見付宿 (磐田駅→浜松駅) <旧東海道25回目>

2003年11月1日(土) 快晴 

 今回も自家用車で自宅を7:40に出発して磐田 ICで降り、前回は夕暮れのためパスした「矢奈比売神社」「旧見付学校」「府八幡宮」を巡ってから磐田駅の駐車場に車を置いて、前回終了した磐田駅前から街道の続きを歩きました。  

  (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

「袋井宿」 ← 「目次」 → 「浜松宿 ・舞阪宿」


【見付宿】 江戸から60里半11丁(238.8Km)、京へ64里半9丁 人口約 3900人 

 阿多古山一里塚・愛宕神社から見た、見付宿街道です。

 手前に横断歩道がペイントされている所を右折すると「見付天神」の入口です。

 奥に、旧見付学校の塔も見えます。

 京都から来た人が始めて富士山を見つけたことからついた地名とも云われている。

 天竜川を控えた川越宿場として繁盛した。古代には、遠州の中心地として国府が置かれた所。

 宿の中央には本陣や旅籠、商屋が並び、宿の外れではうどんや饅頭を売る茶店がありました。宿の奥にも民家や寺院・神社があり、横道によって街道に出ることができました。この横道を小路(しょうじ)と呼び、玄妙小路、寺小路、宮小路など古寺や神社を由来とした名がつけられています。天保13年(1842)には、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠39軒があったと記録されています。 


【矢奈比売(やなひめ)天神社】  (別名:見付天神)

 愛宕神社(一里塚)より100m先を右折したところに鳥居があります。神社までは少し上り坂を行きます。

 妖怪を退治した猛犬悉平(しっぺい)太郎( 信州光前寺の早太郎のこと)の伝説と像があります。

 以前、光前寺に行ったことがあり早太郎のことが忘れられなかったので、ここでまた逢えるとは思ってもいなかった。

【矢奈比売天神社由緒】

※延喜式内社・※国史現在社として磐田の里々をはじめ、京の都にも名が知られ崇敬されていた。相殿の御祭神(菅原道真公)は一条天皇の正暦四年(1993)に筑前国大宰府天満宮より勧請される。慶長八年(1603)徳川家康より神領五十万石を寄進される。明治六年社格が県社に列せられる。

 ※延喜式内社とは、平安時代の延喜年間(十世紀前半)に著された延喜式神名帳に載せられている、古い格式のある神社。

 ※国史現在社とは、六国史(日本書紀・続日本紀・日本後記・続日本後記・文徳実録・三代実録)に記載のある神社。当社は続日本後記と文徳実録に記載されている。

御神徳

 古より学業成就・安産・子育て・諸産業振興の神として「見付のお天神様」と崇敬され、天下の奇祭(裸祭り)人身御供伝説とともに世に知られている。

【猛犬悉平太郎伝説】

 当神社には、人身御供の伝説が残されております。

 正和年中(約六百六十余年前)現在の駒ヶ根市光前寺より、悉平太郎という名犬を借り受けて怪物を退治し、人身御供という悲しいならわしを断ち切り、平和な見付の町に戻したというものです。その謝恩のために当社社僧が奉納した大般若経は、現在寺宝として光前寺保存され、磐田市と駒ヶ根市友好都市のきずなとなっています。

 つつじ公園内の霊犬神社は、犬を祀った日本唯一の神社として、近年はペット愛好家の方々に深く崇敬されております。

【早太郎物語】

 信州信濃の光前寺というお寺で、山犬が三匹(五匹とも)の子犬を生み、それを知った和尚さんは、毎日餌を運んで見守った。やがて子犬は大きくなり、母犬といっしょに、お寺の庭をかけ回って遊んでいたが、ある日、母犬は子犬を連れて帰ろうとしたとき、和尚さんの願いで一番利巧そうな子犬を一匹お寺へ残していった。その子犬は強く、走ることが早かったので、「早太郎」と名前をつけて可愛がった。

