教来石宿・ 蔦木宿 (教来石バス停 → 青柳駅) <旧甲州街道14回目>

 

 2008年11月22日(土) 快晴

 甲州道中で良く利用した「はまかいじ号」も今日で一旦乗り収めとなる。横浜から韮崎駅迄行き、山梨交通のバスに乗換えて終点の「教来石バス停」で下車。前回終了した「教来石(きょうらいし)交差点」を11:00スタート。

 

(注:解説で街道の左側、右側とは下諏訪に向っての左右です)

「台ヶ原」 ← 「目次」 → 「金沢・上諏訪・下諏訪宿」

 


【教来石宿】 日本橋から四十四里 十七町四十七間(174.7Km)、下諏訪へ八里 三十五町ニ十五間(35.3Km)  

 天保14年(1843)で人口 684名、総家数144軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋7軒。


【教来石】 (左奥) 11:14 

 旧甲州街道を台ヶ原宿から歩いてきた場合「下教来石交差点」を右折して国道20号線を北に進むが、教来石を見に行くには、この交差点を右折してすぐ左に入る。

 右側に並ぶ墓地の前を進み、墓地が終わる所で右後方から来る道と合流した右側西角の一段高い所にタラの木が植えてある畑がある。その畑の中に上に道祖神が5基乗っている大きな石が座っているのが教来石。

 タラは、棘のある木で、新芽は天婦羅にすると美味しいタラの芽と呼ばれものである。

 この場所は軽い上り坂の為、下から行くと一段高い所にある石は見えない。案内板がない為、私達も通り越してしまい、しばらく行っても見つからないのであきらめかけて戻ってきた時に見つけた位である。

 目印は石の後ろに建っている牛舎(写真参照)。その牛舎手前で右後ろから合流する道とぶつかった畑の上にある。

 私達は探し歩いたのでバス停から14分も掛かってしまったが、実際は国道から約350m、5分程度である。


【 明治天皇御小休所址】 (左側) 11:20 

 「下教来石交差点」に戻り、国道を北に進むとすぐ、一段高い空き地に石碑が建っている。ここは本陣だった川西家の跡である。


【諏訪神社】 (左側) 11:24 

 「明治天皇御小休碑」からすぐ先の歩道橋手前左側に駐在所が、右側に郵便局があるが、その郵便局の横を右に入って行くのが旧甲州街道である。旧道に入ると右下に田園風景が広がり、紅葉した七里岩とその奥に雪化粧した八ヶ岳連峰の一部が望める美しい場所に出るとすぐ諏訪神社に着く。

 本殿は諏訪出身の名工が建てたもので、彫刻が素晴らしい。但し、本殿には全体に鳥除けの網が張り巡らされているため写真を撮ることは難しい。

〔諏訪神社由緒〕

 元和3年(1617)御朱印山より現在地に社殿造営鎮座して、産土神とした。

 天保3年(1832)信州諏訪の宮大工棟梁立川和四郎に依って造営された。

 本殿はケヤキ造りの総彫刻、屋根は鱗葺の覆屋で精巧を極めている(昭和43年12月県指定文化財)。

 拝殿、石華表など総て改新築を了し面一新した。

 境内末社 道祖神社外19社

〔諏訪神社本殿〕

   付棟札1枚 本社拝殿再建諸色勘定帳

   昭和四十三年十二月十二日 県指定

 諏訪神社の創建及び沿革について詳しいことは明らかでないが、古来から教来石村の産土神として崇敬を受けてきた。

 現在の本殿は、天保十五年(1844)十二月十九日再建したもので、棟梁は諏訪出身の名工立川和四郎富昌である。

 本殿は一間社流造で、屋根は柿葺、正面中央に軒唐破風付の向拝をとりつける。

 建築の特色は、随所に施された彫刻装飾にある。身舎壁面の「猩々と酒壺」背面の「唐獅子」小脇羽目の「昇竜と降竜」蟇股の「竹に雀」脇障子の「手長と足長」の浮彫、向拝正面に中国の故事「ひょうたんから駒」の丸彫など、豊富な意匠、奇抜な図柄、加えて精巧な彫刻は、全体の均衡を失わず、よく「立川流」の作風を伝えており、富昌の傑作品の一つである。江戸時代後期の社寺建築の動向をふまえつつも、異彩を放つ貴重な遺構である。

 なお、付加指定の棟札に「維持天保十五歳次(中略)甲辰冬十二月十有九日(以下略)」とあり、また本社拝殿再建諸色勘定帳には「御本社棟梁 立川和四郎殿 本社分 一金 四拾二両・米 弐拾八俵・拝殿分 一金 拾七両・米 拾七俵(以下略)」とある。

     山梨県教育委員会


【明治天皇御田植御通覧之址】 (左側) 11:30 

 諏訪神社のすぐ先の土手に碑が建っている。

 明治十三年六月本縣ニ 御巡幸遊バサル同月二十三日本村御通輦ノ際 親シク耕作插秧ノ状ヲミノナハセシ處ナリ


【明治天皇の御膳水跡】 (左側) 11:40 

 「御田植御通覧之址」碑から坂を下って「加久保沢橋」を渡り、更に下りきった道端に案内板が建っている。

【御膳水跡】

 明治十三年、明治天皇が、ご巡幸の際に この細入沢の湧水をお飲みになり、お誉めに与りました。

     平成十年一月十五日 白州町教育委員会


【教慶寺の地蔵菩薩】 (左側) 11:46 

 「教慶寺交差点」で国道に合流した所の斜め向かいにあり、国道に面して地蔵菩薩が祀られている。

【由緒】

 今からおよそ740年前(1247)中国から帰化した名僧蘭渓禅師が、村内に火災悪病、強盗などの凶事が相次ぎ、村人が難儀していたので、この災厄を取り除こうと大きな石地蔵を鎮座して、ひたすら祈願して村内に平和をよみがえらせたと言う。又最近ではいくつかの交通事故を救ってくれたと言う。霊験あらたかな地蔵様である。

