島田宿(後半)・金谷宿・日坂宿 (島田駅→事任八幡宮)  <旧東海道22回目>

2003年5月1日( 木)晴  

 今回も自家用車で自宅を7:30に出発し、途中「蓬莱橋」に寄ってから島田駅前の駐車場(5時間まで200円/30分、以降100円/30分)に車を置き、前回の終着点「大井神社」より街道の続きを歩きました。10:15スタート。

  (注:解説で街道の左側、右側とは京都に向っての左右です)

「藤枝宿・島田宿(前半)」 ← 「目次」 → 「掛川宿」


【蓬莱橋】 

 島田駅の南方約2Kmの大井川に架かっています。

 ギネスブックに認定された、「世界一長い木造歩道橋」(有料)です。

 長すぎるので時間の関係から渡らなかったが、一度は歩いてみたい橋です。

〔蓬莱橋の歴史〕

 明治2年(1869)7月、最後の将軍徳川慶喜を護衛してきた幕臣達が大井川右岸にある牧之原を開拓し、お茶を作り始めた。

 当初は大変厳しい環境の中で、筆舌には尽くせない苦労の連続だったが、そのかいがあって順調に茶栽培が営まれ、生活が安定するにしたがって、島田の方へ生活用品や食料品を買いに出かけるようになってきた。

 また、島田の方からも初倉に山林、原野の開墾のため出かけるようになったが、大井川を小舟で渡らなければならず、大変危険なことだった。

 そこで、島田宿の開墾人総代達は、時の静岡県令(現在の知事)に橋をかける願いを出し許可され、明治12年(1879)1月13日に完成した。しかし、木橋のため大井川の増水のたびに被害を受けてきたので昭和40年(1965)年4月にコンクリートの橋脚に変え、今日の姿となった。

 現在蓬莱橋は、全長897m(1997年12月ギネス認定「世界一長い木造歩道橋」)、通行幅2.4mであり、大井川の自然と一体となった木橋として全国的に有名な観光名所となっている。


【大善寺】 (右側) 1025

   

 大井神社を過ぎて県道34号線を進むと次の信号右角にあります。

 一日の川越の始まりと終わりを告げる時の鐘を打った寺で、その鐘は現在も残っています。(左の写真)

 山門脇には新しい閻魔堂がありました。(右の写真)

 

【島田宿大井川川越遺跡】 国指定史跡(昭和41年8月) 10:40〜10:55

 パルプ工場の前で道はY字路になっていますので、その工場の塀に沿って斜め左へ進んで行きますと、ほどなく「川越遺跡」に着きます。

 大井川に続く道の両側には、番屋、札場、川会所など復元された建物が十数軒並んで、当時の雰囲気を残す町並となっています。

 一部の建物には人が住んでいますが、いくつかは内部を自由に見学でき、川越に使われた道具なども展示されています。

 案内板を入口から順番に載せます。 

【橋下仲間の井戸】

 この井戸は「つるべ井戸」といわれるものです。いつごろ掘られたかはっきりしませんが、明治30年ごろ改修され現在のような形となりました。井桁にはそのころの利用者仲間の人たちの名前が刻まれています。

 なお、この井戸は昭和29年に水道が敷かれるまで使われていました。

   井戸の直径  1メートル

   井戸の深さ 11メートル

   水までの深さ 9メートル(冬期)

〔番宿(ばんやど) 

 上の写真は「三番宿」です。当時は十番までありましたが、現在は四番と八番が無く八軒復元されています。

 川越し人足がふだん詰めていた溜まり場ですが、川越制度制定当初から番宿が存在したかどうかは不明です。

 川越し人足は十組みに分けられ、各組が一つの番宿に詰めました。

 川越しは各組が輪番制であたりましたが、当番ではない組みの人足もそれぞれの番宿で待機していました。

〔仲間の宿〕

 主に年をとった川越し人足たちの集まった宿です。

 ここは、人足たちの仕事上の意見交換や、各組どうしの親睦の場として使用されたといわれています

【立会宿(たちあいやど)

 「立会人」が詰めたり、川越人足の頭が必要に応じて相談場所として利用したところです。

 「立会人」は、川越しを待っている旅人たちを、番宿まで案内することがその役目で、ふつう番宿から越場にいる川越人足のところまでは「陸取(おかど)り」が案内しましたが時には「立会人」が越場まで連れていきました。

 「立会人」は、川会所にも詰めていたといわれています。

〔札場〕

 川越し人足が川札を換金するところで、昔ながらの位置に保存されています。

 一日の川越が終了すると、それぞれの番宿において川札を回収して、札場で現金に換えた後、人足たちに分配しました。

〔川会所〕

 下の写真が復元された川会所の入口と建物です。内部に連台等が展示されています。

 入ってすぐの庭の左側に、芭蕉の句碑がありました。

    馬方はしらじ時雨の大井川

 旅人は川会所で川札を買って人足に渡し、人足はあとで札場で換金する方式だった。

 川札の値段は、川の深さで決まっており下記の通り細かく決められていた。

 川渡しの方法は肩車と連台で、例年夏に実演されているらしい。

 

 元禄九年(1666)の川越制度の制定に伴って、川役人が川越業務を行ったところです。

 現存する建物は、安政三年(1856)に建てられたもので、明治以降、数回に及ぶ移転を経て、昭和四十一年(1966)建立当初の位置に近い現在所に復元保存されました。

 なお、金谷側にも同様の施設があったと考えられますが、現存していません。

【川会所と川越制度】

 江戸時代の初期、慶長六年に幕府は宿場伝馬の制を定めて東海道に五十三次の宿場をおき、江戸城の要害として大井川に渡渉制度をしいた。

 この渡渉は江戸時代初期においては比較的自由なものであったが、貞享・元禄のころから制度の内容を更にきびしくして、元禄九年には二人の川庄屋をおいた。川会所はその渡渉を管理するための役所であって、大井川畔三軒家(現在の河原町)に建てられ、川庄屋のもとに年行事・小頭・口取・待川越等の役のものをおいて日々川の深浅による渡渉賃銭の取り決めや、公卿や大名をはじめ各種公用人から庶民に至るまでの通行人の渡河順序の割振り諸荷物等の渡渉配分などの円滑な運営をはかるとともに、規定の渡渉地点以外から越える廻り越しの監視などを厳重に行った。

 川越人夫は幕末近くまでは、島田・金谷とも各360人が定められていてそれらは1番から10番までの10班の組に分けられ、日々の交通量に見合して各組の出番を指示した。

 それら出番組の川越人夫の集合所としての番宿・川越の補助的作業を問う仲間の宿・川越札の現金引換である札場・荷物の繕いを行なった荷縄屋等が設けられていたものである。

 川越制度は明治維新まで続けられたが、明治三年五月、民部省からの通達により架橋・渡船の禁が解かれこの制度は廃止された。

 川会所の建物はそののち大井川通船の事務所や学校校舎の一部に利用されその位置も移動されたが、昭和三年、国道大井川鉄橋の架設を記念して鉄橋端大井川公園に移されて保存されることになった。そののち久しく等閑に付されていたが、昭和四十一年八月一日、島田宿大井川川越遺跡として文部省から指定を受け、昭和四十五年八月三十一日に旧跡地に隣接して復元完成されたものである。

   大井川越賃(幕末まで)

  一、脇 通  九十四文

  一、脇下通  八十八文

  一、乳 通  七十八文

  一、乳下通  七十六文

  一、帯上通  六十八文

  一、帯 通  五十八文

  一、帯下通  五十二文

  一、股 通  四十八文

   川越の種別

  一、肩車  一人が旅人を肩にまたがせ水の深い時には他の一人が手を引いて渡った

  二、蓮台  4種類書かれていたが写真では読み取れなかったので省略

     昭和四十六年二月 島田市


【八重枠稲荷神社】 (右側) 10:55

 街並みが終わる所にせき跡 (ここで水をくい止めた堤防)があり、ここを出た右側にあります。

 昔、ここには大井川の「出し堤防」があり、増水の時には蛇籠(じゃかご)に石を詰めて杭で固定し、これを幾重にも並べて激流から堤防を守りました。「八重枠」の名の由来はそこからきています。

