三留野宿・妻籠宿・馬籠宿・落合宿 (十二兼駅 → 落合宿) <旧中山道22回目>

2007年10月20日(土) 晴 

 前日(19日)横浜駅23:30発の名古屋駅行き夜行バスにて千種駅前で下車し、JR中央線で十二兼駅8:17着。

 準備を整えて十二兼駅を8:30スタート。

 千草駅を始め特急通過待ちの駅でも弁当を売っていなかったうえ道中でも売店一つ無く、結局妻籠宿に入るまで朝食抜きで歩く羽目になってしまった。

 (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

 

「須原・野尻宿」 ← 「目次」 → 「中津川・大井宿」

 


【中川原明治天皇御小休所碑・御膳水碑】 (右側) 8:45

 柿其橋(かきぞればし)を右手に見ながら進むと、すぐ先の公園内に碑が建っている。

明治天皇は全国各地を御巡幸されたが、木曽へは明治十三年(1880)においでになった。

 山梨県から木曽路に入り、六月二十六日には福島泊、翌二十七日には寝覚で御小休、須原定勝寺で御昼食、中川原で御小休、その日の行在所は三留野本陣であった。ここ中川原には夕方に着き、羅天の難所を前にして、桜井太助宅においてしばしの休憩を取られたという。

 御巡幸を記念して、大正二年(1913)には「御小休所」の碑が、昭和九年(1913)には「御膳水」の碑がそれぞれ建立された。しかしその後、昭和四十年(1965)と平成五年(1993)の二度にわたる国道十九号線改良工事によって碑の移転が余儀なくされた。二度目の移転になる今回、この場所に公園を整備して復元したものである。

     平成八年五月三十日  南木曽町  


 「柿其入口」で国道19号線に合流したら三味坂入口まで国道をひたすら(2.4Km)歩く。

 「与川渡橋」を渡って、国道が大きく左カーブした先で一段高い左の道を行く(左の写真)

 この写真では隠れているが国道の右側に県道264号線の矢印道標が立っている。

 この坂を登り、JRのガードを潜って更に 登る。

 9:30三留野宿入口到着。

 


【三留野宿】 日本橋から79里27町(313.2Km)、京へ56里7町 (220.7Km)

 天保14年(1843)で人口594名、総家数77軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋32軒。

 中山道が設置される以前から交通の要衝として、かつては妻籠宿と並び栄えた宿場でした。明治十四年(1881)の大火でほとんどが焼失し、わずかに残る出梁造りや卯建のある家が往時を偲ばせます。

木曽海道六拾九次之内 三留野 (広重)

 のどかな田園風景を描いており、左後ろは三留野宿か。

 

広重が描いた場所はこの辺りと思われる所を撮影。
 


【三留野宿脇本陣】 (左側) 9:35

 下り坂の途中で、民家のブロック塀の中に説明板が立っている。

 木曽十一宿には、本陣と脇本陣がそれぞれ一軒ずつ置かれていた。本陣は江戸時代の初めに定められたが、脇本陣は交通が頻繁になった中期以降に設置されていった。

 脇本陣はその名の通り本陣を補完するためのもので、三留野宿では代々宮川家が務めた。宮川家はまた三留野村の庄屋も務め、本陣の鮎沢家、問屋の勝野家などとともに指導的役割を担った。宮川家のあるこの周辺が、江戸時代の三留野宿の中心部であった。

 なお三留野宿は明治十四年(1881)の大火によって全焼し、現在の建物はそれ以降のものである。

     平成十二年十一月三日  南木曽町教育委員会


【三留野宿本陣跡・明治天皇御前水】 (右側)

 脇本陣のすぐ先にあり、石碑が建っている。

 この長野地方法務局南木曽出張所跡地は、三留野宿本陣があったところである、本陣の建物は、明治十四年七月十日の三留野宿の大火災の際焼失してしまった。ちなみにこの時の被害は、家屋七十四軒、土蔵八軒に達した。

 そかし庭木の枝垂桜(町の天然記念物)と明治天皇の御膳水が本陣の名残りを留めている。明治天皇は、火災の前年の十三年六月二十七日に一泊されている。御膳水の井戸は昭和五十四年に復元したものである。


 本陣の先、『南木曾駅・中山道』の案内板がある右の細い階段を下りる(左の写真)

 下りた道を左に進むと梨沢橋に出る。

 


【等覚寺】 (左奥) 9:50

 梨沢橋を渡った左の坂を少し登ると、右側が「読書(よみかき)小学校」のグランドで、左側に小さな橋が架かっている。

 その左側の橋を渡るとすぐ「等覚寺」に行ける。円空仏(右の写真がその内の一体)が三体ある寺

【等覚寺の円空仏】

 円空は、美濃国に生まれた江戸時代初期の僧侶で、一生に十二万体の仏像をつくることを祈願したといわれ、彼の足跡は、関東・東北から北海道にまで及んでいる。

 この南木曽では、等覚寺の「弁天祠棟札」に「弁財天十五童子像」が貞享三年(1686)八月十二日につくられたことが記されているので、このころ円空は南木曽に滞在して、造像に励んだことがうかがえる。現在当町には六対の円空仏が発見されているが、等覚寺にあるのは次の三体である。

・韋駄天像(町有形文化財)

・弁財天十五童子像(同)

・天神像(同)


【木材集積所と桃介橋】 (右手)

 元の梨沢橋に戻り、すぐ左の「読書小学校入口」の階段を4段上がったら、右の民家の間の細い道を行くのが中山道である。民家の軒下を通って道なりに行き、小川に突き当たったら右へ下りて梨沢橋から真直ぐの道に合流する。

 合流したら左折し、次のY字路を『妻籠宿4.2Km』の案内板に従って左へ行く(上記「三留野宿」の現代の風景写真がこのあたり)

 歩くところが木製の「蛇抜橋」を渡ると程なく右下に木材の集積所と木曽川、それに架かる「桃介橋」が見えてくる(左の写真)

 木曽川の読書発電所建設に際して大正十一年(1922)に福沢桃介らによって架けられた全長247mの木製の吊橋である。

 桃介は福沢諭吉の次女と結婚して福沢家の養子となった実業家で、やがて電力事業に力を注ぎ『日本の電力王』とまでいわれるようになった。


【園原先生碑】 (左側) 10:18

 上の写真から2分程の所に碑が建っている。

 園原旧富(ふるとみ)は、三留野村和合の東山神社の神官の家に元禄十六年(1703)に生まれ、長じて京都に遊学し、吉田兼敬(神祗管領長)に師事して神学を学び、「神学則」を著すまでになった。その後も「木曽古道記」「神心問答」「御坂越記」「木曽名物記」などを著して、尾張・美濃・信濃に門人多数を擁する大学者になった。

 この碑は彼の死後五年目の天明元年(1781)に、学徳を慕う門人たちによって建立されたもので、碑文は当時有数の学者である松平君山が書いている。なお、園原家住宅(非公開)は、江戸時代中期の神官の家の姿を伝える貴重なものである。


【和合の枝垂桜】 天然記念物 (左側) 10:23

 一段高い畑の中にあり、花が咲く季節に訪れたい所である。

 江戸時代、木曽谷有数の酒造家であった遠山氏の屋敷内の庭木として愛育されてきた古木である。樹相は地上50cmで三本に枝別れしており、うち二本は健在である。下部のくびれ部の目通り周囲は2m50cm、高さ約6mである。

