戸塚宿 (戸塚駅 → 藤沢駅) <旧東海道7回目>

2002年5月18日(土) 曇

 二人旅。(JR「戸塚駅」〜「遊行寺」・「藤沢駅」)

2014年2月26日(水) 快晴
 「戸塚駅」(9:50)から「遊行寺」(藤沢駅14:50)まで2002年と同じ行程を一人で歩く。


(注:文中で街道の左側、右側とは京都に向っての左右)


「保土ヶ谷宿」 ← 「目次」 → 「藤沢宿」


 旧東海道7回目は、2002年と同じ行程を歩いたので、2014年2月現在に全文改訂した。途中経過時間も新たに記載した。

 戸塚駅横の大踏切は『開かずの踏切』と言われ続けてきたが、2014年1月18日に『戸塚大踏切デッキ』という名称で、まず歩道橋が完成。これによって歩行者は待つことなくJR東海道線の大踏切を越えることが出来るようになった。
 車のほうは、2月現在、トンネル工事が進行中で26年度中に完成予定との事である。


【清源院】 (右奥) 9:55〜10:10

 大踏切を越えた先の「清源院入口信号」を右折するとすぐ右側に清源院の入口がある。
 階段を上ると左手に本堂その右隣に千手観音堂があり、右手は広い駐車場となっている。その高台からは、戸塚駅の周りに新しく出来た商業ビルが目の前に迫っているのが見える。
 寺の由緒等はなかったが、『新編相模風土記稿』によるこの寺の縁起は下記の通り。
【清源院】
浄土宗京知恩院末、南向山長林寺と号す。寺地右は長林某安達藤九郎盛長が一族と云が草創せし獅子王山林長寺といへる一寺なり。戦国の際廃絶せしを元和元年清源院尼其廃池に就て当院を開基す。相傳ふ、尼物は於満の方と称し東照宮に給仕して、徳籠を蒙る、年四十余にして、仕を辞しければ彦坂小刑部元正に預けられ当郡岡津村の陣屋に至り、其傍に草庵を営みて閑居せしが、元和二年春、御不例の由を聞、急ぎ駿城馳参りしかば殊に御感ありて、御看経佛二尊の内後白河法皇の勅願、安阿弥作の弥陀、一体を賜はれり。御他界の後、彼像を安置せんが為、一寺創建の志願有て、勝地を求め、遂に当寺地を得しかば、一宇を創建して、彼像を安じ、小石川伝通院の現住、白誉を戒師として、尼となり、清源院閑誉理宗と法号す。終焉の後遺言に任せ、遺骨は高野山に納め、当寺には牌を置く。開山は白誉小石川伝通院三世なり。本尊弥陀、長二尺二寸、即安阿弥の作にて、歯吹如来と称す。又行基作の千手観音長六寸を安ず。清浄院尼寄附七條の袈裟、葵御紋章を縫入れり、一項を寺宝とす、其余は、正保・天和両度の回禄に皆烏有せり。
鐘楼。鐘は安永三年の鋳造なり。
     新編相模国風土記稿より
 これによると、徳川家康の側室であった於満(清源院尼)が仕えを辞して閑居していたが、家康の危篤を聞いて、急ぎ駿府城に参った際に阿弥陀如来像を賜り、家康死後に尼となって当地に清源院を創建したと云う。本尊の阿弥陀如来像は秘仏で年1回7月18日に開帳されるとの事。

 本堂右横の石段登り口の右側に芭蕉の句碑(左上の写真で右手前の碑)、左側に若くして心中した二人の心中句碑(石段左の碑)、元禄元年(1688)の庚申塔(同、左奥の塔)、明和四年(1767)の朝日堂(同、真中の石碑)が建っている。
 石段を登った左側に鐘楼地蔵石塔。更に右側の石段を登った頂上の左奥に安政十五年(1858)建立の於萬の方火葬跡供養碑が建っている。

【芭蕉句碑】
 栗といふ文字はにしの木と書て 西方にたよりありと行基菩薩は一生杖にも柱にも此の木を用給ふとかや
  世の人の見つけね花や軒のくり   はせお

 もと栗の大木があったことから『奥の細道』須賀川の句を引用。

【心中句碑】
 井にうかふ番
(つが)ひの果や秋の蝶
 
文久3年道ならぬ若い二人が院内の井戸で心中。
【於萬の方火葬跡】
 
碑の正面に『當山開基清源院殿尊骸火葬之霊迹也』
 右側面に  『以靈勅而著往事之碑矣』
 左側面に  『寛永三丙寅年正月廿日遷化乃安政五戌午當二百三十三回上酬靈恩造之焉』
と刻まれている。

【内田本陣跡】 (右側) 10:15
 街道に戻り、次の「バスセンター前交差点」を渡って直ぐの「スルガ銀行」前の歩道上に旧東海道・内田本陣跡の標柱が立っている。それには説明文の他、間取り図も添えられていた。
【内田本陣跡】 旧東海道
 
本陣とは、大名、勅使、公卿、宮門跡、公用の幕府役人などだけが宿泊や休息できた施設です。この辺りに、戸塚宿に二つあった本陣のうちの一つ内田本陣がありました。内田本陣は間口十八間(三十二・八m)・奥行十四間(二十五・五m)で、畳数は百五十二畳もあったということです。


【脇本陣跡】 (右側) 10:20
 内田本陣跡から少し行った先の歩道上に旧東海道・脇本陣跡の説明付標柱が立っている。
【脇本陣跡】 旧東海道
 脇本陣は、本陣に差し支えが生じたときなどに利用されました。本陣とは異なり大名などの宿泊が無い時は一般旅客の宿泊に供することができました。規模は本陣よりも小さいですが、諸式はすべて本陣に準じ、上段の間などもあります。戸塚宿には三軒の脇本陣がありました。


【澤邊本陣跡】 (右側) 10:22
 脇本陣跡から少し進んだ右側、「戸塚消防署」手前の民家の前に澤邊本陣跡の木柱、説明板(標柱とステンレス板の2面)、明治天皇戸塚行在所阯の石碑が建っている。
 この民家の表札は澤邊となっているので、今も同じ場所に澤邊家が続いているようだ。

旧東海道・澤邊本陣跡】 (標柱)
 澤邊本陣は戸塚宿に二つあった本陣のうちの一つです。本陣創設時の当主、澤邊宗三は戸塚宿の開設にあたって幕府に強く働きかけた功労者です。明治天皇の東下の際には行在所になりました。敷地の一角に戸塚宿の鎮守の一つ羽黒神社があります。弘治二年(1556)に澤邊河内守信友が羽黒大権現を勧請したのが始まりと言われています。
     戸塚区役所
【本陣跡】 
(ステンレス板)
 戸塚が東海道の宿場になったのは慶長九年(1604年)11月のことであった。澤邊本陣の初祖 澤邊宗三は戸塚宿設置の功労者である。
 本陣とは公郷、門跡、大名などの宿泊する公の宿のことを云ふ。
     戸塚観光協会

【羽黒神社】 (右奥) 10:24
 澤邊家の脇を入った奥に羽黒神社がある。

 由緒等は無いが、上記本陣跡の説明文に載っている神社である。
 石の鳥居が建ち、数段の石段を登った両側に狛犬、その正面に拝殿、左手に小振りの赤い鳥居に稲荷社や石仏があった。

