草加宿
(北千住駅 → 新越谷駅 ) <旧日光街道2回目>
2011年2月19日(土) 晴
北千住駅入口の千住二丁目交差点を9:35スタート。
(注:解説で街道の左側、右側とは日光に向っての左右です)
「江戸・千住宿」 ← 「目次」 → 「越
ヶ谷宿
・粕壁宿(前半)」
【勝専(しょうせん)寺】 (左奥)
前回寄らなかった勝専寺へ、日光道中を少し戻って訪れた。
北千住駅入口の交差点から130m手前の道を左に入るとすぐ突き当たりにある赤レンガで囲われた寺で、真っ赤な山門に「三宮神山」の大きな扁額が掲げられている。
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【三宮神山大鷲院勝専寺】 「赤門寺」という通称で親しまれている浄土宗寺院で京都知恩院を本山とする。寺伝では文応元年(1260)勝蓮社専阿上人を開山、新井政勝を開祖とし草創されたという。 江戸時代に日光道中が整備されると、ここに徳川家の御殿が造営され、徳川秀忠・家光・家綱らの利用があった。また日光門主等の本陣御用を務めた記録も見られ、千住宿の拠点の一つであったことが知られる。 加えて当寺は、千住の歴史や文化に深くかかわる多くの登録文化財を今に伝えている。木像千手観音立像は千住の地名起源の一つとされ開祖新井政勝の父正次が荒川から引き上げたという伝承を持つ。 ほかに一月と七月の十五・十六日の閻魔詣で知られる寛政元年(1789)の木像閻魔大王坐像、巻菱潭の筆による明治十二年(1879)の扁額「三宮神山」と山門に掲げるはか、千住の商人高橋繁右衛門の冑付具足を伝来している。いずれも足立区登録文化財となっている。 平成十三年十月 足立区教育委員会 |
【千住本陣跡】 (左側) 9:45
北千住駅入口の「千住二丁目交差点」を渡ってすぐ左側にある100円ショップ「シルク」の前に千住宿本陣跡の石柱が立っており、脇の小道を一歩だけ入ると左側のビルの壁に説明板が掲げられている。
説明板の地図を見ると、「シルク」の店から裏道までの細長い敷地が本陣だった。
【千住宿本陣跡とその周辺】
この案内板がある小道は千住二丁目と千住三丁目の境界をなす通りで、北千住駅前通りが全通する昭和初期迄はかなり重要な通りでした。
●千住本陣跡(左一帯)
この案内板の北側一帯が本陣(大名等専用の宿屋)で千住宿ではここ一ヶ所だけでした。敷地は三百六十一坪、建坪百二十坪であったと記録されています。
●明治天皇行在所跡(右奥)
明治九年の明治天皇の東北御巡行の砌。この地に泊られ皇后陛下御一行と送別の宴を当時千住最大の旅篭であった中田屋の別館で催されました。そのためそこを行在所(天皇陛下が一時的に滞在する所)といいました。
●千住見番跡(左奥)
江戸時代から千住宿には遊女(食売女)を置いていい旅篭が五十軒ほどありました。明治にこれが禁止されると千住芸妓組合が成立し、その事務所(見番)がこの地に置かれました。花街が千住柳町に移転させられた大正八年以降も昭和十八年迄営業していたといいます。そのためこの通りを「見番横町」といっていたそうです。
●丁目境の道筋(日光街道のこの十字路が少しずれている)
各丁目毎にその境界は街道に対して出入りをつけていたのですが一〜二丁目、三〜四丁目の境界が拡幅等でわからなくなってしまったのに対し、ここは旧街道に対して二丁目側と三丁目側の正面が違うのがはっきり見られます。
平成九年八月吉日 株式会社 山崎商店 北千住サンロード商店街振興組合Aブロック
【御休み処 千住 街の駅】 (右側) 9:50
「千住二丁目交差点 」を渡って商店街に入ると「宿場町通り」と書かれたアーケードと、街灯には日光道中の各宿場の錦絵が掲げられている。
本陣跡から5分程進んだ右側に小さい御休み処があり、 北千住駅周辺の地図(歩こうあだち)が貰える。
【千住本町公園】 (右側) 9:55
更に5分程進んだ右側に千住本町公園があり、付近の地図と高札場の由来が立っている。
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【千住宿高札場由来〕 私たちの街、千住が宿場となって栄えたのは、慶長二年(1597)人馬引継駅として以来のことだといわれています。 江戸時代の足立は、千住宿を中心に始まった、といっても過言ではありません。 特に寛永二年(1625)東照宮建立によって日光道中初宿として、また江戸四宿の一つとして繁栄し、約四百年を経て、今日に至っております。 このような高札場は、明治の初期まで宿場の掟(きまり)などを掲示して、人々に周知してもらうため、千住宿の入口・出口の所に設置されていました。 これからも私たちの街の歴史・伝統・文化を、そして貴重な史跡・街並み景観を大切にしてゆきたいとおもいます。 昭和六十三年十一月吉日 千住の街並み景観を考える会 あだちまちづくりトラスト助成事業 |
【横山家住宅】 (右側) 10:00
シャッター絵が建ち並ぶ街道を更に5分程進んだ右側に、江戸時代後期に建てられた横山家の建物が風格を感じられる。内部は非公開。