     白州町報恩会

 左の写真では天気が良すぎてコントラストが強く、暗い所の地蔵が分かりにくいが、左側の一段高い所に石仏と並んで座っている。

 地蔵菩薩の先すぐ「歓迎・清流と緑のふるさと白州」の立看板が立っている所を右に入る(写真で妻が向かっている道)と上教来石集落になる。


【山口関所跡】 (右側) 【西番所跡】 (左側) 11:57 

 上教来石の町並を通り、大目沢橋を渡ると下り坂から田圃の中の直線道路が見えるが、その直線に入る右側に北杜市の看板が立っており、看板のすぐ先右側に山口関跡の碑が、左側に西番所跡の碑が建っている。

〔山口関所跡〕町指定文化財(史跡)昭和48年12月指定 

 甲州二十四ヶ所の口留番所の一つで、信州口を見張った国境の口留番所である。

 ここがいつ頃から使用されたかは不明であるが、天文十年(1546)の武田信玄の伊那進攻の際設けられたという伝承がある。「甲斐国志(1814)」によれば、番士は二名で近隣の下番の者二名程を使っていた。当時の番士は二宮勘右衛門・名取久吉で名取氏は土着の番士であったが、二宮氏は宝永二年(1705)に本栖の口留番所から移ってきた。

 この番所の記録に残る大きな出来事に、天保七年(1836)郡内に端を発した甲州騒動の暴徒がこの地に押し寄せた折、防がずして門扉を開いた判断をとがめられ、番士が「扶持召し上げられ」の処分を受けたことである。番士のうち二宮氏は再び職に戻り、明治二年番所が廃せられるまで勤め、明治六年に設けられた台ヶ原屯所の初代屯所長に起用されている。

 今は蔵一つを残し地割にわずかなおもかげを留めるのみであるが、番所で使用した袖がらみ、刺股、六尺棒などの道具が荒田の伏見宅に残り、門扉一枚が山口の名取宅に保存されている。

【西番所跡】

 天保七年八月百姓一揆時に開門、その責任をとり名取慶助は若尾に改姓、明治四年廃藩により廃止。

     1992年若尾法昭


【山口素堂句碑 と出生ノ地碑】 (左側) 12:08〜12:17 

 関所跡を過ぎると国道が接近してきて、「新国界橋」南詰で合流する。

 合流した正面にコンビニの「セブンイレブン」があり、そのコンビニ店の敷地内右側に有名な山口素堂の「目には青葉山ほととぎす 初かつお」の大きな句碑山口素堂先生出生ノ地の碑が建っている。

 山口素堂の生家は上教来石村で、山口関所の少し手前(南側)にあったようだ。大目沢橋を渡る手前、国道寄りに文学碑が建っているとのこと。

 この先しばらくは食堂等が無いので、昼時の人はここのコンビニで弁当を購入することを勧める。私達もトイレを借り、昼食用のサンドイッチとおにぎりを購入。

 このコンビニ店の脇から旧道に入るのだが、途中、動物よけの高電圧ネットを通過する為、多くのウォーカーは新国界橋を渡り国道を利用して下蔦木宿へ行っている。

 しかし旧道にこだわる私は、恐れることなく、勅使河原さんも通った旧道を行くことにした。

【写真説明】

 手前の道は国道で、右に「新国界橋」がある。左奥が「セブンイレブン」。真ん中の電柱の後ろに「山口素堂出生ノ地」碑が建っている。

 旧道は矢印の通り、コンビニとサンコーライン鰍ニの間を入る。


【旧国界橋】 12:43 

 旧道はコンビニ店とサンコーライン株式会社との間の道で、両側に会社のトラックが並ぶ所を入って行く。会社の敷地内と思われる道だが遠慮せずに進むと広い場所に出る。そこから左奥に林道が見えるのでそちらに行き、少し進むと林が開けて低い欄干の旧国界橋が現れる。国界橋を渡ると長野県に入り、韮崎から釜無川沿いに続いていた七里岩も終わりとなる。

 私達は、林道に入ったすぐ右側の広場に大きな石が沢山転がっていたので、その石に座って昼食をとった。(12:20〜12:40)

 旧国界橋を渡ると、突然動物よけのネットが行く手をふさぐ。橋の方からは見えないが反対側に通行止めの立札があり、このネットのナイロンには細い電線が編み込まれて7000Vの電流が流れているとある。良く確認して電線がない黒い部分をつかんでネットの開閉をすれば感電しないが、閉め忘れには十分注意。

 私達は、事前に調べて開け方が分かっていたから問題なかったが、旧国界橋から来た人には注意書きが見えないので、知らないで触れた人は大きなショックを受けることだろう。旧道を歩く人も多いので旧国界橋側にも注意書きを掲げてもらいたい。電圧は高いが電流が低いので命に別状がないが、かなりの衝撃らしい。電気ショックが怖い人は新国界橋を渡ればすぐ旧国界橋の出口の「下蔦木交差点」に合流するので、そちらを選択したほうが良いだろう。

 前々回通った「清哲町折居」の徳島堰に沿って張っていた高電圧フェンスには、普段一般の人が通らない場所にも安全な扉と案内板があったが、ここは旧甲州街道なのでなおさら人間に安全なゲートを設けてもらいたいものだ。