【八坂神社】 (右側) 10:30〜10:35
 「戸塚消防署前交差点」を右折すると海蔵院があるが、寄らなかった。
 次の「八坂神社前交差点」手前の歩道上に旧東海道・八坂神社の標柱が立ち、その先に八坂神社がある。
 石の鳥居の左脇に水準点の石が設置されていた。鳥居をくぐり12段の石段を登ると正面に拝殿があり、境内は広々としている。
 石段を登った左側にお札まきの標柱と説明板、右側には明治天皇東幸史蹟碑八坂神社の由来板が立っている。
 この神社の拝殿左手にも小振りの赤い鳥居と稲荷社が建ち、右手には神楽殿が建っている。

【由来】

元亀参年六月郷の庄司内田兵庫源政親が牛頭天王社を草創勧請したものであるがいつしか社殿敗壊眞躰の神器は草もうの中に散在し止むなく地中深く埋め祭祀を欠くこと貮百年に及んだ内田氏の末葉内田佐衛門蔚源政利これを憂い元禄元年矢部村庄司河原氏の霊夢により土壌を起し眞躰を得てその再興をはかり祭祀を行った
明治初年八坂社と改め更に昭和七年九月十九日八坂神社と改称した祭典は七月七日拾四日まで行事は七月十四日無病息災を祈願して行われるお札まきは町内男子拾名が女装し渋団扇を打ち原始的踊をしつつ五色のお札を中天に撒く

【お札まき】 横浜市指定無形民俗文化財(平成3年11月1日指定)

 お札まきは、七月十四日の八坂神社の夏祭りに行う踊りで、同社の元禄再興とともに始まったと伝えられています。この踊りは、江戸時代中期、江戸や大坂で盛んに行われていましたが、やがて消滅し、現在は東海道の戸塚宿だけに伝え残されています。

 男子数十人が姉さんかぶりに襷(たすき)がけの女装をして裾をからげ、渋うちわを持ち、うち音頭取り一人はボテカズラをかぶります。音頭取りの風流歌にあわせて踊り手が唱和しながら輪になって右回りに踊ります。踊り終わると音頭取りが左手に持った「正一位八坂神社御守護」と刷られた五色の神札を渋うちわで撒き散らします。人々は争ってこれを拾って帰り、家の戸口や神棚に貼ります。神社境内で踊り終わると、町内各所で踊り、神社に戻ります。

 風流歌の歌詞に「ありがたいお札、さずかったものは、病をよける、コロリも逃げる」という文句があることから、祇園祭りと同様な御霊信仰に基づく厄霊除けの行事であることがわかります。

 神札を路上に撒き散らして人々に拾わせる護符配りは、現在では極めて珍しく、民間信仰資料として貴重です。

     平成四年三月 横浜市教育委員会

 「お札まき」は、7月14日の17:30より始まり、神社で撒いたあと、町に繰り出し道路上でも撒いて行くとのこと。

 2009年に自宅新築の際、戸塚駅近くに借家住まいをしていたので丁度見られると思っていたが、仕事から帰り食事をしてから出かけた為、すでに「お札まき」は終わったあとだった。

 しかし、神社から戸塚駅までの長い距離、国道沿いや国道に並行した内側の道、その接続道までにも屋台がびっしり並び壮観だった。これほどの出店の数は見たことがなく、まるで日本中の屋台が集まったと思うほどだった。人出も多くて道にあふれ、歩くのに苦労するくらいだったことを思い出した。


【かまくら道道標】 (右側) 10:38
 「八坂神社前交差点」を渡った右手にかまくら道道標が建っている。



 説明文等は何も無く、碑文は判別しずらかったが、次のように刻まれている。
 正面に  
『これよ里 かまくら道』
 右側面に
『南無阿弥陀佛』
 左側面に
『庚申講中 宝永七庚寅歳九月日』(1710年)

 (左の写真で十字路の左右・水平方向が旧東海道、左に八坂神社がある。)

【冨塚八幡宮】 (右側) 10:40〜10:50
 次の「戸塚町交差点」手前の歩道上に旧東海道・冨塚八幡宮の説明付標柱が立っていて、その先交差点角に冨塚八幡宮がある。
 石の鳥居をくぐると一段目の境内が広がり、正面に社殿へ登ってゆく長い石段が続いている。石段の右側に神輿殿と社務所、鳥居の横に由緒が書かれた説明板が建っている。また、石段の左側には松尾芭蕉の句碑が建っている。
 46段の石段を登ってゆくと、正面に拝殿と本殿があり、拝殿の左には小振りの冨塚天満宮とその隣に玉守稲荷が祀られている。更に、その左の崖っぷちには庚申塔などの石碑が沢山並んでいた。
 その石碑群の前を通って山道を登って行くと社殿の裏山に冨塚があり、その右手一帯は富塚八幡緑地になっている。
旧東海道・冨塚八幡宮】 
 戸塚宿の総鎮守で祭神は誉田別命(応神天皇)と冨属彦命の二柱です。源頼義・義家父子がここに野営し夢で応神天皇の神託を受け戦に勝利した事に感謝し延久四(1072)年に社殿を造りその御霊を勧請したとのことです。
 山頂の古墳は冨属彦命の古墳とされており、「冨塚」と呼ばれ、これが「戸塚」の地名の起こりとも言われています。境内には松尾芭蕉の句碑もあります。
     戸塚区役所

【冨塚八幡宮】 戸塚の鎮守様 勝負開運 厄除けの神社
御祭神  誉田別命(応神天皇)  冨属彦命(相模国造二世孫)
例大祭  八月第一日曜日(前日宵宮)
    御 由 緒
 平安時代、前九年の役平定のため源頼義・義家が奥州に下る途中、この地にて応神天皇と富属彦命の御神託を蒙り、其の加護により戦功を立てる事が出来たのに感謝をして、延久四年(西暦1072年)社殿を造り両祭神をお祀りしました。
 社殿後方の地は富属彦命の古墳であり、これを富塚と称した事により戸塚の地名が発祥したと伝えられています。
 戸塚(富塚)一族は昔この地に住み、当神社を氏神として崇敬しておりました。現在全国に散らばる戸塚姓富塚姓の方々の守護神でもあります。
 現在の本殿は天保十四年、拝殿は昭和九年の造営になります。
 明治六年には其の由緒を以って戸塚・泉・瀬谷・栄区唯一の郷社(近郷を鎮守する神社)に列せられました。

宮御神輿  宮御神輿は江戸時代天保十四年の作で、平成元年から二年かけて大修理を行いました。
    境 内 社
玉守稲荷  豊作 商売繁盛の神様
冨塚天神  学問成就 合格祈願の神様
【芭蕉句碑】
   鎌倉を 生きて出けむ 初松魚(かつお)  芭蕉翁
 当時鎌倉で水揚げされた初鰹は戸塚を通り江戸に運ばれました。
 嘉永二年、当地の俳人達によって戸塚にちなんだこの句の碑が建てられました。
【冨塚天満宮】
 江戸時代末、当宮神主が開いていた私塾の門弟達が、学問の成就を願い、明治元年に建立しました。
 ながらく境内奥まった所に在りましたが、その霊験あらたかなるを以って平成十一年、この処に遷しました。