NHKの街道てくてく旅で、彰義隊が切りつけた刀傷が車庫側の柱に今も残っているのを紹介していた。
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宿場町の名残として、伝馬屋敷の面影を今に伝える商家である。伝馬屋敷は、街道に面して間口が広く、奥行きが深い。戸口は、一段下げて造るのが特徴である。それは、お客様をお迎えする心がけの現れという。 敷地は、間口が十三間、奥行きが五十六間で鰻の寝床のように長い。 横山家は、屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く地漉紙(じすきがみ)問屋を営んでいた。 現在の母屋は、江戸時代後期の建物であるが、昭和十一年に改修が行われている。間口が九間、奥行きが十五間あり、大きくてどっしりとした桟瓦葺の二階建である。 広い土間、商家の書院造りと言われる帳場二階の大きな格子窓などに、一種独特の風格を感じる。上野の戦いで、敗退する彰義隊が切りつけた玄関の柱の傷跡や、戦時中に焼夷弾が貫いた屋根など、風雪に耐えてきた百数十年の歴史を語る住居である。 平成二年十月 東京都足立区教育委員会 |
【千住絵馬屋・吉田家】 (左側)
横山家住宅の前に千住絵馬屋の吉田家が建っている。 店の中を覗いたら製作中の絵馬が置かれていた。
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吉田家は、江戸中期より代々絵馬をはじめ地口行灯や凧などを描いてきた際物問屋である。手書きで描く絵馬屋は都内にほとんど見掛けられなくなって、希少な存在となった。 当代の絵馬師は八代目で、先代からの独特の絵柄とその手法を踏襲し、江戸時代からの伝統を守り続けている。縁取りした経木に、胡粉と美しい色どりの泥絵具で描く小絵馬が千住絵馬である。 絵柄は、安産子育、病気平癒、願掛成就、商売繁盛など祈願する神仏によって構図が決まっており、三十数種ある。 これらの代表的絵馬が、現在吉田家に一括保存されている。時代ごとの庶民の祈願を知るうえで貴重な民族資料である。 平成四年三月 東京都足立区教育委員会 |
【かどやの槍かけだんご】 (左側)
絵馬屋のすぐ先にあるだんご屋で、おやつに用に買いたかったが、まだ準備中でこの時間は開いていなかった。
あんなに人々で賑わっていた通りが、横山家の手前から急に静かになってしまった。
【道標】 (右側)
だんご屋の先、信号のある大きめな交差点の右角に道標が立っており、「北へ 旧日光道中」「東へ 旧水戸佐倉道」と刻まれていた。ここから右へ進む道が旧水戸街道である。
左角にはやや古い大きな民家が建っていた。
【安養院】 (左奥) 10:07
交差点を横断して次の路地を左に入ると、安養院の山門に突き当たる。
境内には、昭和二十九年建立の芭蕉句碑(ゆく春や 鳥なき 魚の目は泪)、足立区指定保存樹木の「くろまつ」がある。
【くろまつ】
当院の松は、樹齢500年前後といわれています。慶長3年(1598)この地に中興した頃から、しずかに世のうつりかわりを見つづけてきた古木です。寺と地域の「宝もの」として、みんなで大切にしていきたいものです。
【名倉医院】 (右側) 10:15
安養院のすぐ先に名倉医院の看板が見えるが、日光道中はそのすぐ手前の左斜めの道へ進む。
整形外科の名倉医院は明和年間に開業したと云われる。
土・日・祝日は休診の為、駐車場の門も閉まっており近づけなかったが、横の道に回ると立派な蔵も建っていた。
【石不動尊】 (左側) 10:40
名倉医院手前の左斜めの道を進むと程なく「千住新橋」が現れるが、この下をくぐり橋の左側から土手に登り歩道橋を行くと良い。
対岸に着いたら左折して土手上を歩き、「川田橋信号」の前で下の道に下りる。この信号を右折して北上するのが日光道中である。信号の右角には日蓮宗の大きな善立寺がある。
善立寺から4分程進むと左側に赤い屋根の御堂が見え、石不動尊と書かれていた、また、お堂の前には地蔵と「子育 八彦尊道」と刻まれた石碑も立っていた。
【道標】 (右側) 10:50
石不動尊から10分程進んだ左側の「第九中学校」前で、右後ろから日光道中に交わる道があるが、この道路は東武鉄道の旧線路跡である。
その交差する三角点に道標が立っており、「右
旧日光道中」「左 東武鉄道旧線路跡」と刻まれている。
次の「エル・ソフィア前交差点」右側のポケットパークに「あだちイラストマップ―西武地区-」が掲げられている。
<昼食> 11:10〜11:50
ポケットパークのすぐ先、梅島駅周辺には食事処が沢山あったが時間的に少し早かったので通り越し、「島根交差点」を過ぎた先の西友前にある「和食さと」(右側)でお勧めと言われた本日のランチを頼んだ。しかし、海鮮丼もそばもミニサイズで少し物足りなかったので、デザートも頼んでしまった。合わせて千円程だった。
【将軍家御成橋 御成道松並木跡】 (左側) 11:55
