亀山宿・関宿 (井田川駅→関ロッジ) <旧東海道37回目>

 

2004年12月3日(金)快晴

 JR関西本線の井田川駅 を10:30スタート。

 12月に入ったというのに、本日は11月上旬の気温 とのことで歩いていると暑いくらいでした。

 (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

「石薬師宿・庄野宿」 ← 「目次」 → 「坂下宿・土山宿」 


【谷口法悦供養塔】 亀山市指定有形民俗文化財 (右側) 10:53

 井田川駅を過ぎると右カーブして国道1号線に当ります。この国道の信号を横断するとすぐ「法悦題目塔」の道標がありますので、それに従って左折します。

 川合椋川橋を渡り、再び国道を横断した先に髭題目の石碑が現れます。

 この供養塔は、東海道の川合と和田の境にあり、昔から「川合のやけ地蔵さん」「法界塔さん」と呼ばれている。総高2.59mで、塔身の正面に「南無妙法蓮華経」、右側に「後五百歳中廣宣流布」、左側に「天長地久國土安穏」、背面に「施主谷口法悦」と刻まれている。

 造立者の谷口法悦(生年不詳)は京の日蓮宗の篤信者で、十七世紀末頃、一族と共に各地の寺院、街道筋や追分などに題目塔と呼ばれるこれらの塔を造立したことがわかっている。

     平成十六年九月建之 亀山市教育委員会


【和田の道標】 昭和42年1月市指定 (左側) 11:00

 和田町の信号を横断し、県道41号線を右へ和田町へ入るとすぐあります。

 道標は、東海道から旧神戸道に分かれるところに立つ。「従是神戸 白子 若松道」「元禄三庚午年(1690)正月吉辰 施主渡会益保」と刻まれている。

 東海道分間延絵図には「脇道として神戸城下町へ三里半、白子町へ三里、若松村へ三里三十四丁」と記され、亀山城下より亀山藩領若松港への重要道路であった。

 市内に残る道標の中で最も古いものである。

     平成三年三月 亀山市教育委員会

 このあたりから道路の汚水蓋には、亀山城の絵が描かれていました。


【和田一里塚跡】 (右側)  11:15

 やや登り坂の頂上に模式復元した一里塚があります。

 野村一里塚とともに亀山市内に所在する旧東海道の一里塚で、慶長九年(1604)幕府の命により亀山城主であった関一政が築造した。

 かつてはエノキが植えられており、昭和五十九年の道路拡幅までは塚の一部が遺されていた。現在の塚は、塚跡地の東側に隣接する場所に消滅した和田一里塚を偲んで模式復元したものである。

     平成十三年十月 亀山市教育委員会


【カメヤマローソク】 (左側)

 国道306号線を越えた先の東海道筋にカメヤマローソクとして有名なカメヤマ鰍フ工場があり、目があった守衛に会釈されたが売店は見当たらなかった。

 創業は、昭和二年で当初からパラフィンをつかって洋ローソクづくりを始めたという。

 その後、色々なデザインの美術ローソク(飾り用、香料入り、水に浮くローソクローソク等)を開発し、これら製品は世界的にも有名になっている。


【能褒野神社ニの鳥居】 (右側) 11:30

 道しるべに、右「能褒野神社」、西「三本松」。その下に「従是西亀山宿」の木札が掲げられていました。

 日本武尊が東征の帰りに没して白鳥になったのが、ここから東北3kmの地で、能褒野神社の隣に白鳥塚古墳があります。

 亀山宿に入ると、家々には「東海道亀山宿 茶屋町 ○○跡」と「昔の屋号」が書かれた木札が掲げられていました。

 途中、屋根に天守閣が乗っている洋品屋にはビックリ。


【江戸口門跡】 (左側) 11:47

 街道は左カーブして広い道に出た角に江戸口門跡の案内板が立っていました。

 延宝元年(1763)、亀山城主板倉重常によって築かれた。

 東西120m、南北70mで、北側と東側に堀を巡らし、土塁と土塀で囲まれた曲輪を形成し、東端には平櫓が一基築かれていた。曲輪内は3つに区画され、それぞれが桝形となっていた。この築造には領内の村々に石高に応じて人足が割り当てられ、総計二万人が動員されている。

 西側の区画には番所が置かれ、通行人の監視や警固にあたっていた。ただ、江戸時代前期においてはこの位置が亀山城下の東端と認識されていたことから、江戸口門は東海道の番所としてではなく、城下西端の京口門とともに、亀山城惣構の城門と位置づけることができよう。

 現在は往時の状況を示す遺構は存在しないが、地形や地割、ほぼ直角に屈曲した街路にその名残をとどめている。

     平成十五年三月 亀山市教育委員会


 「江戸口門跡」のある広い道に出たら右に行きますが、ここ東町の商店街は写真のようにすべて白く塗られており、城下町とはかけ離れた南欧をイメージしたと思われるような町並みになっています。

 この商店街の途中左側に、「椿屋脇本陣跡」「樋口本陣跡」等の木札がありましたが、誰が宿場町とかけ離れた雰囲気の町にしたのだろうか?