     昭和四十二年十月二十五日指定  南木曽町教育委員会


【SL公園】 (右側) 10:27

 D51のSLが置いてある公園の前を左へ行く。

 公園を過ぎると神戸坂という急坂で林の中に入ってゆく。途中、和田峠でお目に掛かったなつかしい中山道の青い案内板が出てきたのには嬉しくなった。この案内に従って更に 登る。


【ふりそでの松】 (左側) 

【かぶと観音】 南木曽町史跡 (右側階段下) 10:35

 左側に木曽義仲・巴御前ゆかりの「ふりそでの松」(左の写真)、右への階段を下りると「かぶと観音」がある。

 かぶと観音は、平安末期の源氏の武将木曽義仲が、以仁王や源頼政の平家打倒の呼びかけに応じ、治承四年(1180)に挙兵して北陸道を京都に向かう際、木曽谷の南の押さえとして妻籠城を築き、その鬼門にあたる神戸に祠を建て、義仲の兜の八幡座の観音像を祀ったのがおこりと伝えられております。境内には義仲が弓を引くのに邪魔になるので、巴御膳が袖を振って倒した「袖振りの松」や義仲が腰掛けたという「腰掛石」が残されています。

 そうした伝承故か、かぶと観音は古くから、木曽にゆかりの武将たちに手厚く保護されてきました。戦国末期の天正十五年(1587)には木曽義昌から三百文が寄進され、同十七年(1589)には山村良候が大檀那となって堂舎が造立されました。江戸時代中期の宝暦七年(1757)に書かれた「吉蘇志略」には、「俗に神戸観音と曰ふ、乃ち馬頭像也、村民香花を供ふ」と記されているように一般庶民からも尊崇を受け、堂内には正保四年(1647)の絵馬をはじめ、俳句額など多数が奉納されています。幕末の弘化四年(1847)の「観音堂勧化帳」によれば堂舎の改修に際してその寄進の範囲は、木曽谷中はいうに及ばす、木曽家旧臣が領する東美濃の各村まで及んでおり、その信仰がいかに広かったかが分かります。

 観音堂は、間口二間半、奥行き四間、入母屋造りの建物で、西側面には二間四方の庵室が設けられ、ほとんどの時期、三留野等覚寺と関わりが深い庵主がいました。堂舎の建築年代は内陣・外陣境の虹梁や絵様蟇股の様式から、貞享・元禄期(1684〜1703)と推定され、中の厨司も正徳五年(1715)頃のものと思われます。また格天井の絵は、上松町東野の阿弥陀堂と同じく、山村代官お抱え絵師、池井裕川が描いたものと考えられます。

 このようにかぶと観音は、木曽義仲伝説の重要な地であり、堂舎も木曽の中では古く貴重なものなので、南木曽町教育委員会では堂舎と境内を含めては平成六年十月一日町史跡に指定し、平成九年度に半解体保存修理を実施しました。

 「かぶと観音」の下の口から出ると六差路になっているが、中山道の標識が充実しているので迷うことはない。

 急坂を下り、小さな川に架かる「戦沢橋」を渡ると竹林の中の石畳となる。石畳の入口に石碑があり、地名『せん澤』、『右・妻籠宿へ、左・なぎそ駅へ、下り・国道へ』と彫られていた。

 この石畳を登った所の民家に、皇女和宮が使用したという風呂が飾ってあった。


【上久保(うわくぼ)一里塚】 町史跡 (右側) 10:50

 左右原形を良く保っている。

 一里塚は、慶長九年(1604)から十七年(1612)にかけて、一里ごとに築造されたものである。一里塚の基準は五間四方(約9m)、高さ一丈(約3m)で、塚上に榎や桧を植えた。街道の両側に遂に築造され、旅人に安息と利便を与えた。

 町内には、十二兼・金知屋・上久保・下り谷の四ヵ所に一里塚があったが、現在原形をとどめているのはここだけである。江戸から数えて七十八里目の塚である。


【良寛歌碑】 

 一里塚のすぐ先にある。  

【木曽路にて】

  この暮れの もの悲しきにわかくさの妻呼びたてて 小牡鹿鳴くも

 この歌は、てまり上人といわれた良寛が木曽路を通った折、詠まれた二首のうちのひとつでその時期は次の三つの場合のいずれかと思われる。

一、師の国仙和尚に隋って善光寺方面を巡回した時で、天明四年(1784)二十七歳頃。

ニ、備中玉島にある円通寺での修行を終えて越後に帰る時で寛政七年(1795)三十八歳頃。

三、飛騨高山の大隆寺の僧宗龍禅参訪した時で良寛二十代後半か。

 急坂を登り切って右へ少し行くとY字路になるので、更に右の平らな土の道を行く。いずれも案内板が立っている。


【妻籠城址】 町史跡 (右側) 11:07

 右下の写真参照。

 妻籠城は、いつ誰によって築かれたか明らかではないが、室町中期には築城されていたと推察される。妻籠城は、天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いの折、ここも戦場となり、木曽義昌の家臣山村甚兵衛良勝が籠って、徳川家康配下の菅沼、保科らの軍勢を退けている。また慶長五年(1600)の関が原の戦いの時も、軍勢がはいってここを固めたが、元和二年(1616)には廃城となった。妻籠城は典型的な山城で、空堀・曲輪、さらには南木曽岳にのびる妻の神土塁という土塁も備えており、規模の大きな構えであったことが知れる。

 主郭へは徒歩十分で、北は木曽川と遠く駒ケ岳を望み、南は妻後宿から馬籠峠まで一望できる。

 道はこの石碑の所で3本に分かれており、大きな『中山道妻籠宿』の看板が立っている真ん中の道を下りて行く。

 中山道はメッシュ入りのコンクリート道でかなりの急坂である。数分で妻籠宿の家々が見えてきて、更に数分行くと『これより妻籠宿の町並』と書かれた中部北陸自然歩道の道標が立っている。妻籠宿の入口である。


【妻籠宿】 日本橋から81里6町(318.8Km)、京へ54里28町 (215.1Km)
 天保14年(1843)で人口418名、総家数83軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋31軒。

木曽海道六拾九次之内 妻籠 (広重)

 三留野から妻籠へ向かう途中の妻籠城址あたりか。

妻籠城址入口
 

【重要伝統的建造物保存地区 南木曽町妻籠宿保存地区】

【指定年月日】

 昭和五十一年九月四日

【選考理由】

 妻籠宿は、宿場の建造物を中心に旧中山道に沿った在郷及び周囲の自然環境が一体となって、歴史的風致を形成しており、江戸時代の宿場の姿をよく伝えている。

【説明】

 妻籠宿は室町時代末期には、すでに宿場として成立していたと考えられ、慶長七年(1602)幕府が中山道に六十七宿を定めたとき、妻籠もその一つとなった。

 保存地区は、東西約3.8Km、南北約5.5Km、面積約1245.4ヘクタールで、地区内に233棟の伝統的建造物があり、地域的に宿場、寺下、在郷の三地区に分けられる。

 宿場は上、中、下町を中心とし、本陣、脇本陣、問屋がおかれた。建物は出梁により二階を張り出した切妻造、平入りが特徴で、江戸時代末期から明治にかけて再建されたものが多く、大規模な建物も多い。