 (左下の写真は、玉守稲荷脇の石碑群と冨塚の碑へ行く山道入口。)

【冨塚之碑】 (冨塚八幡宮の裏山) 10:50〜11:00
 上の写真の石碑群の脇を通って踏跡をたどって本格的な山道を登って行くと頂上に、戸塚の名前の由来となった冨塚之碑が建っている。

 碑には『冨塚八幡宮九百年式年記念 冨塚之碑』と刻まれており、塚の周り全てに注連縄が張り巡らされていた。


 この塚の右手一帯が富塚八幡緑地になっていて、芝生地にベンチやテーブルが置かれている。
 この緑地(公園)から下る正式な階段道は、冨岡八幡神社手前の旧東海道・冨塚八幡宮の標柱が立っていたあたり出た(11:00)。

【上方見付跡碑】 (左右) 11:04
 次の「下郷入口交差点」を越えた先、右側の「サイゼリア」前とその向い側に上方見付跡がある。
 街道右側の歩道上には標柱と四角い石積の上に楓が植えられていた。標柱正面に『横浜市地域史跡 東海道戸塚宿見付跡 ―上方見付―』、右側面に『昭和六十三年十一月一日登録 横浜市教育委員会』と書かれていた。
 街道左側の「サイゼリア」駐車場入口脇には、旧東海道・上方見付跡の説明付標柱と広重の浮世絵が掲げられている。標柱にはこの辺りの古い写真が載せられており、標柱と浮世絵の間の石積の上に小振りの松が植えられていた。

【上方見付跡】 旧東海道
 江戸方見付から、約二・二kmの距離にある戸塚宿京方の出入口です。 現在は道の両側に一・五mほどの石の囲いがあり、昔と同じように京に向って左に松の木、右に楓の木が植えられています。ここから京方は数々の浮世絵の背景に登場する長大な大坂の上りが続いています。
     戸塚区役所
【戸塚区制50周年記念】 
浮世絵の説明文
 この銘板の浮世絵は、嘉永(1848〜1853)時代に安藤広重が東海道五十三次の戸塚宿を描いたものです。宿場町として栄えていた頃の様子がうかがえます。
     平成元年4月 横浜市戸塚区役所、戸塚土木事務所

【第六天神社】 (右側) 11:09
 次の「大阪下交差点」を越えた右側に第六天神社がある。



 2002年に訪れた時は樹木に囲われて鬱蒼としていたが、2014年の時は樹木が全て伐採され、鳥居・石燈籠・社殿全てが新装なっていた。
 変わっていないのは鳥居の左側に建っている「藤行翁之碑」だけであった。由緒等は無かった。


 (写真左が2014年に、右が2002年に撮影したもの)

【大坂の古碑群】 (右側) 11:15
 第六天神社前から長い大坂の上り道となる。「Mapionのキョリ測」で測ると800mの坂である。
 坂の途中、「大坂台信号」手前の右側に古碑群(8基)がある。

 一番左は良く分からない小さな石碑だが、残りの7基は全て庚申塔で、殆どに三猿と青面金剛が彫られており、延宝五年、元禄四年・六年・八年などが読める。

 2002年の時、この古碑群の少し先右側に馬頭観音があったが、2014年の時は見逃してしまった。

 その先二又道の左側を進むため「大坂上信号」で国道の左側に移っておくこと。

【大坂松並木】 (左側) 11:30
 大坂の二又道の左を更に登り切ると、国道1号線の新道と合流する。合流した左のマンション前は広場になっており、テーブルとベンチがあるので一息つける。
 マンションの隣、「ホーユウパレス戸塚」入口前の歩道上に旧東海道・大坂松並木の説明と坂を下ろうとしている浮世絵付標柱が立っている。
 少し前までは左手が大きく開け、戸塚の町や富士山が良く見えたが、近年大きな建物が建ち並び景観はあまり良くない。また、中央分離帯も含め松が少なくなり、他の樹木ばかりになってしまった。
【大坂松並木】 旧東海道
 大坂では天気の良い日に松並木から素晴しい富士山が眺められることから、多くの浮世絵の画題となりました。昭和七(1932)年に坂の改修工事が始まり、頂上を削り、下の方は十mほど土盛りをしてなだらかな長い坂にしました。現在の大坂になるまでは数回の改修がおこなわれたそうです。
     戸塚区役所


【お軽勘平戸塚山中道行の場】 (左側) 11:38
 「汲沢町第二歩道橋」を過ぎた「西横浜国際総合病院前バス停」の左脇にお軽勘平戸塚山中道行の場碑が石柱で囲われて建っている。
 入口の右の石柱には『横浜市戸塚区観光協会』、左の石柱には『お軽勘平の碑建設実行委員会』と刻まれている。
 三段上って、正面の碑には『東海道 お軽・勘平 戸塚山中道行の場』と刻まれ、碑の右には松が、左には碑石の由緒を刻んだ石碑がある。
【碑石の由緒】

♬落人も見るかや野辺に若草の・・・
 は、清元の名曲道行旅路の花聟の語りだしとして江戸以来人口に膾炙されているが、お軽・勘平の道行の場

♬こゝは戸塚の石高道・・・ の旧跡という
 この曲は天保四年三月、江戸河原崎座の初演以来百四十数星霜を経てなお上演を重ね、戸塚の名は墨繪の夜の富士とともに
♬ほんの旅寝の仮枕嬉しい・・・
 舞台の華やかな思い出を多くの人の脳裏に深くきざみこんでいるお軽・勘平の道行は戯曲上の設定であれ史実にまごうほど戸塚の地名とは離れぬ仲
♬かわいかわいの夫婦づれ・・・
 のゆかりはつきぬ道行の名勝に建碑の由緒を記す
     昭和四十六年七月 文学博士 松本亀松 撰

 『仮名手本忠臣蔵』のお軽勘平の道行にちなんで建てられた碑。お軽の在所(生まれ故郷のいなか)への旅の途中、この辺りはさびしい山の中。勘平「鎌倉を出てようようと、ここは戸塚の山中、石高道(いしだかみち)で足はいたみはせぬかや」、お軽「なんのそれよりはまだ行き先が思われて」、勘平「そうであろう。しかし昼は人目をはばかる故」、お軽「幸いここの松陰で」、勘平「暫しがうちの足休め」、お軽「ほんによれがよいわいの」。
 右の国道を飛ばしている車を見ると、ここがさびしい山の中だったとは想像もつかない。


【原宿一里塚跡】 (左側) 11:47
 国道1号線の中央分離帯が無くなる「吹上交差点」の少し先、民家の石垣に原宿一里塚跡がある。石垣の手前に旧東海道・原宿一里塚跡の説明付標柱が、石垣の上には古い説明板が立っている。古いものは2002年当時からあったもので、その頃よりかなり擦れてしまっていた。
 国道の反対側(右側)は小高くなっており、大きな塚の様に見える。
【原宿一里塚跡】 旧東海道
 江戸より十一番目の一里塚で、吹上の一里塚とも言われています。当時は松の木が植えられていました。明治九(1876)年に里程標の杭をたてるとき、一里塚は不要となったので取り払われました。
【原宿一里塚跡】 
古い説明板
 一里塚は、慶長九年(1604)二月、江戸幕府が大久保石見守長安を総奉行に任命し、東海道の整備にあたらせたとき構築したもので、一里(四キロ)ごとに街道の両側に円形の塚を築き、距離をしめした。 また、塚の上には榎を植えて木陰をつくり、旅人の休憩にも便宜をあたえた。