 商店街途中左側の「東町ふれあい広場」に公衆トイレがあります。

 白い町並みが終わった信号のところを左折します。ここから城下の西外れまで道路がベージュ色に塗られて昔の雰囲気に戻ります。その曲がる交差点に「大手門跡」「高札場跡」があります。

 右カーブした民家に「屋号札の掲示」というきらめき亀山21町並み保存分科会のプロジェクトの説明がありました。

 その先、左に遍照寺(旧亀山城二の丸御殿遺構)、右側に大きな旧家があります。

【屋号札の掲示】 −宿場の賑わい復活プロジュエクト− 

 亀山市は、江戸時代の城下町、また東海道四十六番目の宿場町として栄えた町です。

 そんな亀山から近年急速に古い建物が姿を消し路地もさびれて、以前の賑わいも見られなくなりました。

 かかる現状を憂えたきらめき亀山21町並み保存分科会では協議を重ねた結果、歴史的なまちのたたずまいを復活する最初のプロジェクトとして屋号の木札をつくり、該当するお家に掲げていただくことを始めました。

 屋号で呼び合ったまちの人たちの暮らしには、なぜか親しみを感じます。そして、どのようなしごとしていられたかも知ることが出来れば、お互いの交流もいっそう深まるのではないでしょうか。

 このたびのしごとはまことにささやかですが、材料提供をはじめ、木札製作、掲示作業などすべて市民有志によって行いました。

 今後も皆様のご協力を得て、東海道亀山が個性豊かなまちとなるよう、私たちも活動を続けます。

<注記>屋号は文久三年(1863)宿内軒別書上帳(亀山市歴史博物館蔵)によりました。史実とやや異なる所もあることをご了承ください。

     平成十三年十月 きらめき亀山21 町並み保存分科会


 坂を下りて広い道に出ると、右に「池の側(かわ)橋」、正面に「東海道 亀山宿」の石碑と休憩所があります。旧道は正面に左カーブしているベージュの道を上がって行きます。

 左へ行くと「亀山駅」、右へ行くと「天然記念物 池の側松並木」「石井兄弟敵討跡」「多門櫓」「史跡 亀山城址」、「明治天皇亀山行在所遺構」等があります。

 この「池の側」から「京口門」までの亀山宿内を、途中1時間の昼食を挟んで12:05〜14:00まで見学しました。


【亀山宿】 江戸から104里26丁(411.3Km)、京へ20里30丁 人口約 1550人

広重の東海道五拾三次之内・亀山『雪晴 

 京口門の手前から描いたもので、右上(城の下)に見える木の柵が京口門。

 この門は、村境の竜川から切り立った崖の上に造られていたので、西からは急坂を登らなければならなかった。

現在の亀山城・多門櫓



【池の側松並木】 天然記念物

 亀山石坂門から池の側(外堀)に沿って植えられた松並木で、市天然記念物に指定された。

      亀山市教育委員会

【各所所在地の説明】

 左の写真は、池の側橋の亀山宿石碑から北方向を写したものです。

 かつては松並木になっていたのであろうが、現在は写真に写っている松だけです。

 また、松の先の小高い所に建っているのが多門櫓です。

 石井兄弟敵討跡は多門櫓の右下、この写真で道路が右に切れたあたりの道路下に石碑が建っています。

 多門櫓の後ろに、亀山城二ノ丸御殿跡大久保神官邸宅門明治天皇亀山行在所遺構があります。

 侍屋敷遺構加藤家長屋門及び土蔵は、写真の松の後ろを左折した先にあります。


<昼食> 「東海道 亀山宿」の石碑の道を上がってすぐ左側にあるオーガニックストラン「月の庭」に行きました。★★★☆

 休憩所のそばの電柱には、レストラン「月の庭」の案内がありましたが、入口には大きくない板に「月の庭」と書いてあるだけでレストランの文字はありません。そのうえ店は酒屋の間の極細い道を奥の方に入った左側にあり、倉庫を改造した店なので大きな戸を開けて入ります。知らないとレストランとは分からない店です。私達はガイドブックで調べていたので入って行ったが、それでもおそるおそるで、中で確認したくらいです。

 14:00までの『未来食ランチ』(\1,500-)を注文。うたい文句が動物性の食材を一切使わず穀物と旬の野菜をふんだんに使った週替わりのランチ

 この日のメニューは、@蓮根のはさみ揚げ Aしめじと海苔の和え物 B厚揚げの焼豚風 Cビーフンと人参のサラダ Dご飯(五穀米or玄米)ハーフOK Eけんちん汁 Fデザート(高きびチョコかけのバナナとイモ)でした。

 明日の鈴鹿峠越えの昼食用として、この店においてあった天然酵母を使用したパンを購入。


【石井兄弟敵討跡】  

 亀山城内石坂は、元禄十四年(1701)五月九日早朝に、石井源蔵(三十三才)半蔵(三十才)の兄弟が、二十八年目に父石井宇右ヱ門の敵、赤堀水之助(源五右ヱ門)を討ち取ったところである。