 宝暦十年(1760)に、川越しの安全と水難排除を祈願して建立されたと記録にあります。しかし、この神社の祭日が春の彼岸の中日であることからも、建立当時の目的は川越しの事故で亡くなった人々の供養が主だったのではないかと想像されます。

 社殿は文化九年(1812)明治三十四年(1901)に修繕されましたが、礎石は建立当時のままで、大井川の川石を亀甲型に加工して積み上げたものです。

 川石は硬くて加工に手間がかかり、今では市内に数カ所残るのみの技法です。


【朝顔の松公園】 (左側)

 稲荷神社の反対側にあります。

 公園の入口に巌谷小波の句碑があります。

   爪音は松に聞けやと春の風

 さらに公園の奥に入って行くと、 今は普通の松が植えられていますが、かつては朝顔の松という巨大な松があったとのこと。

 そこの案内板に由来が書かれていました。

【朝顔の松の由来】 

 昔、ここに一本の大きな松がありました。

 江戸時代、大井川には橋がかけられず、川越人足の手を借りて川を渡っていました。そして、雨が降って川の水かさが増すと、しばしば川止めとなり、旅人たちは宿屋に足止めされました。

 ここには次のような物語りがあります。安芸の国(広島県)の娘深雪が、宮仕え中の京都で、蛍狩りに行き宮城阿曽次郎という青年と恋仲になります。

 その後、国もとに帰った深雪は、親から駒沢次郎左衛門という武士を婚約者に決めたと聞かされます。

 しかし、その人こそ駒澤家を継いだ阿曽次郎とは知らずに家出をし、朝顔という名の門付け(三味線弾き)となって阿曽次郎をたずね諸国をさまよううちに目が見えなくなってしまいます。

 ゆえあって、島田の宿に来、宿屋の軒ごとに哀切きわまりない歌を流し歩いていると、ある座敷から声がかかります。

 この声の主こそ、さがし求める阿曽次郎でしたが、彼は主名をおびた急ぎ旅のため、また、朝顔は目が見えなかったため名乗り合いずに別れてしまいます。

 あとて阿曽次郎と知った朝顔は、急いで追いかけますが、大井川まで来ると、ちょうど川止め。半狂乱となった朝顔は、激流に飛び込もうとしますが、宿屋の主人戎屋徳右衛門(実は深雪の祖父に仕えていた)に助けられ、その犠牲的行為により目が見えるようになります。

 その時、初めて目に映ったのが大きな一本の松でした。

 この物語りを伝えるにふさわしい大木(目通り1メートル56センチ、高さ20メートル)でしたが惜しくも昭和十年代に枯れてしまい、これを哀れみ惜しんだ地元の人々によってこのお堂が建てられ、中に木碑にした松が奉納されました。

 この物語り「朝顔日記」は、江戸後期(1811)に作られたものですが、浄瑠璃として上演され、大好評となりました。「生写朝顔話」は、今でも上演されています。

     島田市

 

 大井川に出る手前左側に「島田市博物館」があり、島田宿と川越え関連の展示物があるとのことですが、寄りませんでした。

 大井川の河原に出ると川越広場があり、東海道五十三次の石碑と芭蕉の句碑があります。11:12。

 この土手を右に行き、大井川橋を渡りますが、この橋を渡るだけで約15分かかります。さすが「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」といわれただけあります。


【島田宿】 江戸から 52里9丁(205.2Km)、京へ73里11丁 人口約 6730人 

 実際の島田宿の中心は前回歩いた、現在の島田市の中心街とほぼ一致している。駅前の島田本通りに旅籠や本陣などがあった。

 日本橋から23番目の宿で、昔の一般の旅人は、島田宿まで5日〜7日位で歩いてきたとのことである。しかし、次の金谷宿までの一里を行くのに何日もかかることがあった。それは川留めが度々あったことで、川留めの最長記録は28日間だったという。 このように難渋した場所である。大井川に橋がなかったのは、川幅が広いため技術的に難しかったこともあるが、主な理由は政治的なものであった。また、渡るのにさまざまな規則があり、渡る場所、渡れる時間帯、自分の足で渡ることは禁止で必ず川人足を頼まなければならなかったことである。このため山道だが確実に予定が組める中山道に回る旅人も多かった。皇女和宮も降嫁の折は中山道を使った。

安藤広重の東海道五拾三次之内・嶋田『大井川駿岸 

駿河国側の川越の様子。先頭は参勤交代の大名行列。

現在の写真は、島田側の川越場所あたりより撮影したものです。

今は遠くに見える大井川橋を迂回するしかありません。 


 大井川橋を渡ったら土手を左に200m行くと、道幅が広くなる一画に旧東海道の案内板がありますので、そこを右折します。

 土手を下り、八軒屋橋手前左の小公園にタイル画「東海道金谷宿大井川川越之圖」と「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。

日坂宿(宿境まで一里三十五町) ← 金谷町 金谷宿(八軒屋橋) → 島田宿(宿境まで十八町)


【金谷宿】 江戸から53里9丁(209.1Km)、京へ72里 11丁 人口約 4270人  

安藤広重の東海道五拾三次之内・金谷『大井川遠岸 

 遠江(とおとうみ)国側の川越の様子。金谷へ向かう大名行列と旅人を描いている。川の中で大勢の人足が担いでいる大きな駕籠は、主として大名や武家が使用した乗物駕籠(通称:乗物)というもの。

 

 

現在の写真は、大井川橋から金谷方面を写しています。 

 写真で分かる通り、浮世絵で描いている大きな山はありません。広重が構図上描き加えたものです。

 この先は、金谷坂と牧の原台地になります。


【旧加藤家】 (右側) 11:42 

 金谷側には、川越関連の建物はあまりないが、八軒屋橋を渡った街道沿いに最近確認されたという古い建物があります。

 自由に入れましたがまだ整備されてなく、物置のような状態でした。貴重な建物なのでいずれ整備され公開されることでしょう。

 「旧加藤家をなんとかしざー!会」の「川越し文化を今に伝える旧加藤家」という案内の紙が立て看板に貼られていました。

 この民家は、江戸時代末期に建てられたもので、この地域が川越し文化から茶文化へと移っていった様子を鮮明に残しています。

 平成13年初め、建築士会などが調査した結果確認されたもので、保存と活用に向けて官民一体となり取り込んでいます。

 旧加藤家は、川越し人足が待機していた番宿の建築様式を残しており、連台や古文書も残っていました。また、現在では珍しいとされるプーリーとベルトのついた茶部屋も残っています。

 金谷町では川越し遺跡は未確認であったため、歴史的価値、文化的価値が非常に高いといわれています。

 この建物を生かした歴史の薫るまちづくりに向けて、川越し文化の紹介や後世の語り継ぎの場として利用できるよう、私たちは運動中です。

     平成14年6月 旧加藤家をなんとかしざー会

 HPを確認したところ、2007年11月現在活動中でした。

 そのすぐ先の右側に、秋葉神社と石碑があります。


【新金谷駅】 

 昼食時間なので、金谷に伝わる郷土料理の店「よし善」に行ったが、木曜が定休日との事で残念ながら食事はおあずけになってしまいました。

 12:00頃にSLが新金谷駅を発車していきました。

 SL見物と「よし善」探しでかなり時間を無駄にした上お腹がすいていたので、大井川鉄道の踏み切り前を入ったところにある寺「宅円庵」(白波五人男の日本佐衛門の墓がある)には行きませんでした。

〔泥棒の話〕

 日本佐衛門は、金谷育ちで本名を浜島庄兵衛といい、20才で勘当(当時は親も罪になるからやむをえず勘当した)、23才でプロの泥棒となるが、人を切ったこともない義賊と言われている。十両盗むと死罪だった時代に派手に泥棒をやり、日本で最初に指名手配になった人物です。

 但し、犯罪に関しても当時は平和な時代で、庶民55万人、武士を入れて100万人都市の大江戸で警官は12名しかいなかったし、40万人都市の大阪でも警官は4名だったと言われています。