西友のすぐ先、「島根二丁目交差点」左側に二基の石碑が建っていて、一つは「南無妙法蓮華経」と刻まれた石碑とその前立っている木柱には「将軍家御成橋 御成道松並木跡」と書かれている(写真右側の碑)。
もう一つの石碑には「国土安穏寺」と書かれていた(写真左側の碑)。
【国土安穏寺(こくどあんのんじ)】 (左奥) 12:00
二基の石碑の間の道を左に200m程入ると国土安穏寺に着く。寺の門柱に「将軍家御成寺」の表札が掲げられており、本堂前面には立派な御成門(下の写真)が建っている。御成門はくぐることが出来ないが道路から良く見える。
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日蓮宗、天下長久山国土安穏寺と称す。 創建は、応永十七年(1410)、開山は日通聖人、開基は、千葉太郎満胤である。 当初は、長久山妙覚寺と称した。本尊ならびに中山三祖日裕聖人自作の祖師像がある。 江戸時代に、将軍秀忠および家光が、当所巡遊の折の御膳所となり、八世日芸聖人の代宇都宮釣天井予言の功により、寛永元年(1624)、現寺号を賜り、徳川家祈願所位牌安置所となる。したがって、当寺は、葵紋の使用を許された。 寺宝として、日蓮聖人の断簡(だんかん)、将軍家使用の膳わん一式、徳川家光・慶喜、加藤清正等の書軸などがある。 なお、現在の諸堂宇は、鐘楼を除き、昭和以降の造営である。 平成二年十月 東京都足立区教育委員会 |
【成田道】 (右奥)
六月(ろくがつ)一丁目に入った右側に一里塚があったと云うが、碑などは見つけられなかった。
電信柱の町名表示を見ながら一丁目の北端(1−27)、レンタル収納のある路地を右に少し入った所に小さな祠と成田道と刻まれた石碑が立っていた。
【増田橋跡 道標】 (右側) 12:20
次の「竹ノ塚三丁目交差点」手前右角の道路側に道標が立っており、「増田橋跡 北へ旧日光道中」「西へ旧赤山道」と刻まれている。
【浅間神社】 (右側) 13:05
「竹ノ塚三丁目交差点」を渡り、25分程進み左側にアパート群が現れたら、道路標識の右斜め「花畑」に従って右へ弧を描くように進む道が旧日光道中である。
程なく元に道に戻ると、右カーブして国道4号線の高架下をくぐる。県道49号線に合流したら左折し、毛長川に架かる「水神橋」を渡ると埼玉県草加市に入る。
橋から10分程進むと、「谷塚駅入口交差点」手前に浅間神社がある。良くあるようにここの本殿の周りにも金網を張り巡らしてあるので写真を撮りづらい。
【富士浅間神社本殿】 市指定有形文化財(建築物) 昭和51年11月15日指定
富士浅間神社は、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祭る。神社創建年次は明らかでないが、「新編武蔵風土記稿」によると「浅間社 村の産神とす。善福寺持」とある。別当の善福寺は、寺伝によると「寛永四年(1627)の開基にして、この浅間神社は、他の場所に祭られていたのを、明暦年間(1655〜1657)に、現在地に移築した」と伝えられている。
現本殿は、天保十三年(1842)に再建されたことが本殿内にある擬宝珠銘からわかる。
富士山は古くから霊山として山岳信仰の対象となり、中世になると、富士行人と呼ばれる本山派修験の人たちが中心となり、一般民衆を引率して富士登山を行った。江戸時代になると、富士講の開祖と崇められた、角行東覚が出るに及んで、各地域に講が組織され、先達を中心として講中が一団となって登山するようになっていった。
本殿の建物は、間口2.32m、奥行3.60mの流造の一間社で、前面に軒唐破風、千鳥破風を配し、随所に彫刻を配し、贅を尽くしたものである。これは当時この地方に繁栄した、和晒(わざらし)・形付・紺屋等のゆかた染関連の業者と地元が協力し、この地の富士講が面目にかけて造営したものと思われる。
この本殿が造営された天保(1830〜1843)ごろは、構造材に波紋などを彫刻するだけでなく、その間に花鳥風月や日本の神話、中国の故事等を題材とした写実的な彫刻物で装飾することが盛んに行われた。内部は簡素であるが、外観を中心にした、いわゆる見せる社殿としての傾向が強くなった。この建物もその例外ではない。
現在では、このような豊富な彫刻を配した神社建造物は少なく、特にこの地域での社寺建築の装飾を研究する上からも重要なものである。
平成二十二年三月 草加市教育委員会
【ひあぶり地蔵尊】 (右側) 13:22
浅間神社から10分程行った、「吉町五丁目交差点」右角に祠と石碑が立っている。
石碑には像が刻まれ、祠の前にひあぶり地蔵尊の標石が立っているのみで説明板等はなかった。
【今様草加宿碑】 13:32
ひあぶり地蔵尊から10分程行くとY字路が現れ、その三角点に茶色い今様草加宿と書かれた標柱が立っている。日光道中はここから県道49号線と別れ左の道に進む。
標柱の右後ろに木柱が立っていて、前面には「←草加市役所 地蔵堂」、裏面には「草加宿起点」、側面には「草加宿舟形せんべいコース」と刻まれていた。