 本懐を遂げた石井兄弟は、旧主の青山忠重に帰参を許されて、青山家が丹波亀山(現京都府亀岡市)に移封になると藩主に従って移り住み、生涯を終えた。

 この敵討は、「元禄曽我兄弟」と称されて、歌舞伎・講談・絵本・浮世絵などに取り上げられ、日本中で賞賛された。

 昭和七年亀山保勝会によって、ここに「石井兄弟敵討跡」碑が建てられた。

     亀山市教育委員会


【伊勢亀山城】  

 伊勢亀山城は、文永二年(1265)若山(亀山市若山町)に関実忠が最初に築城し、元亀四年(1573)織田信長により関盛信が追放されるまで、関氏十六代の居城であった。ただし、関氏時代のうちに現在の位置に遷されたとされ、発掘調査においても戦国時代末期の空堀が確認されている。

 天正十八年(1590)岡本宗憲が入城後、新たに築城されたとされ、この城については『九々五集』に本丸・二之丸・三之丸からなり、天守も建てられたと記される。

 また三宅氏が城主の時、丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴が間違えて伊勢亀山城の天守を取り壊したと伝えられるが真偽のほどは定かでない。

 寛永十三年(1636)本多俊次が城主になると亀山城の大改修に着手し、東西700m、南北500mに及ぶ縄張りが確定する。城の外周は堀が廻り、一部は谷をせき止めて水堀とした。城内には本丸、二之丸、東三之丸、西之丸、西出丸の曲輪があり、本丸には将軍家旅館として整備された本丸御殿、二之丸には城主居館と藩庁を兼ねたニ之丸御殿が設けられた。

 亀山城の別名としては唯一の出典である『九々五集』に姫垣を意味する「粉堞城(ふんちょうじょう)」と記されている。

 城主は八家がめまぐるしく入れ替わったが、延享元年(1744)石川総慶が城主となると、以後は石川家十一代で明治維新を迎えることとなる。

 明治六年の廃城令によりほとんどの建造物は取り壊され、現在は多門櫓と石垣、土塁、堀の一部が残されているに過ぎない。多門櫓は、県下で原位置のまま遺存する唯一の城郭建築として昭和二十八年に三重県指定文化財に指定された。また、石坂門は近年の発掘調査により石垣基礎の一部が発見され歴史博物館前庭に移設されており、わずかではあるが往時の姿を偲ぶことができる。

     平成十六年九月建之 亀山市教育委員会


【亀山城ニ之丸御殿跡】

 二之丸御殿は亀山藩主在国中の居館であると共に、亀山藩政務を執る政庁でもあった。その建築面積は665坪(2194.5m)にも及び、江戸時代後半に描かれた絵図によれば、藩主が日常生活をおくる奥向と、公的行事を行う表向に分けられ、これに台所、女中部屋等が付属する。

 周囲は土塀で囲まれ、敷地内には茶室・馬場・勘定場・土蔵・長屋も設けられた。

 御殿の創建年代は明らかではないが、江戸初期の亀山城整備段階で建設されたものと考えられる。文化九年(1812)の焼失後に再建され、その後も少しずつ改築された。

 明治初期に他の城郭建築物と共に解体されたが、式台と玄関の一部は西町の遍照寺本堂として移築され、かつての面影を留めている。

     平成三年十月 亀山市教育委員会


【大久保神官邸宅門】 亀山市文化財

 多門櫓の裏側にあります。また門の中には「心形刀流武芸形」の標柱が立っていました。

 関実忠が文永二年(1265)亀山城(古城)の鎮守として勧請した南崎権現社の神官大久保但馬守邸宅の門であった。門は本柱の間に二枚開きの扉が付けられ柱の後ろに控柱があり切妻屋根で破風の下に縣魚がたれる。門右にくぐり門、左は土塀に続く。亀山西小学校の裏門に利用されていたが、昭和三十年現在地に移築された。

     昭和三十年二月十九日市指定

 

【心形刀流武芸形】 三重県・亀山市無形文化財

 亀山藩主、山崎雪柳軒は心形刀流八代庭軍兵衛秀業に入門、免許皆伝を許され師範となって元治元年(1864)亀山に帰国後、南野村に亀山演武場を設立した。藩主・藩士など入門者は三百名を越え廃藩後も、心形刀流の高揚に努力した。演武場は、神社境内に移築されて亀山だけに残された貴重な流儀として、今に継承されている。

     昭和五十年三月二十七日県指定


【侍屋敷遺構加藤家長屋門及び土蔵】 昭和25年12月市指定

 旧東海道から1本城側の道に入ったところにあります。

 レストラン「月の庭」がある旧東海道沿いからは、「右郡役所・左東海道」の石碑があるところを右折します。その先「史跡青木門址」の木柱があるところをクランク曲がりした角にあります。長屋門の西側「西の丸歴史公園」に公衆トイレがあります。