【佐塚屋本陣跡】 【柏屋本陣跡】 (右側) 12:17 

 上り坂になって右側の佐塚書店前に佐塚屋本陣跡、その隣の農協前に柏屋本陣跡の案内が立っていました。

 佐塚書店前の大きな板には「東海道五十三次の内遠州金谷宿 本陣趾 佐塚屋」と書かれていました。

【柏屋本陣跡】

 建坪 弐百六拾四坪  表間口 九間半  奥行 四拾間  門構え 玄関付

 現在の農協金谷支所、金谷町地域交流センターの位置である。

 先祖の功によって徳川家康より家屋敷を賜わり、二百数十年間金谷宿本陣の経営と名主をつとめた。
 本陣は、大名や公卿等の休泊にあてられた所である。参勤交代制が実施された寛永十二年(1635)以降は宿場において重要な機能を果たしていた。

 天保十四年(1843)の金谷宿明細書によると、本陣三軒、脇本陣一軒が数えられる。

     金谷町教育委員会


【金谷宿(榎本)一里塚跡】 (左側) 12:23 

 旧東海道は、JR金谷駅手前のガードを左に曲がります。

 ガードをくぐる手前に、「一里塚跡」の案内板と「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。

日坂宿(宿境まで一里二十町) ← 金谷町 金谷宿(一里塚跡) → 島田宿(宿境まで三十三町)

【一里塚跡 金屋町新町】 

 延享三年(1746)の「東海道巡覧記」によれば、「金谷一里塚榎木」とある。

 里程 江戸へ五十三里  嶋田へ一里  日坂へ一里廿四町

     金谷宿


<昼食> 12:25〜12:50 

 一里塚跡を真直ぐ行けばすぐJR金谷駅です。駅前の食堂で昼食としました。


【金谷坂の石畳】 13:00(入口看板)〜13:20(頂上の茶畑) 

 一里塚跡のガードをくぐるとすぐに芭蕉の句碑(道のべの木槿は馬に食われけり)がある長光寺を過ぎ、坂道を登っていくと広い車道に出ます。左を見ますと「旧東海道石畳入口」の大きな看板が見えますので車道を横断して向かいの坂を更に登ると石畳茶屋が見えてきます。ここから石畳の金谷坂になります。

 坂の途中に鶏頭塚庚申堂の広場、まだ新しくて受験生には嬉しいすべらず地蔵尊、朽ちた親木の根を囲んで五本の若木が生えている五つ子楠があります。

 430mの石畳が終わると車道に出ます。出たところのすぐ左手に明治天皇御駐輦跡の碑が立っています。ここから茶畑を見ながら旧東海道は右に進みます。

【お休み処・石畳茶屋】

 営業時間:午前九時〜午後五時(季節変更あり)

 休館日:月曜日(祝日は営業)

 メニュー:煎茶セット(菓子付き)・そば・うどん・ところてん・ジュース

【「東海道」金谷坂の石畳】 金谷町指定史跡

 この石畳は、江戸時代幕府が近郷集落の助郷に命じ、東海道金谷宿と日坂宿との間にある金谷峠の坂道を旅人たちが歩きやすいように山石を敷き並べたものであると言われています。近年、わずか30mを残す以外はすべてコンクリートなどで舗装されていましたが、平成三年、町民約600名の参加を得て実施された「平成の道普請」で延長430mが復元されました。

 いま、街道の石畳で往時を偲ぶことができるのはこの金谷坂のほか、箱根峠、中山道十曲峠の三箇所だけとなりました。

     平成四年三月 金谷町教育委員会

【鶏頭塚】

 鶏頭塚は旧東海道の石だたみの坂道の途中にある塚のいわれとなった、「曙も夕ぐれもなし鶏頭華」の句と「六々庵巴静寛保甲子四年(1744)二月十九日没」と刻んだ自然石の碑である。

 巴静というのは蕉風をひろめた江戸時代の俳人でその教えを受けた金谷の門人たちは師の徳を慕って金谷坂の入口北側の辺にこの句碑を建てた。この碑石は道路工事等に伴いその都度移動したが風雅の心ある地元の人々の心配りによって保存が図られて現在に至っている。

 なお塚の裏に位置する庚申堂は昔から土地の人々に信仰され徳川時代の大盗日本左衛門がここを夜働きの着替え場所としていたことが口碑として残っている。

     東海道 金谷宿

【長寿・すべらず地蔵尊】

 このお地蔵様・六角堂・鞘堂は、町民の手により据えられたものです。すべらずの地蔵のいわれは、ここの石畳は「すべらない」という特徴から、受験や商売など、何事にも願いが叶うということからきています。

【五つ子楠】

 朽ち果てた親木の根を囲んで生える五本の若木

 今なお親子の固い絆に結ばれた「五つ子楠」は金谷坂石畳を往来する旅人の無事を祈りつつ成長しています。

【御駐輦跡】

 明治元年(1868)十月五日、明治天皇は都を京都から東京へ移されるため、行幸あらせられた折と、明治十一年(1878)十一月二日北陸東海両道を御巡幸のみぎりと二回に亘り、牧野原野立所で御休憩なされて、はるかに霊峰富士をお望みになられ、又、金谷原茶園開墾地の有様を遠くご覧あそばれました。

 この二回のご休憩を記念して、明治天皇御駐輦跡の碑が建てられたのです。

     金谷町・金谷町商工会議所


【諏訪原城跡】 国指定史跡(昭和50年11月指定) (右側) 13:23〜13:35

 右側に「諏訪城跡」の看板が立っているかなり細い道を入るとすぐあります。林の中を道順に従って見学すると茶畑に出てきますので、そこを左に行くと駐車場がある元の街道に出られます。

 下の解説にある通り石垣はないがかなり深い堀が縦横にあり、いかにも山城といった雰囲気でした。

 諏訪原城は、天正元年(1573)武田勝頼の臣馬場美濃守氏勝を築城奉行として築かれた規模雄大な山城であり、当時の東海道武田領の最前線牧の原台地の東北角を占めた天然の要害であった。

 遺構は、本丸・二の丸・三の丸・大手郭・帯郭・西の丸・搦手・亀甲曲輪の八郭から成る特徴のある縄張りにより、配置形態の上から「扇城」とも呼ばれた。

 自然堀と人工の大・小堀が十三本あり、いずれも深くて急斜面を呈しているが、石垣は用いられていない。武田氏の守護神である諏訪明神を城内の一角に祭ったことから、諏訪原城と呼ばれるが、史料には城の変遷を示す牧野(原)城、金谷城、扇城という呼称が見られる。

     金谷町教育委員会

 

 駐車場の前に製茶工場があり、工場見学と試飲が出来ました。丁度この頃は、新茶の刈り取り時期だったのでフル生産中でよい香りが立ち込めていました。ここでおやつ用にお茶羊羹を購入。


【菊川坂の石畳】 13:40 

 製茶工場のすぐ先で下りの菊川坂石畳に入ります。こちらも古い石畳を整備して復元された石畳ですが、丸石が隙間無く敷き詰められている為、下るのには歩きにくかった。

 この菊川坂も金谷坂と同じで、地元住民の道普請で平成十三年に700mの石畳が完成したとの案内板がありました。

【菊川坂と金谷坂】

 江戸時代、東海道を行き交う旅人たちにとって、金谷の峠越えは、粘土質の山道であったため大変難儀をしていました。このため、近郷近在からの助郷役により、石畳を敷いて旅人の難儀を救ったといわれています。

 この故事に因んで、菊川坂と金谷坂を平成の今、再び蘇らせました。

 菊川坂は、二十一世紀の幕開けの事業として平成十三年一月二十一日静岡県内の東海道二十一宿をはじめ、周辺地元菊川地区や町内からの助郷役の人たち五百名を超える皆さんの力で道普請に着手。平成十二年の発掘調査で確認された江戸時代後期の現存する部分を含め約七百メートルの石畳が完成しました。