 在る寒い日の夕方、お寺の裏山へ恐ろしい怪物が出てきて、遊んでいた子どもをさらって逃げようとした。それを見つけた早太郎が怪物と戦い、子どもを助けた。そのことがあってからは、村人達も、やさしく強い早太郎を可愛がるようになった。

 そのころ、遠州(静岡県磐田市)の矢奈比売天神社お祭りには、年頃の娘を人身御供として神前に差し出さなければならない慣わしがあった。

 毎年8月の初め、年頃の娘がいる家に何処からともなく白羽の矢が飛んできて屋根に突き刺さり、矢のささった家では、娘を白木の箱に入れて神社へ供えなければならなかった。それをしないと田畑の作物が一晩のうちに荒らされてしまうからであった。

 8月10日の真夜中、白木の箱に入れられた娘は大勢の男たちに担がれて山道を運ばれ、神社の拝殿の前に置かれる。やがて天地鳴動する中、娘は怪物(化け物)にさらわれてしまうと云われる。

 延慶元年(1308年)の年、ある家の屋根に白羽の矢が突き刺さった。そこへたまたま通りかかった旅の僧がこの話を聞き、悲嘆に暮れている村人の様子を哀れに思い、拝殿の下に忍び込んで、その化け物の正体を確かめることにした。村の男たちは担いできた箱を拝殿の前に置くと、脇目も振らずに一目散に逃げっていった。

 するとどこからともなく地響きがして、「今宵、今晩、信州信濃の早太郎はおらぬか。このことばかりは早太郎に知らせるな。」と何回も歌いながら、大きな化け物が現れ、白木の箱の中から、娘をわしづかみにすると、ものすごい早さで消え去って行った。

 この言葉を聞き逃さなかった旅僧は、苦しみから村人を救うため、化け物が恐れている早太郎を捜す旅に出た。

 僧侶は「信州信濃の早太郎はおらぬかい」と広い信濃を隅々まで捜し歩いたが、なかなか見つける事は出来なかった。泣き叫ぶ娘や嘆き悲しむ親のことを思い浮かべて悲嘆に暮れる中、やっと宮田のお茶屋にたどりついたとき、茶屋のおばあさんが早太郎の話を聞かせてくれた。

 赤穂村(現駒ヶ根市)の光前寺にいる犬が早太郎だという話を聞いた僧侶は、喜びいさんで光前寺を訪ね、和尚に会って見付で見聞したことを語り、早太郎を貸して欲しいと懇願した。事情を知った和尚は、村人の為ならと早太郎を連れて行くことに快諾された。

 僧侶が早太郎を連れて見付に戻った時は、祭りも間近に迫って、次の娘が選ばれていたところだった。そこで8月10日夜、白木の箱の中に早太郎を入れ、自分は先に拝殿近くに潜んでその時を待った。

 やがて箱を運んだ男たちが去っていくと、「今宵、今晩、信州信濃の早太郎はおらぬか、このことばかりは早太郎に知らせるなよ」と歌いながら化け物が現れ、箱に近づいてきた。そして箱を掻き破ったその時、早太郎は猛然と化け物に襲いかかった。この化け物と早太郎との戦いは凄まじく、叫び声は未明まで見付中に響きわたったという。

 翌朝、境内には大きな年老いたヒヒの化け物が血まみれになって横たわっていた。化け物はついに早太郎により退治されたが、早太郎も深手を負い、血まみれのまま遠い信州の光前寺までやっとのことでたどりつき、和尚さんの顔を見て一声ほえると、ばったりたおれて死んでしまったと云う。

 死んだ早太郎をなでながら「よくたたかった、強かったな」とほめ、太い杉の木にかこまれた本堂の左横に埋葬した。

 しかし、これには幾つかの説があり、ヒヒと闘った後その場で息絶えたとか、僧侶が介抱して光前寺へ連れ帰ったとか、光前寺へ帰る途中力尽き息絶えたとも云われている。

 この早太郎の化け物退治により、見付の悲しい人身御供の慣わしは終わりを告げ、喜びの余り踊ったのが裸踊りの始まりだと伝えられている。

 この旅僧の名は一実坊弁存といい、その後、矢奈比売天神社に住み、大般若経六百巻を書き写して納めた。時に正和五年(1316年)の事である。いつの頃かこの大般若経は光前寺に寄進され、現在尚、寺宝として大切に保管されている。