 寺下は光徳寺の門前町の形態をなし一般に間口が狭く建物は小規模である。

 在郷には、旧中山道に面した町屋風の建物と付近に点在する農家がある。

 妻籠宿では、昭和四十三年から町並み保存事業が行われ、五十三棟の復元を完了し、今後長期にわたり整備を行う予定である。

 宿場保存の中心は住民の総意で宣言した「妻籠宿を守る住民憲章」といえよう。

     昭和五十二年三月  文部省  南木曽町


【鯉ケ岩】 (左側) 11:18

 宿場に入ってすぐ現われるのがこの岩である。

 明治の地震で形が変わってしまったのと、写真のように蔦類に覆われているので形は良く分からない。

 昔当地(妻籠)城山に木曽義仲の後裔義昌が砦を築いていた其頃武将が此岩の附近で恋の物語をさヽやきなりを云ふ伝説あり其の後部落の地名も恋野となり現在も其の儘残っている中仙道道筋の旅人を驚かしたり喜ばしている 信濃道中記

 鯉ヶ岩は名の如く大きな鯉の形をした大岩であったが明治廿四年美濃の大地震で移動したため形が変わった附近の烏帽子岩(吾妻橋地区)兜岩(神戸地区)と共に三大岩として有名である

 鯉ヶ岩津島社八十一年祭に当り祠再建

     昭和四十年八月四日  林常盤建之  雲外書


【熊谷家住宅】  南木曽町有形文化財 (右側) 

 鯉ヶ岩の前。

 この建物は、十九世紀初頭に建てられた長屋の一部であるが、左右の建物が取り壊され建て替えられたことから、長屋の間取りの右半分と左半分が残り、一軒の家として使用されたものである。

 昭和四十八年に町で買上げ、解体復元された。

     昭和五十一年十二月二十二日  南木曽町教育委員会


【口留番所跡】 (左側)  

 草むらに説明板と木柱が立っているのみ。

 江戸時代の初期、このあたりに口留番所があって、中山道を行く人々を監視していた。

 従来、この口留番所は、江戸時代の早い時期に廃止されたという見方が強かったが、最近発見された正保三年(1646)と推定される史料に、「妻子(籠)御関所」と記されていることから、少なくとも十七世紀中頃までは妻籠に口留番所があったことが確認された。

 なお妻籠には、下り谷その後一石栃(いちこくとち)に、木材を取締ることを目的とした白木改番所が、近世を通じて設置されていた。


【高札場】 (右側) 11:21

 見下げるように一段高く建っている。


<昼食> 11:20〜12:00

 朝食を食べていないのでまず食事をと、最初に見つけた「やまぎり食堂」に入った。やまぎり定食(1200円)を注文。ヤマメの甘露煮・五平餅・キノコ・白菜の味噌和え・香物・御飯・蕎麦と盛りだくさんで空腹を差し引いても満足した。


【脇本陣奥谷・歴史資料館】 (右側)

 9月15日に本陣と共に見学しているので今回は入らなかった。

 脇本陣奥谷の内部は係員が解説してくれ、裏からそのまま歴史資料館へ入って行ける。

 ここは屋号を「奥谷(おくや)」という代々脇本陣を務めた林家で、問屋・庄屋も兼ねていた。

 現在の建物は明治10年(1877)にそれまで禁制であった檜をふんだんに使い、当時の粋を集めて建て替えられたものである。内部の檜の壁や柱は囲炉裏の煤に燻され、女性達に長年磨きあげられてきたので黒光りしている。

【脇本陣奥谷】 国重要文化財

 木曽檜をふんだんに用いて、明治十年に建てられた豪壮な建物です。同十三年には明治天皇の御小休所になりました。島崎藤村の詩「初恋」に詠われたおゆふさんの嫁ぎ先でもあります。

 常時、係員による案内を行っています。

【歴史資料館】

 映像や模型を駆使して、木曽の歴史や妻籠宿の保存のあゆみをわかりやすく紹介しています。ここを御覧になれば、妻籠宿への理解が一層深まります。

 開館時間/9:00〜17:00(入館16:45まで)

 休館日/無休

 入館料/600円、3館(脇本陣・歴史資料館・本陣)共通700円

 また林家は、島崎藤村の初恋の娘「ゆふ」さんが馬籠の大黒屋から嫁いできた家でもある。

 藤村がゆふさんに宛てた直筆の手紙も展示されている。

 藤村の本は読んだことがないが、「初恋」だけは一番好きな詩である。

   まだあげ染めし 前髪の

   林檎のもとに 見えしとき

   前にさしたる 花櫛の

   花ある君と 思いけり

   やさしく白き 手をのべて

   林檎をわれに あたえしは

   薄くれないの 秋の実に

   人恋い初めし はじめなり

   我が心なき ため息の

   その髪の毛に かかるとき

   楽しき恋の 杯を

   君が情けに 酌みしかな

   林檎畑の 樹の下に

   おのずからなる 細道は

   誰が踏みそめし かたみぞと

   問いたもうこそ 恋しけれ

                        (若菜集)


【妻籠宿本陣】 (左側)

 明治に至るまで本陣、庄屋を兼ね務めていた。島崎藤村の母の生家。

 妻籠宿の本陣は、代々島崎氏が務めました。馬籠の島崎氏とは同族で、幕末にも妻籠から「ぬい」が、馬籠の正樹(「夜明け前」の主人公青山半蔵)のもとに嫁ぎました。七人の子供をもうけ、末子が春樹(近代の文豪島崎藤村)でした。藤村の次兄広助は妻籠宿本陣の養子となり、最後の当主となりました。

 その後本陣は取り壊されましたが、平成七年に江戸時代後期の見取図を元に忠実に復元されたのが現在の建物です。

 入館料/300円、3館(脇本陣・歴史資料館・本陣)共通700円


【桝形の跡】 町史跡 12:10

 突き当たりの左側が観光案内所。

 右折して「桝形の跡」(左の写真で常夜灯の右側を下りる道)

 江戸時代のはじめに制定された宿場は、一種の城塞の役割も持たされて整備され、宿場の出入口には必ず枡形が設けられた。宿場の桝形とは、街道を二度に直角に曲げ、外敵が侵入しにくいようにしたものである。

 この妻籠宿の桝形は、明治三十二年からの大平(おおだいら)街道の改修工事により、その上部斜面を掘り割られているが、よく当時の姿を伝えている。


【下嵯峨屋】 有形文化財 (右側)

 桝形を曲がった下の道で、屋根に石が乗っている建物。

 この下嵯峨屋は、建造当初長屋であったものの一戸分を昭和四十三年に解体復元したものである。

 妻籠宿における庶民の住居を代表する、片土間に並列二間取の形式をよくとどめている。

     昭和四十九年十一月三日  南木曽町教育委員会


【延命地蔵堂】 (左側)

 下嵯峨屋前の階段を上がった所。

 享保十年(1725)の書上げには「地蔵堂」と記されている。堂内には直径が2mほどもある自然石が安置されているが、この石の由来は、文化十年(1813)五月十日頃、河中(蘭(あららぎ)川の川原)に地蔵尊が浮かび出ている石があることを旅人に告げられて知り、当時の光徳寺住職中外和尚をはじめとする村人たちが、ここまで運びあげたというものである。この延命岩を別名汗かき地蔵というのは、この石が常にぬれているようにみえることによる。毎年四月二三かニ四日にお祭が行われている。