今様・草加宿とは、この先宿場を越えた札場河岸公園内に説明板があったので、ここに載せる。
日光街道第二の宿場として発展してきた草加は、かつて大勢の人々が行き交う、にぎわいに満ちたまちでした。現在の草加の礎である草加宿と、日光街道の名所であった草加松原から綾瀬川左岸広場までを一つの都市軸として捉え、市のシンボルゾーンとして再生していく「今様・草加宿事業」が進められています。
草加市が、これからの「草加のまちを考える」取り組みとして始めたのが「今様・草加宿」事業です。事業は、市民の皆さんと市が力を合わせて、この地域を歴史や文化、景観資源を活かし、回遊性をもった魅力ある都市軸として、にぎわいのあったかつての「草加宿」のようなまちづくりを行うことにより、草加市全体の活性化を図っていこうとするものです。
平成16年6月には内閣府の地域再生計画の認定を受け、平成27年度を目標として、ハードとソフトの両面からまちづくりを推進しています。
なお、今様(いまよう)とは、「今風の、現代視点での」という意味で、「ゆっくり」「ゆったり」「ゆたかに」というスローライフの視点を盛り込みながら現代の草加宿を再生していこうというものです。
【草加宿】 日本橋から4里16丁(17.5Km)、鉢石へ31里23丁20間
当時の日光道中の千住と越谷の間は沼地が多く、大きく迂回して通らなければなりませんでした。そこで、宿篠葉村(現・松江)の大川図書という人物が村民と共に、茅野を開き、沼を埋め立て、それまで大きく東に迂回していた奥州街道をまっすぐにする新道を開いたといわれています。1606年(慶長11)のことです。この時、沼地の造成に沢山の草が用いられたことから「草加」と呼ばれるようになりました。その後、直線
開宿当時の草加宿は、戸数84戸、旅籠屋(旅館)が5〜6軒、他の店舗は豆腐屋、塩・油屋、湯屋(銭湯)、髪結床(床屋)、団子屋、餅屋が1軒ずつ軒を並べる程度の小規模な宿場町でした。それから約150年後、1843年(天保14)の調査によると戸数723戸、人口3,619人と南北12町(1.3Km)にわたって家々が軒を接し、本陣・脇本陣各1軒、旅籠屋は67軒まで増加しました。城下町を除くと、日光道中では千住、越谷、幸手に次ぐ規模にまで賑いをみせるようになりました。
札場河岸公園にあった説明板より
【大和屋跡・地蔵堂】 (左側) 13:37
Y字路から左に200m進むと草加市役所があり、その角に地蔵堂が建っている。
市役所は幕末から明治にかけての豪商だった大和屋の跡。大和屋は浅古半兵衛といい、地蔵堂は浅古家の屋敷内(角)にあったもの。
市役所のすぐ先には格子窓の古民家があるぐらいで、宿場町の雰囲気は殆んどない。
【道標】 (右側) 13:42
草加駅入口の交差点右角に建つ「埼玉りそな銀行」前の電信柱の後ろ側生垣に道標が立っていて、正面に「日光街道」、側面に「葛西道」と刻まれていた。
その先右側に商事会社だが宿場町の雰囲気を出した建物があった。その他にも昔の面影に近づける様に凝らした建物が数軒見受けられたが、どうやら草加市が補助金を出して宿場町の雰囲気を取り戻そうとしているようだ。
【草加宿本陣(大川家)跡】 (左側) 13:50
草加駅入口の交差点を渡って7分ほど進んだ、一階に「うすや青果店」のある大きなマンションが草加宿本陣跡である。道路側に面した案内板に表題の文字が書かれていたので分かった。
写真で、左側のマンションが本陣跡。右側の黄色い幌(庇屋根)の前に建っている人の背より高い茶色い石柱が下記の道標。
このマンションの裏側にある草加小学校は、大川図書の屋敷跡である。
【道標】 (右側)
本陣跡の向かい側に背の高い道標が鉄枠で保護された状態で建っていて、正面に「越ヶ谷町へ壹里三拾三町三拾間三尺/千住町へ弐里拾七町五拾三間三尺」、側面に「距谷塚村管轄境貮拾四町貮間三尺」、裏面に「明治四拾四年七月建設」と刻まれている。
【おせん茶屋公園】 (右側) 14:00
道標の次の十字路右角にあるおせん茶屋公園は、伝説の「おせんさん」にちなんで名付けられた公園で、前面に茶屋風と云われる建物があり、子供たちが大勢遊んでいた。建物の前には日光街道と刻まれた道標が、また、公園内には「おせん茶屋」と「草加せんべい」の説明板が立っており、トイレもある。
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【おせん茶屋】
「おせん茶屋」は、旧日光街道に面し、かつての宿場町の雰囲気を漂わせた茶屋風の造りとなっています。「おせん茶屋」という名前は、草加せんべいの伝説上の創始者といわれる「おせんさん」にちなみます。1988年(昭和63)、建設省(現国土交通省)主催の第3回手づくり郷土賞「小さなふれあい広場30選」に選ばれています。 現在、市内にあるせんべいの製作所や販売所は60軒以上に及び、名実とともに草加市を代表する名物となっています。製造工程は機械化されつつありますが、昔ながらの天日干しや手焼きも行われています。「草加せんべい」は円形の醤油味の堅焼きで、「草加せんべい醤油のかおり」は、かおり風景100選(環境省)に選ばれています。 |