 この伝説が縁となり、磐田市と駒ヶ根市は、昭和四十二年友好都市を締結、現在に続いている。

【見付天神裸祭】 国指定重要無形民族文化財(平成12年12月指定)

 矢奈比売天神社は、矢奈比売命・菅原道真を祭神とし、別名、見付天神とも言われています。矢奈比売命は六国史に「矢奈比売天神」と記載があり、また、菅原道真を祭神として祀ったのは正暦四年(993)八月十一日との記録があります。

 当神社に伝わる裸祭は旧暦八月十・十一日に行われていましたが、昭和三十六年(1961)からその直前の土・日曜日に行われるようになりました。この祭は当神社の御神霊が遠江国総社・淡海国玉神社へ渡御(とぎょ)する際に行われる祭で、渡御に先立ち裸の群衆が見付地区内を練り歩き、神社拝殿で乱舞することからこの名があります。

 大祭は一週間前の元宮天神社例祭(祭事始)から始まり、見付地区の清め(御斯葉おろし)、三日前の福田(ふくで)海岸における心身の清め(浜垢離)、前日の社殿・境内等の清め(御池の清祓)と続き、大祭では御神霊の渡御、翌日には御神霊の還御で一連の祭礼が終了します。

 この祭は、厳粛な物忌みと心身の清めにより、祭事を行うという、古代の祭儀の法を伝承しているものと推定されます。

 裸祭に参加する者は褌・草鞋・腰蓑を着けたいでたちをし、また、地区内の祭礼組織は古くからのしきたりが継承されています。

     平成十四年三月 磐田市教育委員会文化財課


【旧見付学校】 国指定史跡 (現存する日本最古の洋風木造小学校舎)

 東名高速磐田ICに向かう県道86号線を渡った見付宿場通りの右側にあります。

 旧見付学校の右横には淡海国玉神社、裏には磐田文庫があります。

 

 「旧見付学校」は、学制発布後まもない明治八年((1875)に落成した現存する日本最古の洋風木造小学校校舎です。当時は四階建てでしたが、明治十六年に増築されて今の五階建てとなりました。

 記録によると明治十四年の見付学校の生徒数は、男300名・女182名の482名で、就学率(学校に行った人の割合)は66%でした。

 この建物は大正十一年まで小学校として、その後は中学校、裁縫女学校、教員養成所、病院等として使用されました。現在は学校関係の資料等が展示されています。

 昭和四十四年、国指定史跡となっています。

     磐田市教育委員会

 内部には資料の他に、教室が再現されており、数種類の教科書(ハト・マメ・マス・ミノ・カサ・カラカサやサイタ・サイタ・サクラ・ガ・サイタ等)が机の上に置かれています。

 特に先生が持っている教科書は是非見てください。知らない人には謎の文章があります。

 年配者には常識ですが、意味が分かりますか?

「富士山といふ山は、たいそー、かっこーがよくて、ちょーど、すりばちをさかさまにしたよーです。また、たいそー、たかくて、日本では、二ばんめの高い山です。・・・」


<おやつ> 旧見付学校の少し先右側にある、「又一庵」の『きんつば』と見付天神名物『栗餅』を買いました。餅が固くなりかけて★★

 本当は、旧見付学校手前右側にある「井口製菓」で『栗餅』を買う予定だったが、車で通り過ぎてから気が付いたため戻るのが面倒で「又一庵」にしました。 


見付宿場通りから西坂町の交差点を真直ぐ行けば姫街道(池田近道)で、旧東海道は磐田駅方面へ左折します。

【姫街道】

 見付宿から西に向かう小道で、この道が浜名湖を迂回する本坂街道(通称姫街道)に通じることから、このように呼ばれるようになりました。江戸時代には多くの旅人がこの近道を利用しました。