 金谷坂は、町民一人一石運動により集められた山石七万個をもって、平成三年十一月二十四日子供たちからお年寄りまで五百名余の町民の力で道普請に着手、翌年三月に四百メートル余の石畳が出来上がりました。

 江戸時代後期の石畳そして、平成の道普請により出来上がった石畳に、それぞれ、むかしの旅人へのあるいは平成の助郷役の人たちの思いを馳せながらこの石畳を踏みしめてみてください。

     金谷町

 菊川坂石畳を下り切り、車道に出ると再び石畳と菊川の案内板がありました。

【菊川坂石畳と間の宿菊川】

 菊川坂石畳は、平成十二年の発掘調査において江戸時代後期の石畳として存在が確認されました。旧東海道の中では箱根に次ぐ二例目として、徳川家康が定めた五街道の中でも数少ない現存する石畳として高い評価を受けております。

 菊川の里は、吾妻鏡の中の建久元年源頼朝上洛の記事に「一三日甲午於遠江国菊河宿・・・」とあり、これが菊川の里の初見です。

 承久三年(1221)の承久の乱で鎌倉幕府に捕らえられた中納言宗行卿が鎌倉へ送られる途中この菊川の里で詩を残しています。

 更にその百年後、元弘元年(1331)の元弘の変で捕らえられた公卿日野俊基が鎌倉への道すがら、この里で歌を残しています。

 江戸時代には、西の日坂宿、東の金谷宿の間にあって、いわゆる「間の宿」として多くの旅人たちの利便を図ってきました。

 このように、菊川の里は、昔から時代の変遷の中で東海道の駅として大切な役割を果たしながらロマンと重みのある歴史を刻んできました。

   ・中納言宗行卿の詩  昔南陽県菊水 汲下流而延齢

                  今東海道菊河 宿西岸而失命

   ・日野俊基の歌     古も かかるためしを 菊河の

                  おなじ流れに 身をやしづめん

     金谷町教育委員会


【間の宿・菊川】 14:03 

 更に車道を行くと「夢舞台・東海道」の標柱と間の宿・菊川の案内板が立っていました。

日坂宿(宿境まで一里) ← 金谷町 菊川の里 → 金谷宿(宿境まで十八町)

【間の宿、菊川】

 間の宿は、本宿と本宿の中間にあって、人足の休憩所や旅人の休憩に便宜をはかって作られました。普通、2宿間の距離は3〜4里に及ぶときに間の宿を置きますが、金谷宿と日坂宿の間のように1里24町でも、急所難所が続く場合は特別に間の宿「菊川」が置かれました。間の宿では、旅人の宿泊は厳禁されていました。川止めの場合でも、菊川では、金谷宿の許可がないと旅人を泊めることはできませんでした。また間の宿では、尾頭付きの本格的な料理を出すことも禁じられていました。そこで生まれたのが菊川名物の「菜飯田楽」。大井川の激流を渡り、金谷坂を登りきった旅人には、ひなびた里の味でもさぞかしおいしかったことでしょう。なお、下菊川おもだか屋・宇兵衛の茶屋の菜飯田楽は格別おいしかったといわれています。この店には御殿と呼ばれた上段の間があり、尾州家からの下賜品があったそうです。

     金谷町・金谷町観光協会

次いで右側に「菊川の里会館」(休日のみ開館)があります。その会館入口に宗行卿詩碑日野俊其歌碑が建っていました。

【宗行卿詩碑 日野俊其歌碑】

 源頼朝の死後、鎌倉幕府の力が弱まり公家と幕府の対立は表面化し、承久三年(1221)後鳥羽上皇は幕府追討の院宣を出し軍事行動を起こした。京都方はあえなく敗れ計画に加わった中御門中納言藤原宗行は捕らえられ、鎌倉へ送られる途中の七月十日菊川の宿に泊まり死期を覚って宿の柱に次の詩を書き残した。

  「昔は南陽県の菊水下流を汲みて齢を延ぶ今は東海道の菊川西岸に宿りて命を失う」

 承久の変から約百年後の、正中の変で日野俊基は捕らえられ鎌倉への護送途次菊川の宿で、宗行の往時を追懐して一首の歌を詠んだ。

  「いにしへも かゝるためしを 菊川の おなじ流れに 身をやしづめん」

 間の宿菊川は史跡とロマンの里である。

     平成三年十一月 金谷町教育委員会・金谷町観光協会


【小夜の中山峠】 14:08(青木坂登り口) 

 いよいよ東海道三大難所の小夜の中山峠越えになります。

【史跡と伝説の道】

 小夜の中山峠は、箱根峠・鈴鹿峠とともにその険しさをもって東海道の三大難所と云われていました。特に東の青木坂(箭置坂)、西の沓掛(二の曲り)の急勾配は旅人を悩ませました。

 古来、「小夜の中山」は、「佐夜の中山」とも書き、「さや」・「さよ」の二通りの言い方があるが現在は「小夜」・「さよ」が一般的です。名称の由来は諸説があり定かでないが、掛川誌稿には「日坂ヨリ菊川ニ至ルマテノ駅路ヨリ小夜中山ト云、其道両山ニ夾マレテ、左右ノ谷間甚狭シ、佐夜ハ峡谷ナルヘシ、其中間ノ山ナレハ、峡谷ノ中山ト名ツケタルヘシ、古ヨリ佐夜小夜ナル書ルハ皆假名ナリ・・・・・」と記されています。

 「小夜の中山」の名は古くから数多くの紀行文や和歌に登場します。西行法師が六十九歳で峠越えしたときに詠じた歌がよく知られている。 峠には名刹久延寺をはじめ、徳川家康ゆかりの史跡や、遠く「中先代の乱」の頃の塚、往時の東海道の面影を今に伝える一里塚などがあります。

 江戸時代久延寺周辺には多くの茶店がありました。それぞれの店で「飴の餅」を売ることが幕府より認められ、街道の名物となりました。また、小夜の中山には伝説も多く、「夜泣石物語」は「蛇身鳥物語」や「無問の鐘物語」とともに有名です。

 菊川の里を抜け、案内に従って左折すると「小夜の中山」へ向かう「青木坂」入口の階段が見えてきます。(左の写真)

 この階段を登ったところから始まる青木坂はものすごい急坂で大変きついです。距離はそれほどないが私としては今まで通ってきた峠道では最大のつらさでした。

 つらい急坂を登ると右の写真のように、青々とした茶畑が広がる台地に出ます。


【歌碑・句碑】 

 「菊川の里(金谷町)・日坂の里(掛川市)の境」の看板を過ぎると、中山道の左右には、「小夜の中山」を詠った沢山の歌碑と句碑が次々と出てきます。

 先ず初めに出てくるのが右の写真の阿佛尼の「十六夜日記」よりの歌碑です。14:25。

   雲かかる さやの中山越えぬとは 都に告げよ有明の月

 雲のかかる佐夜の中山を越えたと、都の子供らに伝えておくれ、有明の月よ。

 また、この中山峠の道筋には沢山の茶畑と製茶工場があり、黄緑の若葉と新茶の香りが漂って、この時期歩くと急坂道のつらさが癒されます。


【久延寺(きゅうえんじ)・夜泣石】 (右側) 14:33〜14:54 

 坂を登りきると久延寺があります。寺の前にはトイレがあります。

 この寺の境内に、夜泣石(下の写真)がありますが、広重が描いた有名な夜泣石と同じ形で同じ「南無阿弥陀仏」と書かれているが違うものです。この石は夜泣石物語の小石姫を弔うために建てられた供養塔で、はじめ、門前の路傍にあったが昭和40年頃境内に移されたものです。

 本物の「夜泣石」は、後述します。

 その他、茶亭跡徳川家康お手植えの松がありますが、本来の松は枯れてしまったらしく、二代目の松が植えられていました。

 境内見学後、鐘楼の階段に座って休憩。諏訪城跡前の製茶工場で買ったお茶の羊羹が美味しかった。

【久延寺境内】 掛川市指定文化財(昭和40年2月指定)

