原・自衛隊前交差点」で左を向くと陸上自衛隊宇都宮駐屯地の正門が見える。
【雀宮宿】 日本橋から25里11町20間(99.4Km)、鉢石へ10里28町(42.3Km)
宿内人口:268人、総戸数:72軒(本陣1・脇本陣1 ・旅籠38)
日光街道が整備されてから街道沿に人々が集まり雀宮村が出来た。その名は雀宮神社から由来する。
宿場は南北に5町20間(約582m)と小さかった。
【雀宮本陣跡】 (左側) 9:30
「茂原・自衛隊前交差点」から27分、「雀宮駅前交差点」手前の「KIDS・西松屋」の左角に雀宮本陣跡の石碑が建っていて、裏に本陣門移築先の説明文が刻まれていた。
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江戸時代(1809年)より現存した門は埼玉県に創立された学校法人国際学院日本文化研修館「敦照殿」の門に寄贈 平成十年八月吉日 小倉家十四代当主・小倉敦 |
【脇本陣】 (右側)
雀宮本陣跡の斜め向かいの黒い屋敷門と立派な屋敷が脇本陣だった芹谷家である。
【雀宮神社】 (右側) 9:45
「雀宮駅前交差点」から5分、雀宮神社手前の右側に祠があり、中に達筆すぎて読めない石碑が納まっていた。
宿場名の由来となった雀宮神社には由緒等がなかった。
神社の脇には巨木があり、その前の街道沿いに東京まで100Kmの標柱が立っていた。
<休憩> 9:50〜10:15
雀宮神社のすぐ先の交差点右角にある「マクドナルド」で休憩 。
10:35、国道121号線を越えてしばらく進んだ「北宇都宮駐屯地交差点」で左を向くと陸上自衛隊北宇都宮駐屯地の正門が見る。その門の右後ろに自衛隊機が数基並んでいたが、この駐屯地内には「陸上自衛隊航空学校宇都宮校」があるのでその教材か展示品なのだろう。
10:45、左側に寿鶴(すず)薬師堂が建っていて、赤く塗られていた。かつては綺麗だった赤だろうが今はくすんでしまい寂れていた。
11:05、「一里交差点」。往時はこの辺りに江曽嶋一里塚があったが、現在は交差点の名と少し手前の一里バス停の名が残っているのみでここも説明等は無い。前にも述べたが本当に栃木県は不親切である。
11:20、「西原交差点」で長いこと付き合ってきた国道4号線が右に分かれ、日光道中は直進する。ここからは終着の鉢石まで国道119号線とのお付き合いとなる。119号線に入った所で「国道119・日光街道・日光31Km」の道標が出てきた。
11:25、JR日光線の上を越える。
【宇都宮宿】 日本橋から27里12町20間(107.4Km)、鉢石へ8里27町(34.4Km)
宿内人口:6,457人、総戸数:1,219軒( 本陣2・脇本陣1・旅籠42)
宇都宮城の城下町であると共に、ニ荒山神社の門前町でもあった。日光街道と奥州街道が追い分ける宿場町であり、規模は南北20町(約2.2Km)、東西18町58間(約2.1Km)。
【不動堂】 (正面) 11:30
JR日光線の上を越えて5分で「不動前交差点」に着き、日光道中は左斜めの道を進む。
この交差点に着いた時に、向こう正面を見ると不動堂が建っている。傍まで行かなかったが家に帰ってから写真を見たらお堂の脇に説明文が立っていた。栃木県は不親切だと思い込んでいたから見逃してしまった。
ところが、宇都宮宿に入ったら簡単な説明が書かれている青い標柱が充実していたので、県ではなく市町村単位で不親切なところがあるということが分かった。
<昼食> 11:30〜12:20
「不動前交差点」から左斜めの「不動前通り」に入ったすぐの所にある「COCO’S」でランチ定食をとる。
【蒲生君平勅旌(がもうくんぺいちょくせい)碑】 宇都宮市指定史跡(昭和36年9月18日指定) (右側) 12:25
「東武鉄道宇都宮線」のガードをくぐったすぐ右側に、屋根のかかった蒲生君平勅旌碑が建っている。