 写真は、「下蔦木交差点」側から写したもので、後ろの橋が旧国界橋。

 このネットに高電圧が掛っている。

 通行止め立札横の青いポールの左側に立っている黒白の棒の黒い部分を掴めば感電しない。

通行止

 有害獣進入防止のため通行止めとします。

 さわると、7000ボルトの電流が流れます。黒い棒を外して、出入りして元に戻して下さい。(黒い部分を持ってください)

 ご迷惑をお掛けしますがよろしくお願いします。

     下蔦木区長 許可者:富士見町

 高電圧フェンスを抜けるとすぐ国道の「下蔦木交差点」に出るので左折する。


【日蓮上人の高座石】 (右側) 12:48 

 「下蔦木交差点」から125m国道を行き、右へ登る道に入る。二股道の真ん中には「大型車進入禁止」の交通標識が立っている。ここから下蔦木集落に入る。

 急な登りに入るとすぐ日蓮上人の高座石の説明板が立っており、奥に入ると石囲い中に高座石が祭られている。更に奥に大きなサルスベリの木がある。

 高座石説明板の右隣下には、千見寺家住居跡地の標柱が立っていた。

 また、高座石入口の左隣には、石仏群が並び、後ろに大きなヤブツバキの木があった。

〔日蓮上人の高座石〕富士見町指定史跡 

 文永十一年(1274)三月、流罪を赦された日蓮上人は佐渡から鎌倉へ帰ったが、その後、甲斐国河内の豪族波木井氏の庇護を受けて身延に草庵をつくることになった。その合間に、上人は甲斐の逸見筋から武川筋の村々を巡錫した。下蔦木(当時は甲斐領・蘿木郷(つたきのごう))に立ち寄ったのはこの時である。

 伝承によると、当時、村には悪疫が流行し村人が難渋していたので、上人は三日三晩この岩上に立って説法とともに加持祈祷を行い、霊験をあらわしたという。その高徳に村人はことごとく帰依し、真言宗の寺であった真福寺の住職も感応して名を日誘と改め、日蓮宗に改宗したといわれる。また、このとき上人が地に挿して置いた杖から蔦の芽が生えて岩を覆うようになったとも伝えられる。その後、日誘はこの高座石の傍らにお堂(後に敬冠院と呼ばれた)を建てて上人をまつり、近郷への布教につとめたという。

〔敬冠院境内付近の樹木〕 富士見町指定天然記念物

 敬冠院境内と付近に現存するサルスベリ、ヤブツバキ、シュロ、ビワなどの樹木は、冬もあたたかな暖帯に生育する植物で、当地方のような高冷地で数種がこれほど大木に生長していることはきわめて稀である。

 とくにサルスベリは推定樹齢200年と目され、これほどの大木は近隣に類例がない。

     平成十一年三月 富士見町教育委員会

【千見寺家住居跡地】

 平成九年十月千見寺家相続人清水いつ江様 他より下蔦木区へ寄贈された


【追分道標】 (右側) 12:55 

 高座石のすぐ先、ブロック造りの中に追分道標が安置されている場所に出る。武川筋と逸見筋の追分で道標の脇の細い草道を入って行くのが逸見道で、七里岩の上を通って現在のJR中央線に沿って韮崎へ至る。

 武川筋と逸見筋との合流地点の道しるべ

 「へみみち にらさきまで むしゅく」と刻まれている


【真福寺】 (右側) 13:00 

 道標から少し行くと、左側「下蔦木集落センター前に標高731mの標識があった。持参の高度計が少しずれていたので修正する。

 その先Y字路になり、甲州街道は左に進む。そのY字路の真ん中に真福寺がある。

 鐘楼が乗っている山門の周りには、南無妙法蓮華経の石碑が沢山並んでいた。


【応安の古碑】 (右側) 13:07 

 真福寺の脇を通り、更に坂を登ると広々とした田園風景になって、最初のY字路を左に行くと右側に八ヶ岳連峰の南端が頭を覗かせる。この日は甲府盆地に入って以降、初めての快晴で遠くまですっきり見え、紅葉と雪を被った山に感嘆の声を上げる。やがて下り道になり前方に緑色のフェンスが見えてくる。そのフェンスに向かう途中右側の畑の前に応安の古碑と書かれた石碑が現れ、後ろに子乃神、丸西天と彫られた碑と共に小さな石仏が並んでいた。小乃神とは何かは不明。応安は1368年〜1374年までの期間を指し、この古碑は応安五年(1372)。

 古碑の裏面には解説が書かれていたが、碑面が光って薄い字の為、判読が難しく写真も撮れなかった。


【蔦木宿古代米の里】 (右奥) 13:12 

 「元気を出すぞ蔦木宿の会」が立てた「みんなできれいに甲州道中」の看板前を通り、眼下に上蔦木集落が一望できるフェンス沿いの道を右方向へ下って行く。フェンスを右に曲がる所の左側にも庚申塔などの石碑があった。

 フェンスに「甲州街道・蔦木宿・古代米の里」の看板が現れたら、そこを右に入った所に勅使河原郁恵さんが田植えをした場所がある。看板に矢印が書かれているのでそれに従って右に入るとすぐ田圃がある。勿論この時期には涸れた田圃だけで何も無い。


【蔦木宿】 日本橋から四十五里 二十三町四十七間(179.3Km)、下諏訪へ七里 二十九町ニ十五間(30.7Km)

 天保14年(1843)で人口 508名、総家数105軒、本陣1軒、旅籠屋15軒。

【由来】

 甲州街道は江戸を起点とする五街道の一つ慶長五年(1610)江戸の日本橋から信州下諏訪まで凡そ五十六里(約219K)の路程として完成された、道中には四十五ヶ所の宿があり、蔦木宿は四三番目(四十五里三〇丁)。