 原宿の一里塚は、起点の江戸日本橋から測って十一里目にあたっている。塚の付近に茶店などがあったので、原宿と呼ばれるようになったという。

 戸塚区内には、品農、吉田、原宿の三か所にあったが、品農町のものは道を隔てて二基、ほぼ原型のまま当時のすがたを残しているもので、神奈川県の史跡に指定されている。当地原宿にあったものは、明治九年(1876)十月里程標の杭をたてるとき一里塚は事実上不要となったので取り払われてしまい、現存していないが、一里山の名を残してその位置を示しているのが現在地である。

     昭和四十八年十一月 戸塚区役所・戸塚観光協会


【浅間神社】 (右側) 11:51
 
次の「浅間神社前信号」の手前左側に旧東海道・浅間神社入口の説明付標柱が立っていて、浅間神社は信号を渡った国道右側が参道入口となる。入口には木と石の鳥居や石燈籠が建ち、社殿は鳥居をくぐった斜め後ろ130m奥にあるが、そこまでは行かなかった。 
【浅間神社入口】 旧東海道
 室町時代の永禄年間(1558〜1570)年に、その頃盛んであった富士信仰をもとに村内安全を祈願するために勧請されたと言われています。境内には樹齢六百年を越えると言われる多くの椎の木があり、西には遠く富士山や箱根連山を見ることができます。横断歩道を渡った所に浅間神社入口があります。

<昼食> 12:00〜12:35
 次の「原宿交差点」手前右側に「マクドナルド」で昼食。
 「原宿交差点」はかつて交通渋滞の最たる場所だったが、国道に「原宿トンネル」が完成して立体交差になってからは車がスムーズに通過できるようになった。
 2002年に訪れた時は、この「原宿交差点」を越えた左側に道祖神が数基、その先に石囲いの馬頭観世音が建っていたが、撤去されたのか見逃したのか見つけることは出来なかった。


【諏訪神社】 (左側) 13:00
 国道をしばらく進んだ「影取町第二歩道橋」を過ぎた左側に諏訪神社がある。

 神社の前に旧東海道・諏訪神社の説明付標柱が立ち、鳥居の左横には、横浜市指定名木古木のクスノキが聳えている。

諏訪神社】 旧東海道
 創建年代は不詳ですが明治四十(1907)年に山谷仲町からこの辺りに移転し出来た神社で、周辺が鉄砲宿と呼ばれていた事から武神の諏訪神社を勧請したと言われています。影取の地名の由来となった影取池は、この神社の奥にあったと伝えられています。


 影取池には大蛇伝説があるが、この先県道30号線に入るとその説明板が出てくる。

【双体道祖神】 (左側) 13:12
 諏訪神社より左側の側道を歩き、「藤沢バイパス出口交差点」でそのまま「江ノ島」方向の県道30号線に進む。

 県道に入り左側に街路樹帯が始まった所の遊歩道に双体道祖神が祀られている祠が建っている。祠の中の左奥に簡単な説明文が掲げられていた。


 奉納道祖神
  宝暦九年(一七五九年)正月十四日
     鉄砲宿村

【鉄砲宿】 (左側) 13:17
 左側の「鉄砲宿バス停」のすぐ先に旧東海道・鉄砲宿の標柱が立っていて、『鉄砲宿と影取池の昔話』が載っていた。

【鉄砲宿と影取池の昔話】
 昔々このあたりにいた長者が自分の蔵に住み着いた大蛇を水神様のお使いとして「おはん」と名付け、大層かわいがっていました。ところが長者の家が没落し、大蛇への餌もままならなくなってきました。それをみた大蛇は長者様には迷惑はかけられないと、近くの池へ去ってゆきましたが、そこには十分な食料が無く、元々大食だった大蛇は空腹に耐えかねると池のほとりを歩く人の影を食べて飢えを凌いでいました。ところが影を食べられた人はだんだん弱ってしまうので、村人はこの池を影取池と呼んで恐れるようになりました。大蛇を退治しようとしたのですが、鉄砲を見ると大蛇は水底深く潜ってしまうので退治できません。村人は一計を案じ鉄砲の上手い猟師に頼み、昔の長者様のように「おはん」と名を呼びました。昔の飼い主が迎えにきたと思いこんだ大蛇は姿を現すと、ついに撃ち殺されてしまいました。いつしか影取池は埋められ影取の名と悲しい話だけが残されました。この大蛇を撃った猟師が住み着いたところを鉄砲宿と呼ぶようになったといいます。

【旧東海道松並木跡】 (右側) 13:27
 横浜市戸塚区から藤沢市に入り、「緑ヶ丘歩道橋」の手前右側の「緑ヶ丘バス停」横に東海道松並木跡の石碑と説明板が立っている。

【東海道松並木跡】

 この道は、その昔「東海道」と呼ばれた街道で、江戸時代の浮世絵師安藤広重の描いた「東海道五十三次」には、みごとな松並木が見られます。松並木はその後鬱蒼(うっそう)たる大木に成長し、ここ「緑が丘」にふさわしい風情を保っていましたが、1960(昭和35)年頃から全国各地に猛威をふるった松喰虫の被害で無残にも大半が枯れて失われてしまいました。ここに、そのいにしえの面影を偲ぶとともに、いま新たに、花と緑のある近代的な歩道が整備されたことを記念し、この碑を建てます。

     平成4年早春 藤沢土木事務所


【一里塚跡】 (両側) 13:39
 「遊行寺坂上交差点」・「西富歩道橋」を過ぎると下り坂になる。道標には「遊行寺坂」とある。
 「遊行寺坂」を下っている途中、左手に登っていく階段があり、その登り口に一里塚跡の標柱が立っている。
 また、県道反対側(右側)には天保12年(1841)版『東海道分間絵図・藤沢』も載っている説明板が立っている。

【一里塚跡】 (左の標柱)
   この辺りの道路両側の崖上
   現在は何も残っていません
 崖上の高さまであった旧東海道を掘削改修したのが現在の道路です。江戸時代には、街道の両側に盛土し榎を植えた一里塚があって、旅程の目印とされていました。
     藤沢市教育委員会
【一里塚跡】 
(右の説明板)
 かつて、このあたりの道路の両側に一里塚がありました。一里塚は、主要な街道の一里(約四キロメートル)ごとに江戸幕府が設けたもので、旅程の目印として利用されていました。崖上の高さまであった江戸時代の東海道を掘削改修したのが現在の道路で、一里塚も崖上にありましたが、今は残っていません。
 左図は往時の面影を伝える資料の一つです。画面上部の道が東海道、くの字に曲がるところに遊行寺が描かれています。その右側に「一りづか 榎三」と記され、街道の両側に植木のような描写があります。今の遊行寺坂より遥かに急な坂道で、その坂の上に遠くからでも分かりやすいように、盛土されて榎が植えられていた様子がうかがえます。急坂の上、榎が木かげで一休みする旅人の姿が浮かんでくるようです。
     平成二十年(2008)三月 藤沢市教育委員会