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明治2年12月明治天皇は、蒲生君平の著した書物やおこないが明治維新に大きな功績があったとして「君平の人となりはまことに立派であるからこれを広く天下に表して庶民に知らせるように」との勅命を下しました。そこで、当時の宇都宮藩知事の戸田忠友が奉行となり、宇都宮の入口に「この地が蒲生君平の里である」という碑を建てました。 蒲生君平は、高山彦九郎、林子平とともに「寛政の三奇人」といわれた人で、明和5年(1768)宇都宮の新石町で生まれ、先祖は元宇都宮城主蒲生秀行(18万石)の弟正行(3千石)で、本姓は福田でありましたが、途中で遠祖の蒲生の姓を名乗りました。 歴代天皇の御陵が荒廃していることを非常に悲しみ、それらを調査して「山陵志」を著し修復の必要性を説きました。 また、朝廷の官職についてまとめた「職官志」や、国防についてまとまえた「不恤緯」などを著しました。しかし、その業半ばにして病にたおれ、文化10年(1813)7月5日に江戸で46才の生涯を閉じました。 |
【新町のケヤキ】 (左奥) 12:35〜12:40
「不動前通り」を進んで行くと、右手に巨大な木が民家の後ろに見えてきて、右側に南新町の青い説明柱が立っている。
【南新町】
この付近は、江戸時代には宇都宮城下の南端に位置していました。元和5年(1619)、宇都宮城主本多正純により日光街道の付け替えがなされたとき、街道沿いに新しく開かれたところで、町の名もそれに由来します。城下への出入口のため、見張人の詰める番所が設けられ、多くの寺院が建っていました。
新町のケヤキは是非とも間近で見るべき木である。信号のある三叉路の手前の細道を左折し、更に突き当りを左折するとすぐ、触ることが出来るところに聳えている。傍に行くと、その根回りの太さに驚いてしまい、私が出会った木の中では、屋久杉を除けばこれが最大級の巨木と思う。
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【新町のケヤキ】 栃木県指定天然記念物(昭和63年12月26日指定) 所有者 新町自治会 樹高43.0m 目通周囲7.9m 枝張り 東西34.0m 南北31.0m 推定樹齢 800年 この木は、江戸から宇都宮城下への入口にあたるところに立っており、多くの旅人の目印となっていたもので、落葉する10月下旬頃の姿が、特に美しい。 樹齢は、推定800年であるが、樹勢は旺盛であって、根周り20m程もあり、根張りが良く、幹はしっかりとしている。 なお、戦前までは、このようなケヤキが3本あったが、一番大きなこの木を残し、供木したため、現在はこの木だけが残っている。 栃木県教育委員会・宇都宮市教育委員会 |
【熱木(ねぎ)不動尊】 (左側) 12:47
「不動前通り」に戻り、三叉路を過ぎたすぐ左側の台陽寺参道に子安地蔵尊が。そのすぐ先左側に「一向寺旧地蔵寺参道」と刻まれた石碑が建っているが、現在の一向寺はもう少し先にある。
次の交差点を渡ると「蓬莱大黒通り」となり、すぐ先の左側に熱木不動尊が建つ。
【熱木不動尊由来】
持宝院に鎮座する不動尊像は初代下野の国司宇都宮宗円公天皇の命を受けて奥州の賊徒征伐に遠征城山村多気山山頂に陣を張りし時に戦勝を祈願して不動尊三体を造成したという内の一体で世にも得難い不動明王で願い事叶うという伝説がある
九代公綱公
多気山より城を宇都宮本丸に移転するに当り、第一に守護神である不動明王尊像を宇都宮城内南方畑中に建立国網代に至り秀吉に伏せず、以って検地の不正を理由に宇都宮家は秀吉に取潰しとなり、さすが古城を以って日本に誇れる名城も茲に全く断絶するに至った。而して豊臣家滅亡して徳川家に至り宇都宮城復元するや、約天井事件で有名な本田正純十八万石城主として赴任したるも一年有余にして出羽山形に配流となり、後任に家康の娘婿奥平美作守の入城するや産業に志し、特に織物を奨励し大いに声価を上げたという。
斯くして宇都宮城の安泰を祈ってまつられた不動明王であった。
康平二年(後冷泉天皇・西暦1519年)以来茲に星霜九百余年、そしてその歴史の中には幾多の災悪が来したことであった。
大洪水、大火災、地震、暴風、戦争等々、次から次へと起こる災難を突破して漸く今日の安泰と幸福を見る事が出来た次第でこれ皆不動明王の御利益と断ずるものであります。
【一向寺】 (左側)
「蓬莱大黒通り」を5分北上した左側に一向寺の入口があり、『汗かき阿弥陀』の青い説明板が立っていた。
『汗かき阿弥陀』で知られる阿弥陀如来坐像は、日曜日のみ15時まで拝観する事が出来るので早速境内に入る。
山門をくぐって正面に本堂があり、『汗かき阿弥陀』は本堂の左横を少し入った所に建つお堂に座っている。
このたびの東日本大震災の前日には汗をかいたのだろうか?