 加藤家長屋門は、亀山藩主石川家の家老職、加藤内膳家の正門であった。

 加藤家は、延享元年(1744)石川総慶の備中松山(現岡山県高梁市)から伊勢亀山への移封に従い、現在地(亀山城南三ノ丸=現西丸町)に屋敷を構えた。加藤家屋敷は、文化九年(1812)に藩主御殿が焼失した際、仮御殿に使用されたほどの屋敷であった。明治以降は、母屋の建築物の大半が他所に移築されたが、長屋門・土塀・土蔵は保存された。昭和六十二年に、長屋門が亀山市に寄贈されたのを機に、先に寄贈された土塀・土蔵と共に調査を実施し、家相図なども参考にして、幕末当時の姿に復元した。

 長屋門は、平面積約91.8mあり、入母屋桟瓦葺で、内部は男部屋・若党部屋・物見・厩の四部屋に分かれる。西端に土蔵があり、土塀によって長屋門につながる。

 創建時代は江戸時代中期以降と推測され、当時の武家建築の様式を今日まで伝える。県下でも数少ない貴重な遺構である。

     亀山市教育委員会


【飯沼慾斎生家跡】 (左側)

 上記、旧東海道沿いの曲がり角にあります。

 飯沼慾斎(1783〜1865)は、西町西村家に生まれる。十二歳で美濃大垣に移り飯沼家を継いだ。わが国植物学の基礎を拓くなど、近代科学草創期の代表的な自然学者である。

     平成十五年十月建之 亀山市教育委員会

 この先、街道は桝形になっており、右、左とクランク曲がりになります。


【京口門跡】 (右側) 14:00

 解説板のみ掲げられています。

 亀山宿西端、竜川左岸崖上に東海道の番所として寛文十二年(1672)当時の亀山藩主であった板倉重常によって築かれた。石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、亀山城の一部としての機能を充分備えていた。崖を登る坂道の西側にカラタチが植えられ、下から見上げると門・番所のそびえる姿は壮麗を極め「亀山に過ぎたるものの二つあり、伊勢屋蘇鉄に京口門」と詠われた。

 この様な門は他の宿場には見られず、安藤広重「東海道五十三次」のうち「雪晴」をはじめとする風景画の舞台となった。

     亀山市教育委員会

 解説板横の梅厳寺の入口には、「西国三十三所観世音菩薩安置」として三十三の小さな祠が並んでおり、ここで西国三十三ヵ所のお参りがまとめてできます。


【照光寺】 (右側) 

 この辺りから描いた広重の錦絵(亀山『雪晴』)が門前に掲げられています。現在はなだらかな坂ですが、当時は広重の絵のような急坂だった。


【野村一里塚】 国史跡(昭和9年1月指定) (右側) 14:20

 写真のように、巨大なムクの木が一里塚に植わっています。

 一里塚は、江戸時代のはじめ、徳川幕府が江戸日本橋を基点とし、街道に沿って一里ごとに設けさせた里程標で、塚を築き、その上に樹木を植えた。

 この一里塚は、東海道の一里塚の一つとして築造されたもので、もと街道をはさんで南北に塚があったが、大正三年に南側のものは取り去られ、北側の塚のみとなってしまった。

 塚の上には、目通り幹囲5m、高さ20mの椋(ムク)の木がある。

 本県における旧東海道においては、桑名宿から坂の下宿の間に十二ヵ所の一里塚が設置されていたが、いま、残るものは、この一里塚だけであり、わが国交通史上、貴重な遺跡として、昭和九年一月二十二日、国の史跡として指定された。


 三叉路に出たら右側民家の正面生垣に立っている東海道の道案内に従って右折します。案内板は生垣が生い茂っている季節には見えにくいかもしれません。(ここで14:27)

 途中左側にあった「布気神社」は、境内の紅葉が綺麗でした。

 その先左側に、昼寝をしていたために三十三番の中に入れてもらえなかったという「昼寝観音」があるはずですが、見逃しました。

 坂を下りたところで先ほど分かれた道と合流。三角点に小さな参宮常夜灯がありますので道なりに右方向へ行きます。

 すぐ左へ曲がり、国道1号線とJR関西本線を一気に越えて反対側の街道に行きます。曲がったところにもう一つの参宮常夜灯。その曲がり角にあるごみ入れかごに東海道の標識が掲げられていますので分かるとおもいますが、ここを曲がらないとJRの線を渡ることは出来ませんので注意してください。


【史跡 大岡寺畷(だいごうじなわて) 14:56

 道に植えてあるドウダンツツジの葉が真赤で綺麗でした。やがて街道は鈴鹿川沿いになり、東名阪自動車道の手前に大岡寺畷の案内板がありました。

【大岡寺畷】

 鈴鹿川の北堤を1946間(3.5Km)約18丁に及ぶ東海道一の長縄手でした。

 江戸時代は松並木でしたが、明治になって枯松の跡へ桜を植えましたが、その桜もほとんど枯れてしまいました。

 芭蕉もこの長い畷を旅して「から風の大岡寺縄手ふき通し連(つれ)もちからもみな座頭なり」と詠んでいます。

 この有名な歌は、「桃青ひさご集」にあり、冬の旅人の道中の苦労が偲ばれる。


【関の小萬のもたれ松】 (左側) 14:20

 歩くのに気持ちがいい土手の草地をしばらく進むと、再びJR関西本線の踏切と国道1号線を歩道橋で渡ります。

 渡ったら前方に、右斜めに入る道が見えてきますのでそちらに行きます。入口には「関宿」の大きな看板が立っています。

 その看板のすぐ後ろに「小萬のもたれ松」があります。

 江戸も中頃、九州久留米藩主牧藤左衛門の妻は良人の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿山田屋に止宿・一女小萬(こまん)を産んだ後病没した。