【見附跡】 (右側) 13:46
 一里塚跡の3分程下った先の左側に諏訪神社があるが、右側に渡っていたので行かなかった。
 その諏訪神社の斜め向いにあたる右側の歩道上に藤沢市教育委員会が立てた見附跡の標柱があるが、説明文等は書かれていなかった。

 遊行寺東門の少し手前に立っている(左の写真で、石垣の上に白い看板が見える所が遊行寺の東門)
 ここが江戸方見附だった所で、ここが藤沢宿の江戸側入口だった。

【遊行寺(ゆぎょうじ) (右側) 13:48〜14:30
 見附跡から本来はこのまま坂を下り、境川の手前にある「イイジマ薬局」の所を右折した藤沢広小路を通り、突き当りを再度右折して総門(黒門)から遊行寺に入るのが良いのだが、2回目なので楽な東門から入り、奥から順に「遊行橋」へ出た。2002年の時は正面から入った。

 東門から入ってすぐ左手に藤沢敵御方供養塔が建っている。

【藤沢敵御方供養塔】 国指定史蹟(大正15年十月20日指定)
 この石塔は、上杉禅秀の乱で戦死した敵・御方(味方)を供養するため、応永二十五年(1418)に造立されたものです。
 基礎石の上に角柱型の石塔が立てられ、塔身に銘文が刻まれています。銘文は、摩滅していて読みとりにくいのですが、次のように解読・解釈されています。

  南無阿弥陀佛
    自應永廿三年十月六日兵乱至同
    廿四年於在々所々敵御方為箭
    刀水火落命人畜亡魂皆悉往生浄土
    故也過此塔婆之前僧俗可有十念者也 応永廿五年十月六日
 応永二十三年(1416)十月六日からの戦乱は同二十四年に至り、あちらこちらで敵方も御方も箭(矢)・刀・水・火のために命を落としました。亡くなった人間や家畜(軍馬など)の魂が、皆ことごとく極楽浄土へ往生しますように。この塔婆の前を通り過ぎる僧侶も俗人も十念(十回の南無阿弥陀仏)をとなえて下さい。

 この戦乱は、足利持氏に対して禅秀が起こしたもので、関東を統治する鎌倉公方持氏と、その補佐役との争いだったため、鎌倉から関東各地に戦火が広がりました。結局、室町幕府が持氏に援軍を送り、翌年一月に禅秀らの敗北自害で落着しました。銘文末の日付は塔の造立日で、乱が起きてからちょうど三回忌にあたります。時の遊行寺住職は遊行十四代(藤沢八世)太空上人。文中にある「敵御方」は戦乱の勝者持氏にとっての敵味方をいうもので、この石塔は、持氏が発願主となって、太空上人を導師として造立したものと考えられています。
 敵と味方を一緒に供養した石塔の中では古い作例で、この他の類例としては、慶長四年(1599)高野山奥の院(和歌山県)に、 豊臣秀吉の朝鮮出兵による両軍戦死者を供養して造立されたものなどが知られています。時宗では、怨(敵)・親(味方)両者を区別せず平等に弔った石塔の意味で、怨親平等碑とも呼んでいます。
平成二十年(2008)二月 藤沢市教育委員会


 東門を入ってすぐ右手に『小栗判官墓所入口』の石柱が立っている細道に入って行くと、遊行寺本堂の右脇を進んだ突き当たりに小栗判官ゆかりの寺である長生院がある。
 細道の途中左側に酒井忠重逆修六地蔵供養塔五輪塔が建っている。また、右手の墓地には堀田家三代墓碑が建っている。
 小栗判官の墓所は、長生院の門を入ってすぐ左に曲がり、更に右手の門をくぐって小栗堂の側面を裏に回り込むと説明板、小栗判官眼洗之池照手姫の墓名馬鬼鹿毛の墓等と共にある。

【(伝)小栗十四代城主・小栗孫五郎平満重と家臣の墳墓由来について】

 桓武天皇の曽孫・平上総介高望から七代の子孫と伝えられる平重家(平上総介重樹の四子)は、平安時代の久寿二年(1155)に、伊勢皇大神宮小栗御厨(神領)の保司(長官)となって要害の地であった小栗山(協和町宮本)に築城し、地名の小栗を称して小栗氏となり、その子孫は十五代に至るまでの三百余年の間、領主として常陸の国(茨城県)の小栗地方を統治され、盛衰の歴史の中に小栗武名の威光を見るに至りました。

 その小栗の十四代城主であった小栗孫五郎平満重は、室町時代の応永三十年(1423)八月二日、関東公方足利持氏との激戦に奮戦拙く破れ小栗城は陥落しました。

 この落城により満重はその子助重と十勇家臣と共に、一族の小栗貞重等(愛知県)を頼って落ちのびる途中、相州藤沢辺の悪党横山大膳の館(横浜市戸塚区東俣野)で、歓待宴酒に毒をもられ、家臣十名は毒殺されて哀れにも上野ヶ原(藤沢市)に捨てられたが、幸いにして時宗総本山・無量光院清浄光寺(藤沢市)八世・(遊行十四代)他阿太空上人のご光配によって藤沢山境内に手厚く埋葬されました。

 幸運にも照手姫の助によってこの大難を逃れ、九死に一生を得た小栗助重は、熊野本宮湯ノ峰温泉(和歌山県本宮町)に浴して快復し、父満重の死(応永三十三年三月十六日)後、十余年を経た嘉吉元年(1441)の結城合戦(結城市)に、幕府軍の将として活躍し、その論功により再び小栗領に復しました。

 なお助重は、毒殺という非業の死をとげた十勇家臣の菩提を弔う追善に、藤沢山に入り、追孝謝恩の供養をもって父満重と家臣の墓石を、八穂池のほとりに営んだと伝えられております。

 またこの施主助重が、世上有名な小栗判官と称された室町時代の武将で、小栗十五代城主・小栗彦次郎平助重であります。(御戒名・天照院殿前金井太陽宗源大禅定門)

 ここに、無念にも相州の野辺に露と消えた小栗十勇家臣の悲惨な死を哀悼し、更にその追善への意向を表敬して、小栗主従墳墓の概略由来を顕彰するものです。(小栗伝承藤沢編)

     平成二年六月一日 時宗長生院・小栗公等顕彰会

 家名を再興した助重は照手を妻に迎え、助重の死後照手姫は髪を剃り長生尼と名のり、助重と家臣の墓を守り、余生を長生院で終わったという。

木造阿弥陀如来坐像】 藤沢市指定重要文化財(彫刻) (平成は8年3月1日指定)