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【銅製阿弥陀如来坐像】 国指定重要文化財(昭和25年8月29日指定) (入口の説明板) (旧国宝・大正3年8月25日指定) 像高/105.7cm この仏像は第12代城主宇都宮満綱が願主となって、応永12年(1405)、長楽寺の本尊として造られた。明治2年(1869)、長楽寺が廃寺になったので、本尊は一向寺に移された。衣前面に340人を超える寄進者の名前などの文字が刻まれ、その数は1105字という。 作者は、宇都宮を中心に活躍していた鋳物師泰景重で、鎌倉時代の作風を残した仏像である。 この仏像には、世の中に異変が起こる前になると、汗をかくという伝説が残されており、「汗かき阿弥陀」の名で親しまれている。五十里洪水や関東大震災の前日にも汗をかいたという。日曜日に拝観することができる。 |
【汗かき阿弥陀如来】 (阿弥陀堂横の石碑)
大 祖 那 宇都宮十二代城主 藤原満綱公
願 主 一向寺七世住職 忍阿上人
作 者 大工秦 景 重
鋳造年月日 應永十二年四月二日 西暦一四〇五年
尊像造立の理由
藤原満綱公は茂原の合戦で討死した父基綱公とその一族三百余騎及びその心労により病没した母祖心院殿の菩提を弔うために宇都宮一族の家臣を始め城下の特進者三百四十余人と共に力を合わせて造立した。
特 徴 尊体表裏の衣に千百五文字が刻されている
流汗の歴史
應永三十年 十三代城主持綱公塩谷郡幸岡にて戦死
天文十八年 二十代城主尚綱公喜連川五月坂にて戦死
慶長 二年 二十二代城主国綱公幕府の命により追放され約五百年に亘り続いた名家宇都宮家滅亡
元禄十一年 百姓一揆起る
享保 八年 五十里大洪水
宝暦 三年 百姓一揆起る
慶應 四年 宇都宮城焼失
明治以後 日清日露の両役 関東大震災 第二次世界大戦
【報恩寺】 (左奥) 13:10〜13:17
一向寺の右横から外に出ると右手正面に報恩寺の茅葺の山門が見える。
寛永十六年(1639)に奥平家昌の正室が開山したもので、境内に宇都宮氏の大きな五輪塔、戊辰戦争で戦死した薩藩戦死者墓等が建っている。
本堂は戊辰戦争で焼失し、その後再建されたものだが、山門は創建当時のままと云われている。
【六道の辻】
「蓬莱大黒通り」に戻り、次の信号はクランク曲がりの変則交差点である。
ここは六道の辻と呼ばれ、戊辰戦争で宇都宮城争奪を目指す官軍(新政府軍)と幕府軍が激戦を行った場所である。報恩寺はこの戦いの際に焼失した。
その変則交差点手前左側には大谷石の塀を持つ古い民家が建っている。
【本陣跡】 (右側) 13:35
変則交差点から「材木町通り」に入ると道幅が広くなり、大きなビルが建ち並んで賑わってくる。
広い通りを約10分進むと「裁判所前信号」で「大通り」に突き当たるのでここを右折する。
「大通り」を右折するとすぐ右側に「レオパレス21」のマンションがあり、その前に本陣跡の青い説明柱が立っている。
上野家本陣は跡形もなく無くなっているが、マンションの後ろにあるイチョウの大木は屋敷の庭に植わっていたものと云う。
また、本陣の手前には貫目改所があったと云うが、説明等は無かった。
江戸時代、この辺りに本陣が置かれました。本陣とは、大名や幕府の役人などが宿泊する施設のことです。東北地方の大名の参勤交代のときや、将軍の日光東照宮参詣の際の供者の宿舎として、この本陣が使われました。
ここ伝馬町の本陣は、200坪(661m2)近い大きな建物でしたが、今は、屋敷の庭にあったイチョウの大木が、わずかに当時の面影を偲ばせてくれます。
【追分】 (左側)
本陣跡の反対側、「宇都宮小幡郵便局」のすぐ先を左折するのが日光街道で、ここから真直ぐ宇都宮駅方向に進むのが奥州街道。
この伝馬町の交差点が日光街道と奥州街道の追分である。
本日の日光道中はこの追分で終了とし、この後、 宇都宮駅まで奥州街道を歩いた(『旧奥州街道1回目』参照)。
9回目の旅終了(14:20) 宇都宮駅。
宇都宮駅からJR
本日の記録
:街道のみの距離は、14.2Km(石橋交差点〜追分)
日本橋から二十七里二十二町(108.4Km)
寄り道を含めた実歩行距離は、17.5Km(石橋駅〜宇都宮駅) 累計146.5Km
6時間30分 28,700歩。
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