【寺下の町並み】 

 妻籠宿は全国で初めての集落町並み保存に着手し、昭和四十三年より、寺下の町並みを中心に復元保存工事を始め、江戸時代の面影を残すことができました。生活と保存を一体化させる運動を、住民と行政、学者の三者一体で始めたところに妻籠宿の特徴があります。古い町並みを保存することは、環境を守り心を守り、歴史を生きたまゝ受け継いでいくことです。このようにして一見無人家とも思われる家々でも、人々はくらしているのです。


【上嵯峨屋】 有形文化財 (左側) 12:15

 ひのき笠の実演販売をしている建物。

 この建造物は四十四年の解体復元によって江戸中期(十八世紀中期)の建物と推定される。

 建造当初の形式をよくとどめ、庶民の旅籠(木賃宿)としての雰囲気をうかがうことができる。

     昭和四十九年七月十二日  南木曽町教育委員会


【尾又(おまた) (左側)

 木曽路(中山道)から伊奈(飯田)道が分岐(分去れ、追分)していた処である。右手の沢沿いの竹やぶの中に、今もその道跡をたどることができる。宝暦年間(1760頃)に、飯田道がつけ替えられ、ここから約六百米南の橋場に追分が移動した。

【おしゃごじさま】 

 御左口(ミサグチ)神を祀る。

 古代からの土俗信仰の神様で「土地精霊神」「土地丈量神様」「酒神」等の諸説がある謎の神様といわれている。

     尾又区


【石柱道標】 町史跡 (左側) 12:30

 

 妻籠宿の最後の建物は、店の横に大きな藁の馬が飾ってある、藁馬実演販売の「いんきょ」。

 田島橋が架かっている国道256号線を横断し、第三駐車場右横の川沿いの小道を進む。

 細道から旧県道に出ると「大妻橋」手前の民家の庭に大きな石柱が建っている。

 石柱には『中山道 西京五十四里 東京七十八里』と彫られており、説明板は国道沿いに立っている。

 明治二十五年に賤母(しずも)新道が開通するまで、馬籠〜妻籠〜三留野を通る中山道は、古くから幹線道路として重要な役割を果たしてきた。ことに妻籠の橋場は「追分」とも呼ばれ、中山道と飯田街道の分岐点として栄えた所である。

 この道標は、飯田の皆川半四郎という人が発起人になって、当初の松井興六・今井市兵衛・藤原彦作の世話人とともに、飯田・江州・地元の商人によって、明治十四年六月に建てられたものである。当時の繁栄がうかがえる石柱である。


【大妻籠】 

 大妻橋を渡って右の山道を登る。馬籠まで6.5Kmの道標が立っている。 急坂を登って民家がある所で少し水平になるが、せっかく登ったのにまた急坂を下りる。一旦旧県道に出て「神明橋」を渡ると、まもなく現在の県道7号線に接する「大妻籠」バス停に出る。

 そのまま県道を「庚申塚」バス停まで行くのが江戸時代中期の中山道で、右折して橋を渡る道が初期の中山道であるが、大妻籠を通る右の道へ行くのが良い。

 短い集落には、現在民宿の近江屋、まるや、つたむら屋が順に並ぶ(写真で手前が近江屋)

 


【中山道庚申塚・一里塚】 (左側) 12:55

 坂を登り、小さな橋を渡ると左側に見える小高い塚は一里塚である。

 県道に合流したところに庚申塚の石碑が建っている。ここからも後ろに一里塚が見える。

 庚申塚には「右 志ん道  左 旧道」と彫られている。

【庚申に就いて】

 庚申の日は六十日毎に巡って来るので年内には六回ある。

 また庚申を「三猿」などであらはし念仏を唱えて徹夜で世間話などして朝になって解散する風習があった。

 庚申という名称は道祖神と同様仏教伝来のものであるが「猿田彦命」と解しているむきもある。猿田彦は道しるべの神であったという説話で中国渡来の「道祖神説」とを混同して「妻之神」を祀っている(木曽地方は凡そ其類である)。

 人は誰でも「三尸(さんし)の虫」という霊虫が腹中に住んでいて其の人の悪事や追失を天界に昇って天帝に告げ口するという事が「道教」にあって江戸時代信仰されていた。

 其処でこの日は寝ずの番で三尸の虫が天界に昇るのを防いだ。是が庚申の祭りの所因である。

 県道を右折した右側の民宿「庚申塚」の二階に当時の山駕篭が吊り下げられている。

 県道の左側に石畳道( 上の写真)が見えるのでそれを登る。 これがとんでもない急坂だった。


【倉科祖霊社】  (左側) 13:10

 急坂を登ると平らな道になり「下り谷」の集落となる。さらに坂を登ると「倉科祖霊社」の説明板が立っており、一段高いところに社がある。

 ここには、松本城主小笠原貞慶の重臣倉科七郎左衛門朝軌の霊が祀られている。

 伝説では、七郎左衛門は京都へ宝競べに行く途中、この地で盗賊のために殺されたとされているが、史実は次のようである。

 七郎左衛門は、主人貞慶の命をうけて大阪の豊臣秀吉のもとに使いに行き、その帰りに馬籠峠でこの地の土豪たちの襲撃にあい、奮戦したがついに下り谷で、従者三十余名とともに討死してしまった。時に天正十四年三月四日のことであった。

 当時、木曽氏と小笠原氏は、何度も兵戈を交えており、こうした因縁からこの争いも起きたと思われる。


【男滝・女滝】 町名勝 13:15〜13:25

 「倉科祖霊社」の先で道は分岐する。右の下りは「男滝・女滝」へ通じる道。左の山道は本来の中山道だが滝には行けない。共に県道7号線で合流する。

 当然滝の道を選ぶ。最初に現れるのが男滝(左の写真)、続いて女滝(右の写真)

 それぞれの滝の前でお互いに写真を撮り合う。

 この滝は、木曽に街道が開かれて以来、旅人に名所として親しまれ、憩いの場であった。

 滝及び滝壺は、洪水や蛇抜けなどで高さや深さが減じているが、なお往時の姿をとどめている。

 この滝には、滝壺に金の鶏が舞い込んだという倉科様伝説が伝わっている。また吉川英治著『宮本武蔵』の舞台にもとりあげられている。

 滝に向かって左が男滝、右が女滝である。

 滝周辺は険阻なため、道はしばしばつけかえられ、幕末頃までの中山道は滝の下を通っていたものと思われる。現在滝上を通っている道が歴史の道である。

 女滝からは急な階段を登って県道に出る。「男だる滝」バス停、 閉鎖された「滝見茶屋」、駐車スペースがある。

 県道に出て左へ少し行くと、先ほど分かれた中山道が左後ろから合流する。

 中山道が合流した先で右の木橋を渡り、川の右側の山道を行く。

 妻籠宿から馬籠宿までの峠越えは何度も県道と交差するが、多く人が宿間をハイキングすることから案内標識が完備しているので間違えることはない。

 蛇抜け:大雨による土砂崩れ


【男埵(おたる)の国有林】 

 中山道の東側一帯は、木曽森林管理署南木曽支署管内の南蘭(みなみあららぎ)国有林である。国有林には大木が多いが、この中山道沿いの男埵山一帯は風致保護林に指定され、檜をはじめ、椹(さわら)・明檜(あすひ)・高野槇(まき)・鼠子(ねずこ)のいわゆる木曽の五木が、鬱蒼と生い茂っている。これらの大木は、江戸時代は停止木として、明治になってからは官林さらに明治二十二年以降は御料林として保護されてきた。