【府八幡宮】 (左側)

 磐田駅へ向かう姫街道の途中左側にあります。楼門がすばらしい(左の写真)

【由緒】

 天武天皇(673〜686)の曾孫、桜井王が近江の国司として着任した時、国府の庁内に勧請されたのが始めであると伝えられる。

桜井王が着任したのは聖武天皇(724〜749)の天平年間(729〜749)と言われているが、一説では前代の元正天皇(715〜724)の養老三年(719)か同四年頃とも考えられている。建武年間(1334〜1336)以来、秋鹿氏が奉任し秋鹿家は後に徳川家康に仕えて代官を務めた。

【その他】

 本殿は、元和三年(1617)徳川ニ代将軍の娘後水尾天皇の后東福門が寄進再建された旨の検札がある。

 楼門は徳川三代将軍家光の寛永十二年(1635)に建てられ、現在は「県指定文化財」で屋根はこけらぶきである。

 中門も同時代に建立された記録がある。

 鳥居は元和三年(1617)秀忠寄進の記録もあるが、現在のものは文久三年(1863)に建てられたものである。

 燈籠のうち、最大のものは嘉永六年(1853)建立のものである。

 府八幡宮の反対側を入った所には、「国分寺跡」がありますが、ただの広い公園になっているだけです。


 旧東海道は、磐田駅から一つ手前の交差点を右折します。

 この交差点の左角には、最近出来たばかりの「天平のまち」というビルがあります。自家用車をこのビルに駐車してここから歩き始めることにしましたが、12:30になったのでまず昼食を取りました。

 磐田駅周辺には食事するところが少ないですが、このビルの1階に店内で食事が出来るテーブルも備えた手づくり惣菜の店「味采(あじさい)」があります。ここには、弁当・パン・寿司のほか揚げ物・焼き物・煮物(秤売り)の惣菜が沢山あり、好きなものをチョイスします。そして、暖かいご飯も秤売り(100gで¥100)しており、自分のお腹に合わせて発泡容器に取れます。また、惣菜を買った人は味噌汁が無料となります。更にうどん・そばもありますが、容器に盛るのもうどんを茹でるのも全てセルフサービスです。お腹一杯に食べても¥500〜¥600ですみます。

 

重要な情報:この先、浜松駅前まで満足に食事が出来る店はほとんどありません。コンビニも少ないです。途中昼食時間になる旅人は、ここで食事をしておくか、弁当等を買っておくことを強く薦めます。

 

 この「天平のまち」というビルの向かいの角に、「旧東海道」の案内板が立っており、北「見付宿」、西「浜松宿」とあります。矢印に従ってここを右折します。

 今日のスタートはこの案内板前とし13:10発。万歩計をにセットする。


【中泉の標柱と東海道の石碑】 (右側) 13:20

 中泉公民館の前に平成三年に建てた「東海道」の石碑と「夢舞台・東海道」の標柱が立っており、江戸時代の中泉の絵図と大正時代の地図も掲載されていました。

豊田町(宿境まで六町) ← 磐田市 中泉 → 見付宿(宿境まで二十三町)


【宮之一色一里塚】 (右側) 13:35

 「FIT HOUSE」前の右側にある、日本橋から63番目の一里塚で、階段が付いています。

 ここには「東海道と歴史の道」と書かれた真新しい標柱が立っており、下記一里塚の説明と共に付近の地図、及び往時を偲ぶ絵が掲げられていました。また、標柱の上部右側には「見附」、左側には「濱松」の表示もありました。

 江戸時代になると、東海道や中山道などの街道が整備され、これにより多くの人々が安全に旅することができるようになり、荷物も多く、早く届けられるようになりました。

 一里塚は、旅人の距離を知らせるために、一里ごとに、街道をはさんで両側に一基ずつ作られました。一里塚の上には榎や松などが植えられ、その木陰は多くの旅人の休憩する場所となりました。また、かごや荷物を運ぶ料金の目安としても利用されたようです。ここ宮之一色一里塚は、東海道の基点である江戸日本橋から数えて63番目の一里塚です。現在の一里塚は昭和46年に復元されたものです。