 当院の本尊である本像は、平安時代後期の作と推定され、市内屈指の古仏である。像高は五二、五cmで、上品下生印を結ぶ典型的な定朝様の尊像である。定朝様は、大仏師定朝が完成した公家好みの様式で、宇治平等院鳳凰堂本尊を代表作とする。構造は、桧材の寄せ木造りで、目は彫眼、頭の螺髪は彫出されている。木寄せは、頭と躰を共木で造り、首で割り矧ぎ更に前後に割り矧いでいる。尊顔は穏やかで、尊体の抑揚少なく、彫技は浅く整えられている。頭の躰そして組んだ両足の微妙な均衡、穏やかさと強さの調和に鎌倉期の足音を感ずる。
     藤沢市教育委員会
【時宗板碑二基】 市指定重要文化財(建造物) (昭和41年1月17日指定)
 板碑は、鎌倉時代始めの嘉禄(1225)頃から、近世初頭の天正、文禄(1573〜1595)頃までの間に流行した卒塔婆の一種である。時宗板碑には、「南無阿弥陀佛」の名号を刻みつけたものが多いが、その名号には、楷書体のものと行、草書体の二系統がみられる。
 長生院の板碑は、緑泥片岩でつくられた武蔵型板碑である。長方形の板状の頂部を山形にし、その下の二条の切り込みを作る。身部には楷書体でつぎのような銘文が刻まれている。

  南無阿弥陀佛 延文元年 経阿弥陀佛 十二月三日
  南無阿弥陀佛 本阿弥陀佛百ヶ日為 永和三年巳丁十月十七日

 延文元年は1356年、永和三年は1377年にあてられている。
 この二基の板碑は、江戸時代末に遊行寺境内から発掘された。
     藤沢市教育委員会

 正面ルートから説明すると、遊行寺橋を渡ったすぐ先、右への広い道が日本三大広小路で、その入口に説明板と昔の絵図や古い写真が掲げられていた。

【日本三大広小路】 

 広小路とはもともと火除地を意味する。江戸ではたびたびの火災で多くの人家が焼失したので、幕府は1657年の大火前から火除地を計画していたが護持院の焼失を契機に八代将軍吉宗は、この地を火消地とし、さらに各地に設定した。この頃、中橋広小路、長崎町広小路、大工町広小路、両国広小路、などができたが、その後各地の重要社寺等の門前に設けられた。

上野広小路  現在の上野公園全域が寛永寺境内であり、歴代将軍の廟所だった。その門前町として賑やかであった。アメ横あたりまでをいう。

名古屋広小路 名古屋城正門前。現在広小路通り。

三島広小路  三島大社前。現在広小路町。 伊豆箱根鉄道の駅名に残る。

高山広小路  高山陣屋前。現在広小路通り。

藤沢広小路  遊行寺前。東海道五十三次の中で、ここは3曲がりとして有名であった。(藤沢橋は関東大震災後つくられた)

  調べればまだあるだろう。広小路は類焼を防ぐとともに、被災者の避難所にもあてた。なお町火消しの発達とともに、廃止された広小路もあった。藤沢の広小路の名は、江戸時代の文書にたびたびでてくるが、おおよそ現代の大鋸「小字大鋸」の範囲を広小路としている。

 かつて日本三大広小路と呼ばれていたのは、非常に広かったことにもよるが、時宗総本山遊行寺の繁栄時代、門前町として商家が櫛比し、人の往来激しく、各地に知れ渡っていたためと思う。

 大鋸広小路の範囲は古絵図を参照するとほぼイイジマ薬局から旧労働基準監督署の一帯と考えられる。

 これは江戸時代中期までのことである。

     平成十二年九月 大鋸広小路会

 そのまま参道を真っ直ぐ進むと、時宗総本山・清浄光寺と書かれた黒門(総門)がどっしりと建っている。黒門の右下に石の傍示杭が立っていて『門前先通道幅四間二尺』と刻まれていた。
 黒門を入った石畳の参道はいろは坂と呼ばれている。2002年に来たときには黒門を入ってすぐ左手に赤木の子守唄でその名を知られる板割浅太郎の墓があったが、2014年の時は見落とした。
 いろは坂の緩い坂を進むと右手に真徳寺、左手に眞浄寺がある。

〔黒門といろは坂〕

遊行寺の総門の冠木門で、日本三大黒門のひとつであるといわれています。参道の石段は四十八段あることから、「いろは坂」と呼ばれています。

〔板割浅太郎の墓〕 (2002年の説明板)

 赤城の子守唄でその名をよく知られる板割浅太郎(本名大谷浅太郎)は、天保十三年(1842)赤城山騒動の後親分国定忠治と別れ、渡世の足を洗うため佛門に入った。長野県佐久市の時宗金台寺の住職列外和尚の弟子になり、僧名を列成と名乗った。後に遊行上人の手引きによりこの地に移る。遊行寺の堂司(堂守)を勤めた。朝夕の鐘つき、札売り、参詣者へのお茶の接待、境内の清掃に精を出しながら念佛三昧の日々をおくり、かつて自ら手を下した中島勘助、勘太郎父子の菩提を弔った。その精進改心が認められ、当時ここに在った貞松院の住職になった。明治十三年(1880)遊行寺が炎上した折り、六十才を過ぎた和尚は勧進僧となり各地を巡って浄財を募り、本山復興に力を盡して佛恩に報いた。

 明治二十六年十二月三十日、七十四才でその生涯を閉じた。石碑には当院四十二世“洞雲院弥阿列成和尚”と刻まれている。今からおよそ九十余年前のことである。

     赤門 真徳寺住職
 境内に入るとまず左手に大イチョウが聳え、正面に清浄光寺(遊行寺)の本堂が建っている。

【大イチョウ】 市指定天然記念物(昭和46年7月5日指定)

     樹高約二十一メートル 幹回り七一〇センチメートル

 ひときわ大きなイチョウで、遊行寺境内のシンボルとなっています。境内最大の巨木は、市内で一番太い木でもあります。
 かつては高さが三十一メートルありましたが、昭和五十七年(1982)八月の台風で地上六メートルの辺りで幹が折れてしまいました。今、樹木全体がずんぐりとした形に見えるのは、この時の損傷のためです。折れた幹の中は空洞で炭が入っていたので、過去に火災に遭ったことがあるようです。雨で腐らないよう折れた部分にトタン板を張って防いだところ、樹勢が回復しました。平成四年(1992)の調査で六八六センチメートルだった幹回りは、平成二十年の計測では七一〇センチメートルと太くなっていました。
  樹齢については、指定時の調査では幹の太さから約六五〇〜七〇〇年と推定されました。その後、台風で幹が折れた際に行われた折損部材の年輪測定では二五〇年だったので、それ以上の樹齢であることは確かです。ただし、イチョウの古木は根元の外周から生えた若木が育ち、元の木が枯れて中心が空洞になることがあるので、元来の樹齢は不明とせざるをえません。イチョウは中国原産で、日本への渡来は早くても十二世紀以降のこと、遊行寺の創建は正中二年(1325)なので、何れにせよこれをさかのぼることはないでしょう。
 雄株なのでギンナンはなりませんが、晩秋の黄葉はみごとです。例年十一月下旬から十二月上旬に色づきます。
     平成二十年(2008)九月 藤沢市教育委員会

 上の写真で、奥に見えるのが本堂、右手前に一遍上人像、右奥に長生寺がある。


一遍上人(1239〜1289年)像

本堂

【時宗総本山 遊行寺】 

 清浄光寺(しょうじょうこうじ)が公式の寺名ですが、遊行上人の寺ということから広く一般に遊行寺と呼ばれています。

 宗祖一遍上人は「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」のお札をくばりながら、日本各地をまわり遊行して踊り念仏を行いました。
 この遊行寺は正中二年(1325)遊行四代呑海(どんかい)上人によって開かれ「藤沢道場」といわれ時宗の総本山となっています。