 小萬は母の遺言により、成長して三年程、亀山城下で武術を修行し、天明三年(1783)見事、仇敵軍太夫を討つことができた。

 この場所には、当時亀山通いの小萬が若者のたわむれを避けるために、姿をかくしてもたれたと伝えられる松があったところから「小萬のもたれ松」とよばれるようになった。

  関の小萬の亀山通い 月に雪駄が二十五足(鈴鹿馬子唄)

     平成六年二月吉日 関町教育委員会


【東の追分】 (左側) 15:28

 「もたれ松」から7分程進むと、左手に鳥居がある追分に着きます。

 関町関宿重要伝統的建造物群保存地区  昭和59年12月10日選定

【東の追分】

 関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、これが地名の由来ともなっています。

 慶長6年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次で四十七番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられました。古文書によると天保14年(1843)には、家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ(東海道宿村大概帳)、鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。

 ここ東の追分は伊勢別街道の分岐点で、鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際、古い鳥居を移築するのがならわしになっています。江戸方への次の宿は、亀山宿です。道標には外宮(伊勢神宮)まで15里(60Km)と刻まれています。

 この追分からは道幅が狭まり、東西約1.8Kmわたって両側に連子格子の古い家並みが続く関宿に入ります。


【関宿】 江戸から106里2丁(416.5Km)、京へ19里半丁 人口約 1940人 

安藤広重の東海道五拾三次之内・関『本陣早立 

 川北本陣に泊まった大名が朝の暗いうちから出立する時の慌しい準備の様子を描いている。本陣前には大名の名前を書いた関札が立っている。

 

 現在、広重が描いた川北本陣はないため、伊藤本陣跡を載せました。


関宿の町並み】

 関宿は、電線を地下に埋設して町ぐるみで保存に力を入れいるところで、街道一当時の雰囲気を残している宿場町です。 

 下の写真は「東の追分」から宿に入ってすぐの木崎の町並みです。 この先、中町、新所の町並みと続き、西の追分まで1.8Kmあります。

 関町は古代から交通の要衝であり、古代三関のひとつ「伊勢鈴鹿の関」が置かれていたところです。関の名もこの鈴鹿の関に由来している。

 江戸時代には、東海道五十三次の江戸から数えて47番目の宿場町として、参勤交代や伊勢参りの人々などでにぎわいました。現在、旧東海道の宿場町のほとんどが旧態をとどめない中にあって、唯一歴史的な町並みが残ることから昭和59年、国の重要伝統的建造物 群保存地区に選定されました。

 関宿の範囲は、東西追分の間約1.8Km、25hrに及び、江戸時代から明治時代にかけて建てられた古い町屋200軒あまりが残っています。

 関宿では、これら歴史的建造物の保存・修復につとめながら、新しいまちづくりに取り組んでいます。

【伊勢鈴鹿の関

 伊勢鈴鹿の関が初めて歴史に登場するのは、天智天皇の死後、大友皇子と大海人皇子(後の天武天皇)が皇位を争った壬申の乱(672年)の際、大海人皇子が鈴鹿・不破の関を固めた事によります。延暦 八年(789)、桓武天皇によって三関は廃止されますが、その後も天皇の崩御や政変などが起こるたびに関が固められたようです。

 伊勢鈴鹿の関が置かれていた位置や規模、当時の「関」の様子などははっきりわかっていませんが、現在の関宿の位置にあったと考えられます。

 

〔岩間家〕 (右側)  15:30

 屋号を白木屋といい、主に東追分で稼ぐ人足や車夫の常宿であった。人力車が登場するようになって常にニ、三十台は客待ちしていた。

 岩間家は、200年以上経ており、むくり屋根が特徴である。伊勢参りの賑わいや明治天皇の御東幸など東追分の移り変わりを見守ってきた家である。

     関町教育委員会(以下同)

〔遊快亭 坂口家〕 (左側)  15:36

 同家は、松鶴楼といい、かいうん楼と並んで芸妓置屋であった。松鶴楼もかいうん楼も江戸側の御馳走場の前にあって、関宿の中心部の入口をなす賑わった場所柄であった。

 又同家には、太閤秀吉が実施した文禄検地の小崎村検地帳が所蔵されている。

【御馳走場】 (右側)  15:38

 関の町並みは、安土桃山時代の天正11年(1583)関盛信によって、木崎、新所間に中町が建設されたときに基礎ができました。その後徳川幕府により宿駅が定められてからは、東海道五十三次で47番目の宿場として繁栄した。

 中心部の中町には、宿場の中心的施設が集中し、比較的規模の大きい派手なデザインの町屋が今も多く残っています。

 ここは、御馳走場と呼ばれ、町の役人や本陣の主人が大名行列を出むかえたり、見送ったりしたところである。行列もここから毛槍をふって本陣まで行列をした。 関宿には4ヶ所の御馳走場があった。