 当時は、西に間の宿といわれた池田宿と天竜川の渡船場を、東に見附宿をひかえて、さぞ多くの旅人や荷物が行き交ったことでしょう。一里塚の西に点在する松並木がその名残を今に伝えます。


【宮之一色秋葉山常夜灯】 (左側) 13:40

 一里塚から3分程の所に建っています。

 この常夜灯(灯籠)は平成八年部分改修しました。その棟札から文政十一年(1828)に建てられたものとわかりました。竜の彫り物があるので「竜燈」と呼ばれ数ある灯籠の中でも大変貴重なものです。風よけに灯籠の周りを板で囲み上部は明かりが漏れるように格子になっています。「陸の灯台」として暗闇を照らしていたことでしょう。

 毎年自治会の代表が可睡斎にお参りし「秋葉総本殿」のお札をこの灯籠に奉納しています。

 地域の安全と火防(ひぶせ)の守り神として多くの人々から慕われ崇敬されています。

 旧東海道、一里塚、松並木、秋葉灯籠のある宮之一色へようこそ。よい日・よい旅を・・・。

     平成十五年十月 宮之一色自治会


【「東海道と歴史の道」標柱】 (左側) 13:48

 左側久野塗料店の角に「東海道と歴史の道」の標柱が立っており、北「桃燈野」、東「宮之一色一里塚」、西「藤と香の道」と表示されていました。

 この先旧東海道は、Y字路を左方向に行きます。

 このY字路の先端(V部下方)に車では見逃しそうな小さな「長ふじ→」の案内板がありました。これは天竜川の土手を1Kmほど右へいった所にある、行興寺の「熊野(やゆ)の長藤」のことです。ここの長藤は花の長さが1m以上にもなり、国の天然記念物となっています。

 是非訪れたいところですが、藤の花の季節でないので別途訪れることにして、今回はパスしました。

 その先、若宮八幡宮手前に上と同じ「東海道と歴史の道」の標柱が立っており、解説と地図が掲げられていました。

【東海道と歴史の道−森下起点案内】

 この道は昔の東海道です。ここから東の方を見ると、かつてこの道沿いに植えられていた松並木の名残りがおわかりになるでしょう。豊田町ではここを起点に現在の国道1号線一言坂付近までの約3キロの道を「東海道と歴史の道」と定め、いくつかのサインを設置しました。途中には江戸時代に東海道を旅する人たちの休憩地となった「一里塚」もあります。どうか、時間を越えて歴史の空気の中をゆっくり歩いて下さい。


【若宮八幡宮】 (右側) 14:00

【由緒】

 明治七年一区一郷に村社設置の御達しにより当時浜松県第二大区第三小区内二十九ケ村の神社を合祀して郷社若宮八幡宮と称した。

 境内に、「藤と香りの道」として「郷社ポケットパーク」の碑があり、下記の話が書かれていました。

 【第三場(出合の場)

 熊野が、あいさつにあらわれたのは、そのときでした。宗盛の顔にほほえみがうかびました。熊野が天竜川の土手で、母のために蓮華の花をつんでいた夕ぐれ、そばを通った若い侍がこの宗盛だったのです。宗盛は、熊野の美しさに見とれてしまいました。そして、できることならもういちどあいたいと思っていたのでした。


【天竜橋跡碑】 

 T字路を右折してまもなく右へ入る道に天竜橋跡の碑が建っています。

 天竜川は明治の初年まで長い間渡船によって通行をしていたが、明治六年(1873)架橋の第一段階として船橋の計画が中野町村側から出され、翌明治七年二月源平新田から中野町村に船橋が完成した。明治九年になりこれが木橋に架け換えられ、極めて便利な交通路となった。