 宝物として、国宝「一遍聖絵」重要文化財「時衆過去帳」「後醍醐天皇御像」など多数あります。
 境内には、市指定天然記念物の銀杏の巨木、国指定史蹟「藤沢敵御方供養塔」、県指定重要文化財の梵鐘、長生院にある小栗判官と照手姫の墓や有名文学碑などもあります。また、桜・ふじ・花しょうぶの名所で、観光百選の一つにもなっています。

 本堂の左手には鐘楼が建っている。

【清浄光寺銅鐘】 県指定重要文化財(工芸品) (平成2年2月13日指定)
 総高一六七センチ、口径九二センチ
 鋳造は、銘文によると延文元年(1356)。遊行八代渡船上人の時にあたる。遊行寺開山以来、ようやく時宗が降盛期に達した時代であった。
 冶工は、中世の関東地方で活躍した鋳物師の物部氏の一人、光蓮と考えられる。この他の光蓮の遺作には伊勢原市日向宝城坊の暦応三年(1340)銘梵鐘、鎌倉市東慶寺蔵の観応元年(1350)銘梵鐘がある。
 この銅鐘は、五段五列の乳の配列、上帯の飛雲文、下帯の蓮華唐草文、撞座の蓮華文などに物部様式の特徴を持つが、竜頭部や宝珠の表現にはすでに形式化がみえる。
 銅鐘の銘文は、藤沢市伝来の梵鐘の中で最古のものであり、中世の時宗の姿や遊行寺を有する当時の藤沢の様子をつたえる貴重な史料である。
 この銅鐘は、永正十年(1513)に後北条氏によって小田原へ持ち去られ、陣鐘として使用された。さらに足柄下郡の寿昌寺に移転されたが、江戸時代初めの寛永三年(1626)、遊行寺の檀徒の手により取り戻され、再びここに設置されたものである。
     藤沢市教育委員会

 鐘楼の左脇を進むとその先に南部右馬頭茂時墓があり、その奥には歴代上人御廟所宇賀神がある。宇賀神の社の後ろには弁財天が祀られている。



遊行寺の宇賀神】

 遊行寺の宇賀神は、徳川家の祖先、有親公の守り本尊といわれています。
 有親公は、遊行十二代尊観法親王の弟子となり、名を徳阿弥と改めました。
 応永三年(1396)徳阿弥は、宇賀神に子孫繁栄を請い自筆の願文を添えて当山に勧請しました。
 宇賀神は、天女の様で頭上には白玉と白蛇を刻した宝冠をのせていました。のちに、徳川幕府により神殿を奉納されましたが、明治十三年遊行寺が類焼にあった時に焼失し、現在の神殿はのちに再建されたものであります。
 宇賀神には賊施の意味があり、この宇賀神を供養尊信する者は、金・衣・食・住・田畑・豊饒の福を授かり、徳に金福の徳を授かると伝えられています。
 寛政六年(1794)十一月に当山が焼失した際に宇賀神も類焼し、徳川幕府より白銀参拾枚を再建費としていただいております。
     時宗総本山 遊行寺

 大イチョウの手前を左に入ると宝物殿が建ち、その前に明治天皇御膳水と書かれた井戸があって、傍に御行在所日と題した天皇と皇后の大書院宿泊日が書かれていた。
【御行在所日】 宿泊(大書院)
 明治 元年  四月十二日  東征軍有栖川宮大総督御宿泊所となる
                  供奉員は西郷隆盛
 明治 元年  十月  十日  明治天皇東幸の折り御宿泊行在所となる
 明治 元年十二月  九日  明治天皇還幸の際御休息なされ遊行上人とご対面なさる(遊行五十九代尊教上人)
 明治 二年十一月  九日  明治天皇東幸の折り御行在所となる
 明治 五年  六月十八日  皇后陛下箱根に行啓の際御休息なさる
 明治 五年  八月  三日  明治天皇・皇后陛下箱根に行啓の際御休息なさる
 明治 五年八月二十一日  明治天皇還幸の折り御宿泊行在所となる
 明治 九年八月二十七日  皇后陛下箱根に行啓の折り御宿泊所となる
 明治 九年十一月二十日  皇后陛下京都行啓の折り御宿泊所となる
 明治 十年  一月十一日  皇太后陛下京都行啓の折り御宿泊所となる
 明治 十年五月二十一日  皇太后陛下東京還啓の折り御宿泊所となる
 明治十一年十一月 八日  明治天皇北陸からの還幸の折り御宿泊行在所となる
                  供奉員は右大臣岩倉具視・参議大隈重信
                  井上馨・内務省大書記官品川弥ニ郎・宮内省
                  大書記官山岡鉄太郎(鐡舟)等五十名
 明治三十四年十一月三日 東宮殿下(大正天皇)鎌倉御用邸より来山、上人と御対面なさる(六十一代尊覚上人)
     時宗総本山 遊行寺 

 更にその奥に進むと中雀門がある。

【中雀門(ちゅうじゃくもん)】 

 安政年間(1854から60年)に建造されました。清浄光寺(遊行寺は通称)は創建以来たびたび火災にあっていますが、この中雀門は明治十三年(1880)の大火の際にも焼失を免れた、現在境内で一番古い建物です。大正十二年(1923)の関東大震災でも焼失はのがれましたが倒壊したものを、そのまま復元して今にいたっています。向唐門づくりで、高さ6m、幅は3.7mです。側面の大棟に菊の御紋、屋根の下に徳川家の葵の紋が刻まれています。普段は閉じられていますが、春と秋の開山忌やお正月などには開門されます。

     平成五年二月 藤沢市教育委員会

 中雀門の内側には書院放生池がある。

〔放生池〕

 この池は一名放生の池とも称し、江戸幕府の記録である「徳川実紀」元禄七年十月の日記によれば、

  金魚、銀魚等を放生せんと思わば清浄光寺(遊行寺)道場の池へと命され、かつ放生の際は、その員数をしるし目付へ届出づべし

と記録されている。古来より由緒あるこの池に金魚、鯉等を放生すれば、その功徳により家内の繁栄は勿論のこと長寿を保つとされている。


【遊行寺橋】 

 旧東海道は、遊行寺坂を下って境川の手前で右折し、藤沢広小路を通ってすぐ左折、次いで遊行寺橋(下記【藤沢宿】の現在の写真参照)を渡って再び右折して行った。
【遊行寺橋】 (2002年に袂に立っていた説明板より)

 戸塚から歩いてきた旅人は、遊行寺を右に見ながら急な遊行坂を下り、境川にかかるこの橋を渡った。当時は手前の町名をとって大鋸橋(だいきりばし)と呼ばれていた。このあたりからが藤沢宿。


【自動車排出ガス測定局】 (右側) 14:30
 遊行寺橋を渡って国道467号線に出た所の右側に自動車排気ガス測定局と言う、なまこ壁の建物が建っている。
 旧街道に相応しいその建物の入口の前には『東海道藤澤宿 昔話のある町 旅籠町・伸久保町』 の看板が立っていて、右手には『東海道五十三次 藤澤宿』の浮世絵と『東海道藤沢宿の成り立ち・しくみ』と題する説明板が立っている。
 説明板に描かれている東海道分間延絵図には番号が振られ、それに対比した解説が載っていた。