 またこの一帯は、現在国の重要伝統的建造物保存地区に指定されている。

【国史跡「中山道」】 

 南木曽町を南北に貫く中山道は、その大部分が昭和六十二年十月三日に「国史跡」に指定されました。中でもこの付近は中山道の形状がよく残っている所ですが、主要地方道中津川南木曽線の拡張工事に伴い、一部を施工範囲に含めざるを得なくなりました。

 関係機関(文化庁・長野県木曽建設事務所・南木曽町教育委員会)での協議の結果、車道敷になる中山道については破壊することなく、形状を維持したまま埋蔵保存を実施しました。


【さわら(椹)大樹 (左側) 13:40

 石畳道の途中にサワラの大木が現れる。

   樹 齢   約三〇〇年

   胴廻り   五・五米

   樹 高   四一米

   材 積   三四立方米

 椹材は耐水性が強く、風呂桶や壁板、建具等に多く使われます。

 この木一本で約三〇〇個の風呂桶を作ることが出来ます

【かもいぎ(神居木)】 

 この椹の下肢が立ち上がって特異な枝ぶりとなっていますが、このような形の枝を持った針葉樹を神居木(かもいぎ)といいます。

 昔から山の神(または天狗)が腰をかけて休む場所であると信じられていました。

 傷つけたり、切ったりするとたちまち、祟(たた)るといい伝えられ、杣人(そまびと)は、この木の下を通ることもいやがりました。

 この木のように両方に枝の出た木を両神居といいます。

     木曽森林管理署


【一石栃(いっこくとち)の白木改番所跡】  (右側) 13:50

 急坂を 登り小さな橋を渡ると木の門が見えてきて開けた場所に出る。門を通った左手の空き地が番所跡で、今は休憩所がある。5分ほど休憩する。

 白木改番所は、木曽から移出される木材を取締るために設けられたもので、檜の小枝に至るまで、許可を示す刻印を焼いてあるかどうかを調べるほど厳重であったといわれている。木曽の森林資源は、領主たる尾張藩にとって、それほど重要なものだったのである。

 番所は最初下り谷に設置されていたが、蛇抜けによってここ一石栃に移転した。『木曽谷諸事覚書』には、寛延二年(1749)のことと記されている。


【立場茶屋】 (右側)

 番所跡の隣が立場茶屋で、家の前には木舟の水場とトイレがある。

 立場茶屋は宿と宿の中間にあって、旅人に休息と利便を与えた。一石栃は妻籠宿と馬籠宿の中間に位置し、往時は七軒ほどの家があって栄えていたが、今ではこの牧野家一軒だけになっている。

 牧野家住宅は江戸時代後期の建物で、当初は間口が十間半もある大きなものであったが、現在は南側が切り取られて八間に縮小されている。


【馬籠峠】 14:15

 馬籠峠越えは安易に考えていたが、想像以上にきびしい登りでかなり参った。立場茶屋から最後の急坂を喘ぎながら登りきると県道に出る。

 標高801mの馬籠峠である(下記馬籠宿の現在の写真参照)。峠の茶屋があり、案内板や馬籠峠碑が建っている。飲物を購入し5分休憩。

 峠から僅か下ったところが長野県と岐阜県の県境。

【歴史の道 中山道】

 中山道を別名“木曽街道”というのは、江戸から京都まで69次のうち木曽に11宿あり、しかも険阻な道だったからでしょう。この地図(略)の範囲には、大桑村内の野尻宿(江戸から40番目)、南木曽町内の三留野宿(同41番目)と妻籠宿(同42番目)、山口村内の馬籠宿(同43番目)の四つの宿場がありました。当町における中山道の道筋は、蛇抜け災害などによって何回か変更を余儀なくされ、ことに三留野宿と野尻宿の間には羅天という難所があり、通行不能になることがしばしばでした。そこで迂回路として、野尻宿-与川-上の原・三留野宿の、いわゆる与川道が用いられました。江戸時代に、京都から江戸への将軍家へ六人の姫君が中山道を通って降嫁していますが、うち二人までが与川道を用いています。享保16年(1731)の伏見宮家王女比宮と、文化元年(1804)の有栖川家王女楽宮がそれです。

 昭和53年から行われた歴史の道整備事業では、本来の中山道である十二兼・三留野宿が鉄道や国道でほとんどが破壊されているため、古道がよく残っている与川道を復元整備しました。

 当町における根の上峠から馬籠峠間19,595mの“歴史の道”のほとんどは、江戸時代そのままの景観を伝えており「木曽路はすべて山の中である」ことを体験できる数少ない道の一つとなっています。


【間の宿・峠】 

 峠から100m程下った所で県道から離れて右の道を行く。

 熊野神社より峠集落で、雰囲気のある旅籠や民家が残っている。

 宝暦十二年(1762)に集落の殆どを消失する大火があった後、火災がないことから、この集落の家屋は江戸中期以降の姿を今にとどめている。

 江戸時代、この集落の人々は、民間の荷物を運搬する「牛方」を家業としており、俗に「岡船」と呼ばれ、美濃の今渡から遠くは長野の善光寺辺りまで荷物を運んだ。安政三年(1856)八月の、この牛方と中津川の問屋の間におきたストライキは、藤村の「夜明け前」にも登場する。


【十返舎一九の碑】  (右側) 14:35

 峠集落を過ぎ、急坂を下ると「十返舎一九碑」が見えてくる。綺麗なトイレとベンチあり。

 古くから峠の名物は栗こわめしであった。江戸期の戯作者十返舎一九は文政二年(1819)に木曽路を旅して「岐蘇街道膝栗毛」の馬籠宿のくだりで、このような狂歌を詠んでいる。

  渋皮の むけし女は見えねども 栗のこはめし ここの名物


【梨子ノ木坂石畳】  (右側) 14:47

 「清水」バスとその先で県道を2度横断し、「井戸沢橋」を渡って「梨子ノ木坂」の石畳(左の写真)を下り終わると右手に水車がある小屋に着く。

【水車塚の碑】 

  山家にありて 水にうもたれたる 蜂谷の家族 四人の記念に

                          島崎藤村しるす

 明治三十七年(1904)七月、水害のためここにあった家屋は一瞬にして押し流され、一家四人が惨死した。

 難を逃れた家族の一人、蜂谷義一は、たまたま藤村と親交があったことから、後年に供養のため藤村に碑文を依頼して建てたものがこの「水車塚」である。碑の裏には「信濃の国」の作詞者である浅井冽の撰文が刻まれている。

 県道を横断して土の道。再び県道に合流して「塩沢橋」を渡り、右の急な石畳の階段を登る。馬籠宿まで600m。

 きつい階段を登りきった所に民家の横を通る図入りの標識が出てくる。図の通り民家の軒先を半周すると視界が広がって恵那山が良く見える展望台に着く。

 この家の住人にとっては、毎日大勢の人が庭先を通るのだから迷惑なことだろう。


【展望台】  15:02

 恵那山の眺望が良い場所。

 (左の写真では恵那山が霞んでいるので、9月15日に馬籠宿に入ってすぐ左の喫茶店の見晴台から写した恵那山を載せる)