【東福寺】 (左奥) 14:05〜14:20
おせん茶屋公園のすぐ先を左に入る東福寺は大川 図書が創建した寺で、図書の墓もある。また、山門・鐘楼・本堂内の彫刻欄間は市の有形文化財となっている。
鐘楼の竜と獅子の彫刻は立派だった。
東福寺は、草加宿の祖・大川図書が創建した寺です。正式には「松寿山不動院東福寺」といいます。1606年(慶長11)に大川図書によって創建され、僧賢宥(けんう)が開山したといわれています。本堂は明治年間にわら葺から瓦葺になり、1993年(平成5)には大規模な改修が行われました。境内の墓地には大川図書の墓があります。山門、本堂外陣欄間、鐘楼は市指定文化財で、「草加八景」の1つでもあります。
【大川図書】
大川図書は小田原の北条氏に仕え、土本氏を名乗っていたといいます。1590年(天正18)小田原の落城によって浪人となり、岩槻城主太田備中守のもとで年月を送っていたようです。そして、徳川氏の天下統一の時、谷塚村に居住することになったと言われています。その後、新しい土地を求めて現・松江近辺に移り住むようになり、草加宿や東福寺の建設に尽力することになりました。
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【山門】 市指定有形文化財(昭和57年2月22日指定) この山門は、表の柱間十尺(約3m)、妻八尺五寸(約2.5m)の桟瓦葺き四脚門である。 四脚門は四足門ともいわれ、本柱(円形)の前後に控柱(角柱)が四本立つことから四脚門といわれる。 本柱は、礎石上に立ち、柱頭は冠木を架し、控柱は、粽(ちまき)を付して礎盤上に立っている。 江戸時代の木割書によって造営されているが、一部手法は桃山頃になった木割書「匠明」と規を一つにする。 妻虹梁(こうりょう)の下端を異常にくりあげて、中央の三つ斗を安定した組物にした点など、細部については、工匠の熟練した技術がうかがえる。 各部の絵様彫刻は温和で古様であり、冠木上の彫刻は、宗祖に由来した見事な彫刻を配し、元治二年(1865)銘を持ち、彫工後藤常重の非凡な刀痕が見られ、よくまとまった四脚門の遺構として永く保存したい。 平成十九年三月 草加市教育委員会 |
【本堂内外陣境彫刻欄間】 市指定有形文化財(昭和57年2月22日指定)
東福寺本堂の内外陣境には江戸の名工・島村円哲作の三枚からなる見事な彫刻欄間がある。
中央は104cmに173cmもある大きな彫刻で仏教の守護神である竜の構図である。
技法はすぐれ、波頭を蹴る竜は迫力がある。
左右はやや小さく、中国の二十四孝の一部である。象と耕作しているのは大舜(たいしゅん)である。大舜の親に尽す孝養に、象きたりて耕作をたすけ、鳥まで草をとりて耕作の助けをしている構図である。
一方ひざまずいて天女を見あげるのは薫永(とうえい)である。薫永は家まずしくとも、親に孝養の限りをつくし、親の死におよび身を売って葬礼をいとなんだ。
その至誠が天に通じ、天女きたりて、薫永の借財をけしてもあまりある織物を作りあげ、昇天する構図である。
薫永・天女ともに別れを惜しむ姿が、いきいきと彫られている。
平成十九年三月 草加市教育委員会
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【鐘楼】 市指定有形文化財(昭和55年3月22日指定) この鐘楼は、石積みの基壇上に建ち、柱の間2.72mの方形である。 絵様彫刻は立川流と基本とし、彫刻は江戸に近い関係で、当時優秀な技法が見られる。基壇に「文久二年七月再造立」(1862)の刻銘があり、時代が判明する。この建物は、当時の優秀な工匠によって造営されたと推定され、数少ない本市の文化財として貴重な寺院建築物といえる。 平成十九年三月 草加市教育委員会 |
<土産>
東福寺入口斜め前にある「米重せんべい」店でお土産として草加せんべいを購入した。手焼きは機械焼きより高いがそちらを求めた。
小さな店で、「ちい散歩」の地井武男さんの色紙が飾られていたが、この店を訪れたのかは不明。
【神明神社】 (左側) 14:30
やがて日光道中は右カーブして再び県道49号線に合流するが、カーブし始めるところに神明神社がある。
境内入口に「高低測量几号」の礎石がある。
神明神社の祭神は、天照大神で、そのほか御神霊石も祀られている。
当社は、与左衛門新田の名主吉十郎の祖先が、元和元年(1615)に、宅地内に小社を建立したことに始まるという。それから約百年後の正徳三年(1713)に、この地へ移され、草加宿の総鎮守となった。この頃から、五と十の付く日に市が生れ、大変な賑をみせたと言う。このことから、この神社の別名を「市神・神明宮」と呼ばれている。
安永六年(1777)に、草加宿の一丁目から三丁目までが、二丁目稲荷社を八坂神社と改称したことから鎮守の分離が行われた。