 梅柿の並木、昔と今そして浪漫の宿。蔦木宿の上と下に枡形道路があり街道を開設した幕府の目的は軍事性にあったと思料される。

  中仙道との文化の交流にも貢献されている。

  本陣、脇本陣の他に

   一般の旅人の宿屋一五戸内大一〇、小五

   問屋場二戸、駄馬二五頭、人足二五人

   戸数一〇五戸、人口五〇八人 男二三三人、女二七五人

 平成一七年七月ニ三日 元気を出すぞ蔦木宿の会結成

  同年一二月一〇日   屋号看板取付記念祭

 平成一八年三月一二日 梅柿の植樹(並木)

  同年五月一八日     古代米栽培着手

  同年八月七日      蔦木宿表示看板除幕式 


【蔦木宿入口】 (左側) 

 古代米の里から更に坂道を下って行くと、「甲州街道・蔦木宿・江戸より四十三番」の大きな看板が現れる。看板の裏側には蔦木宿の由来(上記)が書かれていた。

 看板の後ろには大きな常夜燈3基と小さな石祠が建っていた。


【桝形道路の碑】 (右側) 13:20 

 蔦木宿の看板から100m程進むと桝形道路の碑が建っている。東側の桝形であるが、近年の道路改修で往時より若干西側に寄っている。ここを左折し国道に出る。

〔桝形道路〕

 蔦木宿は、甲州街道(道中)の宿駅として、慶長十六年(1611)ころつくられた。

 この宿駅は、新しい土地に計画されたので、稀に見る完備した地形となっている。

 桝形路は、南北の入口に設けられ、以来、宿内への外からの見通しを遮り、侵入者の直進を妨げて、安全防衛の役割をはたしてきた。

 平成三年度の道路改修工事のために、南の桝形を移動したので、その原型を碑面に刻し、これをのこす。

     平成四年三月一日 富士見町教育委員会 上蔦木区


【十五社明神】 (右奥) 13:25 

 桝形を国道に出たら右折すると、直線状の国道が蔦木宿となっている。国道に出て次の右に入る道が三光寺の参道。その先右に入る道に十五社大明神の鳥居が建っており、少し奥に社殿がある。

 ここには、七年毎に行われる上社御柱祭りで御柱の前後に二本の角の様に取り付けられる「めどでこ」が奉納されている。棒に連なった輪になっている縄が結ばれて、ここに若者たちが乗って山を下る「木落し」と宮川を渡る「川越し」と呼ばれる山出しが4月3日前後に行われる。次いで5月3日前後には里引きが行われ、本宮と前宮に四本ずつ計八本の御柱が立てられる。次回は2010年(平成22年)に行われる。


【本陣大阪屋の門】 (右側) 13:30 

 十五社からすぐの「上蔦木交差点」角に本陣門がある。本陣の建物はなく現存しているのは門だけである。

 門の左隣には、案内板、「甲州道中・蔦木宿本陣跡」の石碑、「明治十三年六月二十三日・明治大帝御駐輦跡」の石碑が建っている。

 この交差点を右に登れば「信濃境駅」に行けるが2.7Km程ある。

【甲州街道蔦木宿と本陣表門の沿革】

 蔦木宿は江戸幕府の宿駅制度のよって、慶長十六年(1611)ころ甲州道中第四十三番目の宿駅として設置された。街は街道に面して屋敷割をし、本陣・問屋などが位置づけられた。本陣の規模は広大で多くの座敷や板敷、土間のほか堂々とした門構えや広い玄関、書院造りの上段の間などを具備していた。この宿駅は、元禄十五年(1702)、延享三年(1746)、明和八年(1771)、寛政六年(1794)、文化六年(1809)、元治元年(1864)の計六回の大火にあい罹災戸数も知られているが本陣の類焼についての詳細は不明である。

 この宿場街は、明治維新による宿駅制度廃止と、さらに、鉄道がこの宿駅から離れたところに敷設されたため次第にさびれていった。本陣も主屋は、明治四十年(1907)に南原山に移築され、渡辺別荘(分水荘)として活用されていたが、老朽化したため昭和五十年代に取り壊された。本陣主屋は弘化三年(1846)五月の建築であり、甲州道中における、本陣建築の遺構として惜しまれる建造物であった。

 この表門は、構造手法、および使用材料よりみて、主屋より新しく江戸末期の元治元年の火災後の復興になるものと考えられる。明治三十八年(1905)池袋区の、平出武平氏がゆずり受け、同家の正門としていたが、平成二年(1990)本屋取りこわしに際して町の歴史民族資料館に保存された。

 かつての蔦木宿の面影をしのび、心のよりどころとの区民の強い要望から、平成四年(1992)七月本陣跡地に復元された。建物の造りは簡素であるが数少ない本陣表門として貴重な遺構である。

【本陣表門の構造形式(概要)】

 棟門、銅版葺、背面腰高片袖付、支柱付、西側面袖塀付、平面桁行一間半、一間菱格子付板扉内両開、半間潜板扉内開、軸組土台に柱を立て上部を棟木で繋ぐ、一軒疎垂木、妻千鳥破風造り、屋根銅版葺に樋棟を乗せて、中陰蔦紋で飾る。