 全長六四六間(1163m)巾二間(3.6m)、天竜橋も池田橋と同じように長い間「はしぜに」を徴収していた。昭和八年、国道に現在の鉄橋が完成したので、池田橋とともに名物の木橋は廃止され、取り除かれた。

 この橋の位置を末長くとどめるため、昭和四十八年三月、教育委員会はこの碑を建てた。(なお、天竜川船橋の記念碑は橋の西側の中野町に建てられている。)

     昭和六十三年三月 豊田町教育委員会 豊田町郷土を研究する会

 その先左側、土手に上がる階段が見えたら左折して天竜川に出ます。


【行興寺・池田の渡し】 *今回は、訪れていませんでしたが、後日(2004.4.24)、藤の季節に訪れましたので最下段に追加しました。

 天竜川橋を渡る前の土手道を右折して900m位で、右側に石碑「池田橋の跡」と「池田の渡し歴史風景館」がありますので、その間を下りて行くとすぐ「行興寺」があります。

【行興寺】

 当寺は、今より八百年の昔、延久元年の創建にて、謡曲で有名な、熊野(ゆや)御前の旧跡であります。

 当寺には、熊野御前の守本尊厄除十一面観世音(恵心僧都御作)、熊野御前とその母、侍女朝顔の墓墳がそのまま昔を物語っております。

 毎年四月二十九日より五月五日まで熊野御前の例祭をとり行います。

 境内には、その昔、熊野御前が堂側に植えて愛育された藤であると称される紫房五尺以上に垂るる五百坪に余る藤があり、昭和七年文化庁より「熊野の長藤」として天然記念物に指定されました。

 見頃は、年により相違があるが平年四月下旬から5月上旬であります。

 謡曲「熊野」奉納の方には、寺則により謡曲奉納の証印を押印いたします。

【池田の渡し】 

 天竜川の渡船場は、池田村と対岸の中野町村にありましたが、江戸時代の初めの渡船場は少し下流の方でした。それを上流に移転したために、見付宿方面と結ぶには東海道とは別に、いわゆる「池田近道」ができました。

 池田の渡船場は上・中・下の三ヶ所があり、通常は最も下流に設けられた「下の乗船場」利用しました。増水して流れが速くなると「中の乗船場」を利用し、さらに急流になると「上の乗船場」へ移して天竜川を斜めに横断しました。

 「下の乗船場」には、正徳元年(1711)5月に建てられた渡船高札がありました。渡船場には川会所が付設されていましたが、乗船場が移動するとその川会所も一緒に移しました。

 私達のように季節外れに天竜川を越えた方は、ぜひ藤の季節に行興寺を訪れて下さい。再度交通費を払っても行く価値はあります。

 河川敷に広い無料の駐車場がありますので車が便利ですが、期間中は東海道線「豊田町」駅から30分おきにシャトルバスも運行されています。


【天竜川】 14:20〜14:30

安藤広重の東海道五拾三次之内・見附『天龍川圖』 

 洪水被害が多かった為「あばれ天龍」といわれた天龍川の船渡しは、池田村から中之町村間であったが、通常は中州で二つに分かれていた。これらは小天龍(手前)、大天龍(後の川)と呼ばれていた。

現在の天竜川橋

 現在の天竜川橋には歩道がありません。歩行者のすぐ脇を車がすれ違うため10分間ヒヤヒヤの連続です。特に大型車は大変怖いです。

 今年(2003年)の夏休みも、日本テレビの「ズームインSUPER」で“大場満朗さんと小学生7人の旅”という東海道徒歩の旅が放映されましたが、この橋を渡るときは、全員右手にロープを持って一列に歩いていましたがこの様に何か考えたほうが良いです。私は帽子を脱いで右手に持ち出来るだけ上下に振りながら歩きました。


【明治大帝御聖蹟・舟橋跡・天竜川木橋跡】 (右側) 14:35

 

 天竜川橋を渡り終えたら、すぐ土手を左折し、しばらく行くと右側に明治天皇が休んだ玉座跡の石碑(案内板は字が読めなくなっていました)と、続いて橋跡の石碑と木柱が2本並んでいます。