「お民、来て御覧、きょうは恵那山がよく見えますよ。妻籠の方はどうかねん、木曽川の音が聞こえるかね」

「ええ、日によってよく聞こえます。わたしどもの家は河の直ぐ側でもありませんけれど」

「妻籠じゃそうだろうねえ。ここでは河の音は聞こえない。そのかわり、恵那山の方で鳴る風の音が手を取るように聞こえますよ」

「それでも、まあ好い眺めですこと」

「そりゃ馬籠はこんな峠の上ですから、隣の国まで見えます。どうかするとお天気の好い日には、遠い伊吹山まで見えることがありますよ!」

 林も深く谷も深い方に住み慣れたお民は、この馬籠に来て、西の方に明るく開けた空を見た。何もかもお民にはめずらしかった。僅かに二里を隔てた妻籠と馬籠とでも、言葉の訛りからしていくらか違っていた。この村へ来て味わうことの出来る紅い「ずいき」の漬物なぞも、妻籠の本陣では造らないものであった。

     島崎藤村『夜明け前』(第一部第一章第三節)

【馬籠上陣場】 

 ここらあたり一帯の地名を「陣場」という。天正十二年(1584)に徳川家康と豊臣秀吉が戦った小牧山の決戦のとき、木曽路を防衛する豊臣方は、馬籠城を島崎重通に固めさせていた。

 家康方は兵七千をもって木曽に攻め入り、その一部は馬籠城を攻略すべくこの地に陣を敷いた。故にここを「陣場」と呼ぶようになった。


【高札場】 (左側) 15:10

 展望台のすぐ下の県道に出る手前に高札が建っている。

(前略)

 文字が読めない人が多いその当時、正月になると庄屋は村人をこの場所に集めて読んできかせ、これを守るように言い聞かせた。

 現在復元されているものは、正徳元年(1711)に公布された「御朱印、毒薬等の定書き」や、明和七年(1770)の「徒党禁止」の札などで、復元の際に読みやすいように楷書に書き直した。

 県道を越えると馬籠の町並みになり入口に説明板が立っている。馬籠宿は出口まで下りが続く宿場である。


【馬籠宿】 日本橋から83里6町(326.6Km)、京へ52里28町 (207.3Km)

 天保14年(1843)で人口717名、総家数69軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋18軒。

 木曽十一宿のうち最も南の宿場で、東に恵那山を望みつつ南西の美濃平野に向かって下る坂道沿いの集落です。

 昔ながらの桝形と復元された町並みや水車などが宿場風情を醸し出しており、往時の宿場のにぎわいや暮らしを伝える「馬籠本陣資料館」もあります。馬籠は文豪・島崎藤村の生誕地で、本陣跡の「藤村記念館」や「清水屋資料館」には、自筆原稿やゆかりの品々が数多く収蔵・展示されています。

 少し足をのばせば、菩提寺の「永昌寺」もあります。

木曽街道 馬籠驛 峠ヨリ遠望之圖 (英泉)

 英泉は、馬籠峠からは見えない馬籠宿と男滝・女滝を無理に持ってきた。

馬籠峠(馬籠方向より写した峠の茶屋前)

左は県道7号線。旧中山道を妻籠へは写真で右へ下りて行く。


【馬籠脇本陣資料館】 (右側)

 馬籠宿の史料館等は4年前に息子と訪れているのでいずれも今回は入らなかった。

―街道の文化と民衆の生活―

 宿場で、大名や身分の高い人の宿泊に備えた家を、本陣・脇本陣などといい、藩の保護を受けていた。馬籠宿の脇本陣はこの場所にあったが、明治二十八年の大火で建物は焼失した。

 「馬籠脇本陣史料館」は、脇本陣の最高位の部屋である「上段の間」を当時の場所に復元してある。

 ここには焼失を免れた脇本陣の貴重な汁器や衣服などが展示してあり、江戸期における上流社会の文化を知ることができる。又、地域の人達が使った民具からは、農村の生活を通じて、きびしい街道政策などが理解できる。

 また「夜明け前」の資料となった馬籠宿役人の記録や青山半蔵の資料などが常設展示されている。


【藤村記念館】 (右側)

 本陣趾にある記念堂・記念文庫・第二文庫・隠居所をまとめて記念館といいます。記念館はかつて藤村の生家、馬籠本陣・島崎家の建っていたゆかりの場所です。

 馬籠の脇本陣でも述べたが、初恋の娘ゆふさんの家「大黒屋」は本陣・島崎家の右隣りである。二人は同い年の幼なじみであった。

 藤村記念館の前を右に入ると「観光案内所」があり、『馬籠宿案内略図』を50円で販売している。また、シーズン中は馬籠←→妻籠間で手荷物を搬送するサービスも行っている。


【清水屋資料館】 (左側)

 清水屋は島崎藤村の作品「嵐」に出てくる「森さん」(原一平)の家です。

 この清水屋には藤村の書簡・掛軸・写真などをはじめ江戸時代に宿場として栄えたころよりの文書・絵画(尾形光淋・土佐光則・富岡鉄斎)九谷・伊万里・唐津などの陶磁器、輪島の漆器類をはじめ宿場「馬籠」の生活史ともいえる数々の遺品が二階の資料館に展示してあります。

 機械文明の流れの中にある今日遠い昔のわたくし達の先祖が残してくれた素朴なふるさたの心に深い郷愁を感じます。


【水車小屋・枡形常夜燈】 (右側) 15:25

 馬籠宿の最後は桝形になっており水車小屋と常夜燈が建っている。

 (左の写真は常夜燈の前を曲がった所でこの道が桝形になっている)

 この写真の先を曲がると宿の出口で、交差点右角に大きな馬籠宿の石碑が建っており、『中山道馬籠宿 江戸八十里半・京五十二里半』と彫られている。ここで15:40。


 宿場の出口(馬籠宿の石碑が建っている十字路)を右に65m行った、旅館「坂扇屋」前の「馬籠」バス停から中津川駅行路線バスが出ている。

 「濃飛バス馬籠線」で、2007年現在16:00・16:40・17:30・18:30(土日祝日運休)・18:47発である。

 この路線は、落合宿入口の「木曽路口」バス停を11分後、落合宿出口の「診療所下」バス停を17分後に通過するので、中津川駅まで歩くと電車に間に合わないと予想される場合には「馬籠」バス停の時刻を控えておくと便利である。馬籠から中津川駅までは29分。


【馬籠城跡】  (右側) 15:45

 馬籠宿出口の十字路を真直ぐ下ると5分で城址に着く。

 この辺りの地名を「丸山」とも「城山」ともいい、ここには今から五百年ほど前の室町時代から「馬籠城(砦)」があったことが記されている。

 戦国動乱の時代、馬籠は武田信玄の領地となるが、武田氏滅亡後、織田信長の時代を経て、豊臣秀吉傘下の木曽義昌の治めるところとなる。

 天正十二年(1584)三月、豊臣秀吉・徳川家康の両軍は小牧山に対峙した。秀吉は徳川軍の攻め上がることを防ぐため、木曽義昌に木曽路防衛を命じた。義昌は兵三百を送って、山村良勝に妻籠城を固めさせた。馬籠城は島崎重通(島崎藤村の祖)が警備した。

 天正十二年九月、徳川家康は、飯田の菅沼定利・高遠の保科正直・諏訪の諏訪頼忠らに木曽攻略を命じた。三軍は妻籠城を攻め、その一部は馬籠に攻め入り馬籠の北に陣地を構えた。