     平成六年三月吉日 富士見町教育委員会 上蔦木区

 蔦木宿内のどの家にも「元気を出すぞ蔦木宿の会」が2005年に始めた屋号が掲げられており、全部で94枚あるとNHKの「てくてく旅」で放送していた。


【御膳水】 【与謝野晶子歌碑】 (右側) 13:35 

 「上蔦木交差点」の先、農協前の敷地内に与謝野晶子の歌碑と、その前に復元された御膳水の水場がある。

 この水は七里ケ岩から出る湧水であり明治天皇がご巡幸の折に使われた、御膳水であります。

 その御膳水と、あと二箇所の湧水を使用して、明治三十九年頃、蔦木宿の街道筋に、十六箇所の水道施設を造り、飲料水として昭和二十六・七年頃まで使用されていたものです。

 当時の施設の石が保存されていたのでここに復元いたしました。

     平成九年十月吉日 富士見町

 白じらと 並木のもとの石の樋が 秋の水吐く蔦木宿かな

     与謝野晶子詠


【枡形道址】 (左側) 13:40 

 御膳水から160m程に枡形道址の碑があり、裏面に案内があった。この碑の所から左側に入るのが西の枡形で、道はすぐ右へ曲がり、更に右に曲がって国道に戻る。

 右に曲がった中程に庚申・観世音菩薩・廿三夜の石碑が、更に行くと右側に町の天然記念物に指定されている川除古木と呼ばれるサイカチの木等の大きな古木がある。

【枡形道址】

 城の入口や宿場の入口の道を直角に曲げた所を枡形と云い宿の中が見通せぬために造ったもので交通には不便であった明治十八年新道の改修に及んで取払われて真直ぐの道になった。

     昭和三十九年八月 富士見町

【川除古木】 富士見町指定天然記念物

 釜無川の氾濫による水害から蔦木宿を守るために、宿の上の入口付近につくられた信玄堤とよばれる堤防がある。

 川除古木は、この信玄堤と共に水害から地域を守るために植えられた川除木の名残りの古木であり、現存しているものはキササゲ一株、サイカチ二株、ケヤキ一株である。

 明治三十一年(1898)の大水のときには、ここの大木を切り倒して集落内に向おうとする大水の向きをかえ、集落を水害から守ったといわれる。

 キササゲは胸高幹囲(きょうこうかんい)215センチ、主幹は地上3メートルより上は枯れ、分かれた枝が張っている。キササゲは中国原産で暖地に植栽され、また河岸などに逸出している。果実が肝臓病の薬に利用される。富士見町内では釜無河原に見られる。

 サイカチの一株は胸高幹囲335センチ、主幹は地上4メートルで大枝二本に分かれ、樹高16メートルに達する。サイカチは本州・四国・九州の温帯および暖帯に分布し、通常、樹高10〜15メートル、胸高直径30〜40センチに育つ。富士見町内では釜無および入笠地域に認められるが、株数は少ない。果実は洗濯に、葉は食用に、根皮および木の刺は薬用に、花は薬湯に利用される。

 ケヤキは国内の温帯及び暖帯に広く分布し、他の樹木に比べて大きく育って目立つので、けやけき木という意味からケヤキと名づけられた。また地方名「ツキ」は強木の略であり、防風のため植えられている例がある。

     平成十六年三月 富士見町教育委員会

 古木から国道に出る手前に左へ入る細道があるので、地図から見てもこれが旧道と思われる。

 国道に出ると175Kmポストがある。そこから国道を進み、左側「岩田屋建材店」の前を通過した先に、国道は右へ大きく湾曲しているが左下へ下がる直線の道がある。国道をショートカットしているので、これが旧道と思われる。再び国道に戻る所に更に左下に極細いあぜ道があったのでそちらへ降りた。ほどなく「神代」バス停で国道に上がると、そのバス停手前に甲子、庚申塔、道祖神が並んでいた。バス停を左に曲がり諸水橋を渡ると白州塩沢温泉に行ける。その先176Kmポスト右側に「ドライブイン赤石」がある。


【平岡の一里塚】 (左側) 14:10 

 

 「ドライブイン赤石」を過ぎると、左側に火の見櫓が見え、その後ろにトタン赤い屋根の家があり、更にその後ろに大きな木が見える。この国道左下の木の根元に小さな一里塚の碑が立っている。碑の側面に説明が彫られており、それによるとここは片塚だった。日本橋から四十六里目。

 (左の写真は進行方向から写したもの、右の写真は反対の西側から写したもので、木の根元に碑が立っている)

 慶長十五年江戸日本橋ヨリ四十六里ニ築キタル塚ナリ道ノ両側ニ作ルヲ本体トスルガ此所ハ片塚ナリ

 ここの一里塚を見逃す人が多く、更に殆どの街道ウォーカーはこのまま国道を机交差点まで行き、そこから右折して旧道に入っているが、もっと手前から右に登る旧道があるので間違っていると思う。

 一里塚から120m位行くと、国道に接して右へ上がっている道があるので、ここを登るのが旧道。道は右カーブ、左カーブして登ると平岡集落に入って行く。

 旧道である証拠は、最初の右カーブにあったのを初めとして曲がり角ごとに小さな馬頭観音が建っており、更に集落を進むとT字に近いY字路の左側には甲子、石祠、道祖神等の石碑が並んでいたからである。

 このY字路を左に取り、続くT字路を右へ行くと、ここにも石碑が建っていた。字はかすれて殆ど読めなかったが諏訪○○とあった。その先左カーブし、橋を渡って進むと、右後ろから来る道と合流する地点に出る。ここを真直ぐ行くと机集落に入り、すぐ左側机交差点から登ってくる道と出会う。

 出会った道の左角の家には御柱が立っており、奥の蔵には短いが「めどでこ」が飾られていた。民家にこのような物があるのは神社関係者なのか氏子代表の家なのか??