 久延寺は、真言宗の寺院で山号を佐夜中山。

 本尊は、聖観音で、「昔、住職が山賊に殺された妊婦の子を育て、子は成長して親の仇を討つことができた。これはひとえに本尊の加護によるものである。」という夜泣石の伝説に因み、子育て観音と称せられる。

 慶長五年(1600)、掛川城主山内一豊は、境内に茶亭を設けて、大坂から会津の上杉景勝攻めに向かう徳川家康をもてなした。

     掛川市教育委員会

【伝説 小夜の中山夜泣石】

 その昔、小夜の中山に住むお石という女が、菊川の里へ働きに行っての帰り中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり、苦しんでいるところへ、轟業右衛門と云う者が通りかかり介抱していたが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い逃げ去った。

 その時お石は懐妊していたので傷口より子供が生まれ、お石の魂魄がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣いた、里人は恐れ、誰と云うことはなく、その石を「夜泣石」と言った。

 傷口から生まれた子供は音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ立派な若者となり大和の国の刃研師の弟子となった。

 そこへ轟業右衛門が刃研ぎにきたおり刃こぼれがあるので聞いたところ、「去る十数年前小夜の中山の丸石の付近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったので、母の仇と分かり名乗りを上げ、恨みを晴らしたということである。

 その後弘法大師はこの話を聞き、お石に同情し石に仏号をきざみ、立ち去ったという。

     文化元年滝沢馬琴の「石言遺響」より

【茶亭跡】

 慶長五年(1600)、徳川家康が関が原で西軍の石田光成と戦うため東海道を西進したおり、掛川城主山内一豊がここに茶亭を建て煎茶によるもてなしをした。

 関が原の合戦の後、山内一豊は功績を認められ、土佐二十四万石に栄転した。

【五葉松 徳川家康お手植えの松】 市天然記念物(昭和40年指定)

 この五葉松は、慶長五年徳川家康が植えたと伝えられている。

 何故、家康が五葉松を植えたか定かでないが文献によると、この年家康はこの久延寺境内の茶亭で掛川城主山内一豊にお茶の接待を受けている。

 昭和四十年(1965)市の天然記念物に指定されている。


【「扇屋」の子育飴】 (右側) 14:55 

 久延寺の隣に名物の子育飴を売っている茶屋「扇屋」という店がありこの日は閉まっていたが、その由来が掲げられていました。

【子育飴の由来】

 蛇身鳥(じゃしんちょう)を退治した藤原良政郷の妻月小夜(清道禅尼)は娘の小石姫に主計助との婚約を語ったがすでに中山寺の住職足利尊氏の伯父空叟上人の子を宿していた。小石姫は月満ちて無事男子を生んだが身の不幸を案じて中山千人斬の松の許で自害した。小石姫の遺児月輪童子は空叟上人の中国伝来の飴の製法を受け継いだ山頂の末広荘(扇屋)の飴で育てられた。13才の時父子と名のれぬ空叟上人の弟子となり後に中国で修業し、帰国後中山寺に身代わり子育観世音を安置した。十三才の春京都へ立ちその後九州・四国へと修業を重ねていった。


【小夜の中山公園・西行の歌碑】 (左側) 

 「扇屋」の向かいにある小公園に大きな歌碑が建っています。

【西行歌碑】 生涯二度目の難所越えに詠む

 西行法師は平安時代末期の歌人。新古今和歌集には最も多くの歌が入集されているが、その中でも秀れた歌のひとつとされているのが、この一首である。

   年たけてまた越ゆべしとおもひきや 命なりけりさやの中山

 二十三歳で出家し、自由な漂泊者としての人生を送りながら自然とのかかわりの中で人生の味わいを歌い続けた西行の、最も円熟味を増した晩年六十九歳の作である。この歌は文治三年(1186)の秋、重源上人の依頼をうけて奈良東大寺の砂金勧進のため奥州の藤原秀衡を訪ねる途中、生涯二度目の中山越えに、人生の感慨をしみじみと歌ったものである。

 小夜の中山は早くから東海道の歌の名所として知られていたが、この一首は歌枕としての小夜の中山の名声を一層高め、以後も数々の名歌が詠まれるようになる。

 当時、京都の人々にとっては、鈴鹿山(三重県)越えることすら相当の旅行であったという。奥州までの旅は大変なものであった。古代からの交通路だった東海道も、本格的な発展をとげるのはこの歌が詠まれてから六年後の鎌倉幕府の開設以降である。

 西行歌碑の建立については市内短歌会が中心になって募金運動がすすめられ、寄せられた募金をもとに昭和五十五年十月建立された。碑文の揮毫は歌人で西行研究第一人者の早稲田大学名誉教授窪田章一郎氏、設計は元日本建築学会会長で早稲田大学教授(当時)故吉阪隆正氏によるものである。


【佐夜鹿(さよしか)一里塚】 (左側) 15:02 

 左側「農業組合法人・中山茶業組合」の先に新しく整備されたばかりの一里塚跡があります。盛土には大きな竹の子が生えていて石碑が隠れていました。

 

【佐夜鹿(小夜の中山)一里塚】 

(前略) 一里塚の説明

 ここ小夜の中山の一里塚は、慶長九年(1604)に作られました。日本橋からこの一里塚までの里程を示す設置当初の記録はありませんが、周辺の一里塚の言い伝えによる里数や当初の東海道のルートを考えて五十六里目という説があります。

 また、元禄三年(1690)の「東海道分間絵図」では日本橋から日坂宿まで五十二里三十町ですので、この一里塚は五十二里に相当します。

 天保十四年(1843)の「東海道宿村大概帳」では日坂宿まで五十四里二十六町、小夜の中山まで五十四里二町ですので、この一里塚は五十四里に相当すると思われます。

 東海道のルートは時代とともに若干の変更もありましたが、一里塚の位置が移動したという記録はありません。

 いずれにいずれにせよ一里塚は、東海道を行き来する旅人などにとっておおよその道程の目安になっていたことと思われます。


【鎧塚】 (左側) 15:09 

 短い石段を上がった場所にあり、盛土の上の石柱も石碑も小さくて新しいものでした。

 建武二年(1335)北条時行の一族名越太郎邦時が、世にいう「中先代の乱」のおり京へ上ろうとして、この地に於いて足利一族の今川頼国と戦い、壮絶な討ち死にをした。

 頼国は、名越邦時の武勇をたたえここに塚をつくり葬ったと言われる。


【芭蕉句碑】 (左側) 15:16 

   道のべの 木槿は馬に くはれけり (松尾芭蕉・野ざらし紀行)

 道端の木槿(むくげ)の花が、乗っている馬にパクリと一口食われてしまったよ。


【白山神社】 (右側) 15:18 

 茶畑の一角に小さな祠があり、そのそばに「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。

日坂宿(宿境まで十四町) ← 掛川市 小夜の中山・白山神社 → 金谷宿(宿境まで一里六町)


【馬頭観音】 左側) 15:23 

 左右茶畑の間の道を進むと、左側の茶畑の中に石碑が建っています。

 佐夜の中山峠には、多くの伝説が残されていますが、その一つに蛇身鳥退治の物語が言い伝えられています。

 この馬頭観世音は、蛇身鳥退治に京の都より下向して来た、三位良政卿が乗って来た愛馬を葬ったところとされています。

 この辺り一帯は、茶畑が続き綺麗で気持ちがいい道になっています。また、所々で茶摘みをしている人も見かけました。


【妊婦の墓】 (右側) 15:26

 こちらも茶畑の一角に墓石があります。

 松の根元で自害した妊婦小石姫(三位良政と月小夜姫の間に生まれた子)を葬った所で、墓碑に「往古懐妊女夜泣松三界万霊・・・・・旧跡」と刻してあります。


【涼み松広場】 (左側) 15:27

 妊婦の墓の向かい側に小さな広場があり、芭蕉の句碑と、まだ大きくなっていない松が植えられていました。

【涼み松】 

 小夜の中山夜泣石のあった駅路の北側に大きな松があり、松尾芭蕉がこの松の下で「命なりわずかの笠の下涼み」と詠んだと言います。それよりこの松を涼み松と呼び、この周辺の地名も涼み松と称されるようになりました。この句は延宝四年の「江戸広小路」に季題下涼み夏に記されて帰京の途次の作と記されています。