昭和六十一年三月 草加市教育委員会
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【神明宮鳥居沓石(礎石)の高低測量几号】 石造物に刻まれた「(木の上が飛び出していない形・左の写真参照)」の記号は明治九(1876)年、内務省地理寮がイギリスの測量技師の指導のもと、同年八月から一年間かけて東京・塩釜間の水準測量を実施したとき彫られたものです。記号は「高低測量几(き)号」といい、現在の水準点にあたります。 この石造物は神明宮のかつての鳥居の沓石(礎石)で、当時、記号を表示する標石には主に既存の石造物を利用していました。この水準点の標高は、4.5171mでした。 その後、明治十七年に測量部門は、ドイツ方式の陸軍省参謀本部測量局に吸収され、内務省の測量結果は使われませんでした。 しかし、このような標石の存在は測量史上の貴重な歴史資料といえます。 |
【おせん公園】 (左側)
神明神社前から右カーブした日光道中が県道49号線に合流した「神明町交差点」の右側の広場に河合曾良像が建っている(左下の写真)。
その左側のおせん公園には、草加せんべい発祥の地と刻まれた大きな石碑がある(右下の写真)。
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【草加せんべい発祥の地碑】 草加せんべいの本家本元を全国にPRしようと、草加煎餅協同組合と草加地区手焼煎餅協同組合の2つのせんべい組合が、市民から募金をつのって1992年(平成4)11月に建立されました。左にせんべいに見立てた円形の花崗岩(高さ3.3m)、右にせんべいを焼く箸に見立てた御影石(高さ5.7m)が置かれています。 【草加せんべいのルーツ】 草加せんべいのルーツはいくつかの伝説がありますが、その代表的なものは、日光街道草加松原に旅人相手の茶屋があり、おせんさんのつくる団子が評判だったということによります。おせんさんは、団子が売れ残ると川に捨てていましたが、ある日それを見た武者修行の侍が、「団子を捨てるとはもったいない、その団子をつぶして天日で乾かして焼餅として売っては」と教えました。おせんさんが早速売りだしたところ大評判になり、日光街道の名物になったと言われています。 |
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【札場河岸(ふだばがし)公園】 (右側) 14:35〜14:50
「神明町交差点」で横断歩道を渡ってから左折し、伝右川に架かる六丁目橋を渡った所に建っている望楼への小道に入ると綾瀬川に接する札場河岸公園入口になる。
園内には芭蕉像、望楼の他、復元した札場河岸(下の写真)、甚左衛門堰、正岡子規の句碑、お休み処などがある。もちろんトイレもある。
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【札場河岸公園】 河岸とは川を利用した舟運に使われていた船から荷駄を積み卸しする場所のことをいいます。札場河岸はもともと甚左衛門河岸といい、野口甚左衛門が特定な者に請け負わせて運営にあたる私河岸でした。野口甚左衛門の屋号が「札場」であり、安政大地震により甚左衛門河岸脇へ移転したことから、やがて札場河岸とよばれるようになったものです。文政年間(1818〜1830)の取り決めでは、@運賃収入の多少に関わらず1か年に金12両を甚左衛門方に納入すること、A船の破損は請負人が修理すること、Bただし河岸から谷古宇土橋までの堤防約70間(約126m)は、甚左衛門方で修復することと定められていました。また、この河岸は草加宿や赤山領(現・新田地区の一部)の年貢米を積み出し、そのほかさまざまな商品の船積み、荷揚げをしていました。 綾瀬川は、江戸時代の中期から、草加地区と江戸を結ぶ大切な運河として多くの船が行き交い、草加、越谷、粕壁(春日部)など流域各所に河岸が設置され、穀物等の集散地としてまちが発展しました。舟運は、明治、大正に至るまで発展を続けましたが、鉄道の開通など陸上交通が急速に発展したことで衰退し、昭和30年代には姿を消しました。
札場河岸は、綾瀬川の河川激甚災害対策特別緊急事業の終了を記念して、平成元年度から平成3年度にかけて整備されました。平成4年度「手づくり郷土賞」を受賞しています。船着場の石段を復元して当時の雰囲気を再現しています。 |
【松尾芭蕉像】
札場河岸公園入口に建っており、顔は望楼の方角(江戸)を向いている。