 旧東海道は、この木柱の脇を土手下に下ります。

 


【六所神社】 14:40〜14:45

 天竜川木柱跡の真下、土手の内側にあります。ここで持参のミカンを食べながら少々休憩。

【由緒】

 伝え云ふ 建治二年八月十八日尾張国中野郷より 勧請すと御朱印五石七斗拝領す

 境内はもと寺裏にありしを明治七年遷座す その折当地に鎮座せし島津神社と北裏に遷座せし上下神社を合祀

 大正十二年六月二十七日 賀陽宮恒憲王殿下御参拝あり

 第六十回伊勢神宮式年遷都に伴ひ 御正殿の古材を使いまして昭和五十年十一月社殿他皆改築す

 旧東海道は六所神社の前を西に行きます。

 途中右側に軽便鉄道軌道跡の木柱が立っていましたが、説明文は何もありませんでした。


【松林寺】 近江四十九薬師霊場第八番札所 (右側)  14:55

 立派な門構えのお寺で、境内左側の薬師堂には、行基作の薬師如来等が祀られているとあるが、残念ながらご開帳の時しか見ることが出来ないとのこと。

 

【薬師堂(医王堂)

 ご本尊は薬師瑠璃光如来、その両脇には日光菩薩・月光菩薩・十二神将が祀られており、一千年余年前の名僧行基菩薩の御作といわれ心身の健康の守護のみ仏であり万病即快の現世利益の如来さまです。

 三代将軍家光公は時の浜松代官に命じて別堂(現在の薬師堂)を建立させ代々の将軍自ら信仰し御朱印(ふち米・お守料)を授け遠州一円の住民の家内安全無病息災を祈願なさしめられた。

  左の写真は山門、右の写真は薬師堂

 


【金原明善翁生家・明善記念館】 15:00〜15:15 

 右側に黒塀と立派な松のある家が生家です。

 明治時代に全財産を投じて天竜川の治水と沿岸の開発をした人物です。

 左側に記念館があります。

【金原明善の経歴】(一部)

 天保3年(1832)に現在の浜松市安間町に生まれる。

 明治元年(1868)37歳のとき京に上がり維新政府民生局に天竜川治水策を建白

 同8年冶河協力社を設立。

 同10年大久保利通に会見天竜川治水のため全財産の寄付を申出で補助金下附の承認を得

 同11年財産整理を終え、私財5万6千余円を冶河協力社に寄付

 同12年全財産を冶河協力社に寄付、水害防除に努めたのを賞せられ金杯下賜(静岡県)

 この間、数々の事業と献金を行う

 大正12年東京府にて永眠


【松並木】 

 県道314号線から312号線に合流し国道1号線をくぐると、多くはないが松並木が現れます。途中倒れた松もありましたがしっかりした支えが施され大事にされているようであった。


【六所神社と秋葉山常夜灯】 (右側) 15:45

 天竜川駅入口の交差点右側にあります。浜松には六所神社が沢山あるようです。

 磐田駅の出発が13:10と遅かったので当初、本日は天竜川駅までと決めていたが、3連休なので頑張って浜松駅まで歩くことにしました。

 このあたりから、西日に浮かぶ浜松駅前の「アクトシティ」の高いビルが遠くに見えてきます。あそこまでと思ってもなかなか近づかないのが辛い。


【東海道の石碑】 (左側) 15:50

 東海道という文字の下に「弥次喜多も 通った道だよ この辺り」と書かれた面白い石碑がありました。 

 この先で国道152号線と合流します。ここから浜松まで3Kmの標識。 


【馬込一里塚跡】 (左側) 16:30

 途中(16:15)右側に立っている蒲神明宮(本殿は数百m先なので行かなかった)の鳥居を見て、NTTのすぐ先左側に馬込一里塚跡の木柱のみが立っています。

 江戸日本橋より六十五里(約260Km)の所。

 「馬込一里塚」の名称は静岡県史跡名勝天然記念物調査報告書より引用した。資料に依りては「向宿一里塚」とも云う。この辺り中世宇間郷向宿と呼び江戸期に至り向宿村。現在は浜松市相生町と云う。