【芭蕉句碑】 (左側) 15:32

 小夜の中山で三つ目の芭蕉の句碑が現れました。

  馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり (松尾芭蕉・野ざらし紀行)

 早立ちの馬上で馬とともに目覚めが悪く残りの夢を見るようにとぼとぼと歩いている。

 有明の月は遠く山の端にかかり日坂の里から朝茶の用意の煙が細く上がっている。

 この先から道はやや下りになります。


【夜泣石跡】 (左側) 15:35 

 三つ目の芭蕉句碑から下って行くと、かつて「夜泣石」が転がっていたと言う、右下の写真の場所に来ます。この写真は京側から写したものですから、写真では右上から手前に歩いて来ることになります。

 写真手前から見て、道路右側の木が半分見えているその下に「夜泣石跡碑」があり、左側の石積みに広重の浮世絵版画「佐夜ノ中山」(左下の浮世絵)の石碑が建っています。

 東海道の難所である中山峠の途中にある「夜泣石」を不思議そうに眺めている旅人の様子を描いている安藤広重の東海道五拾三次之内・日坂『佐夜ノ中山』

かつて左の浮世絵の様に、この場所に「夜泣石」があった。
 

 

 妊婦の霊魂が移り泣いたという石(夜泣石)が、明治元年までここの道の中央にあったが、明治天皇御東幸のみぎり道脇に寄せられた。

 その後、明治初年東京で博覧会があり、出品された帰途、現在の位置に移る。

 現在の位置とは、久延寺の北側にある国道1号線の「小夜の中山トンネル」東側にある「お土産屋・小泉屋」の脇ですが、旧道からは離れているため 今回は行っていません。

 石面の「南無阿弥陀仏」の文字は弘法大師が指で書いたものと伝えられている

【東海道五十三次 日坂】

 浮世絵版画 安藤広重作  保永堂版 小夜の中山

 広重は天保三年(1832)、幕府の行列に随行して東海道を旅したが、その体験や印象を描いた「保永堂版東海道五拾三次」は大変な好評を得、つぎつぎに多くの「東海道もの」を発表した。

 その中で特にすぐれていると思われるものは、天保十三年(1842)頃の「行書東海道」「狂歌入東海道」「隷書東海道」「人物東海道」などである。

 これらの続絵のなかの日坂、掛川を見ると、日坂はほとんど小夜の中山と夜泣石が画かれており、掛川は大池の秋葉山一の鳥居と常夜灯が描かれている。

 広重が掛川を旅して、一番印象的で絵になる風景だったのであろう。

【後日追加】 2007.6.16

 小夜の中山を歩いた時、どうしても本物の「夜泣石」を見たいと思ったが、徒歩の往復では遠い(久延寺より700m)ため行きそびれていました。

 4年後、車で「可睡ゆり園」と「加茂花菖蒲園」へ行った帰りに、やっと訪れることができました。

 国道1号線「小夜の中山トンネル」の東側口の手前左側にあるドライブイン「小泉屋」脇の階段を上がった公園内に安置されています(写真参照)

 石面の「南無阿弥陀仏」の文字はかなりかすれてしまっています。私もこの石を撫でましたが、江戸時代の旅人も同じこの石に触れたのだと思うと感無量でした。

 この公園内の「夜泣石」の説明(下記)は、上述「久延寺」の説明と少し違っていました。物語としては仇討ちして欲しいところだが、長い年月を考えると、懺悔の心が怨みの心を和らげたという美談もありかと思いました。

 

【小夜の中山 夜泣石 由来】

 小夜の中山の頂上にはお観音様をお祀りした久延寺というお寺があります。

 ある日の夕方、この寺に、臨月の身になった婦人が安産をお祈りして帰る途中、丸い石にもたれて休んで居ました。すると突然、刀をもった山賊が出て来て、婦人を丸い石に切りつけ、ふところにあったお金を取り去っていきました。

 婦人は殺されましたが、幸い刀の先が石に当った為、お腹を斬りとおすことなく赤ちゃんは無事切り口から生まれました。子を思う母の魂は、丸い石にのり移り、助けを求めるために泣きました。

 山頂のお坊さんは泣き声に気づき、山を西の方に下り訪ねてみると、道の真ん中の丸い石のかたわらで婦人は殺され、赤ちゃんは虫の息で居りました。この有様ではお寺まで赤ちゃんの声が聞こえるはずが無い、泣いていたのはこの石に違いないと思い、先ず婦人を始末して、赤ちゃんをお寺に連れて帰りました。お乳が無く困ったお坊さんは早速水飴を作り大事に育てました。

 幸い子供は肥立ち良く成長し、音八と名付けられました。日頃、住職さんより生い立ちの事を聞いて居ましたので、大人になったら母親の御魂を休めたいと思い暮らして居ましたところ、ある朝、お観音様のお告げであろうか、刃物の研師に成る様にと夢を見ました。

 十五歳になった音八は西の方に旅立ち大和の国、恩知村へ行き、研屋源五郎宅に身を寄せました。幾多の苦労を重ね一人前に成った時、一人の侍が来て一振りの刀を研いで下さいと音八の前に差し出しました。見ると、刀の先に大きな刃こぼれがありましたので「大変名剣ですが・・」と尋ねてみると、侍は思わず知れず我、若き頃、遠州の山の中で石に当てた時の刃こぼれである事を語りました。

 長い年月、胸にあった思いを語り合い、亡き母の御魂を休めたという事です。


【二の曲り】 15:50

 「夜泣石跡」から少し行くと、旧東海は急な下り坂にさしかかります。半端な勾配ではありません。

 青木坂もきつかったが、こちら側から登らなくて良かったと本気で思ったくらいの急坂です。

 坂の下から写真を撮ってみましたが、なだらかに写ってしまい残念ながらその急勾配は撮れませんでした。

 急坂の写真は過去にも何度か写したことがありますが、急勾配を表現出来た写真は一度もありません。

「二の曲り」と「沓掛」

 「古駅路ハ下町ヨリ南ノ清水ト云所ヲ経テ、二ノ曲リト云下ヘ出シナリ・・(掛川誌稿)」に見られる「二の曲り」とは旧坂口町を過ぎて東へ向かう沓掛へ至るこの旧カーブを指しています。

 「沓掛」の地名は峠の急な坂道にさしかかった所で沓(くつ)を履き替え、古い沓を木に掛けて旅の安全を祈願するという古い慣習に因るといわれています。

     日坂地域振興の会・宿おこし部会


【旧坂口町内の石垣と水路跡】 

 急坂が終わると国道一号線まで緩やかな坂道になり、その途中の山側に柵に守られた石垣と水路跡が残っています。

 坂口町に宿の家並みが栄えた江戸時代のものと思われる。

     日坂地域振興の会・宿おこし部会


【広重の浮世絵版画】 

 石垣の反対側に浮世絵と案内板が立っています。

【東海道五十三次 日坂】

 浮世絵版画 安藤広重作  狂歌入東海道

   あたらしく今朝にこにことわらび餅 をかしな春の立場なるらん   倭園琴桜

 江戸時代末期になると、江戸を中心として諸国への街道が整備され、物見遊山の旅が盛んに行われ、庶民の関心がそれまでの享楽の場から戸外へ移るにつれて風景画が多く描かれるようになった。

 この浮世絵は、広重が天保三年(1832)「保永堂版東海道五拾三次」に続き、天保十三年(1842)頃に、視点を変えて風景をとらえた「狂歌入東海道」の日阪である。


【秋葉常夜灯】 (右側) 16:00 

 バイパスをくぐり、国道一号線を渡ると日坂(にっさか)の町に入って行きます。

 入るとすぐ、昔の屋号を書いた木の看板が6枚ずつ2連立っており、そのすぐ先右側に秋葉山常夜灯がありました。但し、ここの常夜燈は下記解説と異なり新しく作り直したものでした。