 馬籠を守っていた島崎重通はあまりの大軍襲来に恐れをなし、夜陰に紛れて木曽川沿いに妻籠城へ逃れた。このため馬籠の集落は戦火から免れることができた。

 今、三軍の陣地を敷いた馬籠集落の北の辺りを「陣場」という。

 慶長五年(1600)、関が原の戦いで天下を制した家康は、木曽を直轄領としていたが、元和元年(1615)尾州徳川義直の領地となり、以後戦火のないまま馬籠城は姿を消した。


【島崎正樹翁碑】 (左側)

 諏訪神社入口の隣に碑が建っている。正樹は島崎藤村の父。

 「夜明け前」では青山半蔵。


【正岡子規公園】 (右側) 16:03

 正岡子規の歌碑が建つ小公園から、中津川の市街と恵那峡に架かる赤い恵那大橋が見える。『信州サンセットポイント百選』の景色。

【歌碑】 昭和五十四年九月建立

   桑の実の 木曽路出づれば 穂麦かな     子規

 『かけはしの記』には、この句の前に「馬籠下れば山間の田野照稍々開きて麦の穂已に黄なり。岐蘇の峡中は寸地の隙あらばここに桑を植え一軒の家あらば必ず蚕を飼うを常とせしかば、今ここに至りて世界を別にするの感あり。」と述べられている。

 正岡子規(1867〜1902)は明治期の俳人・歌人で松山の出身。


【新茶屋】 16:10

 

 歌碑から下って行くと、石畳道の手前に一里塚が見えてくる。

 手前から芭蕉の句碑、「是より北木曽路」の石碑(左の写真)更に両側に一里塚( 右の写真は左側の塚)が並ぶ。

 この辺りの地名を「新茶屋」という。江戸のころ宿場と宿場の間にある茶屋を「立場茶屋」といった。かつての茶屋は、ここから岐阜県側に数百メートルほど入った場所にあったが、江戸の終わりころに現在地に移った。わらび餅がこの茶屋の名物だった。 

【芭蕉の句碑】 (左側)

 松尾芭蕉が門人の越智越人を伴って、信州姥捨山の月見と善光寺参りを兼ねて中山道を旅したのは貞享五年(1688)のことであった。その旅を「更級紀行」として世に出した。

  “送られつ 送りつ果ては 木曽の穐”

 この碑が建てられたのは天保十三年(1842)のことで、このころ岐阜県の美濃地方には芭蕉を祖とする「美濃派」の俳人が多くいて、これらの人々によって芭蕉の供養として建てられたものである。

【「是より北 木曽路」の碑】 (左側)

 空気と景観が良かった木曽路ともここでお別れと思うと一抹の寂しさが漂う。

 ここは長野県と岐阜県の境、木曽路の入り口にもあたる。昭和十五年(1940)七月、当時六十八才だった藤村が、地元の要請によって揮毫したものである。藤村は六十才ころから自らを「老人」と記すようになった。

 この碑は藤村記念館の落成十周年を記念して、昭和三十二年(1957)十一月に藤村記念館建設の実行母体である「ふるさと友の会」によって建立された。

【新茶屋一里塚】 (両側)

 街道の両側に「一里塚」が昔の姿で残っている。

 江戸幕府は街道整備の一環として一里を三十六町と定めて、一里ごとに道の両側に土を盛って塚を築き、塚の上には榎または松を植えて、旅の行程や駄賃・運賃の目安とした。現在中山道では殆どが失われており貴重な遺構である。

 右側の塚の前には「信濃・美濃 国境」の石碑が建っている。

 新茶屋の一里塚は天保〜安政時代(1830〜1860)には立木は右(江戸より京)に松、左は無しでしたが今回、整備にあたり右に松、左の榎を復元しました。

     平成六年二月  文化庁 岐阜市 中津川市


【落合の石畳】 岐阜県指定史跡

 一里塚の分岐を右へ、落合の石畳に入る。ここから20分間の長い石畳が続く。

 殆ど復元されたものだが三箇所ほど当時のままの部分が残っている。ここは十曲峠と云われた道である。

【新茶屋遊歩道入口の説明板】

 平成17年2月、当市は恵北地区6町村と長野県山口村との越県合併により新中津川市として誕生し、中山道の宿場も中津川宿、落合宿、馬籠宿の三宿場となりました。

 この場所から旧長野県堺までの約120m間を合併記念事業により、落合石畳遊歩道(新茶屋遊歩道)として整備しました。

     平成17年10月  中津川市

【新茶屋遊歩道に続く石畳道の説明板】

 中津川市は昭和六十三年度から平成七年度にかけて文化庁、岐阜県の補助を受けて歴史の道・中山道の整備を行いました。

 江戸時代の歴史的な環境がよく残る長野県堺からの約1Kmを整備対象区間とし、道自体の整備としては石畳の敷設を行い、遺跡の整備としては道の左右に残っていた「新茶屋の一里塚」の修復、また「休憩所」一基を活用施設として設置しました。

 従来から「中山道落合の石畳」として保存されていた石畳(三ヶ所延長70.8m)をつなぎながら復元した約840mの道は、周囲の景観と一体となって、けわしい木曽路とひらけた美濃路の二つの雰囲気をもっています。

【中程にあった「落合の石畳」説明板】 岐阜県指定史跡(昭和三十九年二月指定)

 この石畳は、中山道の宿場落合と馬籠との間にある十曲峠の坂道を歩き易いように石を敷き並べたものです。江戸時代の主な街道は一里塚をつくり並木を多く植え制度化して、その保護にはたえず注意をはらいましたが、石畳については何も考えた様子がありません。このため壊れたまま放置されることが多く、ここの石畳も一時は荒れるにまかせていましたが、地元の人たちの勤労奉仕で原形に復元しました。いま往時の姿をとどめているのはここと東海道の箱根のふたつにすぎず、貴重な史跡です。

 中山道ができたのは寛永年間ですが、石畳が敷かれたのはいつ頃か不明です。文久元年皇女和宮の通行と明治天皇行幸のとき修理しましたが、このとき石畳に砂をまいて馬がすべらないようにしたことが記録に残っています。

     中津川市教育委員会


【医王寺(山中薬師)】 (左側) 16:40

 石畳道が終わって横Y字路に出たら左へ進む。やがて枝垂れ桜が見事な医王寺が見えてくる。

【医王寺の枝垂れ桜】

 俳諧の宗匠嵩左坊が「その日その日風にふかせる柳かな」と詠んだ県下随一といわれた名木であった。

 伊勢湾台風で倒れ今は二代目。

 四月初旬に親木に勝るとも劣らぬ見事な花をつけ人々を楽しませている。

     落合まちづくり推進協議会


【落合橋(下桁橋)】  16:55

 医王寺から先はひたすら下るが、途中で落合の町が見えてくる。下り切ると落合川に架かる下桁橋を渡る(右下の写真)

【中山道の付替と落合大橋】

 落合川にかかる下桁橋は、江戸時代には「大橋」とか「落合橋」と呼ばれ、少し下流にあったといわれています。

 この橋が洪水により度々流失していたこと、またこの橋から医王寺までのも登り道がつづら折れの難所であったため、道筋を変更することとなり、寛保元年(1741)から神坂湯舟沢経由の新道が中山道となりました。