 (御馳走場の説明のところは、現地の案内板がかすれて読めなかったため、別に調べた文書をつなげました)


〔雲林院家〕 (左側)  15:39

 同家は昔はかいうん楼と称し、隣の松鶴楼と並んで芸妓置店であった。

 街道筋の宿場ではたいていの旅籠は飯盛女と呼ばれる遊女を置き、また専門の遊郭も多かった。かいうん楼はその代表的なもので、表の立繁格子やべにがらぬりのかもいや柱にその面影を遺している。

〔伊藤家(南店)〕 (左側)  15:40

 同家は代々伊右兵衛門を名乗り、肥料商、米穀商、酒屋などを家業とした。この家屋は嘉永年間頃の建築で、明治三十六年に改築され今日に至っている。六間取り家屋で帳場の採光方法などに工夫が見られる商家の建物である。

〔山石 岩間家〕 (左側)  15:51

 幕末に建った建築で、山石は明治・大正にかけての料亭であった。又廂の屋根の隅に唐獅子の置物が取り付けられているのは、厄除けの一種と思われる。

〔桶重 服部家〕 (右側)  15:54

 服部家は、明治十五年に創業した桶屋で、現在の三代目重三氏が大小の桶作りにいそしむ。見世の間に掛けられた道具類はいずれも使い込まれ、歴史を物語っている。家屋は幕末期に遡るもので、当初から職人の家として建てられたものではないが、前面の摺上戸、見世の間、中の間境の千本障子など典型的な江戸期関宿の町屋の構えに復元されている。

〔関まちなみ保存館〕 (左側)  見学6分

 この辺りが、宿場の真ん中になります。

 「旅館玉屋」が閉館時間になりそうなのでそちらを先に見学してこちらの保存館に戻ったため、所要時間のみ記載します。この先順番にほぼ1分間隔で見学できます。

 この建物は、昭和60年に関町が元の持主、別所マサさんより買受け、昭和61年度から3年をかけて解体修理を行い、昔日の姿に復元したものです。

 将軍家茂の上洛の折に作成されたと言われる「宿内軒別書上帳」には別所屋勝次郎、間口四間、畳数廿八畳、二階畳数数拾壱畳と、現在のこの家と一致する書込があり、この家の建築年代が文久を遡ることばわかります。また、文政8年(1825)「真弓火事類焼図」によると、この家は西隣の家と一筆で間口八間旅籠屋弥惣治の書込があり、この折に類焼しています。従って文政の火事のあと普請された江戸時代末期の町屋であると推定されます。

 建物は街道沿いから、主屋、角屋、土蔵からなり、主屋の東(江戸寄り・しもて)を土間とし、西(京側・かみて)に床を張り、表から三列に部屋をとるのは関宿の町屋の典型です。ただし主屋の街道に面した表構えは、一般の町屋とちがう点も多く見られます。

 関宿の一般の町屋は1、2階は柱筋が揃い、庇は腕木で出すのが普通ですが、この家は2階が3尺後退しています。また、一般の町屋の連子格子は明治以降に付け加えられたものが多いのですが、この家では建てられた当初から細かい連子格子があり、しかも西側の6畳のものは雨戸のように戸袋へ収納されます。また東側の4畳のニツ折の蔀戸(しとみど)や土間の軸摺りの大戸なども一般の町屋には見られない特徴です。

【鶴屋脇本陣 波多野家】 (右側) 

 脇本陣は、本陣に準ずる宿として、主に身分の高い人たちの宿泊の用を勤めたが、平素は一般庶民も泊ることができた。

 鶴屋は、西尾吉兵衛を名乗っていたので西尾脇本陣ともいった。二階避面に千鳥破風をのせた派手な意匠である。

 


【岩木屋 吉澤家】 (左側) 

 同家は、屋号を岩木屋と称し、明治から大正にかけ酒造業及び味噌、醤油醸造業を営み、酒蔵から「岩泉」と銘うった酒樽が次々と運び出されていた。

 明治十七年の建築で連子格子や表座敷は典型的な明治期の商家の構えである。

【山車倉】 (右側) 

【中町三番町山車(やま) 関町指定有形民俗文化財(平成3年3月指定)

 「関の山」は、旧東海道関宿に江戸時代の元禄年間(1688〜1703)から伝わるお祭りです。最盛期には十六基もの山車があり、横幕・見送り幕・提灯などを豪華に飾りつけて華美を競い合い、また、笛太鼓で祭囃子を奏でながら、家々の軒先をかすめ、人ごみをかきわけて巡行する様から、「この上は無い、精一杯である」という意味で用いられる「関の山」という言葉の語源になりました。

 現在、木崎町・大裏町(北裏)・中町三番町・中町四番町の四基の山車が保存されており、祭りは毎年七月上旬の土・日曜日に開催されています。

 中町は関宿の中央部で、江戸時代には街道沿いに最も西の一番町から順に六番町まで、また、大裏町(北裏)、南裏をあわせて八基の山車がありました。

 中町三番町山車は、白木造りで、天場高欄下に龍の彫刻が施されていて目を引きますが、全体は質素なつくりになっています。電線が巡行の支障になることから、最上層にあたる天障子が撤去されていましたが、平成十四年の大修理の際、これを復元して往時の姿に戻しました。また、山車の周囲を飾る紅提灯には、三番町の「三」の文字を図案化して用いています。