 日坂宿はしばしば火災にあっているためか、秋葉信仰が盛んであったようです。当時の人々は神仏のご加護を願い各所に常夜灯を立てて信仰しました。

 ここ本陣入り口の常夜灯の他、相伝寺境内、古宮公会堂脇と日坂宿には三基遺っております。ここの常夜灯は安政三年(1856)の建立です。

 秋葉山のほかに駅中安全とあるのは、火災を恐れる気持ちの強さを示しているといってもよいでしょう。また、常夜灯は街道に面して建てられており「道標」の役目も果たしておったといわれています。

     日坂地域振興の会・宿おこし部会


【日坂宿本陣跡】 (右側) 16:02

 常夜灯のすぐ先の日坂幼稚園が本陣跡で門だけ復元されていました。

【本陣跡】 

 江戸時代に諸大名が江戸へ往来した時の旅宿のあてた宿駅の旅籠屋を本陣といいます。

 日坂宿本陣の屋号は「扇屋」代々片岡家が世襲で営んでいました。本陣の敷地はおよそ三百五十坪、建坪二百二十坪、門構・玄関付きの建物でした。嘉永五年(1852)の日坂宿の大火で全焼、再建後、明治三年(1870)に店を閉じました。

 その後の学制領布に伴い、明治十二年(1879)より跡地を日坂小学校の敷地とし、家屋は校舎として利用されましたが現存しません。

     日坂地域振興の会・日坂宿おこし委員会

 本陣跡の案内板の隣には、現在の日坂宿絵図と案内板(下記「ここは宿場町「日坂の駅」)がありました。


【日坂宿】 江戸から 55里2丁(216.2Km)、京へ70里半 人口約 750人 

安藤広重の東海道五拾三次之内・日坂『佐夜ノ中山』

【ここは宿場町「日坂の駅」】

 東海道五十三次品川宿から数えて二十五番目の宿「日坂」

 江戸から五十四里余。日坂は東海道三大難所の一つ「小夜の中山峠」西の麓に位置し、西坂、入坂、新坂とも書かれていました。

 「日坂宿」の初見は、鎌倉時代、延慶三年(1310)の「夫木和歌抄」といわれています。

 慶長六年(1601)徳川家康による、東海道の整備にともない、問屋場が設けられ、伝馬の継ぎ立て駅としての日坂宿は、重要な存在になりました。助郷四十三村の協力で、伝馬百疋と伝馬人百人が置かれ、役人の公用と荷物の輸送に役立ってきました。

 天保十四年(1843)の記録によれば、家数百六十八軒、人口七百五十人とあり、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠屋三十三軒がありました。

 大井川の川止めや、大名の参勤交代などで小さな宿場町ではありましたが、かなりの賑わいであったと思われます。

 宿場の東口から西口までの距離は、およそ六町半(700m)町並みの形態は現在もあまり変わっていません。

     日坂地域振興の会・日坂宿おこし委員会


【問屋場跡】 

 案内板だけ立っていました。

 宿駅々伝の継立の事務を取扱う職務を問屋、その役所を問屋場と言います。日坂宿の問屋場はかつてこの場所にありました。

 問屋は宿内で最も大切な役職でした。「東海道宿村大概帳」によると、日坂宿の宿役人は問屋一人・年寄四人・請払二人・帳附五人・馬指三人・人足割三人・同下役六人で、問屋場へは問屋・年寄の外、宿役の者が毎日交代で一人ずつ詰め、重要な通行の際には全員で業務に携わったとのことです。

 当時の建物、その他の遺物は現存しません。

     日坂地域振興の会・宿おこし部会


【池田屋】 16:05

 「東海道二十五次目 旅人御宿 日坂宿」の暖簾がかかっている古い宿屋で、現在でも「末広亭」として旅館を営業しているようである。1階も2階も窓や手すりは細かい格子になっており実に雰囲気のある建物です。


【本目籐十邸跡地】 16:05 

 「池田屋」の向かいに、日坂銀行設立者の本目籐十邸跡地の案内板のみありました。

 株式会社 日坂銀行

  設立 明治三十一年二月二十四日

  頭取 本目藤十

 ねむの木学園理事長・園長・学校長の宮城まり子さんは、本目籐十氏の姪に当ります。


【脇本陣「黒田屋」跡】 16:06 

 こちらも案内板だけで、建物は現存していません。

 日坂宿の脇本陣は時代と共に移りかわり何軒かが務めました。

 ここには幕末期に日坂宿最後の脇本陣を務めた「黒田屋(大澤富三郎家)」がありました。黒田屋の構えは文久二年(1862)の宿内軒並取調書上書に

   間口八間    奥行拾五間

   畳百壱畳    板鋪拾五畳

   惣坪数〆百弐拾坪 

と記されています。

 また、明治天皇が街道巡幸の際、明治二年三月二十一日と明治十一年十一月二日の二回にわたりここ脇本陣で小休止されました。


【籐文】 (右側) 16:08 

 裏の蔵は綺麗になっていましたが、表通りの母屋はかなりいたんでいました。

【藤文・・・日坂宿最後の問屋役を務めた伊藤文七邸】

 商家で屋号は藤文。

 伊藤文七(号は文陰)翁は安政三年(1856)に日坂宿年寄り役となり、万延元年(1860)から慶応三年(1867)にかけて日坂宿最後の問屋役を務めました。

 その間、幕府の長州征伐に五十両を献金、明治維新の時は官軍の進発費として二百両を寄付しております。

 明治四年(1871)の郵便制度開始と同時に郵便取扱所を自宅・籐文に開設、取扱役(局長)に任ぜられました。日本最初の郵便局のひとつと云われています。

 その子息、伊藤文一郎氏は明治三十七年(1904)から三十九年(1906)、大正六年(1917)から八年(1919)、昭和三年(1928)と三期にわたり日坂村村長を務め、当時珍しいガソリン式消防ポンプを村に、世界一周旅行記念として大地球儀を小学校に寄贈するなど村の発展や村民の国際意識啓発に尽力しました。

 明治九年(1876)十一月には照憲皇太后、翌十年(1877)一月には英照皇太后が日坂宿通過の時、ここで御休憩なされました。

 この建物は籐文部分が江戸末期、かえで屋部分が明治初期に建てられたもので、修復された蔵は当時何棟かあったと云われているうちの一棟です。

 この土地・家屋は平成十年(1998)に文陰の曾孫伊藤奈良子さんの遺志により掛川市に寄贈されました。

 文久二年(1862)の宿内軒並取調書上帳では今の伊藤家は籐文・かえで屋に分かれておりました。


 萬屋と川坂屋の施設は休日のみオープンしており、平日は中を見学出来ないのですが、ボランティアの親戚の方達が見学していたところへ偶然に通りかかり、一緒に内部を解説付きで見学させて貰いました。新しく改造されてすばらしい施設になっています。日坂宿は休日に訪れることをお勧めします。


【萬屋】 (右側) 16:14 

 食事を出さない庶民の旅籠。

 江戸時代末期の旅籠。嘉永五年(1852)日坂宿大火で焼失し、その後まもなく再建されました。再建時期についての明確な資料はありませんが、建物内部の構造体や壁に貼られた和紙に書かれていた「安政三年丙辰正月・・・」から考えて安政年間(1854〜1859)のしかも早い時期かと思われます。

 同じ宿内で、筋向いの「川坂屋」が士分格の宿泊した大旅籠であったのに対して「萬屋」は庶民の利用した旅籠でした。

 一階に裏手に抜ける通り土間がないこと、台所が不明であること、二階正面の出格子がニ階床と同じ高さで、腰高の手すりが付き、大変開放的であることなどが、この旅籠の特徴です。又、一階正面の蔀戸(しとみど)は当時の一般的な店構えの仕様であり、日坂宿では昭和二十年代まで数多く見られました。