【馬込橋】 16:40

 次回の駐車場探しのため本日の旅はここで終え、街道を左にそれてJRの線路脇を歩いて浜松駅まで行きました。


【後日追加 】 2004.4.24

【行興寺「熊野(ゆや)の長藤」】 

 インターネットで「熊野の長藤が満開近い」との情報を得て、2004年4月24日(土)に車で行ってきました。

 ここの藤は従来なら4月下旬から5月上旬が見頃とのことだが、地球温暖化のせいか近年はあらゆる花の開花が早まり、特に2004年は、桜をはじめ色々な花が一週間も早く咲くなどして、熊野の長藤も4月24日で9分咲きながら見た目には満開になっていました。

 こんな見事な藤は今まで見たことがありません。広い境内いっぱいに藤棚があり、何万という 紫の花房が垂れ下がっているさまは言葉では言い表せられない景観でした。

 境内通路には見物人が溢れて、歩くにも写真を撮るにも大変でした。また、藤棚の下には、テーブルや桟敷が設えられており、ここにも大勢の人が飲み食いしていました。着いたのは昼時だったので座ってゆっくり藤を眺めながら食事と思ったが、売店には弁当がなく、おでんでは物足りないので やめて外で食べることにしました。

【熊野の長フジ】

 国指定天然記念物 一本

 県指定天然記念物 五本

 国指定は、境内西北隅に位置し、幹は根元より分かれてニ支幹となっている。根元で約1.8mもある。

 本堂前の境内にある五本のフジは県指定であるが、国指定に劣らないフジの巨木である。ともに、樹齢は定かでないが老木であることは間違いない。

 花房が1m以上にも伸びて、紫色の美しい花をつける。一般的には「熊野の長フジ」と呼ばれている。そのいわれは、平安時代の終りごろ、熊野御前が植えたとの伝承がある。熊野御前については謡曲熊野や平家物語にも登場する、親孝行で有名な美女である。

     平成四年三月 豊田町教育委員会

 県指定天然記念物(5本) 昭和47年9月26日指定

  樹齢:約300年(推定)  根廻:2.4m  樹高:2.5m

  特徴:花房の長さ1.5m(最長)平均90cm

 国指定天然記念物(1本) 昭和7年7月15日指定

  樹齢:約850年(推定)  根廻:2.9m  樹高:2.5m

  特徴:花房の長さ1.5m(最長)にも及び、花の咲き終わった後に葉が繁るのが特徴である。

 国指定の長藤は、やや遅れているのか花房は1m以上伸びておらず、他の藤ほど密集して咲いていませんでした。

 

【謡曲「熊野」と行興寺】

 近江国池田の宿の長 熊野は、平宗盛(清盛の次男)の寵愛を受け、京都清水の桜見物に出掛けます。

 熊野は病母から届いた手紙で見舞いに赴きたいと思い、宗盛に暇を乞いましたが、聞き入れられず、やむなく宗盛に同行しました。

 花の下の酒宴が始まり舞を舞った熊野は、俄の村雨に散る花に寄せて故郷の病母を気遣い

    いかにせん 都の春も惜しけれど 馴れし東の花や散るらん

 と和歌を詠んだのを見て宗盛も哀れに思い、暇を与えたのです。

 熊野はこれも清水観音のご利生と喜んで故郷へ帰って行きました。

 熊野は藤の花をこよなく愛し、行興寺本堂側に熊野が植えたと伝えられる老木あり「熊野の長フジ」と称せられています。

     謡曲史跡保存会



 25回目の旅終了(16:55)浜松駅。 ◆本日総歩数:23,000歩

 浜松の駅ビルで夕食を取り、駅よりJRで 磐田駅まで戻り、自家用車で帰宅。

 

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