 見送り幕には、「昇龍・降龍」の図柄で、嘉永年間(1848〜1853)に製作されたと伝えられています。

     平成十六年三月 関町教育委員会

 山車倉の西隣が「川北本陣跡」です。現在は駐車場になっており、トイレがあります。

【伊藤本陣跡】 (左側) 

 上記、広重の絵の右隣りの写真参照。

 伊藤本陣は、川北本陣と並んで東海道関宿の中心的な役割を果たした。本陣とは宿駅に設けられた大名や公家、高僧など身分の高い人々の休泊する宿を指すようになった。伊藤本陣は、間口 十一間余、建坪六十九坪、西隣の表門は、唐破風造りの檜皮ぶきであった。現在残っている街道に面した部分は家族の居住と大名宿泊時に道具置場に供する建物である。

【旅籠玉屋 歴史資料館】 (右側)  見学6分

玉屋正面

二階座敷 

江戸時代から使用している階段(店の間)

【歴史資料館としての玉屋】

 関宿旅籠玉屋歴史博物館は、東海道の宿場町関宿を代表とする旅籠であった「玉屋(旧村山家)」を復元整備し、庶民の宿と旅籠建築をテーマとして開館した資料館です。

 旅籠玉屋は、関宿のほぼ中央に位置し、「関で泊るなら鶴屋か玉屋、まだも泊るなら会津屋か」と謡われたほどで、関宿でもっとも大きな旅籠の一つでした。平成5年3月旧所有者である村山弘道氏より町が買い付け、平成6年3月関町有形文化財に指定するとともに、平成6年度から8年度までの3ヵ年で保存修復工事を行い、江戸時代の旅籠の姿を再現しました。

 館内には、旅籠の主要部分であった主屋の他に、離れ、土蔵、納屋の4棟の建物があります。主屋では玉屋に伝わる食器・食膳類や旅に関係する歴史資料などを、離れでは様々な特別展を、土蔵では美術品の展示を行っています。展示品は、年4回展示替えを行い、ご来館の皆様に四季折々の旅籠の姿を楽しんでいただくとともに、歴史資料や美術品などの所蔵資料の充実につとめてまいります。

 東海道で唯一と言われる関宿の歴史的町並みとともに、関宿を代表する旅籠建築の中で、ゆっくりおくつろぎください。

【旅籠玉屋とその建物】 

 玉屋がいつ頃旅籠を営むようになったかは、はっきりしたところはわかりません。しかし寛政12年(1800)の宿場絵図には代々襲名していた理右衛門の名前が記されており、すでにその頃にはこの場所で旅籠を営んでいたと考えられます。

 東海道に面した主屋は、慶応元年(1865)に建築された木造二階建で、外観は二階を漆喰で塗り籠める関宿でよく見られる形式ですが、江戸時代の建物としては特別軒が高く、屋号にちなんで設けられた宝珠をかたどった虫籠窓(むしこまど)が特徴的です。土間(トオリマド)西側にある板の間(ミセ・チョウバ)と座敷、及び二階が客室として使われ、土間東側にある二室(コミセ)とその二階が、家族や奉公人の生活に使われていたと考えられます。また、トオリマドから続く吹き抜けの広い土間(ニワ)は、宿泊客の食事などを準備した勝手でした。

 主屋に続く離れは、主屋よりも少し古い建物と考えられ、整然とした六室が並ぶ間取りです。座敷には床・棚・書院が整えられ、玉屋12代主人作という欄間彫刻や池田雲撨による襖絵などもあって、玉屋でもっとも上等な座敷であったと考えられます。

 土蔵は、棟木の墨書から元文4年(1739)の建築とわかりました。

 このように玉屋には、旅籠当時の建築物が一体となって保存されており、江戸時代の旅籠の様子を今に伝える貴重な遺構であるといえます。

〔深川屋 服部家】(「関乃戸」菓子店) (右側)  16:20

 同家は、屋号を深川屋と称し、代々菓子司で、寛永年間初代服部保重によって考案された餅菓子「関の戸」は、関宿の代表的な銘菓として名高い。京都御所より陸奥大掾の名を賜っている。屋根看板は伝統あるもので風雪を刻んでいる。

【庵看板】

 瓦屋根のついた立派な看板。看板の文字は京都側が漢字、江戸側がひらがなになっています。旅人が向かう方向を間違えないための工夫だと言われています。

【銘菓「関の戸」】

 赤小豆の漉餅を白い求肥皮で包み、その上を阿波特産の和三盆(最上の砂糖で風味、舌ざわりの良さ等により古くから高級和菓子にのみ使用されています)でまぶしてあります。その姿は鈴鹿の嶺に積もる白雪をなぞらえたと伝えられています。