 旧道は左側にある落合小学校を過ぎると平になり、右側に立派な門と庭の塀には「中山居」と掲げられた家の前を通る。庭のカエデは真っ赤に紅葉してとても綺麗だった。

 緑色の歩道が併設している橋を渡った先を右カーブすると左が開けて眼下に国道が見えてくる。この辺りにかぐら石信玄直裁碑があるとのことだが見つけられなかった。

 坂を下ると「瀬沢大橋」の信号で国道に合流する。立場川に架かる瀬沢大橋の歩道は左側にあり、また橋を渡った所で左折するので、国道に出たら信号を使って左側に移動しておくこと。


【瀬沢集落】 吉見屋の前で14:50 

 瀬沢大橋を渡った所で戻るように川に沿った道があるので左に曲がる。すぐT字路に突き当るので右折すると瀬沢の集落に入って行く。ここから富士見峠を越えて金沢宿までの殆どが国道を離れた静かな旧道を進むことになる。但し、瀬沢集落は全て上り坂で、先になるほど急坂になるので覚悟して行くこと。

 右側に火の見櫓、左側に郵便局とベンガラ色の家の前を登ると「吉見屋商店」の所でY字路になり、左の急な上り坂を行く。吉見屋の手前には常夜燈と急な石段のある村社が、Y字路の真ん中には道標が立っているが字がかすれて読めない。右○○道、左○○道と刻まれているのでここは追分だろう。

 急坂を登ると一旦道は平になり小さな橋を渡る。高度計を見たら標高840mだった。橋から右を見上げるとかなり高い所にガードレールが見え、まさかあそこまで登るのかと思っていたらそのとおりだった。平らな道も束の間で、左側に石仏が並んでいる所を右カーブすると集落最大の急坂になり涙の出るほどきつい登りが続く。ただ右を見るとおなじみの八ヶ岳連峰がいっそう綺麗に見えたのには感激。坂の途中左側のやや高い所に観世音菩薩と彫られているらしい石碑が建っていた。この石碑前を左カーブすると程なく知的障害者入所厚生施設「清明会しらかば園」が現れ、やっと急坂も終わる。本当に苦しかった。高度計では900mだった。

 この瀬沢一帯は古戦場跡で、先ほどの小さな橋を渡る手前を右に100m程上ると国道に出て、通称「瀬沢のヘヤピンカーブ」山側に案内板と石碑が建っているとのこと。天文十一年(1542)三月、信濃の連合軍(松本城主小笠原長時、上原城主諏訪頼重、北信葛尾城主村上義清、福島城主木曽義昌)が武田軍と戦い、武田が勝利した場所で、寄りたかったが上り坂ばかりだったので行く気力がなかった。


【とちの木風除林】 右側) 15:20 

 「しらかば園」の先で小川を渡るととちのき集落に入る。この集落も緩いが上り坂が続く。

 集落途中の十字路から右に行くとJR富士見駅だが、ここから1.6Kmある。

 集落の外れには尾片瀬神社があり、更にゆっくり登って行くと峠状態になり、緑色のフェンスが途切れた所を右に入るとすぐとちの木風除林の説明板が立っている。

〔とちの木風除林〕 富士見町指定天然記念物

 とちの木には、古くから樋口姓の者が住んでいた。しかし村は風当たりが強く、五穀は実らず、全戸が今の若宮地籍へ移り住み無人家の地となった。

 元和六年(1620)、樋口氏が木之間から今の塚平の地へ移住した。ここは周りが草原だったので、神戸から草刈に来た人達や甲州道中の通行人が時々失火して火災にあった。それで、やや南の方の今の地へ移った。

 このころ片瀬から小林氏が来て住むようになった。やはり北風は強く、内風除けを作ったが、なお稲はよく実らなかった。

 寛政年間(1789〜1800)に村では高島藩へ願い出て、防風林として外風除けを村の上に仕立てた。そのアカマツが、樹齢およそ200年の立派な風除けとして今日に至っている。

 この風除けは甲州街道に直交し、かつ東西に100メートルずれるように設けられている。東側は村の北西、ソリの道地籍の崖縁に沿う延長160メートルの間に植えられている。樹高20メートル余り、いま胸高幹囲140〜240センチのもの35本を数える。西側は延長45〜50メートルに上端の幅10メートル余、高さ2メートル余の土盛りをして植えられ、いま胸高幹囲160〜250センチのもの14本を数える。

 風除けと呼ばれる林は藩の許可を得て設けられるもので、富士見町内では30余りが数えられる。現存するものの中でこの風除林は、往時からの姿を伝える顕著なものである。

     平成15年3月 富士見町教育委員会

 説明板の「とちのき」は『草かんむり』の下に『子』という字に『木』が書かれていたがパソコンの中にそのような文字はなかったのでひらがなで書いた。


【重修一里塚】 (右側) 15:26 

 道が平らになった所に「甲州街道コース」の案内板が立っており、注連縄が巻かれた道祖神と並んで重修一里塚の石碑がある。木が5〜6本あっているこんもりした所で、江戸より四十七里目。

 また、ここにも富士見町が立てた950mの標高標識があり、勿論私の高度計も950mを表示していた。

【原の茶屋集落】 

 一里塚を過ぎてT字路に突き当ったら左折し、120m先を右折する。本来の旧甲州街道はこのまま真直ぐ進んでいたが、突き当たった草地の広大な土地は、現在三菱マテリアル鰍フ私有地なので左右へ迂回しなければならない。左回りの方が判り易く近いのでそちらへ行く。右折すると砂利道になり、左遠くには「富士見パノラマスキー場」が見える景色の良い高原コースとなる。右折する角地に「私有地に付立入禁止」の看板が立っており、広大な土地も全て草刈がなされていたので管理はされているようだ。

 やがて林を抜けると、私有地を右へ迂回するコースとの合流点に「ここは富士見町・原の茶屋」の標識が立っていて、原の茶屋集落に入って行く。


【富士見公園】 【芭蕉句碑等】 (右側) 15:45〜15:55 

 原の茶屋集落中程の十字路手前に富士見公園があり、入口に公園の由来が掲げられていた。公園へ入る登り口には芭蕉句碑があり、他に園内には、斉藤茂吉歌碑、伊藤左千夫歌碑、島木赤彦歌碑、森山汀川歌碑があった。更に一番奥に富士見公園の案内板が立っていた。

 公園内にはトイレがあるが、冬季は凍結のため使用中止となっていたので11月でも利用できない。

 また、標高965mの標識もあったので、この辺りが富士見町の旧街道で一番高い所と思われる。富士見峠はこの前後か?