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1689年(元禄2)3月27日、46歳の松尾芭蕉は、門人の曽良を伴い、奥州に向けて江戸深川を旅立ちました。深川から千住宿まで舟で行き、そこから見送りの人々に別れを告げて歩み始めたのでした。 この旅は、草加から、日光、白河の関から松島、平泉、象潟、出雲崎、金沢、敦賀と、東北・北陸の名所旧跡を巡り、美濃国大垣に至る600里(2,400Km)、150日間の壮大なものでした。この旅を叙したものが、日本三大古典に数えられる『おくのほそ道』です。 月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口をとらへて老をむかふる者は、日々旅にして、旅を栖とす・・・・ あまりにも有名なその書き出しは、「予もいづれの年よりか、片雲の風に誘われて漂泊の思いやまず・・・」と続き、旅は日光道中大の宿駅の叙述に進みます。 もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう早加(草加)といふ宿にたどり暑きにけり 芭蕉は、肩に掛かる荷物の重さに苦しみながら2里8町(8.8Km)を歩き、草加にたどり着きました。前途多難なこの旅の思いを吐露したのげ「草加の条」です。『おくのほそ道』の旅は、この後草加から東北へと拡がっていくことになります。
この松尾芭蕉像は、『おくのほそ道』旅立ち300年を記念して製作されたブロンズ像です。像の製作者は、彫刻家・麦倉忠彦氏。像は友人や門弟たちの残る江戸への名残りを惜しむかのように、見返りの旅姿をしています。台座側面には、芭蕉研究者の第一人者・尾形仂氏による芭蕉と『おくのほそ道』に関する一文が刻まれています。 ●松尾芭蕉〔1644(正保元)〜1694(元禄7)〕 江戸時代の俳人。伊賀上野の城東、赤坂で生れた。父は松尾与左衛門。幼名は金作。のち藤七郎、忠右衛門、甚七郎と称した。俳名は宗房(そうぼう)、桃青(とうせい)を経て、芭蕉を名乗る。 |
【望楼】
芭蕉像の傍に建ち、自由に内部に入ることが出来る。上に登るとこれから向う松並木や矢立橋等を一望できる。
望楼とは、遠くを見渡すための櫓(やぐら)のことをいいます。常に見張りを置いてまちなかの火事発生の発見に努めるための施設でした。
この望楼は、石垣の上に埼玉県産のスギ、ヒノキを使った木造の五角形の建築物で、高さは11.1mあり、内部は螺旋階段になっています。午前9時から午後5時までの間は、自由に内部に入ることができ、草加市を一望することができます。
【子規歌碑】
望楼の隣に御休み処があり、その後ろ側に子規の歌碑が建っている。
梅を見て 野を見て行きぬ 草加まで 子規
【子規と草加】
俳人、正岡子規が草加を訪れたのは、明治二十七年の三月、高浜虚子とともに郊外に梅花を探る吟行の途次である。
このときの紀行文である「発句を拾ふの記」によれば、上野の根岸から草加まで歩き、茶屋に休息を求め、昼食をとり、再び去った。そのわずかな有縁を証す詠句は、文芸の街を傍称する草加にとって貴重な作品である。
ここにその句を刻し、子規を顕彰するものである。
平成五年三月二十一日 正岡子規句碑建立委員会建之
【甚左衛門堰】 埼玉県指定文化財 平成11年3月19日指定
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明治二十七年から昭和五十八年までの約九十年間使用された二連アーチ型の煉瓦造水門。煉瓦は、横黒煉瓦(鼻黒・両面焼煉瓦ともいう。)を使用している。煉瓦の寸法は、約21cm×10cm×6cm。煉瓦の積み方は段ごとに長平面と小口面が交互に現れる積み方で、「オランダ積」あるいは「イギリス積」と呼ばれる技法を用いている。 煉瓦造水門『甚左衛門堰』は、古いタイプの横黒煉瓦を使用しており、建設年代から見てもこの種の煉瓦を使った最後期を代表する遺構である。また、煉瓦で出来た美しい水門は、周囲の景観に溶け込み、デザイン的にも優れたものであり、建設当初の姿を保ち、保存状態が極めて良く、農業土木技術史・窯業技術史上でも貴重な建造物である。 平成十四年三月 草加市教育委員会 |
【草加松原遊歩道】 14:50〜15:12(北端)
札場河岸公園に続き、望楼からは綾瀬川に沿って1.5Kmに及ぶ草加松原遊歩道となる。ここの松の多くは巨木で、川に真横に突きだしている松などがあり壮観で、ここが日本の道百選に選ばれたのが当然と思えるほどきもちがいい道である。
途中県道を横断する所には優雅な歩道橋が架けられており、手前から矢立橋、百代橋と名づけられている。百代橋を下りると芭蕉文学碑がある。
下記写真の左から、矢立橋、百代橋、百代橋上り口から振り返って見た松並木である。
【芭蕉と曽良の絵タイル】 (左側) 15:18
草加松原の遊歩道が終わってもそのまま直進し、「東京外環自動車道」の高架下トンネンルを抜けると、左側の壁に芭蕉と曽良が旅している大きな絵タイルが3枚現われる。
【草加と「おくのほそ道」】
俳聖・松尾芭蕉は紀行文「おくのほそ道」の中で、元禄二年三月二十七日、江戸深川を出立し、「その日やうやう(ようよう)早(草)加といふ宿にたどり着きにけり」と記しています。
この絵タイルは、その「おくのほそ道」の旅を想像して描いたものです。
平成八年三月吉日
【蒲生一里塚】 (右側) 15:27