 「関の戸」は、かみしめる程に味わいが出てくる上品な餅菓子です。


〔関宿高札場〕 (右側)  16:23

 関郵便局の前に復元した高札場があります。

 高札場とは、幕府の法度や掟書、宿場の決まりなどを掲示した場所です。

 関宿の高札場は、江戸時代に描かれた数々の絵図を見ても、関宿中町北側(現関郵便局)にありました。当時この敷地は、「御茶屋御殿」と呼ばれ、江戸時代初期のおいては本陣の役割を果たす施設でしたが、関宿に本陣が確立されてからは、亀山藩の施設として番所などが置かれていました。

 関宿高札場は、この御茶屋御殿の街道に面した位置にあり、街道に面した間口十一間余のほぼ中央に、枡形状の土塀に囲まれてあり、高札場の建設、高札の付け替えなどは亀山藩が行っていました。

 『東海道宿村大概帳』によると、関宿高札場には八枚の高札が掲げられており、その内容は、生活にかかわる様々な規範、キリシタン禁令や徒党・強訴などの禁止といった幕府の禁令、隣接宿場までの人馬駄賃の規定などでした。

 明治時代になると、各地の高札場は撤去されますが、関宿の高札場も、明治十年、関宿中町伊藤家の土蔵建築の際、旧高札場の石、土、瓦等を残らず処分したことが当家文書にあり、周囲の土塀なども含め全てが撤去されたことがわかります。

 この度、関宿の町並み保存に取り組んでいただいている「関宿町並み保存会」、「関宿案内ボランティアの会」、「関宿観光協会」の三団体より、高札場復元のご要望をいただき、また、復元場所を所有する日本郵政公社及び関郵便局の多大なるご理解・ご協力を賜り、宿場町の重要施設のひとつである高札場の復元が実現したものです。

(復元概要)

 復元年代  規模及び高札についての資料が残る、寛政年間から天保年間頃

 規   模  寛政年間の資料に「高サ弐間四尺弐寸 長三間弐尺五寸 幅壱間弐尺」という記載があり、これを基本とした。

 形   状  関宿には形状を描いた図面等がなく、他の高札場の幕末から明治期の写真等を参考にした。

 高   札  関宿のものは現存せず、同様の内容を記載した他の高札を参考とした。文言については「東海道宿村大概帳」の記載どおりだが、楷書に変えた。

     平成十六年三月 関町教育委員会

〔福蔵寺〕(関の小万の墓) 町指定史跡 (右側) 16:28〜16:33

 「関の小万」の墓と記念碑が福蔵寺境内にあります。

 鈴鹿馬子唄にも謡われる関の小万は、女性の身でありながら亡き母の遺志を継ぎ、父の敵討ちをした仇討烈女として名高い。関地蔵院前にあった旅籠山田屋(現会津屋)の養女となっていた小万は、亀山藩の道場で武芸を磨き、天明 三年(1783)亀山城大手前付近で無事本懐を遂げることができた。その後も小万は、山田屋に留まり享和三年(1803)に三十六才の若さでなくなった。墓碑銘「妙証信女 享和三年亥年正月十六山田屋小萬」

〔川音 尾崎家〕 (右側)  16:34

 尾崎家は関の地蔵門前町の米屋で、鈴鹿川の水で米をつく水車の音から屋号をとって川音と称した。

 同家は、文久頃の建物と言われる。間口七間半、通り庭をはさんで左手に座敷、右手に米を収蔵する家うちの土蔵がある。

〔地蔵院〕 (左側)  16:35〜16:42

 関宿の特徴をもっともよく表す景観は、鈴鹿の山々を背景にした地蔵院の屋根を中町の町並み越しに見たところです。地蔵院はふるくから関の中心で、東海道はここで緩くカーブしています。

 ここから東の方、中町は宿場の中心で、様々な意匠の町屋が集まっています。また、西片、新所では軒高の比較的低い家が多く、落着いた町並みをつくっています。

 「関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿取ろ」の俗謡で名高い関地蔵院は、天平十三年(741)行基菩薩の開創と伝えられています。近郷の人々に加え、東海道を旅する人々の信仰を集め、現在でも多くの参拝客でにぎわっています。境内の本堂・鐘楼・愛染堂の三棟が国の重要文化財に指定されています。

 


〔会津屋〕 (右側)  16:42

 地蔵院の前にあり、大きなタヌキの置物がある。現在は食事処です。

 会津屋は鶴屋・玉屋とともに関宿で有数の大旅籠であった。

 明和から天明にかけて会津屋の前身、山田屋で育った小万が女の身で亡父の仇を討った烈女「関の小万の物語」は有名である。

 


新所の町並み】 

 新所の町並みの幻想的な夕景です。(12月3日16:53 西の追分手前)

 奥に見える山が明日越える予定の鈴鹿峠になります。

 



 37回目の旅終了関宿「西の追分」(ここで丁度17:00の町の鐘が鳴った)。  本日の歩数:30,950歩

 今の季節、この時間は真っ暗。ここから少し戻って宿の右側小高いところにある「国民宿舎 関ロッジ」 (*)に宿泊。

 従業員との話の中で、東海道五十三次を歩いている人では、横浜の人が一番多いと言っていました。

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