【東海道藤沢宿の成り立ち・しくみ】
 東海道分間延絵図(とうかいどうぶんけんのべえず)は江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図です。この絵は東海道の13巻のうち藤沢宿の部分にあたります。絵図には、問屋、本陣、脇本陣、寺社、高札など、当時の藤沢宿の姿が丹念に描かれています。

藤沢宿
 藤沢宿は慶長6年(1601年)東海道の宿場となり、後に戸塚宿、川崎宿が追加され五十三次の第6番目の宿場となりました。天保14年(1843年)の記録では、宿場の人数4089人、家数919軒でした。大山道や江の島道が分かれる観光地としての賑わいに加え、周辺農村からの物資の集積地として繁盛しました。宿場の機能がなくなったあとも、明治時代から昭和初期にかけては、交通の要所として地の利を生かした問屋業などで栄え、その面影を残す土蔵や町屋がわずかに残っています。

@藤沢御殿
 藤沢御殿は、藤沢宿が整備される前の慶長元年(1596年) 、東海道を利用する際の休憩・宿泊施設として徳川家康が築いたと推定されます。記録によれば将軍の御殿利用は寛永11年(1634年)の三代将軍家光の利用が最後のようです。
A本陣と脇本陣
 江戸幕府は、街道を往来する幕府の役人や大名、公家などの専用宿舎として各宿場に本陣を指定しました。藤沢宿では堀内本陣と蒔田本陣がありましたが、堀内本陣は延22年(1745年)火災のため役を返上し、その後は蒔田本陣1軒となりました。
 脇本陣は本陣の補助的な施設で、享和3年(1803年)時点で大久保町と坂戸町に1軒ずつありましたが、のちに坂戸の脇本陣は廃業し、大久保町の脇本陣も別の家が勤めるなど特定の家に限定されていなかったようです。
B問屋場
 職場の役割として休泊と並んで重要なのが人馬継ぎ立て、すなわち運輸の機能でした。問屋場後は人馬の継ぎ立てを行うための役所です。藤沢宿では、大久保町と坂戸町に各々1か所ありました。
C見附
 見附は土居ともいい、宿場の玄関口となる施設で、道の両側に石垣が築かれていました。通常、江戸方と京方の両方にあり、見附から見附けまでが宿場の範囲で、藤沢宿の長さは約2190mでした。
D高札場
 高札場は幕府の法令などを掲示する場所で、往来の激しいところや地域の中心部に置かれます。藤沢宿では大鋸橋(現遊業寺橋)の際に設けられていました。屋根付きで高さ約3.6m、横幅5.4m 、縦幅1.8mの規模でした。
E旅籠屋
 一般の武士や庶民は旅籠屋に泊まりました。藤沢宿の旅籠は享和13年(1803年)には49軒、天保14年(1843年)には45軒あったという記録があります。
F枡形
 宿場の両端の街道をクランク状に曲げた場所を枡形といいます。藤沢宿では遊行寺の脇から大鋸橋(現遊行寺橋)に至るクランクが見られますが、これは、軍事防衛上の必要から意図的に設けられたものです。
     藤沢地区郷土づくり推進会議


【藤沢宿】 日本橋から12里12町(48.4Km)、次の平塚宿迄3里18町(13.7Km)、三条大橋へ113里21町(446.1Km)

        天保14年(1843)の人口4,089人、総家数919軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋45軒。 

安藤広重の東海道五拾三次之内・藤沢『遊行寺』

 銅製の鳥居は江ノ島弁才天の入口。後ろの山には遊行寺が誇張されて描かれている。

現在の遊行寺橋。遊行寺方向から見たところ(2002年撮影)。

橋を渡って左へ行けば江ノ島、旧東海道は右折する。

左後ろの白い建物が自動車排気ガス測定局

【庚申堂と庚申供養塔】 
 「藤沢橋」傍の「自動車排気ガス測定局」の前で今回の旅は終了(14:35)
 
 ここから国道467号線(江ノ島道)を南下して「藤沢駅」に向う。
 途中、国道の歩道上に立っている数カ所の東電の設備には藤沢宿の浮世絵が描かれていた。
 国道から駅方面に分かれるY字路を右に入るとすぐ左側に庚申堂が建っていて、境内の左側には寛文十三年庚申供養塔を始め数多くの庚申塔が並んでいた。
 



【木造青面金剛及び両脇侍立像】 市指定重要文化財(有形民俗文化財) (昭和五十九年三月二十六日指定)
 この庚申堂の本尊は青面金剛立像(寄木造・玉眼・彩色・像高八五センチ)で、一面三目で牙をむき出し、頭にドクロを頂き、蛇をまとっている。手は六本、鬼を踏みつけ、悪鬼を払う憤怒の形相で二童子を従えている。
 庚申信仰は、庚申の夜、子・丑の刻限にこれを拝すると病魔を除去できると説かれたところに発し、庚申講は徹夜で行われていた。
 当本尊は、この古形をよく伝え、木彫りとしてもすぐれているばかりか、保存状態も極めて良好である。それは、六十年毎の開帳を厳守してきた信仰の賜とも考えられる民族的に貴重である。
 制作年代は造像銘を欠き明確になしえないが江戸時代前期と推定される。
     藤沢市教育委員会

【寛文十三年(1673)庚申供養塔】 市指定重要文化財(有形民俗文化財) (昭和五十四年四月十三日指定)
 庚申信仰は、十干、十二支
の組み合わせによって、六十日に一度めぐってくる「庚申の日」に、その夜を眠らずに過ごして無病・息災・長寿を願う信仰である。この源流は、「人の体内にいる三尺(さんし)の虫が、庚申の夜、天に昇ってその人の罪過を天帝に告げるため生命を縮められる」とする中国の道教の教えに由来している。

 江戸時代、万治、寛文頃(1658-1672)には、仏教を背景に広く庶民に伝わり、「庚申講」が結ばれて庚申の夜は、講中の人々が当番の家に集まり、徹夜で酒食歓談して過ごす庚申待の行事や、供養塔の造立が盛んになった。

 この庚申塔は、全面一杯の六臂二眼の青面金剛像を陽刻している。着衣の裾には雌雄二鶏を彫り、足下に無邪気面をふまえ、威圧感を強調した表現である。

 基礎には、前面及び左右側面に十五人の造立者名が刻まれている。その中には浄阿弥陀佛・厳阿弥陀佛など時宗の阿弥号のほか、寿白禅定門などの法名、高橋長左衛門など俗名も含まれ、この講中は自家の宗派によらない町内庚申結社であったと思われる。

     昭和五十二年四月十三日指定 藤沢市教育委員会



  7回目の旅終了(14:50) JR東日本「藤沢駅」

 今回の記録:街道のみの距離は、7.8Km(大踏切〜遊行寺橋)
         日本橋から十二里十四町(48.7Km)。
         寄り道を含めた実歩行距離は、 11.6Km(戸塚駅〜藤沢駅)  総計88.4Km
         歩数:18,000歩(2014年) 18,000歩(2015年)


 

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