〔公園由来〕 

 明治37年11月、左千夫は甲州御嶽歌会の後を韮崎より馬車で入信し、上諏訪にて赤彦と初対面した。明治、大正時代の日本短歌会をリードする二人の劇的な出会いである。

 この頃よりアララギ同人の富士見来訪多く、明治41年10月富士見油屋歌会に来遊した左千夫は、「財ほしき思いは起る草花のくしく富士見に庵まぐかね」と原之茶屋の一小丘に立ちて、「ここは自然の大公園だ。自然を損なわぬように公園を作りたい。」と腹案をもらされた。

 村人は、赤彦を通じ左千夫に設計を依頼し、明治44年左千夫の指示を受け、富士見村や原之茶屋の協力によって富士見公園は出来上がった。

 早春の芽吹きから、花、新緑、鮮やかな紅葉と四囲に高峰を望むこの公園は詩歌の里としての希い(ねがい)多く、左千夫歌碑が大正12年に、赤彦歌碑は昭和12年に、昭和40年に茂吉歌碑の建立を見るに至り3基の句碑と共に歌碑公園として、文学愛好者の訪れが絶えない。

【富士見公園】 富士見町指定名勝

 明治十二年、原之茶屋の人たちは、入会地の一部であったこの地を買い受けて小公園をつくった。ここは特に富士山と八ヶ岳の眺望がすばらしく。翌年の明治天皇御巡幸の折には街道端に「美蓉峰ヲ望ムノ勝地タリ」との建札も行われた。

 明治三十一年、東京では正岡子規による短歌革新運動が起こり、子規没後は伊藤左千夫によって継承され、雑誌「馬酔木(あしび)」「アカネ」「阿羅々木(あららぎ)」などが次々と発刊された。同じころ、諏訪では島木赤彦を中心とする短歌活動が活発化し、同人誌「比牟呂(ひむろ)」が刊行されていた。三十七年に左千夫が上諏訪布半短歌会に出席して以来、二人は志を通じ交友を重ねていた。四十一年、富士見油屋短歌会に左千夫ほか阿羅々木の同人たちが出席したのを契機に機運が高まり、翌年、同誌は合同して「アララギ」と改め、左千夫が主宰することになった。富士見は「アララギ」にとって記念すべき地となったのである。

 左千夫はこの間にしばしば富士見を訪れたが、ここの自然景観をたたえ、公園の設計を推奨した。これを受けて富士見村では直ちに用地を確保し、左千夫の構想と村人の奉仕によって四十四年、新しい公園が完成した。爾来、今日に至っている。

 左千夫の没後大正十一年に、村民はその恩に酬いるため、歌碑を建立した。赤彦没後十三回忌の昭和十二年には、県内外の多数の賛同者によって赤彦の歌碑が建立された。さらに、赤彦のあとアララギを主宰した斉藤茂吉の歌碑も十三回忌の昭和四十年に建立された。また当町神代の出身で、アララギの選者として活躍した森山汀川の歌碑も四十五年忌の平成二年に建立された。

     平成十年三月 富士見町教育委員会

【芭蕉句碑】

   眼にかゝるときや殊更五月不二  はせお

 明治十四年九月に鶴鳴舎中によって建てられた。

 書は諏訪市中金子の岩波千尋の揮毫である。

 天保の頃、独楽坊一山にはじまる鶴鳴舎は、知覚、柳心、対岳等の俳人を生んだ。

この句は、元禄七年の作で「箱根の関越えて」と前書があり、元禄八年の路通書「芭蕉翁行状記」に見えている。


【明治天皇駐輦之処 【明治天皇御膳水】 (右側)  16:00

 十字路を渡ったすぐ先右側、原の茶屋公民館の前に明治天皇駐輦之処の碑が建っており、その手前に961mの標高標柱も立っていた。

 公民館のすぐ先、右側に明治天皇御膳水の碑があり、その手前にあまり綺麗とはいえない水場があった。

 御膳水の先、右手の民家の軒下に常夜燈が建っており、その左側には灯籠風の句碑、更に民家の西隣には新しいが男女が寄せ合う可愛い道祖神と石碑があった。

 集落の外れ左側にある「金比羅神社」の前でY字路になり、右側の真直ぐ方向が甲州街道になる。右の道に入った所で左側の林の中にある50m程の平らな部分は江戸時代の甲州街道とのこと。

 右側カゴメ富士見工場の横を進むと、左正面に「富士見パノラマスキー場」が良く見えるようになり、その上は入笠山で、昔子供たちが小さい頃、家族と泊りに行ったことを思い出す。

 カゴメ工場を抜けると、「ここは富士見町・神戸」の看板が現れ、火の見櫓のある所で道は右へと下がって行くが、旧道はそのまま真直ぐの細い道を進み、御射山神戸(みさやまごうど)の集落に入って行く。