絵タイルから綾瀬川に沿って更に9分進んだ所に架かる蒲生大橋から、対岸にムクエノキの大木が見えるところ、橋を渡って次の細道にあるのが、埼玉県唯一の現存する蒲生一里塚である。
現在は堤防の方が高くなり、塚は逆に低くなってしまっているので、巨木の他は一里塚らしくない。
【蒲生大橋】
「日光道中分間延絵図(文化三年1806年完成)」によると、この橋は、大橋土橋と記されており、長さ十二間四尺、幅二間一尺、綾瀬川に架けられた土橋で、御普請場。
足立郡と埼玉郡の境と解説されている。
昭和五一年八月に永久橋に架替された時の橋歴書によると、大正七年六月、はじめて木橋として架橋され、その後昭和四〇年及び四八年補修整備や重量制限(二トン)を施行してきたが、交通量の増大に伴い上記に永久橋として架替えた。
草加市と越谷市の行政界が橋の中心を横断する。
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【蒲生の一里塚】 埼玉県指定史跡(昭和60年3月5日指定) 一里塚は、江戸時代街道沿いに一里ごとに設置された塚で、塚の上にエノキ・マツ・スギなどを植えて、道程の目標や人馬駄賃の計量の目安に、また旅人の休息の場などに用いられたものである。 文化年間(1804〜1818)幕府が編さんした『五街道分間延絵図』には、綾瀬川と出羽掘が合流する地点に、日光街道をはさんで二つの小山が描かれ、愛宕社と石地蔵の文字が記されていて、「蒲生の一里塚」が街道の東西に一基づつ設けられていたことが分かる。 現在は、高さは二メートル、東西幅五・七メートル、南北七・八メートルの東側の一基だけが、絵図に描かれた位置に残っている。 また、塚の上にはムクエノキの古木・太さ二・五メートルのケヤキのほか、マツ・イチョウが生い茂っている。 多くの塚が交通機関の発達や道路の拡幅などによって姿を消した中にあって、『蒲生の一里塚』は埼玉県内日光街道筋に現存する唯一の一里塚である。 昭和六十一年十月 埼玉県教育委員会 越谷市教育委員会 植竹誠一郎 |
【不動明王と馬頭観音堂】 (右側) 15:38
日光道中は蒲生大橋を渡ってすぐ左折する川沿いの道である。蒲生一里塚から8分程進んだT字路に祠が建っていて中に不動明王と馬頭観音が祀られている。不動明王の下は道標になっているが、すばらしい字で読み取れない。間違えていることを覚悟して言うと「是よ里大さかミち」と読めた。
日光街道のこの道は現在、蒲生茶屋通りという。
【ぎょうだいさま】 (左側) 15:43
不動明王からすぐ先に草履が下がっている祠が建っている。中には不思議な形の石の塔が立っている。
何の説明もないので分からなかったが、越谷市のHPで確認出来た。
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この地域の人はこれを「ぎょうだいさま」とよび、わしの神様だと言っている。 これが出来たのは、宝暦七年(1757)のこと。これには、「砂利道供養」と刻まれていて、この年に日光街道の大修理があり、修理の完成を祈念して蒲生の人々が建てたものとのこと。そして、村人や旅人の道中安全を願って「わらじ」を供えてお祈りしたと云う。 |
【清蔵院】 (右側) 15:45
蒲生茶屋通りが県道49号線合流した「蒲生本町交差点」に清蔵院があり、江戸時代初期の建造物である山門には面白い伝説がある。
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【清蔵院の山門】 越谷市指定有形文化財(歴史資料) 昭和59年9月27日指定 この山門は、屋根など部分的に改造されているが、その棟札により寛永十五年(1638)関西の工匠による建立であるのが確認される。ことに欄間に掲げられている龍の彫刻はじめ虹梁の彫刻なども江戸初期の素朴な様式をうかがわせている。 なお、この山門の龍は巷間の伝説では左甚五郎の作といわれ、夜な夜な山門を脱けだして畑を荒らしたことから、これを金網で囲ったという。おそらくこの山門の建立者は、日光東照宮造営に動員された工匠の一人で、日光の往返に世話になった因縁から、東照宮竣工(寛永十三年)後再び、国元から蒲生に来てこの山門を建立したものであろう。 越谷では数少ない江戸時代初期の建造物として、また日光東照宮造営にまつわる伝説を残す歴史的資料として貴重なものである。 平成十五年一月 越谷市教育委員会 |
県道49号線に合流して550m(10分)で蒲生駅入口交差点。1.5Km(26分)で新越谷駅入口交差点になるが、この間は何も見るものはない。
2回目の旅終了(16:10) 新越谷駅入口交差点。
新越谷駅より東武伊勢崎線
、押上から都営地下鉄線・京浜急行に乗り換えて横浜へ。
本日の記録 : 街道のみの距離は、14.5Km(千住二丁目交差点〜新越谷駅入口交差点)
日本橋から五里三十三町(23.2Km)
寄り道を含めた実歩行距離は、18.5Km(北千住駅〜新越谷駅) 累計30.7Km
6時間35分 29,000歩。