 しかしこの道も悪路で、今までより約1.8Kmも遠回りになったことから、明和八年(1771)、再び十曲峠を通る前の道筋に戻りました。

 この時につづら折れの道を廃し、現在の北側に大きく曲がって穏やかに登る道に付替られました。


【落合宿】 日本橋から84里12町(331.2Km)、京へ51里22町 (202.7Km)

 天保14年(1843)で人口370名、総家数75軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋14軒。

 落合宿は、江戸へ八十二里十二町(約323Km)、京へ五十二里九町(約205Km)の位置にある。

 町の長さは三町三十五間(約390m)、家数七十五軒を数えた。

 宿の町筋の中央には用水が流れ、町の中程に本陣と脇本陣(共に問屋兼務)があり、本陣井口家は尾張藩徳川家給人の千村氏(久々利方)、脇本陣塚田家は同給人の山村氏(木曽方)の庄屋も兼ねていた。江戸方町筋の入口には、道が直角に曲げられた桝形がつくられ、往還の真中に常夜燈もあった。

 文化元年(1804)・十二年(1815)の二度の大火は宿に大きな打撃を与えた。しかし、現在も本陣井口家、梲(うだつ)・格子のある民家や江戸方の十曲峠と石畳、京方の与坂付近には江戸時代の面影を随所にとどめている。

     中津川市教育委員会

【中津川宿と落合宿】

 市内には約15Kmの中山道が東西に延び、中津川と落合の二つの宿場町がありました。

 両宿の距離は中山道の宿場の中では、一番短く約一里(約3.9Km)しかありませんでした。

 中山道六十七宿全部整備されたのが十七世紀の終わり頃とされていますが、両宿場とも新たに造られた宿駅ではなく、江戸幕府が成立する以前に宿の形態(村落)がすでに整えられていました。

木曽海道六拾九次之内 落合 (広重)

 落合川に架かる落合橋を渡った先の落合宿を描いている。

落合橋は現在「下桁橋」と呼ばれる。
 


【上町の秋葉様の「常夜燈」】 (右側) 17:05

  県道7号線に出ると「木曽路口」バス停。馬籠宿出口でも述べたが、中津川駅行きのバスが「馬籠」バス停を出て11分後に通過する。ここから駅までバスで18分、歩いて約1時間45分。

 県道を横断して上の道を行くとすぐ桝形になり、そこに常夜燈が建っている。

 落合宿には昔、防犯を兼ね各戸順廻りの燈明番により火の災難から救われようと祈願しながら、ほのかな明かりがともされていた四基の常夜燈がありました。

 現在は四基とも移設され、この寛政四年(1792)に建立された上町の立派な常夜燈はすぐ前の道の中央にあったといわれています。あとの三基のうち一基は善昌寺の境内、二基はおがらん公園の愛宕社に移されています。文化年間(十八世紀はじめ)に二回も大火に見舞われたことは、落合宿に多くの常夜燈があったことが要因と考えられます。

     中津川市・中津川市観光協会


【落合宿脇本陣跡】  (左側) 

 常夜燈のすぐ先に石柱のみ立っている。


【落合宿本陣】  (右側) 

 脇本陣反対側のお屋敷が本陣。

 

 本陣の起源は、室町幕府の将軍足利義詮が上洛の際、その宿舎を本陣と称したときからといわれている。

 本陣が、真にその職能を発揮するのは、江戸時代に入り参勤交代の制度が実施されてからである。本陣は主として公家、大名など身分の高い人の宿泊所であったので、門、玄関、上段の間を備えていた。

 落合宿本陣井口家は、代々本陣を務めると共に、問屋、庄屋も兼務し、宿の業務の運営を行う指導的な家柄で、名字帯刀を許される礼遇を受けた。

 明治十三年(1880)に大改修されているが、正門を始め、上段の間、小姓の間等が今もそのまま保存されている。

 改修のときに現在の位置に移設された正門は、文化元年(1804)の落合宿の大火の後に、加賀の前田候より贈られたものといわれている。

 明治天皇御巡幸、また和宮御降嫁に際し、御小休の栄に浴している。

 昭和五十四年四月、中津川市の史跡に指定。

     中津川市観光協会


【落合宿助け合い大釜】  (左側) 

 本陣の斜め前の公園内に大きな釜が屋根付きで展示されている。

 文久元年(1861)、皇女和宮の大通行時には、四日間で述べ約二万六千人余が落合宿を通りました。当時、暖かいおもてなしをするため、各家の竃は引きも切らず焚きつづけられたといわれてきました。

 ここに展示してある「大釜」は「寒天」の原料(天草)を煮る時に使用されたもので、容量は1,000リットルを超えます(口径約1.5m)。

 日本の食文化を支えてきたこの煮炊き道具を後世に伝え遺すと共に、この釜を今に再利用するため、「落合宿助け合い大釜」と命名し、様々なイベントに活用しています。

 落合宿祭り等には「千人キノコ汁」を作り、多くの方々に振舞う「ふれあい」活動を推進してきましたが、この活動は、落合宿の人々が古くから旅人に対して礼節を重んじてきたことに由来します。

 「大釜」と共に手押しポンプを備えた井戸も設置し、この大釜と井戸は緊急時に利用できると共に、防災意識を高めることにも役立っています。

     平成十七年三月  落合まちづくり推進協議会

 秋の「中山道落合宿まつり」は、毎年10月末の日曜日に開催されているようだ。ウォーカーにもキノコ汁が振舞われるとの事で、この時期に歩く方はインターネットで開催日を調べて行くと 良いだろう。


【善昌寺】  (右側) 17:15

 枝が道路にはみ出している為トラマークを被せた大きな松がある寺。

 落合宿は中山道六十九次の内、江戸から数えて四十四番目の宿である。

 幕末頃の「中山道宿村大概帳」の記録では、宿の長さは約三九〇m、宿内の家数は七十五軒であった。

 ここ下町にある曹洞宗の善昌寺は慶長五年(1600)の創建といわれ、武儀郡関村(関市)にある龍泰寺の末寺である。明治二十四年の道路改修工事で寺の一部が道路となり、寺は東側へ移設された。境内にあった松はそのまま残され、現在「路上の松」と称されている。

     中津川市中津川市観光協会

【善昌寺の「門冠の松」】

 この松は、創建当時の山門を覆っていたことから門冠(かぶり)の松と呼ばれている。

 道路新設拡巾・寺の移転等で根が痛めつけられて来たのか、凡そ四五〇年の年を経ているといわれているが、さほど大きくなく、宿場の入口に格好の風采を添えている。

     落合まちづくり推進協議会

 中山道はこの寺の前で左折する。京側の桝形である。曲がった所に青い『歴史の道 中山道』の道標と大きな石柱が建っている。石柱には『右至中仙道中津町一里』と彫られている。

 桝形を曲がって坂を登ると国道19号線にぶつかるが、少し手前の「おがらん橋」を渡って国道の右へ行く。



 22回目の旅終了(17:20) 落合宿出口の「おがらん橋」。

  暗くなってきたので、ここで終了し、橋下のバス停「診療所下」より馬籠宿から出ている濃飛バスで中津川駅へ行き、「タウンホテル」泊。

 本日の記録 : 街道のみの距離は、23.8Km(十二兼駅〜落合宿出口「おがらん橋」)

          日本橋から八十四里十三町(331.3Km)

          寄り道を含めた実歩行距離は、24.5Km(十二兼駅〜中津川「タウンホテル」) 累計395.0Km

          8時間50分 38,400歩。

 

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