 下りになった道の途中左側に沢山の石碑が一箇所に集められて所に出て、更に下って行くと正面に「すずらんの里駅」が見えてくる。

 やがて、先ほど右に下がって行った道と、久しぶりの国道との三本が合流する点で国道に降り、Uターンするように左折する。


【小川平吉先生生誕之地】 (右側)  16:27 

 国道に合流するとすぐ左へ入る道は「富士見パノラマリゾート」への入口で、その先、小川を渡ると国道右側に小川平吉先生生誕之地という大きな石碑が建っている。

 碑の左には、902mの標高標柱が立っていた。

 小川平吉(1870〜1942)は、政治家・弁護士で長野県生まれ。1903年衆議院議員に当選して、司法大臣、鉄道大臣等を歴任。鉄道大臣時代に利権目当てが大半といわれた鉄道敷設免許を乱発、全国の駅名からローマ字を削除させて『国粋大臣』の異名をとった人物。1929年の私鉄疑獄事件に連座して入獄。

 この時期、日の暮れるのが早い為、御射山一里塚の写真が撮れなくなるのではないかと焦り始める。


【神戸八幡社】 (左側) 16:32 

 「神戸八幡」交差点を右に入るとすぐ「すずらんの里」駅で、左には小さな鳥居の八幡社がある。

 この境内には富士見町で一番の大木であるケヤキが植栽されている。

【御射山神戸八幡社社殿】 富士見町指定有形文化財

 この八幡社は古くは鍬形八幡と称されていたようであり、嘉禎三年(1237)の『祝詞段』(諏訪上社の神楽職、茅野外記太夫の記した神楽の祝詞集)に「神戸ニクハカタ」と記されている。

 現在の建物は宝暦十二年(1762)の建立になり、棟梁は伊那郡沢底村(現辰野町)出身の加藤吉左衛門である。

 本殿は一間社流造にして、正面に千鳥破風をみせ、さらに前面に軒唐破風付きの向拝をつける。屋根はこけら葺。身舎は三方に腰組の擬宝珠高欄付縁をめぐらし、正面に登高欄付木階(きざはし)五級を構え、浜縁を張る。柱は丸柱で、土台上に建ち、頭貫(かしらぬき)と長押(なげし)で固める。組物で軒を支え、中備に蟇股を置く。身舎の正面は開放とし、中央やや前寄りに中柱を建て、左右に扉口を構えて内外陣境とする。内陣は左右二室に分けて八幡宮と諏訪明神を祀る。

 この建物は建立年代および工匠が明らかであり、正統様式の端正な建築技法を示す点、当地方の近世社寺建築の流れを知るうえで重要なものである。

【神戸八幡社の欅】 富士見町指定天然記念物

 このケヤキは、八幡社の本殿東側の株である。樹高30m、棟高幹囲7.7m。町内にみられるケヤキの中でも一番の大木であり、樹齢390年と推定される。町内の寺院や神社の境内に植樹されているケヤキには大木が多く、棟高幹囲3mを越えるものが十四株あり、そのうち四株がこの境内のものである。

     平成十五年三月 富士見町教育委員会


【御射山一里塚】 (左右) 16:45〜16:51

 「神戸八幡」交差点から320m程行った左斜めに入る道が旧道。二股の真ん中には萬霊塔があった。

 旧道に入ると前方に巨木が見えてくるが、あれが一里塚ではないかと、暗闇が迫る中を急ぐ。

 2分進んだ右側に馬頭観音が数多く密集している所があり、その左端に平成八年五月に建てた「青・チビ・花」の牛馬頭観音が混ざっていた。

 長野県に入ると特に、古碑が沢山一箇所に集められている場所に数多く出合ってきた。あちらこちらに散らばっていたものや掘り出されたものを丁寧に集めて祀る、信心深い人が多いのだろう。

 本日のハイライトである一里塚にやっと着いたのは、かなり暗くなった16:45。

 一里塚に植えられているこんな大きな木に出合ったのは、数多くの一里塚を見てきた私達でも初めての体験である。あまり大きすぎてフラッシュが全体に届かないのが残念である。両側に塚が残っているが、 左側の塚は真っ暗になったしまったのが気がつかないほど興奮してしまった。

 この巨木は樹齢380年で、江戸時代の旅人も当時から生命を宿している同じ木に触れてきたのかと思うと、ひとしお感激が深まってしまう。

 左側の塚には石碑と917mの標高標柱が立っており、右側の塚の前には新しい案内板が建っていた。

【一里塚】

 江戸日本橋ヨリ下諏訪宿ニ至ル五十三里余ノ道ヲ甲州道中ト云イ慶長十五年開通サレ同時ニ日本橋ヲ基点トシテ一里毎ニ道ノ両側ニ方五間ノ地ヲ占メ上ニ塚ヲ築キ榎カ欅ヲ植エタ次ノ塚ヲ目当ニ進ンタ此塚ハ四十八里塚テ東塚ハ榎テアッタガ明治廿年代枯レ西塚ハ当時ノママノ欅テ県内唯一ノモノ県ノ史跡ニ指定サレテイル

     昭和四十四年四月八日 富士見町 御射山神戸区  細川隼人書

 来春には車で「山高神代桜」を見に行く予定にしているので、明るい時にもう一度ここへ来ることにして、暗闇の道を青柳駅まで進める。

 「エプソン富士見ハウス」の前、「エプソンスポーツセンター」の前を通り、Y字路は右方向真直ぐの細い道を行く。小さな十字路で本日の行程終了。金沢宿まであと僅かである。



 14回目の旅終了( 17:10) 旧道青柳十字路  日本橋から四十八里十九町(190.6Km)。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、16.3Km(「下教来石」交差点〜旧道青柳十字路)

          寄り道を含めた実歩行距離は、18.4Km(下教来石バス停〜青柳駅)

          6時間10分。 30,800歩 (街道のみ)  31,500歩(下教来石バス停〜青柳駅)

 十字路から右折して国道を歩道橋で渡り、青柳駅(無人駅)迄300m。17:37発の電車で上諏訪駅に行き、駅から徒歩5分のホテル「ルービアン南湖」に宿泊。

 

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