 尚、文久二年(1862)の宿内軒並取調書上帳(古文書)には「萬屋」について次のように記されています。

   間口  四間半

   畳    三拾三畳    旅籠屋

   板鋪  六畳        嘉 七

   奥行  七間半

     惣畳数〆三拾九畳

     惣坪数〆三拾三坪七分五厘

 今回の修理では、主に一、二階の正面を復原することを目的としたため、内部は大きな復原をしませんでしたが、調査結果は図(省略)の様になり、階段位置が反対であったり、二階が四間あったと思われます。文久二年の記載との違いは、この記載が旅籠の営業部分のみを記載しているためです。記録に見られる建坪と解体調査の結果から考えて、食事を供しない宿であったと思われます。


【川坂屋】 (左側) 16:20〜16:38 

 内部は目を見張るほど立派に復元された旅籠屋です。裏の茶室も外側だけですが特別に見せて貰えました。一見の価値があります。

 大坂の陣(慶長十九年・1614の冬の陣と翌年の夏の陣)で深手を負った武士太田与七朗源重吉は長松院で手当を受け、その後、日坂に居住しました。

 旅籠屋「川坂屋」はその子孫で寛政年間(1789〜1800)に問屋役を務めたこともある齋藤次右衛門が始めたと伝えられています。

 現在の建物は宿場の殆んどが焼失した嘉永五年(1852)の「日坂宿大火」後に再建されたものです。

 宿で一番西にあった旅籠屋で、日坂宿では江戸時代の面影を遺す数少ない建物の一つです。精巧な木組みと細かな格子が特徴的で、当時建築にあたっては江戸より棟梁を招いたとのことです。

 また、「川坂屋」には脇本陣などと云う肩書きの着いた資料は見られませんが、床の間付きの上段の間があり、当時禁制であった檜材が用いられたことは、身分の高い武士や公家なども宿泊した格の高い旅籠屋であったことを伺わせます。旅籠屋としては本陣と同じ明治初頭に廃業したようですが、当家に伝わる維新政府の高官、山岡鉄舟・巌谷一六・西郷従道などの書から推測しますと廃業以後も要人には宿を提供していたと思われます。

 その後、平成五年(1993)まで齋藤家の住居として使われ、平成十二年(2000)修理工事が竣工し、現在に至っております。

 敷地は三百坪ありましたが、昭和二十五年(1950)の新国道開通で分断され、その後、平成七年のバイパス工事により明治元年(1868)に掛川城主太田候より拝領した「元掛川偕楽園茶室」も移転を余儀なくされました。

 茶室は平成十五年(2003)母屋の北側の地に復元されました。

 文久二年(1862)の宿内軒並取調書上帳には「川坂屋」について次のように記されています。

   間口  六間

   畳    五拾八畳半   旅籠屋

   板鋪  六畳        次右衛門

   奥行  拾参間

     惣畳数  〆六拾四畳半

     惣坪数  〆七拾八坪

 
外観
 
上段の間
 
明治天皇の側近であった山岡鉄舟の書

【日坂宿の高札場】 (右側) 16:41 

 逆川に架かる古宮橋手前に高札場が復元されています。

 幕府や藩の定めた法令や禁令を板札に墨書したものを高札、しの掲げられた場所を高札場といいます。

 高札場は人々の注目をひきやすい所に設置され、日坂宿では相伝寺観音堂敷地内にあり、下木戸の高札場ともいわれていました。

 高札の内容は日坂宿が幕領であったため公儀御法度(幕府法)が中心で年代によって若干の書き換えがありました。ここに掲げられている八枚は「東海道宿村大概帳」の記録に基づき天保年間のものを復原いたしました。

 高札場の大きさ「高さ二間、長二間、横七尺」は日坂宿の「御尋二付申上候」書付(天保十四年)によりました。

高札小史

◎正徳元年(1711)日坂宿の高札場設けられる。このときの高札五枚(親子・切支丹・火付・伝馬・毒薬)は幕末まで続いた。

◎慶応四年(明治元年・1868)大政官布告により従来の高札を撤去し新たに五枚(五傍の掲示)を掲げた。

◎明治六年(1873)高札が法令公布の方式として適さないとの見地から撤去された。


【下木戸跡】 

 高札場の隣に大きな立て札と案内板が立っていました。

 江戸時代、治安維持のため宿場の東西には木戸が設けられていました。大規模な宿場では観音開きの大きな門でしたが、小規模であった日坂宿では木戸の代わりに川がその役割を果たしていました。

 古宮橋の架かる逆川のこの場所が「下の木戸(下木戸)」となっていて、江戸時代初期の頃までは橋幅も狭く、粗末な木橋で、いったん事が起こったときは、橋をはずしたとも伝えられています。

     日坂地域振興の会・宿おこし部会


【成瀬大域出生地碑】 (左側) 16:45 

 橋を渡ったすぐ先に案内板だけがあります。

【賜硯堂成瀬大域出生の地】

 書家・成瀬大域(成瀬温)は文政十年(1827)古宮のこの地で生まれました。四十二才の時上京、安井息軒の門に入って書を修めました。

 明治十二年、王義之の聖教序を臨書し諸葛亮の出師表、真、草、二帖と併せて明治天皇に献上し嘉賞の栄誉を受け楠公手沢の古硯を賜り、これにより自らを「賜硯堂」と号しました。

 明治三十五年(1902)没。七十六歳でした。

 下町の法讃寺境内には大域自筆の暁心翁碑があります。

     日坂地域振興の会・宿おこし部会


【秋葉山常夜灯と若宮神社】 (右側) 16:46 

 日坂の町外れ、右に曲がる道の入口にあり、日坂宿の三基残っている一つで、ここ古宮の常夜灯は弘化二年(1845)の建立で古いものです。

 常夜燈の案内板は、日坂宿入口に立っていたものと同じ内容でした。

 若宮神社は山道を登った上らしく道端には古い鳥居だけがありました。


【村境の石碑】 (右側) 

 旧東海道は常夜燈から左に曲がりますが、その曲がり角の草地に「村境」の石碑があり、隣には「夢舞台・東海道」の標柱が立っていました。

掛川宿(宿境まで一里二十六町) ← 掛川市 日坂宿(宿場口) → これより日坂宿(金谷宿まで一里二十九町)

 

 「村境」の石碑には、次のように刻まれていました。

 右上に「日坂村」、左上に「東山口村」、真中に大きく「村境」、右下に「日坂村青年会」、左下に「東山口村青年会」、左横に「大正四年一月建設」


【事任(ことのまま)八幡宮】 (左側) 16:57 

 常夜燈から左折するとすぐ国道1号線に出ます。出た所の向かい側に神社があり、赤い歩道橋を渡って境内に入ります。

 参道を進んだ所には「大クス」が、左奥の石段を登った本殿の右脇には神木の「大スギ」(市指定天然記念物)があり、その他大きな木が沢山茂っている神社です。

 御朱印をいただく。「事任八幡宮」 

 左の写真は国道側の入口から写したもので、右奥の道路に出たところにトイレがあります。

【御由緒】

 創立年代未詳。大同二年(807)坂上田村麻呂東征の際、桓武帝の勅を奉じ、旧社地本宮山より現在地へ遷座すという。延喜式(927)神名帳に佐野郡己等乃麻知(ことのまち)神社とあるとはこの社なり、古代より街道筋に鎮座、近江に座す願いごとのままに叶うありがたき言霊の社として、朝廷を始め全国より崇敬されしことは平安期の「枕草子」に記載あるを見ても明らかなり。

 世が貴族社会より武家社会に移るや、八幡信仰が一世を風靡し、康平五年(1062)源頼朝が石清水八幡宮を当社に勧請し、以来八幡宮を併称す。

 江戸期に入りては、徳川幕府も当社を信仰し社殿を改築、朱印高百石余を献上す。明治以降、県社八幡神社と称せしが、第二次大戦以後の社格廃止に伴い、由緒ある名「事任」を復活し、現在は、事任八幡宮と称す。



 22回目の旅終了(17:10)事任八幡宮バス停。  ◆本日総歩数:35,900歩

 事任八幡宮から掛川駅までバスで行き、掛川駅からJRで島田駅まで戻って、駅に駐車しておいた自家用車で帰宅。

 後日談:今回の旅で、デジカメにて写した写真の枚数232枚。タイトル付けながらの整理と印刷で2日かかかってしまった。

 

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